一
「蜂谷君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、妻籠本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在の公郷村に遠い先祖の遺族を訪ねるためであるが、江戸をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めての旅に上ろうとしている。」
こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。
「君によろこんでもらいたいことがある。自分はこの旅で、かねての平田入門の志を果たそうとしている。最近に自分は佐藤信淵の著書を手に入れて、あのすぐれた農学者が平田大人と同郷の人であることを知り、また、いかに大人の深い感化を受けた人であるかをも知った。本居、平田諸大人の国学ほど世に誤解されているものはない。古代の人に見るようなあの直ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。」
という意味をも書き添えた。
馬籠のような狭い片田舎では半蔵の江戸行きのうわさが村のすみまでもすぐに知れ渡った。半蔵が幼少な時分からのことを知っていて、遠い旅を案じてくれる乳母のおふきのような婆さんもある。おふきは半蔵を見に来た時に言った。
「半蔵さま、男はそれでもいいぞなし。どこへでも出かけられて。まあ、女の身になって見さっせれ。なかなかそんなわけにいかすか。おれも山の中にいて、江戸の夢でも見ずかい。この辺鄙な田舎には、お前さま、せめて一生のうちに名古屋でも見て死にたいなんて、そんなことを言う女もあるに。」
江戸をさして出発する前に、半蔵は平田入門のことを一応は父にことわって行こうとした。平田篤胤はすでに故人であったから、半蔵が入門は先師没後の門人に加わることであった。それだけでも彼は一層自分をはっきりさせることであり、また同門の人たちと交際する上にも多くの便宜があろうと考えたからで。
父、吉左衛門はもう長いことこの忰を見まもって来て、行く行く馬籠の本陣を継ぐべき半蔵が寝食を忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じないではなかった。しかし吉左衛門は根が好学の人で、自分で学問の足りないのを嘆いているくらいだから、
「お前の学問好きも、そこまで来たか。」
と言わないばかりに半蔵の顔をながめて、結局子の願いを容れた。
当時平田派の熱心な門人は全国を通じて数百人に上ると言われ、南信から東美濃の地方へかけてもその流れをくむものは少なくない。篤胤ののこした仕事はおもに八人のすぐれた弟子に伝えられ、その中でも特に選ばれた養嗣として平田家を継いだのが当主鉄胤であった。半蔵が入門は、中津川の宮川寛斎の紹介によるもので、いずれ彼が江戸へ出た上は平田家を訪ねて、鉄胤からその許しを得ることになっていた。
「お父さんに賛成していただいて、ほんとにありがたい。長いこと私はこの日の来るのを待っていたようなものですよ。」
と半蔵は先輩を慕う真実を顔にあらわして言った。同じ道を踏もうとしている中津川の浅見景蔵も、蜂谷香蔵も、さぞ彼のためによろこんでくれるだろうと父に話した。
「まあ、何も試みだ。」
と吉左衛門は持ち前の大きな本陣鼻の上へしわを寄せながら言った。父は半蔵からいろいろと入門の手続きなぞを聞いたのみで、そう深入りするなとも言わなかった。
安政の昔は旅も容易でなかった。木曾谷の西のはずれから江戸へ八十三里、この往復だけにも百六十六里の道は踏まねばならない。その間、峠を四つ越して、関所を二つも通らねばならない。吉左衛門は関西方面に明るいほど東の方の事情に通じてもいなかったが、それでも諸街道問屋の一人として江戸の道中奉行所へ呼び出されることがあって、そんな用向きで二、三度は江戸の土を踏んだこともある。この父は、いろいろ旅の心得になりそうなことを子に教えた。寿平次のようなよい連れがあるにしても、若い者二人ぎりではどうあろうかと言った。遠く江戸から横須賀辺までも出かけるには、伴の男を一人連れて行けと勧めた。当時の旅行者が馬や人足を雇い、一人でも多く連れのあるのをよろこび、なるべく隊伍をつくるようにしてこの街道を往ったり来たりするのも、それ相応の理由がなくてはかなわぬことを父は半蔵に指摘して見せた。
「ひとり旅のものは宿屋でも断わられるぜ。」
とも注意した。
かねて妻籠の本陣とも打ち合わせの上、出発の日取りも旧暦の十月上旬に繰りあげてあった。いよいよその日も近づいて、継母のおまんは半蔵のために青地の錦の守り袋を縫い、妻のお民は晒木綿の胴巻きなぞを縫ったが、それを見る半蔵の胸にはなんとなく前途の思いがおごそかに迫って来た。遠く行くほどのものは、河止めなぞの故障の起こらないかぎり、たとい強い風雨を冒しても必ず予定の宿まではたどり着けと言われているころだ。遊山半分にできる旅ではなかった。
「佐吉さん、お前は半蔵さまのお供だそうなのい。」
「あい、半蔵さまもそう言ってくれるし、大旦那からもお許しが出たで。」
おふきはだれよりも先に半蔵の門出を見送りに来て、もはや本陣の囲炉裏ばたのところで旅じたくをしている下男の佐吉を見つけた。佐吉は雇われて来てからまだ年も浅く、半蔵といくつも違わないくらいの若さであるが、今度江戸への供に選ばれたことをこの上もないよろこびにして、留守中主人の家の炉で焚くだけの松薪なぞはすでに山から木小屋へ運んで来てあった。
いよいよ出発の時が来た。半蔵は青い河内木綿の合羽を着、脚絆をつけて、すっかり道中姿になった。旅の守り刀は綿更紗の袋で鍔元を包んで、それを腰にさした。
「さあ、これだ。これさえあれば、どんな関所でも通られる。」
と吉左衛門は言って、一枚の手形を半蔵の前に置いた。関所の通り手形だ。それには安政三年十月として、宿役人の署名があり、馬籠宿の印が押してある。
「このお天気じゃ、あすも霜でしょう。半蔵も御苦労さまだ。」
という継母にも、女の子のお粂を抱きながら片手に檜木笠を持って来てすすめる妻にも別れを告げて、やがて半蔵は勇んで家を出た。おふきは、目にいっぱい涙をためながら、本陣の女衆と共に門口に出て見送った。
峠には、組頭平助の家がある。名物栗こわめしの看板をかけた休み茶屋もある。吉左衛門はじめ、組頭庄兵衛、そのほか隣家の鶴松のような半蔵の教え子たちは、峠の上まで一緒に歩いた。当時の風習として、その茶屋で一同別れの酒をくみかわして、思い思いに旅するものの心得になりそうなことを語った。出発のはじめはだれしも心がはやって思わず荒く踏み立てるものである、とかくはじめは足をたいせつにすることが肝要だ、と言うのは庄兵衛だ。旅は九日路のものなら、十日かかって行け、と言って見せるのはそこへ来て一緒になった平助だ。万福寺の松雲和尚さまが禅僧らしい質素な法衣に茶色の袈裟がけで、わざわざ見送りに来たのも半蔵の心をひいた。
「夜道は気をつけるがいいぜ。なるべく朝は早く立つようにして、日の暮れるまでには次ぎの宿へ着くようにするがいいぜ。」
この父の言葉を聞いて、間もなく半蔵は佐吉と共に峠の上から離れて行った。この山地には俗に「道知らせ」と呼んで、螢の形したやさしい虫があるが、その青と紅のあざやかな色の背を見せたやつまでが案内顔に、街道を踏んで行く半蔵たちの行く先に飛んだ。
隣宿妻籠の本陣には寿平次がこの二人を待っていた。その日は半蔵も妻籠泊まりときめて、一夜をお民の生家に送って行くことにした。寿平次を見るたびに半蔵の感ずることは、よくその若さで本陣庄屋問屋三役の事務を処理して行くことであった。寿平次の部屋には、先代からつけて来たという覚え帳がある。諸大名宿泊のおりの人数、旅籠賃から、入り用の風呂何本、火鉢何個、燭台何本というようなことまで、事こまかに記しつけてある。当時の諸大名は、各自に寝具、食器の類を携帯して、本陣へは部屋代を払うというふうであったからで。寿平次の代になってもそんなめんどうくさいことを一々書きとめて、後日の参考とすることを怠っていない。半蔵が心深くながめたのもその覚え帳だ。
「寿平次さん、今度の旅は佐吉に供をさせます。そのつもりで馬籠から連れて来ました。あれも江戸を見たがっていますよ。君の荷物はあれにかつがせてください。」
この半蔵の言葉も寿平次をよろこばせた。
翌朝、佐吉はだれよりも一番早く起きて、半蔵や寿平次が目をさましたころには、二足の草鞋をちゃんとそろえて置いた。自分用の檜木笠、天秤棒まで用意した。それから囲炉裏ばたにかしこまって、主人らのしたくのできるのを待った。寿平次は留守中のことを脇本陣の扇屋の主人、得右衛門に頼んで置いて、柿色の地に黒羅紗の襟のついた合羽を身につけた。関所の通り手形も半蔵と同じように用意した。
妻籠の隠居はもういい年のおばあさんで、孫にあたる寿平次をそれまでに守り立てた人である。お民の女の子のうわさを半蔵にして、寿平次に迎えた娵のお里にはまだ子がないことなどを言って見せる人である。隠居は家の人たちと一緒に門口に出て、寿平次を見送る時に言った。
「お前にはもうすこし背をくれたいなあ。」
この言葉が寿平次を苦笑させた。隠居は背の高い半蔵に寿平次を見比べて、江戸へ行って恥をかいて来てくれるなというふうにそれを言ったからで。
半蔵や寿平次は檜木笠をかぶった。佐吉も荷物をかついでそのあとについた。同行三人のものはいずれも軽い草鞋で踏み出した。
二
木曾十一宿はおおよそ三つに分けられて、馬籠、妻籠、三留野、野尻を下四宿といい、須原、上松、福島を中三宿といい、宮の越、藪原、奈良井、贄川を上四宿という。半蔵らの進んで行った道はその下四宿から奥筋への方角であるが、こうしてそろって出かけるということがすでにめずらしいことであり、興も三人の興で、心づかいも三人の心づかいであった。あそこの小屋の前に檜木の実が乾してあった、ここに山の中らしい耳のとがった茶色な犬がいた、とそんなことを語り合って行く間にも楽しい笑い声が起こった。一人の草鞋の紐が解けたと言えば、他の二人はそれを結ぶまで待った。
深い森林の光景がひらけた。妻籠から福島までの間は寿平次のよく知っている道で、福島の役所からの差紙でもあるおりには半蔵も父吉左衛門の代理としてこれまで幾たびとなく往来したことがある。幼い時分から街道を見る目を養われた半蔵らは、馬方や人足や駕籠かきなぞの隠れたところに流している汗を行く先に見つけた。九月から残った蠅は馬にも人にも取りついて、それだけでも木曾路の旅らしい思いをさせた。
「佐吉、どうだい。」
「おれは足は達者だが、お前さまは。」
「おれも歩くことは平気だ。」
寿平次と連れだって行く半蔵は佐吉を顧みて、こんな言葉をかわしては、また進んだ。
秋も過ぎ去りつつあった。色づいた霜葉は谷に満ちていた。季節が季節なら、木曾川の水流を利用して山から伐り出した材木を流しているさかんな活動のさまがその街道から望まれる。小谷狩にはややおそく、大川狩にはまだ早かった。河原には堰を造る日傭の群れの影もない。木鼻、木尻の作業もまだ始まっていない。諸役人が沿岸の警戒に出て、どうかすると、鉄砲まで持ち出して、盗木流材を取り締まろうとするような時でもない。半蔵らの踏んで行く道はもはや幾たびか時雨の通り過ぎたあとだった。気の置けないものばかりの旅で、三人はときどき路傍の草の上に笠を敷いた。小松の影を落としている川の中洲を前にして休んだ。対岸には山が迫って、檜木、椹の直立した森林がその断層を覆うている。とがった三角を並べたように重なり合った木と木の梢の感じも深い。奥筋の方から渦巻き流れて来る木曾川[#「木曾川」は底本では「木曽川」]の水は青緑の色に光って、乾いたりぬれたりしている無数の白い花崗石の間におどっていた。
その年は安政の大地震後初めての豊作と言われ、馬籠の峠の上のような土地ですら一部落で百五十俵からの増収があった。木曾も妻籠から先は、それらの自然の恵みを受くべき田畠とてもすくない。中三宿となると、次第に谷の地勢も狭まって、わずかの河岸の傾斜、わずかの崖の上の土地でも、それを耕地にあててある。山のなかに成長して樹木も半分友だちのような三人には、そこの河岸に莢をたれた皀莢の樹がある、ここの崖の上に枝の細い棗の樹があると、指して言うことができた。土地の人たちが路傍に設けた意匠もまたしおらしい。あるところの石垣の上は彼らの花壇であり、あるところの崖の下は二十三夜もしくは馬頭観音なぞの祭壇である。
この谷の中だ。木曾地方の人たちが山や林を力にしているのに不思議はない。当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩で、巣山、留山、明山の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、檜木、椹、明檜、高野槇、※[#「木+鑞のつくり」、118-13]の五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。半蔵らは、名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを知っていた。一石栃にある白木の番所から、上松の陣屋の辺へかけて、諸役人の目の光らない日は一日もないことを知っていた。
しかし、巣山、留山とは言っても、絶対に村民の立ち入ることを許されない区域は極少部分に限られていた。自由林は木曾山の大部分を占めていた。村民は五木の厳禁を犯さないかぎり、意のままに明山を跋渉して、雑木を伐採したり薪炭の材料を集めたりすることができた。檜木笠、めんぱ(木製割籠)、お六櫛、諸種の塗り物――村民がこの森林に仰いでいる生活の資本もかなり多い。耕地も少なく、農業も難渋で、そうかと言って塗り物渡世の材料も手に入れがたいところでは、「御免の檜物」と称えて、毎年千数百駄ずつの檜木を申し受けている村もある。あるいはまた、そういう木材で受け取らない村々では、慶長年度の昔から谷中一般人民に許された白木六千駄のかわりに、それを「御切替え」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。どうして、山や林なしに生きられる地方ではないのだ。半蔵らの踏んで行ったのも、この大きな森林地帯を貫いている一筋道だ。
寝覚まで行くと、上松の宿の方から荷をつけて来る牛の群れが街道に続いた。
「半蔵さま、どちらへ。」
とその牛方仲間から声をかけるものがある。見ると、馬籠の峠のものだ。この界隈に顔を知られている牛行司利三郎だ。その牛行司は福島から積んで来た荷物の監督をして、美濃の今渡への通し荷を出そうとしているところであった。
その時、寿平次が尋ね顔に佐吉の方をふりかえると、佐吉は笑って、
「峠の牛よなし。」
と無造作に片づけて見せた。
「寿平次さん、君も聞いたでしょう。あれが牛方事件の張本人でさ。」
と言って、半蔵は寿平次と一緒に、その荒い縞の回し合羽を着た牛行司の後ろ姿を見送った。
下民百姓の目をさまさせまいとすることは、長いこと上に立つ人たちが封建時代に執って来た方針であった。しかし半蔵はこの街道筋に起こって来た見のがしがたい新しい現象として、あの牛方事件から受け入れた感銘を忘れなかった。不正な問屋を相手に血戦を開き、抗争の意気で起って来たのもあの牛行司であったことを忘れなかった。彼は旅で思いがけなくその人から声をかけられて見ると、たとい自分の位置が問屋側にあるとしても、そのために下層に黙って働いているような牛方仲間を笑えなかった。
木曾福島の関所も次第に近づいた。三人ははらはら舞い落ちる木の葉を踏んで、さらに山深く進んだ。時には岩石が路傍に迫って来ていて、高い杉の枝は両側からおおいかぶさり、昼でも暗いような道を通ることはめずらしくなかった。谷も尽きたかと見えるところまで行くと、またその先に別の谷がひらけて、そこに隠れている休み茶屋の板屋根からは青々とした煙が立ちのぼった。桟、合渡から先は木曾川も上流の勢いに変わって、山坂の多い道はだんだん谷底へと降って行くばかりだ。半蔵らはある橋を渡って、御嶽の方へ通う山道の分かれるところへ出た。そこが福島の城下町であった。
「いよいよ御関所ですかい。」
佐吉は改まった顔つきで、主人らの後ろから声をかけた。
福島の関所は木曾街道中の関門と言われて、大手橋の向こうに正門を構えた山村氏の代官屋敷からは、河一つ隔てた町はずれのところにある。「出女、入り鉄砲」と言った昔は、西よりする鉄砲の輸入と、東よりする女の通行をそこで取り締まった。ことに女の旅は厳重をきわめたもので、髪の長いものはもとより、そうでないものも尼、比丘尼、髪切、少女などと通行者の風俗を区別し、乳まで探って真偽を確かめたほどの時代だ。これは江戸を中心とする参覲交代の制度を語り、一面にはまた婦人の位置のいかなるものであるかを語っていた。通り手形を所持する普通の旅行者にとって、なんのはばかるところはない。それでもいよいよ関所にかかるとなると、その手前から笠や頭巾を脱ぎ、思わず襟を正したものであるという。
福島では、半蔵らは関所に近く住む植松菖助の家を訪ねた。父吉左衛門からの依頼で、半蔵はその人に手紙を届けるはずであったからで。菖助は名古屋藩の方に聞こえた宮谷家から後妻を迎えている人で、関所を預かる主な給人であり、砲術の指南役であり、福島でも指折りの武士の一人であった。ちょうど非番の日で、菖助は家にいて、半蔵らの立ち寄ったことをひどくよろこんだ。この人は伏見屋あたりへ金の融通を頼むために、馬籠の方へ見えることもある。それほど武士も生活には骨の折れる時になって来ていた。
「よい旅をして来てください。時に、お二人とも手形をお持ちですね。ここの関所は堅いというので知られていまして、大名のお女中がたでも手形のないものは通しません。とにかく、私が御案内しましょう。」
と菖助は言って、餞別のしるしにと先祖伝来の秘法による自家製の丸薬なぞを半蔵にくれた。
平袴に紋付の羽織で大小を腰にした菖助のあとについて、半蔵らは関所にかかった。そこは西の門から東の門まで一町ほどの広さがある。一方は傾斜の急な山林に倚り、一方は木曾川の断崖に臨んだ位置にある。山村甚兵衛代理格の奉行、加番の給人らが四人も調べ所の正面に控えて、そのそばには足軽が二人ずつ詰めていた。西に一人、東に二人の番人がさらにその要害のよい門のそばを堅めていた。半蔵らは門内に敷いてある米石を踏んで行って、先着の旅行者たちが取り調べの済むまで待った。由緒のある婦人の旅かと見えて、門内に駕籠を停めさせ、乗り物のまま取り調べを受けているのもあった。
半蔵らはかなりの時を待った。そのうちに、
「髪長、御一人。」
と乗り物のそばで起こる声を聞いた。駕籠で来た婦人はいくらかの袖の下を番人の妻に握らせて、型のように通行を許されたのだ。半蔵らの順番が来た。調べ所の壁に掛かる突棒、さす叉なぞのいかめしく目につくところで、階段の下に手をついて、かねて用意して来た手形を役人たちの前にささげるだけで済んだ。
菖助にも別れを告げて、半蔵がもう一度関所の方を振り返った時は、いかにすべてが形式的であるかをそこに見た。
鳥居峠はこの関所から宮の越、藪原二宿を越したところにある。風は冷たくても、日はかんかん照りつけた。前途の遠さは曲がりくねった坂道に行き悩んだ時よりも、かえってその高い峠の上に御嶽遙拝所なぞを見つけた時にあった。そこは木曾川の上流とも別れて行くところだ。
「寿平次さん、江戸から横須賀まで何里とか言いましたね。」
「十六里さ。わたしは道中記でそれを調べて置いた。」
「江戸までの里数を入れると、九十九里ですか。」
「まあ、ざっと百里というものでしょう。」
供の佐吉も、この主人らの話を引き取って、
「まだこれから先に木曾二宿もあるら。江戸は遠いなし。」
こんな言葉をかわしながら、三人とも日暮れ前の途を急いで、やがてその峠を降りた。
「お泊まりなすっておいでなさい。奈良井のお宿はこちらでございます。浪花講の御定宿はこちらでございます。」
しきりに客を招く声がする。街道の両側に軒を並べた家々からは、競うようにその招き声が聞こえる。半蔵らが鳥居峠を降りて、そのふもとにある奈良井に着いた時は、他の旅人らも思い思いに旅籠屋を物色しつつあった。
半蔵はかねて父の懇意にする庄屋仲間の家に泊めてもらうことにして、寿平次や佐吉をそこへ誘った。往来の方へ突き出したようなどこの家の低い二階にもきまりで表廊下が造りつけてあって、馬籠や妻籠に見る街道風の屋造りはその奈良井にもあった。
「半蔵さん、わたしはもう胼胝をこしらえてしまった。」
と寿平次は笑いながら言って、草鞋のために水腫れのした足を盥の中の湯に浸した。半蔵も同じように足を洗って、広い囲炉裏ばたから裏庭の見える座敷へ通された。きのこ、豆、唐辛、紫蘇なぞが障子の外の縁に乾してあるようなところだ。気の置けない家だ。
「静かだ。」
寿平次は腰にした道中差しを部屋の床の間へ預ける時に言った。その静かさは、河の音の耳につく福島あたりにはないものだった。そこの庄屋の主人は、半蔵が父とはよく福島の方で顔を合わせると言い、この同じ部屋に吉左衛門を泊めたこともあると言い、そんな縁故からも江戸行きの若者をよろこんでもてなそうとしてくれた。ちょうど鳥屋のさかりのころで、木曾名物の小鳥でも焼こうと言ってくれるのもそこの主人だ。鳥居峠の鶫は名高い。鶫ばかりでなく、裏山には駒鳥、山郭公の声がきかれる。仏法僧も来て鳴く。ここに住むものは、表の部屋に向こうの鳥の声をきき、裏の部屋にこちらの鳥の声をきく。そうしたことを語り聞かせるのもまたそこの主人だ。
半蔵らは同じ木曾路でもずっと東寄りの宿場の中に来ていた。鳥居峠一つ越しただけでも、親たちや妻子のいる木曾の西のはずれはにわかに遠くなった。しかしそこはなんとなく気の落ち着く山のすそで、旅の合羽も脚絆も脱いで置いて、田舎風な風呂に峠道の汗を忘れた時は、いずれも活き返ったような心地になった。
「ここの家は庄屋を勤めてるだけなんですね。本陣問屋は別にあるんですね。」
「そうらしい。」
半蔵と寿平次は一風呂浴びたあとのさっぱりした心地で、奈良井の庄屋の裏座敷に互いの旅の思いを比べ合った。朝晩はめっきり寒く、部屋には炬燵ができているくらいだ。寿平次は下女がさげて来てくれた行燈を引きよせて、そのかげに道中の日記や矢立てを取り出した。藪原で求めた草鞋が何文、峠の茶屋での休みが何文というようなことまで細かくつけていた。
「寿平次さん、君はそれでも感心ですね。」
「どうしてさ。」
「妻籠の方でもわたしは君の机の上に載ってる覚え帳を見て来ました。君にはそういう綿密なところがある。」
どうして半蔵がこんなことを言い出したかというに、本陣庄屋問屋の仕事は将来に彼を待ち受けていたからで。二人は十八歳のころから、すでにその見習いを命ぜられていて、福島の役所への出張といい、諸大名の送り迎えといい、二人が少年時代から受けて来た薫陶はすべてその準備のためでないものはなかった。半蔵がまだ親の名跡を継がないのに比べると、寿平次の方はすでに青年の庄屋であるの違いだ。
半蔵は嘆息して、
「吾家の阿爺の心持ちはわたしによくわかる。家を放擲してまで学問に没頭するようなものよりも、よい本陣の跡継ぎを出したいというのが、あの人の本意なんでさ。阿爺ももう年を取っていますからね。」
「半蔵さんはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「でも、君には事務の執れるように具わってるところがあるからいい。」
「そう君のように、むずかしく考えるからさ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想って見たまえ。とにかく、働きがいはありますぜ。」
囲炉裏ばたの方で焼く小鳥の香気は、やがて二人のいる座敷の方まで通って来た。夕飯には、下女が来て広い炬燵板の上を取り片づけ、そこを食卓の代わりとしてくれた。一本つけてくれた銚子、串差しにして皿の上に盛られた鶫、すべては客を扱い慣れた家の主人の心づかいからであった。その時、半蔵は次ぎの間に寛いでいる佐吉を呼んで、
「佐吉、お前もここへお膳を持って来ないか。旅だ。今夜は一杯やれ。」
この半蔵の「一杯」が佐吉をほほえませた。佐吉は年若ながらに、半蔵よりも飲める口であったから。
「おれは囲炉裏ばたでいただかず。その方が勝手だで。」
と言って佐吉は引きさがった。
「寿平次さん、わたしはこんな旅に出られたことすら、不思議のような気がする。実に一切から離れますね。」
「もうすこし君は楽な気持ちでもよくはありませんか。まあ、その盃でも乾すさ。」
若いもの二人は旅の疲れを忘れる程度に盃を重ねた。主人が馳走振りの鶫も食った。焼きたての小鳥の骨をかむ音も互いの耳には楽しかった。
「しかし、半蔵さんもよく話すようになった。以前には、ほんとに黙っていたようですね。」
「自分でもそう思いますよ。今度の旅じゃ、わたしも平田入門を許されて来ました。吾家の阿爺もああいう人ですから、快く許してくれましたよ。わたしも、これで弟でもあると、家はその弟に譲って、もっと自分の勝手な方へ出て行って見たいんだけれど。」
「今から隠居でもするようなことを言い出した。半蔵さん――君は結局、宗教にでも行くような人じゃありませんか。わたしはそう思って見ているんだが。」
「そこまではまだ考えていません。」
「どうでしょう、平田先生の学問というものは宗教じゃないでしょうか。」
「そうも言えましょう。しかし、あの先生の説いたものは宗教でも、その精神はいわゆる宗教とはまるきり別のものです。」
「まるきり別のものはよかった。」
炬燵話に夜はふけて行った。ひっそりとした裏山に、奈良井川の上流に、そこへはもう東木曾の冬がやって来ていた。山気は二人の身にしみて、翌朝もまた霜かと思わせた。
追分の宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらかわかった。同行三人のものは、塩尻、下諏訪から和田峠を越え、千曲川を渡って、木曾街道と善光寺道との交叉点にあたるその高原地の上へ出た。そこに住む追分の名主で、年寄役を兼ねた文太夫は、かねて寿平次が先代とは懇意にした間柄で、そんな縁故から江戸行きの若者らの素通りを許さなかった。
名主文太夫は、野半天、割羽織に、捕繩で、御領私領の入れ交った十一か村の秣場を取り締まっているような人であった。その地方にある山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどの見回りをしているような人であった。半蔵らはこの客好きな名主の家に引き留められて、佐久の味噌汁や堅い地大根の沢庵なぞを味わいながら、赤松、落葉松の山林の多い浅間山腹がいかに郷里の方の谿と相違するかを聞かされた。曠野と、焼け石と、砂と、烈風と、土地の事情に精通した名主の話は尽きるということを知らなかった。
しかし、そればかりではない。半蔵らが追分に送った一夜の無意味でなかったことは、思いがけない江戸の消息までもそこで知ることができたからで。その晩、文太夫が半蔵や寿平次に取り出して見せた書面は、ある松代の藩士から借りて写し取って置いたというものであった。嘉永六年六月十一日付として、江戸屋敷の方にいる人の書き送ったもので、黒船騒ぎ当時の様子を伝えたものであった。
「このたび、異国船渡り来り候につき、江戸表はことのほかなる儀にて、東海道筋よりの早注進矢のごとく、よって諸国御大名ところどころの御堅め仰せ付けられ候。しかるところ、異国船神奈川沖へ乗り入れ候おもむき、御老中御屋敷へ注進あり。右につき、夜分急に御登城にて、それぞれ御下知仰せ付けられ、七日夜までに出陣の面々は左の通り。
一、松平越前守様、(越前福井藩主)品川御殿山お堅め。一、細川越中守様、(肥後熊本藩主)大森村お堅め。一、松平大膳太夫様、(長州藩主)鉄砲洲および佃島。一、松平阿波守様、(阿州徳島藩主)御浜御殿。一、酒井雅楽頭様、(播州姫路藩主)深川一円。一、立花左近将監様。伊豆大島一円。松平下総守様、安房上総の両国。その他、川越城主松平大和守様をはじめ、万石以上にて諸所にお堅めのため出陣の御大名数を知らず。 公儀御目付役、戸川中務少輔様、松平十郎兵衛様、右御両人は異国船見届けのため、陣場見回り仰せ付けられ、六日夜浦賀表へ御出立にこれあり候。 さて、このたびの異国船、国名相尋ね候ところ、北アメリカと申すところ。大船四艘着船。もっとも船の中より、朝夕一両度ずつ大筒など打ち放し申し候よし。町人並びに近在のものは賦役に遣わされ、海岸の人家も大方はうちつぶして諸家様のお堅め場所となり、民家の者ども妻子を引き連れて立ち退き候もあり、米石日に高く、目も当てられず。実に戦国の習い、是非もなき次第にこれあり候。八日の早暁にいたり、御触れの文面左の通り。一、異国船万一にも内海へ乗り入れ、非常の注進これあり候節は、老中より八代洲河岸火消し役へ相達し、同所にて平日の出火に紛れざるよう早鐘うち出し申すべきこと。一、右の通り、火消し役にて早鐘うち出し候節は、出火の通り相心得、登城の道筋その他相堅め候よういたすべきこと。一、右については、江戸場末まで早鐘行き届かざる場合もこれあるべく、万石以上の面々においては早半鐘相鳴らし申すべきこと。 右のおもむき、御用番御老中よりも仰せられ候。とりあえず当地のありさま申し上げ候。以上。」 実に、一息に、かねて心にかかっていたことが半蔵の胸の中を通り過ぎた。これだけの消息も、木曾の山の中までは届かなかったものだ。すくなくも、半蔵が狭い見聞の世界へは、漠然としたうわさとしてしかはいって来なかったものだ。あの彦根の早飛脚が一度江戸のうわさを伝えてからの混雑、狼狽そのものとも言うべき諸大名がおびただしい通行、それから引き続きこの街道に起こって来た種々な変化の意味も、その時思い合わされた。
「寿平次さん、君はこの手紙をどう思いますね。」
「さあ、わたしもこれほどとは思わなかった。」
半蔵は寿平次と顔を見合わせたが、激しい精神の動揺は隠せなかった。
三
郷里を出立してから十一日目に三人は板橋の宿を望んだ。戸田川の舟渡しを越して行くと、木曾街道もその終点で尽きている。そこまでたどり着くと江戸も近かった。
十二日目の朝早く三人は板橋を離れた。江戸の中心地まで二里と聞いただけでも、三人が踏みしめて行く草鞋の先は軽かった。道中記のたよりになるのも板橋までで、巣鴨の立場から先は江戸の絵図にでもよるほかはない。安政の大地震後一年目で、震災当時多く板橋に避難したという武家屋敷の人々もすでに帰って行ったころであるが、仮小屋の屋根、傾いた軒、新たに修繕の加えられた壁なぞは行く先に見られる。三人は右を見、左を見して、本郷森川宿から神田明神の横手に添い、筋違見附へと取って、復興最中の町にはいった。
「これが江戸か。」
半蔵らは八十余里の道をたどって来て、ようやくその筋違の広場に、見附の門に近い高札場の前に自分らを見つけた。広場の一角に配置されてある大名屋敷、向こうの町の空に高い火見櫓までがその位置から望まれる。諸役人は騎馬で市中を往来すると見えて、鎗持ちの奴、その他の従者を従えた馬上の人が、その広場を横ぎりつつある。にわかに講武所の創設されたとも聞くころで、旗本、御家人、陪臣、浪人に至るまでもけいこの志望者を募るなぞの物々しい空気が満ちあふれていた。
半蔵らがめざして行った十一屋という宿屋は両国の方にある。小網町、馬喰町、日本橋数寄屋町、諸国旅人の泊まる定宿もいろいろある中で、半蔵らは両国の宿屋を選ぶことにした。同郷の人が経営しているというだけでもその宿屋は心やすく思われたからで。ちょうど、昌平橋から両国までは船で行かれることを教えてくれる人もあって、三人とも柳の樹の続いた土手の下を船で行った。うわさに聞く浅草橋まで行くと、筋違で見たような見附の門はそこにもあった。両国の宿屋は船の着いた河岸からごちゃごちゃとした広小路を通り抜けたところにあって、十一屋とした看板からして堅気風な家だ。まだ昼前のことで、大きな風呂敷包みを背負った男、帳面をぶらさげて行く小僧なぞが、その辺の町中を往ったり来たりしていた。
「皆さんは木曾の方から。まあ、ようこそ。」
と言って迎えてくれる若いかみさんの声を聞きながら、半蔵も寿平次も草鞋の紐を解いた。そこへ荷を卸した佐吉のそばで、二人とも長い道中のあとの棒のようになった足を洗った。
「ようやく、ようやく。」
二階の部屋へ案内されたあとで、半蔵は寿平次と顔を見合わせて言ったが、まだ二人とも脚絆をつけたままだった。
「ここまで来ると、さすがに陽気は違いますなあ。宿屋の女中なぞはまだ袷を着ていますね。」
と寿平次も言って、その足で部屋のなかを歩き回った。
半蔵が江戸へ出たころは、木曾の青年でこの都会に学んでいるという人のうわさも聞かなかった。ただ一人、木曾福島の武居拙蔵、その人は漢学者としての古賀※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)庵に就き、塩谷宕陰、松崎慊堂にも知られ、安井息軒とも交わりがあって、しばらく御茶の水の昌平黌に学んだが、親は老い家は貧しくて、数年前に郷里の方へ帰って行ったといううわさだけが残っていた。
半蔵もまだ若かった。青年として生くべき道を求めていた彼には、そうした方面のうわさにも心をひかれた。それにもまして彼の注意をひいたのは、幕府で設けた蕃書調所なぞのすでに開かれていると聞くことだった。箕作阮甫、杉田成卿なぞの蘭学者を中心に、諸人所蔵の蕃書の翻訳がそこで始まっていた。
この江戸へ出て来て見ると、日に日に外国の勢力の延びて来ていることは半蔵なぞの想像以上である。その年の八月には三隻の英艦までが長崎にはいったことの報知も伝わっている。品川沖には御台場が築かれて、多くの人の心に海防の念をよび起こしたとも聞く。外国御用掛の交代に、江戸城を中心にした交易大評定のうわさに、震災後めぐって来た一周年を迎えた江戸の市民は毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのようでもある。
両国へ着いた翌日、半蔵は寿平次と二人で十一屋の二階にいて、遠く町の空に響いて来る大砲調練の音なぞをききながら、旅に疲れたからだを休めていた。佐吉も階下で別の部屋に休んでいた。同郷と聞いてはなつかしいと言って、半蔵たちのところへ話し込みに来る宿屋の隠居もある。その話し好きな隠居は、木曾の山の中を出て江戸に運命を開拓するまでの自分の苦心なぞを語った末に、
「あなたがたに江戸の話を聞かせろとおっしゃられても、わたしも困る。」
と断わって、なんと言っても忘れがたいのは嘉永六年の六月に十二代将軍の薨去を伝えたころだと言い出した。
受け売りにしても隠居の話はくわしかった。ちょうどアメリカのペリイが初めて浦賀に渡来した翌日あたりは、将軍は病の床にあった。強い暑さに中って、多勢の医者が手を尽くしても、将軍の疲労は日に日に増すばかりであった。将軍自身にももはや起てないことを知りながら、押して老中を呼んで、今回の大事は開闢以来の珍事である、自分も深く心を痛めているが、不幸にして大病に冒され、いかんともすることができないと語ったという。ついては、水戸の隠居(烈公)は年来海外のことに苦心して、定めしよい了簡もあろうから、自分の死後外国処置の件は隠居に相談するようにと言い置いたという。アメリカの軍艦が内海に乗り入れたのは、その夜のことであった。宿直のものから、ただいま伊勢(老中阿部)登城、ただいま備後(老中牧野)登城と上申するのを聞いて、将軍はすぐにこれへ呼べと言い、「肩衣、肩衣」と求めた。その時将軍はすでに疲れ切っていた。極度に困しんで、精神も次第に恍惚となるほどだった。それでも人に扶けられて、いつものように正しくすわり直し、肩衣を着けた。それから老中を呼んで、二人の言うことを聞こうとしたが、アメリカの軍艦がまたにわかに外海へ出たという再度の報知を得たので、二人の老中も拝謁を請うには及ばないで引き退いた。翌日、将軍は休息の部屋で薨じた。
十一屋の隠居はこの話を日ごろ出入りする幕府奥詰の医者で喜多村瑞見という人から聞いたと半蔵らに言い添えて見せた。さらに言葉を継いで、
「わたしはあの公方様の話を思い出すと、涙が出て来ます。何にしろ、あなた、初めて異国の船が内海に乗り入れた時の江戸の騒ぎはありませんや。諸大名は火事具足で登城するか、持ち場持ち場を堅めるかというんでしょう。火の用心のお触れは出る。鉄砲や具足の値は平常の倍になる。海岸の方に住んでるものは、みんな荷物を背負って逃げましたからね。わたしもこんな宿屋商売をして見ていますが、世の中はあれから変わりましたよ。」
半蔵も、寿平次も、この隠居の出て行ったあとで、ともかくも江戸の空気の濃い町中に互いの旅の身を置き得たことを感じた。木曾の山の中にいて想像したと、出て来て見たとでは、実にたいした相違であることをも感じた。
「半蔵さん、きょうは国へ手紙でも書こう。」
「わたしも一つ、馬籠へ出すか。」
「半蔵さん、君はそれじゃ佐吉を連れて、あす平田先生を訪ねるとしたまえ。」
とりあえずそんな相談をして、その日一日は二人とも休息することにした。旅に限りがあって、そう長い江戸の逗留は予定の日取りが許さなかった。まだこれから先に日光行き、横須賀行きも二人を待っていた。
寿平次は手を鳴らして宿のかみさんを呼んだ。もうすこし早く三人が出て来ると、夷講に間に合って、大伝馬町の方に立つべったら市のにぎわいも見られたとかみさんはいう。芝居は、と尋ねると、市村、中村、森田三座とも狂言名題の看板が出たばかりのころで、茶屋のかざり物、燈籠、提灯、つみ物なぞは、あるいは見られても、狂言の見物には月のかわるまで待てという。当時売り出しの作者の新作で、世話に砕けた小団次の出し物が見られようかともいう。
「朔日の顔見世は明けの七つ時でございますよ。太夫の三番叟でも御覧になるんでしたら、暗いうちからお起きにならないと、間に合いません。」
「江戸の芝居見物も一日がかりですね。」
こんな話の出るのも、旅らしかった。
夕飯後、半蔵はかねて郷里を出る時に用意して来た一通の書面を旅の荷物の中から取り出した。
「どれ、一つ寿平次さんに見せますか。これがあす持って行く誓詞です。」
と言って寿平次の前に置いた。
誓詞
「このたび、御門入り願い奉り候ところ、御許容なし下され、御門人の列に召し加えられ、本懐の至りに存じ奉り候。しかる上は、専ら皇国の道を尊信いたし、最も敬神の儀怠慢いたすまじく、生涯師弟の儀忘却仕るまじき事。
公の御制法に相背き候儀は申すに及ばず。すべて古学を申し立て、世間に異様の行ないをいたし、人の見聞を驚かし候ようの儀これあるまじく、ことさら師伝と偽り奇怪の説など申し立て候儀、一切仕るまじき事。
御流儀においては、秘伝口授など申す儀、かつてこれなき段、堅く相守り、さようの事申し立て候儀これあるまじく、すべて鄙劣の振舞をいたし古学の名を穢し申すまじき事。
学の兄弟相かわらず随分睦まじく相交わり、互いに古学興隆の志を相励み申すべく、我執を立て争論なぞいたし候儀これあるまじき事。
右の条々、謹んで相守り申すべく候。もし違乱に及び候わば、八百万の天津神、国津神、明らかに知ろしめすべきところなり。よって、誓詞如件。」
信州、木曾、馬籠村青山半蔵 安政三年十月
平田鉄胤大人
御許
「これはなかなかやかましいものだ。」
「まだそのほかに、名簿を出すことになっています。行年何歳、父はだれ、職業は何、だれの紹介ということまで書いてあるんです。」
その時、半蔵は翌朝の天気を気づかい顔に戸の方へ立って行った。隅田川に近い水辺の夜の空がその戸に見えた。
「半蔵さん。」と寿平次はまたそばへ来てすわり直した相手の顔をながめながら、「君の誓詞には古学ということがしきりに出て来ますね。いったい、国学をやる人はそんなに古代の方に目標を置いてかかるんですか。」
「そりゃ、そうさ。君。」
「過去はそんなに意味がありますかね。」
「君のいう過去は死んだ過去でしょう。ところが、篤胤先生なぞの考えた過去は生きてる過去です。あすは、あすはッて、みんなあすを待ってるけれど、そんなあすはいつまで待っても来やしません。きょうは、君、またたく間に通り過ぎて行く。過去こそ真じゃありませんか。」
「君のいうことはわかります。」
「しかし、国学者だって、そう一概に過去を目標に置こうとはしていません。中世以来は濁って来ていると考えるんです。」
「待ってくれたまえ。わたしはそうくわしいことも知りませんがね、平田派の学問は偏より過ぎるような気がしてしかたがない。こんな時世になって来て、そういう古学はどんなものでしょうかね。」
「そこですよ。外国の刺激を受ければ受けるほど、わたしたちは古代の方を振り返って見るようになりました。そりゃ、わたしばかりじゃありません、中津川の景蔵さんや香蔵さんだっても、そうです。」
どうやら定めない空模様だった。さびしくはあるが、そう寒くない時雨の来る音も戸の外にした。
江戸は、初めて来て見る半蔵らにとって、どれほどの広さに伸びている都会とも、ちょっと見当のつけられなかったような大きなところである。そこに住む老若男女の数はかつて正確に計算せられたことがないと言うものもあるし、およそ二百万の人口はあろうと言うものもある。半蔵が連れと一緒に、この都会に足を踏み入れたのは武家屋敷の多い方面で、その辺は割合に人口も稀薄なところであった。両国まで来て初めて町の深さにはいって見た。それもわずかに江戸の東北にあたる一つの小さな区域というにとどまる。
数日の滞在の後には、半蔵も佐吉を供に連れて山下町の方に平田家を訪問し、持参した誓詞のほかに、酒魚料、扇子壱箱を差し出したところ、先方でも快く祝い納めてくれた。平田家では、彼の名を誓詞帳(平田門人の台帳)に書き入れ、先師没後の門人となったと心得よと言って、束脩も篤胤大人の霊前に供えた。彼は日ごろ敬慕する鉄胤から、以来懇意にするように、学事にも出精するようにと言われて帰って来たが、その間に寿平次は猿若町の芝居見物などに出かけて行った。そのころになると、二人はあちこちと見て回った町々の知識から、八百八町から成るというこの大きな都会の広がりをいくらかうかがい知ることができた。町中にある七つの橋を左右に見渡すことのできる一石橋の上に立って見た時。国への江戸土産に、元結、油、楊枝の類を求めるなら、親父橋まで行けと十一屋の隠居に教えられて、あの橋の畔から鎧の渡しの方を望んで見た時。目に入るかぎり無数の町家がたて込んでいて、高い火見櫓、並んだ軒、深い暖簾から、いたるところの河岸に連なり続く土蔵の壁まで――そこからまとまって来る色彩の黒と白との調和も江戸らしかった。
しかし、世は封建時代だ。江戸大城の関門とも言うべき十五、六の見附をめぐりにめぐる内濠はこの都会にある橋々の下へ流れ続いて来ている。その外廓にはさらに十か所の関門を設けた外濠がめぐらしてある。どれほどの家族を養い、どれほどの土地の面積を占め、どれほどの庭園と樹木とをもつかと思われるような、諸国大小の大名屋敷が要所要所に配置されてある。どこに親藩の屋敷を置き、どこに外様大名の屋敷を置くかというような意匠の用心深さは、日本国の縮図を見る趣もある。言って見れば、ここは大きな関所だ。町の角には必ず木戸があり、木戸のそばには番人の小屋がある。あの木曾街道の関所の方では、そこにいる役人が一切の通行者を監視するばかりでなく、役人同志が互いに監視し合っていた。どうかすると、奉行その人ですら下役から監視されることをまぬかれなかった。それを押しひろげたような広大な天地が江戸だ。
半蔵らが予定の日取りもいつのまにか尽きた。いよいよ江戸を去る前の日が来た。半蔵としては、この都会で求めて行きたい書籍の十が一をも手に入れず、思うように同門の人も訪ねず、賀茂の大人が旧居の跡も見ずじまいであっても、ともかくも平田家を訪問して、こころよく入門の許しを得、鉄胤はじめその子息さんの延胤とも交わりを結ぶ端緒を得たというだけにも満足して、十一屋の二階でいろいろと荷物を片づけにかかった。
半蔵が部屋の廊下に出て見たころは夕方に近い。
「半蔵さん、きょうはひとりで町へ買い物に出て、それはよい娘を見て来ましたぜ。」
と言って寿平次は国への江戸土産にするものなぞを手にさげながら帰って来た。
「君にはかなわない。すぐにそういうところへ目がつくんだから。」
半蔵はそれを言いかけて、思わず顔を染めた。二人は宿屋の二階の欄に身を倚せて、目につく風俗なぞを話し合いながら、しばらくそこに旅らしい時を送った。髪を結綿というものにして、紅い鹿の子の帯なぞをしめた若いさかりの娘の洗練された風俗も、こうした都会でなければ見られないものだ。国の方で素枯れた葱なぞを吹いている年ごろの女が、ここでは酸漿を鳴らしている。渋い柿色の「けいし」を小脇にかかえながら、唄のけいこにでも通うらしい小娘のあどけなさ。黒繻子の襟のかかった着物を着て水茶屋の暖簾のかげに物思わしげな女のなまめかしさ。極度に爛熟した江戸趣味は、もはや行くところまで行き尽くしたかとも思わせる。
やがて半蔵は佐吉を呼んだ。翌朝出かけられるばかりに旅の荷物をまとめさせた。町へは鰯を売りに来た、蟹を売りに来たと言って、物売りの声がするたびにきき耳を立てるのも佐吉だ。佐吉は、山下町の方の平田家まで供をしたおりのことを言い出して、主人と二人で帰りの昼じたくにある小料理屋へ立ち寄ろうとしたことを寿平次に話した末に、そこの下足番の客を呼ぶ声が高い調子であるには驚かされたと笑った。
「へい、いらっしゃい。」
と佐吉は木訥な調子で、その口調をまねて見せた。
「あのへい、いらっしゃいには、おれも弱った。そこへ立ちすくんでしまったに。」
とまた佐吉は笑った。
「佐吉、江戸にもお別れだ。今夜は一緒に飯でもやれ。」
と半蔵は言って、三人して宿屋の台所に集まった。夕飯の膳が出た。佐吉がそこへかしこまったところは、馬籠の本陣の囲炉裏ばたで、どんどん焚火をしながら主従一同食事する時と少しも変わらない。十一屋では膳部も質素なものであるが、江戸にもお別れだという客の好みとあって、その晩にかぎり刺身もついた。木曾の山の中のことにして見たら、深い森林に住む野鳥を捕え、熊、鹿、猪などの野獣の肉を食い、谷間の土に巣をかける地蜂の子を賞美し、肴と言えば塩辛いさんまか、鰯か、一年に一度の塩鰤が膳につくのは年取りの祝いの時ぐらいにきまったものである。それに比べると、ここにある鮪の刺身の新鮮な紅さはどうだ。その皿に刺身のツマとして添えてあるのも、繊細をきわめたものばかりだ。細い緑色の海髪。小さな茎のままの紫蘇の実。黄菊。一つまみの大根おろしの上に青く置いたような山葵。
「こう三人そろったところは、どうしても山の中から出て来た野蛮人ですね。」
赤い襟を見せた給仕の女中を前に置いて、寿平次はそんなことを言い出した。
「こんな話があるで。」と佐吉も膝をかき合わせて、「木曾福島の山村様が江戸へ出るたびに、山猿、山猿と人にからかわれるのが、くやしくてしかたがない。ある日、口の悪い人たちを屋敷に招んだと思わっせれ。そこが、お前さま、福島の山村様だ。これが木曾名物の焼き栗だと言って、生の栗を火鉢の灰の中にくべて、ぽんぽんはねるやつをわざと鏃でかき回したげな。」
「野性を発揮したか。」
と寿平次がふき出すと、半蔵はそれを打ち消すように、
「しかし、寿平次さん、こう江戸のように開け過ぎてしまったら、動きが取れますまい。わたしたちは山猿でいい。」
と言って見せた。
食後にも三人は、互いの旅の思いを比べ合った。江戸の水茶屋には感心した、と言うのは寿平次であった。思いがけない屋敷町の方で読書の声を聞いて来た、と言うのは半蔵であった。
その晩、半蔵は寿平次と二人枕を並べて床についたが、夜番の拍子木の音なぞが耳について、よく眠らなかった。枕もとにあるしょんぼりとした行燈のかげで、敷いて寝た道中用の脇差を探って見て、また安心して蒲団をかぶりながら、平田家を訪ねた日のことなぞを考えた。あの鉄胤から古学の興隆に励めと言われて来たことを考えた。世は濁り、江戸は行き詰まり、一切のものが実に雑然紛然として互いに叫びをあげている中で、どうして国学者の夢などをこの地上に実現し得られようと考えた。
「自分のような愚かなものが、どうして生きよう。」
そこまで考えつづけた。
翌朝は、なるべく早く出立しようということになった。時が来て、半蔵は例の青い合羽、寿平次は柿色の合羽に身をつつんで、すっかりしたくができた。佐吉はすでに草鞋の紐を結んだ。三人とも出かけられるばかりになった。
十一屋の隠居はそこへ飛んで出て来て、
「オヤ、これはどうも、お粗末さまでございました。どうかまた、お近いうちに。」
と手をもみながら言う。江戸生まれで、まだ木曾を知らないというかみさんまでが、隠居のそばにいて、
「ほんとに、木曾のかたはおなつかしい。」
と別れぎわに言い添えた。
十一屋のあるところから両国橋まではほんの一歩だ。江戸のなごりに、隅田川を見て行こう、と半蔵が言い出して、やがて三人で河岸の物揚げ場の近くへ出た。早い朝のことで、大江戸はまだ眠りからさめきらないかのようである。ちょうど、渦巻き流れて来る隅田川の水に乗って、川上の方角から橋の下へ降って来る川船があった。あたりに舫っている大小の船がまだ半分夢を見ている中で、まず水の上へ活気をそそぎ入れるものは、その船頭たちの掛け声だ。十一屋の隠居の話で、半蔵らはそれが埼玉川越の方から伊勢町河岸へと急ぐ便船であることを知った。
「日の出だ。」
言い合わせたようなその声が起こった。三人は互いに雀躍して、本所方面の初冬らしい空に登る太陽を迎えた。紅くはあるが、そうまぶしく輝かない。木曾の奥山に住み慣れた人たちは、谷間からだんだん空の明るくなることは知っていても、こんな日の出は知らないのだ。間もなく三人は千住の方面をさして、静かにその橋のたもとからも離れて行った。
四
千住から日光への往復九十里、横須賀への往復に三十四里、それに江戸と木曾との間の往復の里程を加えると、半蔵らの踏む道はおよそ二百九十里からの旅である。
日光への寄り道を済まして、もう一度三人が千住まで引き返して来たころは、旅の空で旧暦十一月の十日過ぎを迎えた。その時は、千住からすぐに高輪へと取り、札の辻の大木戸、番所を経て、東海道へと続く袖が浦の岸へ出た。うわさに聞く御台場、五つの堡塁から成るその建造物はすでに工事を終わって、沖合いの方に遠く近く姿をあらわしていた。大森の海岸まで行って、半蔵はハッとした。初めて目に映る蒸汽船――徳川幕府がオランダ政府から購い入れたという外輪型の観光丸がその海岸から望まれた。
とうとう、半蔵らの旅は深い藍色の海の見えるところまで行った。神奈川から金沢へと進んで、横須賀行きの船の出る港まで行った。客や荷物を待つ船頭が波打ちぎわで船のしたくをしているところまで行った。
「なんだか遠く来たような気がする。郷里の方でも、みんなどうしていましょう。」
「さあ、ねえ。」
「わたしたちが帰って行く時分には、もう雪が村まで来ていましょう。」
「なんだぞなし。きっと、けさはサヨリ飯でもたいて、こっちのうわさでもしているぞなし。」
三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。
海は動いて行く船の底でおどった。もはや、半蔵らはこれから尋ねて行こうとする横須賀在、公郷村の話で持ち切った。五百年からの歴史のある古い山上の家族がそこに住むかと語り合った。三浦一族の子孫にあたるという青山家の遠祖が、あの山上の家から分かれて、どの海を渡り、どの街道を通って、遠く木曾谷の西のはずれまではいって行ったものだろうと語り合った。
当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることを想って見ることはできた。ある岬のかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。
公郷村とは、船の着いた漁師町から物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。長閑なことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るような仙郷だ。
妻籠本陣青山寿平次殿へ、短刀一本。ただし、古刀。銘なし。馬籠本陣青山半蔵殿へ、蓬莱の図掛け物一軸。ただし、光琳筆。山上家の当主、七郎左衛門は公郷村の住居の方にいて、こんな記念の二品までも用意しながら、二人の珍客を今か今かと待ち受けていた。
「もうお客さまも見えそうなものだぞ。だれかそこいらまで見に行って来い。」
と家に使っている男衆に声をかけた。
半蔵らが百里の道も遠しとしないで尋ねて来るという報知は七郎左衛門をじっとさせて置かなかった。彼は古い大きな住宅の持ち主で、二十畳からある広間を奥の方へ通り抜け、人一人隠れられるほどの太い大極柱のわきを回って、十五畳、十畳と二部屋続いた奥座敷のなかをあちこちと静かに歩いた。そこは彼が客をもてなすために用意して待っていたところだ。心をこめた記念の二品は三宝に載せて床の間に置いてある。先祖伝来の軸物などは客待ち顔に壁の上に掛かっている。
七郎左衛門の家には、三浦氏から山上氏、山上氏から青山氏と分かれて行ったくわしい系図をはじめ、祖先らの遺物と伝えらるる古い直垂から、武具、書画、陶器の類まで、何百年となく保存されて来たものはかなり多い。彼が客に見せたいと思う古文書なぞは、取り出したら際限のないほど長櫃の底に埋まっている。あれもこれもと思う心で、彼は奥座敷から古い庭の見える方へ行った。松林の多い裏山つづきに樹木をあしらった昔の人の意匠がそこにある。硬質な岩の間に躑躅、楓なぞを配置した苔蒸した築山がそこにある。どっしりとした古風な石燈籠が一つ置いてあって、その辺には円く厚ぼったい「つわぶき」なぞも集めてある。遠い祖先の昔はまだそんなところに残って、子孫の目の前に息づいているかのようでもある。
「まあ、客が来たら、この庭でも見て行ってもらおう。これは自分が子供の時分からながめて来た庭だ。あの時分からほとんど変わらない庭だ。」
こんなことを思いながら待ち受けているところへ、半蔵と寿平次の二人が佐吉を供に連れて着いた。その時、七郎左衛門は家のものを呼んで袴を持って来させ、その上に短い羽織を着て、古い鎗なぞの正面の壁の上に掛かっている玄関まで出て迎えた。
「これは。これは。」
七郎左衛門は驚きに近いほどのよろこびのこもった調子で言った。
「これ、お供の衆。まあ草鞋でも脱いで、上がってください。」
と彼の家内までそこへ出て言葉を添える。案内顔な主人のあとについて、寿平次は改まった顔つき、半蔵も眉をあげながら奥の方へ通ったあとで、佐吉は二人の脱いだ草鞋の紐など結び合わせた。
やがて、奥座敷では主人と寿平次との一別以来の挨拶、半蔵との初対面の挨拶なぞがあった。主人の引き合わせで、幾人の家の人が半蔵らのところへ挨拶に来るとも知れなかった。これは忰、これはその弟、これは嫁、と主人の引き合わせが済んだあとには、まだ幼い子供たちが目を円くしながら、かわるがわるそこへお辞儀をしに出て来た。
「青山さん、わたしどもには三夫婦もそろっていますよ。」
この七郎左衛門の言葉がまず半蔵らを驚かした。
古式を重んずる※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)待のありさまが、間もなくそこにひらけた。土器なぞを三宝の上に載せ、挨拶かたがたはいって来る髪の白いおばあさんの後ろからは、十六、七ばかりの孫娘が瓶子を運んで来た。
「おゝ、おゝ、よい子息さんがただ。」
とおばあさんは半蔵の前にも、寿平次の前にも挨拶に来た。
「とりあえず一つお受けください。」
とまたおばあさんは言いながら、三つ組の土器を白木の三宝のまま丁寧に客の前に置いて、それから冷酒を勧めた。
「改めて親類のお盃とやりますかな。」
そういう七郎左衛門の愉快げな声を聞きながら、まず年若な寿平次が土器を受けた。続いて半蔵も冷酒を飲みほした。
「でも、不思議な御縁じゃありませんか。」と七郎左衛門はおばあさんの方を見て言った。「わたしが妻籠の青山さんのお宅へ一晩泊めていただいた時に、同じ定紋から昔がわかりましたよ。えゝ、丸に三つ引と、※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)に木瓜とでさ。さもなかったら、わたしは知らずに通り過ぎてしまうところでしたし、わざわざお二人で訪ねて来てくださるなんて、こんなめずらしいことも起こって来やしません。こうしてお盃を取りかわすなんて、なんだか夢のような気もします。」
「そりゃ、お前さん、御先祖さまが引き合わせてくだすったのさ。」
おばあさんは、おばあさんらしいことを言った。
相州三浦の公郷村まで動いたことは、半蔵にとって黒船上陸の地点に近いところまで動いて見たことであった。
その時になると、半蔵は浦賀に近いこの公郷村の旧家に身を置いて、あの追分の名主文太夫から見せてもらって来た手紙も、両国十一屋の隠居から聞いた話も、すべてそれを胸にまとめて見ることができた。江戸から踏んで来た松並樹の続いた砂の多い街道は、三年前丑年の六月にアメリカのペリイが初めての着船を伝えたころ、早飛脚の織るように往来したところだ。当時木曾路を通過した尾張藩の家中、続いて彦根の家中などがおびただしい同勢で山の上を急いだのも、この海岸一帯の持ち場持ち場を堅めるため、あるいは浦賀の現場へ駆けつけるためであったのだ。
そういう半蔵はここまで旅を一緒にして来た寿平次にたんとお礼を言ってもよかった。もし寿平次の誘ってくれることがなかったら、容易にはこんな機会は得られなかったかもしれない。供の佐吉にも感謝していい。雨の日も風の日も長い道中を一緒にして、影の形に添うように何くれと主人の身をいたわりながら、ここまでやって来たのも佐吉だ。おかげと半蔵は平田入門のこころざしを果たし、江戸の様子をも探り、日光の地方をも見、いくらかでもこれまでの旅に開けて来た耳でもって、七郎左衛門のような人の話をきくこともできた。
半蔵の前にいる七郎左衛門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衛門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。
古風な盃の交換も済んだころ、七郎左衛門の家内の茶菓などをそこへ運んで来て言った。
「あなた、茶室の方へでも御案内したら。」
「そうさなあ。」
「あちらの方が落ち着いてよくはありませんか。」
「いろいろお話を伺いたいこともある。とにかく、吾家にある古い系図をここでお目にかけよう。それから茶室の方へ御案内するとしよう。」
そう七郎左衛門は答えて、一丈も二丈もあるような巻き物を奥座敷の小襖から取り出して来た。その長巻の軸を半蔵や寿平次の前にひろげて見せた。
この山上の家がまだ三浦の姓を名乗っていた時代の遠い先祖のことがそこに出て来た。三浦の祖で鎮守府将軍であった三浦忠通という人の名が出て来た。衣笠城を築き、この三浦半島を領していた三浦平太夫という人の名も出て来た。治承四年の八月に、八十九歳で衣笠城に自害した三浦大介義明という人の名も出て来た。宝治元年の六月、前将軍頼経を立てようとして事覚れ、討手のために敗られて、一族共に法華堂で自害した三浦若狭守泰村という人の名なぞも出て来た。
「ホ。半蔵さん、御覧なさい。ここに三浦兵衛尉義勝とありますよ。この人は従五位下だ。元弘二年新田義貞を輔けて、鎌倉を攻め、北条高時の一族を滅ぼす、先世の讐を復すというべしとしてありますよ。」
「みんな戦場を駆け回った人たちなんですね。」
寿平次も半蔵も互いに好奇心に燃えて、そのくわしい系図に見入った。
「つまり三浦の家は一度北条早雲に滅ぼされて、それからまた再興したんですね。」と七郎左衛門は言った。「五千町の田地をもらって、山上と姓を改めたともありますね。昔はこの辺を公郷の浦とも、大田津とも言ったそうです。この半島には油壺というところがありますが、三浦道寸父子の墓石なぞもあそこに残っていますよ。」
やがて半蔵らはこの七郎左衛門の案内で、茶室の方へ通う庭の小径のところへ出た。裏山つづきの稲荷の祠などが横手に見える庭石の間を登って、築山をめぐる位置まで出たころに、寿平次は半蔵を顧みて言った。
「驚きましたねえ。この山上の二代目の先祖は楠家から養子に来ていますよ。毎年正月には楠公の肖像を床の間に掛けて、鏡餅や神酒を供えるというじゃありませんか。」
「わたしたちの家が古いと思ったら、ここの家はもっと古い。」
松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衛門は浦賀の番所通いの話などを半蔵らの前で始めた。二千人の水兵を載せたアメリカの艦隊が初めて浦賀に入港した当時のことがそれからそれと引き出された。
七郎左衛門の話はくわしい。彼は水師提督ペリイの座乗した三本マストの旗艦ミスシッピイ号をも目撃した人である。浦賀の奉行がそれと知った時は、すぐに要所要所を堅め、ここは異国の人と応接すべき場所でない、アメリカ大統領の書翰を呈したいとあるなら長崎の方へ行けと諭した。けれども、アメリカが日本の開国を促そうとしたは決して一朝一夕のことではないらしい。先方は断然たる決心をもって迫って来た。もし浦賀で国書を受け取ることができないなら、江戸へ行こう。それでも要領を得ないなら、艦隊は自由行動を執ろう。この脅迫の影響は実に大きかった。のみならずペリイは測量艇隊を放って浦賀付近の港内を測量し、さらに内海に向かわしめ、軍艦がそれを掩護して観音崎から走水の付近にまで達した。浦賀奉行とペリイとの久里が浜での会見がそれから開始された。海岸に幕を張り、弓矢、鉄砲を用意し、五千人からの護衛の武士が出て万一の場合に具えた。なにしろ先方は二千人からの水兵が上陸して、列をつくって進退する。軍艦から打ち出す大筒の礼砲は近海から遠い山々までもとどろき渡る。かねての約束のとおり、奉行は一言をも発しないで国書だけを受け取って、ともかくも会見の式を終わった。その間半時ばかり。ペリイは大いに軍容を示して、日本人の高い鼻をへし折ろうとでも考えたものか、脅迫がましい態度がそれからも続きに続いた。全艦隊は小柴沖から羽田沖まで進み、はるかに江戸の市街を望み見るところまでも乗り入れて、それから退帆のおりに、万一国書を受けつけないなら非常手段に訴えるという言葉を残した。そればかりではない。日本で飽くまで開国を肯じないなら、武力に訴えてもその態度を改めさせなければならぬ、日本人はよろしく国法によって防戦するがいい、米国は必ず勝って見せる、ついては二本の白旗を贈る、戦に敗けて講和を求める時にそれを掲げて来るなら、その時は砲撃を中止するであろうとの言葉を残した。
「わたしはアメリカの船を見ました。二度目にやって来た時は九艘も見ました。さよう、二度目の時なぞは三か月もあの沖合いに掛かっていましたよ。そりゃ、あなた、日本の国情がどうあろうと、こっちの言い分が通るまでは動かないというふうに――槓杆でも動かない巌のような権幕で。」
これらの七郎左衛門の話は、半蔵にも、寿平次にも、容易ならぬ時代に際会したことを悟らせた。当時の青年として、この不安はまた当然覚悟すべきものであることを思わせた。同時に、この仙郷のような三浦半島の漁村へも、そうした世界の新しい暗い潮が遠慮なく打ち寄せて来ていることを思わせた。
「時に、お話はお話だ。わたしの茶も怪しいものですが、せっかくおいでくだすったのですから、一服立てて進ぜたい。」
そう言いながら、七郎左衛門はその茶室にある炉の前にすわり直した。そこにある低い天井も、簡素な壁も、静かな窓も、海の方から聞こえて来る濤の音も、すべてはこの山上の主人がたましいを落ち着けるためにあるかのように見える。
「なにしろ青山さんたちは、お二人ともまだ若いのがうらやましい。これからの時世はあなたがたを待っていますよ。」
七郎左衛門は手にした袱紗で夏目の蓋を掃き浄めながら言った。匂いこぼれるような青い挽茶の粉は茶碗に移された。湯と水とに対する親しみの力、貴賤貧富の外にあるむなしさ、渋さと甘さと濃さと淡さとを一つの茶碗に盛り入れて、泡も汁も一緒に溶け合ったような高い茶の香気をかいで見た時は、半蔵も寿平次もしばらくそこに旅の身を忘れていた。
母屋の方からは風呂の沸いたことを知らせに来る男があった。七郎左衛門は起ちがけに、その男と寿平次とを見比べながら、
「妻籠の青山さんはもうお忘れになったかもしれない。」
「へい、手前は主人のお供をいたしまして、木曾のお宅へ一晩泊めていただいたものでございますよ。」
その男は手をもみもみ言った。
夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山の崖の下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命の脈搏のように、間をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。
五
異国――アメリカをもロシヤをも含めた広い意味でのヨーロッパ――シナでもなく朝鮮でもなくインドでもない異国に対するこの国の人の最初の印象は、決して後世から想像するような好ましいものではなかった。
もし当時のいわゆる黒船、あるいは唐人船が、二本の白旗をこの国の海岸に残して置いて行くような人を乗せて来なかったなら。もしその黒船が力に訴えても開国を促そうとするような人でなしに、真に平和修好の使節を乗せて来たなら。古来この国に住むものは、そう異邦から渡って来た人たちを毛ぎらいする民族でもなかった。むしろそれらの人たちをよろこび迎えた早い歴史をさえ持っていた。シナ、インドは知らないこと、この日本の関するかぎり、もし真に相互の国際の義務を教えようとして渡来した人があったなら、よろこんでそれを学ぼうとしたに違いない。また、これほど深刻な国内の動揺と狼狽と混乱とを経験せずに済んだかもしれない。不幸にも、ヨーロッパ人は世界にわたっての土地征服者として、まずこの島国の人の目に映った。「人間の組織的な意志の壮大な権化、人間の合理的な利益のためにはいかなる原始的な自然の状態にあるものをも克服し尽くそうというごとき勇猛な目的を決定するもの」――それが黒船であったのだ。
当時この国には、紅毛という言葉があり、毛唐人という言葉があった。当時のそれは割合に軽い意味での毛色の変わった異国の人というほどにとどまる。一種のおかし味をまじえた言葉でさえある。黒船の載せた外国人があべこべにこの国の住民を想像して来たように、決してそれほど未開な野蛮人をば意味しなかった。
しかし、この国には嘉永年代よりずっと以前に、すでにヨーロッパ人が渡って来て、二百年も交易を続けていたことを忘れてはならない。この先着のヨーロッパ人の中にはポルトガル人もあったが、主としてオランダ人であった。彼らオランダ人は長崎蘭医の大家として尊敬されたシイボルトのような人ばかりではなかったのだ。彼らがこの国に来て交易からおさめた利得は、年額の小判十五万両ではきくまいという。諸種の毛織り物、羅紗、精巧な「びいどろ」、「ぎやまん」の器、その他の天産および人工に係る珍品をヨーロッパからもシャムからも東インド地方からも輸入して来て、この国の人に取り入るためにいかなる機会をも見のがさなかったのが彼らだ。自由な貿易商としてよりも役人の奴隷扱いに甘んじたのが彼らだ。港の遊女でも差し向ければ、異人はどうにでもなる、そういう考えを役人に抱かせたのも、また、その先例を開かせたのも彼らだ。
このオランダ人がまず日本を世界に吹聴した。事実、オランダ人はこの国に向かっても、ヨーロッパの紹介者であり、通訳者であり、ヨーロッパ人同志としての激しい競争者でもあった。アメリカのペリイが持参した国書にすら、一通の蘭訳を添えて来たくらいだ。この国の最初の外交談判もおもに蘭語によってなされた。すべてはこのとおりオランダというものを通してであって、直接にアメリカ人と会話を交えうるものはなかったのである。
この言葉の不通だ。まして東西道徳の標準の相違だ。どうして先方の話すこともよくわからないものが、アメリカ人、ロシヤ人、イギリス人とオランダ人とを区別し得られよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人の執った態度をかなぐり捨てようとは、どうして知ろう。全く対等の位置に立って、一国を代表する使節の威厳を損ずることなしに、重い使命を果たしに来たとは、どうして知ろう。この国のものは、ヨーロッパそのものを静かによく見うるようなまず最初の機会を失った。迫り来るものは、誠意のほども測りがたい全くの未知数であった。求めらるるものは幾世紀もかかって積み重ね積み重ねして来たこの国の文化ではなくて、この島に産する硫黄、樟脳、生糸、それから金銀の類なぞが、その最初の主なる目的物であったのだ。
十一月下旬のはじめには、半蔵らは二日ほど逗留した公郷村をも辞し、山上の家族にも別れを告げ、七郎左衛門から記念として贈られた古刀や光琳の軸なぞをそれぞれ旅の荷物に納めて、故郷の山へ向かおうとする人たちであった。おそらく今度の帰り途には、国を出て二度目に見る陰暦十五夜の月も照らそう。その旅の心は、熱い寂しい前途の思いと一緒になって、若い半蔵の胸にまじり合った。別れぎわに、七郎左衛門は街道から海の見えるところまで送って来て、下田の方の空を半蔵らにさして見せた。もはや異国の人は粗末な板画などで見るような、そんな遠いところにいる人たちばかりではなかった。相模灘をへだてた下田の港の方には、最初のアメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケンが相携えてすでに海から陸に上り、長泉寺を仮の領事館として、赤と青と白とで彩った星条の国旗を高くそこに掲げていたころである。
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