一
七月にはいって、吉左衛門は木曾福島の用事を済まして出張先から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった仕法立ての件で、馬籠の宿としては金百両の調達を引き請け、暮れに五十両の無尽を取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終わったことを届けて置いてあった。今度、福島からその挨拶があったのだ。
金兵衛は待ち兼ね顔に、無事で帰って来たこの吉左衛門を自分の家の店座敷に迎えた。金兵衛の家は伏見屋と言って、造り酒屋をしている。街道に添うた軒先に杉の葉の円く束にしたのを掛け、それを清酒の看板に代えてあるようなところだ。店座敷も広い。その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものを風呂敷包みの中から取り出して、
「さあ、これだ。」
と金兵衛の前に置いた。村の宿役人仲間へ料紙一束ずつ、無尽の加入者一同への酒肴料、まだそのほかに、二巾の縮緬の風呂敷が二枚あった。それは金兵衛と桝田屋の儀助の二人が特に多くの金高を引き受けたというので、その挨拶の意味のものだ。
吉左衛門の報告はそれだけにとどまらなかった。最後に、一通の書付もそこへ取り出して見せた。
「其方儀、御勝手御仕法立てにつき、頼母子講御世話方格別に存じ入り、小前の諭し方も行き届き、その上、自身にも別段御奉公申し上げ、奇特の事に候。よって、一代苗字帯刀御免なし下され候。その心得あるべきものなり。」
嘉永六年丑六月
三逸作
石団之丞
荻丈左衛門
白新五左衛門
青山吉左衛門殿
「ホ。苗字帯刀御免とありますね。」
「まあ、そんなことが書いてある。」
「吉左衛門さん一代限りともありますね。なんにしても、これは名誉だ。」
と金兵衛が言うと、吉左衛門はすこし苦い顔をして、
「これが、せめて十年前だとねえ。」
ともかくも吉左衛門は役目を果たしたが、同時に勘定所の役人たちがいやな臭気をもかいで帰って来た。苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。
「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、庄屋のつとめも辛いものだと思って来ましたよ。」
吉左衛門の述懐だ。
その時、上の伏見屋の仙十郎が顔を出したので、しばらく二人はこんな話を打ち切った。仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。金兵衛を叔父と呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。年も半蔵より三つほど上で、腰にした煙草入れの根付にまで新しい時の流行を見せたような若者だ。
「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。」
と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。
吉左衛門は見送りながら、
「みんなどういう人になって行きますかさ――仙十郎にしても、半蔵にしても。」
若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。殺人、盗賊、駈落、男女の情死、諸役人の腐敗沙汰なぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。
同宿三十年――なんと言っても吉左衛門と金兵衛とは、その同じ駅路の記憶につながっていた。この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。博打はもってのほかだという。しかし毎年の毛付け(馬市)を賭博場に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。袖の下はもってのほかだという。しかし御肴代もしくは御祝儀何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。人殺しはもってのほかだという。しかし八沢の長坂の路傍にあたるところで口論の末から土佐の家中の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で刃傷の手本を示したのも小池伊勢の家中であった。女は手形なしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも彦根の殿様であった。
「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」
東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。
この街道に伝わるうわさの多くは、諺にもあるようにころがるたびに大きな塊になる雪達磨に似ている。六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六艘もの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。寛永十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくのほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。当時幕府が船改めの番所は下田の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの唐人船がやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。
種々な流言が伝わって来た。宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。やがて通行の前触れだ。間もなくこの街道では江戸出府の尾張の家中を迎えた。尾張藩主(徳川慶勝)の名代、成瀬隼人之正、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。公儀の御茶壺同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの具足長持が十棹もそのあとから続いた。それらの警護の武士が美濃路から借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。継立ても難渋であった。馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。ある朝馬籠から送り出した長持は隣宿の妻籠で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立ての見分として奉行まで出張して来るほど街道はごたごたした。
狼狽そのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず恐悦だ。そんな報知が、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。
吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。吉左衛門と金兵衛とは談話半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へ大筒の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。本陣や問屋の前あたりは檜木笠や六尺棒なぞで埋められた。騎馬から降りて休息する武士もあった。肌脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。よくあの重いものをかつぎ上げて、美濃境の十曲峠を越えることができたと、人々はその話で持ちきった。吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまた桝田屋の儀助らと共にその間を奔り回って、隣宿妻籠までの継立てのことを斡旋した。
村の人たちは皆、街道に出て見た。その中に半蔵もいた。彼は父の吉左衛門に似て背も高く、青々とした月代も男らしく目につく若者である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者が宮川寛斎だ。半蔵の旧い師匠だ。その時、半蔵は無言。寛斎も無言で、ただ医者らしく頭を円めた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。
「半蔵さん。」
上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。目方百十五、六貫ばかりの大筒の鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五挺、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸の邸へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。
間もなく尾張の家中衆は見えなかった。しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。六月以来頻繁な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。
金兵衛は吉左衛門の袖を引いて言った。
「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」
酒のさかな。胡瓜もみに青紫蘇。枝豆。到来物の畳みいわし。それに茄子の新漬け。飯の時にとろろ汁。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。
店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人の席を設けた。山家風な風呂の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子を登った。黒光りのするほどよく拭き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。
夕飯。お玉は膳を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。
「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「吾家の鶴松も出まして、お世話さまでございます。」
「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、苗字帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」
「それはおめでとうございます。」
「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」
「でも、悪い気持ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、大威張りだ。」
「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、盃でもいただこうじゃありませんか。」
吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め上手なお玉のお酌で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつて翁塚の供養のあったおりに、落合の宗匠崇佐坊まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛の旧なじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の蘭渓もその一人だ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに亡くなった。
「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうして御酒でもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)子鳥)三十羽に、茶漬け三杯――」
「それさ。」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。」
アトリ三十羽に茶漬け三杯。あれは嘉永二年にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕れた年で、ことに大平村の方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、褒美として別に三十羽もらえる。もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。場処は蓬莱屋。時刻は七つ時。食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。食わせる方のものは組頭笹屋の庄兵衛と小笹屋の勝七。それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。さて、食った。約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、鶫のような小鳥とはわけが違う。それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたころであった。二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。
「あんなおもしろいことはなかった。」
「いや、大笑いにも、なんにも。あんなおもしろいことは前代未聞さ。」
「出ましたね、金兵衛さんの前代未聞が――」
こんな話も酒の上を楽しくした。隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きない夜咄に、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。
馬籠の宿で初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、桝田屋であった。そこの初代と二代目の主人、惣右衛門親子のものであった。桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、下坂川で四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あったという。その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。
この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにも好かれ悪しかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。
馬籠は田畠の間にすら大きくあらわれた石塊を見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親の名跡を継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。本家は代々の年寄役でもあったので、若輩ながらにその役をも勤めた。旅人相手の街道に目をつけて、旅籠屋の新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。そのころの馬籠は、一分か二分の金を借りるにも、隣宿の妻籠か美濃の中津川まで出なければならなかった。師走も押し詰まったころになると、中津川の備前屋の親仁が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へ小貸しなどした。その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地柄であった。
四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。百姓の仕事とする朝草も、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通し石臼をひいた。新宅の旅籠屋もできあがるころは、普請のおりに出た木の片を燈して、それを油火に替え、夜番の行燈を軒先へかかげるにも毎朝夜明け前に下掃除を済まし、同じ布で戸障子の敷居などを拭いたのも、そのかみさんだ。貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろく安気に眠ったこともなかったほど働いた。
そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先の食米三斗ずつ内証で借りうけ、秋米で四斗ずつ返すことにしていた。これは田地を仕付けるにも、旅籠屋片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。
初代惣右衛門はこんなところから出発した。旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、小女まで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。飯米一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。
二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親から仕来った百姓は百姓として、惣領にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は雲助にでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いか駕籠かきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。
人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた年貢米の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた分限者は木曾谷中にも彼のほかにないと言われるようになった。彼は貧困を征服しようとした親惣右衛門の心を飽くまでも持ちつづけた。誇るべき伝統もなく、そうかと言って煩わされやすい過去もなかった。腕一本で、無造作に進んだ。
天明六年は二代目惣右衛門が五十三歳を迎えたころである。そのころの彼は、大きな造り酒屋の店にすわって、自分の子に酒の一番火入れなどをさせながら、初代在世のころからの八十年にわたる過去を思い出すような人であった。彼は親先祖から譲られた家督財産その他一切のものを天からの預かり物と考えよと自分の子に誨えた。彼は金銭を日本の宝の一つと考えよと誨えた。それをみだりにわが物と心得て、私用に費やそうものなら、いつか「天道」に泄れ聞こえる時が来るとも誨えた。彼は先代惣右衛門の出発点を忘れそうな子孫の末を心配しながら死んだ。
伏見屋の金兵衛は、この惣右衛門親子の衣鉢を継いだのである。そういう金兵衛もまた持ち前の快活さで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、時には米の売買にもたずさわり、美濃の久々里あたりの旗本にまで金を貸した。
二人の隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎医者に言わせると、馬籠は国境だ、おそらく町人気質の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が混り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に信濃の百姓であると。
吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦の方から移って来た青山監物の第二子であった。ここに一宇を建立して、万福寺と名づけたのも、これまた同じ人であった。万福寺殿昌屋常久禅定門、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を道斎と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、天正十二年の昔にあたる。
「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」
と吉左衛門が自分の忰に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。
遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾義昌の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方の郷士として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田三成が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先立には、山村甚兵衛、馬場半左衛門、千村平右衛門などの諸士を数える。馬籠の青山庄三郎、またの名重長(青山二代目)もまた、徳川方に味方し、馬籠の砦にこもって、犬山勢を防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へ討手を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。
青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。由緒のある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本の鎗だけが残った。その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、享保九年の検地の時以来、代官屋敷の字を石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。
子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関の長押の上に掛けてある古い二本の鎗の下へ小忰を連れて行って、
「御覧、御先祖さまが見ているぞ。いたずらするとこわいぞ。」
と戯れた。
隣家の伏見屋なぞにない古い伝統が年若な半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父の炬燵話からで。自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。
「代官造りという言葉は、地名で残っている。吾家の先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというので、それで代官造りさ。今の町田がそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日に吾家から酒を一斗出した。酔って田圃の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」
この話もよく出た。
吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。
二
「また、黒船ですぞ。」
七月の二十六日には、江戸からの御隠使が十二代将軍徳川家慶の薨去を伝えた。道中奉行から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。
「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀の御隠使が見えてから、まだ三日にしかならない。」
と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというその唐人船が、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中では判然しなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。
「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」
と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物を運んで来る人たちの話はまちまちであった。奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場では継立てに難渋した。八月の一日には、この街道では栗色なめしの鎗を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる水野筑後の一行を迎えた。
ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。妻のおまんは刀に脇差なぞをそこへ取り出して来て勧めた。
「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。」
と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。
諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の駕籠の近く挨拶に行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。本陣の前に駕籠を停めさせてのほんのお小休みであった。料紙を載せた三宝なぞがそこへ持ち運ばれた。その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、
「当宿本陣の吉左衛門でございます。お目通りを願います。」
と声をかけた。
「おゝ、馬籠の本陣か。」
奉行の砕けた挨拶だ。
水野筑後は二千石の知行ということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。
街道は暮れて行った。会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。
子供らは街道に集まっていた。夕空に飛びかう蝙蝠の群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。山の中のことで、夜鷹もなき出す。往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番の軒行燈の燈火もついた。
一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。やがておまんが二人の下女を相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。
「半蔵は。」
と吉左衛門はおまんにたずねた。
「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。仙十郎さんはアメリカの船だと言う。オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人で屋外へ出て行きましたよ。」
「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれた。」
山家らしい風呂と、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。ちょうど、その八月朔日は吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験を胸に浮かべた。雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、馬方、牛方、人足の世話から、道路の修繕、助郷の掛合まで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。
吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんが温めて出した一本の銚子と、到来物の鮎の塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。彼はおまんに言った。
「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野筑後の守――あの人は二千石の知行取りだそうだが、きょうの御通行は十万石の格式だぜ。非常に破格な待遇さね。一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。それだけでも、徳川様の代は変わって来たような気がする。そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。いったん、事ある場合に際会してごらん――」
「なにしろあなた、この唐人船の騒ぎですもの。」
「こういう時世になって来たのかなあ。」
寛ぎの間と名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広い仲の間につづいている。吉左衛門が自分の部屋として臥起きをしているのもその寛ぎの間だ。そこへも行って周囲を見回しながら、
「しかし、御苦労、御苦労。」
と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、
「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」
「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」
おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、
「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」
そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。
馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。
遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿妻籠の本陣、青山寿平次の妹、お民という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱が半蔵を苦しめたことを想って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山監物を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。
この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣を訪ねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。
「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。」
「十七さ。」
その時、金兵衛は指を折って数えて見て、
「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。」
よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。
「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもう祝言だなんて、早いものですね。わたしもこれで、平素はそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。」
「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。」
「半蔵さま――お前さまのところへは、妻籠の御本陣からお嫁さまが来さっせるそうだなし。お前さまも大きくならっせいたものだ。」
半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき婆さんもある。おふきは乳母として、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。
おふきはまた、今の本陣の「姉さま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。
「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのお母様をよく覚えている。お袖さま――美しい人だったぞなし。あれほどの容色は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまが煩って亡くなったのは、あれはお前さまを生んでから二十日ばかり過ぎだったずら。おれはお前さまを抱いて、お母さまの枕もとへ連れて行ったことがある。あれがお別れだった。三十二の歳の惜しい盛りよなし。それから、お前さまはまた、間もなく黄疸を病まっせる。あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。大旦那(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。あのお母さまが今まで達者でいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなだずら――」
半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していた。また、一人で両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、蕎麦粉と里芋の子で造る芋焼餅なぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。
山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かす狐や狸、その他種々な迷信はあたりに暗く跋扈していた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家の鶴松が桝田屋の子息などと連れだって通って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、荒町からも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。
山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州上田の人で児玉政雄という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経』の句読を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚のような禅僧もあったが、教えて倦まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書』の集註を読み、十五歳には『易書』や『春秋』の類にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那の小野村の小野甫邦に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚釣りだ碁将棋だと言って時を送る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。蜂谷香蔵と言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。
「自分は独学で、そして固陋だ。もとよりこんな山の中にいて見聞も寡い。どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。」
と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。
黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。
三
その年、嘉永六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話も妻籠の本陣あてに結納の品を贈るほど運んだ。
もはや恵那山へは雪が来た。ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。山家のならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。皿何人前、膳何人前などと箱書きしたものを出したり入れたりするだけでも、主婦の一役だ。
ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からの差紙を置いて行った。馬籠の庄屋あてだ。おまんはそれを渡そうとして、夫を探した。
「大旦那は。」
と下女にきくと、
「蔵の方へおいでだぞなし。」
という返事だ。おまんはその足で、母屋から勝手口の横手について裏の土蔵の前まで歩いて行った。石段の上には夫の脱いだ下駄もある。戸前の錠もはずしてある。夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。おまんは土蔵の二階の方にごとごと音のするのを聞きながら梯子を登って行って見た。そこに吉左衛門がいた。
「あなた、福島からお差紙ですよ。」
吉左衛門はわずかの閑の時を見つけて、その二階に片づけ物なぞをしていた。壁によせて幾つとなく古い本箱の類も積み重ねてある。日ごろ彼の愛蔵する俳書、和漢の書籍なぞもそこに置いてある。その時、彼はおまんから受け取ったものを窓に近く持って行って読んで見た。
その差紙には、海岸警衛のため公儀の物入りも莫大だとある。国恩を報ずべき時節であると言って、三都の市中はもちろん、諸国の御料所、在方村々まで、めいめい冥加のため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。それにはまた、浦賀表へアメリカ船四艘、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、海岸防禦のためとも書き添えてある。
「これは国恩金の上納を命じてよこしたんだ。」と吉左衛門はおまんに言って見せた。「外は風雨だというのに、内では祝言のしたくだ――しかしこのお差紙の様子では、おれも一肌脱がずばなるまいよ。」
その時になって見ると、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごたを避けて、土蔵に近い位置にある隠居所の二階に隠れる。新夫婦の居間にと定められた店座敷へは、畳屋も通って来る。長いこと勤めていた下男も暇を取って行って、そのかわり佐吉という男が今度新たに奉公に来た。
おまんが梯子を降りて行ったあと、吉左衛門はまた土蔵の明り窓に近く行った。鉄格子を通してさし入る十一月の光線もあたりを柔らかに見せている。彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。徳川幕府あって以来いまだかつて聞いたこともないような、公儀の御金蔵がすでにからっぽになっているという内々の取り沙汰なぞが、その時、胸に浮かんだ。昔気質の彼はそれらの事を思い合わせて、若者の前でもなんでもおかまいなしに何事も大げさに触れ回るような人たちを憎んだ。そこから子に対する心持ちをも引き出されて見ると、年もまだ若く心も柔らかく感じやすい半蔵なぞに、今から社会の奥をのぞかせたくないと考えた。いかなる人間同志の醜い秘密にも、その刺激に耐えられる年ごろに達するまでは、ゆっくりしたくさせたいと考えた。権威はどこまでも権威として、子の前には神聖なものとして置きたいとも考えた。おそらく隣家の金兵衛とても、親としてのその心持ちに変わりはなかろう。そんなことを思い案じながら、吉左衛門はその蔵の二階を降りた。
かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来るようになった。空は晴れても、大雪の来たあとであった。野尻宿の継所から落合まで通し人足七百五十人の備えを用意させるほどの公儀衆が、さくさく音のする雪の道を踏んで、長崎へと通り過ぎた。この通行が三日も続いたあとには、妻籠の本陣からその同じ街道を通って、新しい夜具のぎっしり詰まった長持なぞが吉左衛門の家へかつぎ込まれて来た。
吉日として選んだ十二月の一日が来た。金兵衛は朝から本陣へ出かけて来て、吉左衛門と一緒に客の取り持ちをした。台所でもあり応接間でもある広い炉ばたには、手伝いとして集まって来ているお玉、お喜佐、おふきなどの笑い声も起こった。
仙十郎も改まった顔つきでやって来た。寛ぎの間と店座敷の間を往ったり来たりして、半蔵を退屈させまいとしていたのもこの人だ。この取り込みの中で、金兵衛はちょっと半蔵を見に来て言った。
「半蔵さん、だれかお前さんの呼びたい人がありますかい。」
「お客にですか。宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それに景蔵さんも呼んであげたい。」
浅見景蔵は中津川本陣の相続者で、同じ町に住む香蔵を通して知るようになった半蔵の学友である。景蔵はもと漢学の畠の人であるが、半蔵らと同じように国学に志すようになったのも、寛斎の感化であった。
「それは半蔵さん、言うまでもなし。中津川の御連中はあすということにして、もう使いが出してありますよ。あの二人は黙って置いたって、向こうから祝いに来てくれる人たちでさ。」
そばにいた仙十郎は、この二人の話を引き取って、
「おれも――そうだなあ――もう一度祝言の仕直しでもやりたくなった。」
と笑わせた。
山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積もった雪が大雨のために溶けて行った。そのあとには、金兵衛のような年配のものが子供の時分から聞き伝えたこともないと言うほどの暖かさが来ていた。寒がりの吉左衛門ですら、その日は炬燵や火鉢でなしに、煙草盆の火だけで済ませるくらいだ。この陽気は本陣の慶事を一層楽しく思わせた。
午後に、寿平次兄妹がすでに妻籠の本陣を出発したろうと思われるころには、吉左衛門は定紋付きの※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)姿で、表玄関前の広い板の間を歩き回った。下男の佐吉もじっとしていられないというふうで、表門を出たりはいったりした。
「佐吉、めずらしい陽気だなあ。この分じゃ妻籠の方も暖かいだろう。」
「そうよなし。今夜は門の前で篝でも焚かずと思って、おれは山から木を背負って来た。」
「こう暖かじゃ、篝にも及ぶまいよ。」
「今夜は高張だけにせずか、なし。」
そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。
「一昨日の晩でさ。」と金兵衛は言った。「桝田屋の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。どうもこれは世間一統の陽気でしょう。あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。」
「金兵衛さん――前代未聞の冬ですかね。」
「いや、全く。」
日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋の格子先あたりから問屋の石垣の辺へかけて黒山を築いた。土地の風習として、花嫁を載せて来た駕籠はいきなり門の内へはいらない。峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前で停まった。提灯の灯に映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」の唄が起こった。荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄の節につれて踊りはじめた。手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が動いた。この鄙びた舞踏の輪は九度も花嫁の周囲を回った。
その晩、盃をすましたあとの半蔵はお民と共に、冬の夜とも思われないような時を送った。半蔵がお民を見るのは、それが初めての時でもない。彼はすでに父と連れだって、妻籠にお民の家を訪ねたこともある。この二人の結びつきは当人同志の選択からではなくて、ただ父兄の選択に任せたのであった。親子の間柄でも、当時は主従の関係に近い。それほど二人は従順であったが、しかし決して安閑としてはいなかった。初めて二人が妻籠の方で顔を見合わせた時、すべてをその瞬間に決定してしまった。長くかかって見るべきものではなくて、一目に見るべきものであったのだ。
店座敷は東向きで、戸の外には半蔵の好きな松の樹もあった。新しい青い部屋の畳は、鶯でもなき出すかと思われるような温暖い空気に香って、夜遊び一つしたことのない半蔵の心を逆上せるばかりにした。彼は知らない世界にでもはいって行く思いで、若さとおそろしさのために震えているようなお民を自分のそばに見つけた。
「お父さん――わたしのためでしたら、祝いはなるべく質素にしてください。」
「それはお前に言われるまでもない。質素はおれも賛成だねえ。でも、本陣には本陣の慣例というものもある。呼ぶだけのお客はお前、どうしたって呼ばなけりゃならない。まあ、おれに任せて置け。」
半蔵が父とこんな言葉をかわしたのは、客振舞の続いた三日目の朝である。
思いがけない尾張藩の徒士目付と作事方とがその日の午前に馬籠の宿に着いた。来たる三月には尾張藩主が木曾路を経て江戸へ出府のことに決定したという。この役人衆の一行は、冬のうちに各本陣を見分するためということであった。
こういう場合に、なくてならない人は金兵衛と問屋の九太夫とであった。万事扱い慣れた二人は、吉左衛門の当惑顔をみて取った。まず二人で梅屋の方へ役人衆を案内した。金兵衛だけが吉左衛門のところへ引き返して来て言った。
「まずありがたかった。もう少しで、この取り込みの中へ乗り込まれるところでした。オット。皆さま、当宿本陣には慶事がございます、取り込んでおります、恐れ入りますが梅屋の方でしばらくお休みを願いたい、そうわたしが言いましてね。そこはお役人衆も心得たものでさ。お昼のしたくもあちらで差し上げることにして来ましたよ。」
梅屋と本陣とは、呼べば応えるほどの対い合った位置にある。午後に、徒士目付の一行は梅屋で出した福草履にはきかえて、乾いた街道を横ぎって来た。大きな髷のにおい、帯刀の威、袴の摺れる音、それらが役人らしい挨拶と一緒になって、本陣の表玄関には時ならぬいかめしさを見せた。やがて、吉左衛門の案内で、部屋部屋の見分があった。
吉左衛門は徒士目付にたずねた。
「はなはだ恐縮ですが、中納言様の御通行は来春のようにうけたまわります。当宿ではどんな心じたくをいたしたものでしょうか。」
「さあ、ことによるとお昼食を仰せ付けられるかもしれない。」
婚礼の祝いは四日も続いて、最終の日の客振舞にはこの慶事に来て働いてくれた女たちから、出入りの百姓、会所の定使などまで招かれて来た。大工も来、畳屋も来た。日ごろ吉左衛門や半蔵のところへ油じみた台箱をさげて通って来る髪結い直次までが、その日は羽織着用でやって来て、膳の前にかしこまった。
町内の小前のものの前に金兵衛、髪結い直次の前に仙十郎、涙を流してその日の来たことを喜んでいるようなおふき婆さんの前には吉左衛門がすわって、それぞれ取り持ちをするころは、酒も始まった。吉左衛門はおふきの前から、出入りの百姓たちの前へ動いて、
「さあ、やっとくれや。」
とそこにある銚子を持ち添えて勧めた。百姓の一人は膝をかき合わせながら、
「おれにかなし。どうも大旦那にお酌していただいては申しわけがない。」
隣席にいるほかの百姓が、その時、吉左衛門に話しかけた。
「大旦那――こないだの上納金のお話よなし。ほかの事とも違いますから、一同申し合わせをして、お受けをすることにしましたわい。」
「あゝ、あの国恩金のことかい。」
「それが大旦那、百姓はもとより、豆腐屋、按摩まで上納するような話ですで、おれたちも見ていられすか。十八人で二両二分とか、五十六人で三両二分とか、村でも思い思いに納めるようだが、おれたちは七人で、一人が一朱ずつと話をまとめましたわい。」
仙十郎は酒をついで回っていたが、ちょうどその百姓の前まで来た。
「よせ。こんな席で上納金の話なんか。伊勢の神風の一つも吹いてごらん、そんな唐人船なぞはどこかへ飛んでしまう。くよくよするな。それよりか、一杯行こう。」
「どうも旦那はえらいことを言わっせる。」と百姓は仙十郎の盃をうけた。
「上の伏見屋の旦那。」と遠くの席から高い声で相槌を打つものもある。「おれもお前さまに賛成だ。徳川さまの御威光で、四艘や五艘ぐらいの唐人船がなんだなし。」
酒が回るにつれて、こんな話は古風な石場搗きの唄なぞに変わりかけて行った。この地方のものは、いったいに酒に強い。だれでも飲む。若い者にも飲ませる。おふき婆さんのような年をとった女ですら、なかなか隅へは置けないくらいだ。そのうちに仙十郎が半蔵の前へ行ってすわったころは、かなりの上きげんになった。半蔵も方々から来る祝いの盃をことわりかねて、顔を紅くしていた。
やがて、仙十郎は声高くうたい出した。
木曾のナ
なかのりさん、
木曾の御嶽さんは
なんちゃらほい、
夏でも寒い。
よい、よい、よい。
半蔵とは対い合いに、お民の隣には仙十郎の妻で半蔵が異母妹にあたるお喜佐も来て膳に着いていた。お喜佐は目を細くして、若い夫のほれぼれとさせるような声に耳を傾けていた。その声は一座のうちのだれよりも清しい。
「半蔵さん、君の前でわたしがうたうのは今夜初めてでしょう。」
と仙十郎は軽く笑って、また手拍子を打ちはじめた。百姓の仲間からおふき婆さんまでが右に左にからだを振り動かしながら手を拍って調子を合わせた。塩辛い声を振り揚げる髪結い直次の音頭取りで、鄙びた合唱がまたそのあとに続いた。
袷ナ
なかのりさん、
袷やりたや
なんちゃらほい、
足袋添えて。
よい、よい、よい。
本陣とは言っても、吉左衛門の家の生活は質素で、芋焼餅なぞを冬の朝の代用食とした。祝言のあった六日目の朝には、もはや客振舞の取り込みも静まり、一日がかりのあと片づけも済み、出入りの百姓たちもそれぞれ引き取って行ったあとなので、おまんは炉ばたにいて家の人たちの好きな芋焼餅を焼いた。
店座敷に休んだ半蔵もお民もまだ起き出さなかった。
「いつも早起きの若旦那が、この二、三日はめずらしい。」
そんな声が二人の下女の働いている勝手口の方から聞こえて来る。しかしおまんは奉公人の言うことなぞに頓着しないで、ゆっくり若い者を眠らせようとした。そこへおふき婆さんが新夫婦の様子を見に屋外からはいって来た。
「姉さま。」
「あい、おふきか。」
おふきは炉ばたにいるおまんを見て入り口の土間のところに立ったまま声をかけた。
「姉さま。おれはけさ早く起きて、山の芋を掘りに行って来た。大旦那も半蔵さまもお好きだで、こんなものをさげて来た。店座敷ではまだ起きさっせんかなし。」
おふきは※苞[#「くさかんむり/稾」、58-12]につつんだ山の芋にも温かい心を見せて、半蔵の乳母として通って来た日と同じように、やがて炉ばたへ上がった。
「おふき、お前はよいところへ来てくれた。」とおまんは言った。「きょうは若夫婦に御幣餅を祝うつもりで、胡桃を取りよせて置いた。お前も手伝っておくれ。」
「ええ、手伝うどころじゃない。農家も今は閑だで。御幣餅とはお前さまもよいところへ気がつかっせいた。」
「それに、若夫婦のお相伴に、お隣の子息さんでも呼んであげようかと思ってさ。」
「あれ、そうかなし。それじゃおれが伏見屋へちょっくら行って来る。そのうちには店座敷でも起きさっせるずら。」
気候はめずらしい暖かさを続けていて、炉ばたも楽しい。黒く煤けた竹筒、魚の形、その自在鍵の天井から吊るしてある下では、あかあかと炉の火が燃えた。おふきが隣家まで行って帰って見たころには、半蔵とお民とが起きて来ていて、二人で松薪をくべていた。渡し金の上に載せてある芋焼餅も焼きざましになったころだ。おふきはその里芋の子の白くあらわれたやつを温め直して、大根おろしを添えて、新夫婦に食べさせた。
「お民、おいで。髪でも直しましょう。」
おまんは奥の坪庭に向いた小座敷のところへお民を呼んだ。妻籠の本陣から来た娘を自分の嫁として、「お民、お民」と名を呼んで見ることもおまんにはめずらしかった。おとなの世界をのぞいて見たばかりのようなお民は、いくらか羞を含みながら、十七の初島田の祝いのおりに妻籠の知人から贈られたという櫛箱なぞをそこへ取り出して来ておまんに見せた。
「どれ。」
おまんは襷掛けになって、お民を古風な鏡台に向かわせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。
「まあ、長い髪の毛だこと。そう言えば、わたしも覚えがあるが、これで眉でも剃り落とす日が来てごらん――あの里帰りというものは妙に昔の恋しくなるものですよ。もう娘の時分ともお別れですねえ。女はだれでもそうしたものですからねえ。」
おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曾名物のお六櫛というやつを執った。額から鬢の辺へかけて、梳き手の力がはいるたびに、お民は目を細くして、これから長く姑として仕えなければならない人のするままに任せていた。
「熊や。」
とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛の猫の名を呼んだ。熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫に拳固を見舞うことがある。おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、
「吾家のおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。」
とも言い添えた。
やがて本陣の若い「御新造」に似合わしい髪のかたちができ上がった。儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとした蒔絵の櫛なぞがそれに代わった。林檎のように紅くて、そして生き生きとしたお民の頬は、まるで別の人のように鏡のなかに映った。
「髪はできました。これから部屋の案内です。」
というおまんのあとについて、間もなくお民は家の内部をすみずみまでも見て回った。生家を見慣れた目で、この街道に生えたような家を見ると、お民にはいろいろな似よりを見いだすことも多かった。奥の間、仲の間、次の間、寛ぎの間というふうに、部屋部屋に名のつけてあることも似ていた。上段の間という部屋が一段高く造りつけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したような高麗縁の畳まで、この木曾路を通る諸大名諸公役の客間にあててあるところも似ていた。
熊は鈴の音をさせながら、おまんやお民の行くところへついて来た。二人が西向きの仲の間の障子の方へ行けば、そこへも来た。この黒毛の猫は新来の人をもおそれないで、まだ半分お客さまのようなお民の裾にもまといついて戯れた。
「お民、来てごらん。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ。」
「えゝ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河のすぐそばでもありませんけれど。」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」
「それでも、まあよいながめですこと。」
「そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹山まで見えることがありますよ――」
林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。わずかに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことのできる紅い「ずいき」の漬物なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。
まだ半蔵夫婦の新規な生活は始まったばかりだ。午後に、おまんは一通り屋敷のなかを案内しようと言って、土蔵の大きな鍵をさげながら、今度は母屋の外の方へお民を連れ出そうとした。
炉ばたでは山家らしい胡桃を割る音がしていた。おふきは二人の下女を相手に、堅い胡桃の核を割って、御幣餅のしたくに取りかかっていた。その時、上がり端にある杖をさがして、おまんやお民と一緒に裏の隠居所まで歩こうと言い出したのは隠居だ。このおばあさんもひところよりは健康を持ち直して、食事のたびに隠居所から母屋へ通っていた。
馬籠の本陣は二棟に分かれて、母屋、新屋より成り立つ。新屋は表門の並びに続いて、すぐ街道と対い合った位置にある。別に入り口のついた会所(宿役人詰め所)と問屋場の建物がそこにある。石垣の上に高く隣家の伏見屋を見上げるのもその位置からで、大小幾つかの部屋がその裏側に建て増してある。多人数の通行でもある時は客間に当てられるのもそこだ。おまんは雨戸のしまった小さな離れ座敷をお民にさして見せて、そこにも本陣らしい古めかしさがあることを話し聞かせた。ずっと昔からこの家の習慣で、女が見るものを見るころは家族のものからも離れ、ひとりで煮焚きまでして、そこにこもり暮らすという。
「お民、来てごらん。」
と言いながら、おまんは隠居所の階下にあたる味噌納屋の戸をあけて見せた。味噌、たまり、漬物の桶なぞがそこにあった。おまんは土蔵の前の方へお民を連れて行って、金網の張ってある重い戸をあけ、薄暗い二階の上までも見せて回った。おまんの古い長持と、お民の新しい長持とが、そこに置き並べてあった。
土蔵の横手について石段を降りて行ったところには、深い掘り井戸を前に、米倉、木小屋なぞが並んでいる。そこは下男の佐吉の世界だ。佐吉も案内顔に、伏見屋寄りの方の裏木戸を押して見せた。街道と並行した静かな村の裏道がそこに続いていた。古い池のある方に近い木戸をあけて見せた。本陣の稲荷の祠が樫や柊の間に隠れていた。
その晩、家のもの一同は炉ばたに集まった。隠居はじめ、吉左衛門から、佐吉まで一緒になった。隣家の伏見家からは少年の鶴松も招かれて来て、半蔵の隣にすわった。おふきが炉で焼く御幣餅の香気はあたりに満ちあふれた。
「鶴さん、これが吾家の嫁ですよ。」
とおまんは隣家の子息にお民を引き合わせて、串差しにした御幣餅をその膳に載せてすすめた。こんがりと狐色に焼けた胡桃醤油のうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。
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