一
雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎もそのうちに取り紛れて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入のできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々須永からその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人を担ぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにと窘なめる事もあった。しまいには、君があんまり色気があり過ぎるからだと調戯い出した。敬太郎はそのたびに「馬鹿云え」で通していたが、心の内ではいつも、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。その女がとりも直さず停留所の女であった事も思い出した。そうしてどこか遠くの方で気恥かしい心持がした。その女の名が千代子で、その妹の名が百代子である事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
彼が松本に会って、すべて内幕の消息を聞かされた後、田口へ顔を出すのは多少きまりの悪い思をするだけであったにかかわらず、顔を出さなければ締め括りがつかないという行きがかりから、笑われるのを覚悟の前で、また田口の門を潜った時、田口ははたして大きな声を出して笑った。けれどもその笑の中には己れの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来の路に返してやった喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口はその時訓戒のためだとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉をいっさい使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、怒ってはいけないと断わって、すぐその場で相当の位置を拵らえてくれる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、これが私の娘だとわざわざ紹介した。そうしてこの方は市さんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は何でこういう人に引き合されるのか、ちょっと解しかねた風をしながら、極めてよそよそしく叮嚀な挨拶をした。敬太郎が千代子という名を覚えたのはその時の事であった。
これが田口の家庭に接触した始めての機会になって、敬太郎はその後も用事なり訪問なりに縁を藉りて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ這入って、かつて電話で口を利き合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて内向の用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事も稀ではなかった。出入の度数がこう重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種間の延びた彼の調子と、比較的引き締った田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解けがたい境遇に彼らを置き去りにした。彼らの間に取り換わされた言葉は、無論形式だけを重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分とかからない当用に過ぎないので、親しみはそれほど出る暇がなかった。彼らが公然と膝を突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮の交らない談話に更かしたのは、正月半ばの歌留多会の折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分鈍いのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのは厭よ、負けるにきまってるからと怒られた。
それからまた一カ月ほど経って、梅の音信の新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久しぶりに須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に出逢った。三人してそれからそれへと纏まらない話を続けて行くうちに、ふと松本の評判が千代子の口に上った。
「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。今でもそうかしら」
二
「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人なんだが……」と敬太郎が云い出した時、須永と千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖を持って行かなかったんだろう」と須永は調戯い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
この理攻めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日にだけ突いて出るの」
敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮を逃れた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過であった。千代子は松本の好きな雲丹を母からことづかって矢来へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、緩くり腰を落ちつけた。松本には十三になる女を頭に、男、女、男と互違に順序よく四人の子が揃っていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭に華やかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子を、指環に嵌めた真珠のように大事に抱いて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、漆のように濃い大きな眼を有って、前の年の雛の節句の前の宵に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛がっていた。来るたんびにきっと何か玩具を買って来てやった。ある時は余り多量に甘いものをあてがって叔母から怒られた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側へ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩でもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯った。
その日も千代子は坐ると直宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代を剃った事がないので、頭の毛が非常に細く柔かに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢の多い紫を含んでぴかぴか縮れ上っていた。「宵子さんかんかん結って上げましょう」と云って、千代子は鄭寧にその縮れ毛に櫛を入れた。それから乏しい片鬢を一束割いて、その根元に赤いリボンを括りつけた。宵子の頭は御供のように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅へ乗せて、リボンの端を抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねと賞めると、千代子は嬉しそうに笑いながら、子供の後姿を眺めて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと指図した。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つ這になった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子は頸を下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴であった。後に立って見ていた千代子は小さい唇から出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。
三
そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かの華やかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、巴の紋のついた陣太鼓のようなものを持って来て、宵子さん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着のような恰好をした赤い毛織の足袋が廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋の紐の先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前が編んでやったのだったね」
「ええ可愛らしいわね」
千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主になった梧桐をしたたか濡らし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越の雨の色を眺めて、手焙に手を翳した。
「芭蕉があるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花が散って、青桐が裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三は閑人だって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「生意気云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
二人がこんな話をしていると、ただいまこの方が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭よまたこないだみたいに、西洋煙草の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が点っていた。台所ではすでに夕飯の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪が二つとも忙がしく青い※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)を吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は小さい朱塗の椀と小皿に盛った魚肉とを盆の上に載せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは家のものの着更をするために多く用いられる室なので、箪笥が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように据えてあった。千代子はその姿見の前に玩具のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠さま」
千代子が粥を一匙ずつ掬って口へ入れてやるたびに、宵子は旨しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念に匙の持ち方を教えた。宵子は固より極めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供のような平たい頭を傾げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝の前に俯伏になった。
「どうしたの」
千代子は何の気もつかずに宵子を抱き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。
四
宵子はうとうと寝入った人のように眼を半分閉じて口を半分開けたまま千代子の膝の上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度叩いたが、何の効目もなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
母は驚ろいて箸と茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入って来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向にして見ると、唇にもう薄く紫の色が注していた。口へ掌を当てがっても、呼息の通う音はしなかった。母は呼吸の塞ったような苦しい声を出して、下女に濡手拭を持って来さした。それを宵子の額に載せた時、「脈はあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸を握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」と蒼い顔をして泣き出した。母は茫然とそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人とも客間の方へ馳け出した。その足音が廊下の端で止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、蔽い被さるように細君と千代子の上から宵子を覗き込んだが、一目見ると急に眉を寄せた。
「医者は……」
医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人の唇を洩れた。そうして絶望を怖れる怪しい光に充ちた三人の眼が一度に医者の上に据えられた。鏡を出して瞳孔を眺めていた医者は、この時宵子の裾を捲って肛門を見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
医者はこう云ったがまた一筒の注射を心臓部に試みた。固よりそれは何の手段にもならなかった。松本は透き徹るような娘の肌に針の突き刺される時、自から眉間を険しくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「辛子湯でも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡で聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔には毫も奨励の色が出なかった。
やがて熱い湯を盥へ汲んで、湯気の濛々と立つ真中へ辛子を一袋空けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取り除けた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し注水ましょう。余り熱いと火傷でもなさるといけませんから」と注意した。
医者の手に抱き取られた宵子は、湯の中に五六分浸けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。余まり長くなると……」と云いながら、医者は宵子を盥から出した。母はすぐ受取ってタオルで鄭寧に拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」と恨めしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
小さい蒲団と小さい枕がやがて宵子のために戸棚から取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿を眺めた千代子は、わっと云って突伏した。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯を喫べさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
千代子は途切れ途切れの言葉で、先刻自分が夕飯の世話をしていた時の、平生と異ならない元気な様子を、何遍もくり返して聞かした。松本は腕組をして、「どうもやっぱり不思議だよ」と云ったが、「おい御仙、ここへ寝かしておくのは可哀そうだから、あっちの座敷へ連れて行ってやろう」と細君を促がした。千代子も手を貸した。
五
手頃な屏風がないので、ただ都合の好い位置を択って、何の囲いもない所へ、そっと北枕に寝かした。今朝方玩弄にしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いてやった。顔へは白い晒し木綿をかけた。千代子は時々それを取り除けて見ては泣いた。「ちょっとあなた」と御仙が松本を顧みて、「まるで観音様のように可愛い顔をしています」と鼻を詰らせた。松本は「そうか」と云って、自分の坐っている席から宵子の顔を覗き込んだ。
やがて白木の机の上に、櫁と線香立と白団子が並べられて、蝋燭の灯が弱い光を放った時、三人は始めて眠から覚めない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。彼らは代る代る線香を上げた。その煙の香が、二時間前とは全く違う世界に誘ない込まれた彼らの鼻を断えず刺戟した。ほかの子供は平生の通り早く寝かされた後に、咲子という十三になる長女だけが起きて線香の側を離れなかった。
「御前も御寝よ」
「まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね」
「もう来るだろう。好いから早く御寝」
咲子は立って廊下へ出たが、そこで振り回って、千代子を招いた。千代子が同じく立って廊下へ出ると、小さな声で、怖いからいっしょに便所へ行ってくれろと頼んだ。便所には電灯が点けてなかった。千代子は燐寸を擦って雪洞に灯を移して、咲子といっしょに廊下を曲った。帰りに下女部屋を覗いて見ると、飯焚が出入の車夫と火鉢を挟んでひそひそ何か話していた。千代子にはそれが宵子の不幸を細かに語っているらしく思われた。ほかの下女は茶の間で来客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしていた。
通知を受けた親類のものがそのうち二三人寄った。いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。十二時過から御仙は通夜をする人のために、わざと置火燵を拵らえて室に入れたが、誰もあたるものはなかった。主人夫婦は無理に勧められて寝室へ退ぞいた。その後で千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしく継いだ。雨はまだ降りやまなかった。夕方芭蕉に落ちた響はもう聞こえない代りに、亜鉛葺の廂にあたる音が、非常に淋しくて悲しい点滴を彼女の耳に絶えず送った。彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てた晒を取っては啜泣をしているうちに夜が明けた。
その日は女がみんなして宵子の経帷子を縫った。百代子が新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意の家の細君が二人ほど見えたので、小さい袖や裾が、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆と硯とを持って廻って、南無阿弥陀仏という六字を誰にも一枚ずつ書かした。「市さんも書いて上げて下さい」と云って、須永の前へ来た。「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。後から六字ずつを短冊形に剪って棺の中へ散らしにして入れるんですから」
皆な畏こまって六字の名号を認ためた。咲子は見ちゃ厭よと云いながら袖屏風をして曲りくねった字を書いた。十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。午過になっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして抱き起した。その背中には紫色の斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい珠数を手にかけてやった。同じく小さい編笠と藁草履を棺に入れた。昨日の夕方まで穿いていた赤い毛糸の足袋も入れた。その紐の先につけた丸い珠のぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなのくれた玩具も足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の短冊を雪のように振りかけた上へ葢をして、白綸子の被をした。
六
友引は善くないという御仙の説で、葬式を一日延ばしたため、家の中は陰気な空気の裡に常よりは賑わった。七つになる嘉吉という男の子が、いつもの陣太鼓を叩いて叱られた後、そっと千代子の傍へ来て、宵子さんはもう帰って来ないのと聞いた。須永が笑いながら、明日は嘉吉さんも焼場へ持って行って、宵子さんといっしょに焼いてしまうつもりだと調戯うと、嘉吉はそんなつもりなんか僕厭だぜと云いながら、大きな眼をくるくるさせて須永を見た。咲子は、御母さんわたしも明日御葬式に行きたいわと御仙にせびった。あたしもねと九つになる重子が頼んだ。御仙はようやく気がついたように、奥で田口夫婦と話をしていた夫を呼んで、「あなた、明日いらしって」と聞いた。
「行くよ。御前も行ってやるが好い」
「ええ、行く事にきめてます。小供には何を着せたらいいでしょう」
「紋付でいいじゃないか」
「でも余まり模様が派手だから」
「袴を穿けばいいよ。男の子は海軍服でたくさんだし。御前は黒紋付だろう。黒い帯は持ってるかい」
「持ってます」
「千代子、御前も持ってるなら喪服を着て供に立っておやり」
こんな世話を焼いた後で、松本はまた奥へ引返した。千代子もまた線香を上げに立った。棺の上を見ると、いつの間にか綺麗な花環が載せてあった。「いつ来たの」と傍にいる妹の百代に聞いた。百代は小さな声で「先刻」と答えたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけでは淋しいって、わざと赤いのを交ぜさしたんですって」と説明した。姉と妹はしばらくそこに並んで坐っていた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さんあなた宵子さんの死顔を見て」と聞いた。百代は「ええ」と首肯ずいた。
「いつ」
「ほら先刻御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺の葢をもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、怖いから」と云って百代は首をふった。
晩には通夜僧が来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経がどうだの、和讃がどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人と蓮如上人という名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施を僧の前に並べて、もう宜しいから御引取下さいと断わった。坊さんの帰った後で御仙がその理由を聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのは嫌だよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。路端の人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送した。松本は白張の提灯や白木の輿が嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の周囲に垂れた黒い幕が揺れるたびに、白綸子の覆をした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供が駆け寄って来て、珍らしそうに車を覗き込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
寺では読経も焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって憂に鎖された様子は見えなかった。焼香の時、重子が香をつまんで香炉の裏へ燻るのを間違えて、灰を一撮み取って、抹香の中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた矢来へ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日一昨日の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。
七
骨上には御仙と須永と千代子とそれに平生宵子の守をしていた清という下女がついて都合四人で行った。柏木の停車場を下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずに宅から車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色も忘れ物を思い出したように嬉しかった。眼に入るものは青い麦畠と青い大根畠と常磐木の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々後を振り返って、穴八幡だの諏訪の森だのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のために指した。それには弘法大師千五十年供養塔と刻んであった。その下に熊笹の生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋の袂をさも田舎路らしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿が鮮やかに千代子の眼を刺戟した。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
火葬場は日当りの好い平地に南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、鍵は御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急に懐や帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥の上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いで市さんに取って来て貰うと好いわ」
二人の問答を後の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものを袂から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘なめた。
「市さん、あなた本当に悪らしい方ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の傍へ来て座に着いた。須永も続いて這入って来た。そうして二人の向側にある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席を割いてやった。
四人が茶を呑んで待ち合わしている間に、骨上の連中が二三組見えた。最初のは田舎染みた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多く利かなかった。次には尻を絡げた親子連が来た。活溌な声で、壺を下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪に角帯を締めた男とも女とも片のつかない盲者が、紫の袴を穿いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、袂から出した巻煙草を吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞと促がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
八
真鍮の掛札に何々殿と書いた並等の竈を、薄気味悪く左右に見て裏へ抜けると、広い空地の隅に松薪が山のように積んであった。周囲には綺麗な孟宗藪が蒼々と茂っていた。その下が麦畠で、麦畠の向うがまた岡続きに高く蜿蜒しているので、北側の眺めはことに晴々しかった。須永はこの空地の端に立って広い眼界をぼんやり見渡していた。
「市さん、もう用意ができたんですって」
須永は千代子の声を聞いて黙ったまま帰って来たが、「あの竹藪は大変みごとだね。何だか死人の膏が肥料になって、ああ生々延びるような気がするじゃないか。ここにできる筍はきっと旨いよ」と云った。千代子は「おお厭だ」と云い放にして、さっさとまた並等を通り抜けた。宵子の竈は上等の一号というので、扉の上に紫の幕が張ってあった。その前に昨日の花環が少し凋みかけて、台の上に静かに横たわっていた。それが昨夜宵子の肉を焼いた熱気の記念のように思われるので、千代子は急に息苦しくなった。御坊が三人出て来た。そのうちの一番年を取ったのが「御封印を……」と云うので、須永は「よし、構わないから開けてくれ」と頼んだ。畏まった御坊は自分の手で封印を切って、かちゃりと響く音をさせながら錠を抜いた。黒い鉄の扉が左右へ開くと、薄暗い奥の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない一塊となって朧気に見えた。御坊は「今出しましょう」と断って、レールを二本前の方に継ぎ足しておいて、鉄の環に似たものを二つ棺台の端にかけたかと思うと、いきなりがらがらという音と共に、かの形を成さない一塊の焼残が四人の立っている鼻の下へ出て来た。千代子はそのなかで、例の御供に似てふっくらと膨らんだ宵子の頭蓋骨が、生きていた時そのままの姿で残っているのを認めて急に手帛を口に銜えた。御坊はこの頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を残して、「あとは綺麗に篩って持って参りましょう」と云った。
四人は各自木箸と竹箸を一本ずつ持って、台の上の白骨を思い思いに拾っては、白い壺の中へ入れた。そうして誘い合せたように泣いた。ただ須永だけは蒼白い顔をして口も利かず鼻も鳴らさなかった。「歯は別になさいますか」と聞きながら、御坊が小器用に歯を拾い分けてくれた時、顎をくしゃくしゃと潰してその中から二三枚択り出したのを見た須永は、「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂の中から小石を拾い出すと同じ事だ」と独言のように云った。下女が三和土の上にぽたぽたと涙を落した。御仙と千代子は箸を置いて手帛を顔へ当てた。
車に乗るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺を抱いてそれを膝の上に載せた。車が馳け出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高い欅が白茶けた幹を路の左右に並べて、彼らを送り迎えるごとくに細い枝を揺り動かした。その細い枝が遥か頭の上で交叉するほど繁く両側から出ているのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思って、千代子は折々頭を上げては、遠い空を眺めた。宅へ着いて遺骨を仏壇の前に置いた時、すぐ寄って来た小供が、葢を開けて見せてくれというのを彼女は断然拒絶した。
やがて家内中同じ室で昼飯の膳に向った。「こうして見ると、まだ子供がたくさんいるようだが、これで一人もう欠けたんだね」と須永が云い出した。
「生きてる内はそれほどにも思わないが、逝かれて見ると一番惜しいようだね。ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」と松本が云った。
「非道いわね」と重子が咲子に耳語いた。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二つのような子を拵えてちょうだい。可愛がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
「己は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭になった」