彼岸過迄 (作者:夏目漱石) - 雨の降る日 | 多賀城[たがのき] - 小説投稿サイト

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雨の降る日

作者:管理人



 雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎けいたろうもそのうちに取りまぎれて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入しゅつにゅうのできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々須永すながからその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人をかつぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにとたしなめる事もあった。しまいには、君があんまり色気があり過ぎるからだと調戯からかい出した。敬太郎はそのたびに「馬鹿云え」で通していたが、心の内ではいつも、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。その女がとりも直さず停留所の女であった事も思い出した。そうしてどこか遠くの方で気恥かしい心持がした。その女の名が千代子ちよこで、その妹の名が百代子ももよこである事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
 彼が松本に会って、すべて内幕の消息を聞かされたあと、田口へ顔を出すのは多少きまりの悪い思をするだけであったにかかわらず、顔を出さなければくくりがつかないという行きがかりから、笑われるのを覚悟の前で、また田口の門をくぐった時、田口ははたして大きな声を出して笑った。けれどもその笑のうちにはおのれの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来のみちに返してやった喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口はその時訓戒のためだとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉をいっさい使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、おこってはいけないと断わって、すぐその場で相当の位置をこしらえてくれる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、これがわたしの娘だとわざわざ紹介した。そうしてこのかたいっさんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は何でこういう人に引き合されるのか、ちょっとかいしかねた風をしながら、きわめてよそよそしく叮嚀ていねい挨拶あいさつをした。敬太郎が千代子という名を覚えたのはその時の事であった。
 これが田口の家庭に接触した始めての機会になって、敬太郎はそのも用事なり訪問なりに縁をりて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ這入はいって、かつて電話で口をき合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて内向うちむきの用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事もまれではなかった。出入でいりの度数がこう重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種の延びた彼の調子と、比較的引きしまった田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解けがたい境遇に彼らを置き去りにした。彼らの間に取り換わされた言葉は、無論形式だけを重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分とかからない当用に過ぎないので、親しみはそれほど出る暇がなかった。彼らが公然とひざを突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮のまじらない談話にかしたのは、正月なかばの歌留多会かるたかいの折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分のろいのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのはいやよ、負けるにきまってるからとおこられた。
 それからまた一カ月ほどって、梅の音信たよりの新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久しぶりに須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に出逢であった。三人してそれからそれへとまとまらない話を続けて行くうちに、ふと松本の評判が千代子の口にのぼった。
「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。今でもそうかしら」





「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人いちにんなんだが……」と敬太郎けいたろうが云い出した時、須永すながと千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖ステッキを持って行かなかったんだろう」と須永は調戯からかい始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
 この理攻りぜめの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日はたびにだけ突いて出るの」
 敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮をのがれた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
 それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過ひるすぎであった。千代子は松本の好きな雲丹うにを母からことづかって矢来やらいへ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、ゆっくり腰を落ちつけた。松本には十三になる女をかしらに、男、女、男と互違たがいちがいに順序よく四人の子がそろっていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭にはなやかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子よいこを、指環にめた真珠のように大事にいて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、うるしのように濃い大きな眼をって、前の年のひなの節句の前のよいに松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛かわいがっていた。来るたんびにきっと何か玩具おもちゃを買って来てやった。ある時は余り多量にあまいものをあてがって叔母からおこられた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側えんがわへ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩けんかでもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯からかった。
 その日も千代子は坐るとすぐ宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代さかやきった事がないので、頭の毛が非常に細くやわらかに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢うるおいの多いむらさきを含んでぴかぴかちぢれ上っていた。「宵子さんかんかんって上げましょう」と云って、千代子は鄭寧ていねいにその縮れ毛にくしを入れた。それから乏しい片鬢かたびんを一束いて、その根元に赤いリボンをくくりつけた。宵子の頭は御供おそなえのように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅かたすみへ乗せて、リボンのはじを抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねとめると、千代子はうれしそうに笑いながら、子供の後姿をながめて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと指図さしずした。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つばいになった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子はくびを下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴ふちょうであった。うしろに立って見ていた千代子はさいくちびるから出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。





 そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かのはなやかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、ともえもんのついた陣太鼓じんだいこのようなものを持って来て、宵子よいこさん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着きんちゃくのような恰好かっこうをした赤い毛織の足袋たびが廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋のひもの先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前がんでやったのだったね」
「ええ可愛かわいらしいわね」
 千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主からぼうずになった梧桐ごとうをしたたからし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越ガラスごしの雨の色を眺めて、手焙てあぶりに手をかざした。
芭蕉ばしょうがあるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花さざんかが散って、青桐あおぎりが裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三つねぞう閑人ひまじんだって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
生意気なまいき云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
 二人がこんな話をしていると、ただいまこのかたが御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
いやよまたこないだみたいに、西洋煙草たばこの名なんかたくさん覚えさせちゃ」
 松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯がともっていた。台所ではすでに夕飯ゆうめしの支度を始めたと見えて、瓦斯七輪ガスしちりんが二つとも忙がしく青い※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)ほのおを吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女はさい朱塗のわんと小皿に盛った魚肉とを盆の上にせて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこはうちのものの着更きがえをするために多く用いられるへやなので、箪笥たんすが二つと姿見が一つ、壁から飛び出したようにえてあった。千代子はその姿見の前に玩具おもちゃのような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠おまちどおさま」
 千代子がかゆ一匙ひとさじずつすくって口へ入れてやるたびに、宵子はおいしい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸をいられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念たんねんに匙の持ち方を教えた。宵子はもとよりきわめて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供おそなえのような平たい頭をかしげて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子のひざの前に俯伏うつぶせになった。
「どうしたの」
 千代子は何の気もつかずに宵子をき起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応てごたえがぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。





 宵子よいこはうとうと寝入ねいった人のように眼を半分閉じて口を半分けたまま千代子のひざの上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度たたいたが、何の効目ききめもなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
 母は驚ろいてはしと茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入はいって来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向あおむけにして見ると、くちびるにもう薄く紫の色がしていた。口へてのひらを当てがっても、呼息いきの通う音はしなかった。母は呼吸こきゅうつまったような苦しい声を出して、下女に濡手拭ぬれてぬぐいを持って来さした。それを宵子の額にせた時、「みゃくはあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸てくびを握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」とあおい顔をして泣き出した。母は茫然ぼうぜんとそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人よつたりとも客間の方へけ出した。その足音が廊下のはずれで止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、かぶさるように細君と千代子の上から宵子をのぞき込んだが、一目見ると急にまゆを寄せた。
「医者は……」
 医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能ききめもなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人のくちびるれた。そうして絶望をおそれる怪しい光にちた三人の眼が一度に医者の上にえられた。鏡を出して瞳孔どうこうを眺めていた医者は、この時宵子のすそまくって肛門こうもんを見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
 医者はこう云ったがまた一筒いっとうの注射を心臓部に試みた。もとよりそれは何の手段にもならなかった。松本はとおるような娘の肌に針の突き刺される時、おのずから眉間みけんけわしくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「辛子湯からしゆでも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡しろうとりょうけんで聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔にはごう奨励しょうれいの色が出なかった。
 やがて熱い湯をたらいんで、湯気の濛々もうもうと立つ真中へ辛子からしを一袋けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取りけた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し注水うめましょう。余り熱いと火傷やけどでもなさるといけませんから」と注意した。
 医者の手にき取られた宵子は、湯の中に五六分けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。あんまり長くなると……」と云いながら、医者は宵子をたらいから出した。母はすぐ受取ってタオルで鄭寧ていねいに拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」とうらめしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
 さい蒲団ふとんと小さい枕がやがて宵子のために戸棚とだなから取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿をながめた千代子は、わっと云って突伏つっぷした。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯をべさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
 千代子は途切とぎれ途切れの言葉で、先刻さっき自分が夕飯ゆうめしの世話をしていた時の、平生ふだんと異ならない元気な様子を、何遍もくり返して聞かした。松本は腕組をして、「どうもやっぱり不思議だよ」と云ったが、「おい御仙おせん、ここへ寝かしておくのは可哀かわいそうだから、あっちの座敷へ連れて行ってやろう」と細君をうながした。千代子も手を貸した。





 手頃な屏風びょうぶがないので、ただ都合の好い位置をって、何のかこいもない所へ、そっと北枕に寝かした。今朝方けさがた玩弄おもちゃにしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いてやった。顔へは白いさら木綿もめんをかけた。千代子は時々それを取りけて見ては泣いた。「ちょっとあなた」と御仙が松本をかえりみて、「まるで観音様かんのんさまのように可愛かわいい顔をしています」と鼻を詰らせた。松本は「そうか」と云って、自分の坐っている席から宵子の顔をのぞき込んだ。
 やがて白木の机の上に、しきみと線香立と白団子が並べられて、蝋燭ろうそくが弱い光を放った時、三人は始めて眠からめない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。彼らは代る代る線香を上げた。その煙のにおいが、二時間前とは全く違う世界にいざない込まれた彼らの鼻を断えず刺戟しげきした。ほかの子供は平生の通り早く寝かされたあとに、咲子さきこという十三になる長女だけが起きて線香のそばを離れなかった。
「御前も御寝おねよ」
「まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね」
「もう来るだろう。好いから早く御寝」
 咲子は立って廊下へ出たが、そこで振りかえって、千代子を招いた。千代子が同じく立って廊下へ出ると、小さな声で、こわいからいっしょに便所はばかりへ行ってくれろと頼んだ。便所には電灯がけてなかった。千代子は燐寸マッチって雪洞ぼんぼりを移して、咲子といっしょに廊下を曲った。帰りに下女部屋をのぞいて見ると、飯焚めしたき出入でいりの車夫と火鉢ひばちはさんでひそひそ何か話していた。千代子にはそれが宵子の不幸を細かに語っているらしく思われた。ほかの下女は茶の間で来客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしていた。
 通知を受けた親類のものがそのうち二三人寄った。いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。十二時過から御仙は通夜つやをする人のために、わざと置火燵おきごたつこしらえてへやに入れたが、誰もあたるものはなかった。主人夫婦は無理に勧められて寝室へ退しりぞいた。そのあとで千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしくいだ。雨はまだ降りやまなかった。夕方芭蕉ばしょうに落ちた響はもう聞こえない代りに、亜鉛葺トタンぶきひさしにあたる音が、非常に淋しくて悲しい点滴てんてきを彼女の耳に絶えず送った。彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てたさらしを取っては啜泣すすりなきをしているうちに夜が明けた。
 その日は女がみんなして宵子の経帷子きょうかたびらを縫った。百代子ももよこが新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意のうちの細君が二人ほど見えたので、小さいそですそが、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆とすずりとを持って廻って、南無阿弥陀仏なむあみだぶつという六字を誰にも一枚ずつ書かした。「いっさんも書いて上げて下さい」と云って、須永すながの前へ来た。「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。あとから六字ずつを短冊形たんざくがたってかんの中へ散らしにして入れるんですから」
 みんかしこまって六字の名号みょうごうしたためた。咲子は見ちゃいやよと云いながら袖屏風そでびょうぶをして曲りくねった字を書いた。十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。午過ひるすぎになっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にしてき起した。その背中には紫色むらさきいろの斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい珠数じゅずを手にかけてやった。同じく小さい編笠あみがさ藁草履わらぞうりを棺に入れた。昨日きのうの夕方まで穿いていた赤い毛糸の足袋たびも入れた。そのひもの先につけた丸いたまのぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなのくれた玩具おもちゃも足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の短冊たんざくを雪のように振りかけた上へふたをして、白綸子しろりんずおいをした。





 友引ともびきくないという御仙おせんの説で、葬式を一日延ばしたため、うちの中は陰気な空気のうちに常よりはにぎわった。七つになる嘉吉かきちという男の子が、いつもの陣太鼓じんだいこたたいて叱られたあと、そっと千代子のそばへ来て、宵子よいこさんはもう帰って来ないのと聞いた。須永すながが笑いながら、明日あしたは嘉吉さんも焼場へ持って行って、宵子さんといっしょに焼いてしまうつもりだと調戯からかうと、嘉吉はそんなつもりなんか僕いやだぜと云いながら、大きな眼をくるくるさせて須永を見た。咲子さきこは、御母さんわたしも明日あした御葬式に行きたいわと御仙にせびった。あたしもねと九つになる重子しげこが頼んだ。御仙はようやく気がついたように、奥で田口夫婦と話をしていた夫を呼んで、「あなた、明日いらしって」と聞いた。
「行くよ。御前も行ってやるが好い」
「ええ、行く事にきめてます。小供には何を着せたらいいでしょう」
紋付もんつきでいいじゃないか」
「でもあんまり模様が派手だから」
はかま穿けばいいよ。男の子は海軍服でたくさんだし。御前は黒紋付だろう。黒い帯は持ってるかい」
「持ってます」
「千代子、御前も持ってるなら喪服を着てともに立っておやり」
 こんな世話を焼いた後で、松本はまた奥へ引返した。千代子もまた線香を上げに立った。かんの上を見ると、いつの間にか綺麗きれい花環はなわせてあった。「いつ来たの」とそばにいる妹の百代ももよに聞いた。百代は小さな声で「先刻さっき」と答えたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけではさみしいって、わざと赤いのをぜさしたんですって」と説明した。姉と妹はしばらくそこに並んで坐っていた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さんあなた宵子さんの死顔を見て」と聞いた。百代は「ええ」と首肯うなずいた。
「いつ」
「ほら先刻さっき御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
 千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺のふたをもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、こわいから」と云って百代は首をふった。
 晩には通夜僧つやそうが来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経さんぶきょうがどうだの、和讃わさんがどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人しんらんしょうにん蓮如上人れんにょしょうにんという名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施おふせを僧の前に並べて、もうよろしいから御引取下さいとことわった。坊さんの帰ったあとで御仙がその理由わけを聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのはきらいだよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
 あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。路端みちばたの人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送もくそうした。松本は白張しらはり提灯ちょうちん白木しらき輿こしが嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の周囲ぐるりに垂れた黒い幕が揺れるたびに、白綸子しろりんずおいをした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供がけ寄って来て、珍らしそうに車をのぞき込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
 寺では読経どきょうも焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといってうれいとざされた様子は見えなかった。焼香の時、重子がこうをつまんで香炉こうろうちくべるのを間違えて、灰を一撮ひとつかみ取って、抹香まっこうの中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた矢来やらいへ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日きのう一昨日おとといの気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。





 骨上こつあげには御仙おせん須永すながと千代子とそれに平生ふだん宵子よいこの守をしていたきよという下女がついて都合四人よつたりで行った。柏木かしわぎ停車場ステーションを下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずにうちから車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色けしきも忘れ物を思い出したようにうれしかった。眼に入るものは青い麦畠むぎばたけと青い大根畠と常磐木ときわぎの中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々うしろを振り返って、穴八幡あなはちまんだの諏訪すわもりだのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のためにゆびさした。それには弘法大師こうぼうだいし千五十年供養塔くようとうきざんであった。その下に熊笹くまざさの生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋のたもとをさも田舎路いなかみちらしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿があざやかに千代子の眼を刺戟しげきした。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
 火葬場は日当りの好い平地ひらちに南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、かぎは御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急にふところや帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥ようだんすの上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いでいっさんに取って来て貰うと好いわ」
 二人の問答をうしろの方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものをたもとから出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永をたしなめた。
「市さん、あなた本当ににくらしいかたね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
 須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つこぼすじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気のんきな事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持ったおぼえがあって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
 御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母のそばへ来て座に着いた。須永も続いて這入はいって来た。そうして二人の向側むこうがわにある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席をいてやった。
 四人が茶をんで待ち合わしているあいだに、骨上こつあげの連中が二三組見えた。最初のは田舎染いなかじみた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多くかなかった。次には尻をからげた親子連おやこづれが来た。活溌かっぱつな声で、つぼを下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪さんぱつに角帯をめた男とも女とも片のつかない盲者めくらが、紫のはかま穿いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、たもとから出した巻煙草まきたばこを吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞとうながしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。





 真鍮しんちゅうの掛札に何々殿と書いた並等なみとうかまを、薄気味悪く左右に見て裏へ抜けると、広い空地あきちすみ松薪まつまきが山のように積んであった。周囲まわりには綺麗きれい孟宗藪もうそうやぶ蒼々あおあおと茂っていた。その下が麦畠むぎばたけで、麦畠の向うがまた岡続きに高く蜿蜒うねうねしているので、北側のながめはことに晴々はればれしかった。須永すながはこの空地のはしに立って広い眼界をぼんやり見渡していた。
いっさん、もう用意ができたんですって」
 須永は千代子の声を聞いて黙ったまま帰って来たが、「あの竹藪たけやぶは大変みごとだね。何だか死人しびとあぶら肥料こやしになって、ああ生々いきいき延びるような気がするじゃないか。ここにできるたけのこはきっとうまいよ」と云った。千代子は「おおいやだ」とぱなしにして、さっさとまた並等なみとうを通り抜けた。宵子よいこかまは上等の一号というので、扉の上に紫の幕が張ってあった。その前に昨日きのうの花環が少ししぼみかけて、台の上に静かに横たわっていた。それが昨夜ゆうべ宵子の肉を焼いた熱気ねっき記念かたみのように思われるので、千代子は急に息苦しくなった。御坊おんぼうが三人出て来た。そのうちの一番年を取ったのが「御封印を……」と云うので、須永は「よし、構わないから開けてくれ」と頼んだ。かしこまった御坊は自分の手で封印を切って、かちゃりと響く音をさせながらじょうを抜いた。黒い鉄の扉が左右へくと、薄暗い奥の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない一塊ひとかたまりとなって朧気おぼろげに見えた。御坊は「今出しましょう」と断って、レールを二本前の方にぎ足しておいて、鉄のかんに似たものを二つ棺台のはしにかけたかと思うと、いきなりがらがらという音と共に、かの形を成さない一塊の焼残やけのこりが四人の立っている鼻の下へ出て来た。千代子はそのなかで、例の御供おそなえに似てふっくらとふくらんだ宵子の頭蓋骨ずがいこつが、生きていた時そのままの姿で残っているのを認めて急に手帛ハンケチを口にくわえた。御坊はこの頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を残して、「あとは綺麗きれいふるって持って参りましょう」と云った。
 四人よつたり各自めいめい木箸きばしと竹箸を一本ずつ持って、台の上の白骨はっこつを思い思いに拾っては、白いつぼの中へ入れた。そうして誘い合せたように泣いた。ただ須永だけは蒼白あおしろい顔をして口もかず鼻も鳴らさなかった。「歯は別になさいますか」と聞きながら、御坊が小器用に歯を拾い分けてくれた時、あごをくしゃくしゃとつぶしてその中から二三枚り出したのを見た須永は、「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂の中から小石を拾い出すと同じ事だ」と独言ひとりごとのように云った。下女が三和土たたきの上にぽたぽたと涙を落した。御仙おせんと千代子ははしを置いて手帛ハンケチを顔へ当てた。
 車に乗るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺をいてそれをひざの上にせた。車がけ出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高いけやき白茶しらちゃけた幹を路の左右に並べて、彼らを送り迎えるごとくに細い枝を揺り動かした。その細い枝がはるか頭の上で交叉こうさするほどしげく両側から出ているのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思って、千代子は折々頭を上げては、遠い空をながめた。うちへ着いて遺骨を仏壇の前に置いた時、すぐ寄って来た小供が、ふたを開けて見せてくれというのを彼女は断然拒絶した。
 やがて家内中同じへやで昼飯のぜんに向った。「こうして見ると、まだ子供がたくさんいるようだが、これで一人もう欠けたんだね」と須永が云い出した。
「生きてる内はそれほどにも思わないが、かれて見ると一番惜しいようだね。ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」と松本が云った。
非道ひどいわね」と重子が咲子に耳語ささやいた。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二うりふたつのような子をこしらえてちょうだい。可愛かわいがって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
おれは雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男がいやになった」






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