一
文久三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねてうわさのあった将軍家茂の上洛は、その声のさわがしいまっ最中に行なわれた。
二月十三日に将軍は江戸を出発した。時節柄、万事質素に、という触れ込みであったが、それでもその通行筋にあたる東海道では一時旅人の通行を禁止するほどの厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍家光の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活したものであり、当時の常識とも言うべき大義名分の声に聴いて幕府方においてもいささか鑑みるところのあった証拠であり、王室に対する過去の非礼を陳謝する意味のものでもあって、同時に公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝と将軍とはすでに義理ある御兄弟の間柄である。もしこれが一層王室と将軍家とを結びつけるなかだちとなり、政令二途に出るような危機を防ぎ止め、動揺する諸藩の人心をしずめることに役立つなら、上洛に要する莫大な費用も惜しむところではないと言って、関東方がこの旅に多くの望みをかけて行ったというに不思議はない。遠く寛永時代における徳川将軍の上洛と言えば、さかんな関東の勢いは一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ行幸せられたという。いよいよ将軍家参内のおりには、多くの公卿衆はお供の格で、いずれも装束着用で、先に立って案内役を勤めたものであったという。二百十余年の時はこの武将の位置を変えたばかりでなく、その周囲をも変えた。三条河原に残る示威のうわさに、志士浪人の徘徊に、決死の覚悟をもってする種々な建白に、王室回復の志を抱く公卿たちの策動に、洛中の風物がそれほど薄暗い空気に包まれていたことは、実際に京都の土を踏んで見た関東方の想像以上であったと言わるる。ちょうど水戸藩主も前後して入洛したが、将軍家の入洛はそれと比べものにならないほどのひそやかさで、道路に拝観するものもまれであった。そればかりではない。近臣のものは家茂の身を案じて、なんとかして将軍を護らねばならないと考えるほどの恐怖と疑心とにさえ駆られたという。将軍はまだ二十歳にも達しない、宮中にはいってはいかに思われても武士の随い行くべきところでない、それには鋭い懐剣を用意して置いて参内の時にひそかに差し上げようというのが近臣のものの計画であったという。さすがに家茂はそんなものを懐にする人ではなかった。それを見るとたちまち顔色を変えて、その剣を座上に投げ捨てた。その時の家茂の言葉に、朝廷を尊崇して参内する身に危害を加えようとするもののあるべき道理がない、もしこんな懐剣を隠し持つとしたら、それこそ朝廷を疑い奉るにもひとしい、はなはだもって無礼ではないかと。それにはかたわらに伺候していた老中板倉伊賀守も返す言葉がなくて、その懐剣をしりぞけてしまったという。その時、将軍はすでに朝服を着けていた。参内するばかりにしたくができた。麻※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)を着けた五十人あまりの侍衆がその先を払って、いずれも恐れ入った態度を取って、ひそやかに二条城を出たのは三月七日の朝のことだ。台徳公の面影のあると言わるる年若な将軍は、小御所の方でも粛然と威儀正しく静座せられたというが、すべてこれらのことは当時の容易ならぬ形勢を語っていた。
この将軍の上洛は、最初長州侯の建議にもとづくという。しかし京都にはこれを機会に、うんと関東方の膏を絞ろうという人たちが待っていた。もともと真木和泉らを急先鋒とする一派の志士が、天下変革の兆もあらわれたとし、王室の回復も遠くないとして、攘夷をもってひそかに討幕の手段とする運動を起こしたのは、すでに弘化安政のころからである。あの京都寺田屋の事変などはこの運動のあらわれであった。これは次第に王室回復の志を抱く公卿たちと結びつき、歴史的にも幕府と相いれない長州藩の支持を得るようになって、一層組織のあるものとなった。尊王攘夷は実にこの討幕運動の旗じるしだ。これは王室の衰微を嘆き幕府の専横を憤る烈しい反抗心から生まれたもので、その出発点においてまじりけのあったものではない。その計画としては攘夷と討幕との一致結合を謀り、攘夷の名によって幕府の破壊に突進しようとするものである。あの水戸藩士、藤田東湖、戸田蓬軒らの率先して唱え初めた尊王攘夷は、幾多の屈折を経て、とうとうこの実行運動にまで来た。
排外の声も高い。もとより開港の方針で進んで来た幕府当局でも、海岸の防備をおろそかにしていいとは考えなかったのである。参覲交代のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたというのも、その一面は諸大名の江戸出府に要する無益な費用を省いて、兵力を充実し、武備を完全にするためであった。いかんせん、徳川幕府としては諸藩を統一してヨーロッパよりする勢力に対抗しうるだけの信用をも実力をも持たなかった。それでも京都方を安心させるため、宮様御降嫁の当時から外夷の防禦を誓い、諸外国と取り結んだ条約を引き戻すか、無法な侵入者を征伐するか、いずれかを選んで叡慮を安んずるであろうとの言質が与えてある。この一時の気休めが京都方を満足させるはずもない。周囲の事情はもはやあいまいな態度を許さなかった。将軍の上洛に先だってその準備のために京都に滞在していた一橋慶喜ですら、三条実美、阿野公誠を正使とし、滋野井実在、正親町公董、姉小路公知を副使とする公卿たちから、将軍入洛以前にすでに攘夷期限を迫られていたほどの時である。今度の京都訪問を機会に、家茂の名によってこの容易ならぬ問題に確答を与えないかぎり、たとい帝御自身の年若な将軍に寄せらるる御同情があり、百方その間を周旋する慶喜の尽力があるにしても、将軍家としてはわずか十日ばかりの滞在の予定で京都を辞し去ることはできない状態にあった。
しかし、その年の二月から、遠く横浜の港の方には、十一隻から成るイギリス艦隊の碇泊していたことを見のがしてはならない。それらの艦隊がややもすれば自由行動をも執りかねまじき態度を示していたことを見のがしてはならない。それにはいわゆる生麦事件なるものを知る必要がある。
横浜開港以来、足掛け五年にもなる。排外を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさは幾回となく伝わったばかりでなく、江戸高輪東禅寺にある英国公使館は襲われ、外人に対する迫害沙汰も頻々として起こった。下田以来の最初の書記として米国公使館に在勤していたヒュウスケンなぞもその犠牲者の一人だ。彼は日米外交のそもそもからハリスと共にその局に当たった人で、日本の国情に対する理解も同情も深かったと言わるるが、江戸三田古川橋のほとりで殺害された。これらの外人を保護するため幕府方で外国御用の出役を設置し、三百余人の番衆の子弟をしてそれに当たらせるなぞのことがあればあるほど、多くの人の反感はますます高まるばかりであった。そこへ生麦事件だ。
生麦事件とは何か。これは意外に大きな外国関係のつまずきを引き起こした東海道筋での出来事である。時は前年八月二十一日、ところは川崎駅に近い生麦村、香港在留の英国商人リチャアドソン、同じ香港より来た商人の妻ボロオデル、横浜在留の英国商人マアシャル、およびクラアク、この四人のものが横浜から川崎方面に馬を駆って、おりから江戸より帰西の途にある薩摩の島津久光が一行に行きあった。勅使大原左衛門督に随行して来た島津氏の供衆も数多くあって帰りの途中も混雑するであろうから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずべき懸念もあるから、当日は神奈川辺の街道筋を出歩くなとは、かねて神奈川奉行から各国領事を通じて横浜居留の外国人へ通達してあったというが、その意味がよく徹底しなかったのであろう。馬上の英国人らは行列の中へ乗り入れようとしたのでもなかった。言語の不通よりか、習慣の相違よりか、薩摩のお手先衆から声がかかったのをよく解しなかったらしい。歩行の自由を有する道路を通るにさしつかえはあるまいというふうで、なおも下りの方へ行き過ぎようとしたから、たまらない。五、六百人の同勢に護られながら久光の駕籠も次第に近づいて来る時で、二人の武士の抜いた白刃がたちまち英国人らの腰の辺にひらめいた。それに驚いて、上りの方へ走るものがあり、馬を止めてまた走り去るものがあり、残り一人のリチャアドソンは松原というところで落馬して、その馬だけが走り去った。薩摩方の武士は落馬した異人の深手に苦しむのを見て、六人ほどでその異人の手を取り、畑中へ引き込んだという。傷つきのがれた三人のうち、あるものは左の肩を斬られ、あるものは頭部へ斬りつけられ、一番無事な婦人も帽子と髪の毛の一部を斬られながら居留地までたどり着いた。この変報と共に、イギリス、フランスの兵士、その他の外国人は現場に急行して、神奈川奉行支配取締りなどと立ち会いの上、リチャアドソンの死体を担架に載せて引き取った。翌日は横浜在留の外人はすべて業を休んだ。荘厳な行列によって葬儀が営まれた。そればかりでなく、外人は集会して強い態度を執ることを申し合わせた。神奈川奉行を通じて、凶行者の逮捕せられるまでは島津氏の西上を差し止められたいとの抗議を持ち出したが、薩摩の一行はそれを顧みないで西に帰ってしまった。
この事件の起こった前月には仏国公使館付きの二人の士官が横浜港崎町の辺で重傷を負わせられ、同じ年の十二月の夜には品川御殿山の方に幕府で建造中であった外国公使館の一区域も長州人士のために焼かれた。排外の勢いはほとんど停止するところを知らない。当時の英国代理公使ニイルは、この日本人の態度を改めさせなければならないとでも考えたものか、横浜在留外人の意見を代表し、断然たる決心をもって生麦事件の責任を問うために幕府に迫って来た。海軍少将クロパアの率いる十一隻からの艦隊が本国政府の指令のもとに横浜に到着したのは、その結果だ。
このことが将軍家茂滞在中の京都の方に聞こえた。イギリス側の抗議は強硬をきわめたもので、英国臣民が罪なしに殺害せられるような惨酷な所業に対し、日本政府がその当然の義務を怠るのみか、薩州侯をして下手人を出させることもできないのは、英国政府を侮辱するものであるとし、第一明らかにその罪を陳謝すべき事、償金十万ポンドを支払うべき事、もし満足な答えが得られないなら、英国水師提督は艦隊の威力によって目的を達するに必要な行動を執るであろうと言い、のみならず日本政府の力で薩摩の領分に下手人を捕えることもできないなら、英国は直接に薩州侯と交渉するであろう、それには艦隊を薩摩の港に差し向け、下手人を捕え、英国海軍士官の面前において斬首すべき事、被害者の親戚および負傷者の慰藉料として二万五千ポンドを支払うべき事をも付け添えて来た。この通牒の影響は大きかった。のみならず、諸藩の有志が評定のために参集していた学習院へ達した時は、イギリス側の申し出はいくらかゆがめられた形のものとなって諸有志の間に伝えられた。それは左の三か条について返答を承りたい、とあったという。
一、島津久光をイギリスに相渡し申さるべきや。
二、償銀として十万ポンド差し出さるべきや。
三、薩摩の国を征伐いたすべきや。
「関東の事情切迫につき、英艦防禦のため大樹(家茂のこと)帰府の儀、もっともの訳がらに候えども、京都ならびに近海の守備警衛は大樹において自ら指揮これあるべく候。かつ、攘夷決戦のおりから、君臣一和にこれなく候ては相叶わざるのところ、大樹関東へ帰府せられ、東西相離れ候ては、君臣の情意相通ぜず、自然隔離の姿に相成るべく、天下の形勢救うべからざるの場合にたちいたり申すべく候。当節、大樹帰城の儀、叡慮においても安んぜられず候間、滞京ありて、守衛の計略厚く相運らされ、宸襟を安んじ奉り候よう思し召され候。英艦応接の儀は浪華港へ相回し、拒絶談判これあるべく、万一兵端を開き候節は大樹自身出張、万事指揮これあり候わば、皇国の志気挽回の機会にこれあるべく思し召され候。関東防禦の儀は、しかるべき人体相選み申し付けられ候よう、御沙汰に候事。」これは小御所において関白から一橋慶喜に渡されたというものである。学習院に参集する有志はいずれもこれを写し伝えることができた。とりあえず幕府方は海岸の防備を厳重にすべきことを諸藩に通達し、イギリス側に向かっては返答の延期を求めた。打てば響くような京都の空気の中で、人々はいずれも伝奏からの触れ書を読み、所司代がお届けの結果を待った。あるものはイギリスの三か条がすでに拒絶せられたといい、あるものは仏国公使が調停に起ったといい、あるものは必ず先方より兵端を開くであろうと言った。諸説は紛々として、前途のほども測りがたかった。
四人の外人の死傷に端緒を発する生麦事件は、これほどの外交の危機に推し移った。多年の排外熱はついにこの結果を招いた。けれどもこのことは攘夷派の顧みるところとはならなかった。討幕へと急ぐ多くの志士は、むしろこの機会を見のがすまいとしたのである。当時、京都にあった松平春嶽は、公武合体の成功もおぼつかないと断念してか、事多く志と違うというふうで、政事総裁の職を辞して帰国したといい、急を聞いて上京した島津久光もかなり苦しい立場にあって、これも国もとの海岸防禦を名目に、わずか数日の滞在で帰ってしまったという。近衛忠熙は潜み、中川宮(青蓮院)も隠れた。
二
香蔵は美濃中津川の問屋に、半蔵は木曾馬籠の本陣に、二人は同じ木曾街道筋にいて、京都の様子を案じ暮らした。二人の友人で、平田篤胤没後の門人仲間なる景蔵は、当時京都の方にあって国事のために奔走していたが、その景蔵からは二人あてにした報告がよく届いた。いろいろなことがその中に報じてある。帝には御祈願のため、すでに加茂へ行幸せられ、そのおりは家茂および一橋慶喜以下の諸有司、それに在京の諸藩士が鳳輦に供奉したことが報じてあり、さらに石清水へも行幸の思し召しがあって、攘夷の首途として男山八幡の神前で将軍に節刀を賜わるであろうとのおうわさも報じてある。これらのことは、いずれも攘夷派の志士が建白にもとづくという。のみならず、場合によっては帝の御親征をすら望んでいる人たちのあることが報じてある。この京都便りを手にするたびに、香蔵にしても、半蔵にしても、いずれも容易ならぬ時に直面したことを感じた。
四月のはじめには、とうとう香蔵も景蔵のあとを追って、京都の方へ出かけて行った。三人の友だちの中で、半蔵一人だけが馬籠の本陣に残った。
「どうも心が騒いでしかたがない。」
半蔵はひとり言って見た。
その時になると、彼は中津川の問屋の仕事を家のものに任せて置いて京都の方へ出かけて行くことのできる香蔵の境涯をうらやましく思った。友だちが京都を見うるの日は、師と頼む平田鉄胤と行動を共にしうる日であろうかと思いやった。あの師の企図し、また企図しつつあるものこそ、まことの古代への復帰であろうと思いやった。おそらく国学者としての師は先師平田篤胤の遺志をついで、紛々としたほまれそしりのためにも惑わされず、諸藩の利害のためにも左右されず、よく大局を見て進まれるであろうとも思いやった。
父吉左衛門は、と見ると、病後の身をいたわりながら裏二階の梯子段を昇ったり降りたりする姿が半蔵の目に映る。馬籠の本陣庄屋問屋の三役を半蔵に譲ってからは、全く街道のことに口を出さないというのも、その人らしい。父が発病の当時には、口も言うことができない、足も起つことができない、手も動かすことができない。治療に手を尽くして、ようやく半身だけなおるにはなおった。父は日ごろ清潔好きで、自分で本陣の庭や宅地をよく掃除したが、病が起こってからは手が萎れて箒を執るにも不便であった。父は能筆で、お家流をよく書き、字体も婉麗なものであったが、病後は小さな字を書くこともできなかった。まるで七つか八つの子供の書くような字を書いた。この父の言葉に、おかげで自分も治療の効によって半身の自由を得た、幸いに食事も便事も人手をわずらわさないで済む、しかし箒と筆とこの二つを執ることの不自由なのは実に悲しいと。この嘆息を聞くたびに、半蔵は胸を刺される思いをして、あの友の香蔵のような思い切った行動は執れなかった。
八畳と三畳の二部屋から成る味噌納屋の二階が吉左衛門の隠居所にあててある。そこに父は好きな美濃派の俳書や蜷川流の将棋の本なぞをひろげ、それを朝夕の友として、わずかに病後をなぐさめている。中風患者の常として、とかくはかばかしい治療の方法がない。他目にももどかしいほど回復もおそかった。
「お民、おれは王滝まで出かけて行って来るぜ。あとのことは、清助さんにもよく頼んで置いて行く。」
と半蔵は妻に言って、父の病を祷るために御嶽神社への参籠を思い立った。王滝村とは御嶽山のすそにあたるところだ。木曾の総社の所在地だ。ちょうど街道も参覲交代制度変革のあとをうけ、江戸よりする諸大名が家族の通行も一段落を告げた。半蔵はそれを機会に、往復数日のわずかな閑を見つけて、医薬の神として知られた御嶽の神の前に自分を持って行こうとした。同時に、香蔵の京都行きから深く刺激された心を抱いて、激しい動揺の渦中へ飛び込んで行ったあの友だちとは反対に、しばらく寂しい奥山の方へ行こうとした。
王滝の方へ持って行って神前にささげるための長歌もできた。半蔵は三十一字の短い形の歌ばかりでなく、時おりは長歌をも作ったので、それを陳情祈祷の歌と題したものに試みたのである。
「いよいよ半蔵もお出かけかい。」
と言ってそばへ来るのは継母のおまんだ。おまんは裏の隠居所と母屋の間を往復して、吉左衛門の身のまわりのことから家事の世話まで、馬籠の本陣にはなくてならない人になっている。高遠藩の方に聞こえた坂本家から来た人だけに、相応な教養もあって、取って八つになる孫娘のお粂に古今集の中の歌なぞを諳誦させているのも、このおまんだ。
「お母さん、留守をお願いしますよ。」と半蔵は言った。「わたしもそんなに長くかからないつもりです。三日も参籠すればすぐに引き返して来ます。」
「まあ、思い立った時に出かけて行って来るがいい。お父さんも大層よろこんでおいでのようだよ。」
家にはこの継母があり、妻があり、吉左衛門の退役以来手伝いに通って来る清助がある。半蔵は往復七日ばかりの留守を家のものに頼んで置いて、王滝の方へ向かおうとした。下男の佐吉は今度も供をしたいと言い出したが、半蔵は佐吉も家に残して置いて、弟子の勝重だけを連れて行くことにした。勝重も少年期から青年期に移りかける年ごろになって来て、しきりに同行を求めるからで。
神前への供米、『静の岩屋』二冊、それに参籠用の清潔で白い衣裳なぞを用意するくらいにとどめて、半蔵は身軽にしたくした。勝重は、これも半蔵と一緒に行くことを楽しみにして、「さあ、これから山登りだ」という顔つきだ。
本陣の囲炉裏ばたでは、半蔵はじめ一同集まってこういう時の習慣のような茶を飲んだ。そこへ思いがけない客があった。
「半蔵さん、君はお出かけになるところですかい。」
と言って、勝手を知った囲炉裏ばたの入り口の方からはいって来た客は、他の人でもない、三年前に中津川を引き揚げて伊那の方へ移って行った旧い師匠だ。宮川寛斎だ。
寛斎はせっかく楽しみにして行った伊那の谷もおもしろくなく、そこにある平田門人仲間とも折り合わず、飯田の在に見つけた最後の「隠れ家」まであとに見捨てて、もう一度中津川をさして帰って行こうとする人である。かつては横浜貿易を共にした中津川の商人万屋安兵衛の依頼をうけ、二千四百両からの小判を預かり、馬荷一駄に宰領の付き添いで帰国したその同じ街道の一部を、多くの感慨をもって踏んで来た人である。以前の伊那行きには細君も同道であったが、その人の死をも見送り、今度はひとりで馬籠まで帰って来て見ると、旧いなじみの伏見屋金兵衛はすでに隠居し、半蔵の父も病後の身でいるありさまだ。そういう寛斎もめっきり年を取って来た。
「先生、そこはあまり端近です。まあお上がりください。」
と半蔵は言って、上がり端のところに腰掛けて話そうとする旧師を囲炉裏ばたに迎えた。寛斎は半蔵から王滝行きを思い立ったことを聞いて、あまり邪魔すまいと言ったが、さすがに長い無沙汰のあとで、いろいろ話が出る。
「いや、伊那の三年は大失敗。」と寛斎は頭をかきかき言った。「今だから白状しますが、横浜貿易のことが祟ったと見えて、どこへ行っても評判が悪い。これにはわたしも弱りましたよ。あの当時、君らに相談しなかったのは、わたしが悪かった。横浜の話はもう何もしてくださるな。」
「そう先生に言っていただくとありがたい。実は、わたしはこういう日の来るのを待っていました。」
「半蔵さん、君の前ですが、伊那へ行ってわたしは自分の持ってるものまで失っちまいましたよ。おまけに、医者ははやらず、手習い子供は来ずサ。まあ三年間の土産と言えば、古史伝の上木を手伝って来たくらいのものです。前島正弼、岩崎長世、北原稲雄、片桐春一、伊那にある平田先生の門人仲間はみんなあの仕事を熱心にやっていますよ。あの出板は大変な評判で、津和野藩あたりからも手紙が来るなんて、伊那の衆はえらい意気込みさ。そう言えば、暮田正香が京都から逃げて来る時に、君の家にもお世話になったそうですね。」
「そうでした。着流しに雪駄ばきで、吾家へお見えになった時は、わたしもびっくりしました。」
「あの先生も思い切ったことをやったもんさ。足利将軍の木像の首を引き抜くなんて。あの事件には師岡正胤なぞも関係していますから、同志を救い出せと言うんで、伊那からもわざわざ運動に京都まで出かけたものもありましたっけ。暮田正香も今じゃ日陰の身でさ。でも、あの先生のことだから、京都の同志と呼応して伊那で一旗あげるなんて、なかなか黙ってはいられない人なんですね。とにかく、わたしが出かけて行った時分と、今とじゃ、伊那も大違い。あの谷も騒がしい。」
寛斎は尻を持ち上げたかと思うとまた落ちつけ、煙草入れを腰に差したかと思うとまた取り出した。そこへお民も茶を勧めに来て、夫の方を見て、
「あなた、店座敷の方へ先生を御案内したら。お母さんもお目にかかりたいと言っていますに。」
「いや、そうしちゃいられません。」と寛斎は言った。「半蔵さんもお出かけになるところだ。わたしはこんなにお邪魔するつもりじゃなかった。きょうお寄りしたのはほかでもありませんが、実は無尽を思い立ちまして、上の伏見屋へも今寄って来ました。あの金兵衛さんにもお話しして来ました。半蔵さん、君にもぜひお骨折りを願いたい。」
「それはよろこんでいたしますよ。いずれ王滝から帰りました上で。」
「そうどころじゃない。あいにく香蔵も京都の方で、君にでもお骨折りを願うよりほかに相談相手がない。どうも男の年寄りというやつは具合の悪いもので、わたしも養子の厄介にはなりたくないと思うんです。これから中津川に落ちつくか、どうか、自分でも未定です。そうです、今ひと奮発です。ひょっとすると伊勢の国の方へ出かけることになるかもしれません。」
無尽加入のことを頼んで置いて、やがて寛斎は馬籠の本陣を辞して行った。あとには半蔵が上がり端のところに立って、客を見送りに出たお民や彼女が抱いて来た三番目の男の子の顔をながめたまま、しばらくそこに立ち尽くした。「気の毒な先生だ。数奇な生涯だ。」と半蔵は妻に言った。「国学というものに初めておれの目をあけてくれたのも、あの先生だ。あの年になって、奥さんに死に別れたことを考えてごらんな。」
「中津川の香蔵さんの姉さんが、お亡くなりになった奥さんなんですか。よほど年の違う姉弟と見えますね。」
「先生には娘さんがたった一人ある。この人がまた怜悧な人で、中津川でも才女と言われた評判な娘さんさ。そこへ養子に来たのが、今医者をしている宮川さんだ。」
「わたしはちっとも知らなかった。」
「でも、お民、世の中は妙なものじゃないか。あの宮川先生がおれたちを捨てて行ってしまうとは思われなかったよ。いずれは旧い弟子のところへもう一度帰って来てくださる日のあるだろうと思っていたよ。その日が来た。」
三
京都の方のことも心にかかりながら、半蔵は勝重を連れて、王滝をさして出かけた。その日は須原泊まりということにして、ちょうどその通り路にあたる隣宿妻籠本陣の寿平次が家へちょっと顔を出した。お民の兄であるからと言うばかりでなく、同じ街道筋の庄屋仲間として互いに心配を分けあうのも寿平次だ。
「半蔵さん、わたしも一緒にそこまで行こう。」
と言いながら、寿平次は草履をつッかけたまま半蔵らの歩いて行くあとを追って来た。
旧暦四月はじめの旅するによい季節を迎えて、上り下りの諸講中が通行も多い。伊勢へ、金毘羅へ、または善光寺へとこころざす参詣者の団体だ。奥筋へと入り込んで来る中津川の商人も見える。荷物をつけて行く馬の新しい腹掛け、赤革の馬具から、首振るたびに動く麻の蠅はらいまでが、なんとなくこの街道に活気を添える時だ。
寿平次は半蔵らと一緒に歩きながら言った。
「御嶽行きとは、それでも御苦労さまだ。山はまだ雪で、登れますまいに。」
「えゝ、三合目までもむずかしい。王滝まで行って、あそこの里で二、三日参籠して来ますよ。」
「馬籠のお父さんはまだそんなですかい。君も心配ですね。そう言えば、半蔵さん、江戸の方の様子は君もお聞きでしたろう。」
「こんなことになるんじゃないかと思って、わたしは心配していました。」
「それさ。イギリスの軍艦が来て江戸は大騒ぎだそうですね。来月の八日とかが返答の期限だと言うじゃありませんか。これは結局、償金を払わせられることになりましょうね。むやみと攘夷なんてことを煽り立てるものがあるから、こんな目にあう。そりゃ攘夷党だって、国を憂えるところから動いているには相違ないでしょうが、しかしわたしにはあのお仲間の気が知れない。いったい、外交の問題と国内の政事をこんなに混同してしまってもいいものでしょうかね。」
「さあねえ。」
「半蔵さん、これでわたしが庄屋の家に生まれなかったら、今ごろは京都の方へでも飛んで行って、鎖港攘夷だなんて押し歩いているかもしれませんよ。街道がどうなろうと、みんながどう難儀をしようと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、もともと何も心配することはなかったんです。」
妻籠の宿はずれのところまでついて来た寿平次とも別れて、さらに半蔵らは奥筋へと街道を進んだ。翌日は早く須原をたち、道を急いで、昼ごろには桟まで行った。雪解の水をあつめた木曾川は、渦を巻いて、無数の岩石の間に流れて来ている。休むにいい茶屋もある。鶯も鳴く。王滝口への山道はその対岸にあった。御嶽登山をこころざすものはその道を取っても、越立、下条、黒田なぞの山村を経て、常磐の渡しの付近に達することができた。
間もなく半蔵らは街道を離れて、山間に深い林をつくる谷に分け入った。檜、欅にまじる雑木も芽吹きの時で、さわやかな緑が行く先によみがえっていた。王滝川はこの谷間を流れる木曾川の支流である。登り一里という沢渡峠まで行くと、遙拝所がその上にあって、麻利支天から奥の院までの御嶽全山が遠く高く容をあらわしていた。
「勝重さん、御嶽だよ。山はまだ雪だね。」
と半蔵は連れの少年に言って見せた。層々相重なる幾つかの三角形から成り立つような山々は、それぞれの角度をもって、剣ヶ峰を絶頂とする一大巌頭にまで盛り上がっている。隠れたところにあるその孤立。その静寂。人はそこに、常なく定めなき流転の力に対抗する偉大な山嶽の相貌を仰ぎ見ることができる。覚明行者のような早い登山者が自ら骨を埋めたと言い伝えらるるのもその頂上にある谿谷のほとりだ。
「お師匠さま、早く行きましょう。」
と言い出すのは勝重ばかりでなかった。そう言われる半蔵も、自然のおごそかさに打たれて、長くはそこに立っていられなかった。早く王滝の方へ急ぎたかった。
御嶽山のふもとにあたる傾斜の地勢に倚り、王滝川に臨み、里宮の神職と行者の宿とを兼ねたような禰宜の古い家が、この半蔵らを待っていた。川には橋もない。山から伐って来た材木を並べ、筏に組んで、村の人たちや登山者の通行に備えてある。半蔵は三沢というところでその渡しを渡って、日の暮れるころに禰宜の宮下の家に着いた。
「皆さんは馬籠の方から。それはよくお出かけくださいました。馬籠の御本陣ということはわたしもよく聞いております。」
と言って半蔵を迎えるのは宮下の主人だ。この禰宜は言葉をついで、
「いかがです。お宅の方じゃもう花もおそいでしょうか。」
「さあ、山桜が三分ぐらいは残っていましたよ。」と半蔵が答える。
「それですもの。同じ木曾でも陽気は違いますね。南の方の花の便りを聞きましてから、この王滝辺のものが花を見るまでには、一月もかかりますよ。」
「ね、お師匠さま。わたしたちの来る途中には、紫色の山つつじがたくさん咲いていましたっけね。」
と勝重も言葉を添えて、若々しい目つきをしながら周囲を見回した。
半蔵らは夕日の満ちた深い谷を望むことのできるような部屋に来ていた。障子の外へは川鶺鴒も来る。部屋の床の間には御嶽山蔵王大権現と筆太に書いた軸が掛けてあり、壁の上には注連繩なぞも飾ってある。
「勝重さん、来てごらん、これが両部神道というものだよ。」
と半蔵は言って、二人してその掛け物の前に立った。全く神仏を混淆してしまったような床の間の飾り付けが、まず半蔵をまごつかせた。
しかし、気の置けない宿だ。ここにはくたぶれて来た旅人や参詣者なぞを親切にもてなす家族が住む。当主の禰宜で十七、八代にもなるような古い家族の住むところでもある。髯の白いお爺さん、そのまたお婆さん、幾人の古い人たちがこの屋根の下に生きながらえているとも知れない。主人の宮下はちょいちょい半蔵を見に来て、風呂も山家での馳走の一つと言って勧めてくれる。七月下旬の山開きの日を待たなければ講中も入り込んで来ない、今は谷もさびしい、それでも正月十五日より二月十五日に至る大寒の季節をしのいでの寒詣でに続いて、ぽつぽつ祈願をこめに来る参詣者が絶えない、と言って見せるのも主人だ。行者や中座に引率されて来る諸国の講中が、吹き立てる法螺の貝の音と共に、この谷間に活気をそそぎ入れる夏季の光景は見せたいようだ、と言って見せるのもまた主人だ。
夕飯後に、主人はまた半蔵を見に来て言った。
「それじゃ、御参籠はあすからとなさいますか。ここに来ている間、塩断ちをなさるかたがあり、五穀をお断ちになるかたがあり、精進潔斎もいろいろです。火の気を一切おつかいにならないで、水でといた蕎麦粉に、果実ぐらいで済ませ、木食の行をなさるかたもあります。まあ、三度の食は一度ぐらいになすって、なるべく六根を清浄にして、雑念を防ぎさえすれば、それでいいわけですね。」
ようやく。そうだ、ようやく半蔵は騒ぎやすい心をおちつけるにいいような山里の中の山里とも言うべきところに身を置くことができた。王滝はことに夜の感じが深い。暗い谷底の方に燈火のもれる民家、川の流れを中心にわき立つ夜の靄、すべてがひっそりとしていた。旧暦四月のおぼろ月のあるころに、この静かな森林地帯へやって来たことも、半蔵をよろこばせた。
半蔵が連れて来た勝重は、美濃落合の稲葉屋から内弟子として預かってからもはや三年になる。短い袴に、前髪をとって、せっせと本を読んでいた勝重も、いつのまにか浅黄色の襦袢の襟のよく似合うような若衆姿になって来た。彼は綿密な性質で、服装なぞにあまりかまわない方の勉強家であるが、持って生まれた美しさは宿の人の目をひいた。かわるがわるこの少年をのぞきに来る若い娘たちのけはいはしても、そればかりは半蔵もどうすることもできなかった。
「勝重さん、君は、くたぶれたら横にでもなるさ。」
「お師匠さま、勝手にやりますよ。どうもお師匠さまの足の速いには、わたしも驚きましたよ。須原から王滝まで、きょうの山道はかなり歩きでがありました。」
間もなく勝重は高いびきだ。半蔵はひとり行燈の灯を見つめて、長いこと机の前にすわっていた。大判の薄藍色の表紙から、古代紫の糸で綴じてある装幀まで、彼が好ましく思う意匠の本がその机の上にひろげてある。それは門人らの筆記になる平田篤胤の講本だ。王滝の宿であけて見たいと思って、馬籠を出る時に風呂敷包みの中に入れて来た上下二冊の『静の岩屋』だ。
さびしく聞こえて来る夜の河の音は、この半蔵の心を日ごろ精神の支柱と頼む先師平田大人の方へと誘った。もしあの先師が、この潮流の急な文久三年度に生きるとしたら、どう時代の暗礁を乗り切って行かれるだろうかと思いやった。
攘夷――戦争をもあえて辞しないようなあの殺気を帯びた声はどうだ。半蔵はこのひっそりとした深山幽谷の間へ来て、敬慕する故人の前にひとりの自分を持って行った時に、馬籠の街道であくせくと奔走する時にもまして、一層はっきりとその声を耳の底に聞いた。景蔵、香蔵の親しい友人を二人までも京都の方に見送った彼は、じっとしてはいられなかった。熱する頭をしずめ、逸る心を抑えて、平田門人としての立場に思いを潜めねばならなかった。その時になると、同じ勤王に志すとは言っても、その中には二つの大きな潮流のあることが彼に見えて来た。水戸の志士藤田東湖らから流れて来たものと、本居平田諸大人に源を発するものと。この二つは元来同じものではない。名高い弘道館の碑文にもあるように、神州の道を敬い同時に儒者の教えをも崇めるのが水戸の傾向であって、国学者から見れば多分に漢意のまじったものである。その傾向を押し進め、国家無窮の恩に報いることを念とし、楠公父子ですら果たそうとして果たし得なかった武将の夢を実現しようとしているものが、今の攘夷を旗じるしにする討幕運動である。もとより攘夷は非常手段である。そんな非常手段に訴えても、真木和泉らの志士が起こした一派の運動は行くところまで行かずに置かないような勢いを示して来た。
この国ははたしてどうなるだろう。明日は。明後日は。そこまで考え続けて行くと、半蔵は本居大人がのこした教えを一層尊いものに思った。同時代に満足しなかったところから、過去に探求の目を向けた先人はもとより多い。その中でも、最も遠い古代に着眼した宣長のような国学者が、最も新しい道を発見して、その方向をあとから歩いて出て行くものにさし示してくれたことをありがたく思った。
「勝重さん、風引くといけないよ。床にはいって、ほんとうにお休み。」
半蔵は行燈のかげにうたた寝している少年を起こして、床につかせ、それからさらに『静の岩屋』を繰って見た。この先師ののこした著述は、だれにでもわかるように、また、ひろく読まれるように、その用意からごく平易な言葉で門人に話しかけた講本の一つである。その中に、半蔵は異国について語る平田大人を見た。先師は天保十四年に没した故人のことで、もとより嘉永六年の夏に相州浦賀に着いたアメリカ船の騒ぎを知らず、まして十一隻からのイギリス艦隊が横浜に入港するまでの社会の動揺を知りようもない。しかし平田大人のような人の目に映るヨーロッパから、その見方、その考え方を教えられることは半蔵にとって実にうれしくめずらしかった。
『静の岩屋』にいわく、
「さて又、近ごろ西の極なるオランダといふ国よりして、一種の学風おこりて、今の世に蘭学と称するもの、則ちそれでござる。元来その国柄と見えて、物の理を考へ究むること甚だ賢く、仍ては発明の説も少なからず。天文地理の学は言ふに及ばず、器械の巧みなること人の目を驚かし、医薬製煉の道殊にくはしく、その書どももつぎつぎと渡り来りて世に弘まりそめたるは、即ち神の御心であらうでござる。然るに、その渡り来る薬品どもの中には効能の勝れたるもあり、又は製煉を尽して至つて猛烈なる類もありて、良医これを用ひて病症に応ずればいちじるき効験をあらはすもあれど、もとその薬性を知らず、又はその薬性を知りてもその用ふべきところを知らず、もしその病症に応ぜざれば大害を生じて、忽ち人命をうしなふに至る。これは、譬へば、猿に利刀を持たせ、馬鹿に鉄砲を放たしむるやうなもので、まことに危いことの甚しいでござる。さて、その究理のくはしきは、悪しきことにはあらざれども、彼の紅夷ら、世には真の神あるを知らず。人の智は限りあるを、限りなき万づの物の理を考へ究めんとするにつけては、強ひたる説多く、元よりさかしらなる国風なる故に、現在の小理にかかはつて、かへつて幽神の大義を悟らず。それゆへにその説至つて究屈にして、我が古道の妨げとなることも多いでござる。さりながら、世間の有様を考ふるに、今は物ごと新奇を好む風俗なれば、この学風も儒仏の道の栄えたるごとく、だんだんと弘まり行くことであらうと思はれる。しからんには、世のため、人のためとも成るべきことも多からうなれども、又、害となることも少なかるまいと思はれるでござる。是こそは彼の吉事に是の凶事のいつぐべき世の中の道なるをもつて、さやうには推し量り知られることでござる。そもそもかく外国々より万づの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象ことごとく皇国に御引寄せあそばさるる趣きを能く考へ弁へて、外国より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏きことなれども、是すなはち大神等の御心掟と思ひ奉られるでござる。」
半蔵は深いため息をついた。それは、自分の浅学と固陋とばか正直とを嘆息する声だ。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎のように憎みきらった人のように普通に思われているが、『静の岩屋』なぞをあけて見ると、近くは朝鮮、シナ、インド、遠くはオランダまで、外国の事物が日本に集まって来るのは、すなわち神の心であるというような、こんな広い見方がしてある。先師は異国の借り物をかなぐり捨てて本然の日本に帰れと教える人ではあっても、むやみにそれを排斥せよとは教えてない。
この『静の岩屋』の中には、「夷」という古言まで引き合いに出して、その言葉の意味が平常目に慣れ耳に触れるとは異なった事物をさしていうに過ぎないことも教えてある。たとえば、ありゃこりゃに人の前にすえた膳は「えびす膳」、四角であるべきところを四角でなく裁ち合わせた紙は「えびす紙」、元来外用の薬種とされた芍薬が内服しても病のなおるというところから「えびす薬」(芍薬の和名)というふうに。黒くてあるべき髪の毛が紅く、黒くてあるべき瞳が青ければこそ、その人は「えびす」である、とも教えてある。
半蔵はひとり言って見た。
「師匠はやっぱり大きい。」
半蔵の心に描く平田篤胤とは、あの本居宣長を想い見るたびに想像せらるるような美丈夫という側の人ではなかった。彼はある人の所蔵にかかる先師の画像というものを見たことがある。広い角額、大きな耳、遠いところを見ているような目、彼がその画像から受けた感じは割合に面長で、やせぎすな、どこか角張ったところのある容貌の人だ。四十台か、せいぜい五十に手の届く年ごろの面影と見えて、まだ黒々とした髪も男のさかりらしく、それを天保時代の風俗のような髻に束ねてあった。それは見台をわきにした座像で、三蓋菱の羽織の紋や、簡素な線があらわした着物の襞※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)にも特色があったが、ことに、その左の手を寛いだ形に置き、右の手で白扇をついた膝こそは先師のものだ、と思って、心をとめて見た覚えがある。見台の上に、先師畢生の大きな著述とも言うべき『古史伝』稿本の一つが描いてあったことも、半蔵には忘れられなかった。あだかも、先師はあの画像から膝を乗り出して、彼の前にいて、「一切は神の心であろうでござる」とでも言っているように彼には思われて来た。
四
いよいよ参籠の朝も近いと思うと、半蔵はよく眠られなかった。夜の明け方には、勝重のそばで目をさました。山の端に月のあるのを幸いに、水垢離を執って来て、からだを浄め終わると、温かくすがすがしい。着物も白、袴も白の行衣に着かえただけでも、なんとなく彼は厳粛な心を起こした。
まだあたりは薄暗い。早く山を発つ二、三の人もある。遠い国からでも祈願をこめに来た参詣者かと見えて、月を踏んで帰途につこうとしている人たちらしい。旅の笠、金剛杖、白い着物に白い風呂敷包みが、その薄暗い空気の中で半蔵の目の前に動いた。
「どうも、お粗末さまでございました。」
と言って見送る宿の人の声もする。
その明け方、半蔵は朝勤めする禰宜について、里宮のあるところまで数町ほどの山道を歩いた。社殿にはすでに数日もこもり暮らしたような二、三の参籠者が夜の明けるのを待っていて、禰宜の打つ大太鼓が付近の山林に響き渡るのをきいていた。その時、半蔵は払暁の参拝だけを済まして置いて、参籠のしたくやら勝重を見ることやらにいったん宿の方へ引き返した。
「お師匠さま。」
そう言って声をかける勝重は、着物も白に改めて、半蔵が山から降りて来るのを待っていた。
「勝重さん、君に相談がある。馬籠を出る時にわたしは清助さんに止められた。君のような若い人を一緒に参籠に連れて行かれますかッて。それでも君は来たいと言うんだから。見たまえ、ここの禰宜さまだって、すこし無理でしょうッて、そう言っていますぜ。」
「どうしてですか。」
「どうしてッて、君、お宮の方へ行けば祈祷だけしかないよ。そのほかは一切沈黙だよ。寒さ饑じさに耐える行者の行くところだよ。それでも、君、わたしにはここへ来て果たしたいと思うことがある。君とわたしとは違うサ。」
「そんなら、お師匠さま、あなたはお父さんのためにお祷りなさるがいいし、わたしはお師匠さまのために祷りましょう。」
「弱った。そういうことなら、君の自由に任せる。まあ、眠りたいと思う時はこの禰宜さまの家へ帰って寝てくれたまえ。ここにはお山の法則があって、なかなか里の方で思ったようなものじゃない。いいかい、君、無理をしないでくれたまえよ。」
勝重はうなずいた。
神前へのお初穂、供米、その他、着がえの清潔な行衣なぞを持って、半蔵は勝重と一緒に里宮の方へ歩いた。
梅の咲く禰宜の家から社殿までの間は坂になった細道で、王滝口よりする御嶽参道に続いている。その細道を踏んで行くだけでも、ひとりでに参詣者の心の澄むようなところだ。山中の朝は、空に浮かぶ雲の色までだんだん白く光って来て、すがすがしい。坂道を登るにつれて、霞み渡った大きな谷間が二人の目の下にあるようになった。
「お師匠さま、雉子が鳴いていますよ。」
「あの覚明行者や普寛行者なぞが登ったころには、どんなだったろうね。わたしはあの行者たちが最初の登山をした人たちかとばかり思っていた。ここの禰宜さまの話で見ると、そうじゃないんだね。講中というものを組織して、この山へ導いて来たのがあの人たちなんだね。」
二人は話し話し登った。新しい石の大鳥居で、その前年(文久二年)に尾州公から寄進になったというものの前まで行くと、半蔵らは向こうの山道から降りて来る一人の修行者にもあった。珠数を首にかけ、手に杖をつき見るからに荒々しい姿だ。肉体を苦しめられるだけ苦しめているような人の相貌だ。どこの岩窟の間から出て来たか、雪のある山腹の方からでも降りて来たかというふうで、山にはこんな人が生きているのかということが、半蔵を驚かした。
間もなく半蔵らは、十六階もしくは二十階ずつから成る二町ほどの長い石段にかかった。見上げるように高い岩壁を背後にして、里宮の社殿がその上に建てられてある。黒々とした残雪の見られる谷間の傾斜と、小暗い杉や檜の木立ちとにとりまかれたその一区域こそ、半蔵が父の病を祷るためにやって来たところだ。先師の遺著の題目そのままともいうべきところだ。文字どおりの「静の岩屋」だ。
とうとう、半蔵は本殿の奥の霊廟の前にひざまずき、かねて用意して来た自作の陳情祈祷の歌をささげることができた。他の無言な参籠者の間に身を置いて、社殿の片すみに、そこに置いてある円く簡素な※蒲団[#「くさかんむり/稾」、336-11]の上にすわることもできた。
あたりは静かだ。社殿の外にある高い岩の間から落ちる清水の音よりほかに耳に入るものもない。ちょうど半蔵がすわったところからよく見える壁の上には、二つの大きな天狗の面が額にして掛けてある。その周囲には、嘉永年代から、あるいはもっとずっと古くからの講社や信徒の名を連ねた種々な額が奉納してあって、中にはこの社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村蘇門の寄進にかかる記念の額なぞの宗教的な気分を濃厚ならしめるのもあるが、ことにその二つの天狗の面が半蔵の注意をひいた。耳のあたりまで裂けて牙歯のある口は獣のものに近く、隆い鼻は鳥のものに近く、黄金の色に光った目は神のものに近い。高山の間に住む剛健な獣の野性と、翼を持つ鳥の自由と、深秘を体得した神人の霊性とを兼ねそなえたようなのがその天狗だ。製作者はまたその面に男女両性を与え、山嶽的な風貌をも付け添えてある。たとえば、杉の葉の長くたれ下がったような粗い髪、延び放題に延びた草のような髯。あだかも暗い中世はそんなところにも残って、半蔵の目の前に光っているかのように見える。
いつのまにか彼の心はその額の方へ行った。ここは全く金胎両部の霊場である。山嶽を道場とする「行の世界」である。神と仏とのまじり合った深秘な異教の支配するところである。中世以来の人の心をとらえたものは、こんな両部を教えとして発達して来ている。父の病を祷りに来た彼は、現世に超越した異教の神よりも、もっと人格のある大己貴、少彦名の二神の方へ自分を持って行きたかった。
白膠木の皮の燃える香気と共に、護摩の儀式が、やがてこの霊場を荘厳にした。本殿の奥の厨子の中には、大日如来の仏像でも安置してあると見えて、参籠者はかわるがわる行ってその前にひざまずいたり、珠数をつまぐる音をさせたりした。御簾のかげでは心経も読まれた。
「これが神の住居か。」
と半蔵は考えた。
彼が目に触れ耳にきくものの多くは、父のために祷ることを妨げさせた。彼の心は和宮様御降嫁のころに福島の役所から問い合わせのあった神葬祭の一条の方へ行ったり、国学者仲間にやかましい敬神の問題の方へ行ったりした。もっとも、多くの門弟を引きつれて来て峻嶮を平らげ、山道を拓き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた覚明、普寛、一心、一山なぞの行者らの気魄と努力とには、彼とても頭が下がったが。
終日静座。
いつのまにか半蔵の心は、しばらく離れるつもりで来た馬籠の宿場の方へも行った。高札場がある。二軒の問屋場がある。伏見屋の伊之助、問屋の九郎兵衛、その他の宿役人の顔も見える。街道の継立ても困難になって来た。現に彼が馬籠を離れて来る前に、仙台侯が京都の方面から下って来た通行の場合がそれだ。あの時の仙台の同勢は中津川泊まりで、中通しの人足二百八十人、馬百八十疋という触れ込みだった。継立ての混雑、請け負いのものの心配なぞは言葉にも尽くせなかった。八つ時過ぎまで四、五十駄の継立てもなく、人足や牛でようやくそれを付け送ったことがある。
こんなことを思い浮かべると、街道における輸送の困難も、仙台侯の帰東も、なんとなく切迫して来た関東や京都の事情と関係のないものはない。時ならぬ鐘の音が馬籠の万福寺からあの街道へがんがん聞こえて来ている。この際、人心を善導し、天下の泰平を祷り、あわせて上洛中の将軍のためにもその無事を祈れとの意味で、公儀から沙汰のあった大般若の荘厳な儀式があの万福寺で催されているのだ。手兼村の松源寺、妻籠の光徳寺、湯舟沢の天徳寺、三留野の等覚寺、そのほか山口村や田立村の寺々まで、都合六か寺の住職が大般若に集まって来ているのだ。
物々しいこの空気を思い出しているうちに、半蔵の胸には一つの悲劇が浮かんで来た。峠村の牛行司で利三郎と言えば、彼には忘れられない男の名だ。かつて牛方事件の張本人として、中津川の旧問屋角屋十兵衛を相手に血戦を開いたことのある男だ。それほど腰骨の強い、黙って下の方に働いているような男が、街道に横行する雲助仲間と衝突したのは、彼として決して偶然な出来事とも思われなかった。ちょうど利三郎は、尾州の用材を牛につけて、清水谷下というところにかかった時であったという。三人の雲助がそこへ現われて、竹の杖で利三郎を打擲した。二、三か所も打たれた天窓の大疵からは血が流れ出て、さすがの牛行司も半死半生の目にあわされた。村のものは急を聞いて現場へ駆けつけた。この事が宿方へも注進のあった時は、二人の宿役人が目証の弥平を連れて見届けに出かけたが、不幸な利三郎はもはや起てない人であろうという。一事が万事だ。すべてこれらのことは、参覲交代制度の変革以来に起こって来た現象だ。
「憐むべき街道の犠牲。」
と半蔵は考えつづけた。上は浪人から、下は雲助まで、世襲過重の時代が生んだ特殊な風俗と形態とが目につくだけでも、なんとなく彼は社会変革の思いを誘われた。庄屋としての彼は、いろいろな意味から、下層にあるものを護らねばならなかった……
ふとわれに返ると、静かな読経の声が半蔵の耳にはいった。にわかに明るい日の光は、屋外にある杉の木立ちを通して、社殿に満ちて来た。彼は、単純な信仰に一切を忘れているような他の参籠者を目の前にながめながら、雑念の多い自己の身を恥じた。その夕方には、禰宜が彼のそばへ来て、塩握飯を一つ置いて行った。
四日目には半蔵はどうやら心願を果たし、神前に終わりの祷りをささげる人であった。たとい自己の寿命を一年縮めてもそれを父の健康に代えたい、一年で足りなくば二年三年たりともいとわないというふうに。
社殿を出るころは、雨が山へ来ていた。勝重は傘を持って、禰宜の家の方から半蔵を迎えに来た。乾燥した草木をうるおす雨は、参籠後の半蔵を活き返るようにさせた。
「勝重さん、君はどうしました。」
社殿の外にある高い岩壁の下で、半蔵がそれを言い出した。彼も三日続いた沈黙をその時に破る思いだ。
「お師匠さま、お疲れですか。わたしは一日だけお籠りして、あとはちょいちょいお師匠さまを見に来ました。きのうはこのお宮のまわりをひとりで歩き回りました。いろいろなめずらしい草を集めましたよ――じじばば(春蘭)だの、しょうじょうばかまだの、姫龍胆だの。」
「やっぱり君と一緒に来てよかった。ひとりでいる時でも、君が来ていると思うと、安心してすわっていられた。」
二人が帰って行く道は、その路傍に石燈籠や石造の高麗犬なぞの見いださるるところだ。三面六臂を有し猪の上に踊る三宝荒神のように、まぎれもなく異国伝来の系統を示す神の祠もある。十二権現とか、神山霊神とか、あるいは金剛道神とかの石碑は、不動尊の銅像や三十三度供養塔なぞにまじって、両部の信仰のいかなるものであるかを語っている。あるものは飛騨、あるものは武州、あるものは上州、越後の講中の名がそれらの石碑や祠に記しつけてある。ここは名のみの木曾の総社であって、その実、御嶽大権現である。これが二柱の神の住居かと考えながら歩いて行く半蔵は、行く先でまごついた。
禰宜の家の近くまで山道を降りたところで、半蔵は山家風なかるさん姿の男にあった。傘をさして、そこまで迎えに来た禰宜の子息だ。その辺には蓑笠で雨をいとわず往来する村の人たちもある。重い物を背負い慣れて、山坂の多いところに平気で働くのは、木曾山中いたるところに見る図だ。
「オヤ、お帰りでございますか。さぞお疲れでございましょう。」
禰宜の細君は半蔵を見て声をかけた。山登りの多くの人を扱い慣れていて、いろいろ彼をいたわってくれるのもこの細君だ。
「御参籠のあとでは、皆さまが食べ物に気をつけますよ。こんな山家で何もございませんけれど、芹粥を造って置きました。落とし味噌にして焚いて見ました。これが一番さっぱりしてよいかと思いますが、召し上がって見てください。」
こんなことを言って、芹の香のする粥なぞを勧めてくれるのもこの細君だ。
温暖い雨はしとしと降り続いていた。その一日はせめて王滝に逗留せよ、風呂にでもはいってからだを休めて行けという禰宜の言葉も、半蔵にはうれしかった。
「へい。床屋でございます。御用はこちらでございますか。」
宿の人に呼んでもらった村の髪結いが油じみた台箱をさげながら半蔵の部屋にはいって来た。ぐっすり半日ほど眠ったあとで、半蔵は参籠に乱れた髪を結い直してもらった。元結に締められた頭には力が出た。気もはっきりして来た。そばにいる勝重を相手に、いろいろ将来の身の上の話なぞまで出るのも、こうした静かな禰宜の家なればこそだ。
「勝重さん、君もそう長くわたしのそばにはいられまいね。来年あたりは落合の方へ帰らにゃなるまいね。きっと家の方では、君の縁談が待っていましょう。」
「わたしはもっと勉強したいと思います。そんな話がありましたけれど、まだ早いからと言って断わりました。」
勝重はそれを言うにも顔を紅らめる年ごろだ。そこへ禰宜が半蔵を見に来た。禰宜は半蔵のことを「青山さん」と呼ぶほどの親しみを見せるようになった。里宮参籠記念のお札、それに神饌の白米なぞを用意して来て、それを部屋の床の間に置いた。
「これは馬籠へお持ち帰りを願います。」と禰宜は言った。「それから一つお願いがあります。あの御神前へおあげになった歌は、結構に拝見しました。こんな辺鄙なところで、ろくな短冊もありませんが、何かわたしの家へも記念に残して置いていただきたい。」
禰宜はその時、手をたたいて家のものを呼んだ。自分の子息をその部屋に連れて来させた。
「青山さん、これは八つになります。おそ生まれの八つですが、手習いなぞの好きな子です。ごらんのとおりな山の中で、よいお師匠さまも見当たらないでいます。どうかこれを御縁故に、ちょくちょく王滝へもお出かけを願いたい。この子にも、本でも教えてやっていただきたい。」
禰宜はこの調子だ。さらに言葉をついで、
「福島からここまでは五里と申しておりますが、正味四里半しかありません。青山さんは福島へはよく御出張でしょう。あの行人橋から御嶽山道について常磐の渡しまでお歩きになれば、今度お越しになったと同じ道に落ち合います。この次ぎはぜひ、福島の方からお回りください。」
「えゝ。王滝は気に入りました。こんな仙郷が木曾にあるかと思うようです。またおりを見てお邪魔にあがりますよ。わたしもこれでいそがしいからだですし、御承知の世の中ですから、この次ぎやって来られるのはいつのことですか。まあ、王滝川の音をよく聞いて行くんですね。」
半蔵はそばにいる勝重に墨を磨らせた。禰宜から求めらるるままに、自作の歌の一つを短冊に書きつけた。
梅の花匂はざりせば降る雨にぬるる旅路は行きがてましを半蔵
そろそろ半蔵には馬籠の家の方のことが気にかかって来た。一月からして陽気の遅れた王滝とも違い、彼が御嶽の話を持って父吉左衛門をよろこばしうる日は、あの木曾路の西の端はもはや若葉の世界であろうかと思いやった。将軍上洛中の京都へと飛び込んで行った友人香蔵からの便りは、どんな報告をもたらして、そこに自分を待つだろうかとも思いやった。万事不安のうちに、むなしく春の行くことも惜しまれた。
「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」
と彼は思い直した。水垢離と、極度の節食と、時には滝にまで打たれに行った山籠りの新しい経験をもって、もう一度彼は馬籠の駅長としての勤めに当たろうとした。
御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの辺鄙な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。眼前に潰えて行く旧くからの制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人ですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。中世以来の異国の殻もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心を畏れた。