彼岸過迄 (作者:夏目漱石) - 停留所 | 多賀城[たがのき] - 小説投稿サイト

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停留所

作者:管理人



 敬太郎けいたろう須永すながという友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌だいきらいで、法律をおさめながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義たいえいしゅぎの男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、さみしいような、またゆかしいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまでのぼった上、元来が貨殖かしょくの道に明らかな人であっただけ、今では母子共おやことも衣食の上に不安のうれいを知らない好い身分である。彼の退嬰主義もなかばはこの安泰な境遇にれて、奮闘の刺戟しげきを失った結果とも見られる。というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には世間体せけんていの好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう贅沢ぜいたくばかり云ってちゃもったいない。いやなら僕に譲るがいい」と敬太郎は冗談じょうだん半分に須永を強請せびることもあった。すると須永はさびしそうなまた気の毒そうな微笑をらして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。おれはおれでどうかするという気概も起して見た。けれども根が執念深しゅうねんぶかくない性質たちだから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景をたない彼は、朝から晩まで下宿のにじっと坐っている苦痛にえなかった。用がなくっても半日は是非出てるいた。そうしてよく須永のうち訪問おとずれた。一つはいつ行っても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
糊口くちも糊口だが[#「糊口だが」は底本では「口糊だが」]、糊口より先に、何か驚嘆にあたいする事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒すりにさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛そくばくだね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地いちはどうでもいいから思う存分勝手な真似まねをして構わないかというと、やっぱり構うからね。いやに人を束縛するよ教育が」と忌々いまいましそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に真面目まじめなのだか、またはただ空焦燥からはしゃぎに焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言いつのるので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
 敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へもぐる社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議をつかんだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただひとの暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露ばくろにあるのだから、あらかじめ人をおとしいれようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者いな人間の異常なる機関からくりが暗い闇夜やみよに運転する有様を、驚嘆の念をもってながめていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永はさからわずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのをにくく思って別れた。けれども五日とたないうちにまた須永のうちへ行きたくなって、表へ出るとすぐ神田行の電車に乗った。





 須永すながはもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標めじるしに、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上つまさきのぼりに折れて、二三度不規則に曲ったきわめて分りにくい所にいた。家並いえなみの立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影みかげの上を渡らなければ、格子先こうしさき電鈴ベルに手が届かないくらいの一構ひとかまえであった。もとから自分の持家もちいえだったのを、一時親類のなにがしに貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人ぶにん活計くらしには場所も広さも恰好かっこうだろうという母の意見から、駿河台するがだいの本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎けいたろうはなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板てんじょういたを見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後からぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗きれいに明かな四畳六畳二間ふたまつづきのへやであった。その室にすわっていると、庭に植えた松の枝と、手斧目ちょうなめの付いた板塀いたべいの上の方と、それから忍び返しが見えた。縁に出て手摺てすりから見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草さぎそうを眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
 彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を軽蔑けいべつすると同時に、閑静ながら余裕よゆうのあるこの友の生活をうらやみもした。青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上ったまだらな興味をふところに、彼は須永を訪問したのである。
 例の小路こうじを二三度曲折して、須永の住居すまっている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門をくぐった。敬太郎はただ一目ひとめその後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味ロマンしゅみとが力を合せて、引きるように彼を同じ門前に急がせた。ちょっとのぞいて見ると、もう女の影は消えていた。例の通り紅葉もみじ引手ひきてに張り込んだ障子しょうじが、閑静にしまっているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らずながめていたが、やがて沓脱くつぬぎの上に脱ぎ捨てた下駄げたに気をつけた。その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきにそろっているだけで、下女が手をかけて直したあとが少しも見えない。敬太郎は下駄のむきと、思ったより早くあがってしまった女の所作しょさとをぎ合わして、これは取次を乞わずに、ひとりで勝手に障子を開けて這入はいったきわめて懇意の客だろうと推察した。でなければうちのものだが、それでは少し変である。須永のいえは彼と彼の母と仲働なかばたらきと下女の四人よつたり暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
 敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外からうかがうというよりも、むしろ須永とこの女がどんなあやに二人の浪漫ロマンを織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳ききみみは立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。なまめいた女の声どころか、咳嗽せき一つ聞えなかった。
許嫁いいなずけかな」
 敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。飯焚めしたきは下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か私語ささやいている。――はたしてそうだとするといつものように格子戸こうしどをがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと昼寝ひるねをしている。女はそこへ這入はいったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は狐憑きつねつきのようにのそりと立っていた。





 すると二階の障子しょうじがすうといて、青い色の硝子瓶ガラスびんげた須永すながの姿が不意に縁側えんがわへ現われたので敬太郎けいたろうはちょっと吃驚びっくりした。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉のど周囲まわりに白いフラネルをいていた。手にげたのは含嗽剤がんそうざいらしい。敬太郎は上を向いて、風邪かぜを引いたのかとか何とか二三言葉をわしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味をさとらない人のごとく、軽く首肯うなずいたぎり障子の内に引き込んでしまった。
 階段はしごだんあがる時、敬太郎は奥の部屋でかすかに衣摺きぬずれの音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈くろはちじょうえりの掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像をたくましくしたというましさもあり、まためんと向ってすぐとは云いにくい皮肉なねらいを付けた自覚もあるので、今しがた君のうちへ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心をし隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、かねて須永から聞いている内幸町うちさいわいちょうの叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目まじめに頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の連合つれあいで、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係をっている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力をりてどうしようという料簡りょうけんもないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕はあんまり進まないから」と、かつて敬太郎に話した事があったのを、敬太郎は覚えていたのである。
 須永は今朝すでにその叔父に会うはずであったが、咽喉のどを痛めたため、外出を見合せたのだそうで、四五日内には大抵行けるだろうから、その時には是非話して見ようと答えたあとで、「叔父も忙がしい身体からだだしね、それに方々から頼まれるようだから、きっととは受合われないが、まあ会って見たまえ」と念のためだか何だかつけ加えた。余りのぞみを置き過ぎられては困るというのだろうと敬太郎は解釈したが、それでも会わないよりは増しだぐらいに考えて、例に似ずよろしく頼む気になった。が、口で頼むほど腹の中では心配も苦労もしていなかった。
 元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとくいつわりなき事実ではあるが、いまだに成効せいこう曙光しょこうを拝まないと云って、さも苦しそうな声を出して見せるうちには、少なくとも五割方の懸値かけねこもっていた。彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し田地でんじっていた。もとより大した穀高こくだかになるというほどのものでもないが、ひょうがいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの空騒からさわぎでないにしても、郷党だの朋友ほうゆうだのまたは自分だのに対する虚栄心にあおられている事はたしかであった。そんなら学校にいるうちもっと勉強して好い成績でも取っておきそうなものだのに、そこが浪漫家ロマンかだけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶるあざやかならぬ及第をしてしまったのである。





 それで約一時間ほど須永すながと話す間にも、敬太郎けいたろうは位地とか衣食とかいう苦しい問題を自分と進んで持ち出しておきながら、やっぱり先刻さっき見た後姿うしろすがたの女の事が気に掛って、肝心かんじんの世渡りの方には口先ほど真面目まじめになれなかった。一度下座敷したざしきで若々しい女の笑い声が聞えた時などは、誰か御客が来ているようだねと尋ねて見ようかしらんと考えたくらいである。ところがその考えている時間が、すでに自然をぶちこわす道具になって、せっかくの問が間外まはずれになろうとしたので、とうとう口へ出さずにやめてしまった。
 それでも須永の方ではなるべく敬太郎の好奇心にびるような話題を持ち出した気でいた。彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、いかに小さな家と細い小路こうじのために、さいのように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上らない戯曲がほとんどごとに演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた。
 まず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋かなものやの隠居のめかけがいる。その妾が宮戸座みやとざとかへ出る役者を情夫いろにしている。それを隠居が承知で黙っている。その向う横町に代言だいげんだか周旋屋しゅうせんやだか分らない小綺麗こぎれい格子戸作こうしどづくりのうちがあって、時々表へ女記者一名、女コック一名至急入用などという広告を黒板ボールドへ書いて出す。そこへある時二十七八の美くしい女が、ひだを取った紺綾こんあやの長いマントをすぽりとかぶって、まるで西洋の看護婦という服装なりをして来て職業の周旋を頼んだ。それが其家そこの主人のむかし書生をしていた家の御嬢さんなので、主人はもちろん妻君も驚ろいたという話がある。次に背中合せの裏通りへ出ると、白髪頭しらがあたま廿はたちぐらいの妻君を持った高利貸がいる。人の評判では借金の抵当かたに取った女房だそうである。その隣りの博奕打ばくちうちが、大勢同類を寄せて、互に血眼ちまなここすり合っている最中に、ねんね子で赤ん坊をおぶったかみさんが、勝負で夢中になっている亭主をむかえに来る事がある。かみさんが泣きながらどうかいっしょに帰ってくれというと、亭主は帰るには帰るが、もう一時間ほどして負けたものを取り返してから帰るという。するとかみさんはそんな意地を張れば張るほど負けるだけだから、是非今帰ってくれとすがりつくように頼む。いや帰らない、いや帰れといって、往来の氷る夜中でも四隣あたりねむりを驚ろかせる。……
 須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口をぬぐってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。もとよりその推察の裏には先刻さっき見た後姿の女が薄い影を投げていた。「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。その後で簡単に「今日は咽喉のどが痛いから」と云った。さも小説はっているが、君には話さないのだと云わんばかりの挨拶あいさつに聞えた。
 敬太郎が二階から玄関へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかった。帰ったのか、下駄箱へしまわしたのか、または気をかして隠したのか、彼にはまるで見当けんとうがつかなかった。表へ出るや否や、どういう料簡りょうけんか彼はすぐ一軒の煙草屋たばこやへ飛び込んだ。そうしてそこから一本の葉巻をくわえて出て来た。それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする途端とたんに、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは這入はいって来なかった。考えるたびにきっと後姿の女がちらちらいて来た。しまいに「本郷台町の三階から遠眼鏡とおめがねで世の中をのぞいていて、浪漫的ロマンてき探険なんて気の利いた真似まねができるものか」と須永から冷笑ひやかされたような心持がし出した。





 彼は今日こんにちまで、俗にいう下町生活に昵懇なじみも趣味もち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければくぐれない格子戸こうしどだの、三和土たたきの上からわけもなくぶら下がっている鉄灯籠かなどうろうだの、あががまちの下を張り詰めた綺麗きれいに光る竹だの、杉だか何だか日光とおって赤く見えるほど薄っぺらな障子しょうじの腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたまらないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面きちょうめんに暮らして行く彼らは、おそらく食後に使う楊枝ようじけずかたまで気にかけているのではなかろうかと考える。そうしてそれがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆たばこぼんのように、先祖代々順々にき込まれた習慣をかさに、恐るべく光っているのだろうと推察する。須永すながうちへ行って、用もない松へ大事そうな雪除ゆきよけをした所や、狭い庭を馬鹿丁寧ばかていねいに枯松葉で敷きつめた景色けしきなどを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開花のふところに、ぽうと育った若旦那わかだんな聯想れんそうしない訳に行かなかった。第一須永が角帯かくおびをきゅうとめてきちりと坐る事からが彼には変であった。そこへ長唄ながうたの好きだとかいう御母おっかさんが時々出て来て、すべっこいくせにアクセントの強い言葉で、舌触したざわりの好い愛嬌あいきょうを振りかけてくれる折などは、昔から重詰じゅうづめにして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合できあい以上のうまさがあるので、紋切形もんきりがたとは無論思わないけれども、幾代いくだいもかかって辞令の練習を積んだ巧みが、その底にひそんでいるとしか受取れなかった。
 要するに敬太郎けいたろうはもう少し調子外ちょうしはずれの自由なものが欲しかったのである。けれども今日きょうの彼は少くとも想像の上において平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿しめっぽい空気がいまだにただよっている黒い蔵造くらづくりの立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍ずつ蠣殼町かきがらちょう水天宮様すいてんぐうさまと深川の不動様へ御参りをして、護摩ごまでも上げたかった。(現に須永は母の御供をしてこういう旧弊きゅうへい真似まねを当り前のごとくやっている。)それから鉄無地てつむじの羽織でも着ながら、歌舞伎を当世とうせいくずして往来へ流したにおいのする町内を恍惚こうこつと歩きたかった。そうして習慣にしばられた、かつ習慣を飛びえたなまめかしい葛藤かっとうでもそこに見出したかった。
 彼はこの時たちまち森本の二字を思い浮かべた。するとその二字の周囲にある空想が妙に色を変えた。彼は物好ものずきにもみずから進んでこのうしぐらい奇人に握手を求めた結果として、もう少しでとんだ迷惑をこうむるところであった。幸いに下宿の主人が自分の人格を信じたからいいようなものの、疑ぐろうとすればどこまでも疑ぐられ得る場合なのだから、主人の態度いかんにっては警察ぐらいへ行かなければならなかったのかも知れない。と、こう考えると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫ロマンが急に温味あたたかみを失って、みにくい想像からでき上った雲の峰同様に、意味もなく崩れてしまった。けれどもその奥に口髭くちひげをだらしなく垂らした二重瞼ふたえまぶちやせぎすの森本の顔だけはねばり強く残っていた。彼はその顔を愛したいような、あなどりたいような、またあわれみたいような心持になった。そうしてこの凡庸ぼんような顔のうしろに解すべからざる怪しい物がぼんやり立っているように思った。そうして彼が記念かたみにくれると云った妙な洋杖ステッキ聯想れんそうした。
 この洋杖は竹の根の方を曲げてにしたきわめて単簡たんかんのものだが、ただへびを彫ってあるところが普通のつえと違っていた。もっとも輸出向によく見るように蛇の身をぐるぐる竹に巻きつけた毒々しいものではなく、彫ってあるのはただ頭だけで、その頭が口を開けて何かみかけているところをにぎりにしたものであった。けれどもその呑みかけているのが何であるかは、握りの先が丸くすべっこくけずられているので、かえるだか鶏卵たまごだか誰にも見当けんとうがつかなかった。森本は自分で竹をって、自分でこの蛇を彫ったのだと云っていた。





 敬太郎けいたろうは下宿の門口かどぐちくぐるとき何より先にまずこの洋杖に眼をつけた。というよりもみちすがらの聯想が、硝子戸ガラスどを開けるや否や、彼の眼を瀬戸物せともの傘入かさいれの方へ引きつけたのである。実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、出入でいりの際視線をらしたくらいである。ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入のそばを通るのが苦になってきて、きわめて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずとたたられたと云う風になって、しまった。彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。彼は一種の利害関係から、過去にさかのぼる嫌疑けんぎを恐れて、森本の居所もまたその言伝ことづても主人夫婦に告げられないという弱味をっているには違ないが、それは良心の上にどれほどのくもりもかけなかった。記念かたみとして上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、ひとの好意をむなしくする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれじにという終りを告げるのだろう。)そのあわれな最期さいごを今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。そうして多能な彼の手によってきざまれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口をいたまま喰付くっついているとする。――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを大袈裟おおげさではあるが一種の因果いんがのように考えた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計かっけいとはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖にわざわいされていなかったのである。
 今日も洋杖ステッキは依然として傘入の中に立っていた。鎌首は下駄箱げたばこの方を向いていた。敬太郎はそれを横に見たなり自分のへやに上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。まずこの間向うから来た音信たよりの礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような漂浪者ヴァガボンドを知己につ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取りまぎれと簡単な一句でごまかしておいた。次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、そのあとへだんだん東京も寒くなる時節柄、満洲まんしゅうしもや風はさぞしのにくいだろう。ことにあなたの身体からだではひどくこたえるにちがいないから、是非用心して病気にかからないようになさいと優しい文句を数行すぎょうつづった。敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するようにうまくかつ長く、そうして誰が見ても実意のこもっているように書きたかったのだけれども、読み直して見ると、やっぱり普通の人が普通時候の挨拶あいさつに述べる用語以外に、何の新らしいところもないので、彼は少し失望した。と云って、固々もともと恋人に送る艶書えんしょほど熱烈な真心まごころめたものでないのは覚悟の前である。それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したって駄目だくらいの口実の下に、そこはそのままにしてさきへ進んだ。





 森本が下宿へ置き去りにして行った荷物の始末については義理にも何とか書き添えなければすまなかった。しかしその処置のつけ方を亭主に聞くのはいやだし、聞かなければ委細の報道はできるはずはなし、敬太郎けいたろうは筆の先を宙に浮かしたまま考えていたが、とうとう「あなたの荷物は、僕から主人に話して、どうでも彼の都合のいように取り計らわせろとの御依頼でしたが、あなたの千里眼の通り、僕が何にも云わない先に、雷獣らいじゅうの方で勝手に取計ってしまったようですからさよう御承知を願います。梅の盆栽ぼんさいを下さるという事ですが、これは影も形も見えないようですから、頂きません。ただ御礼だけ申し述べておきます。それから」とつづけておいて、また筆を休めた。
 敬太郎はいよいよ洋杖ステッキのところへ来たのである。根が正直な男だから、あの洋杖はせっかくの御覚召おぼしめしだから、ちょうだいして毎日散歩の時突いて出ますなどと空々しいうそけず、と言って御親切はありがたいが僕は貰いませんとはなおさら書けず。仕方がないから、「あの洋杖はいまだに傘入かさいれの中に立っています。持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです」と好加減いいかげん御世辞おせじを並べて、事実をぼかす手段とした。
 状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼をはばからなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかったから、敬太郎はすぐそれを自分のたもとの中にかくした。彼はそれを持って夕食後散歩かたがた外へ出かける気で寒い梯子段はしごだんを下まで降り切ると、須永すながから電話が掛った。
 今日内幸町から従妹いとこが来ての話に、叔父は四五日内に用事で大阪へ行くかも知れないそうだから、余り遅くなってはと思って、立つ前に会ってもらえまいかと電話で聞いて見たら、よろしいという返事だから、行く気ならなるべく早く行った方がよかろう。もっとも電話の上に咽喉のどが痛いので、詳しい話はできなかったから、そのつもりでいてくれというのが彼の用向であった。敬太郎は「どうもありがとう。じゃなるべく早く行くようにするから」と礼を述べて電話を切ったが、どうせ行くなら今夜にでも行って見ようという気が起ったので、再び三階へ取って返してこの間こしらえたセルのはかま穿いた上、いよいよ表へ出た。
 曲り角へ来てポストへ手紙を入れる事は忘れなかったけれども、肝心かんじんの森本の安否はこの時すでに敬太郎の胸に、ただかすかな火気ほとぼりを残すのみであった。それでも状袋が郵便函の口をすべって、すとんと底へ落ちた時は、受取人の一週間以内に封をひらく様を想見して、満更まんざら悪い心持もしまいと思った。
 それから電車へ乗るまではただ一直線にすたすた歩いた。考も一直線に内幸町の方を向いていたが、電車が明神下みょうじんしたへ出る時分、何気なく今しがた電話口で須永から聞いた言葉を、頭の内で繰り返して見ると、覚えずはっと思うところが出て来た。須永は「今日内幸町からイトコが来て」とたしかに云ったが、そのイトコが彼の叔父さんの子である事は疑うまでもない。しかしその子が男であるか女であるかは不完全な日本語のまるで関係しないところである。
「どっちだろう」
 敬太郎は突然気にし始めた。もしそれが男だとすれば、あの後姿の女についての手がかりにはならない。したがって女は彼の好奇心をいたずらに刺戟しげきしただけで、ちっとも動いて来ない。しかしもし女だとすると、日といい時刻といい、須永の玄関から上り具合といい、どうも自分より一足先へ這入はいったあの女らしい。想像と事実をぎ合わせる事に巧みな彼は、そうと確かめないうちに、てっきりそうときめてしまった。こう解釈した時彼は、今まで泡立あわだっていた自分の好奇心に幾分の冷水をしたような満足を覚えると共に、予期したよりも平凡な方角に、手がかりが一つできたと云うつまらなさをも感じた。





 彼は小川町まで来た時、ちょっと電車を下りても須永すなが門口かどぐちまで行って、友の口から事実を確かめて見たいくらいに思ったが、単純な好奇心以外にそんな立ち入った詮議せんぎをすべき理由をどこにも見出し得ないので、我慢してすぐ三田線に移った。けれども真直まっすぐに神田橋を抜けて丸の内を疾駆する際にも、自分は今須永の従妹いとこの家に向って走りつつあるのだという心持は忘れなかった。彼は勧業銀行のあたりで下りるはずのところを、つい桜田本郷町まで乗り越して驚ろいてまた暗い方へ引き返した。さびしい夜であったが尋ねる目的の家はすぐ知れた。丸い瓦斯ガス田口たぐちと書いた門の中をのぞいて見ると、思ったより奥深そうなかまえであった。けれども実際は砂利を敷いたみちが往来から筋違すじかいに玄関を隠しているのと、正面をさえぎる植込がこんもり黒ずんで立っているのとで、幾分かいかめしい景気を夜陰に添えたまでで、門内に這入はいったところでは見付みつきほど手広な住居すまいでもなかった。
 玄関には西洋擬せいようまがいの硝子戸ガラスどが二枚ててあったが、頼むといっても、電鈴ベルを押しても、取次がなかなか出て来ないので、敬太郎けいたろうはやむを得ずしばらくそのそばに立って内の様子をうかがっていた。すると、どこからかようやく足音が聞こえ出して、眼の前の擦硝子すりガラスがぱっと明るくなった。それから庭下駄にわげた三和土たたきを踏む音が二足三足したと思うと、玄関の扉が片方いた。敬太郎はこの際取次の風采ふうさいを想望するほどの物数奇ものずきもなく、全く漫然と立っていただけであるが、それでもかすり羽織はおりを着た書生か、双子ふたこの綿入を着た下女が、一応御辞儀をして彼の名刺を受取る事とのみ期待していたのに、いま戸を半分開けて彼の前に立ったのは、思いも寄らぬ立派な服装なりをした老紳士であった。電気の光を背中に受けているので、顔は判然はっきりしなかったが、白縮緬しろちりめんの帯だけはすぐ彼の眼に映じた。その瞬間にすぐこれが田口という須永の叔父さんだろうという感じが敬太郎の頭に働いた。けれども事が余り意外なので、すぐ挨拶あいさつをする余裕よゆうも出ず少しはあっけに取られた気味で、ぼんやりしていた。その上自分をはなはだ若く考えている敬太郎には、四十代だろうが五十代だろうが乃至ないし六十代だろうがほとんど区別のない一様いちようの爺さんに見えるくらい、彼は老人に対して親しみのない男であった。彼は四十五と五十五を見分けてやるほどの同情心を年長者に対してたなかったと同時に、そのいずれに向っても慣れないうちは異人種のような無気味ぶきみを覚えるのが常なので、なおさら迷児まごついたのである。しかし相手は何も気にかからない様子で、「何か用ですか」と聞いた。丁寧ていねいでもなければ軽蔑けいべつでもない至って無雑作むぞうさなその言葉つきが、少し敬太郎の度胸を回復させたので、彼はようやく自分の姓名を名乗ると共に手短かく来意を告げる機会を得た。すると年嵩としかさな男は思い出したように、「そうそう先刻さっき市蔵いちぞう(須永の名)から電話で話がありました。しかし今夜御出おいでになるとは思いませんでしたよ」と云った。そうして君そう早く来たっていけないという様子がその裏に見えたので、敬太郎は精一杯せいいっぱい言訳をする必要を感じた。老人はそれを聞くでもなし聞かぬでもなしといった風に黙って立っていたが、「そんならまたいらっしゃい。四五日うちにちょっと旅行しますが、その前に御目にかかれる暇さえあれば、御目にかかってもうござんす」と云った。敬太郎はあつく礼を述べてまた門を出たが、暗いの中で、礼の述べ方がちと馬鹿丁寧過ぎたと思った。
 これはずっとあとになって、須永の口から敬太郎に知れた話であるが、ここの主人は、この時玄関に近い応接間で、たった一人碁盤ごばんに向って、白石と黒石を互違たがいちがいに並べながら考え込んでいたのだそうである。それは客と一石いっせきやった後の引続きとして、是非共ある問題を解決しなければ気がすまなかったからであるが、肝心かんじんのところで敬太郎がさも田舎者いなかものらしく玄関を騒がせるものだから、まずこの邪魔を追っ払った後でというつもりになって、じれったさの余り自分と取次に出たのだという。須永にこの顛末てんまつを聞かされた時に、敬太郎はますます自分の挨拶あいさつ丁寧ていねい過ぎたような気がした。





 中一日なかいちにち置いて、敬太郎けいたろうは堂々と田口へ電話をかけて、これからすぐ行っても差支さしつかえないかと聞き合わせた。向うの電話口へ出たものは、敬太郎の言葉つきや話しぶりの比較的横風おうふうなところからだいぶ位地の高い人とでも思ったらしく、「どうぞ少々御待ち下さいまし、ただいま主人の都合をちょっと尋ねますから」と丁寧な挨拶をして引き込んだが、今度返事を伝えるときは、「ああ、もしもし今ね、来客中で少し差支えるそうです。午後の一時頃来るなら来ていただきたいという事です」と前よりは言葉がよほど粗末ぞんざいになっていた。敬太郎は、「そうですか、それでは一時頃上りますから、どうぞ御主人によろしく」と答えて電話を切ったが、内心は一種いやな心持がした。
 十二時かっきりに午飯ひるめしを食うつもりで、あらかじめ下女に云いつけておいたぜんが、時間通り出て来ないので、敬太郎は騒々しく鳴る大学の鐘にき立てられでもするように催促をして、できるだけ早く食事を済ました。電車の中では一昨日おとといの晩会った田口の態度を思い浮べて、今日もまたああいう風に無雑作むぞうさな取扱を受けるのか知らん、それとも向うで会うというくらいだから、もう少しは愛嬌あいきょうのある挨拶でもしてくれるか知らんと考えなどした。彼はこの紳士の好意で、相当の地位さえ得られるならば、多少腰をかがめて窮屈な思をするぐらいは我慢するつもりであった。けれども先刻さっき電話の取次に出たもののように、五分とたないうちに、言葉使いを悪い方に改められたりすると、もう不愉快になって、どうかそいつがまた取次に出なければいいがと思う。そのくせ自分のかけ方の自分としては少し横風過ぎた事にはまるで気がつかない性質たちであった。
 小川町の角で、はす須永すながうちまがる横町を見た時、彼ははっと例の後姿の事を思い出して、急に日蔭ひかげから日向ひなたへ想像を移した。今日も美くしい須永の従妹いとこのいる所へ訪問に出かけるのだと自分で自分に教える方が、億劫おっくう手数てかずをかけて、好い顔もしないじいさんに、衣食のみちを授けて下さいとなきつきに行くのだと意識するよりも、敬太郎に取ってははるかにうららかであったからである。彼は須永の従妹いとこと田口の爺さんを自分勝手に親子ときめておきながらどこまでも二人を引き離して考えていた。この間の晩田口と向き合って玄関先に立った時も、光線の具合で先方さきの人品は判然はっきり分らなかったけれども、眼鼻だちの輪廓りんかくだけで評したところが、あまり立派な方でなかった事は、この爺さんの第一印象として、敬太郎の胸に夜目よめにもうたがいなく描かれたのである。それでいて彼はこの男の娘なら、須永との関係はどうあろうとも、器量きりょうはあまりいい方じゃあるまいという気がどこにも起らなかった。そこで離れていて合い、合っていて離れるような日向日蔭ひなたひかげの裏表を一枚にした頭を彼は田口家に対していだいていたのである。それを互違にくり返したあと、彼は田口の門前に立った。するとそこに大きな自働車が御者ぎょしゃを乗せたまま待っていたので、少し安からぬ感じがした。
 玄関へ掛って名刺を出すと、小倉こくらはかま穿いた若い書生がそれを受取って、「ちょっと」と云ったまま奥へ這入はいって行った。その声が確かに先刻さっき電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の後姿うしろすがたを見送りながらいややつだと思った。すると彼は名刺を持ったまままた現われた。そうして「御気の毒ですが、ただいま来客中ですからまたどうぞ」と云って、敬太郎の前に突立つったっていた。敬太郎も少しむっとした。
「先程電話で御都合を伺ったら、今客があるから午後一時頃来いという御返事でしたが」
「実はさっきの御客がまだ御帰りにならないで、御膳おぜんなどが出て混雑ごたごたしているんです」
 落ちついて聞きさえすれば満更まんざら無理もない言訳なのだが、電話以後この取次がしゃくさわっている敬太郎には彼の云い草がいかにも気に喰わなかった。それで自分の方からせんを越すつもりか何かで、「そうですか、たびたび御足労でした。どうぞ御主人へよろしく」と平仄ひょうそくの合わない捨台詞すてぜりふのような事を云った上、何だこんな自働車がと云わぬばかりにそのそばり抜けて表へ出た。





 彼はこの日必要な会見を都合よく済ましたあと、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、須永すながと彼の従妹いとことそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みにぎ合せつつある一部始終いちぶしじゅう御馳走ごちそうに、晩まで話し込む気でいたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園のわきに立った彼の頭には、そんな余裕よゆうはさらになかった。後姿を見ただけではあるが、在所ありかをすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持はもとよりなかった。位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。彼は帰りがけに須永の所へ寄って、逐一ちくいち顛末てんまつを話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。時計を見ると、二時にはまだ二十分ほどがあった。須永のうちの前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の障子しょうじは立て切ったままついにかなかった。もっとも彼は体裁家ていさいやで、平生からこういう呼び出し方を田舎者いなかものらしいといっていやがっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、敬太郎けいたろうは正式に玄関の格子口こうしぐちへかかった。けれども取次に出た仲働なかばたらきの口から「ひる少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
風邪かぜを引いていたようでしたが」
「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」
 敬太郎は帰ろうとした。仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ這入はいった。と思うとふすまの陰から須永の母の姿が現われた。背の高い面長おもながの下町風にひんのある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」
 須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣えどなれない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。第一だいちどこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。それが世間体せけんていの好い御世辞おせじと違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にかくなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの唐紙からかみめてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、佐倉さくらけた火鉢ひばちを勧めてくれたりするうちに、一時昂奮こうふんした彼の気分はしだいに落ちついて来た。彼はシキとかいう白い絹へ秋田蕗あきたぶきを一面に大きくったふすまの模様だの、唐桑からくわらしくてらてらした黄色い手焙てあぶりだのをながめて、このしとやかで能弁な、人をそらす事を知らないと云った風の母と話をした。
 彼女の語るところによると、須永は今日矢来やらいの叔父のうちへ行ったのだそうである。
「じゃついでだから帰りに小日向こびなたへ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃無精ぶしょうになったようですね、この間もひとに代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだってじゅうから風邪を引いて咽喉のどを痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無がむしゃらで、年寄の云う事などにはいっさい無頓着むとんじゃくでございますから……」
 須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の楽みのようにこういう調子でせがれの話をするのが常であった。敬太郎の方で須永の評判でも持ち出そうものなら、いつまででもその問題のあと喰付くっついて来て、容易に話頭を改めないのが例になっていた。敬太郎もそれにはだいぶ慣れているから、この際も向うのいう通りをただふんふんとおとなしく聞いて、一段落の来るのを待っていた。



十一

 そのうち話がいつか肝心かんじん須永すながれて、矢来の叔父という人の方へ移って行った。これは内幸町と違って、この御母おっかさんの実の弟に当る男だそうで、一種の贅沢屋ぜいたくやのように敬太郎けいたろうは須永から聞いていた。外套がいとうの裏は繻子しゅすでなくては見っともなくて着られないと云ったり、りもしないのに古渡こわたりの更紗玉さらさだまとか号して、石だか珊瑚さんごだか分らないものを愛玩あいがんしたりする話はいまだに覚えていた。
「何にもしないで贅沢ぜいたくに遊んでいられるくらい好い事はないんだから、結構な御身分ですね」と敬太郎が云うのを引き取るように母は、「どうしてあなた、打ち明けた御話が、まあどうにかこうにかやって行けるというまでで、楽だの贅沢だのという段にはまだなかなかなのでございますからいけません」と打ち消した。
 須永の親戚に当る人の財力が、さほど敬太郎に関係のある訳でもないので、彼はそれなり黙ってしまった。すると母は少しでも談話の途切とぎれるのを自分の過失ででもあるように、すぐ言葉をいだ。
「それでも妹婿いもとむこの方は御蔭おかげさまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来のおととなどになりますと、云わば、浪人ろうにん同様で、昔にくらべたら、尾羽うち枯らさないばかりのていたらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」
 敬太郎は何となく自分の身の上をかえりみて気恥かしい思をした。さいわいにさきがすらすら喋舌しゃべってくれるので、こっちに受け答をする文句を考える必要がないのをせめてものとくとして聞き続けた。
「それにね、御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから、私もただ学校を卒業させただけでは、全く心配が抜けませんので、まことに困り切ります。早く気に入った嫁でも貰って、年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますと、そう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんて、てんで相手にしないんでございますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、どこへでもいいから、つとめにでも出る気になればまだしも、そんな事にはまたまるで無頓着むとんじゃくであなた……」
 敬太郎はこの点において実際須永が横着過おうちゃくすぎると平生ふだんから思っていた。「余計な事ですが、少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。今御話の矢来の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する気で云った。
「ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして、忠告どころか、何だ銀行へ這入はいって算盤そろばんなんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかと、こうでございますから頭から相談にも何にもなりません。それをまた市蔵がうれしがりますので。矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれども、やっぱり矢来へ行くんだって、とうとう自分の好きな方へ参りました」
 敬太郎はこの時自分が今日何のためにけ込むようにこの家をおそったかの原因について、また新らしく考え出した。彼は須永の顔を見たら随分過激な言葉を使ってもその不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門はくぐらないつもりだから、そう思ってくれたまえぐらいの台詞せりふを云って帰る気でいたのに、肝心かんじんの須永は留守るすで、事情も何も知らない彼の母から、さかさにいろいろな話をしかけられたので、おこってやろうという気は無論抜けてしまったのである。が、それでも行きがかり上、田口と会見をげ得なかった顛末てんまつだけは、一応この母の耳へでも構わないから入れておく必要があるだろう。それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になっている今が一番よかろう。――こう敬太郎は思った。



十二

「実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云い出すと、自分の息子の事ばかり考えていた母は、「おやそうでございましたか」とやっと気がついてすまないという顔つきをした。この間から敬太郎けいたろう躍起やっきになって口をさがしている事や、探しあぐんで須永すながに紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に会えるように周旋した事は、須永のそばにいる母として彼女かのおんなのことごとく見たり聞いたりしたところであるから、行き届いた人なら先方さきで何も云い出さない前に、こっちからどんな模様ですぐらいは聞いてやるべきだとでも思ったのだろう。こう観察した敬太郎は、この一句を前置に、今までの成行を残らず話そうとつとめにかかったが、時々相手から「そうでございますとも」とか、「本当にまあ、の悪い時にはね」とか、どっちにも同情したような間投詞が出るので、自分がむかっぱらを立てて悪体あくたいいた事などは話のうちから綺麗きれいに抜いてしまった。須永の母は気の毒という言葉を何遍もくり返したあとで、田口を弁護するようにこんな事を云った。――
「そりゃあ実のところ忙しい男なので。いもとなどもああして一つ家に住んでおりますようなものの、――何でごさんしょう。――落々おちおち話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。私が見かねて要作ようさくさんいくら御金がもうかるたって、そう働らいて身体からだを壊しちゃ何にもならないから、たまには骨休めをなさいよ、身体が資本もとでじゃありませんかと申しますと、おいらもそう思ってるんだが、それからそれへと用がいてくるんで、そばからしゃくい出さないと、用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へれて行く、さあすぐ支度をしろって、まるで足元から鳥が立つようにき立てる事もございますが……」
「御嬢さんがおありなのですか」
「ええ二人おります。いずれも年頃でございますから、もうそろそろどこかへ片づけるとか婿むこを取るとかしなければなりますまいが」
「そのうちの一人のかたが、須永君のところへ御出おいでになる訳でもないんですか」
 母はちょっと口籠くちごもった。敬太郎もただ自分の好奇心を満足させるためにあまり立ち入った質問をかけ過ぎたと気がついた。何とかして話題を転じようと考えているうちに、相手の方で、
「まあどうなりますか。親達の考もございましょうし。当人達とうにんたちの存じ寄りもしかと聞糺ききただして見ないと分りませんし。私ばかりでこうもしたい、ああもしたいといくら熱急やきもき思ってもこればかりは致し方がございません」と何だか意味のありそうな事を云った。一度退きかけた敬太郎の好奇心はこの答でまた打ち返して来そうにしたが、くないという克己心こっきしんにすぐ抑えられた。
 母はなお田口の弁護をした。そんな忙がしい身体からだだから、時によると心にもない約束違いなどをする事もあるが、いったん引き受けた以上は忘れる男ではないから、まあ旅行から帰るまで待って、ゆっくり会ったらかろうという注意とも慰藉いしゃともつかない助言じょごんも与えた。
「矢来のはおっても会わん方で、これは仕方がございませんが、内幸町のはいないでも都合さえつけばけて帰って来て会うといった風の性質たちでございますから、今度旅行から帰って来さえすれば、こっちから何とも云ってやらないでも、向うできっと市蔵のところへ何とか申して参りますよ。きっと」
 こう云われて見ると、なるほどそういう人らしいが、それはこっちがおとなしくしていればこそで、先刻さっきのようにぷんぷん怒ってはとうてい物にならないにきまり切っている。しかし今更いまさらそれを打ち明ける訳には行かないので、敬太郎はただ黙っていた。須永の母はなお「あんな顔はしておりますが、見かけによらない実意のある剽軽者ひょうきんものでございますから」と云って一人で笑った。



十三

 剽軽者という言葉は田口の風采ふうさいなり態度なりに照り合わせて見て、どうも敬太郎けいたろうに落ちない形容であった。しかし実際を聞いて見ると、なるほど当っているところもあるように思われた。田口はむかしある御茶屋へ行って、姉さんこの電気灯はほてり過ぎるね、もう少し暗くしておくれと頼んだ事があるそうだ。下女が怪訝けげんな顔をして小さい球と取り換えましょうかと聞くと、いいえさ、そこをちょいとねじって暗くするんだと真面目まじめに云いつけるので、下女はこれは電気灯のない田舎いなかから出て来た人に違ないと見て取ったものか、くすくす笑いながら、旦那電気はランプと違ってひねったって暗くはなりませんよ、消えちまうだけですから。ほらねとぱちッと音をさせて座敷を真暗にした上、またぱっと元通りに明るくするかと思うと、大きな声でばあと云った。田口は少しも悄然しょげずに、おやおやまだ旧式を使ってるね。見っともないじゃないか、ここのうちにも似合わないこった。早く会社の方へ改良を申し込んでおくといい。順番に直してくれるから。とさももっともらしい忠告を与えたので、下女もとうとうに受け出して、本当にこれじゃ不便ね、だいちけっぱなしで寝る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでしょうからとさも感心したらしく、改良に賛成したそうである。ある時用事が出来て門司もじとか馬関ばかんとかまで行った時の話はこれよりもよほど念がっている。いっしょに行くべきはずのAという男に差支さしつかえが起って、二日ばかり彼は宿屋で待ち合わしていた。その間の退屈紛たいくつまぎれに、彼はAを一つかついでやろうとたくらんだ。これは町を歩いている時、一軒の写真屋の店先でふと思いついた悪戯いたずらで、彼はその店から地方ところの芸者の写真を一枚買ったのである。その裏へA様と書いて、手紙を添えた贈物のようにこしらえた。その手紙は女を一人雇って、充分の時間を与えた上、できるだけAの心を動かすようになまめかしくくねらしたもので、誰がもらってもうれしい顔をするに足るばかりか、今日の新聞を見たら、明日あしたここへ御着のはずだと出ていたので、久しぶりにこの手紙を上げるんだから、どうか読みしだい、どこそこまで来ていただきたいと書いたなかなか安くないものであった。彼はその晩自分でこの手紙をポストへ入れて、翌日配達の時またそれを自分で受取ったなり、Aの来るのを待ち受けた。Aが着いても彼はこの手紙をなかなか出さなかった。つとめて真面目まじめな用談についての打合せなどを大事らしくし続けて、やっと同じ食卓で晩餐ばんさんぜんに向った時、突然思い出したようにたもとの中からそれを取り出してAに与えた。Aは表に至急親展とあるので、ちょっとはしを下に置くと、すぐ封を開いたが、少し読みくだすと同時に包んである写真を抜いて裏を見るやいなや、急に丸めるようにふところへ入れてしまった。何かいそぎの用でもできたのかと聞くと、いや何というばかりで、不得要領ふとくようりょうにまた箸を取ったが、どことなくそわそわした様子で、まだ段落のつかない用談をそのままに、少し失礼する腹が痛いからと云って自分の部屋に帰った。田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだろうから、出るときは車が待ってでもいたように、Aが何にも云わない先に彼を乗せてけ出して、その思わく通りどこの何といううちかどへおろすようにしろと云いつけた。そうして自分はAより早く同じ家へ行って、主婦かみさんを呼ぶや否や、今おれの宿の提灯ちょうちんけた車に乗って、これこれの男が来るから、来たらすぐ綺麗きれいな座敷へ通して、叮嚀ていねいに取扱って、向うで何にも云わない先に、御連様おつれさまはとうから御待兼おまちかねでございますと云ったなり引き退がって、すぐおれのところへ知らせてくれと頼んだ。そうして一人で煙草たばこを吹かして腕組をしながら、事件の経過を待っていた。すると万事がうまい具合に予定の通り進行して、いよいよ自分の出る順が来た。そこでAの部屋のそばへ行って間のふすまを開けながら、やあ早かったねと挨拶あいさつすると、Aは顔の色を変えて驚ろいた。田口はその前へ坐り込んで、実はこれこれだと残らず自分の悪戯いたずらを話した上、「かついだ代りに今夜は僕がおごるよ」と笑いながら云ったんだという。
「こういう飄気ひょうげ真似まねをする男なんでございますから」と須永の母も話したあとでおかしそうに笑った。敬太郎はあの自働車はまさか悪戯いたずらじゃなかったろうと考えながら下宿へ帰った。



十四

 自動車事件以後敬太郎けいたろうはもう田口の世話になる見込はないものとあきらめた。それと同時に須永すなが従弟いとこと仮定された例の後姿うしろすがたの正体も、ほぼ発端ほったんの入口に当たる浅いところでぱたりと行きとまったのだと思うと、その底にはがゆいようなまた煮切にえきらないような不愉快があった。彼は今日こんにちまで何一つ自分の力で、先へ突き抜けたという自覚をっていなかった。勉強だろうが、運動だろうが、その他何事に限らず本気にやりかけて、つらぬきおおせたためしがなかった。生れてからたった一つ行けるところまで行ったのは、大学を卒業したくらいなものである。それすら精を出さずにとぐろばかり巻きたがっているのを、むこうで引きり出してくれたのだから、中途で動けなくなった間怠まだるさのない代りには、やっとの思いで井戸を掘り抜いた時の晴々せいせいした心持も知らなかった。
 彼はぼんやりして四五日過ぎた。ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、みずから進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。この人はどんな朗らかにとおるような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見てもあざやかに見えながら、自分だけ硝子張ガラスばりの箱の中に入れられて、外の物とじかに続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息ちっそくするほど苦しくなって来るんだという。敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病にかかっていたのではなかろうかと疑ったなり、今日こんにちまで気にもかけずにいた。しかしこの四五日ぼんやり屈託くったくしているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。もう少し奮発して気張きばる事さえ覚えれば、当ってもはずれても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日こんにちまでついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。
 敬太郎は一人でこう考えて、どこへでも進んで行こうと思ったが、また一方では、もうすっぽ抜けのあとの祭のような気がして、何というあてもなくまた三四日さんよっかぶらぶらと暮した。その間に有楽座へ行ったり、落語を聞いたり、友達と話したり、往来を歩いたり、いろいろやったが、いずれも薬缶頭やかんあたまつかむと同じ事で、世の中は少しも手に握れなかった。彼はを打ちたいのに、碁を見せられるという感じがした。そうして同じ見せられるなら、もう少し面白い波瀾曲折はらんきょくせつのある碁が見たいと思った。
 するとすぐ須永と後姿の女との関係が想像された。もともと頭の中でむやみに色沢つやを着けて奥行おくゆきのあるように組み立てるほどの関係でもあるまいし、あったところがひとの事を余計なおせっかいだと、自分で自分をあざけりながら、ああ馬鹿らしいと思うあとから、やっぱり何かあるだろうという好奇心が今のようにちょいちょいとひらめいて来るのである。そうしてこの道をもう少し辛抱強く先へ押して行ったら、自分が今まで経験した事のない浪漫的ロマンチックな或物にぶつかるかも知れないと考え出す。すると田口の玄関でおこったなり、あの女の研究まで投げてしまった自分の短気を、自分の好奇心に釣り合わない弱味だと思い始める。
 職業についても、あんな些細ささい行違ゆきちがいのために愛想あいそづかしをたとい一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くするはずではなかったと思う。あれでできるともできないとも、まだかたのつかない未来を中途半端に仕切ってしまった。そうして好んでにえきらない思いに悩んでいる姿になってしまった。須永の母の保証するところでは、田口という老人は見かけに寄らない親切気のある人だそうだから、あるいは旅行から帰って来た上で、また改めて会ってくれないとも限らない。が、こっちからもう一遍会見の都合を問い合せたりなどして、常識のない馬鹿だと軽蔑さげすまれてもつまらない。けれどもどの道突き抜けた心持をしっかりつらまえるためには馬鹿と云われるまでも、そこまで突っかけて行く必要があるだろう。――敬太郎は屈託しながらもいろいろ考えた。



十五

 けれども身の一大事を即座に決定するという非常な場合と違って、敬太郎けいたろうの思案には屈託のうちに、どこか呑気のんきなものがふわふわしていた。この道をとどのつまりまで進んで見ようか、またはこれぎりやめにして、さらに新らしいものに移る支度をしようか。問題はせんじつめるまでもなく当初から至極しごく簡単にでき上っていたのである。それに迷うのは、一度くじを引きそくなったが最後、もう浮ぶ瀬はないという非道ひどい目に会うからではなくって、どっちに転んでも大した影響が起らないため、どうでも好いという怠けた心持がいつしらず働らくからである。彼は眠い時に本を読む人が、眠気ねむけに抵抗する努力をいといながら、文字の意味を判明はっきり頭に入れようと試みるごとく、呑気のんきふところで決断の卵を温めている癖に、ただうま孵化かえらない事ばかり苦にしていた。この不決断をのがれなければという口実のもとに、彼はあんに自分の物数奇ものずきびようとした。そうして自分の未来を売卜者うらないしゃ八卦はっけに訴えて判断して見る気になった。彼は加持かじ祈祷きとう御封ごふう虫封むしふうじ、降巫いちこたぐいに、全然信仰をつほど、非科学的に教育されてはいなかったが、それ相当の興味は、いずれに対しても昔から今日こんにちまで失わずに成長した男である。彼の父は方位九星ほういきゅうせいに詳しい神経家であった。彼が小学校へ行く時分の事であったが、ある日曜日に、彼の父は尻を端折はしょって、くわついだまま庭へ飛び下りるから、何をするのかと思って、あとからいて行こうとすると、父は敬太郎に向って、御前はそこにいて、時計を見ていろ、そうして十二時が鳴り出したら、大きな声を出して合図をしてくれ、すると御父さんがあのいぬいに当る梅の根っこを掘り始めるからと云いつけた。敬太郎は子供心にまた例の家相だと思って、時計がちんと鳴り出すや否や命令通り、十二時ですようと大きな声で叫んだ。それで、その場は無事に済んだが、あれほど正確にくわを下ろすつもりなら、肝心かんじんの時計が狂っていないようにあらかじめ直しておかなくてはならないはずだのにと敬太郎は父の迂闊うかつをおかしく思った。学校の時計と自分のうちのとはその時二十分近く違っていたからである。ところがその摘草つみくさに行った帰りに、馬にられて土堤どてから下へ転がり落ちた事がある。不思議に怪我けがも何もしなかったのを、御祖母おばあさんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭おかげだこれ御覧ごらんと云って、馬のつないであったそばにある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、涎掛よだれかけだけが残っていた。敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。その雲が身体からだの具合や四辺あたりの事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した今日こんにちに至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである。
 こういうわけで、彼は明治の世に伝わる面白い職業の一つとして、いつでも大道占だいどううらないの弓張提灯ゆみはりぢょうちんながめていた。もっとも金を払って筮竹ぜいちくの音を聞くほどの熱心はなかったが、散歩のついでに、寒い顔を提灯の光に映した女などが、悄然しょんぼりそこに立っているのを見かけると、この暗い影を未来に投げて、思案に沈んでいるあわれな人に、易者えきしゃがどんな希望と不安と畏怖いふと自信とを与えるだろうという好奇心にかされて、面白半分、そっと傍へ寄って、陰の方から立聞たちぎきをする事がしばしばあった。彼の友のなにがしが、自分の脳力に悲観して、試験を受けようか学校をやめようかと思いわずらっている頃、ある人が旅行のついでに、善光寺如来ぜんこうじにょらい御神籤おみくじをいただいて第五十五の吉というのを郵便で送ってくれたら、その中にくもさんじて月重ねて明らかなり、という句と、花ひらいて再び重栄ちょうえいという句があったので、物は試しだからまあ受けて見ようと云って、受けたら綺麗きれいに及第した時、彼は興に乗って、方々の神社で手当りしだい御神籤をいただき廻った事さえある。しかもそれは別にこれという目的なしにいただいたのだから彼は平生でも、優に売卜者うらないしゃ顧客とくいになる資格を充分具えていたに違ない。その代り今度のような場合にも、どこか慰さみがてらに、まあやって見ようという浮気がだいぶ交っていた。



十六

 敬太郎けいたろうはどこのうらないしゃに行ったものかと考えて見たが、あいにくどこというあてもなかった。白山はくさんの裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今までに名前を聞いたのは二三軒あるが、むやみに流行はやるのは山師やましらしくって行く気にならず、と云って、自分でうそと知りつつ出鱈目でたらめいてもっともらしく述べるやつはなお不都合であるし、できるならば余り人の込み合わないうちで、閑静なひげを生やしたじいさんが奇警きけいな言葉で、簡潔にすぱすぱとやぶってくれるのがどこかにいればいいがと思った。そう思いながら、彼は自分の父がよく相談に出かけた、郷里くに一本寺いっぽんじの隠居の顔を頭の中にえがき出した。それからふと気がついて、考えるんだかただ坐っているんだか分らない自分の様子が馬鹿馬鹿しくなったので、とにかく出てそこいらを歩いてるうちに、運命が自分を誘い込むようなうらないしゃの看板にぶつかるだろうという漠然ばくぜんたる頭に帽子をせた。
 彼は久しぶりに下谷の車坂くるまざかへ出て、あれから東へ真直まっすぐに、寺の門だの、仏師屋ぶっしやだの、古臭ふるくさ生薬屋きぐすりやだの、徳川時代のがらくたをほこりといっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡もんぜきの中を抜けて、奴鰻やっこうなぎの角へ出た。
 彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父じいさんから、しばしば観音様かんのんさま繁華はんかを耳にした。仲見世なかみせだの、奥山おくやまだの、並木なみきだの、駒形こまかただの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯なめし田楽でんがくを食わせるすみ屋という洒落しゃれた家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗きれい縄暖簾なわのれんを下げた鰌屋どじょうやむかしから名代なだいなものだとか、食物くいものの話もだいぶ聞かされたが、すべてのうちで最も敬太郎の頭を刺戟しげきしたものは、長井兵助ながいひょうすけ居合抜いあいぬきと、脇差わきざしをぐいぐいんで見せる豆蔵まめぞうと、江州伊吹山ごうしゅういぶきやまふもとにいる前足が四つで後足あとあしが六つある大蟇おおがまの干し固めたのであった。それらにはくらの二階の長持の中にある草双紙くさぞうし画解えときが、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。一本歯の下駄げた穿いたまま、小さい三宝さんぼうの上にしゃがんだ男が、たすきがけで身体からだよりも高くり返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆がまの上に胡坐あぐらをかいて、児雷也じらいやが魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡てんがんきょうを持った白い髯の爺さんが、唐机とうづくえの前に坐って、平突へいつくばったちょんまげを上から見下みおろすところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内けいだいには、歴史的に妖嬌陸離ようきょうりくりたる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎かげろっていたのである。東京へ来てから、この怪しい夢はもとより手痛く打ちくずされてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根にこうとりが巣を食っているだろうぐらいの考にふらふらとなる事がある。今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという料簡りょうけんあんに働らいて、足がおのずとこっちに向いたのである。しかしルナパークのうしろから活動写真の前へ出た時は、こりゃうらないしゃなどのいる所ではないと今更いまさらのようにその雑沓ざっとうに驚ろいた。せめて御賓頭顱おびんずるでもでて行こうかと思ったが、どこにあるか忘れてしまったので、本堂へあがって、魚河岸うおがし大提灯おおぢょうちん頼政よりまさぬえ退治たいじている額だけ見てすぐ雷門かみなりもんを出た。敬太郎の考えではこれから浅草橋へ出る間には、一軒や二軒の易者はあるだろう。もしったら何でも構わないから入る事にしよう。あるいは高等工業の先を曲って柳橋の方へ抜けて見ても好いなどと、まるで時分どきに恰好かっこう飯屋めしやでも探す気で歩いていた。ところがいざ探すとなると生憎あいにくなもので、平生ふだんは散歩さえすればいたるところに神易しんえきの看板がぶら下っている癖に、あの広い表通りに門戸を張っている卜者うらないはまるで見当らなかった。敬太郎はこの企図くわだてもまた例によって例のごとく、突き抜けずに中途でおしまいになるのかも知れないと思って少し失望しながら蔵前くらまえまで来た。するとやっとの事で尋ねる商売のうちが一軒あった。細長い堅木の厚板に、身の上判断と割書わりがきをした下に、文銭占ぶんせんうらないと白い字で彫って、そのまた下に、うるしで塗った真赤まっか唐辛子とうがらしいてある。この奇体な看板がまず敬太郎の眼をいた。



十七

 よく見るとこれは一軒の生薬屋きぐすりやの店を仕切って、その狭い方へこざっぱりした差掛さしかけ様のものを作ったので、中に七色唐辛子なないろとうがらしの袋を並べてあるから、看板の通りそれを売るかたわら、占ないを見る趣向に違ない。敬太郎けいたろうはこう観察して、そっと餡転餅屋あんころもちやに似た差掛の奥をのぞいて見ると、小作こづくりな婆さんがたった一人裁縫しごとをしていた。狭いへや一つの住居すまいとしか思われないのに、肝心かんじんの易者の影も形も見えないから、主人は他行中たぎょうちゅうで、細君が留守番をしているところかとも思ったが、店先の構造から推すと、奥は生薬屋の方と続いているかも知れないので、一概に留守と見切みきりをつける訳にも行かなかった。それで二三歩先へ出て、薬種店の方をのぞくと、八ツ目鰻めうなぎの干したのも釣るしてなければ、大きな亀の甲も飾ってないし、人形の腹をがらん胴にして、五色の五臓を外から見えるように、腹の中のたなせた古風の装飾もなかった。一本寺いっぽんじの隠居に似たひげのある爺さんはもとより坐っていなかった。彼は再び立ち戻って、身の上判断文銭占ぶんせんうらないという看板のかかった入口から暖簾のれんくぐって内へ入った。裁縫しごとをしていた婆さんは、針の手をやめて、大きな眼鏡めがねの上からにらむように敬太郎を見たが、ただ一口、うらないですかと聞いた。敬太郎は「ええちょっと見てもらいたいんだが、御留守おるすのようですね」と云った。すると婆さんは、ひざの上のやわらか物をすみの方へ片づけながら、御上りなさいと答えた。敬太郎は云われる通り素直に上って見ると、狭いけれども居心地の悪いほどよごれたへやではなかった。現に畳などは取り替え立てでまだ新らしいがした。婆さんは煮立った鉄瓶てつびんの湯を湯呑ゆのみいで、香煎こうせんを敬太郎の前に出した。そうして昔は薬箱でも載せた棚らしい所に片づけてあった小机を取りおろしにかかった。その机には無地の羅紗らしゃがかけてあったが、婆さんはそれをそのまま敬太郎の正面にえて、そうして再びもとの座に帰った。
うらないは私がするのです」
 敬太郎は意外の感に打たれた。このいさい丸髷まるまげった。黒繻子くろじゅすえりのかかった着物の上に、地味なしまの羽織を着た、一心に縫物をしている、純然家庭的の女が、自分の未来に横たわる運命の予言者であろうとは全く想像のほかにあったのである。その上彼はこの婦人の机の上に、筮竹ぜいちく算木さんぎ天眼鏡てんがんきょうもないのを不思議にながめた。婆さんは机の上に乗っている細長い袋の中からちゃらちゃらと音をさせて、穴のいたぜにを九つ出した。敬太郎は始めてこれが看板に「文銭占ない」とある文銭なるものだろうと推察したが、さてこの九枚の文銭が、暗い中で自分をあやつっている運命の糸と、どんな関係をっているか、固より想像し得るはずがないので、ただそこに鋳出いだされた模様と、それがしまってあった袋とを見比べるだけで、何事も云わずにいた。袋は能装束のうしょうぞくの切れ端か、懸物かけものの表具の余りでこしらえたらしく、金の糸が所々に光っているけれども、だいぶ古いものと見えて、手擦てずれと時代のため、派手な色を全く失っていた。
 婆さんは年寄に似合わない白い繊麗きゃしゃな指で、九枚の文銭を三枚ずつ三列みけたに並べたが、ひょっと顔を上げて、「身の上を御覧ですか」と聞いた。
「さあ一生涯いっしょうがいの事を一度に聞いておいても損はないが、それよりか今ここでどうしたらいいか、その方をきめてかかる方が僕には大切らしいから、まあそれを一つ願おう」
 婆さんはそうですかと答えたが、それで御年はとまた敬太郎の年齢を尋ねた。それから生れた月と日を確めた。そのあと胸算用むなざんようでもする案排あんばいしきで、指を折って見たり、ただかんがえたりしていたが、やがてまた綺麗きれいな指で例の文銭を新らしく並べえた。敬太郎は表に波が出たり、あるいは文字が現われたりして、三枚が三列に続く順序と排列を、深い意味でもあるような眼つきをして見守っていた。



十八

 婆さんはしばらく手をひざの上にせて、何事も云わずに古いぜにおもてをじっと注意していたが、やがて考えの中心点が明快はっきりまとまったという様子をして、「あなたは今迷っていらっしゃる」と云い切ったなり敬太郎けいたろうの顔を見た。敬太郎はわざと何も答えなかった。
「進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるが、これは御損ですよ。先へ御出おでになった方が、たとい一時は思わしくないようでも、末始終すえしじゅう御為おためですから」
 婆さんは一区限ひとくぎりつけると、また口を閉じて敬太郎の様子をうかがった。敬太郎は始めからただ先方のいう事をふんふん聞くだけにして、こちらでは喋舌しゃべらないつもりに、腹の中できめてかかったのであるが、婆さんのこの一言いちげんに、ぼんやりした自分の頭が、相手の声に映ってちらりと姿を現わしたような気がしたので、ついその刺戟しげきに応じて見たくなった。
「進んでも失敗しくじるような事はないでしょうか」
「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」
 これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという故意わざとらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」
「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただもう少し先まで御出おでなさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」
 こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って引込ひっこむ訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」
 婆さんはまた黙って文銭ぶんせんの上をながめていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあおんなじですね」と答えた。そうして先刻さっき裁縫しごとをしていた時に散らばした糸屑いとくずを拾って、その中からこんと赤の絹糸のかなり長いのをり出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗きれいり始めた。敬太郎はただ手持無沙汰てもちぶさた徒事いたずらとばかり思って、別段意にもとどめなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さにり上げて、文銭の上にせた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら派手はでな赤と地味なこんが。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へとけ出してやりそこないがちのものですが、あなたのは今のところこの縒糸よりいとみたように丁度ちょうど好い具合に、いっしょにからまり合っているようですから御仕合せです」
 絹糸のたとえは何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、うれしいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で地道じみちを踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉をみ込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。始めから敬太郎は占ないの一言いちごんで、是非共右か左へ片づけなければならないとまでせつに思いつめていた訳でもなかったけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけへだたった別世界の消息なら、もとより論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用のく点もあるので、敬太郎はそこにかすかな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」
「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」
「災難ですか」
「災難でもないでしょうが、気をつけないとやりそこないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」



十九

 敬太郎けいたろうの好奇心は少し鋭敏になった。
「全体どんな性質たちの事ですか」
「それは起って見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではないようです」
「じゃどうして失敗しくじらない工夫をして好いか、それも分らないでしょうね」
「分らない事もありませんが、もし御望みなら、もう一遍うらないを立て直して見て上げてもうござんす」
 敬太郎は、では御頼み申しますと云わない訳に行かなかった。婆さんはまた繊細きゃしゃな指先を小器用に動かして、例の文銭を並べえた。敬太郎から云えばせんの並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんにはそこに何か重大の差別があるものと見えて、その一枚を引っくり返すにも軽率に手は下さなかった。ようやく九枚をそれぞれ念入に片づけたあとで、婆さんは敬太郎に向って「大体分りました」と云った。
「どうすれば好いんですか」
「どうすればって、占ないには陰陽いんようの理で大きな形が現われるだけだから、実地は各自めいめいがその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考えるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分のようなまた他人ひとのような、長いようなまた短かいような、出るようなまた這入はいるようなものを待っていらっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすればうまく行きます」
 敬太郎はけむに巻かれざるを得なかった。いくら大きな形が陰陽の理で現われたにしたところで、これじゃ方角さえ立たないきりのようなものだから、たというそでも本当でも、もう少し切りつめた応用の利くところを是非云わせようと思って、二三押問答をして見たが、いっこうらちが明かなかった。敬太郎はとうとうこの禅坊主の寝言ねごとに似たものを、手拭てぬぐいくるんだ懐炉かいろのごとく懐中させられて表へ出た。おまけに出がけに七色唐辛子なないろとうがらしを二袋買ってたもとへ入れた。
 翌日彼は朝飯あさはんぜんに向って、煙の出る味噌汁椀みそしるわんふたを取ったとき、たちまち昨日きのうの唐辛子を思い出して、たもとから例の袋を取り出した。それを十二分にしるの上に振りかけて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ましたが、婆さんの云わゆる「陰陽の理によって現われた大きな形」と頭の中に呼び起して見ると、まだ漠然ばくぜん瓦斯ガスのごとく残っていた。しかし手のつけようのないなぞに気をむほど熱心なうらない信者でもないので、彼はどうにかそれを解釈して見たいと焦心あせ苦悶くもんを知らなかった。ただその分らないところに妙なおもむきがあるので、忘れないうちに、婆さんの云った通りを紙片かみぎれに書いて机の抽出ひきだしへ入れた。
 もう一遍田口に会う手段を講じて見る事の可否は、昨日きのうすでに婆さんの助言じょごんで断定されたものと敬太郎は解釈した。けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。彼は須永すながへ行って彼の叔父がすでに大阪から帰ったかどうか尋ねて見ようかと考えたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を圧迫しているので、足を運ぶ勇気がちょっと出なかった。電話もこの際利用しにくかった。彼はやむを得ず、手紙で用を弁ずる事にした。彼はせんだって須永の母に話したとほぼ同様の顛末てんまつを簡略に書いた後で、田口がもう旅行から帰ったかどうかを聞き合わせて、もし帰ったなら御多忙中はなはだ恐れ入るけれども、都合して会ってくれる訳には行くまいか、こっちはどうせひま身体からだだから、いつでも指定されて時日に出られるつもりだがと、この間の権幕けんまくは、綺麗きれいに忘れたような口ぶりを見せた。敬太郎はこの手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも予想した。ところが二日立っても三日立っても何の挨拶あいさつもないので、少し不安の念に悩まされ出した。なまじい売卜者うらないしゃの言葉などに動かされて、恥をいてはつまらないという後悔もまじった。すると四日目の午前になって、突然田口から電話口へ呼び出された。



二十

 電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今すぐ来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。敬太郎けいたろうはすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて愛嬌あいきょうが足りない気がするので、少し色を着けるために、須永すなが君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、手数てかずだから直接に私の方で御都合を伺がいました。じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。と云ってそれなり引込ひっこんでしまった。敬太郎はまた例のはかま穿きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。それからこの間買ったばかりの中折なかおれを帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気をみなぎらして快豁かいかつに表へ出た。外には白いしもを一度にくだいた日が、木枯こがらしにも吹きくられずに、おだやかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎はその中を突切つっきる電車の上で、光をいて進むような感じがした。
 田口の玄関はこの間と違って蕭条ひっそりしていた。取次とりつぎに袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして叮嚀ていねいに来意を告げた。書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ這入はいったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次のそろえてくれた上靴スリッパー穿いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜けんそんから、彼は腰の高い肱懸ひじかけも装飾もつかない最も軽そうなのをって、わざと位置の悪い所へ席を占めた。
 やがて主人が出て来た。敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の挨拶あいさつやら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと挨拶あいさつした。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰てもちぶさたと知りながら黙らなければならなかった。主人は巻莨入まきたばこいれから敷島しきしまを一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」
 実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望をっています」
 田口は笑い出した。そうして機嫌きげんの好い顔つきをして、学士のかずのこんなにえて来た今日こんにち、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情をねんごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛をのがれるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。すぐという訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家おうちの――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事わたくしごとにででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」
 敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。



二十一

 おだやかな冬の日がまた二三日続いた。敬太郎けいたろうは三階のへやから、窓に入る空と樹と屋根瓦やねがわらながめて、自然を橙色だいだいいろに暖ためるおとなしいこの日光が、あたかも自分のために世の中を照らしているような愉快を覚えた。彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。そうしてその結果がどんな異様の形をよそおって、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者のもういで以上のものまで含んでいた。彼は一定の職業から生ずる義務を希望したばかりでなく、刺戟しげきちた一時性の用事をも田口から期待した。彼の性質として、もし成効の影が彼をかすめてひらめくならば、おそらく尋常の雑務とは切り離された特別の精彩を帯びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだろうぐらいに考えた。そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴していたのである。
 すると四日ばかりして、また田口から電話がかかった。少し頼みたい事ができたが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間がってかえって面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委細いさいはそれを見て承知してくれ。もし分らない事があったら、また電話で聞き合わしてもいいという通知であった。敬太郎はぼんやり見えていた遠眼鏡とおめがねの度がぴたりと合った時のように愉快な心持がした。
 彼は机の前を一寸いっすんも離れずに、速達便の届くのを待っていた。そうしてその間絶ず例の想像をたくましくしながら、田口のいわゆる用事なるものを胸の中で組み立てて見た。そこにはいつか須永すながの門前で見た後姿の女が、ややともすると断わりなしに入り込んで来た。ふと気がついて、もっと実際的のものであるべきはずだと思うと、その時だけは自分で自分の空想を叱るようにしては、彼はもどかしい時を過ごした。
 やがて待ちこがれた状袋が彼の手に落ちた。彼はすっと音をさせて、封を裂いた。息もがずに巻紙のはしから端までを一気に読み通して、思わずあっというかすかな声を揚げた。与えられた彼の用事は待ち設けた空想よりもなお浪漫的ロマンチックであったからである。手紙の文句はもとより簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好かっこうの男がある。それは黒の中折なかおれ霜降しもふり外套がいとうを着て、顔の面長おもながい背の高い、せぎすの紳士で、まゆと眉の間に大きな黒子ほくろがあるからその特徴を目標めじるしに、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。同時に田口が自己の社会的利害をまもるために、こんな暗がりの所作しょさをあえてして、他日の用に、ひとの弱点を握っておくのではなかろうかと云ううたがいを起した。そう思った時、彼は人のいぬに使われる不名誉と不徳義を感じて、一種苦悶くもん膏汗あぶらあせわきの下に流した。彼は手紙を手にしたまま、じっとひとみえたなり固くなった。しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分がじかに彼に会った時の印象とをまとめて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の内行ないこうさぐりを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な料簡りょうけんから出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん硬直こうちょくになった筋肉の底に、またあたたかい血がかよい始めて、徳義に逆らう吐気むかつきなしに、ただ興味という一点からこの問題を面白くながめる余裕よゆうもできてきた。それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやりおおせて見ようという気になった。彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。



二十二

 田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、まゆと眉の間の黒子ほくろだけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線のもとで、乗降のりおりに忙がしい多数の客のうちから、指定された局部の一点を目標めじるしに、これだと思う男をあやまちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人のかずだけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先みせさきに、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやらそなえるやらして、電灯以外の景気をけて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定かんじょうに入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手際てぎわではという覚束おぼつかない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜降しもふり外套がいとうに黒の中折なかおれという服装いでたちで電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一縷いちるの望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな恰好かっこうにしろ手がかりになりようはずがないが、黒の中折をかぶっているなら、色変りよりほかに用いる人のない今日こんにちだから、すぐ眼につくだろう。それを目宛めあてに注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
 こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計をながめると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前にむこうへ着くとしたところで、三時頃からうちを出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶予ゆうよがある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、美土代町みとしろちょうと小川町が、丁字ていじになって交叉している三つ角の雑沓ざっとうが入り乱れて映るだけで、これと云って成功をいざなうに足る上分別じょうふんべつは浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛念けねんが、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机のふちに掛けて、勢よく立ち上がろうとする途端とたんに、この間浅草でうらないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざるなぞとして、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出ひきだしに入れておいた。でまたその紙片かみぎれを取り出して、自分のようで他人ひとのような、長いようで短かいような、出るようで這入はいるようなという句をかずながめた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性をったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲まわりの物から、自分のようで他人ひとのような、長いようで短かいような、出るようで這入はいるようなものをさがしあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこのなぞを解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
 ところがまず眼の前の机、書物、手拭てぬぐい座蒲団ざぶとんから順々に進行して行李こうりかばん靴下くつしたまでいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦燥いらだつと共に乱れて来た。彼の観念は彼のへやの中をめぐって落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜降しもふり外套がいとうを着た黒の中折をかぶった背の高いやせぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威をそなえて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのないひげやした森本の容貌ようぼうを想像の眼でながめた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。



二十三

 森本の二字はとうから敬太郎けいたろうの耳に変な響を伝える媒介なかだちとなっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴ふちょうに変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋杖ステッキ聯想れんそうしたものだが、洋杖が二人をつなぐ縁に立っていると解釈しても、あるいは二人の中をく邪魔にはさまっていると見傚みなしても、とにかく森本とこの竹の棒の間にはある距離へだたりがあって、そう一足飛いっそくとびに片方から片方へ移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本というくらいはげしく敬太郎の頭を刺戟しげきするのである。その刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有のようなまた森本の所有のような、持主のどっちとも片づかないという観念が、ほてった血に流されながら偶然浮び上った時、彼はああこれだと叫んで、乱れ逃げる黒い影の内から、その洋杖だけをうんとつかまえたのである。
「自分のような他人ひとのような」と云った婆さんのなぞはこれで解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがった。けれどもまだ「長いような短かいような、出るような這入はいるような」というところまでは考えて見ないので、彼はあまる二カ条の特性をも等しくこの洋杖のうちからさがし出そうという料簡りょうけんで、さらに新たな努力を鼓舞こぶしてかかった。
 始めは見方一つで長くもなり短かくもなるくらいの意味かも知れないと思って、先へ進んで見たが、それでは余り平凡過ぎて、解釈がついたもつかないも同じ事のような心持がした。そこでまた後戻りをして、「長いような短かいような」という言葉を幾度いくたびか口の内でくり返しながら思案した。が、容易に解決のできる見込は立たなかった。時計を見ると、自由に使っていい二時間のうちで、もう三十分しか残っていない。彼は抜裏ぬけうらと間違えて袋の口へ這入はいり込んだ結果、好んで行き悩みの状態にもだえているのでは無かろうかと、自分で自分の判断を危ぶみ出した。出端ではのない行きどまりに立つくらいなら、もう一遍引き返して、新らしいみちを探す方がましだとも考えた。しかしこう時間がせまっているのに、初手しょてから出直しては、とても間に合うはずがない、すでにここまで来られたという一部分の成功を縁喜えんぎにして、是非先へ突き抜ける方が順当だとも考えた。これがよかろうあれがよかろうと右左に思い乱れている中に、彼の想像はふと全体としてのつえを離れて、握りに刻まれたへびの頭に移った。その瞬間に、うろこのぎらぎらした細長い胴と、さじの先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない鎌首かまくびだから、長くなければならないはずだのに短かく切られている、そこがすなわち長いような短かいような物であると悟った。彼はこの答案を稲妻いなずまのごとく頭の奥にひらめかして、得意の余り踴躍こおどりした。あとに残った「出るような這入はいるような」ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。彼は鶏卵たまごともかえるとも何とも名状しがたい或物が、なかば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、み尽されもせず、のがれ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態を思い浮かべて、すぐこれだと判断したのである。
 これで万事が綺麗きれいに解決されたものと考えた敬太郎は、おどり上るように机の前を離れて、時計の鎖を帯にからんだ。帽子は手に持ったまま、はかま穿かずにへやを出ようとしたが、あの洋杖ステッキをどうして持って出たものだろうかという問題がちょっと彼を躊躇ちゅうちょさした。あれに手を触れるのは無論、たとい傘入かさいれから引き出したところで、森本が置き去りにして行ってからすでに久しい今日こんにちとなって見れば、主人に断わらないにしろ、とがめられたり怪しまれたりする気遣きづかいはないにきまっているが、さて彼らがそばにいない時、またおるにしても見ないうちに、それをげて出ようとするには相当の思慮か準備が必要になる。迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪禁まじないに使う品物を(これからその目的に使うんだという料簡りょうけんがあって)手に入れる時には、きっと人の見ていない機会をぬすんでやらなければかないという言い伝えを、郷里くににいた頃、よく母から聞かされていたのである。敬太郎は宿の上り口の正面にかけてある時計を見るふりをして、二階の梯子段はしごだんの中途まで降りて下の様子をうかがった。



二十四

 主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸火鉢まるひばちかかえ込んでいた。細君の姿はどこにも見えなかった。敬太郎けいたろうが梯子段の中途で、及び腰をして、硝子越ガラスごし障子しょうじの中をのぞいていると、主人の頭の上で忽然こつぜん呼鈴ベルはげしく鳴り出した。主人は仰向あおむいて番号を見ながら、おい誰かいないかねとつぎへ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分のへやへ帰って来た。
 彼はわざわざ戸棚とだなを開けて、行李こりの上に投げ出してあるセルのはかまを取り出した。彼はそれを穿くとき、腰板こしいたうしろに引きって、へやの中を歩き廻った。それから足袋たびいで、靴下にえた。これだけ身装みなりを改めた上、彼はまた三階を下りた。居間をのぞくと細君の姿は依然として見えなかった。下女もそこらにはいなかった。呼鈴ベルも今度は鳴らなかった。家中ひっそりかんとしていた。ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢にもたれて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所からはすに主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。主人はあんじょう、「御出かけで」と挨拶あいさつした。そうしていつもの通り下女を呼んで下駄箱げたばこにしまってある履物はきものを出させようとした。敬太郎は主人一人の眼をすめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られてはかなわないと思って、いやよろしいと云いながら、自分で下駄箱のたれを上げて、早速靴を取りおろした。うまい具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
「ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を穿いてしまったんで、またあがるのが面倒だから」
 敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。主人は自分よりほかのものでは到底とても弁じない用事なので、「はあようがす」と云ってさくに立って梯子段はしごだんのぼって行った。敬太郎はそのひまに例の洋杖ステッキ傘入かさいれからき取ったなり、き込むように羽織の下へ入れて、主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。彼は洋杖の頭の曲ったかどを、右のわきの下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。そこでいったん羽織の下からつえを出してへびの首をじっとながめた。そうしてたもと手帛ハンケチで上から下まで綺麗きれいほこりを拭いた。それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上にあごせた。そうしてやっと今一段落ついた自分の努力をかえりみて、ほっと一息いた。同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。考えて見ると、これほど骨を折って、ぬすむように持ち出した洋杖が、どうすればまゆと眉の間の黒子ほくろを見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような他人ひとのような、長いような短かいような、出るような這入はいるようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないでたずさえているというまでであった。この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうとそでに隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとのぎゃくを振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。そうして頭の毛穴から湯気の立つほどごうを煮やした先刻さっきの努力を気恥かしくも感じた。彼は自分で自分の所作しょさまぎらすために、わざと洋杖を取り直して、電車のゆかをとんとんと軽くたたいた。
 やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほどがあるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。そこには交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストのそばから、真直まっすぐに南へ走る大通りと、ゆるい弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とをながめた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。



二十五

 赤い郵便函ポストから五六間東へくだると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼にった。ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取りまぎれて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また目標めじるしの鉄の柱を離れて、四辺あたりの光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造くらづくりの瀬戸物屋があった。小さいさかずきのたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。大きな鉄製かねせい鳥籠とりかごに、陶器でできた餌壺えつぼをいくつとなく外からくくりつけたのも、そこにぶら下がっていた。その隣りは皮屋であった。眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、緋羅紗ひらしゃへりを取ったのがこの店のおもな装飾であった。敬太郎けいたろう琥珀こはくに似たその虎の眼を深く見つめて立った。細長くって真白な皮でできた襟巻えりまきらしいものの先に、豆狸まめだぬきのような顔が付着しているのも滑稽こっけいに見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。そうして瑪瑙めのうった透明なうさぎだの、紫水晶むらさきずいしょうでできた角形かくがたの印材だの、翡翠ひすい根懸ねがけだの孔雀石くじゃくせき緒締おじめだのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の硝子窓ガラスまどのぞいた。
 敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工からきざいくの店先まで来た。その時うしろから来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、筋違すじかいに通を横切って細い横町の角にある唐物屋とうぶつやそばへ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、先刻さっきのと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこのかどに立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも万世橋まんせいばしの方から真直まっすぐに進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの懸念けねんもなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足のむきえにかかった途端とたんに、南から来た一台がぐるりと美土代町みとしろちょうの角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨すがもの二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直まっすぐに突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先刻さっき彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれからあとけようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見当けんとうがつかない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の距離みちのりを目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ覚束おぼつかない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張りおおせる手際てぎわを要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。彼は自分の住居すまっている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の迂闊うかつを深く後悔した。
 彼は困却の余りふと思いついた窮策きゅうさくとして、須永すながの助力でも借りに行こうかと考えた。しかし時計はもう四時七分前にせまっていた。ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かいつまんで用事をみ込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。よしそのくらいのは取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。それもこの人込の中だから、手を挙げたり手帛ハンケチを振るぐらいではちょっと通じかねる。まぎれもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う突飛とっぴなよほどな場合でも体裁ていさいを重んずる須永のような男にできるはずがない。万一我慢してやってくれたところで、こっちからけて行く間には、肝心かんじんの黒の中折帽なかおれぼうかぶった男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。



二十六

 決心はしたようなものの、それでは今立っている所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと成効せいこうを度外に置いて仕事にかかった不安を感ぜずにはいられなかった。彼は首を延ばすようにして、また東の停留所を望んだ。位地のせいか、むきの具合か、それとも自分が始終乗降のりおりに慣れている訳か、どうもそちらの方が陽気に見えた。尋ねる人も何だかむこうで降りそうな心持がした。彼はもう一度見張るステーションを移そうかと思いながら、なおかつ決しかねてしばらく躊躇ちゅうちょしていた。するとそこへ江戸川行の電車が一台来てずるずるととまった。誰も降者おりてがないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちにまた車を出そうとした。敬太郎けいたろうは錦町へ抜ける細い横町を背にして、眼の前の車台にはほとんど気のつかないほど、ここにいようかあっちへ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然け出して来た一人の男が、敬太郎を突きけるようにして、ハンドルへ手をかけた運転手の台へ飛び上った。敬太郎の驚ろきがまだ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出してすでに動き始めた。飛び上がった男は硝子戸ガラスどの内へ半分身体からだを入れながら失敬しましたと云った。敬太郎はその男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。彼は敬太郎に当った拍子ひょうしに、敬太郎の持っていた洋杖ステッキ蹴飛けとばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。敬太郎はすぐこごんで洋杖を拾い上げようとした。彼はその時へびの頭が偶然東向ひがしむきに倒れているのに気がついた。そうしてその頭の恰好かっこうを何となしに、方角を教える指標フィンガーポストのように感じた。
「やっぱり東が好かろう」
 彼は早足に瀬戸物屋の前まで帰って来た。そこで本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。彼は最初の二三台を親のかたきでもねらうようにこわい眼つきで吟味ぎんみしたあと、少し心に余裕よゆうができるに連れて、腹の中がだんだん気丈きじょうになって来た。彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見傚みなして、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人いちにんは広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴シンボルのごとく振り分ける分別盛ふんべつざかりの中年者ちゅうねんものであった。そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
 電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは権柄けんぺいずくで上からしかかって来る。敬太郎はどこの何物とも知れない男女なんにょあつまったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す一分時いっぷんじの争を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た所作しょさに見えて来る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした先刻さっきの二時間を、充分須永すながと打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、はるかに常識にかなった遣口やりくちだと考え出した。彼がこのにがい気分を痛切にめさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面にあおく沈んで来た。陰鬱いんうつな冬の夕暮を補なう瓦斯ガスと電気の光がぽつぽつそこらの店硝子みせガラスいろどり始めた。ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、廂髪ひさしがみった一人の若い女が立っていた。電車の乗降のりおりが始まるたびに、彼は注意の余波なごりを自分の左右に払っていたつもりなので、いつどっちから歩き寄ったか分らない婦人を思わぬ近くに見た時は、何より先にまずその存在に驚ろかされた。



二十七

 女は年に合わして地味なコートを引きるように長く着ていた。敬太郎けいたろうは若い人の肉を飾る華麗はなやかな色をその裏に想像した。女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。襦袢じゅばんえりさえ羽二重はぶたえ襟巻えりまきで隠していた。その羽二重の白いのが、夕暮のせまるに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の周囲まわりに何といってひとの注意をくものを着けていなかった。けれども時節柄じせつがら頓着とんじゃくなく、当人の好尚このみを示したこの一色ひといろが、敬太郎には何よりも際立きわだって見えた。彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和なな物に出逢った感じよりも、すすけた往来に冴々さえざえしい一点を認めた気分になって女のくびあたりを注意した。女は敬太郎の視線を正面まともに受けた時、心持身体からだむきを変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、びんかられた毛をうしろへ掻きやる風をした。もとより女の髪は綺麗きれいそろっていたのだから、敬太郎にはこの挙動がのないしなとしてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
 女は普通の日本の女性にょしょうのように絹の手袋を穿めていなかった。きちりと合う山羊やぎの革製ので、華奢きゃしゃな指をつつましやかに包んでいた。それが色の着いたろうを薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋のしわ一分いちぶたるみも余していなかった。敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い手頸てくびを三寸も深く隠しているのに気がついた。彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。けれども乗降のりおりの一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の余裕よゆうができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した相間あいま相間にはさとられないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
 始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押しつぶされそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費をこらえた方が差引とくになるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素振そぶりを見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちにかさを広げる人のように、わざと彼の観察をける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露骨むきだしに女の方を見るのをつつしんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡巡しゅんじゅんする気色けしきもなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓硝子まどガラスに着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝珊瑚えださんごの置物だのをながめ始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立こういだてをして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
 女の容貌ようぼうは始めから大したものではなかった。真向まむきに見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴々はればれしい心持のするひとみっていた。宝石商の電灯は今硝子越ガラスごし彼女かのおんなの鼻と、ふっくらした頬の一部分と額とを照らして、はすかけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓りんかくを与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包まれた恰好かっこうのいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。



二十八

 電車がまた二三台来た。そうして二三台共また敬太郎けいたろうの失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は今更いまさら気がついたように、頭の上にかぶさる黒い空を仰いで、苦々にがにがしく舌打したうちをした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、ひとだますためにわざわざこしらえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋杖ステッキも、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌々いまいましさの種になった。彼は暗い夜をあざむいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必竟ひっきょう自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興をましながらまだそのくらい寝惚ねぼけた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿をあざける記念かたみだから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
 彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先刻さっきの若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も人尋常ひとなみより恰好かっこうよく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心をいた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子のそろった五本の指と、しなやかなかわで堅くくくられた手頸てくびと、手頸の袖口そでくちの間からかすかに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く一所ひとところに立ち尽すものに、寒さはつらく当った。女は心持ちあご襟巻えりまきの中にうずめて、俯目勝ふしめがちにじっとしていた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの眼遣めづかいの底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から蚤取眼のみとりまなこで、黒の中折帽をかぶった紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちにがけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間あまりをここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らのかんがえがなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕出しでかすか分らない人として何のために自分がねらわれるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所のうしろを西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固くはばかった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝心かんじんの目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝子窓ガラスまどのぞいて、そこに飾ってある天鵞絨びろうどえりの着いた女の子のマントをながめる風をしながら、そっとうしろを振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すようにあとから後から来る陰になって、白い襟巻えりまきも長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最少もうすこし観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物数奇ものずきを起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにしてうかがうと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。



二十九

 その時敬太郎けいたろうの頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪ひさしがみっているので、その辺の区別は始めから不分明ふぶんみょうだったのである。が、いよいよ物陰に来て、なかばうしろになったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼をおそって来た。
 見かけからいうとあるいは人にとついだ経験がありそうにも思われる。しかし身体からだの発育が尋常よりはるかに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。それならなぜあんな地味な服装つくりをしているのだろう。敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄しまがらについて、何をいう権利もたない男だが、若い女ならこの陰鬱いんうつ師走しわすの空気をね返すように、派出はでな色を肉の上に重ねるものだぐらいのばっとした観察はあったのである。彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える刺戟性しげきせいあやをどこにも見せていないのを不思議に思った。女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意をくのはくび周囲まわりを包む羽二重はぶたえの襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
 敬太郎は年に合わして余りにびる気分を失い過ぎたこの衣服なりを再びうしろから見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。その上この女の態度にはどこか大人おとなびた落ちつきがあった。彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは見傚みなし得なかった。家庭以外の空気に触れたため、初々ういういしい羞恥はにかみが、手帛ハンケチに振りかけた香水ののように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、身体からだ全体の運動となったり、まゆや口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は先刻さっき目撃した。最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼はくに認めていた。けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、いて動かすまいとつとめる女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚にともなったものだと彼は勘定かんていしていた。
 ところが今うしろから見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間にうまく調子が取れているように思われた。彼女かのおんなは先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さをしのぎかねる風情ふぜいもなく、ほとんど閑雅かんがとでも形容したい様子をして、一段高くなった人道のはじに立っていた。そばには次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分のそばへ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち退いたので大いに安心したらしい彼女は、そのうちで最も熱心に何かを待ち受ける一人いちにんとなって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。敬太郎は派出所の陰をかみへ廻って車道へ降りた。そうしてペンキ塗の交番をたてに、巡査の立っている横から女の顔をねらうように見た。そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。今まで後姿うしろすがたながめて物陰にいた時は、彼女を包む一色ひといろの目立たないコートと、その背の高さと、大きな廂髪ひさしがみとを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論をもてあそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。要するに女は先刻より大変若く見えたのである。切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ生々いきいきした一種はなやかな気色きしょくちて、それよりほかの表情はごうも見当らなかった。敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
 やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりとゆるく廻転して来た。それが女のいる前ですべるようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものをげて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りるとすぐに女の前に行って、そこに立ちどまった。



三十

 敬太郎けいたろうは女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初からながめていたが、美くしい歯をき出しに現わして、潤沢うるおいゆたかな黒い大きな眼を、上下うえしたまつげの触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に見惚みとれると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い中折なかおれが乗っているのに気がついた。外套がいとう判切はっきり霜降しもふりとは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎のひとみに投げた。その上背は高かった。やせぎすでもあった。ただ年齢としの点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。けれどもその人が寿命の度盛どもりの上において、自分とははるへだたった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を躊躇ちゅうちょなく四十恰好がっこうと認めた。これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先刻さっきから馬鹿を尽してつけねらった本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。彼は例刻の五時がとうのむかしに過ぎたのに、妙な酔興すいきょうを起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ちおおせたのを幸運の一つに数えた。彼はこのエックスという男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がワイという女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
 男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する気色けしきもなく、なお立ちながら話していた。女は始終微笑をらす事をやめなかった。男も時々声を出して笑った。二人が始めて顔を合わした時の挨拶あいさつの様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。異性をつなぎ合わせるようで、その実両方の仲をく、慇懃いんぎん男女間なんにょかんの礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。男は帽子のふちに手をかける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はそのつばの下にあるべきはずの大きな黒子ほくろを面と向って是非突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から出任でまかせの質問をかけたかも知れない。それでなくても、ただちに彼のそばへ近寄って、満足の行くまでその顔をのぞき込んだろう。この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審をいだいた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌疑けんぎの火の手をわざと強くして、自分の目的を自分でこわすと同じ結果になる。
 こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会がめぐって来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。その代り見え隠れに二人のあとけて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳にはさもうと覚悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自分の骨折から出る結果は、世故せこに通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ淡泊たんぱくに信じていた。
 やがて男は女をいざなう風をした。女は笑いながらそれをこばむように見えた。しまいになかば向き合っていた二人が、肩と肩をそろえて瀬戸物屋の軒端のきば近く歩き寄った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑をまぬかれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、故意わざとあらぬかたを見て歩いた。



三十一

「だってあんまりだわ。こんなに人を待たしておいて」
 敬太郎けいたろうの耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ちふさがりそうにした。敬太郎の方でも、うしろから向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければばつが悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急にそばにあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな硝子壺ガラスつぼの中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は外套がいとうの中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体からだを横にして、下向きに右手で持ったものを店のに映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
「遅いわあなた、六時なら。あたしもう少しでかいるところよ」
「どうも御気の毒さま」
 二人はまた歩き出した。敬太郎も壺入つぼいりのビスケットを見棄ててそのあとに従がった。二人は淡路町あわじちょうまで来てそこから駿河台下するがだいしたへ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。その時彼はその門口かどぐちから射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんなうちいられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。それは宝亭たからていと云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入でいりをするうちであった。近頃普請ふしんをしてから新らしいペンキの色を半分電車通りにさらして、はすかけに立ち切られたようなむねを南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒ビールの広告写真を仰ぎながら、肉刀ナイフ肉叉フォークすさまじく闘かわした数度すどの記憶さえっていた。
 二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しはむらさきがかった空気の匂う迷路メーズの中に引き入れられるかも知れないくらいの感じがあんに働らいてこれまで後をけて来た敬太郎には、馬鈴薯じゃがいもや牛肉を揚げる油のにおいが、台所からぷんぷん往来へあふれる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、はるかに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だとさとった。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺戟しげきされた食慾をたすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人のあとを追ってそこの二階へのぼろうとしたが、電灯の強く往来へ門口かどぐちまで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不味まずい。ひょっとするとこの人は自分をけて来たのだという疑惑を故意ことさら先方に与える訳になる。
 敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い小路こうじを一丁ばかり先へ歩いた。そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の身体からだの中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。それからそのかどくぐった。時々来た事があるので、彼はこのうちの勝手をほぼ承知していた。下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、あがって右の奥か、左の横にある広間をのぞけば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長いへやまでけてやろうぐらいの考で、階段はしごだんを上りかけると、白服の給仕ボーイが彼を案内すべく上り口に立っているのに気がついた。



三十二

 敬太郎けいたろうは手に持った洋杖ステッキをそのままに段々をのぼり切ったので、給仕は彼の席を定める前に、まずその洋杖を受取った。同時にこちらへと云いながら背中を向けて、右手の広間へ彼を案内した。彼は給仕のうしろから自分の洋杖がどこに落ちつくかを一目見届けた。するとそこに先刻さっき注意した黒の中折帽なかおれぼうが掛っていた。霜降しもふりらしい外套がいとうも、女の着ていた色合のコートも釣るしてあった。給仕がそのすそを動かして、竹の洋杖を突込つっこんだ時、大きな模様を抜いた羽二重はぶたえの裏が敬太郎の眼にちらついた。彼はへびの頭がコートの裏に隠れるのを待って、そらにその持主の方に眼を転じた。幸いに女は男と向き合って、入口の方に背中ばかりを見せていた。新らしい客の来た物音に、振り返りたい気があっても、ぐるりと廻るのが、いったん席に落ちついた品位をくずおそれがあるので、必要のない限り、普通の婦人はそういう動作を避けたがるだろうと考えた敬太郎は、女の後姿をながめながら、ひとまず安堵あんどの思いをした。女は彼の推察通りはたしてうしろを向かなかった。彼はそのに女の坐っているすぐそばまで行って背中合せに第二列の食卓につこうとした。その時男は顔を上げて、まだ腰もかけずむきも改ためない敬太郎を見た。彼の食卓の上には支那めいたはちに植えた松と梅の盆栽ぼんさいが飾りつけてあった。彼の前にはスープの皿があった。彼はその中に大きなさじを落したなり敬太郎と顔を見合せたのである。二人の間によこたわる六尺に足らない距離は明らかな電灯がくまなく照らしていた。卓上に掛けた白い布がまたこの明るさを助けるように、いさぎいい光を四方の食卓テーブルから反射していた。敬太郎はこういう都合のいい条件の具備したへやで、男の顔を満足するまで見た。そうしてその顔のまゆと眉の間に、田口から通知のあった通り、大きな黒子ほくろを認めた。
 この黒子ほくろを別にして、男の容貌ようぼうにこれと云った特異な点はなかった。眼も鼻も口も全く人並であった。けれども離れ離れに見ると凡庸ぼんような道具がそろって、面長おもながな顔の表にそれぞれの位地を占めた時、彼は尋常以上に品格のある紳士としか誰の目にも映らなかった。敬太郎と顔を合せた時、スープの中にさじを入れたまま、すする手をしばらくやめた態度などは、どこかにむしろ気高い風を帯びていた。敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵という文字に普通付着している意味を心のうちで考え出して、この男の風采ふうさい態度たいどと探偵とはとても釣り合わない性質のものだという気がした。敬太郎から見ると、この人は探偵してしかるべき何物をも彼の人相の上にっていなかったのである。彼の顔の表に並んでいる眼鼻口のいずれを取っても、その奥に秘密を隠そうとするには、余りにできが尋常過ぎたのである。彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けたこのよいの仕事に対する自分の興味が、すでに三分の一ばかり蒸発したような失望を感じた。第一こんな性質たちの仕事を田口から引き受けた徳義上の可否さえ疑がわしくなった。
 彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして麺麭パンに手もれずにいた。男と女は彼らのそばに坐った新らしい客に幾分か遠慮の気味で、ちょっとの話を途切らした。けれども敬太郎の前に暖められた白い皿が現われる頃から、また少し調子づいたと見えて、二人の声が互違たがいちがいに敬太郎の耳にった。――
「今夜はいけないよ。少し用があるから」
「どんな用?」
「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」
「あら好くってよ。あたしちゃんと知ってるわ。――さんざっぱらひとを待たした癖に」
 女は少しねたような物の云い方をした。男は四辺あたりに遠慮する風で、低く笑った。二人の会話はそれぎり静かになった。やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあじきじゃありませんか」
 女が勧めている事も男が躊躇ちゅうちょしている事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心かんじんな目的地になると、彼には何らの観念もなかった。



三十三

 もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎けいたろうは自分の前に残された皿の上の肉刀ナイフと、その傍に転がった赤い仁参にんじん一切ひときれながめていた。女はなお男をいる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云ってのがれていた。しかし相手をおこらせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆あおえんどうが運ばれる時分には、女もとうとうを折り始めた。敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が好加減いいかげんに降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの機会はずみに小耳にはさんでおきたかったが、いよいよ話がまとまらないとなると、男女なんにょの問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。
「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。
「あれって、ただあれじゃ分らない」
「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」
「ちっとも分らない」
「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」
 敬太郎はちょっと振り向いてうしろが見たくなった。その時階段はしごだんを踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度にあがって来た。そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を穿いた軍人であった。そうしてゆかの上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。三人は上って左側のへやへ案内された。この物音が例の男と女の会話をき乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。
「この間見せていただいたものよ。分って」
 男は分ったとも分らないとも云わなかった。敬太郎には無論想像さえつかなかった。彼は女がなぜ淡泊たんぱくに自分の欲しいというものの名を判切はっきり云ってくれないかをうらんだ。彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。すると、
「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。
「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。今度こんだでいいから」
「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」
「あッうれしい」
 敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男の顔もついでに見ておきたかった。けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動はつつしまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。すると勝手のあがくちの方から、給仕ボーイが白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引きえに、二人の前へ置いて行った。
「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。
あたしもうたくさん」
 女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。二人の問答から察すると、女の男にくれとせまったのは珊瑚樹さんごじゅたまか何からしい。男はこういう事に精通しているという口調くちょうで、いろいろな説明を女に与えていた。が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家こうずかうれしがる知識に過ぎなかった。練物ねりもので作ったのへ指先のもんを押しつけたりして、時々うまくごまかした贋物がんぶつがあるが、それは手障てざわりがどこかざらざらするから、本当の古渡こわたりとはすぐ区別できるなどと叮嚀ていねいに女に教えていた。敬太郎は前後あとさき綜合すべあわして、何でもよほどたっとい、また大変珍らしい、今時そう容易たやすくは手に入らない時代のついたたまを、女が男からもらう約束をしたという事が解った。
「やるにはやるが、御前あんなものを貰ってなんにする気だい」
「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」



三十四

 しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物くだものにするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ」と答えた。彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた敬太郎けいたろうに、たちまち自分の義務を注意するように響いた。彼はこの料理屋を出たあとの二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。おくれて席を立つにしても、巻煙草まきたばこを一本吸わない先に、夜と人と、雑沓ざっとう暗闇くらやみの中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。もし間違いなく彼らの影を踏んであとから喰付くっついて行こうとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は早く勘定を済ましておくにくはないという気になって、早速給仕ボーイを呼んでビルを請求した。
 男と女はまだ落ちついて話していた。しかし二人の間に何というきまった題目も起らないので、それを種に意見や感情の交換とりやりも始まる機会おりはなく、ただだらしのない雲のようにそれからそれへと流れて行くだけに過ぎなかった。男の特徴に数えられたまゆと眉の間の黒子ほくろなども偶然女の口にのぼった。
「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」
「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」
「だけどさ。見っともなかなくって、そんなとこにあって」
「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」
「早く大学へ行って取って貰うといいわ」
 敬太郎はこの時指洗椀フィンガーボールの水に自分の顔の映るほど下を向いて、両手で自分の米噛こめかみを隠すようにおさえながら、くすくすと笑った。ところへ給仕が釣銭を盆に乗せて持って来た。敬太郎はそっと立って目立たないように階段はしごだんあがくちまでおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は先刻さっき給仕に預けた洋杖ステッキを取って来るのを忘れた事に気がついた。その洋杖はいまだにへやすみに置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートのすそに隠されていた。敬太郎は室の中にいる男女なんにょはばかるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握った時、すべすべした羽二重はぶたえの裏と、柔かい外套がいとうの裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんときざあしに下へけ下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光をうしろにして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、または中川の角に添って連雀町れんじゃくちょうの方へ抜けようが、あるいはかどからすぐ小路こうじ伝いに駿河台下するがだいしたへ向おうが、どっちへ行こうと見逃みのが気遣きづかいはないと彼は心丈夫に洋杖ステッキを突いて、目指す家の門口かどぐちを見守っていた。
 彼は約十分ばかり待った後で、注意の焼点しょうてんになる光のうちに、いっこう人影が射さないのを不審に思い始めた。やむを得ず二階をながめてその窓だけ明るくなった奥をのぞくように、彼らの早く席を立つ事を祈った。そうして待ち草臥くたびれた眼を移すごとに、屋根の上に広がる黒い空を仰いだ。今まで地面の上を照らしている人間の光ばかりにあざむかれて、まるでその存在を忘れていたこの大きな夜は、暗い頭の上で、先刻さっきから寒そうな雨をかもしていたらしく、敬太郎の心をびしがらせた。ふと考えると、今までは自分に遠慮してただの話をしていた二人が、自分の立ったのを幸いに、自分の役目として是非聞いておかなければならないような肝心かんじんの相談でもし始めたのではなかろうか。彼はこの疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、そのうちに二人の向き合った姿をありありと認めた。



三十五

 彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのをくやんだ。けれども二人が彼に気兼きがねをする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰をえていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まですわったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。すると帽子のひさしへ雨が二雫ふたしずくほど落ちたような気がするので、彼はまた仰向あおむいて黒い空を眺めた。やみよりほかに何も眼をさえぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。彼はほおの上に一滴いってきの雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、恰好かっこうさえ分らない大きな暗いものを見つめているあいだに、今にも降り出すだろうという掛念けねんをどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似まねを好んでやるのだろうと偶然考えた。同時にすべての責任が自分の今突いている竹の洋杖ステッキにあるような気がした。彼は例のごとくへびの頭を握って、寒さに対する欝憤うっぷんを晴らすごとくに、二三度それをはげしく振った。その時待ち佗びた人の影法師がそろって洋食店の門口を出た。敬太郎けいたろうは何より先に女の細長いくびを包む白い襟巻えりまきに眼をつけた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。敬太郎も猶予ゆうよなく向うへ渡った。彼らはゆるい歩調で、にぎやかに飾った店先をのきごとにのぞくように足を運ばした。うしろからいて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。男はの高い葉巻をくわえて、行く行く夜の中へかすかな色を立てる煙を吐いた。それが風の具合でうしろから従がう敬太郎の鼻を時々快ろよくおかした。彼はそのにおいをぎ嗅ぎのろい足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。男は背が高いのでうしろから見ると、ちょっと西洋人のように思われた。それには彼の吹かしている強い葉巻が多少錯覚さっかくを助けた。すると聯想れんそうがたちまち伴侶つれの方に移って、女が旦那だんなから買ってもらったかわの手袋を穿めている洋妾らしゃめんのように思われた。敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似まねた。すると二人はまた美土代町みとしろちょうかどをこちらから反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人はまた歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱のそばへ寄って立った。彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。彼らは申し合せたように敬太郎の方をかえりみた。もとより彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子のつばをひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔をでて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当けんとうながめて見たりして、電車の現われるのをつらく待ちびた。
 もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗ったあとから這入はいって、嫌疑けんぎを避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートのすそを踏まえないばかりに引きって車掌台の上に足を移した。しかしあとからすぐ続くと思った男は、案外あが気色けしきもなく、足をそろえたまま、両手を外套がいとう隠袋かくしに突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から依託いたくされたのは女と関係のない黒い中折帽なかおれぼうかぶった男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。



三十六

 女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ這入はいってしまった。冬のの事だから、窓硝子まどガラスはことごとくめ切ってあった。女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌あいきょうも見せなかった。それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。車は動き出した。二人の間に挨拶あいさつ交換やりとりがもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南のかたへ運び去った。男はこの時口にくわえた葉巻を土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋とうぶつやの前でとまった。そこは敬太郎けいたろうが人に突き当られて、竹の洋杖ステッキを取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男のあとを見え隠れにここまでいて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾ってある新柄しんがら襟飾ネクタイだの、絹帽シルクハットだの、かわじま膝掛ひざかけだのをのぞき込みながら、こう遠慮をするようでは、探偵の興もめるだけだと考えた。女がすでに離れた以上、自分の仕事にあきが来たと云ってはすまないが、ぜん同様であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかった。彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだものとして、下宿へ帰って寝ようかとも思った。
 そこへ男の待っている電車が来たと見えて、彼は長い手で鉄の棒を握るやいなせた身体からだていよくとまり切らない車台の上に乗せた。今まで躊躇ちゅうちょしていた敬太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、すぐ同じ車台に飛び上った。車内はそれほど込みあっていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕を充分持っていた。敬太郎は箱の中に身体を入れると同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集められた。そのうちには今すわったばかりの中折の男のもまじっていたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやという認識はあったが、つけねらわれているなという疑惑はさらに現われていなかった。敬太郎はようやく伸び伸びした心持になって、男と同じ側をって腰を掛けた。この電車でどこへ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。彼は男が乗り換えさえすれば、自分も早速降りるつもりで、停留所へ来るごとに男の様子をうかがった。男は始終しじゅう隠袋かくしへ手を突き込んだまま、多くは自分の正面かわがひざの上かを見ていた。その様子を形容すると、何にも考えずに何か考え込んでいると云う風であった。ところが九段下へかかった頃から、長い首を時々伸ばして、ある物を確かめたいように、窓の外を覗き出した。敬太郎もつい釣り込まれて、見悪みにくい外をかすようにながめた。やがて電車の走る響の中に、窓硝子まどガラスにあたってくだける雨の音が、ぽつりぽつりと耳元でし始めた。彼はたずさえている竹の洋杖ステッキを眺めて、この代りに雨傘あまがさを持って来ればよかったと思い出した。
 彼は洋食店以後、中折をかぶった男の人柄ひとがらと、世の中にまるでうたがいをかけていないその眼つきとを注意した結果、この時ふと、こんな窮屈な思いをして、いらざる材料を集めるよるも、いっそ露骨むきだしにこっちから話しかけて、当人の許諾を得た事実だけを田口に報告した方が、今更遅蒔おそまきのようでも、まだ気がいていやしないかと考えて、自分で自分を彼に紹介する便法べんぽうを工夫し始めた。そのうち電車はとうとう終点まで来た。雨はますます烈しくなったと見えて、車がとまるとざあという音が急に彼の耳をおそった。中折の男は困ったなと云いながら、外套がいとうえりを立てて洋袴ズボンすそを返した。敬太郎は洋杖を突きながら立ち上った。男は雨の中へ出ると、すぐ寄って来る俥引くるまひきつらまえた。敬太郎もおくれないように一台雇った。車夫は梶棒かじぼうを上げながら、どちらへと聞いた。敬太郎はあの車のあとについて行けと命じた。車夫はへいと云ってむやみにけ出した。一筋道を矢来やらいの交番の下まで来ると、車夫は又梶棒をとめて、旦那どっちへ行くんですと聞いた。男の乗った車はいくらほろの内から延び上っても影さえ見えなかった。敬太郎は車上に洋杖を突っ張ったまま、雨の音のする中で方角に迷った。






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