彼岸過迄 (作者:夏目漱石) - 報告 | 多賀城[たがのき] - 小説投稿サイト

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作者:管理人



 眼がめると、自分の住みれた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎けいたろうには全く変に思われた。昨日きのうの出来事はすべて本当のようでもあった。またまとまりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中にち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋かわやも、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めたまゆの間に黒子ほくろのある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚さんごたまも、みんな陶然とうぜんとした一種の気分を帯びていた。最もこの気分にちて活躍したものは竹の洋杖ステッキであった。彼がその洋杖を突いたまま、ほろを打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切ひとくぎりとして、ほとんど狐から取りかれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店のびしく照らされたびしょれの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒かじぼうを向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
 彼は寝ながら天井てんじょうながめて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔ふつかよいの眼と頭をもって、かいこの糸をくようにそれからそれへと出てくるこの記念かたみかず見つめていたが、しまいには眼先にただようふわふわした夢の蒼蠅うるささにえなくなった。それでもあとから後からと向うでひと勝手がってに現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関聯かんれんして、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容貌ようぼうもとより服装なりから歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判切はっきりと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、あざやかな色と形を備えてひとみおかして来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨夕ゆうべ法外な車賃を貪ぼられて、宿の門口かどぐちくぐった時、何心なくその洋杖を持ったまま自分のへやまで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸棚とだなの奥の行李こうりうしろへ投げ込んでしまったのである。
 今朝けさへびの頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後からよいへかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告にまとめる段になると、自分の引き受けた仕事は成効せいこうしているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖ステッキ御蔭おかげこうむっているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
 彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着よぎぐってね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日きのうの夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階のへやのぼった。そこの窓をいさぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟しげきした後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項についてつとめて実際的に思慮をめぐらした。





 突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎けいたろうは少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気がくので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これからすぐ行っていいかと聞くと、だいぶ待たしたあとで、差支さしつかえないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予ゆうよなく内幸町へ出かけた。
 田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄げたが一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物かけものが二幅掛かっていた。湯呑ゆのみのような深い茶碗ちゃわんに、書生が番茶を一杯んで出した。きりった手焙てあぶりも同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団ざぶとんも同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中にかしこまって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物かけもの価額ねだんを想像したり、手焙のふちで廻したり、あるいははかまひざへきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周囲まわりがあまり綺麗きれい調ととのっているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違棚ちがいだなの上にある画帖がじょうらしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないとことわるように光るので、彼はついに手を出しかねた。
 こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たしたあとで、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
 敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶あいさつを一と口と、それに添えた叮嚀ていねい御辞儀おじぎを一つした。それからすぐ昨日きのうの事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体からだも取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕よゆうの貯蔵庫でもあるように、けっして周章あわてて探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極しごく面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、あんに彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、そのわけはまるで解らなかった。すると、
「どうです昨日きのうは。うまく行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」というひとを馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠くちごもったあと
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
眉間みけん黒子ほくろがありましたか」
 敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
衣服なりもこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折なかおれに、霜降しもふり外套がいとうを着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少しおくれたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽどすぎのようでした」
「よっぽどすぎ。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
 今までおだやかに機嫌きげんよく話していた長者ちょうしゃから突然こう手厳てきびしくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。





 敬太郎けいたろうは今まで下町出したまちでの旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶あいさつっていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
 敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐくずして、
「そりゃわたしのために大変都合が好かった」と機嫌きげんの好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡しゅんじゅんした。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支さしつかえない」
 田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆てさげたばこぼん抽出ひきだしを開けると、その中からつのでできた細長い耳掻みみかきさがし出した。それを右の耳の中に入れて、さもゆそうにき廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の蹙面しかめつらを薄気味悪く感じた。
「実は停留所に女が一人立っていたのです」と彼はとうとう自白してしまった。
「年寄ですか、若い女ですか」
「若い女です」
「なるほど」
 田口はただ一口こう云っただけで、何とも後をいでくれなかった。敬太郎も頓挫とんざしたなり言葉を途切とぎらした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
「いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に黒子ほくろのある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから」
「しかしその女が黒子のある人の行動に始終しじゅう入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから」
「はあ」
 田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、「じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎はもとより知合だと答える勇気をたなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口をいた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、おだやかに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する気色けしきを見せなかったが、急にくだけた調子になって、
「どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと」と興味にちた顔を提煙草盆さげたばこぼんの上に出した。
「いえ、なに、つまらない女なんです」と敬太郎は前後のきがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は「つまらない女」という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で大濤おおなみが崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て」
 田口はまた普通の調子に戻って、真面目まじめに事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す顛末てんまつを、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に敷衍ふえんして、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議ななぞきて働らく洋杖ステッキを、どうかかえ出して、どう利用したかに至るまでを、自分の手柄てがらのなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うやいなや四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした不味まずいところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく淡泊あっさり話して見ると、うちを出る時自分が心配していた通り、少しもつらまえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。





 それでも田口は別段いやな顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云うつなぎの言葉を、時々敬太郎けいたろうのために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
 田口のこの挨拶あいさつうちに、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌あいきょうが充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥をかずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味たるみのできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
 敬太郎の前には黒の中折なかおれかぶって、襟開えりあきの広い霜降しもふり外套がいとうを着た[#「着た」は底本では「来た」]男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣ことばづかいといい歩きつきといい、何から何まで判切はっきり見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
 性質なら敬太郎にもほぼ見当けんとうがついていた。「おだやかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
 こう云った時、田口のくちびるの角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまたふさいでしまった。
「若い女には誰でもやさしいものですよ。あなただって満更まんざら経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎ははたで自分を見たらさぞ気のかない愚物ぐぶつになっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
 田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分りにくいです」と答えてしまった。
素人しろうとだか黒人くろうとだか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。かわの手袋だの、白い襟巻えりまきだの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括すべくくったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿めていましたが……」
 女の身に着けた品物のうちで、特に敬太郎の注意をいたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目まじめな顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
 敬太郎は先刻さっき自分の報告がとどこおりなく済んだ証拠しょうこに、御苦労さまと云う謝辞さえ受けたあとで、こう難問が続発しようとはごうも思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へあがって行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟きょうだいだとか、またはただの友達だとか、情婦いろだとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」





 敬太郎けいたろうの胸にもこのうたがいは最初から多少きざさないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼をあやつって、それがために偵察ていさつの興味が一段と鋭どくぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女なんにょの間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血をった青年の常として、この観察点から男女なんにょながめるときに、始めて男女らしい心持がいて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切はっきり分らない代りに、男女という小さな宇宙はかくあざやかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一対いっついの男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れをいだくほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一人いちにんであったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年齢としの上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
 彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこうゆるんでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、まとまった形となって頭の中には現われにくかった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
 田口はただ微笑した。そこへ例のはかま穿いた書生が、一枚の名刺を盆にせて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻さっきからよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好いしおに、もうここで切り上げようと思って身繕みづくろいにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれをさえぎった。そうして敬太郎の辟易へきえきするのに頓着とんじゃくなくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭めいりょうに答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだつらい思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
 田口の最後とことわったこの問に対しても、敬太郎はもとより満足な返事をっていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何おなにとかいう言葉がきっとどこかへまじって来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
 田口はこの答を聞いて、手焙てあぶりの胴に当てた手を動かしながら、拍子ひょうしを取るように、指先できりふちたたき始めた。それをしばらくくり返したあとで、「どうしたんだかあんまり要領を得ませんね」と云ったが、すぐ言葉をいで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊うかつに恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直とめられた事も大したうれしさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。





 敬太郎けいたろう先刻さっきから頭の上らない田口の前で、たった一言ひとことで好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふときざした。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂闊うかつなものに見極みきわめられる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をしてあとなんかけるより、じかに会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数てかずはぶけて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
 これだけ云った敬太郎は、定めて世故せこけた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真面目まじめな態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどのかんがえがちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御頼おたのみ申したのはわたしが悪かった。人物を見損みそくなったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味をっておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。しゃあよかった……」
「いえ須永すなが君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しいおもいをして答えた。
「そうでしたか」
 田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切りてたなり、それ以上に追窮するをあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
 田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万更まんざら冗談じょうだんとも思えなかったので、彼は紹介状をたずさえて本当に眉間みけん黒子ほくろと向き合って話して見ようかという料簡りょうけんを起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会ってじかに研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩あとけましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云ってもうござんす。わたしに遠慮はらないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
 田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のないやつだと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分にくほうなんだから、そんな事をむやみにしゃべろうものなら、すぐ帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
 敬太郎はもとよりかしこまりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中折なかおれの男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。





 田口は硯箱すずりばこと巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名宛なあてしたため終ると、「ただ通り一遍の文言もんごんだけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、手焙てあぶりの前にかざした手紙を敬太郎けいたろうに読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意にあたいする事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松本恒三まつもとつねぞう様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真面目まじめになって松本恒三様の五字をながめたが、ふとったしまりのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほどせつらしくできていた。
「そう感心していつまでもながめていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつはわたしの失念だ」
 田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。不味まずくって大きなところは土橋どばし大寿司流おおずしりゅうとでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
御差支おさしつかえさえなければ、おついでに一本書いていただいてもよろしゅうございます」と敬太郎も冗談じょうだん半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪漫ローマン―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。わたしゃ学問がないから、今頃流行はやるハイカラな言葉をすぐ忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
 敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非道ひどく冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状をふところに収めて、「では二三日うちにこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、やわらかい座蒲団ざぶとんの上をすべり下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀ていねい挨拶あいさつしただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
 敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好かっこうのいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮メーズの奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日きょう田口での獲物えものは松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜さくそうした事実を自分のためにくくっている妙なふくろのように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄にくい人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美たんびの声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前にすわっている間、彼は始終しじゅう何物にかしばられて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視のもとに置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでになつかし味のこもったような松本を想像してやまなかった。





 翌朝よくあささっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面にれていた。屋根瓦やねがわらとおるようなびしい色をしばらくながめていた敬太郎けいたろうは、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇叭らっぱが、陰気な空気をいて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
 松本のうち矢来やらいなので、敬太郎はこの間の晩きつねにつままれたと同じ思いをした交番下の景色けしきを想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共二股ふたまたに割れて、勾配こうばいのついた真中だけがいびつにふくれているのを発見した。彼は寒い雨のはかますそに吹きかけるのもいとわずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒かじぼうを握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるでおもむきが違っていた。敬太郎はうしろの方に高く黒ずんでいる目白台めじろだいの森と、右手の奥に朦朧もうろうと重なり合った水稲荷みずいなり木立こだちを見て坂をあがった。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちはさい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳殻からたちの垣をのぞいたり、古い椿つばきかぶさっている墓地らしいかまえの前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
 松本の家はこの車屋の筋向うを這入はいった突き当りの、竹垣に囲われた綺麗きれい住居すまいであった。門をくぐると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音はごうもやまなかった。その代り四辺あたり森閑しんかんとして人の住んでいるにおいさえしなかった。雨にとざされたいえの奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、「はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか」と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に差支さしつかえるのかすぐ反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、「じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね」と念晴ねんばらしに聞き直して見た。下女はただ「はい」と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急にはげしく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂をりながら変な男があったものだという観念を数度すどくり返した。田口がただでさえにくいと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日はうちへ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なくえつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに須永すながうちへでも行って、この間からの顛末てんまつを茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも見当けんとうの立った筋を吹聴ふいちょうするのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
 翌日あくるひ昨日きのうと打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆるにごりを雨の力で洗い落したように綺麗きれいに輝やく蒼空あおぞらを、まばゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、今日きょうこそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩行李こうりうしろに隠しておいた例の洋杖ステッキを取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また矢来やらいの坂をあがりながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、もすこし曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。





 ところが昨日と違って、門をくぐっても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった衝立ついたてが立っていた。その衝立には淡彩たんさいの鶴がたった一羽たたずんでいるだけで、姿見のように細長いその格好かっこうが、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意をうながした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、そのあとから遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎をながめた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝子戸ガラスどまっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火鉢ひばちの両側に、下女は座蒲団ざぶとんを一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は更紗さらさの模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へすわった。とこには刷毛はけでがしがしと粗末ぞんざいに書いたような山水さんすいじくがかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこがいわだか見分のつかない画を、軽蔑けいべつに値する装飾品のごとくながめた。するとその隣りに銅鑼どらさがっていて、それをたたく棒まで添えてあるので、ますます変ったへやだと思った。
 するとあいふすまを開けて隣座敷から黒子ほくろのある主人が出て来た。「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛嬌あいきょうのある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素振そぶりは、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気兼きがねの必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一言ひとことも述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
 話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使ってもらおうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世にあらわれない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟りくつをちらちらとひらめかされた。そればかりでなく、松本は田口をつらまえて、役には立つが頭のなっていない男だとののしった。
第一だいちああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立ったかんがえのできるひまがないから駄目です。あいつの脳と来たら、ねん年中ねんじゅう摺鉢すりばちの中で、擂木すりこぎき廻されてる味噌みそ見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
 敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体あくたいくのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、ごうも毒々しいところだの、小悪こにくらしい点だのの見えない事であった。彼のののしる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきをそなえた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟しげきを受けるだけであった。
「それでいて、を打つ、うたいうたう。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞へたくそなんですが」
「それが余裕よゆうのある証拠しょうこじゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日きのう雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民こうとうゆうみんでないからです。いくらひとの感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」





「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
 松本は大きな火鉢ひばちふち両肱りょうひじを掛けて、その一方の先にある拳骨げんこつあごの支えにしながら敬太郎けいたろうを見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色ほんしょくがあるらしくも思った。彼は煙草たばこ道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首がんくびのついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙のろしのごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔のそばでいつの間にか消えて行く具合が、どこにもしまりを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋うわたびを白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣ころも聯想れんそうさせるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采ふうさいなり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
 敬太郎はみずから高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
さいは無論います。なぜですか」
 敬太郎は取り返しのつかないな問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
 敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを緒口いとくちに、かわの手袋を穿めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気にながめていた。もしこれが田口であったなら手際てぎわよく相手を打ちえる代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせないあざやかな腕をっているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全くえた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎ははからず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」



十一

 二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯としの違だか段の違だか、松本の云う事は肝心かんじんの肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎けいたろうの血の中まで這入はいり込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実ないきおいをまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸にとおらないらしかった。
 こんな縁遠い話をしているうちで、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜ロシヤの文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達ちょうたつのため細君同伴で亜米利加アメリカへ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎かんげいやらに忙殺ぼうさつされるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国かられて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露ばくろした。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
「露西亜と亜米利加ではこれだけ男女なんにょ関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細ささいな事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。
「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。
「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた狼煙のろしのような濃い煙をぱっと口から吐いた。
 ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」
「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」
 松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹揚おうような彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
御伴おつれがおありのようでしたが」
「ええ別嬪べっぴんを一人れていました。あなたはたしか一人でしたね」
「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」
「そうです」
 ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
「本郷です」
 松本はに落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もしおこられたら、あやまるだけで、詫まって聞かれなければ、御辞儀おじぎ叮嚀ていねいにして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたのあとけてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものようなゆるい口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
 松本は始めて、少し驚いた声のうちに、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。



十二

「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口要作ようさくですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
 こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎けいたろうは田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張みはりに出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末てんまつを包まず打ち明けた。もとよりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論布衍ふえんわずらわしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎をさえぎらなかった。話が済んでからも、すぐとは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早くあやまるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口をき始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
 こういった主人の顔を見ると、あきれ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんなな事を引き受けたのです」
 物数奇ものずきから引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人のあとけるなんて」
「私も少しりました。これからはもうやらないつもりです」
 この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑にがわらいをしていた。それが敬太郎には軽蔑けいべつの意味にも憐愍れんみんの意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
 根本義にさかのぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕のれていた若い女は高等淫売こうとういんばいだって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
 敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
 敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮をはばかるほどの男ではなかった。けれども松本がいてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物がひそんでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶あいさつに困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。



十三

「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売こうとういんばいだと云う勇気が出悪でにくくなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
 こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬太郎けいたろうを驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須永すながの母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めてみ込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間をきわめて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入ったあやでも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽炎かげろうを散らつかせながら、あとおっかけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
「御嬢さんは何でまたあすこまで出張でばっていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」
「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今朝けさ御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮おせいぼ指環ゆびわを買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、にがさないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻さっきからここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆棒べらぼうだね。わざわざそれほどの手数てかずをかけて、何もそんな下らない真似まねをするにも当らないじゃないか。だまされた君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」
 敬太郎には騙された自分の方がはるかに愚物ぐぶつに思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、おのずからあかい顔もしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ない事なんですね」
「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」
「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」
「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判切はっきりした口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ取柄とりえがあると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪戯いたずらをしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥をきそうなきわどい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺麗きれいに始末をつける。そこへ行くと箆棒べらぼうには違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪辣あくらつでも、結末には妙にあたたかいなさけこもった人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人でみ込んでいるだけでしょう。君が僕のうちへ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策略さくりゃくを、始めから吹聴ふいちょうするほど無慈悲むじひな男じゃない。だからついでに悪戯いたずらも止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」
 田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞ふるまいかえりみる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者をうらむよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸のうちで一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審もおのずときざさない訳に行かなかった。
「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあのかたの前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」
「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」



十四

 こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない眼遣めづかいやら言葉つきやらがありありと敬太郎けいたろうの胸に、うたがいもない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの青臭あおくさい自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く合点がてんが行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固くおのれを信じていたのである。彼はただかような青年として、ひとはばかられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を見縊みくびっていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分のおもわくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
「どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか」
「けれども田口さんからそう思われちゃ……」
「田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶだまされなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因果いんがだと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけをおもに眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女にれられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから」
 敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも判切はっきり呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼をうけがわせるほどの判断を、彼の頭に鉄椎てっついたたき込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として茫漠ぼうばくたる雲に対する思があった。批評にのぼらない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
 同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊瑚樹さんごじゅたまがどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前にすわっているのは、大きなパイプをくわえた木像の霊が、口をくと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣髴ほうふつするに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明瞭めいりょうな松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠然ばくぜんたる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が箆棒べらぼうをやってくれたため、君はかえって仕合しあわせをしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置をこしらえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げてもい。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
 二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更紗さらさ座蒲団ざぶとんの上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝立ついたての前に、せた高い身体からだをしばらくたたずまして、靴を穿く敬太郎の後姿うしろすがたながめていたが、「妙な洋杖ステッキを持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、へびの頭だね。なかなかうまってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ素人しろうとが刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢来やらいの坂を江戸川の方へくだった。






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