或阿呆の一生
僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を
昭和二年六月二十日
芥川龍之介 久米正雄君
一 時代
それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の
そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも
彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に
「人生は
彼は
二 母
狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を
彼は血色の
「ぢや行かうか?」
医者は彼の先に立ちながら、廊下伝ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを満した、大きい
「この脳髄を持つてゐた男は××電燈会社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」
彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには
三 家
彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の
彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。
四 東京
隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の
五 我
彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
彼の先輩は
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「
そのカツフエは
六 病
彼は絶え間ない潮風の中に大きい
Talaria 翼の生えた靴、或はサンダアル。
Tale 話。
Talipot 東印度に産する
彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は
七 画
彼は突然、――それは実際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見てゐるうちに突然画と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの画集は写真版だつたのに違ひなかつた。が、彼は写真版の中にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。
この画に対する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頬の
或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。
ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歳の彼の心の中には耳を切つた
八 火花
彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は
九 死体
死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮を
彼はその死体を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した
「この頃は死体も不足してね。」
彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「
十 先生
彼は大きい
十一 夜明け
夜は次第に明けて行つた。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。市場に
彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。が、彼は驚かなかつた。のみならずその犬さへ愛してゐた。
市場のまん中には
それは彼の二十五の年、――先生に会つた三月目だつた。
十二 軍港
潜航艇の内部は薄暗かつた。彼は前後左右を
或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと
十三 先生の死
彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラツトフオオムを歩いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラツトフオオムの向うには鉄道工夫が三四人、一斉に
雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は巻煙草に火もつけずに
そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を
十四 結婚
彼は結婚した翌日に「
十五 彼等
彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。
十六 枕
彼は薔薇の葉の匂のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでゐた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには気づかなかつた。
十七 蝶
藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の
十八 月
彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)今まで知らなかつた寂しさを感じた。……
十九 人工の翼
彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――
人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。
彼はこの人工の翼をひろげ、
二十
彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。
二十一 狂人の娘
二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の来るのでも明らかだつた。後の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して恋愛ではなかつた。
前の人力車に乗つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の為に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪を感じてゐた。
二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。
二十二 或画家
それは或雑誌の
一週間ばかりたつた後、この画家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を発見した。
或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の
「もう遅い。しかしいざとなつた時には……」
二十三 彼女
或広場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾
彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」と言つて頬笑んだりした。彼等は肩を並べながら、
彼等の自動車に乗つた後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を
二十四 出産
彼は
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。
二十五 ストリントベリイ
彼は部屋の戸口に立ち、
二十六 古代
彩色の
二十七 スパルタ式訓練
彼は彼の友だちと或裏町を歩いてゐた。そこへ
「美人ですね。」
彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。
「ええ、中々美人ですね。」
二十八 殺人
田舎道は日の光りの中に牛の糞の臭気を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の両側に熟した麦は香ばしい匂を放つてゐた。
「殺せ、殺せ。……」
彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は
すると黄ばんだ麦の向うに
二十九 形
それは鉄の銚子だつた。彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形」の美を教へられてゐた。
三十 雨
彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。寝室の窓の外は雨ふりだつた。
「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」
彼は彼自身にかう質問した。この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。
「おれは
三十一 大地震
それはどこか熟し切つた
「誰も彼も死んでしまへば
彼は焼け跡に
三十二 喧嘩
彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。彼の弟は彼の為に圧迫を受け易いのに違ひなかつた。同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。彼の親戚は彼の弟に「彼を
三十三 英雄
彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には
ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……
――誰よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。――
三十四 色彩
三十歳の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。そこには唯
彼はふと七八年前の彼の情熱を思ひ出した。同時に又彼の七八年前には色彩を知らなかつたのを発見した。
三十五 道化人形
彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、
三十六 倦怠
彼は或大学生と
「君たちはまだ生活慾を盛に持つてゐるだらうね?」
「ええ、――だつてあなたでも……」
「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」
それは彼の真情だつた。彼は実際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。
「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」
彼は何とも答へなかつた。芒原はいつか赤い穂の上にはつきりと噴火山を
三十七 越し人
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、
風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
三十八 復讐
それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。
少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、
「あの子はあなたに似てゐやしない?」
「似てゐません。第一……」
「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」
彼は黙つて目を
三十九 鏡
彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。彼の友だちは
「君はまだ独身だつたね。」
「いや、もう来月結婚する。」
彼は思はず黙つてしまつた。カツフエの壁に
四十 問答
なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
資本主義の生んだ悪を見てゐるから。
悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?
――彼はかう天使と問答した。
四十一 病
彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性
しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻を
Magic Flute――Mozart
彼は
四十二 神々の笑ひ声
三十五歳の彼は春の日の当つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。……
四十三 夜
夜はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ。」
「
四十四 死
彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて
四十五 Divan
Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。若しこの詩人の足あとを
四十六 ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)
彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な
絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許す
四十七 火あそび
彼女はかがやかしい顔をしてゐた。それは丁度朝日の光の
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
四十八 死
彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、
四十九 剥製の白鳥
彼は最後の力を
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に
五十
彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。
「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」
この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、
彼はすつかり疲れ切つた
五十一 敗北
彼はペンを
(昭和二年六月、遺稿)