こころ (作者:夏目漱石) - 中 両親と私 | 多賀城[たがのき] - 小説投稿サイト

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中 両親と私

作者:管理人


中 両親と私



 うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのためにくくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へまわって行った。
 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていたわたくしは、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
 父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生のうちの食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうにうれしがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した。
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
 私はついにこんな口のきようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前にわかっていてくれさえすれば、……」
 私は父からそのあとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月みつき四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だからうれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなったあとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になればうれしいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
 私は一言いちごんもなかった。あやまる以上に恐縮して俯向うつむいていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全くおろかものであった。私はかばんの中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かにつぶされて、元の形を失っていた。父はそれを鄭寧ていねいした。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中にしんでも入れるとかったのに」と母もかたわらから注意した。
 父はしばらくそれをながめたあとってとこの間の所へ行って、だれの目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へいぜいと違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父のすがままに任せておいた。一旦いったん癖のついたとり子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるやいなや、すぐおのれに自然ないきおいを得て倒れようとした。



 わたくしは母をかげへ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」
 母は案外平気であった。都会からけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独りな感じをいだいた。
「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ。自分がいと思い込んだら、なかなかわたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
 私はこの前帰った時、無理にとこを上げさして、ひげった父の様子と態度とを思い出した。「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。「しかしはたでも少しは注意しなくっちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父のやまいの性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱりおんなじ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、そのかたは」などと聞いた。
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目まじめに聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、おれ身体からだ必竟ひっきょう己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番く心得ているはずだからね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それがうれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。おなかのなかではまだ大丈夫だと思っておいでのだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこのうちにいる気かなんて」
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。このいえから父一人を引き去ったあとは、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けてもらうものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑けんのんさ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと聞いていた。



 わたくしのために赤いめしいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちであんにそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり仰山ぎょうさんな事はしてください」
 私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があればいといったふうの人ばかりそろっていた。私は子供の時から彼らの席にするのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそうはなはだしいように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐらいするのは当り前だよ。そう遠慮をおでない」
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でももらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくってもいが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」
 父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
 私はを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合のいようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、して下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのがいやだからというご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」
「そう理屈をいわれると困る」
 父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなかかなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
 父はそのまた気をえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合のいも悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の上招待しょうだいの日取りをめた。
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を経てようやくまとまろうとした私の卒業祝いを、ちりのごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下をおもい出したりした。



 小勢こぜい人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、わたくし行李こうりを解いて書物をひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざまくらさえ出して本式に昼寝をむさぼる事もあった。眼が覚めると、せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、急に八釜やかましく耳の底をき乱した。私はじっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸にいだいた。
 私は筆をって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった。私はもとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分というようなものを題目にして書きつづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ東京にいるだろうかとうたぐった。先生が奥さんといっしょにうちける場合には、五十恰好がっこう切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違えていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向いっこう音信のりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のおばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私はく承知していた。ただ私はさびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はついに来なかった。
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりのたまったまま、とこの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父はじっと考え込んでいるように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからそのよみがらをわざわざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念けねんくもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつたおれるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのようなくだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にもおのれに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「お父さんは本当に病気をこわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりをいた。



 父の元気は次第に衰えて行った。わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒いすすけた棚の上にっているその帽子をながめるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少しつつしんでくれたらと心配した。父がじっすわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下のやまいと父の病とを結び付けて考えていた。私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前もつまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さんの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間であった。そうしていよいよとめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、おかげで好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。おれも……」
 父はそのあとをいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおたまを包んで、それで旗竿の先へ三寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。私のうちの古い門の屋根はわらいてあった。雨や風に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころ凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすのと、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とをながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしないうずの中に、自然とき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、そのもまたふっと消えてしまうべき運命を、の前に控えているのだとはもとより気が付かなかった。
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆をりかけた。私はそれを十行ばかり書いてめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生にててそういう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例にちょうしてみると、とても返事をくれそうになかったから)。私はさびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来ればいと思うのであった。



 八月のなかばごろになって、わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探しまわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっとい地方へ相談ができたので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へまわしてやったらかろうと書いた。
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだい口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんなうまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしておいでですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。その郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくはなはだしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたらいじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうよりほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」
 父はこういって、私をふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でもいからお出しな」
「ええ」
 私は生返事なまへんじをして席を立った。



 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困らすたちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなったあとのわがいえを想像して見るらしかった。
小供こどもに学問をさせるのも、しだね。せっかく修業をさせると、その小供は決してうちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、わたくしはまた東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いなかやの中に、たった一人取り残されそうな母をえがき出す父の想像はもとよりさびしいに違いなかった。
 わがいえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。自分が死んだあと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんどうのわが家に取り残すのもまたはなはだしい不安であった。それだのに、東京でい地位を求めろといって、私をいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのおかげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった。私は先生に手紙を書いて、家の事情をくわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事はひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんない口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るにきまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待った。けれども私の予期はついにはずれた。先生からは一週間っても何の音信たよりもなかった。
大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対する言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私はいても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。



 九月始めになって、わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
 私は父の希望する地位をるために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまででいですから」ともいった。
 私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はまたあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃわずかあいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相当の地位を次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日からひとの世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」
 父はこのほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には早いだけがかった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
 その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなかを出ようとした。父はまた私をめた。
「お前が東京へ行くとうちはまたさみしくなる。何しろおれとお母さんだけなんだからね。そのおれも身体からださえ達者ならいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間にすわって、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時またせみの声を聞いた。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に帰って、煮え付くような蝉の声の中にじっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった。私の哀愁はいつもこの虫のはげしいと共に、心の底にみ込むように感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私はさびしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまたおもい浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっしょに私の頭にのぼりやすかった。
 私はほとんど父のすべても知りつくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私にわかっていなかった。話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りをめた。



 わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父はまた突然かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体はだかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へれて戻った時、父はもう大丈夫だといった。念のために枕元まくらもとすわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭をひやしていた私は、九時ごろになってようやくかたばかりの夜食を済ました。
 翌日よくじつになると父は思ったより元気がかった。めるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。
「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいった通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起るとまた必要以上に心配したり気をんだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
 私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであった。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつかえないように、堅くくくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄といもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くもんもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲は不断よりも進んだ。はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、うまいものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。ってかきもちなどを焼いてもらってぼりぼりんだ。
「どうしてこうかわくのかね。やっぱりしんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
 伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。さむしいからもっといてくれというのがおもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。



 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄あてで出した。いもとへは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信たよりだろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前にせまらないうちに呼び寄せる自由はかなかった。といって、折角都合して来たには来たが、に合わなかったといわれるのもつらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」
 停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女を見て変な顔をした。
 父は死病にかかっている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今になおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょにれて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
 時とするとまた非常にさみしがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私はわらいを帯びた先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳をふさいだ奥さんの様子とをおもい出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今になおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変えていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変るし、その上に市区改正もあるし、東京がじっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もないといっていいくらいです」
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 病人があるので自然いえの出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっともせていないじゃないか」などといって帰るものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父おじと相談して、とうとう兄といもとに電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも立つという報知しらせがあった。妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。


十一
 こうした落ち付きのない間にも、わたくしはまだ静かにすわる余裕をもっていた。たまには書物を開けて十ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅くくくられた私の行李こうりは、いつの間にか解かれてしまった。私はるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちでめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課のさんいちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばないためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私はいやな気持におさえ付けられた。
 私はこの不快のうちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだあとの事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影をながめた。
 私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡たんかんに礼を述べた。母はまだへやの入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝ておいでだよ」と母が答えた。
 母は突然はいって来て私のそばすわった。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母をあざむいたと同じ結果に陥った。
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数をいとうような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父にしかられたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのをはるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事のもらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとてもらちは明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んでまわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
「そりゃわかり切った話だね。今にもむずかしいという大病人をほうちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
 私は始め心のなかで、何も知らない母をあわれんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらとうたぐった。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きておいでのうちに、お前の口がきまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口もたしかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。


十二
 兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生へいぜいから何をいても新聞だけには眼を通す習慣であったが、とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。母もわたくしいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変いようじゃありませんか」
 兄はこんな事をいいながら父と話をした。そのにぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。それでも父の前をはずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
 兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よくわかるのかな」といった。兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽどにぶっているように観察したらしい。
「そりゃたしかです。わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとすわって色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
 兄と前後して着いたいもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。「身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗ってれない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」ともいっていた。
 乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「わたしも実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 そのころの新聞は実際田舎いなかものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧ていねいにそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分のへやへ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女かんじょみたような服装なりをしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうなや草を震わせている最中さいちゅうに、突然私は一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬がえるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのをそばに立って待っていた。
 電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっとおたのもうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄やいもとの夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣うちやって、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤きとくに陥りつつあるむねも付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細いさい手紙として、細かい事情をその日のうちにしたためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当にの悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。


十三
 わたくしの書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私あてで届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
大方おおかた手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
 母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生からしてみると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これはありべからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
 私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
 その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸かんちょうなどをして帰って行った。
 父は医者から安臥あんがを命ぜられて以来、両便とも寝たままひとの手で始末してもらっていた。潔癖な父は、最初の間こそはなはだしくそれをみ嫌ったが、身体からだかないので、やむを得ずいやいやとこの上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日をるに従って、無精な排泄はいせつを意としないようになった。たまには蒲団ふとんや敷布を汚して、はたのものがまゆを寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉のどから下へはごくわずかしか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。まくらそばにある老眼鏡ろうがんきょうは、いつまでも黒いさやに納められたままであった。子供の時分から仲の好かったさくさんという今では一ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫でうらやましいね。おれはもう駄目だめだ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
 浣腸かんちょうをしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のおかげで大変楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたというふうに機嫌が直った。そばにいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。そばにいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉をさえぎる訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人はうれしそうな顔をした。
「そりゃ結構です」といもとの夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
 私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧あいまいな返事をして、わざと席を立った。


十四
 父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日くだるか、今日下るかと思って、毎夜とこにはいった。
 父ははたのものをつらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人のうなるような声をかすかに聞いたと思い誤ったわたくしは、一ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念のため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。そのは母が起きている番に当っていた。しかしその母は父の横にひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りのうちにそっと置かれた人のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷にって休んだ。
せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。ほかの事と違うからな」
 兄ととこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのをはばかった。そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いはめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールにあおられたその時の乱雑な有様をおもい出して苦笑した。飲むものや食うものをいてまわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
 私たちはそれほど仲のい兄弟ではなかった。さいうちは喧嘩けんかをして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄をながめて、常に動物的だと思っていた。私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟のやさしい心持がどこからか自然にいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体うちの財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としてはたかの知れたものだろう」
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。


十五
「先生先生というのは一体だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」とわたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐひとの説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟ひっきょう聞いてもわからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのはつまらん人間に限るといったふう口吻こうふんらした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃうそだ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよくわかるかと聞き返してやりたかった。
「それでもその人のおかげで地位ができればまあ結構だ。おとうさんも喜んでるようじゃないか」
 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみでみんなにそう吹聴ふいちょうしてしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死にひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、そのいもとの夫だの伯父おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければならなかった。
 父が変な黄色いものもいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土のにおいをいで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうどいだろう」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちしりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気がちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだあとについて、こんな風に語り合った。


十六
 父は時々囈語うわことをいうようになった。
乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐおあとから」
 こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めておきたがった。気のたしかな時はしきりにさびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことにへやうち見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「おみつは」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語っていた。わたくしはよくって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛しかけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光おまえにも色々世話になったね」などとやさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照としておもい出すらしかった。
「あんなあわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶんひどかったんだよ」
 母は父のためにほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。
 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった。
「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のためにしだと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」
 話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。そのうちに昏睡こんすいが来た。例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、はたにいるものも助かります」といった。
 父は時々眼を開けて、だれはどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻さっきまでそこにすわっていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、やみを縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
 そのうち舌が段々もつれて来た。何かいい出してもしり不明瞭ふめいりょうおわるために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々はもとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
「頭を冷やすとい心持ですか」
「うん」
 私は看護婦を相手に、父の水枕みずまくらを取りえて、それから新しい氷を入れた氷嚢ひょうのうを頭の上へせた。がさがさに割られてとがり切った氷の破片が、ふくろの中で落ちつく間、私は父の禿げ上った額のはずれでそれを柔らかにおさえていた。その時兄が廊下伝ろうかづたいにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
 それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。なみ状袋じょうぶくろにも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいのりり付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれをふところに差し込んだ。


十七
 その日は病人の出来がことに悪いように見えた。わたくしかわやへ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何すいかした。
「どうも様子が少し変だからなるべくそばにいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
 私もそう思っていた。懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに首肯うなずいた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「どうも色々お世話になります」
 父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてそのうちの一人が立って次のへ出た。するとまた一人立った。私も三人目にとうとう席をはずして、自分のへやへ来た。私には先刻さっきふところへ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違いなかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行かなかった。私は特別の時間をぬすんでそれにてた。
 私は繊維の強い包み紙を引き掻くようにき破った。中から出たものは、縦横たてよこに引いたけいの中へ行儀よく書いた原稿ようのものであった。そうして封じる便宜のために、おりたたまれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
 私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるにきまっているという予覚よかくがあった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最初の一ページを読んだ。その頁はしものようにつづられていた。
「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久にいっするようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるでうそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」
 私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じていた。しかし筆をることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
 私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづいてあとを読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立ち上った。廊下をけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。


十八
 病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを試みるところであった。看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄はってまごまごしていた。わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をおし」といったまま、自分は席に着いた。私は兄に代って、油紙あぶらがみを父のしりの下にてがったりした。
 父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元まくらもとすわっていた医者は、浣腸かんちょうの結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰りぎわに、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
 私は今にもへんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこしもゆっくりした気分になれなかった。机の前に坐るやいなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手をふるわした。私は先生の手紙をただ無意味にページだけ剥繰はぐって行った。私の眼は几帳面きちょうめんわくの中にめられた字画じかくを見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束おぼつかなかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りにたたんで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割でさかさに読んで行った。私は咄嗟とっさあいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私はさかさまに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳んだ。
 私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺まくらべ存外ぞんがい静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯うなずいた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。
 私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へけ込んだ。私は医者から父がもう三日さんちつだろうか、そこのところを判然はっきり聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎あいにく留守であった。私にはじっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心のきもなかった。私はすぐくるま停車場ステーションへ急がせた。
 私は停車場の壁へ紙片かみぎれてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いでうちへ届けるように車夫しゃふに頼んだ。そうして思い切ったいきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、またたもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。
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