一
宮川寛斎が万屋の主人と手代とを神奈川に残して置いて帰国の途に上ったことは、早く美濃の方へ知れた。中津川も狭い土地だから、それがすぐ弟子仲間の香蔵や景蔵の耳に入り、半蔵はまた三里ほど離れた木曾の馬籠の方で、旧い師匠が板橋方面から木曾街道を帰って来ることを知った。
横浜開港の影響は諸国の街道筋にまであらわれて来るころだ。半蔵は馬籠の本陣にいて、すでに幾たびか銭相場引き上げの声を聞き、さらにまた小判買いの声を聞くようになった。古二朱金、保字金なぞの当時に残存した古い金貨の買い占めは地方でも始まった。きのうは馬籠桝田屋へ江州辺の買い手が来て貯え置きの保金小判を一両につき一両三分までに買い入れて行ったとか、きょうは中津川大和屋で百枚の保金小判を出して当時通用の新小判二百二十五両を請け取ったとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。金一両で二両一分ずつの売買だ。それどころか、二両二分にも、三両にも買い求めるものがあらわれて来た。半蔵が家の隣に住んで昔気質で聞こえた伏見屋金兵衛なぞは驚いてしまって、まことに心ならぬ浮世ではある、こんな姿で子孫が繁昌するならそれこそ大慶の至りだと皮肉を言ったり、この上どうなって行く世の中だろうと不安な語気をもらしたりした。
半蔵が横浜貿易から帰って来る旧師を心待ちに待ち受けたのは、この地方の動揺の中だ。
旅人を親切にもてなすことは、古い街道筋の住民が一朝一夕に養い得た気風でもない。椎の葉に飯を盛ると言った昔の人の旅情は彼らの忘れ得ぬ歌であり、路傍に立つ古い道祖神は子供の時分から彼らに旅人愛護の精神をささやいている。いたるところに山嶽は重なり合い、河川はあふれやすい木曾のような土地に住むものは、ことにその心が深い。当時における旅行の困難を最もよく知るものは、そういう彼ら自身なのだ。まして半蔵にして見れば、以前に師匠と頼んだ人、平田入門の紹介までしてくれた人が神奈川から百里の道を踏んで、昼でも暗いような木曾の森林の間を遠く疲れて帰って来ようという旅だ。
半蔵は旧師を待ち受ける心で、毎日のように街道へ出て見た。彼も隣宿妻籠本陣の寿平次と一緒に、江戸から横須賀へかけての旅を終わって帰って来てから、もう足掛け三年になる。過ぐる年の大火のあとをうけて馬籠の宿もちょうど復興の最中であった。幸いに彼の家や隣家の伏見屋は類焼をまぬかれたが、町の向こう側はすっかり焼けて、まっ先に普請のできた問屋九太夫の家も目に新しい。
旧師の横浜出稼ぎについては、これまでとても弟子たちの間に問題とされて来たことだ。どうかして晩節を全うするように、とは年老いた師匠のために半蔵らの願いとするところで、最初横浜行きのうわさを耳にした時に、弟子たちの間には寄り寄りその話が出た。わざわざ断わって行く必要もなかったと師匠に言われれば、それまでで、往きにその沙汰がなかったにしても、帰りにはなんとか話があろうと語り合っていた。すくなくも半蔵の心には、あの旧師が自分の家には立ち寄ってくれてせめて弟子だけにはいろいろな打ち明け話があるものと思っていた。
四月の二十二日には、寛斎も例の馬荷一駄に宰領の付き添いで、片側に新しい家の並んだ馬籠の坂道を峠の方から下って来た。寛斎は伏見屋の門口に馬を停め、懇意な金兵衛方に亡くなった鶴松の悔やみを言い入れ、今度横浜を引き上げるについては二千四百両からの金を預かって来たこと、万屋安兵衛らの帰国はたぶん六月になろうということ、生糸売り上げも多分の利得のあること、開港場での小判の相場は三両二朱ぐらいには商いのできること、そんな話を金兵衛のところに残して置いて、せっかく待ち受けている半蔵の家へは立ち寄らずに、そこそこに中津川の方へ通り過ぎて行った。
このことは後になって隣家から知れて来た。それを知った時の半蔵の手持ちぶさたもなかった。旧師を信ずる心の深いだけ、彼の失望も深かった。
二
「どうも小判買いの入り込んで来るには驚きますね。今もわたしは馬籠へ来る途中で、落合でもそのうわさを聞いて来ましたよ。」
こんな話をもって、中津川の香蔵が馬籠本陣を訪ねるために、落合から十曲峠の山道を登って来た。
香蔵は、まだ家督相続もせずにいる半蔵と違い、すでに中津川の方の新しい問屋の主人である。十何年も前に弟子として、義理ある兄の寛斎に就いたころから見ると、彼も今は男のさかりだ。三人の友だちの中でも、景蔵は年長で、香蔵はそれに次ぎ、半蔵が一番若かった。その半蔵がもはや三十にもなる。
寛斎も今は成金だと戯れて見せるような友だちを前に置いて、半蔵は自分の居間としている本陣の店座敷で話した。
銭相場引き上げに続いて急激な諸物価騰貴をひき起こした横浜貿易の取りざたほど半蔵らの心をいらいらさせるものもない。当時、国内に流通する小判、一分判などの異常に良質なことは、米国領事ハリスですら幕府に注意したくらいで、それらの古い金貨を輸出するものは法外な利を得た。幕府で新小判を鋳造し、その品質を落としたのは、外国貨幣と釣合を取るための応急手段であったが、それがかえって財界混乱の結果を招いたとも言える。そういう幕府には市場に流通する一切の古い金貨を蒐集して、それを改鋳するだけの能力も信用もなかったからで。新旧小判は同時に市場に行なわれるような日がやって来た。目先の利に走る内地商人と、この機会をとらえずには置かない外国商人とがしきりにその間に跳梁し始めた。純粋な小判はどしどし海の外へ出て行って、そのかわりに輸入せらるるものは多少の米弗銀貨はあるとしても、多くは悪質な洋銀であると言われる。
「半蔵さん、君はあの小判買いの声をどう思います。」と香蔵は言った。「今までに君、九十万両ぐらいの小判は外国へ流れ出したと言いますよ。そうです、軽く見積もっても九十万両ですとさ。驚くじゃありませんか。まさか幕府の役人だって、異人の言うなりになってるわけでもありますまいがね、したくも何もなしに、いきなり港を開かせられてしまって、その結果はと言うと非常な物価騰貴です。そりゃ一部の人たちは横浜開港でもうけたかもしれませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむようになって来ましたぜ。」
近づいて来る六月二日、その横浜開港一周年の記念日をむしろ屈辱の記念日として考えるものもあるような、さかんな排外熱は全国に巻き起こって来た。眼のあたりに多くのものの苦しみを見る半蔵らは、一概にそれを偏狭頑固なものの声とは考えられなかった。
「宮川先生のことは、もう何も言いますまい。」と半蔵が言い出した。「わたしたちの衷情としては、今までどおりの簡素清貧に甘んじていていただきたかったけれど。」
「国学者には君、国学者の立場もあろうじゃありませんか。それを捨てて、ただもうけさえすればよいというものでもないでしょう。」と言うのは香蔵だ。
「いったい、先生が横浜なぞへ出かけられる前に、相談してくださるとよかった。こんなにわたしたちを避けなくてもよさそうなものです。」
「出稼ぎの問題には触れてくれるなと言うんでしょう。」
にわかな雨で、二人の話は途切れた。半蔵は店座敷の雨戸を繰って、それを一枚ほど閉めずに置き、しばらく友だちと二人で表庭にふりそそぐ強い雨をながめていた。そのうちに雨は座敷へ吹き込んで来る。しまいには雨戸もあけて置かれないようになった。
「お民。」
と半蔵は妻を呼んだ。燈火なしには話も見えないほど座敷の内は暗かった。お民ももはや二十四で、二人子持ちの若い母だ。奥から行燈を運んで来る彼女の後ろには、座敷の入り口までついて来て客の方をのぞく幼いものもある。
時ならぬ行燈のかげで、半蔵と香蔵の二人は風雨の音をききながら旧師のことを語り合った。話せば話すほど二人はいろいろな心持ちを引き出されて行った。半蔵にしても香蔵にしても、はじめて古学というものに目をあけてもらった寛斎の温情を忘れずにいる。旧師も老いたとは考えても、その態度を責めるような心は二人とも持たなかった。飯田の在への隠退が旧師の晩年のためとあるなら、その人の幸福を乱したくないと言うのが半蔵だ。親戚としての関係はとにかく、旧師から離れて行こうと言い出すのが香蔵だ。
国学者としての大きな先輩、本居宣長ののこした仕事はこの半蔵らに一層光って見えるようになって来た。なんと言っても言葉の鍵を握ったことはあの大人の強味で、それが三十五年にわたる古事記の研究ともなり、健全な国民性を古代に発見する端緒ともなった。儒教という形であらわれて来ている北方シナの道徳、禅宗や道教の形であらわれて来ている南方シナの宗教――それらの異国の借り物をかなぐり捨て、一切の「漢ごころ」をかなぐり捨てて、言挙げということもさらになかった神ながらのいにしえの代に帰れと教えたのが大人だ。大人から見ると、何の道かの道ということは異国の沙汰で、いわゆる仁義礼譲孝悌忠信などというやかましい名をくさぐさ作り設けて、きびしく人間を縛りつけてしまった人たちのことを、もろこし方では聖人と呼んでいる。それを笑うために出て来た人があの大人だ。大人が古代の探求から見つけて来たものは、「直毘の霊」の精神で、その言うところを約めて見ると、「自然に帰れ」と教えたことになる。より明るい世界への啓示も、古代復帰の夢想も、中世の否定も、人間の解放も、または大人のあの恋愛観も、物のあわれの説も、すべてそこから出発している。伊勢の国、飯高郡の民として、天明寛政の年代にこんな人が生きていたということすら、半蔵らの心には一つの驚きである。早く夜明けを告げに生まれて来たような大人は、暗いこの世をあとから歩いて来るものの探るに任せて置いて、新しい世紀のやがてめぐって来る享和元年の秋ごろにはすでに過去の人であった。半蔵らに言わせると、あの鈴の屋の翁こそ、「近つ代」の人の父とも呼ばるべき人であった。
香蔵は半蔵に言った。
「今になって、想い当たる。宮川先生も君、あれで中津川あたりじゃ国学者の牛耳を執ると言われて来た人ですがね、年をとればとるほど漢学の方へ戻って行かれるような気がする。先生には、まだまだ『漢ごころ』のぬけ切らないところがあるんですね。」
「香蔵さん、そう君に言われると、わたしなぞはなんと言っていいかわからない。四書五経から習い初めたものに、なかなか儒教の殻はとれませんよ。」
強雨はやまないばかりか、しきりに雲が騒いで、夕方まで休みなしに吹き通すような強風も出て来た。名古屋から福島行きの客でやむを得ず半蔵の家に一宿させてくれと言って来た人さえもある。
香蔵もその晩は中津川の方へは帰れなかった。翌朝になって見ると、風は静まったが、天気は容易に回復しなかった。思いのほかの大荒れで、奥筋の道や橋は損じ、福島の毛付け(馬市)も日延べになったとの通知があるくらいだ。
ちょうど半蔵の父、吉左衛門は尾張藩から御勝手仕法立ての件を頼まれて、名古屋出張中の留守の時であった。半蔵は家の囲炉裏ばたに香蔵を残して置いて、ちょっと会所の見回りに行って来たが、街道には旅人の通行もなかった。そこへ下男の佐吉も蓑と笠とで田圃の見回りから帰って来て、中津川の大橋が流れ失せたとのうわさを伝えた。
「香蔵さん、大橋が落ちたと言いますぜ。もうすこし見合わせていたらどうです。」
「この雨にどうなりましょう。」と半蔵が継母のおまんも囲炉裏ばたへ来て言った。「いずれ中津川からお迎えの人も見えましょうに、それまで見合わせていらっしゃるがいい。まあ、そうなさい。」
雨のために、やむなく逗留する友だちを慰めようとして、やがて半蔵は囲炉裏ばたから奥の部屋の方へ香蔵を誘った。北の坪庭に向いたところまで行って、雨戸をすこし繰って見せると、そこに本陣の上段の間がある。白地に黒く雲形を織り出した高麗縁の畳の上には、雨の日の薄暗い光線がさし入っている。木曾路を通る諸大名が客間にあててあるのもそこだ。半蔵が横須賀の旅以来、過ぐる三年間の意味ある通行を数えて見ると、彦根よりする井伊掃部頭、江戸より老中間部下総守、林大学頭、監察岩瀬肥後守、等、等――それらのすでに横死したりまたは現存する幕府の人物で、あるいは大老就職のため江戸の任地へ赴こうとし、あるいは神奈川条約上奏のため京都へ急ごうとして、その客間に足をとどめて行ったことが、ありありとそこにたどられる。半蔵はそんな隠れたところにある部屋を友だちにのぞかせて、目まぐるしい「時」の歩みをちょっと振り返って見る気になった。
その時、半蔵は唐紙のそばに立っていた。わざと友だちが上段の間の床に注意するのを待っていた。相州三浦、横須賀在、公郷村の方に住む山上七郎左衛門から旅の記念にと贈られた光琳の軸がその暗い壁のところに隠れていたのだ。
「香蔵さん、これがわたしの横須賀土産ですよ。」
「そう言えば、君の話にはよく横須賀が出る。これを贈ったかたがその御本家なんですね。」
「妻籠の本陣じゃ無銘の刀をもらう、わたしの家へはこの掛け物をもらって来ました。まったく、あの旅は忘れられない。あれから吾家へ帰って来た日は、わたしはもう別の人でしたよ――まあ、自分のつもりじゃ、全く新規な生活を始めましたよ。」
半日でも多く友だちを引き留めたくている半蔵には、その日の雨はやらずの雨と言ってよかった。彼はその足で、継母や妻の仕事部屋となっている仲の間のわきの廊下を通りぬけて、もう一度店座敷の方に友だちの席をつくり直した。
「どれ、香蔵さんに一つわたしのまずい歌をお目にかけますか。」
と言って半蔵が友だちの前に取り出したのは、時事を詠じた歌の草稿だ。まだ若々しい筆で書いて、人にも見せずにしまって置いてあるものだ。
あめりかのどるを御国のしろかねにひとしき品とさだめしや誰
しろかねにかけておよばぬどるらるをひとしと思ひし人は誰ぞも
国つ物たかくうるともそのしろのいとやすかるを思ひはからで
百八十の物のことごとたかくうりてわれを富ますとおもひけるかな
土のごと山と掘りくるどるらるに御国のたからかへまく惜しも
どるらるにかふるも悲し神国の人のいとなみ造れるものを
どるらるの品のさだめは大八島国中あまねく問ふべかりしを
しろかねにいたくおとれるどるらるを知りてさておく世こそつたなき
国つ物足らずなりなばどるらるは山とつむとも何にかはせむ
これらの歌に「どる」とか、「どるらる」とかあるのは、外国商人の手によりて輸入せらるる悪質なメキシコドル、香港ドルなどの洋銀をさす。それは民間に流通するよりも多く徳川幕府の手に入って、一分銀に改鋳せらるるというものである。
「わたしがこんな歌をつくったのはめずらしいでしょう。」と半蔵が言い出した。
「しかし、宮川先生の旧い弟子仲間では、半蔵さんは歌の詠める人だと思っていましたよ。」と香蔵が答える。
「それがです、自分でも物になるかと思い初めたのは、横須賀の旅からです。あの旅が歌を引き出したんですね。詠んで見たら、自分にも詠める。」
「ほら、君が横須賀の旅から贈ってくだすったのがあるじゃありませんか。」
「でも、香蔵さん、吾家の阿爺が俳諧を楽しむのと、わたしが和歌を詠んで見たいと思うのとでは、だいぶその心持ちに相違があるんです。わたしはやはり、本居先生の歌にもとづいて、いくらかでも古の人の素直な心に帰って行くために、詩を詠むと考えたいんです。それほど今の時世に生まれたものは、自然なものを失っていると思うんですが、どうでしょう。」
半蔵らはすべてこの調子で踏み出して行こうとした。あの本居宣長ののこした教えを祖述するばかりでなく、それを極端にまで持って行って、実行への道をあけたところに、日ごろ半蔵らが畏敬する平田篤胤の不屈な気魄がある。半蔵らに言わせると、鈴の屋の翁にはなんと言っても天明寛政年代の人の寛濶さがある。そこへ行くと、気吹の舎大人は狭い人かもしれないが、しかしその迫りに迫って行った追求心が彼らの時代の人の心に近い。そこが平田派の学問の世に誤解されやすいところで、篤胤大人の上に及んだ幕府の迫害もはなはだしかった。『大扶桑国考』『皇朝無窮暦』などの書かれるころになると、絶板を命ぜられるはおろか、著述することまで禁じられ、大人その人も郷里の秋田へ隠退を余儀なくされたが、しかし大人は六十八歳の生涯を終わるまで決して屈してはいなかった。同時代を見渡したところ、平田篤胤に比ぶべきほどの必死な学者は半蔵らの目に映って来なかった。
五月も十日過ぎのことで、安政大獄当時に極刑に処せられたもののうち、あるものの忌日がやって来るような日を迎えて見ると、亡き梅田雲浜、吉田松陰、頼鴨崖なぞの記憶がまた眼前の青葉と共に世人の胸に活き返って来る。半蔵や香蔵は平田篤胤没後の門人として、あの先輩から学び得た心を抱いて、互いに革新潮流の渦の中へ行こうとこころざしていた。
降りつづける五月の雨は友だちの足をとどめさせたばかりでなく、親しみを増させるなかだちともなった。半蔵には新たに一人の弟子ができて、今は住み込みでここ本陣に来ていることも香蔵をよろこばせた。隣宿落合の稲葉屋の子息、林勝重というのがその少年の名だ。学問する機運に促されてか、馬籠本陣へ通って来る少年も多くある中で、勝重ほど末頼もしいものを見ない、と友だちに言って見せるのも半蔵だ。時には、勝重は勉強部屋の方から通って来て、半蔵と香蔵とが二人で話しつづけているところへ用をききに顔を出す。短い袴、浅黄色の襦袢の襟、前髪をとった額越しにこちらを見る少年らしい目つきの若々しさは、半蔵らにもありし日のことを思い出させずには置かなかった。
「そうかなあ。自分らもあんなだったかなあ。わたしが弁当持ちで、宮川先生の家へ通い初めたのは、ちょうど今の勝重さんの年でしたよ。」
と半蔵は友だちに言って見せた。
そろそろ香蔵は中津川の家の方のことを心配し出した。強風強雨が来たあとの様子が追い追いわかって見ると、荒町には風のために吹きつぶされた家もある。峠の村にも半つぶれの家があり、棟に打たれて即死した馬さえある。そこいらの畠の麦が残らず倒れたなぞは、風あたりの強い馬籠峠の上にしてもめずらしいことだ。
おまんは店座敷へ来て、
「香蔵さん、お宅の方でも御心配なすっていらっしゃるでしょうが、きょうお帰し申したんじゃ、わたしどもが心配です。吾家の佐吉に風呂でも焚かせますに、もう一日御逗留なすってください。年寄りの言うことをきいてください。」
と言って勧めた。この継母がはいって来ると、半蔵は急にすわり直した。おまんの前では、崩している膝でもすわり直すのが半蔵の癖のようになっていた。
「ごめんください。」
と子供に言って見せる声がして、部屋の敷居をまたごうとする幼いものを助けながら、そこへはいって来たのは半蔵の妻だ。娘のお粂は五つになるが、下に宗太という弟ができてから、にわかに姉さんらしい顔つきで、お民に連れられながら、客のところへ茶を運んで来た。一心に客の方をめがけて、茶をこぼすまいとしながら歩いて来るその様子も子供らしい。
「まあ、香蔵さん、見てやってください。」とおまんは言った。「お粂があなたのところへお茶を持ってまいりましたよ。」
「この子が自分で持って行くと言って、きかないんですもの。」とお民も笑った。
半蔵の家では子供まで来て、雨に逗留する客をもてなした。
とうとう香蔵は二晩も馬籠に泊まった。東美濃から伊那の谷へかけての平田門人らとも互いに連絡を取ること、場合によっては京都、名古屋にある同志のものを応援することを半蔵に約して置いて、三日目には香蔵は馬籠の本陣を辞した。
友だちが帰って行ったあとになって見ると、半蔵は一層わびしい雨の日を山の上に送った。四日目になっても雨は降り続き、風もすこし吹いて、橋の損所や舞台の屋根を修繕するために村じゅう一軒に一人ずつは出た。雨間というものがすこしもなく、雲行きは悪く、荒れ気味で安心がならなかった。村には長雨のために、壁がいたんだり、土の落ちたりした土蔵もある。五日目も雨、その日になると、崖になった塩沢あたりの道がぬける。香蔵が帰って行った中津川の方の大橋付近では三軒の人家が流失するという騒ぎだ。日に日に木曾川の水は増し、橋の通行もない。街道は往来止めだ。
ようやく五月の十七日ごろになって、上り下りの旅人が動き出した。尾張藩の勘定奉行、普請役御目付、錦織の奉行、いずれも江戸城本丸の建築用材を見分のためとあって、この森林地帯へ入り込んで来る。美濃地方が風雨のために延引となっていた長崎御目付の通行がそのあとに続く。
「黒船騒ぎも、もうたくさんだ。」
そう思っている半蔵は、また木曾人足百人、伊那の助郷二百人を用意するほどの長崎御目付の通行を見せつけられた。遠く長崎の港の方には、新たにドイツの船がはいって来て、先着のヨーロッパ諸国と同じような通商貿易の許しを求めるために港内に碇泊しているとのうわさもある。
三
七月を迎えるころには、寛斎は中津川の家を養子に譲り、住み慣れた美濃の盆地も見捨て、かねて老後の隠棲の地と定めて置いた信州伊那の谷の方へ移って行った。馬籠にはさびしく旧師を見送る半蔵が残った。
「いよいよ先生ともお別れか。」
と半蔵は考えて、本陣の店座敷の戸に倚りながら、寛斎が引き移って行った谷の方へ思いを馳せた。隣宿妻籠から伊那への通路にあたる清内路には、平田門人として半蔵から見れば先輩の原信好がある。御坂峠、風越峠なぞの恵那山脈一帯の地勢を隔てた伊那の谷の方には、飯田にも、大川原にも、山吹にも、座光寺にも平田同門の熱心な先輩を数えることができる。その中には、篤胤大人畢生の大著でまだ世に出なかった『古史伝』三十一巻の上木を思い立つ座光寺の北原稲雄のような人がある。古学研究の筵を開いて、先師遺著の輪講を思い立つ山吹の片桐春一のような人がある。年々寒露の節に入る日を会日と定め、金二分とか、金半分とかの会費を持ち寄って、地方にいて書籍を購読するための書籍講というものを思い立つものもある。
半蔵の周囲には、驚くばかり急激な勢いで、平田派の学問が伊那地方の人たちの間に伝播し初めた。飯田の在の伴野という村には、五十歳を迎えてから先師没後の門人に加わり、婦人ながらに勤王の運動に身を投じようとする松尾多勢子のような人も出て来た。おまけに、江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田鉄胤のようなよい相続者があって、地方にある門人らを指導することを忘れていなかった。一切の入門者がみな篤胤没後の門人として取り扱われた。決して鉄胤の門人とは見なされなかった。半蔵にして見ると、彼はこの伊那地方の人たちを東美濃の同志に結びつける中央の位置に自分を見いだしたのである。賀茂真淵から本居宣長、本居宣長から平田篤胤と、諸大人の承け継ぎ承け継ぎして来たものを消えない学問の燈火にたとえるなら、彼は木曾のような深い山の中に住みながらも、一方には伊那の谷の方を望み、一方には親しい友だちのいる中津川から、落合、附智、久々里、大井、岩村、苗木なぞの美濃の方にまで、あそこにも、ここにもと、その燈火を数えて見ることができた。
当時の民間にある庄屋たちは、次第にその位置を自覚し始めた。さしあたり半蔵としては、父吉左衛門から青山の家を譲られる日のことを考えて見て、その心じたくをする必要があった。吉左衛門と、隣家の金兵衛とが、二人ともそろって木曾福島の役所あてに退役願いを申し出たのも、その年、万延元年の夏のはじめであったからで。
長いこと地方自治の一単位とも言うべき村方の世話から、交通輸送の要路にあたる街道一切の面倒まで見て、本陣問屋庄屋の三役を兼ねた吉左衛門と、年寄役の金兵衛とが二人ともようやく隠退を思うころは、吉左衛門はすでに六十二歳、金兵衛は六十四歳に達していた。もっとも、父の退役願いがすぐにきき届けられるか、どうかは、半蔵にもわからなかったが。
時には、半蔵は村の見回りに行って、そこいらを出歩く父や金兵衛にあう。吉左衛門ももう杖なぞを手にして、新たに養子を迎えたお喜佐(半蔵の異母妹)の新宅を見回りに行くような人だ。金兵衛は、と見ると、この隣人は袂に珠数を入れ、かつては半蔵の教え子でもあった亡き鶴松のことを忘れかねるというふうで、位牌所を建立するとか、木魚を寄付するとかに、何かにつけて村の寺道の方へ足を運ぼうとするような人だ。問屋の九太夫にもあう。
「九太夫さんも年を取ったなあ。」
そう想って見ると、金兵衛の家には美濃の大井から迎えた伊之助という養子ができ、九太夫の家にはすでに九郎兵衛という後継ぎがある。
半蔵は家に戻ってからも、よく周囲を見回した。妻をも見て言った。
「お民、ことしか来年のうちには、お前も本陣の姉さまだぜ。」
「わかっていますよ。」
「お前にこの家がやれるかい。」
「そりゃ、わたしだって、やれないことはないと思いますよ。」
先代の隠居半六から四十二歳で家督を譲られた父吉左衛門に比べると、半蔵の方はまだ十二年も若い。それでももう彼のそばには、お民のふところへ子供らしい手をさし入れて、乳房を探ろうとする宗太がいる。朴の葉に包んでお民の与えた熱い塩結飯をうまそうに頬張るような年ごろのお粂がいる。
半蔵は思い出したように、
「ごらん、吾家の阿爺はことしで勤続二十一年だ、見習いとして働いた年を入れると、実際は三十七、八年にもなるだろう。あれで祖父さんもなかなか頑張っていて、本陣庄屋の仕事を阿爺に任せていいとは容易に言わなかった。それほど大事を取る必要もあるんだね。おれなぞは、お前、十七の歳から見習いだぜ。しかし、おれはお前の兄さん(寿平次)のように事務の執れる人間じゃない。お大名を泊めた時の人数から、旅籠賃がいくらで、燭台が何本と事細かに書き留めて置くような、そういうことに適した人間じゃない――おれは、こんなばかな男だ。」
「どうしてそんなことを言うんでしょう。」
「だからさ。今からそれをお前に断わって置く。お前の兄さんもおもしろいことを言ったよ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想って見たまえ、とさ。しかし、おれも庄屋の子だ。平田先生の門人の一人だ。まあ、おれはおれで、やれるところまでやって見る。」
「半蔵さま、福島からお差紙(呼び出し状)よなし。ここはどうしても、お前さまに出ていただかんけりゃならん。」
村方のものがそんなことを言って、半蔵のところへやって来た。
村民同志の草山の争いだ。いたるところに森林を見る山間の地勢で、草刈る場所も少ない土地を争うところから起こって来る境界のごたごただ。草山口論ということを約めて、「山論」という言葉で通って来たほど、これまでとてもその紛擾は木曾山に絶えなかった。
銭相場引き上げ、小判買い、横浜交易なぞの声につれて、一方には財界変動の機会に乗じ全盛を謳わるる成金もあると同時に、細民の苦しむこともおびただしい。米も高い。両に四斗五升もした。大豆一駄二両三分、酒一升二百三十二文、豆腐一丁四十二文もした。諸色がこのとおりだ。世間一統動揺して来ている中で、村民の心がそう静かにしていられるはずもなかった。山論までが露骨になって来た。
しかし半蔵にとって、大げさに言えば血で血を洗うような、こうした百姓同志の争いほど彼の心に深い悲しみを覚えさせるものもなかった。福島役所への訴訟沙汰にまでなった山論――訴えた方は隣村湯舟沢の村民、訴えられた方は馬籠宿内の一部落にあたる峠村の百姓仲間である。山論がけんかになって、峠村のものが鎌十五挺ほど奪い取られたのは過ぐる年の夏のことで、いったんは馬籠の宿役人が仲裁に入り、示談になったはずの一年越しの事件だ。この争いは去年の二百二十日から九月の二十日ごろまで、およそ二か月にもわたった。そのおりには隣宿妻籠脇本陣の扇屋得右衛門から、山口村の組頭まで立ち合いに来て、草山の境界を見分するために一同弁当持参で山登りをしたほどであった。ところが、湯舟沢村のものから不服が出て、その結果は福島の役所にまで持ち出されるほど紛れたのである。二人の百姓総代は峠村からも馬籠の下町からも福島に呼び出された。両人のものが役所に出頭して見ると、直ちに入牢を仰せ付けられて、八沢送りとなった。福島からは別に差紙が来て、年寄役付き添いの上、馬籠の庄屋に出頭せよとある。今は、半蔵も躊躇すべき時でない。
「お民、おれはお父さんの名代に、福島まで行って来る。」
と妻に言って、彼は役所に出頭する時の袴の用意なぞをさせた。自分でも着物を改めて、堅く帯をしめにかかった。
「どうも人気が穏やかでない。」
父、吉左衛門はそれを半蔵に言って、福島行きのしたくのできるのを待った。
この父は自分の退役も近づいたという顔つきで、本陣の囲炉裏ばたに続いた寛ぎの間の方へ行って、その部屋の用箪笥から馬籠湯舟沢両村の古い絵図なぞを取り出して来た。
「半蔵、これも一つの参考だ。」
と言って子の前に置いた。
「双方入り合いの草刈り場所というものは、むずかしいよ。山論、山論で、そりゃ今までだってもずいぶんごたごたしたが、大抵は示談で済んで来たものだ。」
とまた吉左衛門は軽く言って、早く不幸な入牢者を救えという意味を通わせた。
湯舟沢の方の百姓は、組頭とも、都合八人のものが福島の役所に呼び出された。馬籠では、年寄役の儀助、同役与次衛門、それに峠の組頭平助がすでに福島へ向けて立って行った。なお、年寄役金兵衛の名代として、隣家の養子伊之助も半蔵のあとから出かけることになっている。草山口論も今は公の場処に出て争おうとする御用の山論一条だ。
これらの年寄役は互いに代わり合って、半蔵の付き添いとして行くことになったのだ。
「おれも退役願いを出したくらいだから、今度は顔を出すまいよ。」
と父が言葉を添えるころには、峠の組頭平助が福島から引き返して、半蔵を迎えに来た。半蔵は平助の付き添いに力を得て、脚絆に草鞋ばき尻端折りのかいがいしい姿になった。
諸国には当時の厳禁なる百姓一揆も起こりつつあった。しかし半蔵は、村の長老たちが考えるようにそれを単なる農民の謀反とは見なせなかった。百姓一揆の処罰と言えば、軽いものは笞、入墨、追い払い、重いものは永牢、打ち首のような厳刑はありながら、進んでその苦痛を受けようとするほどの要求から動く百姓の誠実と、その犠牲的な精神とは、他の社会に見られないものである。当時の急務は、下民百姓を教えることではなくて、あべこべに下民百姓から教えられることであった。
「百姓には言挙げということもさらにない。今こそ草山の争いぐらいでこんな内輪げんかをしているが、もっと百姓の目をさます時が来る。」
そう半蔵は考えて、庄屋としての父の名代を勤めるために、福島の役所をさして出かけて行くことにした。
家を離れてから、彼はそこにいない人たちに呼びかけるように、ひとり言って見た。
「同志打ちはよせ。今は、そんな時世じゃないぞ。」
四
十三日の後には、福島へ呼び出されたものも用済みになり、湯舟沢峠両村の百姓の間には和解が成り立った。
八沢の牢舍を出たもの、証人として福島の城下に滞在したもの、いずれも思い思いに帰村を急ぎつつあった。十四日目には、半蔵は隣家の伊之助と連れだって、峠の組頭平助とも一緒に、暑い木曾路を西に帰って来る人であった。
福島から須原泊まりで、山論和解の報告をもたらしながら、半蔵が自分の家の入り口まで引き返して来た時は、ちょうど門内の庭掃除に余念もない父を見た。
「半蔵が帰りましたよ。」
おまんはだれよりも先に半蔵を見つけて、店座敷の前の牡丹の下あたりを掃いている吉左衛門にそれを告げた。
「お父さん、行ってまいりました。」
半蔵は表庭の梨の木の幹に笠を立てかけて置いて、汗をふいた。その時、簡単に、両村のものの和解をさせて来たあらましを父に告げた。双方入り合いの草刈り場所を定めたこと、新たに土塚を築いて境界をはっきりさせること、最寄りの百姓ばかりがその辺へは鎌を入れることにして、一同福島から引き取って来たことを告げた。
「それはまあ、よかった。お前の帰りがおそいから心配していたよ。」
と吉左衛門は庭の箒を手にしたままで言った。
もはや秋も立つ。馬籠あたりに住むものがきびしい暑さを口にするころに、そこいらの石垣のそばでは蟋蟀が鳴いた。半蔵はその年の盆も福島の方で送って来て、さらに村民のために奔走しなければならないほどいそがしい思いをした。
やがて両村立ち合いの上で、かねて争いの場処である草山に土塚を築き立てる日が来た。半蔵は馬籠の惣役人と、百姓小前のものを連れて、草いきれのする夏山の道をたどった。湯舟沢からは、庄屋、組頭四人、百姓全部で、両村のものを合わせるとおよそ二百人あまりの人数が境界の地点と定めた深い沢に集まった。
「そんなとろくさいことじゃ、だちかん。」
「うんと高く土を盛れ。」
半蔵の周囲には、口々に言いののしる百姓の声が起こる。
四つの土塚がその境界に築き立てられることになった。あるものは洞が根先の大石へ見通し、あるものは向こう根の松の木へ見通しというふうに。そこいらが掘り返されるたびに、生々しい土の臭気が半蔵の鼻をつく。工事が始まったのだ。両村の百姓は、藪蚊の襲い来るのも忘れて、いずれも土塚の周囲に集合していた。
その時、背後から軽く半蔵の肩をたたくものがある。隣村妻籠の庄屋として立ち合いに来た寿平次が笑いながらそこに立っていた。
「寿平次さん、泊まっていったらどうです。」
「いや、きょうは連れがあるから帰ります。二里ぐらいの夜道はわけありません。」
半蔵と寿平次とがこんな言葉をかわすころは、山で日が暮れた。四番目の土塚を見分する時分には、松明をともして、ようやく見通しをつけたほど暗い。境界の中心と定めた樹木から、ある大石までの間に土手を掘る工事だけは、余儀なく翌日に延ばすことになった。
雨にさまたげられた日を間に置いて、翌々日にはまた両村の百姓が同じ場所に集合した。半蔵は妻籠からやって来る寿平次と一緒になって、境界の土手を掘る工事にまで立ち合った。一年越しにらみ合っていた両村の百姓も、いよいよ双方得心ということになり、長い山論もその時になって解決を告げた。
日暮れに近かった。半蔵は寿平次を誘いながら家路をさして帰って行った。横須賀の旅以来、二人は一層親しく往来する。義理ある兄弟であるばかりでなく、やがて二人は新進の庄屋仲間でもある。
「半蔵さん、」と寿平次は石ころの多い山道を歩きながら言った。「すべてのものが露骨になって来ましたね。」
「さあねえ。」と半蔵が答えた。
「でも、半蔵さん、この山論はどうです。いや、草山の争いばかりじゃありません、見るもの聞くものが、実に露骨になって来ましたね。こないだも、水戸の浪人だなんていう人が吾家へやって来て、さんざん文句を並べたあげくに、何か書くから紙と筆を貸せと言い出しました。扇子を二本書かせたところが、酒を五合に、銭を百文、おまけに草鞋一足ねだられましたよ。早速追い出しました。あの浪人はぐでぐでに酔って、その足で扇屋へもぐずり込んで、とうとう得右衛門さんの家に寝込んでしまったそうですよ。見たまえ、この街道筋にもえらい事がありますぜ。長崎の御目付がお下りで通行の日でさ。永井様とかいう人の家来が、人足がおそいと言うんで、わたしの村の問屋と口論になって、都合五人で問屋を打ちすえました。あの時は木刀が折れて、問屋の頭には四か所も疵ができました。やり方がすべて露骨じゃありませんか。君と二人で相州の三浦へ出かけた時分さ――あのころには、まだこんなじゃありませんでしたよ。」
「お師匠さま。」
夕闇の中に呼ぶ少年の声と共に、村の方からやって来る提灯が半蔵たちに近づいた。半蔵の家のものは帰りにおそくなるのを心配して、弟子の勝重に下男の佐吉をつけ、途中まで迎えによこしたのだ。
山の上の宿場らしい燈火が街道の両側にかがやくころに、半蔵らは馬籠の本陣に帰り着いた。家にはお民が風呂を用意して、夫や兄を待ち受けているところだった。その晩は、寿平次も山登りの汗を洗い流して、半蔵の部屋に来てくつろいだ。
「木曾は蠅の多いところだが、蚊帳を釣らずに暮らせるのはいい。水の清いのと、涼しいのと、そのせいだろうかねえ。」
と寿平次が兄らしく話しかけることも、お民をよろこばせた。
「お民、お母さんに内証で、今夜はお酒を一本つけておくれ。」
と半蔵は言った。その年になってもまだ彼は継母の前で酒をやることを遠慮している。どこまでも継母に仕えて身を慎もうとすることは、彼が少年の日からであって、努めに努めることは第二の天性のようになっている。彼は、経験に富む父よりも、賢い継母のおまんを恐れている。
酒のさかなには、冷豆腐、薬味、摺り生薑に青紫蘇。それに胡瓜もみ、茄子の新漬けぐらいのところで、半蔵と寿平次とは涼しい風の来る店座敷の軒近いところに、めいめい膳を控えた。
「ここへ来ると思い出すなあ。あの横須賀行きの半蔵さんを誘いに来て、一晩泊めていただいたのもこの部屋ですよ。」
「あの時分と見ると、江戸も変わったらしい。」
「大変わり。こないだも江戸土産を吾家へ届けてくれた飛脚がありましてね、その人の話には攘夷論が大変な勢いだそうですね。浪人は諸方に乱暴する、外国人は殺される、洋学者という洋学者は脅迫される。江戸市中の唐物店では店を壊される、実に物すごい世の中になりましたなんて、そんな話をして行きましたっけ。」
「表面だけ見れば、そういうこともあるかもしれません。」
「しかし、半蔵さん、こんなに攘夷なんてことを言い出すようになって来て――それこそ、猫も、杓子もですよ――これで君、いいでしょうかね。」
疲労を忘れる程度に盃を重ねたあとで、半蔵はちょっと座をたって、廂から外の方に夜の街道の空をながめた。田の草取りの季節らしい稲妻のひらめきが彼の目に映った。
「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢ごころ』ですよ。外国を夷狄の国と考えてむやみに排斥するのは、やっぱり唐土から教わったことじゃありませんか。」
「寿平次さんはなかなかえらいことを言う。」
「そりゃ君、今日の外国は昔の夷狄の国とは違う。貿易も、交通も、世界の大勢で、やむを得ませんさ。わたしたちはもっとよく考えて、国を開いて行きたい。」
その時、半蔵はもとの座にかえって、寿平次の前にすわり直した。
「あゝあゝ、変な流行だなあ。」と寿平次は言葉を継いで、やがて笑い出した。「なんぞというと、すぐに攘夷をかつぎ出す。半蔵さん。君のお仲間は今日流行の攘夷をどう思いますかさ。」
「流行なんて、そんな寿平次さんのように軽くは考えませんよ。君だってもこの社会の変動には悩んでいるんでしょう。良い小判はさらって行かれる、物価は高くなる、みんなの生活は苦しくなる――これが開港の結果だとすると、こんな排外熱の起こって来るのは無理もないじゃありませんか。」
二人が時を忘れて話し込んでいるうちに、いつのまにか夜はふけて行った。酒はとっくにつめたくなり、丼の中の水に冷やした豆腐も崩れた。
五
平田篤胤没後の門人らは、しきりに実行を思うころであった。伊那の谷の方のだれ彼は白河家を足だまりにして、京都の公卿たちの間に遊説を思い立つものがある。すでに出発したものもある。江戸在住の平田鉄胤その人すら動きはじめたとの消息すらある。
当時は井伊大老横死のあとをうけて、老中安藤対馬守を幕府の中心とする時代である。だれが言い出したとも知れないような流言が伝わって来る。和学講談所(主として有職故実を調査する所)の塙次郎という学者はひそかに安藤対馬の命を奉じて北条氏廃帝の旧例を調査しているが、幕府方には尊王攘夷説の根源を断つために京都の主上を幽し奉ろうとする大きな野心がある。こんな信じがたいほどの流言が伝わって来るころだ。当時の外国奉行堀織部の自殺も多くの人を驚かした。そのうわさもまた一つの流言を生んだ。安藤対馬はひそかに外国人と結託している。英国公使アールコックに自分の愛妾まで与え許している、堀織部はそれを苦諫しても用いられないので、刃に伏してその意を致したというのだ。流言は一編の偽作の諫書にまでなって、漢文で世に行なわれた。堀織部の自殺を憐むものが続々と出て来て、手向けの花や線香がその墓に絶えないというほどの時だ。
だれもがこんな流言を疑い、また信じた。幕府の威信はすでに地を掃い、人心はすでに徳川を離れて、皇室再興の時期が到来したというような声は、血気壮んな若者たちの胸を打たずには置かなかった。
その年の八月には、半蔵は名高い水戸の御隠居(烈公)の薨去をも知った。吉左衛門親子には間接な主人ながらに縁故の深い尾張藩主(徳川慶勝)をはじめ、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、その他安政大獄当時に幽屏せられた諸大名も追い追いと謹慎を解かれる日を迎えたが、そういう中にあって、あの水戸の御隠居ばかりは永蟄居を免ぜられたことも知らずじまいに、江戸駒込の別邸で波瀾の多い生涯を終わった。享年六十一歳。あだかも生前の政敵井伊大老のあとを追って、時代から沈んで行く夕日のように。
半蔵が年上の友人、中津川本陣の景蔵は、伊那にある平田同門北原稲雄の親戚で、また同門松尾多勢子とも縁つづきの間柄である。この人もしばらく京都の方に出て、平田門人としての立場から多少なりとも国事に奔走したいと言って、半蔵のところへもその相談があった。日ごろ謙譲な性質で、名聞を好まない景蔵のような友人ですらそうだ。こうなると半蔵もじっとしていられなかった。
父は老い、街道も日に多事だ。本陣問屋庄屋の仕事は否でも応でも半蔵の肩にかかって来た。その年の十月十九日の夜にはまた、馬籠の宿は十六軒ほど焼けて、半蔵の生まれた古い家も一晩のうちに灰になった。隣家の伏見屋、本陣の新宅、皆焼け落ちた。風あたりの強い位置にある馬籠峠とは言いながら、三年のうちに二度の大火は、村としても深い打撃であった。
翌文久元年の二月には、半蔵とお民は本陣の裏に焼け残った土蔵のなかに暮らしていた。土蔵の前にさしかけを造り、板がこいをして、急ごしらえの下竈を置いたところには、下女が炊事をしていた。土蔵に近く残った味噌納屋の二階の方には、吉左衛門夫妻が孫たちを連れて仮住居していた。二間ほど座敷があって、かつて祖父半六が隠居所にあててあったのもその二階だ。その辺の石段を井戸の方へ降りたところから、木小屋、米倉なぞのあるあたりへかけては、火災をまぬかれた。そこには佐吉が働いていた。
旧暦二月のことで、雪はまだ地にある。半蔵は仮の雪隠を出てから、焼け跡の方を歩いて、周囲を見回した。上段の間、奥の間、仲の間、次の間、寛ぎの間、店座敷、それから玄関先の広い板の間など、古い本陣の母屋の部屋部屋は影も形もない。灰寄せの人夫が集まって、釘や金物の類を拾った焼け跡には、わずかに街道へ接した塀の一部だけが残った。
さしあたりこの宿場になくてかなわないものは、会所(宿役人寄合所)だ。幸い九太夫の家は火災をまぬかれたので、仮に会所はそちらの方へ移してある。問屋場の事務も従来吉左衛門の家と九太夫の家とで半月交替に扱って来たが、これも一時九太夫方へ移してある。すべてが仮で、わびしく、落ち着かなかった。吉左衛門は半蔵に力を添えて、大工を呼べ、新しい母屋の絵図面を引けなどと言って、普請工事の下相談もすでに始まりかけているところであった。
京都にある帝の妹君、和宮内親王が時の将軍(徳川家茂)へ御降嫁とあって、東山道御通行の触れ書が到来したのは、村ではこの大火後の取り込みの最中であった。
宿役人一同、組頭までが福島の役所から来た触れ書を前に置いて、談し合わねばならないような時がやって来た。この相談には、持病の咳でこもりがちな金兵衛までが引っぱり出された。
吉左衛門は味噌納屋の二階から、金兵衛は上の伏見屋の仮住居から、いずれも仮の会所の方に集まった。その時、吉左衛門は旧い友だちを見て、
「金兵衛さん、馬籠の宿でも御通行筋の絵図面を差し出せとありますよ。」
と言って、互いに額を集めた。
本陣問屋庄屋としての仕事はこんなふうに、あとからあとからと半蔵の肩に重くかかって来た。彼は何をさし置いても、年取った父を助けて、西よりする和宮様の御一行をこの木曾路に迎えねばならなかった。
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