こころ (作者:夏目漱石) - 上 先生と私 | 多賀城[たがのき] - 小説投稿サイト

サイトトップ >> こころ (作者:夏目漱石) >> 上 先生と私

上 先生と私

ひとつ前の話 | ひとつ次の話

作者:管理人



上 先生と私



 わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆をっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日とたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちにすすまない結婚をいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼はもとより帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿にまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなものには長いなわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古いくすぶり返った藁葺わらぶきあいだを通り抜けていそへ下りると、このへんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういうにぎやかな景色の中につつまれて、砂の上にそべってみたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらをまわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうあいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃやが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行きれていた。長谷辺はせへんに大きな別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばこしらえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といったふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息するほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここでしおはゆい身体からだを清めたり、ここへ帽子やかさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいてる事にしていた。



 わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対にれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人のあいだには目をさえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人をれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るやいなや、すぐ私の注意をいた。純粋の日本の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりとほうり出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿猿股さるまた一つのほか何物も肌に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいはままで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子をながめていた。私のしりをおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐわきがホテルの裏口になっていたので、私のじっとしているあいだに、大分だいぶ多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕とももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちであった。大抵は頭に護謨製ゴムせい頭巾ずきんかぶって、海老茶えびちゃこんあいの色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私のには、猿股一つで済ましてみんなの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
 彼はやがて自分のわきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたことなにかいった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさ磯近いそちかくにわいわい騒いでいる多人数たにんずあいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだいて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。
 彼らの出て行ったあと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人かおもい出せずにしまった。
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひもまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうかぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にそのあとが追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まではねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるし抜手ぬきでを切った。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんえがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的はついに達せられなかった。私がおかへ上がってしずくの垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。



 わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくらにぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はそのまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所にてた浴衣ゆかたを着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡のくなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生のあとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広いあおい海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人よりほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜にちた筋肉を動かして海の中でおどり狂った。先生はまたぱたりと手足の運動をめて仰向けになったままなみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元のみちを浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
 それからなか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急にきまりが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事もわかった。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんしたあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。



 わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は先生と別れる時に、「これから折々おたくへ伺ってもござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかんにただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少しこまやかな言葉を予期してかかったのである。それでこの物足りない返事が少し私の自信をいためた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安にうごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのかわからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからせという警告を与えたのである。ひとの懐かしみに応じない先生は、ひと軽蔑けいべつする前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。
 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日とつうちに、鎌倉かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上にいろどられる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種のたるみができてきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分のへやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
 始めて先生のうちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。晴れた空が身にみ込むように感ぜられる日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地にあるる仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈えしゃくして外へ出た。にぎやかな町の方へ一ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐきびすめぐらした。



 わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方にかえでを植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとそのはずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡めがねふちが日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二へん繰り返した。その言葉は森閑しんかんとした昼のうちに異様な調子をもって繰り返された。私は急に何ともこたえられなくなった。
「私のあとけて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情のうちには判然はっきりいえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
だれの墓へ参りに行ったか、さいがその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
 先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるでわからなかった。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼくロギンの墓だのというかたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈とり付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
 先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげだのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面目まじめに考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高いこずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、ここいらの地面は金色きんいろの落葉でうずまるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
 向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、くわの手を休めて私たちを見ていた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
 これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより口数をかなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。
「すぐおたくへお帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
 先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一ちょうほど歩いたあとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」
「そうです」
 先生はその日これ以外を語らなかった。



 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数どすうが重なるにつれて、私はますますしげく先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったそののちも、あまり変りはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎてさびしいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感がのちになって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまたうれしく思っている。人間を愛しる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分のふところろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影がすように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の結滞けったいに過ぎなかった。私の心は五分とたないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽きるにのないる晩の事であった。
 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょう大樹たいじゅの前におもい浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課業がひるえる楽な日であった。私は先生に向かってこういった。
「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。
「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時におともをしてもござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうどいじゃありませんか」
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとするふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
「じゃお墓参りでもいからいっしょにれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生のまゆがちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられないかすかな不安らしいものであった。私はたちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、ひとといっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分のさいさえまだ伴れて行った事がないのです」



 わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でそのうち出入でいりをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろたっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間をつなぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだからたっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たいまなこで研究されるのを絶えず恐れていたのである。
 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生のうちへ行くようになった。私の足が段々しげくなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
「邪魔だとはいいません」
 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲のきわめて狭い事を知っていた。先生の元の同級生などで、そのころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもはみんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
「私はさびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時そこまで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日とたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るやいなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。
「ええ来ました」といって自分も笑った。
 私はほかの人からこういわれたらきっとしゃくさわったろうと思う。しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私はさびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かにつかりたいのでしょう……」
「私はちっともさむしくはありません」
「若いうちほどさむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私のうちへ来るのですか」
 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまださびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたはほかの方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
 先生はこういって淋しい笑い方をした。



 さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時のわたくしは、この予言のうちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。そのうちいつの間にか先生の食卓でめしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口をかなければならないようになった。
 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取りければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいというほかに何の感じも残っていない。
 ある時私は先生のうちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来てそばしゃくをしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分のみ干したさかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけたあと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さんは綺麗きれいまゆを寄せて、私の半分ばかりいで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間にしものような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前はきらいだからさ。しかしたまには飲むといいよ。い心持になるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しごしゅを召し上がると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜はい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がるとござんすよ」
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方がさむしくなくって好いから」
 先生のうちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさいもののように考えていた。
「一人もらってやろうか」と先生がいった。
もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまでったってできっこないよ」と先生がいった。
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。



 わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲のい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざしている時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名はしずといった)。先生は「おい静」といつでもふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私にはやさしく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうになって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人のあいだえがき出されるようであった。
 先生は時々奥さんをれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低いおんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
 妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでもみ込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。先刻さっき帯の間へくるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだはかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
 その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
 私の腹の中には始終先刻さっきの事がかかっていた。さかなの骨が咽喉のどに刺さった時のように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、した方がかろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
 私は何の答えもし得なかった。
「実は先刻さっきさいと少し喧嘩けんかをしてね。それでくだらない神経を昂奮こうふんさせてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
 先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。



 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一ちょうも二丁もつづいた。そのあとで突然先生が口をき出した。
「悪い事をした。怒って出たからさいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなものですね。わたくしの妻などは私よりほかにまるで頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
 先生のうちへ帰るには私の下宿のついそばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにおたくの前までおともしましょうか」といった。先生はたちまち手で私をさえぎった。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」
 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はそのも長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。
 先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでもわかった。それがまた滅多めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私にらした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。さい以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」
 私は今前後のがかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心のうちうたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへほうむられてしまった。
 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はその日横浜よこはま出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはそのころの習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。


十一
 その時のわたくしはすでに大学生であった。始めて先生のうちへ来たころから見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になったのちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。
 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少しってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切みっせつの関係をもっている私よりほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常にしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口をいては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれとらえて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、わからなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまりくだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それがわからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
 奥さんは急に薄赤い顔をした。


十二
 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうとあいなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶん市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざとつつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういうつやっぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
 私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像にえがき得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
 私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。る時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえのへ行った。そうしてそこで美しい一対いっつい男女なんにょを見た。彼らはむつまじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼をそばだてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲がさそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線のほかに置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
 私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
 私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声がまじっていましょう」
「そんなふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。


十三
 我々は群集の中にいた。群集はいずれもうれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」とわたくしがその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋にのぼ楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質をことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
 私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
 私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧もうろうとしてよくわからなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらしていたのだ。私は悪い事をした」
 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまから広い庭の一部に茂る熊笹くまざさ幽邃ゆうすいに見えた。
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地にうまっている友人の墓へ参るのか知っていますか」
 先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれでめましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
 私には先生の話がますますわからなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。


十四
 年の若いわたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生はうけがってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめるといやになります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよくながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。そのほかには何の聞こえるものもなかった。大通りから二ちょうも深く折れ込んだ小路こうじ存外ぞんがい静かであった。うちの中はいつもの通りひっそりしていた。私は次のに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分をのろうよりほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常にこわくなったんです」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。するとふすまの陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次のへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私にはわからなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分があざむかれた返報に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人のひざの前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足をせさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今より一層さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立とおのれとにちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
 私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。


十五
 そのわたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
 奥さんの様子は満足とも不満足ともめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生はすわって考えるたちの人であった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家のまとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
 これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲のみねのようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものをおおかぶせた。そうしてなぜそれが恐ろしいか私にもわからなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経をふるわせた。
 私は先生のこの人生観の基点に、る強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもなった。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足をせさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
 雑司ヶ谷ぞうしがやにあるだれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命いのちの扉を開けるかぎにはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
 そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。そのころは日のつまって行くせわしない秋に、誰も注意をかれる肌寒はださむの季節であった。先生の附近ふきんで盗難にかかったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを持って行かれたうちはほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味をわるくした。そこへ先生がある晩家をけなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生はほかの二、三名と共に、ある所でその友人にめしを食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私はすぐ引き受けた。


十六
 わたくしの行ったのはまだくか点かない暮れ方であったが、几帳面きちょうめんな先生はもううちにいなかった。「時間におくれると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
 書斎には洋机テーブル椅子いすほかに、沢山の書物が美しい背皮せがわを並べて、硝子越ガラスごし電燈でんとうの光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団ざぶとんの上へ私をすわらせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私はかしこまったまま烟草タバコを飲んでいた。奥さんが茶の間で何か下女げじょに話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲ったかどにあるので、むねの位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさをりょうしていた。ひとしきりで奥さんの話し声がむと、あとはしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、じっとしながら気をどこかに配った。
 三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪しかつめらしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
 奥さんは手に紅茶茶碗こうちゃぢゃわんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするにはくありませんね」と私がいった。
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴ちょうだい。ご退屈たいくつだろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間でよろしければあちらで上げますから」
 私は奥さんのあといて書斎を出た。茶の間には綺麗きれい長火鉢ながひばち鉄瓶てつびんが鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走ちそうになった。奥さんはられないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛でかけになるんですか」
「いいえ滅多めったに出た事はありません。近頃ちかごろは段々人の顔を見るのがきらいになるようです」
 こういった奥さんの様子に、別段困ったものだというふうも見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私も嫌われている一人なんです」
「そりゃうそです」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をするかただけあって、なかなかお上手じょうずね。からっぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それとおんなじ理屈で」
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。からさかずきでよくああ飽きずに献酬けんしゅうができると思いますわ」
 奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。


十七
 わたくしはまだそのあとにいうべき事をもっていた。けれども奥さんからいたずらに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗こうちゃぢゃわんの底をのぞいて黙っている私をらさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
 妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖のかずを聞いた。奥さんの態度は私にびるというほどではなかったけれども、先刻さっきの強い言葉をつとめて打ち消そうとする愛嬌あいきょうちていた。
 私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、しかり付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
 二人はそれを緒口いとくちにまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんにはからな理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんなうわそらでいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るよりほかに仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくってもいじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心にく映るはずだと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにんとして、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私にみ込めた。


十八
 わたくしは奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟しげきを与えた。それで奥さんはそのころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
 私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲をながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはそのあいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんとわかるべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実につらいんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切とぎらした。下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
 奥さんは火鉢の灰をらした。それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんした。鉄瓶はたちまち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
 奥さんは眼のうちに涙をいっぱいめた。


十九
 始めわたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始めた。自分と夫の間には何のわだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼をけて見極みきわめようとすると、やはりなんにもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中までいやになったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも良人おっとらしかった。親切で優しかった。疑いのかたまりをその日その日の情合じょうあいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかんとか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい
 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私にはわかりません」
 奥さんは予期のはずれた時に見るあわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生はうそかないかたでしょう」
 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいうふうになった源因げんいんについてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
 奥さんはいい渋ってひざの上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうとしかられるから。叱られないところだけよ」
 私は緊張して唾液つばきみ込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲のいお友達が一人あったのよ。そのかたがちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
 奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってからのちなんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくってたまらないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。


二十
 わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと事の大根おおねつかんでいなかった。奥さんの不安も実はそこにただよう薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆すっかりは私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断にすがり付こうとした。
 十時ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前にすわっている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出合であがしらに迎えた。私は取り残されながら、あとから奥さんにいて行った。下女げじょだけは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちにたまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深くながめた。もしそれがいつわりでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントもてあそぶためにとくに私を相手にこしらえた、いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで張合はりあいが抜けやしませんか」といった。
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇をつぶさせて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれをたもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむ小路こうじを曲折してにぎやかな町の方へ急いだ。
 私はその晩の事を記憶のうちからき抜いてここへくわしく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子をもらって帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその翌日よくじつ午飯ひるめしを食いに学校から帰ってきて、昨夜ゆうべ机の上にせて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色とびいろのカステラを出して頬張ほおばった。そうしてそれを食う時に、必竟ひっきょうこの菓子を私にくれた二人の男女なんにょは、幸福な一対いっついとして世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生のうちはいりをするついでに、衣服のあらりや仕立したかたなどを奥さんに頼んだ。それまで繻絆じゅばんというものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌たいくつしのぎになって、結句けっく身体からだの薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ手織ておりね。こんない着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫いにくいのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。おかげで針を二本折りましたわ」
 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒めんどうくさいという顔をしなかった。


二十一
 冬が来た時、わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
 父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこのやまいは慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のおかげ一つで、今日こんにちまでどうかこうかしのいで来たように客が来ると吹聴ふいちょうしていた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしているはずみに突然眩暈めまいがして引ッ繰り返った。家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
 冬休みが来るにはまだ少しがあった。私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさをめた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
 先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸ガラスどから冬にってまれに見るような懐かしいやわらかな日光が机掛つくえかけの上にしていた。先生はこの日あたりのへやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸けた金盥かなだらいから立ちあが湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。
「大病はいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえっていやなものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよくわかります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病にかかりたいと思ってる」
 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何かの抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。
何遍なんべんも卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげてもいが。――嘔気はきけはあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
 私はその晩の汽車で東京を立った。


二十二
 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、とこの上に胡坐あぐらをかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこうじっとしている。なにもう起きてもいのさ」といった。しかしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性ふしょうぶしょう太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。
 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちははの顔を見る自由のかない男であった。妹は他国へとついだ。これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業をほうり出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだからいけない」
 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていたとこを上げさせて、いつものような元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
 私のこの注意を父は愉快そうにしかしきわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。
 私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞をけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生のうわさなどをしながら、はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
うまくはないが、別にきらいな人もないだろう」
 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しかもらっていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私あてで書いた大変長いものである。
 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、私が引き添うようにそばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。


二十三
 わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなので、炬燵こたつにあたったまま、盤をやぐらの上へせて、こまを動かすたびに、わざわざ手を掛蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまくして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしはさみ上げるという滑稽こっけいもあった。
だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤はいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日がつにれて、若い私の気力はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私はきん香車きょうしゃを握ったこぶしを頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
 私は東京の事を考えた。そうしてみなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人おとなしい男であった。ひとに認められるという点からいえばどっちもれいであった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往来ゆききをしたおぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりにひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力がい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にもわからない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンにおいを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼にまった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分のめた出立しゅったつの日を動かさなかった。


二十四
 東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
 わたくし早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次のへ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところにきわめて淡泊たんぱく小供こどもらしい心を見せた。
 二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。
「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」
 先生は腎臓じんぞうやまいについて私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気にかかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全くうそのような死に方をしたんですよ。何しろそばに寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」
 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
「私のおやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それじゃいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
 私はやや安心した。私の変化をじっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしてももろいものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えておいでですか」
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
 先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思うに死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にもわからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のおかげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、あとは何らのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。


二十五
 その年の六月に卒業するはずのわたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸をうたぐった。ほかのものはよほど前から材料をあつめたり、ノートをめたりして、余所目よそめにもいそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうしてたちまち動けなくなった。今まで大きな問題をくうえがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭をおさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的にまとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生はいでしょうといった。狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点についてごうも私を指導する任に当ろうとしなかった。
近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」
 先生は一時非常の読書家であったが、そのどういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」
 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味くみを帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応てごたえもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
 それからの私はほとんど論文にたたられた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年ぜんに卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人いちにん締切しめきりの日に車で事務所へけつけてようやく間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほどおくらして持って行ったため、あやうね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸をえた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻みまわした。私の眼は好事家こうずか骨董こっとうでも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々むきを南へえて行った。それが一仕切ひとしきりつと、桜のうわさがちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文にむちうたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居をまたがなかった。


二十六
 わたくしの自由になったのは、八重桜やえざくらの散った枝にいつしか青い葉がかすむように伸び始める初夏の季節であった。私はかごを抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目ひとめに見渡しながら、自由に羽搏はばたきをした。私はすぐ先生のうちへ行った。枳殻からたちの垣が黒ずんだ枝の上に、もえるような芽を吹いていたり、柘榴ざくろの枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。
 先生はうれしそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「おかげでようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
 実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了けつりょうして、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々ちょうちょうした。先生はいつもの調子で、「なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足りないというよりも、いささか拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循いんじゅんらしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々いきいきしていた。私は青く蘇生よみがえろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変い心持です」
「どこへ」
 私はどこでも構わなかった。ただ先生をれて郊外へ出たかった。
 一時間ののち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所をあてもなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ぎ取って芝笛しばぶえを鳴らした。ある鹿児島人かごしまじんを友達にもって、その人の真似まねをしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
 やがて若葉にざされたように蓊欝こんもりした小高い一構ひとかまえの下に細いみちひらけた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだらのぼりになっている入口をながめて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。
 植込うえこみの中をひとうねりして奥へのぼると左側にうちがあった。明け放った障子しょうじの内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先のきさきに据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
 二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅つつじが燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで樺色かばいろたけの高いのを指して、「これは霧島きりしまでしょう」といった。
 芍薬しゃくやく十坪とつぼあまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬ばたけそばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余ったはじの方に腰をおろして烟草タバコを吹かした。先生はあおとおるような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよくながめると、一々違っていた。同じかえででも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗のいただきに投げかぶせてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。


二十七
 わたくしはすぐその帽子を取り上げた。所々ところどころに着いている赤土をつめはじきながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
 身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君のうちには財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地でんぢが少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
 先生が私のいえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかをうたぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
 先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。それに家内かない小人数こにんずであった。したがって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きなうちでも造るさ」
 この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹のつえの先で地面の上へ円のようなものをき始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっすぐに立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分ひとごとのようであった。それですぐあといて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題をよそへ移した。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであった。この種の病人に見るふるえが少しも筆のはこびを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もういんでしょう」
ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。


二十八
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、もらうものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
 わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気にさわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
 先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじ叔母おばの様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんない人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者いなかものですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
 私はこの追窮ついきゅうに苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚しんせきなぞのうちに、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
 先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。するとうしろの方で犬が急にえ出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
 縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗のそばに、熊笹くまざさ三坪みつぼほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへとおぐらいの小供こどもけて来て犬をしかり付けた。小供は徽章きしょうの着いた黒い帽子をかぶったまま先生の前へまわって礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、うちだれもいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日こんちはって、断ってはいって来るとかったのに」
 先生は苦笑した。懐中ふところから蟇口がまぐちを出して、五銭の白銅はくどうを小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧りこうそうな眼にわらいをみなぎらして、首肯うなずいて見せた。
「今斥候長せっこうちょうになってるところなんだよ」
 小供はこう断って、躑躅つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾しっぽを高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。


二十九
 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々うんぬん掛念けねんはその時のわたくしには全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私にわからない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
 犬と小供こどもが去ったあと、広い若葉の園は再びもとの静かさに帰った。そうして我々は沈黙にざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にあるは大概かえでであったが、その枝にしたたるように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日えんにちへでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想めいそうから呼息いきを吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分だいぶ日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向あおむきに寝たあとがいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。やにがこびり着いてやしませんか」
綺麗きれいに落ちました」
「この羽織はつい此間こないだこしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、さいしかられるからね。有難う」
 二人はまただらだらざかの中途にあるうちの前へ来た。はいる時には誰もいる気色けしきの見えなかったえんに、おかみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」と挨拶あいさつした。お上さんは「いいえおかまい申しも致しませんで」と礼を返したあと先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。
 門口かどぐちを出て二、三ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間はだれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支さしつかえありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機じきの過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといったふうに。
かねさ君。金を見ると、どんな君子くんしでもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎてつまらなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少しおくれがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
 待ち合わせるために振り向いてまった私の顔を見て、先生はこういった。


三十
 その時のわたくしは腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥こだわる様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹ごうはらになった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮こうふんなさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多めったに見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応てごたえのあったようにも思った。またまとはずれたようにも感じた。仕方がないからあとはいわない事にした。すると先生がいきなり道のはじへ寄って行った。そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、すそをまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々にぎやかになった。今までちらほらと見えた広いはたけの斜面や平地ひらちが、全く眼にらないように左右の家並いえなみそろってきた。それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんどうつるを竹にからませたり、金網かなあみにわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静にながめられた。市中から帰る駄馬だばが仕切りなくれ違って行った。こんなものに始終気をられがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻あともどりをした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高いところに、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっとたてを突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私はひとあざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬやいなや許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
 私は慰藉いしゃの言葉さえ口へ出せなかった。


三十一
 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。わたくしはむしろ先生の態度に畏縮いしゅくして、先へ進む気が起らなかったのである。
 二人は市のはずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子をった。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかとうたぐった。その眼、その口、どこにも厭世的えんせいてきの影はしていなかった。
 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々ままあったといわなければならない。先生の談話は時として不得要領ふとくようりょうに終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸のうちに残った。
 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんとわかってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭でまとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去をことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといったふうに、私の顔を見た。巻烟草まきタバコを持っていたその手が少しふるえた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去をあばいてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしいひびきをもって、私の耳を打った。私は今私の前にすわっているのが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔はあおかった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果いんがで、人をうたぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方がましかも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。


三十二
 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封された自分の身体からだを持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
 私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、へやの真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
 私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさんはよそでわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
 食卓は約束通り座敷のえん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚いのりこわ卓布テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。先生のうちでめしを食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、はし茶碗ちゃわんが置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそはじめから色の着いたものを使うがい。白ければ純白でなくっちゃ」
 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然きちりと片付いていた。無頓着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は癇性かんしょうですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それをそばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私にはわからなかった。奥さんにもく通じないらしかった。
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前にすわった。奥さんは二人を左右に置いて、ひとり庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のためにさかずきを上げてくれた。私はこのさかずきに対してそれほどうれしい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因げんいんであった。けれども先生のいい方も決して私のうれしさをそそ浮々うきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑ってさかずきを上げた。私はその笑いのうちに、ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情もみ取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
 奥さんは私に「結構ね。さぞおとうさんやおかあさんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
 卒業証書の在処ありどころは二人ともよく知らなかった。


三十三
 めしになった時、奥さんはそばすわっている下女げじょを次へ立たせて、自分で給仕きゅうじの役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来しきたりらしかった。始めの一、二回はわたくしも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗ちゃわんを奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ごはん? ずいぶんよく食べるのね」
 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯からかわれるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃ちかごろ大変小食しょうしょくになったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子みずがしを運ばせた。
「これはうちこしらえたのよ」
 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふるまうだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際しきいぎわで背中を障子しょうじたせていた。
 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的あてもなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人やくにん?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれがいか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないとわからないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは必竟ひっきょう財産があるからそんな呑気のんきな事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
ろくなかぶれ方をして下さらないのね」
 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅つつじの咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰りみちに、先生が昂奮こうふんした語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろすごい言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、おたくの財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、うちへ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草タバコを吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでもいとして、あなたはこれから何かさらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
 先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。


三十四
 わたくしはその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと暇乞いとまごいの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月ごろになるでしょう」
「じゃずいぶんご機嫌きげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書えはがきでも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
 先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないともめていやしないんです」
 席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
「そんなに容易たやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症にょうどくしょうが出ると、もう駄目だめなんだから」
 尿毒症という言葉も意味も私にはわからなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へまわるようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
 無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
 奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でもおもい出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
 すると先生が突然奥さんの方を向いた。
しず、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それともおれの方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦那だんなが先で、細君さいくんが後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そうきまった訳でもないわ。けれども男のほうはどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんどわずらったためしがないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
「え、きっと先よ」
 先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
 奥さんはそこで口籠くちごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分をえていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定ろうしょうふじょうっていうくらいだから」
 奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。


三十五
 わたくしは立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
 先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんときまった年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のおとうさんやお母さんなんか、ほとんどおんなじよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
 この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
 奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれをさえぎった。
「そんな話はおしよ。つまらないから」
 先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
しず、おれが死んだらこのうちをお前にやろう」
 奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面はひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものはみんなお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんかもらっても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
 先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもうい加減にして、おれが死んだらはして頂戴ちょうだい縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
 先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんのいやがる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事だいじに」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
 私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀もくせい一株ひとかぶが、私の行手ゆくてふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉におおわれているそのこずえを見て、来たるべき秋の花と香をおもい浮べた。私は先生のうちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然そのの前に立って、再びこの宅の玄関をまたぐべき次の秋に思いをせた時、今まで格子の間からしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、ご馳走ちそうを詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただにぎやかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。


三十六
 わたくしはその翌日よくじつも暑さをおかして、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。私は電車の中で汗をきながら、ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを憎らしく思った。
 私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善まるぜんの二階でつぶす覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上あたいきわめて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんをわずらわさなかったかを悔いた。
 私はかばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさい土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんわからないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。
 私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とてももとのような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのはさだめて心細いだろう、我々も子として遺憾いかんいたりであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事をおもい浮べた。ことに二、三日前晩食ばんめしに呼ばれた時の会話をおもい出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるよりほかに仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢はかないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。
[#改ページ]



ひとつ前の話 | ひとつ次の話

ランキング

検索

投稿・ユーザ登録

プライバシーポリシ - 利用規約 - サイトマップ - 運営団体
© TagajoTown 管理人のメールアドレス