一
先頃大殿様御一代中で、一番人目を駭かせた、地獄変の屏風の由来を申し上げましたから、今度は若殿様の御生涯で、たった一度の不思議な出来事を御話し致そうかと存じて居ります。が、その前に一通り、思いもよらない急な御病気で、大殿様が御薨去になった時の事を、あらまし申し上げて置きましょう。
あれは確か、若殿様の十九の御年だったかと存じます。思いもよらない急な御病気とは云うものの、実はかれこれその半年ばかり前から、御屋形の空へ星が流れますやら、御庭の紅梅が時ならず一度に花を開きますやら、御厩の白馬が一夜の内に黒くなりますやら、御池の水が見る間に干上って、鯉や鮒が泥の中で喘ぎますやら、いろいろ凶い兆がございました。中でも殊に空恐ろしく思われたのは、ある女房の夢枕に、良秀の娘の乗ったような、炎々と火の燃えしきる車が一輛、人面の獣に曳かれながら、天から下りて来たと思いますと、その車の中からやさしい声がして、「大殿様をこれへ御迎え申せ。」と、呼わったそうでございます。その時、その人面の獣が怪しく唸って、頭を上げたのを眺めますと、夢現の暗の中にも、唇ばかりが生々しく赤かったので、思わず金切声をあげながら、その声でやっと我に返りましたが、総身はびっしょり冷汗で、胸さえまるで早鐘をつくように躍っていたとか申しました。でございますから、北の方を始め、私どもまで心を痛めて、御屋形の門々に陰陽師の護符を貼りましたし、有験の法師たちを御召しになって、種々の御祈祷を御上げになりましたが、これも誠に遁れ難い定業ででもございましたろう。
ある日――それも雪もよいの、底冷がする日の事でございましたが、今出川の大納言様の御屋形から、御帰りになる御車の中で、急に大熱が御発しになり、御帰館遊ばした時分には、もうただ「あた、あた」と仰有るばかり、あまつさえ御身のうちは、一面に気味悪く紫立って、御褥の白綾も焦げるかと思う御気色になりました。元よりその時も御枕もとには、法師、医師、陰陽師などが、皆それぞれに肝胆を砕いて、必死の力を尽しましたが、御熱は益烈しくなって、やがて御床の上まで転び出ていらっしゃると、たちまち別人のような嗄れた御声で、「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙りは如何致した。」と、狂おしく御吼りになったまま、僅三時ばかりの間に、何とも申し上げる語もない、無残な御最期でございます。その時の悲しさ、恐ろしさ、勿体なさ――今になって考えましても、蔀に迷っている、護摩の煙と、右往左往に泣き惑っている女房たちの袴の紅とが、あの茫然とした験者や術師たちの姿と一しょに、ありありと眼に浮かんで、かいつまんだ御話を致すのさえ、涙が先に立って仕方がございません。が、そう云う思い出の内でも、あの御年若な若殿様が、少しも取乱した御容子を御見せにならず、ただ、青ざめた御顔を曇らせながら、じっと大殿様の御枕元へ坐っていらしった事を考えると、なぜかまるで磨ぎすました焼刃の※(「均-土」、第3水準1-14-75)いでも嗅ぐような、身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼もしい、妙な心もちが致すのでございます。
二
御親子の間がらでありながら、大殿様と若殿様との間くらい、御容子から御性質まで、うらうえなのも稀でございましょう。大殿様は御承知の通り、大兵肥満でいらっしゃいますが、若殿様は中背の、どちらかと申せば痩ぎすな御生れ立ちで、御容貌も大殿様のどこまでも男らしい、神将のような俤とは、似もつかない御優しさでございます。これはあの御美しい北の方に、瓜二つとでも申しましょうか。眉の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある、女のような御顔立ちでございましたが、どこかそこにうす暗い、沈んだ影がひそんでいて、殊に御装束でも召しますと、御立派と申しますより、ほとんど神寂ているとでも申し上げたいくらい、いかにももの静な御威光がございました。
が、大殿様と若殿様とが、取り分け違っていらしったのは、どちらかと云えば、御気象の方で、大殿様のなさる事は、すべてが豪放で、雄大で、何でも人目を驚かさなければ止まないと云う御勢いでございましたが、若殿様の御好みは、どこまでも繊細で、またどこまでも優雅な趣がございましたように存じて居ります。たとえば大殿様の御心もちが、あの堀川の御所に窺われます通り、若殿様が若王子に御造りになった竜田の院は、御規模こそ小そうございますが、菅相丞の御歌をそのままな、紅葉ばかりの御庭と申し、その御庭を縫っている、清らかな一すじの流れと申し、あるいはまたその流れへ御放しになった、何羽とも知れない白鷺と申し、一つとして若殿様の奥床しい御思召しのほどが、現れていないものはございません。
そう云う次第でございますから、大殿様は何かにつけて、武張った事を御好みになりましたが、若殿様はまた詩歌管絃を何よりも御喜びなさいまして、その道々の名人上手とは、御身分の上下も御忘れになったような、隔てない御つき合いがございました。いや、それもただ、そう云うものが御好きだったと申すばかりでなく、御自分も永年御心を諸芸の奥秘に御潜めになったので、笙こそ御吹きになりませんでしたが、あの名高い帥民部卿以来、三舟に乗るものは、若殿様御一人であろうなどと、噂のあったほどでございます。でございますから、御家の集にも、若殿様の秀句や名歌が、今に沢山残って居りますが、中でも世上に評判が高かったのは、あの良秀が五趣生死の図を描いた竜蓋寺の仏事の節、二人の唐人の問答を御聞きになって、御詠みになった歌でございましょう。これはその時磬の模様に、八葉の蓮華を挟んで二羽の孔雀が鋳つけてあったのを、その唐人たちが眺めながら、「捨身惜花思」と云う一人の声の下から、もう一人が「打不立有鳥」と答えました――その意味合いが解せないので、そこに居合わせた人々が、とかくの詮議立てをして居りますと、それを御聞きになった若殿様が、御持ちになった扇の裏へさらさらと美しく書き流して、その人々のいる中へ御遣しになった歌でございます。
身をすてて花を惜しやと思ふらむ打てども
立たぬ鳥もありけり
三
大殿様と若殿様とは、かように万事がかけ離れていらっしゃいましたから、それだけまた御二方の御仲にも、そぐわない所があったようでございます。これにも世間にはとかくの噂がございまして、中には御親子で、同じ宮腹の女房を御争いになったからだなどと、申すものもございますが、元よりそのような莫迦げた事があろう筈はございません。何でも私の覚えて居ります限りでは、若殿様が十五六の御年に、もう御二方の間には、御不和の芽がふいていたように御見受け申しました。これが前にもちょいと申し上げて置きました、若殿様が笙だけを御吹きにならないと云う、その謂われに縁のある事なのでございます。
その頃、若殿様は大そう笙を御好みで、遠縁の従兄に御当りなさる中御門の少納言に、御弟子入をなすっていらっしゃいました。この少納言は、伽陵と云う名高い笙と、大食調入食調の譜とを、代々御家に御伝えになっていらっしゃる、その道でも稀代の名人だったのでございます。
若殿様はこの少納言の御手許で、長らく切磋琢磨の功を御積みになりましたが、さてその大食調入食調の伝授を御望みになりますと、少納言はどう思召したのか、この仰せばかりは御聞き入れになりません。それが再三押して御頼みになっても、やはり御満足の行くような御返事がなかったので、御年若な若殿様は、一方ならず残念に思召したのでございましょう。ある日大殿様の双六の御相手をなすっていらっしゃる時に、ふとその御不満を御洩しになりました。すると大殿様はいつものように鷹揚に御笑いになりながら、「そう不平は云わぬものじゃ。やがてはその譜も手にはいる時節があるであろう。」と、やさしく御慰めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたないある日の事、中御門の少納言は、堀川の御屋形の饗へ御出になった帰りに、俄に血を吐いて御歿りになってしまいました。が、それは先ず、よろしいと致しましても、その明くる日、若殿様が何気なく御居間へ御出でになると、螺鈿を鏤めた御机の上に、あの伽陵の笙と大食調入食調の譜とが、誰が持って来たともなく、ちゃんと載っていたと申すではございませんか。
その後また大殿様が若殿様を御相手に双六を御打ちになった時、
「この頃は笙も一段と上達致したであろうな。」と、念を押すように仰有ると、若殿様は静に盤面を御眺めになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かない事に致しました。」と、冷かに御答えになりました。
「何としてまた、吹かぬ事に致したな。」
「聊かながら、少納言の菩提を弔おうと存じますから。」
こう仰有って若殿様は、じっと父上の御顔を御見つめになりました。が、大殿様はまるでその御声が聞えないように勢いよく筒を振りながら、
「今度もこの方が無地勝らしいぞ。」とさりげない容子で勝負を御続けになりました。でございますからこの御問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、御親子の御仲には、この時からある面白くない心もちが、挟まるようになったかと存ぜられます。
四
それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子の間には、まるで二羽の蒼鷹が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙もない睨み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類が、大御嫌いでございましたから、大殿様の御所業に向っても、楯を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言鋭い御批判を御漏らしになるばかりでございます。
いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私に御向いになりまして、「鬼神が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑しそうに仰有いましたが、その後また、東三条の河原院で、夜な夜な現れる融の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有ったのを覚えて居ります。
それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反って手を合せて、権者のような大殿様の御牛にかけられた冥加のほどを、難有がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司を轢き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺じゃ。轍の下に往生を遂げたら、聖衆の来迎を受けたにも増して、難有く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居るようでございます。この後とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦までも伝える事でございましょう。」と、素知らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我を御折りになったと見えて、苦い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃の※(「均-土」、第3水準1-14-75)いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替りがしたと云う気が、――それも御屋形の中ばかりでなく、一天下にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌しい気が致したのでございます。
五
でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から、御屋形の中へはどこからともなく、今までにない長閑な景色が、春風のように吹きこんで参りました。歌合せ、花合せ、あるいは艶書合せなどが、以前にも増して度々御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは、御屋形の御客に御出でになる上つ方の御顔ぶれで、今はいかに時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、滅多に若殿様の御眼にはかかれません。いや、たとい御眼にかかれたのにしても、御出でになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがに御身を御愧じになって、自然御み足が遠くなってしまうのでございます。
その代りまた、詩歌管絃の道に長じてさえ居りますれば、無位無官の侍でも、身に余るような御褒美を受けた事がございます。たとえば、ある秋の夜に、月の光が格子にさして、機織りの声が致して居りました時、ふと人を御召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思召したのか、急にその侍に御向いなすって、
「機織りの声が致すのは、その方にも聞えような。これを題に一首仕れ。」と、御声がかりがございました。するとその侍は下にいて、しばらく頭を傾けて居りましたが、やがて、「青柳の」と、初の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、可笑かったのでございましょう。女房たちの間には、忍び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織りぞ啼く。」と、さわやかに詠じますと、たちまちそれは静まり返って、萩模様のある直垂を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出して下さいました。実はその侍と申しますのが、私の姉の一人息子で、若殿様とは、ほぼ御年輩も同じくらいな若者でございましたが、これを御奉公の初めにして、その後も度々難有い御懇意を受けたのでございます。
まず、若殿様の御平生は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方も御迎えになりましたし、年々の除目には御官位も御進みになりましたが、そう云う事は世上の人も、よく存じている事でございますから、ここにはとり立てて申し上げません。それよりも先を急ぎますから、最初に御約束致しました通り、若殿様の御一生に、たった一度しかなかったと云う、不思議な出来事の御話へはいる事に致しましょう。と申しますのは、大殿様とは御違いになって、天が下の色ごのみなどと云う御渾名こそ、御受けになりましたが、誠に御無事な御生涯で、そのほかには何一つ、人口に膾炙するような御逸事と申すものも、なかったからでございます。
六
その御話のそもそもは、確か大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申しあげました中御門の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々御文を書いていらっしゃいました。ただ今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私どもの口から洩れますと、若殿様はいつも晴々と御笑いになって、
「爺よ。天が下は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙い歌や詩を作ったのは皆、恋がさせた業じゃ。思えば狐の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな。」と、まるで御自分を嘲るように、洒落としてこう仰有います。が、全く当時の若殿様は、それほど御平生に似もやらず、恋慕三昧に耽って御出でになりました。
しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事ではございません。あの頃の年若な殿上人で、中御門の御姫様に想いを懸けないものと云ったら、恐らく御一方もございますまい。あの方が阿父様の代から、ずっと御住みになっていらっしゃる、二条西洞院の御屋形のまわりには、そう云う色好みの方々が、あるいは車を御寄せになったり、あるいは御自身御拾いで御出でになったり、絶えず御通い遊ばしたものでございます。中には一夜の中に二人まで、あの御屋形の梨の花の下で、月に笛を吹いている立烏帽子があったと云う噂も、聞き及んだ事がございました。
いや、現に一時は秀才の名が高かった菅原雅平とか仰有る方も、この御姫様に恋をなすって、しかもその恋がかなわなかった御恨みから、俄に世を御捨てになって、ただ今では筑紫の果に流浪して御出でになるとやら、あるいはまた東海の波を踏んで唐土に御渡りになったとやら、皆目御行方が知れないと申すことでございます。この方などは若殿様とも、詩文の御交りの深かった御一人で、御消息などをなさる時は、若殿様を楽天に、御自分を東坡に比していらしったそうでございますが、そう云う風流第一の才子が、如何に中御門の御姫様は御美しいのに致しましても、一旦の御歎きから御生涯を辺土に御送りなさいますのは、御不覚と申し上げるよりほかはございますまい。
が、また飜って考えますと、これも御無理がないと思われるくらい、中御門の御姫様と仰有る方は、御美しかったのでございます。私が一両度御見かけ申しました限でも、柳桜をまぜて召して、錦に玉を貫いた燦びやかな裳の腰を、大殿油の明い光に、御輝かせになりながら、御※(「目+匡」、第3水準1-88-81)も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかな御姿は一生忘れようもございますまい。しかもこの御姫様は御気象も並々ならず御闊達でいらっしゃいましたから、なまじいな殿上人などは、思召しにかなう所か、すぐに本性を御見透しになって、とんと御寵愛の猫も同様、さんざん御弄りになった上、二度と再び御膝元へもよせつけないようになすってしまいました。
七
でございますからこの御姫様に、想を懸けていらしった方々の間には、まるで竹取物語の中にでもありそうな、可笑しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極の左大弁様で、この方は京童が鴉の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。所がこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、いかに御姫様を懐しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元よりまた御同輩の方にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有った例はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、ある時、それを枷にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私が想を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を拵えて、折からの藤の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。
こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、慌て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度五月雨の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘をかざしながら、ひそかに二条西洞院の御屋形まで参りますと、御門は堅く鎖してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来も稀な築土路には、ただ、蛙の声が聞えるばかり、雨は益降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩むと云う情ない次第でございます。
それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫と申します私くらいの老侍が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは云うまでもなく御姫様が、悪戯好きの若殿原から、細々と御消息で、鴉の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。
八
こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事をさし加えよう道理はございません。その頃洛中で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫を頭にして、御召使の男女が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
何でも私が人伝に承わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反って誰よりも、素気なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫が、なぜか堀川の御屋形のものを仇のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日が※(「均-土」、第3水準1-14-75)っている築地の上から白髪頭を露して、檜皮の狩衣の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人か。盗人とあれば容赦はせぬ。一足でも門内にはいったが最期、平太夫が太刀にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞を礫代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣しになりました。さればこそ、日頃も仰有る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。
九
丁度その頃の事でございます。洛中に一人の異形な沙門が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利の教と申すものを説き弘め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦から天狗が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿の御后に鬼が憑いたなどと申します通り、この沙門の事を譬えて云ったのでございます。
そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。確か、ある花曇りの日の昼中だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑の外を通りかかりますと、あすこの築土を前にして、揉烏帽子やら、立烏帽子やら、あるいはまたもの見高い市女笠やらが、数にしておよそ二三十人、中には竹馬に跨った童部も交って、皆一塊になりながら、罵り騒いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大神に祟られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂闊な近江商人が、魚盗人に荷でも攫われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々しいので、何気なく後からそっと覗きこんで見ますと、思いもよらずその真中には、乞食のような姿をした沙門が、何か頻にしゃべりながら、見慣れぬ女菩薩の画像を掲げた旗竿を片手につき立てて、佇んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上った、いかにも凄じい面がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、頸にかけた十文字の怪しげな黄金の護符と申し、元より世の常の法師ではございますまい。それが、私の覗きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅永寿の眷属が、鳶の翼を法衣の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました。
するとその時、私の側にいた、逞しい鍛冶か何かが、素早く童部の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐したな。」と、噛みつくように喚きながら、斜に相手の面を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、いよいよ高く女菩薩の画像を落花の風に飜して、
「たとい今生では、いかなる栄華を極めようとも、天上皇帝の御教に悖るものは、一旦命終の時に及んで、たちまち阿鼻叫喚の地獄に堕ち、不断の業火に皮肉を焼かれて、尽未来まで吠え居ろうぞ。ましてその天上皇帝の遺された、摩利信乃法師に笞を当つるものは、命終の時とも申さず、明日が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩の身となり果てるぞよ。」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶まで、しばらくはただ、竹馬を戟にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守って居りました。
十
が、それはほんの僅の間で、鍛冶はまた竹馬をとり直しますと、
「まだ雑言をやめ居らぬか。」と、恐ろしい権幕で罵りながら、矢庭に沙門へとびかかりました。
元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の焦けた頬に、もう一すじ蚯蚓腫の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を掃ったと思うが早いか、いきなり大地にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎の鍛冶の方でございました。
これに辟易した一同は、思わず逃腰になったのでございましょう。揉烏帽子も立烏帽子も意気地なく後を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇病みのように白い泡さえも噴いて居ります。沙門はしばらくその呼吸を窺っているようでございましたが、やがてその瞳を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの云うた事に、偽りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者を、目に見えぬ剣で打たせ給うた。まだしも頭が微塵に砕けて、都大路に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい。」と、さも横柄に申しました。
するとその時でございます。ひっそりと静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童部が一人、切禿の髪を躍らせながら、倒れている鍛冶の傍へ、転がるように走り寄ったのは。
「阿父さん。阿父さんてば。よう。阿父さん。」
童部はこう何度も喚きましたが、鍛冶はさらに正気に還る気色もございません。あの唇にたまった泡さえ、不相変花曇りの風に吹かれて、白く水干の胸へ垂れて居ります。
「阿父さん。よう。」
童部はまたこう繰り返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、たちまち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙門を目がけて健気にも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画像の旗竿で、事もなげに払いながら、またあの気味の悪い笑を洩らしますと、わざと柔しい声を出して、「これは滅相な。御主の父親が気を失ったのは、この摩利信乃法師がなせる業ではないぞ。さればわしを窘めたとて、父親が生きて返ろう次第はない。」と、たしなめるように申しました。
その道理が童部に通じたと云うよりは、所詮この沙門と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛冶の小伜は五六度竹馬を振りまわした後で、べそを掻いたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。
十一
摩利信乃法師はこれを見ると、またにやにや微笑みながら、童部の傍へ歩みよって、
「さても御主は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そう温和しくして居れば、諸天童子も御主にめでて、ほどなくそこな父親も正気に還して下されよう。わしもこれから祈祷しょうほどに、御主もわしを見慣うて、天上皇帝の御慈悲に御すがり申したがよかろうぞ。」
こう云うと沙門は旗竿を大きく両腕に抱きながら、大路のただ中に跪いて、恭しげに頭を垂れました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀羅尼のようなものを、声高に誦し始めました。それがどのくらいつづいた事でございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加持のし方を眺めている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われるほどでございましたが、やがて沙門が眼を開いて、脆いたなり伸ばした手を、鍛冶の顔の上へさしかざしますと、見る見る中にその顔が、暖かく血の色を盛返して、やがて苦しそうな呻り声さえ、例の泡だらけな口の中から、一しきり長く溢れて参りました。
「やあ、阿父さんが、生き返った。」
童部は竹馬を抛り出すと、嬉しそうに小躍りして、また父親の傍へ走りよりました。が、その手で抱き起されるまでもなく、呻り声を洩らすとほとんど同時に、鍛冶はまるで酒にでも酔ったかと思うような、覚束ない身のこなしで、徐に体を起しました。すると沙門はさも満足そうに、自分も悠然と立ち上って、あの女菩薩の画像を親子のものの頭の上に、日を蔽う如くさしかざすと、
「天上皇帝の御威徳は、この大空のように広大無辺じゃ。何と信を起されたか。」と、厳かにこう申しました。
鍛冶の親子は互にしっかり抱き合いながら、まだ土の上に蹲って居りましたが、沙門の法力の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像を拝んだものが居ったようでございます。ただ私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、忌わしい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを潮に、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々その場を立ち去ってしまいました。
後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦から渡って参りました、あの摩利の教と申すものだそうで、摩利信乃法師と申します男も、この国の生れやら、乃至は唐土に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺の涯から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣が翼になって、八阪寺の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。
十二
と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師が、あの怪しげな陀羅尼の力で、瞬く暇に多くの病者を癒した事でございます。盲目が見えましたり、跛が立ちましたり、唖が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、前の摂津守の悩んでいた人面瘡ででもございましょうか。これは甥を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報から、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な瘡が現われて、昼も夜も骨を刻るような業苦に悩んで居りましたが、あの沙門の加持を受けますと、見る間にその顔が気色を和げて、やがて口とも覚しい所から「南無」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の憑きましたのも、天狗の憑きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神の憑きましたのも、あの十文字の護符を頂きますと、まるで木の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗したり、その信者を呵責したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥い血潮に変ったものもございますし、持ち田の稲を一夜の中に蝗が食ってしまったものもございますが、あの白朱社の巫女などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。
そう云う勢いでございますから、日が経るに従って、信者になる老若男女も、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水で頭を濡すと云う、灌頂めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依した明りが立ち兼ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に夥しい人だかりが致して居りましたから、何かと存じて覗きました所、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けて居るのでございました。何しろ折からの水が温んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を佩いて畏った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見物でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人小屋の間へ、小さな蓆張りの庵を造りまして、そこに始終たった一人、佗しく住んでいたのでございます。
十三
そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予て御心を寄せていらしった中御門の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘の※(「均-土」、第3水準1-14-75)と時鳥の声とが雨もよいの空を想わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田の蛙の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土の陰で、怪しい咳の声がするや否や、きらきらと白刃を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々しく襲いかかりました。
と同時に牛飼の童部を始め、御供の雑色たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破と云う間もなく、算を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色もなく、矢庭に一人が牛の※(「革+橿のつくり」、第3水準1-93-81)を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃の垣を造って、犇々とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立ったのが横柄に簾を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主を、きっと御覧になりますと、面こそ包んで居りますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫に相違はございません。この一刹那はさすがの若殿様も、思わず総身の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御一家を仇のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。
いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を荒げて、太刀の切先を若殿様の御胸に向けながら、
「さらば御命を申受けようず。」と罵ったと申すではございませんか。
十四
しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄びなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立った盗人は、白刃を益御胸へ近づけて、
「中御門の少納言殿は、誰故の御最期じゃ。」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証もある。」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇の一味じゃ。」
頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀で若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念なと御称え申されい。」と、嘲笑うような声で申したそうでございます。
が、若殿様は相不変落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御内のものか。」と、抛り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それがまた何と致した。」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内でないものがいたと思え。そのものこそは天が下の阿呆ものじゃ。」
若殿様はこう仰有って、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害した暁には、その方どもはことごとく検非違使の目にかかり次第、極刑に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」
これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫だけは独り、気違いのように吼り立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」
若殿様は鷹揚に御微笑なさりながら、指貫の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。
十五
「次第によっては、御意通り仕らぬものでもございませぬ。」
恐ろしいくらいひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、頭だったのが半恐る恐るこう御答え申し上げますと、若殿様は御満足そうに、はたはたと扇を御鳴らしになりながら、例の気軽な御調子で、
「それは重畳じゃ。何、予が頼みと申しても、格別むずかしい儀ではない。それ、そこに居る老爺は、少納言殿の御内人で、平太夫と申すものであろう。巷の風聞にも聞き及んだが、そやつは日頃予に恨みを含んで、あわよくば予が命を奪おうなどと、大それた企てさえ致して居ると申す事じゃ。さればその方どもがこの度の結構も、平太夫めに唆されて、事を挙げたのに相違あるまい。――」
「さようでございます。」
これは盗人たちが三四人、一度に覆面の下から申し上げました。
「そこで予が頼みと申すのは、その張本の老爺を搦めとって、長く禍の根を断ちたいのじゃが、何とその方どもの力で、平太夫めに縄をかけてはくれまいか。」
この御仰せには、盗人たちも、余りの事にしばらくの間は、呆れ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆面の頭が、互に眼を見合わしながら、一しきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれがまた静かになりますと、突然盗人たちの唯中から、まるで夜鳥の鳴くような、嗄れた声が起りました。
「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭いこの殿の口車に乗せられ居って、抜いた白刃を持て扱うばかりか、おめおめ御意に従いましょうなどとは、どの面下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば己れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、見事申し受けようも、瞬く暇じゃ。」
こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若殿様へ飛びかかろうと致しました。が、その飛びかかろうと致したのと、頭だった盗人が、素早く白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、ほとんど同時でございます。するとほかの盗人たちも、てんでに太刀を鞘におさめて、まるで蝗か何かのように、四方から平太夫へ躍りかかりました。何しろ多勢に無勢と云い、こちらは年よりの事でございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。たちまちの内にあの老爺は、牛の※(「革+橿のつくり」、第3水準1-93-81)でございましょう、有り合せた縄にかけられて、月明りの往来へ引き据えられてしまいました。その時の平太夫の姿と申しましたら、とんと穽にでもかかった狐のように、牙ばかりむき出して、まだ未練らしく喘ぎながら、身悶えしていたそうでございます。
するとこれを御覧になった若殿様は、欠伸まじりに御笑いになって、
「おお、大儀。大儀。それで予の腹も一先癒えたと申すものじゃ。が、とてもの事に、その方どもは、予が車を警護旁、そこな老耄を引き立て、堀川の屋形まで参ってくれい。」
こう仰有られて見ますと盗人たちも、今更いやとは申されません。そこで一同うち揃って、雑色がわりに牛を追いながら、縄つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。天が下は広うございますが、かように盗人どもを御供に御つれ遊ばしたのは、まず若殿様のほかにはございますまい。もっともこの異様な行列も、御屋形まで参りつかない内に、急を聞いて駆けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々御褒美を頂いた上、こそこそ退散致してしまいました。
十六
さて若殿様は平太夫を御屋形へつれて御帰りになりますと、そのまま、御厩の柱にくくりつけて、雑色たちに見張りを御云いつけなさいましたが、翌朝は※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々あの老爺を、朝曇りの御庭先へ御召しになって、
「こりゃ平太夫、その方が少納言殿の御恨を晴そうと致す心がけは、成程愚には相違ないが、さればとてまた、神妙とも申されぬ事はない。殊にあの月夜に、覆面の者どもを駆り催して、予を殺害致そうと云う趣向のほどは、中々その方づれとも思われぬ風流さじゃ。が、美福門のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば糺の森あたりの、老木の下闇に致したかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、卯の花の白く仄くのも一段と風情を添える所じゃ。もっともこれはその方づれに、望む予の方が、無理かも知れぬ。ついてはその殊勝なり、風流なのが目出たいによって、今度ばかりはその方の罪も赦してつかわす事にしよう。」
こう仰有って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」
私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦りきった面色が、泣くとも笑うともつかない気色を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙しそうに、働かせて居るのでございます。するとその容子が、笑止ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔を御やめになると、縄尻を控えていた雑色に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有い御諚がございました。
それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘の枝を肩にして、這々裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺の跡をつけたのでございます。
二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の※(「均-土」、第3水準1-14-75)のする、築土つづきの都大路を、とぼとぼと歩いて参ります。途々通りちがう菜売りの女などが、稀有な文使いだとでも思いますのか、迂散らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺はとんとそれにも目をくれる気色はございません。
この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、しばらくは猶も跡を慕って参りますと、丁度油小路へ出ようと云う、道祖の神の祠の前で、折からあの辻をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙門が、出合いがしらに平太夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩の幢、墨染の法衣、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。
十七
危くつき当りそうになった摩利信乃法師は、咄嗟に身を躱しましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平太夫の姿を見守りました。が、あの老爺はとんとそれに頓着する容子もなく、ただ、二三歩譲っただけで、相不変とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖の神の祠を後にして、佇んでいる沙門の眼なざしが、いかに天狗の化身とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、反ってその眼なざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字を切りながら、何か咒文のようなものを口の内に繰返して、※(「均-土」、第3水準1-14-75)々歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門と云うような語が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目もふらず悄々と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申して居りました。
しかしその御文は恙なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々には、何とも確かな事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御闊達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗討ちの次第でも御聞きになって、若殿様の御気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り交せになった後、とうとうある小雨の降る夜、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに我が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉をひそめて居りましたが、私の甥に向いましても、格別雑言などを申す勢いはなかったそうでございます。
十八
その後若殿様はほとんど夜毎に西洞院の御屋形へ御通いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の、眩しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近く御呼びよせなさりながら、今昔の移り変りを話せと申す御意もございました。確か、その時の事でございましょう。御簾のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った藤の※(「均-土」、第3水準1-14-75)がかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中に、一人二人の女房を御侍らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲に薄色の袿を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫夜姫にも御劣りになりはしますまい。
その内に御酒機嫌の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、
「今も爺の申した通り、この狭い洛中でさえ、桑海の変は度々あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流して、刹那も住すと申す事はない。されば無常経にも『未四曾有三一事不レ被二無常呑一』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟ばかりは逃れられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ。」と、冗談のように仰有いますと、御姫様はとんと拗ねたように、大殿油の明るい光をわざと御避けになりながら、
「まあ、憎らしい事ばかり仰有います。ではもう始めから私を、御捨てになる御心算でございますか。」と、優しく若殿様を御睨みなさいました。が、若殿様は益御機嫌よく、御盃を御干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられる心算で居ると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる。」
「たんと御弄り遊ばしまし。」
御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急にまた御簾の外の夜色へ、うっとりと眼を御やりになって、
「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように果ないものでございましょうか。」と独り語のように仰有いました。すると若殿様はいつもの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、
「されば果なくないとも申されまいな。が、われら人間が万法の無常も忘れはてて、蓮華蔵世界の妙薬をしばらくしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは恋慕三昧に日を送った業平こそ、天晴知識じゃ。われらも穢土の衆苦を去って、常寂光の中に住そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。何と御身もそうは思われぬか。」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。
十九
「されば恋の功徳こそ、千万無量とも申してよかろう。」
やがて若殿様は、恥しそうに御眼を御伏せになった御姫様から、私の方へ、陶然となすった御顔を御向けになって、
「何と、爺もそう思うであろうな。もっともその方には恋とは申さぬ。が、好物の酒ではどうじゃ。」
「いえ、却々持ちまして、手前は後生が恐ろしゅうございます。」
私が白髪を掻きながら、慌ててこう御答え申しますと、若殿様はまた晴々と御笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸に往生しょうと思う心は、それを暗夜の燈火とも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってその方も、釈教と恋との相違こそあれ、所詮は予と同心に極まったぞ。」
「これはまた滅相な。成程御姫様の御美しさは、伎芸天女も及ばぬほどではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物の御酒などと、一つ際には申せませぬ。」
「そう思うのはその方の心が狭いからの事じゃ。弥陀も女人も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡の類いにほかならぬ。――」
こう若殿様が御云い張りになると、急に御姫様は偸むように、ちらりとその方を御覧になりながら、
「それでも女子が傀儡では、嫌じゃと申しは致しませぬか。」と、小さな御声で仰有いました。
「傀儡で悪くば、仏菩薩とも申そうか。」
若殿様は勢いよく、こう返事をなさいましたが、ふと何か御思い出しなすったように、じっと大殿油の火影を御覧になると、
「昔、あの菅原雅平と親ゅう交っていた頃にも、度々このような議論を闘わせた。御身も知って居られようが、雅平は予と違って、一図に信を起し易い、云わば朴直な生れがらじゃ。されば予が世尊金口の御経も、実は恋歌と同様じゃと嘲笑う度に腹を立てて、煩悩外道とは予が事じゃと、再々悪しざまに罵り居った。その声さえまだ耳にあるが、当の雅平は行方も知れぬ。」と、いつになく沈んだ御声でもの思わしげに御呟きなさいました。するとその御容子にひき入れられたのか、しばらくの間は御姫様を始め、私までも口を噤んで、しんとした御部屋の中には藤の花の※(「均-土」、第3水準1-14-75)ばかりが、一段と高くなったように思われましたが、それを御座が白けたとでも、思ったのでございましょう。女房たちの一人が恐る恐る、
「では、この頃洛中に流行ります摩利の教とやら申すのも、やはり無常を忘れさせる新しい方便なのでございましょう。」と、御話の楔を入れますと、もう一人の女房も、
「そう申せばあの教を説いて歩きます沙門には、いろいろ怪しい評判があるようでございませんか。」と、さも気味悪そうに申しながら、大殿油の燈心をわざとらしく掻立てました。
二十
「何、摩利の教。それはまた珍しい教があるものじゃ。」
何か御考えに耽っていらしった若殿様は、思い出したように、御盃を御挙げになると、その女房の方を御覧になって、
「摩利と申すからは、摩利支天を祭る教のようじゃな。」
「いえ、摩利支天ならよろしゅうございますが、その教の本尊は、見慣れぬ女菩薩の姿じゃと申す事でございます。」
「では、波斯匿王の妃の宮であった、茉利夫人の事でも申すと見える。」
そこで私は先日神泉苑の外で見かけました、摩利信乃法師の振舞を逐一御話し申し上げてから、
「その女菩薩の姿では、茉利夫人とやらのようでもございませぬ。いや、それよりはこれまでのどの仏菩薩の御像にも似ていないのでございます。別してあの赤裸の幼子を抱いて居るけうとさは、とんと人間の肉を食む女夜叉のようだとも申しましょうか。とにかく本朝には類のない、邪宗の仏に相違ございますまい。」と、私の量見を言上致しますと、御姫様は美しい御眉をそっと御ひそめになりながら、
「そうしてその摩利信乃法師とやら申す男は、真実天狗の化身のように見えたそうな。」と、念を押すように御尋ねなさいました。
「さようでございます。風俗はとんと火の燃える山の中からでも、翼に羽搏って出て来たようでございますが、よもやこの洛中に、白昼さような変化の物が出没致す事はございますまい。」
すると若殿様はまた元のように、冴々した御笑声で、
「いや、何とも申されぬ。現に延喜の御門の御代には、五条あたりの柿の梢に、七日の間天狗が御仏の形となって、白毫光を放ったとある。また仏眼寺の仁照阿闍梨を日毎に凌じに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ。」
「まあ、気味の悪い事を仰有います。」
御姫様は元より、二人の女房も、一度にこう云って、襲の袖を合せましたが、若殿様は、愈御酒機嫌の御顔を御和げになって、
「三千世界は元より広大無辺じゃ。僅ばかりの人間の智慧で、ないと申される事は一つもない。たとえばその沙門に化けた天狗が、この屋形の姫君に心を懸けて、ある夜ひそかに破風の空から、爪だらけの手をさしのべようも、全くない事じゃとは誰も云えぬ。が、――」と仰有りながら、ほとんど色も御変りにならないばかり、恐ろしげに御寄りそいになった御姫様の袿の背を、やさしく御さすりになりながら、
「が、まだその摩利信乃法師とやらは、幸い、姫君の姿さえ垣間見た事もないであろう。まず、それまでは魔道の恋が、成就する気づかいはよもあるまい。さればもうそのように、怖がられずとも大丈夫じゃ。」と、まるで子供をあやすように、笑って御慰めなさいました。
二十一
それから一月ばかりと申すものは、何事もなくすぎましたが、やがて夏も真盛りのある日の事、加茂川の水が一段と眩く日の光を照り返して、炎天の川筋には引き舟の往来さえとぎれる頃でございます。ふだんから釣の好きな私の甥は、五条の橋の下へ参りまして、河原蓬の中に腰を下しながら、ここばかりは涼風の通うのを幸と、水嵩の減った川に糸を下して、頻に鮠を釣って居りました。すると丁度頭の上の欄干で、どうも聞いた事のあるような話し声が致しますから、何気なく上を眺めますと、そこにはあの平太夫が高扇を使いながら、欄干に身をよせかけて、例の摩利信乃法師と一しょに、余念なく何事か話して居るではございませんか。
それを見ますと私の甥は、以前油小路の辻で見かけた、摩利信乃法師の不思議な振舞がふと心に浮びました。そう云えばあの時も、どうやら二人の間には、曰くがあったようでもある。――こう私の甥は思いましたから、眼は糸の方へやっていても、耳は橋の上の二人の話を、じっと聞き澄まして居りますと、向うは人通りもほとんど途絶えた、日盛りの寂しさに心を許したのでございましょう。私の甥の居る事なぞには、更に気のつく容子もなく、思いもよらない、大それた事を話し合って居るのでございます。
「あなた様がこの摩利の教を御拡めになっていらっしゃろうなどとは、この広い洛中で誰一人存じて居るものはございますまい。私でさえあなた様が御自分でそう仰有るまでは、どこかで御見かけ申したとは思いながら、とんと覚えがございませんでした。それもまた考えて見れば、もっともな次第でございます。いつぞやの春の月夜に桜人の曲を御謡いになった、あの御年若なあなた様と、ただ今こうして炎天に裸で御歩きになっていらっしゃる、慮外ながら天狗のような、見るのも凄じいあなた様と、同じ方でいらっしゃろうとは、あの打伏の巫子に聞いて見ても、わからないのに相違ございません。」
こう平太夫が口軽く、扇の音と一しょに申しますと、摩利信乃法師はまるでまた、どこの殿様かと疑われる、鷹揚な言つきで、
「わしもその方に会ったのは何よりも満足じゃ。いつぞや油小路の道祖の神の祠の前でも、ちらと見かけた事があったが、その方は側目もふらず、文をつけた橘の枝を力なくかつぎながら、もの思わしげにたどたどと屋形の方へ歩いて参った。」
「さようでございますか。それはまた年甲斐もなく、失礼な事を致したものでございます。」
平太夫はあの朝の事を思い出したのでございましょう。苦々しげにこう申しましたが、やがて勢いの好い扇の音が、再びはたはたと致しますと、
「しかしこうして今日御眼にかかれたのは、全く清水寺の観世音菩薩の御利益ででもございましょう。平太夫一生の内に、これほど嬉しい事はございません。」
「いや、予が前で神仏の名は申すまい。不肖ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙って、わが日の本に摩利の教を布こうと致す沙門の身じゃ。」
二十二
急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師が言を挟みましたが、存外平太夫は恐れ入った気色もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老耄れたと見えまして、する事為す事ことごとく落度ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前では、二度と神仏の御名は口に致しますまい。もっとも日頃はこの老爺も、余り信心気などと申すものがある方ではございません。それをただ今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も、幼馴染のあなた様が御無事でいらっしゃると御聞きになったら、どんなにか御喜びになる事でございましょう。」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのも面倒そうな、口の重い容子とは打って変って、勢いよく、弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうにしばらくはただ、頷いてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と云う言を機会に、
「さてその姫君についてじゃが、予は聊か密々に御意得たい仔細がある。」と、云って、一段とまた声をひそめながら、
「何と平太夫、その方の力で夜分なりと、御目にかからせてはくれまいか。」
するとこの時橋の上では、急に扇の音が止んでしまいました。それと同時に私の甥は、危く欄干の方を見上げようと致しましたが、元より迂闊な振舞をしては、ここに潜んでいる事が見露されないものでもございません。そこでやはり河原蓬の中を流れて行く水の面を眺めたまま、息もつかずに上の容子へ気をくばって居りました。が、平太夫は今までの元気に引き換えて、容易に口を開きません。その間の長さと申しましたら、橋の下の私の甥には、体中の筋骨が妙にむず痒くなったくらい、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛中に住まうものじゃ。堀川の殿がこの日頃、姫君のもとへしげしげと、通わるる趣も知っては居る。――」
やがてまた摩利信乃法師は、相不変もの静かな声で、独り言のように言を継ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御意得たいと申すのではない。予の業欲に憧るる心は、一度唐土にさすらって、紅毛碧眼の胡僧の口から、天上皇帝の御教を聴聞すると共に、滅びてしもうた。ただ、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天地を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば、神と云い仏と云う天魔外道の類を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも香花を供えられる。かくてはやがて命終の期に臨んで、永劫消えぬ地獄の火に焼かれ給うに相違ない。予はその事を思う度に、阿鼻大城の暗の底へ逆落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んで来るのじゃ。現に昨夜も。――」
こう云いかけて、あの沙門はさも感慨に堪えないらしく、次第に力の籠って来た口をしばらくの間とざしました。
二十三
「昨晩、何かあったのでございますか。」
ほど経て平太夫が、心配そうに、こう相手の言を促しますと、摩利信乃法師はふと我に返ったように、また元の静な声で、一言毎に間を置きながら、
「いや、何もあったと申すほどの仔細はない。が、予は昨夜もあの菰だれの中で、独りうとうとと眠って居ると、柳の五つ衣を着た姫君の姿が、夢に予の枕もとへ歩みよられた。ただ、現と異ったは、日頃つややかな黒髪が、朦朧と煙った中に、黄金の釵子が怪しげな光を放って居っただけじゃ。予は絶えて久しい対面の嬉しさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前に坐られたまま、答えさえせらるる気色はない。と思えば紅の袴の裾に、何やら蠢いているものの姿が見えた。それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩にも居れば、胸にも居る。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「と仰有っただけでは解せませんが、一体何が居ったのでございます。」
この時は平太夫も、思わず知らず沙門の調子に釣り込まれてしまったのでございましょう。こう尋ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなって居りました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何が居ったと申す事は、予自身にもしかとはわからぬ。予はただ、水子ほどの怪しげなものが、幾つとなく群って、姫君の身のまわりに蠢いているのを眺めただけじゃ。が、それを見ると共に、夢の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜まず泣き叫んだ。姫君も予の泣くのを見て、頻に涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏が啼いて、予の夢はそれぎり覚めてしもうた。」
摩利信乃法師がこう語り終りますと、今度は平太夫も口を噤んで、一しきりやめていた扇をまたも使い出しました。私の甥はその間中鉤にかかった鮠も忘れるくらい、聞き耳を立てて居りましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分もいつか朧げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
その内に橋の上では、また摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔じゃと思う。されば天上皇帝は、堕獄の業を負わせられた姫君を憐れと見そなわして、予に教化を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか。」
それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清水の阪の下で、辻冠者ばらと刃傷を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延びる事が出来ました。その御恩を思いますと、あなた様の仰有る事に、いやと申せた義理ではございません。摩利の教とやらに御帰依なさるか、なさらないか、それは姫君の御意次第でございますが、久しぶりであなた様の御目にかかると申す事は、姫君も御嫌ではございますまい。とにかく私の力の及ぶ限り、御対面だけはなされるように御取り計らい申しましょう。」
二十四
その密談の仔細を甥の口から私が詳しく聞きましたのは、それから三四日たったある朝の事でございます。日頃は人の多い御屋形の侍所も、その時は私共二人だけで、眩ゆく朝日のさした植込みの梅の青葉の間からは、それでも涼しいそよ風が、そろそろ動こうとする秋の心もちを時々吹いて参りました。
私の甥はその話を終ってから、一段と声をひそめますと、
「一体あの摩利信乃法師と云う男が、どうして姫君を知って居るのだか、それは元より私にも不思議と申すほかはありませんが、とにかくあの沙門が姫君の御意を得るような事でもあると、どうもこの御屋形の殿様の御身の上には、思いもよらない凶変でも起りそうな不吉な気がするのです。が、このような事は殿様に申上げても、あの通りの御気象ですから、決して御取り上げにはならないのに相違ありません。そこで、私は私の一存で、あの沙門を姫君の御目にかかれないようにしようと思うのですが、叔父さんの御考えはどういうものでしょう。」
「それはわしも、あの怪しげな天狗法師などに姫君の御顔を拝ませたく無い。が、御主もわしも、殿様の御用を欠かぬ限りは、西洞院の御屋形の警護ばかりして居る訳にも行かぬ筈じゃ。されば御主はあの沙門を、姫君の御身のまわりに、近づけぬと云うたにした所で。――」
「さあ。そこです。姫君の思召しも私共には分りませんし、その上あすこには平太夫と云う老爺も居りますから、摩利信乃法師が西洞院の御屋形に立寄るのは、迂闊に邪魔も出来ません。が、四条河原の蓆張りの小屋ならば、毎晩きっとあの沙門が寝泊りする所ですから、随分こちらの思案次第で、二度とあの沙門が洛中へ出て来ないようにすることも出来そうなものだと思うのです。」
「と云うて、あの小屋で見張りをしてる訳にも行くまい。御主の申す事は、何やら謎めいた所があって、わしのような年寄りには、十分に解し兼ねるが、一体御主はあの摩利信乃法師をどうしようと云う心算なのじゃ。」
私が不審そうにこう尋ねますと、私の甥はあたかも他聞を憚るように、梅の青葉の影がさして居る部屋の前後へ目をくばりながら、私の耳へ口を附けて、
「どうすると云うて、ほかに仕方のある筈がありません。夜更けにでも、そっと四条河原へ忍んで行って、あの沙門の息の根を止めてしまうばかりです。」
これにはさすがの私もしばらくの間は呆れ果てて、二の句をつぐ事さえ忘れて居りましたが、甥は若い者らしい、一図に思いつめた調子で、
「何、高があの通りの乞食法師です。たとい加勢の二三人はあろうとも、仕止めるのに造作はありますまい。」
「が、それはどうもちと無法なようじゃ。成程あの摩利信乃法師は邪宗門を拡めては歩いて居ようが、そのほかには何一つ罪らしい罪も犯して居らぬ。さればあの沙門を殺すのは、云わば無辜を殺すとでも申そう。――」
「いや、理窟はどうでもつくものです。それよりももしあの沙門が、例の天上皇帝の力か何か藉りて、殿様や姫君を呪うような事があったとして御覧なさい。叔父さん始め私まで、こうして禄を頂いている甲斐がないじゃありませんか。」
私の甥は顔を火照らせながら、どこまでもこう弁じつづけて、私などの申す事には、とんと耳を藉しそうな気色さえもございません。――すると丁度そこへほかの侍たちが、扇の音をさせながら、二三人はいって参りましたので、とうとうこの話もその場限り、御流になってしまいました。
二十五
それからまた、三四日はすぎたように覚えて居ります。ある星月夜の事でございましたが、私は甥と一しょに更闌けてから四条河原へそっと忍んで参りました。その時でさえまだ私には、あの天狗法師を殺そうと云う心算もなし、また殺す方がよいと云う気もあった訳ではございません。が、どうしても甥が初の目ろみを捨てないのと、甥を一人やる事がなぜか妙に気がかりだったのとで、とうとう私までが年甲斐もなく、河原蓬の露に濡れながら、摩利信乃法師の住む小屋を目がけて、窺いよることになったのでございます。
御承知の通りあの河原には、見苦しい非人小屋が、何軒となく立ち並んで居りますが、今はもうここに多い白癩の乞食たちも、私などが思いもつかない、怪しげな夢をむすびながら、ぐっすり睡入って居るのでございましょう。私と甥とが足音を偸み偸み、静にその小屋の前を通りぬけました時も、蓆壁の後にはただ、高鼾の声が聞えるばかり、どこもかしこもひっそりと静まり返って、たった一所焚き残してある芥火さえ、風もないのか夜空へ白く、まっすぐな煙をあげて居ります。殊にその煙の末が、所斑な天の川と一つでいるのを眺めますと、どうやら数え切れない星屑が、洛中の天を傾けて、一尺ずつ一寸ずつ、辷る音まではっきりと聞きとれそうに思われました。
その中に私の甥は、兼ねて目星をつけて置いたのでございましょう、加茂川の細い流れに臨んでいる、菰だれの小屋の一つを指さしますと、河原蓬の中に立ったまま、私の方をふり向きまして、「あれです。」と、一言申しました。折からあの焚き捨てた芥火が、まだ焔の舌を吐いているそのかすかな光に透かして見ますと、小屋はどれよりも小さいくらいで、竹の柱も古蓆の屋根も隣近所と変りはございませんが、それでもその屋根の上には、木の枝を組んだ十文字の標が、夜目にもいかめしく立って居ります。
「あれか。」
私は覚束ない声を出して、何と云う事もなくこう問い返しました。実際その時の私には、まだ摩利信乃法師を殺そうとも、殺すまいとも、はっきりした決断がつかずにいたのでございます。が、そう云う内にも私の甥が、今度はふり向くらしい容子もなく、じっとその小屋を見守りながら、
「そうです。」と、素っ気なく答える声を聞きますと、愈太刀へ血をあやす時が来たと云う、何とも云いようのない心もちで、思わず総身がわななきました。すると甥は早くも身仕度を整えたものと見えて、太刀の目釘を叮嚀に潤しますと、まるで私には目もくれず、そっと河原を踏み分けながら、餌食を覗う蜘蛛のように、音もなく小屋の外へ忍びよりました。いや全く芥火の朧げな光のさした、蓆壁にぴったり体をよせて、内のけはいを窺っている私の甥の後姿は、何となく大きな蜘蛛のような気味の悪いものに見えたのでございます。
二十六
が、こう云う場合に立ち至ったからは、元よりこちらも手を束ねて、見て居る訳には参りません。そこで水干の袖を後で結ぶと、甥の後から私も、小屋の外へ窺いよって、蓆の隙から中の容子を、じっと覗きこみました。
するとまず、眼に映ったのは、あの旗竿に掲げて歩く女菩薩の画像でございます。それが今は、向うの蓆壁にかけられて、形ははっきりと見えませんが、入口の菰を洩れる芥火の光をうけて、美しい金の光輪ばかりが、まるで月蝕か何かのように、ほんのり燦めいて居りました。またその前に横になって居りますのは、昼の疲れに前後を忘れた摩利信乃法師でございましょう。それからその寝姿を半蔽っている、着物らしいものが見えましたが、これは芥火に反いているので、噂に聞く天狗の翼だか、それとも天竺にあると云う火鼠の裘だかわかりません。――
この容子を見た私どもは、云わず語らず両方から沙門の小屋を取囲んで、そっと太刀の鞘を払いました。が、私は初めからどうも妙な気おくれが致していたからでございましょう。その拍子に手もとが狂って、思わず鋭い鍔音を響かせてしまったのではございませんか。すると私が心の中で、はっと思う暇さえなく、今まで息もしなかった菰だれの向うの摩利信乃法師が、たちまち身を起したらしいけはいを見せて、
「誰じゃ。」と、一声咎めました。もうこうなっては、甥を始め、私までも騎虎の勢いで、どうしてもあの沙門を、殺すよりほかはございません。そこでその声がするや否や、前と後と一斉に、ものも云わずに白刃をかざして、いきなり小屋の中へつきこみました。その白刃の触れ合う音、竹の柱の折れる音、蓆壁の裂け飛ぶ音、――そう云う物音が凄じく、一度に致したと思いますと、矢庭に甥が、二足三足後の方へ飛びすさって、「おのれ、逃がしてたまろうか。」と、太刀をまっこうにふりかざしながら、苦しそうな声でおめきました。その声に驚いて私も素早く跳ねのきながら、まだ燃えている芥火の光にきっと向うを透かして見ますと、まあ、どうでございましょう。粉微塵になった小屋の前には、あの無気味な摩利信乃法師が、薄色の袿を肩にかけて、まるで猿のように身をかがめながら、例の十文字の護符を額にあてて、じっと私どもの振舞を窺っているのでございます。これを見た私は、元よりすぐにも一刀浴びせようとあせりましたが、どう云うものか、あの沙門の身をかがめたまわりには、自然と闇が濃くなるようで、容易に飛びかかる隙がございません。あるいはその闇の中に、何やら目に見えぬものが渦巻くようで、太刀の狙いが定まらなかったとも申しましょうか。これは甥も同じ思いだったものと見えて、時々喘ぐように叫びますが、白刃はいつまでもその頭の上に目まぐるしくくるくると輪ばかり描いて居りました。
二十七
その中に摩利信乃法師は、徐に身を起しますと、十文字の護符を左右にふり立てながら、嵐の叫ぶような凄い声で、
「やい。おのれらは勿体なくも、天上皇帝の御威徳を蔑に致す心得か。この摩利信乃法師が一身は、おのれらの曇った眼には、ただ、墨染の法衣のほかに蔽うものもないようじゃが、真は諸天童子の数を尽して、百万の天軍が守って居るぞよ。ならば手柄にその白刃をふりかざして、法師の後に従うた聖衆の車馬剣戟と力を競うて見るがよいわ。」と、末は嘲笑うように罵りました。
元よりこう嚇されても、それに悸毛を震う様な私どもではございません。甥と私とはこれを聞くと、まるで綱を放れた牛のように、両方からあの沙門を目蒐けて斬ってかかりました。いや、将に斬ってかかろうとしたとでも申しましょうか。と申しますのは、私どもが太刀をふりかぶった刹那に、摩利信乃法師が十文字の護符を、一しきりまた頭の上で、振りまわしたと思いますと、その護符の金色が、稲妻のように宙へ飛んで、たちまち私どもの眼の前へは、恐ろしい幻が現れたのでございます。ああ、あの恐しい幻は、どうして私などの口の先で、御話し申す事が出来ましょう。もし出来たと致しましても、それは恐らく麒麟の代りに、馬を指して見せると大した違いはございますまい。が、出来ないながら申上げますと、最初あの護符が空へあがった拍子に、私は河原の闇が、突然摩利信乃法師の後だけ、裂け飛んだように思いました。するとその闇の破れた所には、数限りもない焔の馬や焔の車が、竜蛇のような怪しい姿と一しょに、雨より急な火花を散らしながら、今にも私共の頭上をさして落ちかかるかと思うばかり、天に溢れてありありと浮び上ったのでございます。と思うとまた、その中に旗のようなものや、剣のようなものも、何千何百となく燦いて、そこからまるで大風の海のような、凄じいもの音が、河原の石さえ走らせそうに、どっと沸き返って参りました。それを後に背負いながら、やはり薄色の袿を肩にかけて、十文字の護符をかざしたまま、厳に立っているあの沙門の異様な姿は、全くどこかの大天狗が、地獄の底から魔軍を率いて、この河原のただ中へ天下ったようだとでも申しましょうか。――
私どもは余りの不思議に、思わず太刀を落すや否や、頭を抱えて右左へ、一たまりもなくひれ伏してしまいました。するとその頭の空に、摩利信乃法師の罵る声が、またいかめしく響き渡って、
「命が惜しくば、その方どもも天上皇帝に御詫申せ。さもない時は立ちどころに、護法百万の聖衆たちは、その方どもの臭骸を段々壊に致そうぞよ。」と、雷のように呼わります。その恐ろしさ、物凄さと申しましたら、今になって考えましても、身ぶるいが出ずには居られません。そこで私もとうとう我慢が出来なくなって、合掌した手をさし上げながら、眼をつぶって恐る恐る、「南無天上皇帝」と称えました。
二十八
それから先の事は、申し上げるのさえ、御恥しいくらいでございますから、なる可く手短に御話し致しましょう。私共が天上皇帝を祈りましたせいか、あの恐ろしい幻は間もなく消えてしまいましたが、その代り太刀音を聞いて起て来た非人たちが、四方から私どもをとり囲みました。それがまた、大抵は摩利の教の信者たちでございますから、私どもが太刀を捨ててしまったのを幸に、いざと云えば手ごめにでもし兼ねない勢いで、口々に凄じく罵り騒ぎながら、まるで穽にかかった狐でも見るように、男も女も折り重なって、憎さげに顔を覗きこもうとするのでございます。その何人とも知れない白癩どもの面が、新に燃え上った芥火の光を浴びて、星月夜も見えないほど、前後左右から頸をのばした気味悪さは、到底この世のものとは思われません。
が、その中でもさすがに摩利信乃法師は、徐に哮り立つ非人たちを宥めますと、例の怪しげな微笑を浮べながら、私どもの前へ進み出まして、天上皇帝の御威徳の難有い本末を懇々と説いて聴かせました。が、その間も私の気になって仕方がなかったのは、あの沙門の肩にかかっている、美しい薄色の袿の事でございます。元より薄色の袿と申しましても、世間に類の多いものではございますが、もしやあれは中御門の姫君の御召し物ではございますまいか。万一そうだと致しましたら、姫君はもういつの間にか、あの沙門と御対面になったのでございましょうし、あるいはその上に摩利の教も、御帰依なすってしまわないとは限りません。こう思いますと私は、おちおち相手の申します事も、耳にはいらないくらいでございましたが、うっかりそんな素振を見せましては、またどんな恐ろしい目に遇わされないものでもございますまい。しかも摩利信乃法師の容子では、私どももただ、神仏を蔑されるのが口惜しいので、闇討をしかけたものだと思ったのでございましょう。幸い、堀川の若殿様に御仕え申している事なぞは、気のつかないように見えましたから、あの薄色の袿にも、なるべく眼をやらないようにして、河原の砂の上に坐ったまま、わざと神妙にあの沙門の申す事を聴いて居るらしく装いました。
するとそれが先方には、いかにも殊勝げに見えたのでございましょう。一通り談義めいた事を説いて聴かせますと、摩利信乃法師は顔色を和げながら、あの十文字の護符を私どもの上にさしかざして、
「その方どもの罪業は無知蒙昧の然らしめた所じゃによって、天上皇帝も格別の御宥免を賜わせらるるに相違あるまい。さればわしもこの上なお、叱り懲そうとは思うて居ぬ。やがてはまた、今夜の闇討が縁となって、その方どもが摩利の御教に帰依し奉る時も参るであろう。じゃによってその時が参るまでは、一先この場を退散致したが好い。」と、もの優しく申してくれました。もっともその時でさえ、非人たちは、今にも掴みかかりそうな、凄じい気色を見せて居りましたが、これもあの沙門の鶴の一声で、素直に私どもの帰る路を開いてくれたのでございます。
そこで私と甥とは、太刀を鞘におさめる間も惜しいように、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々四条河原から逃げ出しました。その時の私の心もちと申しましたら、嬉しいとも、悲しいとも、乃至はまた残念だとも、何ともお話しの致しようがございません。でございますから河原が遠くなって、ただ、あの芥火の赤く揺めくまわりに、白癩どもが蟻のように集って、何やら怪しげな歌を唄って居りますのが、かすかに耳へはいりました時も、私どもは互の顔さえ見ずに、黙って吐息ばかりつきながら、歩いて行ったものでございます。
二十九
それ以来私どもは、よるとさわると、額を鳩めて、摩利信乃法師と中御門の姫君とのいきさつを互に推量し合いながら、どうかしてあの天狗法師を遠ざけたいと、いろいろ評議を致しましたが、さて例の恐ろしい幻の事を思い出しますと、容易に名案も浮びません。もっとも甥の方は私より若いだけに、まだ執念深く初一念を捨てないで、場合によったら平太夫のしたように、辻冠者どもでも駆り集めたら、もう一度四条河原の小屋を劫そうくらいな考えがあるようでございました。所がその中に、思いもよらず、また私どもは摩利信乃法師の神変不思議な法力に、驚くような事が出来たのでございます。
それはもう秋風の立ち始めました頃、長尾の律師様が嵯峨に阿弥陀堂を御建てになって、その供養をなすった時の事でございます。その御堂も只今は焼けてございませんが、何しろ国々の良材を御集めになった上に、高名な匠たちばかり御召しになって、莫大な黄金も御かまいなく、御造りになったものでございますから、御規模こそさのみ大きくなくっても、その荘厳を極めて居りました事は、ほぼ御推察が参るでございましょう。
別してその御堂供養の当日は、上達部殿上人は申すまでもなく、女房たちの参ったのも数限りないほどでございましたから、東西の廊に寄せてあるさまざまの車と申し、その廊廊の桟敷をめぐった、錦の縁のある御簾と申し、あるいはまた御簾際になまめかしくうち出した、萩、桔梗、女郎花などの褄や袖口の彩りと申し、うららかな日の光を浴びた、境内一面の美しさは、目のあたりに蓮華宝土の景色を見るようでございました。それから、廊に囲まれた御庭の池にはすきまもなく、紅蓮白蓮の造り花が簇々と咲きならんで、その間を竜舟が一艘、錦の平張りを打ちわたして、蛮絵を着た童部たちに画棹の水を切らせながら、微妙な楽の音を漂わせて、悠々と動いて居りましたのも、涙の出るほど尊げに拝まれたものでございます。
まして正面を眺めますと、御堂の犬防ぎが燦々と螺鈿を光らせている後には、名香の煙のたなびく中に、御本尊の如来を始め、勢至観音などの御姿が、紫磨黄金の御顔や玉の瓔珞を仄々と、御現しになっている難有さは、また一層でございました。その御仏の前の庭には、礼盤を中に挟みながら、見るも眩い宝蓋の下に、講師読師の高座がございましたが、供養の式に連っている何十人かの僧どもも、法衣や袈裟の青や赤がいかにも美々しく入り交って、経を読む声、鈴を振る音、あるいは栴檀沈水の香などが、その中から絶え間なく晴れ渡った秋の空へ、うらうらと昇って参ります。
するとその供養のまっ最中、四方の御門の外に群って、一目でも中の御容子を拝もうとしている人々が、俄に何事が起ったのか、見る見るどっとどよみ立って、まるで風の吹き出した海のように、押しつ押されつし始めました。
三十
この騒ぎを見た看督長は、早速そこへ駈けつけて、高々と弓をふりかざしながら、御門の中へ乱れ入った人々を、打ち鎮めようと致しました。が、その人波の中を分けて、異様な風俗の沙門が一人、姿を現したと思いますと、看督長はたちまち弓をすてて、往来の遮をするどころか、そのままそこへひれ伏しながら、まるで帝の御出ましを御拝み申す時のように、礼を致したではございませんか。外の騒動に気をとられて、一しきりざわめき立った御門の中が、急にひっそりと静まりますと、また「摩利信乃法師、摩利信乃法師」と云う囁き声が、丁度蘆の葉に渡る風のように、どこからともなく起ったのは、この時の事でございます。
摩利信乃法師は、今日も例の通り、墨染の法衣の肩へ長い髪を乱しながら、十文字の護符の黄金を胸のあたりに燦かせて、足さえ見るも寒そうな素跣足でございました。その後にはいつもの女菩薩の幢が、秋の日の光の中にいかめしく掲げられて居りましたが、これは誰か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう。
「方々にもの申そう。これは天上皇帝の神勅を賜わって、わが日の本に摩利の教を布こうずる摩利信乃法師と申すものじゃ。」
あの沙門は悠々と看督長の拝に答えてから、砂を敷いた御庭の中へ、恐れげもなく進み出て、こう厳な声で申しました。それを聞くと御門の中は、またざわめきたちましたが、さすがに検非違使たちばかりは、思いもかけない椿事に驚きながらも、役目は忘れなかったのでございましょう。火長と見えるものが二三人、手に手を得物提げて、声高に狼藉を咎めながら、あの沙門へ走りかかりますと、矢庭に四方から飛びかかって、搦め取ろうと致しました。が、摩利信乃法師は憎さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。但、天上皇帝の御罰は立ち所に下ろうぞよ。」と、嘲笑うような声を出しますと、その時胸に下っていた十文字の護符が日を受けて、眩くきらりと光ると同時に、なぜか相手は得物を捨てて、昼雷にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転び倒れてしまいました。
「如何に方々。天上皇帝の御威徳は、ただ今目のあたりに見られた如くじゃ。」
摩利信乃法師は胸の護符を外して、東西の廊へ代る代る、誇らしげにさしかざしながら、
「元よりかような霊験は不思議もない。そもそも天上皇帝とは、この天地を造らせ給うた、唯一不二の大御神じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿弥陀如来なんぞと申す妖魔の類を事々しく、供養せらるるげに思われた。」
この暴言にたまり兼ねたのでございましょう。さっきから誦経を止めて、茫然と事の次第を眺めていた僧たちは、俄にどよめきを挙げながら、「打ち殺せ」とか「搦め取れ」とかしきりに罵り立てましたが、さて誰一人として席を離れて、摩利信乃法師を懲そうと致すものはございません。
三十一
すると摩利信乃法師は傲然と、その僧たちの方を睨めまわして、
「過てるを知って憚る事勿れとは、唐国の聖人も申された。一旦、仏菩薩の妖魔たる事を知られたら、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々摩利の教に帰依あって、天上皇帝の御威徳を讃え奉るに若くはない。またもし、摩利信乃法師の申し条に疑いあって、仏菩薩が妖魔か、天上皇帝が邪神か、決定致し兼ぬるとあるならば、いかようにも法力を較べ合せて、いずれが正法か弁別申そう。」と、声も荒らかに呼ばわりました。
が、何しろただ今も、検非違使たちが目のあたりに、気を失って倒れたのを見て居るのでございますから、御簾の内も御簾の外も、水を打ったように声を呑んで、僧俗ともに誰一人、進んであの沙門の法力を試みようと致すものは見えません。所詮は長尾の僧都は申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主や仁和寺の僧正も、現人神のような摩利信乃法師に、胆を御挫かれになったのでございましょう。供養の庭はしばらくの間、竜舟の音楽も声を絶って、造り花の蓮華にふる日の光の音さえ聞えたくらい、しんと静まり返ってしまいました。
沙門はそれにまた一層力を得たのでございましょう。例の十文字の護符をさしかざして、天狗のように嘲笑いますと、
「これはまた笑止千万な。南都北嶺とやらの聖僧たちも少からぬように見うけたが、一人としてこの摩利信乃法師と法力を較べようずものも現れぬは、さては天上皇帝を始め奉り、諸天童子の御神光に恐れをなして、貴賤老若の嫌いなく、吾が摩利の法門に帰依し奉ったものと見える。さらば此場において、先ず山の座主から一人一人灌頂の儀式を行うてとらせようか。」と、威丈高に罵りました。
所がその声がまだ終らない中に、西の廊からただ一人、悠然と庭へ御下りになった、尊げな御僧がございます。金襴の袈裟、水晶の念珠、それから白い双の眉毛――一目見ただけでも、天が下に功徳無量の名を轟かせた、横川の僧都だと申す事は疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体を徐に運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと、
「こりゃ下郎。ただ今もその方が申す如く、この御堂供養の庭には、法界の竜象数を知らず並み居られるには相違ない。が、鼠に抛つにも器物を忌むの慣い、誰かその方如き下郎づれと、法力の高下を競わりょうぞ。さればその方は先ず己を恥じて、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々この宝前を退散す可き分際ながら、推して神通を較べようなどは、近頃以て奇怪至極じゃ。思うにその方は何処かにて金剛邪禅の法を修した外道の沙門と心得る。じゃによって一つは三宝の霊験を示さんため、一つはその方の魔縁に惹かれて、無間地獄に堕ちようず衆生を救うてとらさんため、老衲自らその方と法験を較べに罷り出た。たといその方の幻術がよく鬼神を駆り使うとも、護法の加護ある老衲には一指を触るる事すらよも出来まい。されば仏力の奇特を見て、その方こそ受戒致してよかろう。」と、大獅子孔を浴せかけ、たちまち印を結ばれました。
三十二
するとその印を結んだ手の中から、俄に一道の白気が立上って、それが隠々と中空へたなびいたと思いますと、丁度僧都の頭の真上に、宝蓋をかざしたような一団の靄がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気の模様が、まだ十分御会得には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御堂の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空に何やら形の見えぬものが蟠まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川の僧都が、徐に肉の余った顎を動かして、秘密の呪文を誦しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神が、勇ましく金剛杵をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞する容子は、今しも摩利信乃法師の脳上へ、一杵を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
しかし当の摩利信乃法師は、不相変高慢の面をあげて、じっとこの金甲神の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇のあたりには、例の無気味な微笑の影が、さも嘲りたいのを堪えるように、漂って居るのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠を振りながら、
「叱。」と、嗄れた声で大喝しました。
その声に応じて金甲神が、雲気と共に空中から、舞下ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰のように、戞然と四方へ飛び散りました。
「御坊の手なみはすでに見えた。金剛邪禅の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川の僧都が、どんなに御悄れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反らせて、
「横川の僧都は、今天が下に法誉無上の大和尚と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏まし奉って、妄に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類、釈教は堕獄の業因と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人なりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目のあたりに試みられい。」と、八方を睨みながら申しました。
その時、また東の廊に当って、
「応。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。(未完)(大正七年十一月)