一
眼が覚めると、自分の住み慣れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎には全く変に思われた。昨日の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に充ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋も、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた眉の間に黒子のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚の珠も、みんな陶然とした一種の気分を帯びていた。最もこの気分に充ちて活躍したものは竹の洋杖であった。彼がその洋杖を突いたまま、幌を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切として、ほとんど狐から取り憑かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の灯で佗びしく照らされたびしょ濡れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
彼は寝ながら天井を眺めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔の眼と頭をもって、蚕の糸を吐くようにそれからそれへと出てくるこの記念の画を飽かず見つめていたが、しまいには眼先に漂ようふわふわした夢の蒼蠅さに堪えなくなった。それでも後から後からと向うで独り勝手に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関聯して、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容貌は固より服装から歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判切りと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、鮮やかな色と形を備えて眸を侵して来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨夕法外な車賃を貪ぼられて、宿の門口を潜った時、何心なくその洋杖を持ったまま自分の室まで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸棚の奥の行李の後へ投げ込んでしまったのである。
今朝は蛇の頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から宵へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に纏める段になると、自分の引き受けた仕事は成効しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖の御蔭を蒙っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着を剥ぐって跳ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室に上った。そこの窓を潔ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力めて実際的に思慮を回らした。
二
突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから直行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後で、差支ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予なく内幸町へ出かけた。
田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物が二幅掛かっていた。湯呑のような深い茶碗に、書生が番茶を一杯汲んで出した。桐を刳った手焙も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中に畏まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物の価額を想像したり、手焙の縁を撫で廻したり、あるいは袴の膝へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周囲があまり綺麗に調っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違棚の上にある画帖らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと断るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした後で、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶を一と口と、それに添えた叮嚀な御辞儀を一つした。それからすぐ昨日の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕の貯蔵庫でもあるように、けっして周章て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、暗に彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その訳はまるで解らなかった。すると、
「どうです昨日は。旨く行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」という他を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠った後、
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「眉間に黒子がありましたか」
敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「衣服もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折に、霜降の外套を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過のようでした」
「よっぽど過。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
今まで穏やかに機嫌よく話していた長者から突然こう手厳しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。
三
敬太郎は今まで下町出の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶も有っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ崩して、
「そりゃ私のために大変都合が好かった」と機嫌の好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡した。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支ない」
田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆の抽出を開けると、その中から角でできた細長い耳掻を捜し出した。それを右の耳の中に入れて、さも痒ゆそうに掻き廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の蹙面を薄気味悪く感じた。
「実は停留所に女が一人立っていたのです」と彼はとうとう自白してしまった。
「年寄ですか、若い女ですか」
「若い女です」
「なるほど」
田口はただ一口こう云っただけで、何とも後を継いでくれなかった。敬太郎も頓挫したなり言葉を途切らした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
「いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に黒子のある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから」
「しかしその女が黒子のある人の行動に始終入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから」
「はあ」
田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、「じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎は固より知合だと答える勇気を有たなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口を利いた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、穏かに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する気色を見せなかったが、急に摧けた調子になって、
「どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと」と興味に充ちた顔を提煙草盆の上に出した。
「いえ、なに、つまらない女なんです」と敬太郎は前後の行きがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は「つまらない女」という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で大濤が崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て」
田口はまた普通の調子に戻って、真面目に事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す顛末を、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に敷衍して、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議な謎の活きて働らく洋杖を、どう抱え出して、どう利用したかに至るまでを、自分の手柄のなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うや否や四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした不味いところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく淡泊り話して見ると、宅を出る時自分が心配していた通り、少しも捕まえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。
四
それでも田口は別段厭な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う繋ぎの言葉を、時々敬太郎のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
田口のこの挨拶の中に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
敬太郎の前には黒の中折を被って、襟開の広い霜降の外套を着た[#「着た」は底本では「来た」]男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣いといい歩きつきといい、何から何まで判切見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
性質なら敬太郎にもほぼ見当がついていた。「穏やかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
こう云った時、田口の唇の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた塞いでしまった。
「若い女には誰でも優しいものですよ。あなただって満更経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は傍で自分を見たらさぞ気の利かない愚物になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分り悪いです」と答えてしまった。
「素人だか黒人だか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。革の手袋だの、白い襟巻だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿めていましたが……」
女の身に着けた品物の中で、特に敬太郎の注意を惹いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
敬太郎は先刻自分の報告が滞りなく済んだ証拠に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後で、こう難問が続発しようとは毫も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競り上って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟だとか、またはただの友達だとか、情婦だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」
五
敬太郎の胸にもこの疑は最初から多少萌さないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操って、それがために偵察の興味が一段と鋭どく研ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を有った青年の常として、この観察点から男女を眺めるときに、始めて男女らしい心持が湧いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一対の男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れを抱くほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一人であったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年齢の上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこう弛んでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、纏まった形となって頭の中には現われ悪かった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
田口はただ微笑した。そこへ例の袴を穿いた書生が、一枚の名刺を盆に載せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い機に、もうここで切り上げようと思って身繕いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを遮ぎった。そうして敬太郎の辟易するのに頓着なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ辛い思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
田口の最後と断ったこの問に対しても、敬太郎は固より満足な返事を有っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何とかいう言葉がきっとどこかへ交って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
田口はこの答を聞いて、手焙の胴に当てた手を動かしながら、拍子を取るように、指先で桐の縁を敲き始めた。それをしばらくくり返した後で、「どうしたんだか余まり要領を得ませんね」と云ったが、直言葉を継いで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直と賞められた事も大した嬉しさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。
六
敬太郎は先刻から頭の上らない田口の前で、たった一言で好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふと萌した。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂闊なものに見極められる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後なんか跟けるより、直に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数が省けて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
これだけ云った敬太郎は、定めて世故に長けた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真面目な態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどの考がちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御頼申したのは私が悪かった。人物を見損なったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味を有っておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。止しゃあよかった……」
「いえ須永君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しい思をして答えた。
「そうでしたか」
田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切り棄てたなり、それ以上に追窮する愚をあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万更の冗談とも思えなかったので、彼は紹介状を携えて本当に眉間の黒子と向き合って話して見ようかという料簡を起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
「宜いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会って直に研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩後を跟けましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云っても宜うござんす。私に遠慮は要らないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のない奴だと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分会い悪い方なんだから、そんな事をむやみに喋べろうものなら、直帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
敬太郎は固より畏まりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中折の男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。
七
田口は硯箱と巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名宛を認め終ると、「ただ通り一遍の文言だけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、手焙の前に翳した手紙を敬太郎に読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意に価する事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松本恒三様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真面目になって松本恒三様の五字を眺めたが、肥った締りのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほど拙らしくできていた。
「そう感心していつまでも眺めていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつは私の失念だ」
田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。不味くって大きなところは土橋の大寿司流とでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
「御差支さえなければ、おついでに一本書いていただいても宜しゅうございます」と敬太郎も冗談半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪漫―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。私ゃ学問がないから、今頃流行るハイカラな言葉を直忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非道く冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状を懐に収めて、「では二三日内にこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、柔かい座蒲団の上を滑り下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀に挨拶しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮の奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日田口での獲物は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜した事実を自分のために締め括っている妙な嚢のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄悪い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に坐っている間、彼は始終何物にか縛られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の下に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに懐かし味の籠ったような松本を想像してやまなかった。
八
翌朝さっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に濡れていた。屋根瓦に徹るような佗びしい色をしばらく眺めていた敬太郎は、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇叭が、陰気な空気を割いて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
松本の家は矢来なので、敬太郎はこの間の晩狐につままれたと同じ思いをした交番下の景色を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共二股に割れて、勾配のついた真中だけがいびつに膨れているのを発見した。彼は寒い雨の袴の裾に吹きかけるのも厭わずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで趣が違っていた。敬太郎は後の方に高く黒ずんでいる目白台の森と、右手の奥に朦朧と重なり合った水稲荷の木立を見て坂を上った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちは小さい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳殻の垣を覗いたり、古い椿の生い被さっている墓地らしい構の前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
松本の家はこの車屋の筋向うを這入った突き当りの、竹垣に囲われた綺麗な住居であった。門を潜ると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音は毫もやまなかった。その代り四辺は森閑として人の住んでいる臭さえしなかった。雨に鎖された家の奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、「はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか」と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に差支えるのか直反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、「じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね」と念晴しに聞き直して見た。下女はただ「はい」と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急に烈しく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂を下りながら変な男があったものだという観念を数度くり返した。田口がただでさえ会い悪いと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日は家へ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なく据えつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに須永の家へでも行って、この間からの顛末を茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも見当の立った筋を吹聴するのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
翌日は昨日と打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆる濁を雨の力で洗い落したように綺麗に輝やく蒼空を、眩ゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、今日こそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩行李の後に隠しておいた例の洋杖を取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また矢来の坂を上りながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、も少し曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。
九
ところが昨日と違って、門を潜っても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった衝立が立っていた。その衝立には淡彩の鶴がたった一羽佇ずんでいるだけで、姿見のように細長いその格好が、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意を促がした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、その後から遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎を眺めた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝子戸の締まっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火鉢の両側に、下女は座蒲団を一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は更紗の模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へ坐った。床の間には刷毛でがしがしと粗末に書いたような山水の軸がかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこが巌だか見分のつかない画を、軽蔑に値する装飾品のごとく眺めた。するとその隣りに銅鑼が下っていて、それを叩く棒まで添えてあるので、ますます変った室だと思った。
すると間の襖を開けて隣座敷から黒子のある主人が出て来た。「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛嬌のある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素振は、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気兼の必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一言も述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使って貰おうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世に著われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟をちらちらと閃めかされた。そればかりでなく、松本は田口を捕まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵しった。
「第一ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考のできる閑がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年が年中摺鉢の中で、擂木に攪き廻されてる味噌見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体を吐くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫も毒々しいところだの、小悪らしい点だのの見えない事であった。彼の罵しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟を受けるだけであった。
「それでいて、碁を打つ、謡を謡う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞なんですが」
「それが余裕のある証拠じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民でないからです。いくら他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」
十
「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
松本は大きな火鉢の縁へ両肱を掛けて、その一方の先にある拳骨を顎の支えにしながら敬太郎を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色があるらしくも思った。彼は煙草道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の傍でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも締りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣を聯想させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
敬太郎は自から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
「妻は無論います。なぜですか」
敬太郎は取り返しのつかない愚な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを緒口に、革の手袋を穿めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気に眺めていた。もしこれが田口であったなら手際よく相手を打ち据える代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせない鮮やかな腕を有っているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全く冴えた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎は図らず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」
十一
二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯の違だか段の違だか、松本の云う事は肝心の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎の血の中まで這入り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な勢をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に徹らないらしかった。
こんな縁遠い話をしている中で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達のため細君同伴で亜米利加へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎やらに忙殺されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から伴れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露した。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
「露西亜と亜米利加ではこれだけ男女関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細な事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。
「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。
「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた狼煙のような濃い煙をぱっと口から吐いた。
ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」
「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」
松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹揚な彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
「御伴がおありのようでしたが」
「ええ別嬪を一人伴れていました。あなたはたしか一人でしたね」
「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」
「そうです」
ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
「本郷です」
松本は腑に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もし怒られたら、詫まるだけで、詫まって聞かれなければ、御辞儀を叮嚀にして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたの後を跟けてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものような緩い口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
松本は始めて、少し驚いた声の中に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。
十二
「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口要作ですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末を包まず打ち明けた。固よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論布衍の煩わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を遮ぎらなかった。話が済んでからも、直とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く詫まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を利き始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
こういった主人の顔を見ると、呆れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんな愚な事を引き受けたのです」
物数奇から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の後を跟けるなんて」
「私も少し懲りました。これからはもうやらないつもりです」
この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑いをしていた。それが敬太郎には軽蔑の意味にも憐愍の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
根本義に溯ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴れていた若い女は高等淫売だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚かるほどの男ではなかった。けれども松本が強いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が潜んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。
十三
「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売だと云う勇気が出悪くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬太郎を驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須永の母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めて呑み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を極めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入った文でも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽炎を散らつかせながら、後を追かけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
「御嬢さんは何でまたあすこまで出張っていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」
「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今朝御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮に指環を買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、逃さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻からここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆棒だね。わざわざそれほどの手数をかけて、何もそんな下らない真似をするにも当らないじゃないか。騙された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」
敬太郎には騙された自分の方が遥かに愚物に思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、自から赧い顔もしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ない事なんですね」
「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」
「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」
「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判切した口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ取柄があると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪戯をしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥を掻きそうな際どい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺麗に始末をつける。そこへ行くと箆棒には違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪辣でも、結末には妙に温かい情の籠った人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人で呑み込んでいるだけでしょう。君が僕の家へ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策略を、始めから吹聴するほど無慈悲な男じゃない。だからついでに悪戯も止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」
田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞を顧みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を怨むよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸の裏で一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審も自ずと萌さない訳に行かなかった。
「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあの方の前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」
「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」
十四
こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない眼遣やら言葉つきやらがありありと敬太郎の胸に、疑もない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの青臭い自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く合点が行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固く己れを信じていたのである。彼はただかような青年として、他に憚かられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を見縊っていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分の思わくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
「どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか」
「けれども田口さんからそう思われちゃ……」
「田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶ騙されなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因果だと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけを重に眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女に惚れられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから」
敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも判切呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼を肯わせるほどの判断を、彼の頭に鉄椎で叩き込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として茫漠たる雲に対する思があった。批評に上らない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊瑚樹の珠がどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前に坐っているのは、大きなパイプを銜えた木像の霊が、口を利くと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣髴するに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明瞭な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠然たる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が箆棒をやってくれたため、君はかえって仕合をしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置を拵らえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げても宜い。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更紗の座蒲団の上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝立の前に、瘠せた高い身体をしばらく佇ずまして、靴を穿く敬太郎の後姿を眺めていたが、「妙な洋杖を持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、蛇の頭だね。なかなか旨く刻ってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ素人が刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢来の坂を江戸川の方へ下った。