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ドグラ・マグラ

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作者:管理人



[#ページの左右中央]


 巻頭歌


胎児よ

胎児よ

何故躍る

母親の心がわかって

おそろしいのか


[#改ページ]

 …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
 私がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂みつばちうなるような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。
 それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。
 私はフッと眼を開いた。
 かなり高い、白ペンキ塗の天井裏から、薄白い塵埃ほこりおおわれた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。その赤黄色く光る硝子球ガラスだまの横腹に、大きなはえが一匹とまっていて、死んだように凝然じっとしている。その真下の固い、冷めたい人造石の床の上に、私は大の字なりに長くなって寝ているようである。
 ……おかしいな…………。
 私は大の字なり凝然じっとしたまま、まぶたを一パイに見開いた。そうして眼のたまだけをグルリグルリと上下左右に廻転さしてみた。
 青黒い混凝土コンクリートの壁で囲まれた二けん四方ばかりの部屋である。
 その三方の壁に、黒い鉄格子と、鉄網かなあみで二重に張り詰めた、大きな縦長い磨硝子すりガラスの窓が一つずつ、都合三つ取付けられている、トテも要心ようじん堅固に構えた部屋の感じである。
 窓の無い側の壁の附け根には、やはり岩乗がんじょうな鉄の寝台が一個、入口の方向を枕にして横たえてあるが、その上の真白な寝具が、キチンと敷きならべたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。
 ……おかしいぞ…………。
 私は少し頭を持ち上げて、自分の身体からだを見廻わしてみた。
 白い、新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せてあって、短かいガーゼの帯が一本、胸高に結んである。そこから丸々とふとって突き出ている四本の手足は、全体にドス黒く、垢だらけになっている……そのキタナラシサ……。
 ……いよいよおかしい……。
 右手めてをあげて、自分の顔をでまわしてみた。
 ……鼻がんがって……眼が落ちくぼんで……頭髪あたま蓬々ぼうぼうと乱れて……顎鬚あごひげがモジャモジャと延びて……。
 ……私はガバと跳ね起きた。
 モウ一度、顔を撫でまわしてみた。
 そこいらをキョロキョロと見廻わした。
 ……誰だろう……俺はコンナ人間を知らない……。
 胸の動悸がみるみる高まった。早鐘をくように乱れ撃ち初めた……呼吸が、それに連れて荒くなった。やがて死ぬかと思うほどあえぎ出した。……かと思うと又、ヒッソリと静まって来た。
 ……こんな不思議なことがあろうか……。
 ……自分で自分を忘れてしまっている……。
 ……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。……自分の過去の思い出としては、たった今聞いたブウ――ンンンというボンボン時計の音がタッタ一つ、記憶に残っている。……ソレッ切りである……。
 ……それでいて気はたしかである。森閑しんかんとした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと感じられる……。
 ……夢ではない……たしかに夢では…………。
 私は飛び上った。
 ……窓の前に駈け寄って、磨硝子の平面を覗いた。そこに映った自分の容貌かおかたちを見て、何かの記憶をび起そうとした。……しかし、それは何にもならなかった。磨硝子の表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、私自身の影法師しか映らなかった。
 私は身をひるがえして寝台の枕元に在る入口のドアに駈け寄った。鍵穴だけがポツンと開いている真鍮しんちゅうの金具に顔を近付けた。けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。
 ……寝台の脚を探しまわった。寝具を引っくり返してみた。着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前はおろか、頭文字らしいものすら発見し得なかった。
 私は呆然となった。私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。私自身にも誰だかわからない私であった。
 こう考えているうちに、私は、帯を引きずったまま、無限の空間を、ス――ッと垂直に、どこへか落ちて行くような気がしはじめた。臓腑はらわたの底から湧き出して来る戦慄せんりつと共に、我を忘れて大声をあげた。
 それは金属性を帯びた、突拍子とっぴょうしもない甲高かんだかい声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。
 又叫んだ。……けれども矢張やはり無駄であった。その声が一しきりはげしく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。
 又叫ぼうとした。……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、咽喉のどの奥の方へ引返してしまった。叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。
 奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝頭ひざがしらが自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。
 私は、いつの間にかあえぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央まんなかに棒立ちになったまま喘いでいた。
 ……ここは監獄か……精神病院か……。
 そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、こがらしのように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。
 そのうちに私は気が遠くなって来た。眼の前がズウ――と真暗くなって来た。そうして棒のように強直ごうちょくした全身に、生汗をビッショリと流したまま仰向あおむざまにスト――ンと、倒れそうになったので、吾知らず観念の眼を閉じた……と思ったが……又、ハッと機械のように足を踏み直した。両眼をカッと見開いて、寝台の向側の混凝土コンクリート壁を凝視した。
 その混凝土壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。
 ……それは確かに若い女の声と思われた。けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほどしゃがれてしまって、ただ、底悲しい、痛々しいひびきばかりが、混凝土の壁を透して来るのであった。
「……お兄さま。お兄さま。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……モウ一度……今のお声を……聞かしてエ――ッ…………」
 私は愕然がくぜんとして縮み上った。思わずモウ一度、背後うしろを振り返った。この部屋の中に、私以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いていながら……それから又も、その女の声をみ透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。
「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。あたしです。お兄様の許嫁いいなずけだった……貴方あなたの未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエ――ッ……お兄様お兄様お兄様お兄様……おにいさまア――ッ……」
 私は眼瞼まぶたが痛くなるほど両眼を見開いた。唇をアングリと開いた。その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。そのまま一心に混凝土コンクリートの壁を白眼にらみ付けた。
 それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑をドン底まで凍らせずにはかないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。……いつから私を呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深いうらみの声であった。それが深夜の混凝土壁の向うから私? を呼びかけているのであった。
「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしですあたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。あたしですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁いいなずけだった……妾……妾をお忘れになったのですか。……妾はお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時の事をお忘れになったのですか……」
 私はヨロヨロと背後うしろ蹌踉よろめいた。モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した……。
 ……何という奇怪な言葉だ。
 ……壁の向うの少女は私を知っている。私の許嫁だと云っている。……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうして又、生き返った女だと自分自身で云っている。そうして私と壁一重ひとえを隔てた向うの部屋にめられたまま、ああして夜となく、昼となく、私を呼びかけているらしい。想像も及ばない怪奇な事実を叫びつづけながら、私の過去の記憶を喚び起すべく、死物狂しにものぐるいに努力し続けているらしい。
 ……キチガイだろうか。
 ……本気だろうか。
 いやいや。キチガイだキチガイだ……そんな馬鹿な……不思議な事が……アハハハ……。
 私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。……又も一層悲痛な、深刻な声が、混凝土の壁を貫いて来たのだ。笑うにも笑えない……たしかに私を私と知っている確信にみちみちた……真剣な……悽愴せいそうとした……。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。何故なぜ、御返事をなさらないのですか。妾がこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を……」
「……………………」
「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事が……わかるのです。そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様お兄様お兄様お兄さま……何故……御返事をして下さらないのですか……」
「……………………」
「……妾の苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に這入はいらないのですか……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様……あんまりです、あんまりですあんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」
 そう云ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。それは平手か、コブシかわからないが、とにかく生身なまみの柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。私はその壁の向うに飛び散り、粘り付いているであろう血の痕跡あとを想像しながら、なおも一心に眼をみはり、奥歯を噛み締めていた。
「……お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っている妾です。お兄様よりほかにお便たよりする方は一人もない可哀想な妹です。一人ポッチでここに居る……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」
「お兄様もおんなじです。世界中にタッタ二人の妾たちがここに居るのです。そうして他人ひとからキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」
「……………………」
「お兄様が返事をして下されば……妾の云う事がホントの事になるのです。妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……ああ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」
 私は思わず寝台の上に飛乗った。その声のあたりと思われる青黒い混凝土コンクリート壁にすがり付いた。すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。……が……又グット唾液つばんで思いとどまった。
 ソロソロと寝台の上からすべり降りた。その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリと後退あとしざりをして来た。
 ……私は返事が出来なかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。
 私は彼女が私の妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ない私ではないか。自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。
 その私が、どうして彼女のおっととして返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったおかげで、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの氏素性うじすじょうや、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。そればかりじゃない。
 万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものにほかならないとしたら、どうであろう。私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因もとにならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の軽率かるはずみから、他人の妻を横奪よこどりした事になるではないか。他人の恋人を冒涜ぼうとくした事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返しくり返し唾液つばみ込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。
「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」
 そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。
 私は頭髪かみを両手で引掴んだ。長く伸びた十本のつめで、血の出るほど掻きまわした。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は貴方あなたのものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
 私はてのひらで顔を烈しくコスリまわした。
 ……違う違う……違います違います。貴女あなたは思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。
 ……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口をつぐんだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。
 私は拳骨げんこつを固めて、耳の後部うしろの骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。
 それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
 私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、ドアを見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。
 ……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。
 と思ううちに、全身がゾーッと粟立あわだって来た。
 入口のドアに走り寄って、鉄かと思われるほど岩乗がんじょうな、青塗の板の平面に、全力を挙げて衝突ぶつかってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、しびれ上るほどおびやかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引歪ひきゆがめる事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。
 私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタふるえながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。
 私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから幽瞑あのよの世界に来て、何かの責苦せめくを受けているのではあるまいか。
 この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間むげん地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。
 ……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責さいなまれ初めた絶体絶命のいき地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫えいごうの苛責……。
 私はかかとが痛くなるほど強く地団駄じだんだを踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た隣室となりの物音と、切れ切れに起るむせび泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
 こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚からっぽであった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身にいても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、からっぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声にいまわされながら、ヤミクモに藻掻もがきまわっているばかりの私であった。
 そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走かんばしって来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前もとの通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。
 同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。ドアの外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。

 ……コトリ……と音がした。
 気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体からだを寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで項垂うなだれたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。
 見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。
 ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。
 という静かなすずめの声……遠くにすべって行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。
 ……夜が明けたのだ……。
 私はボンヤリとこう思って、両手で眼のたまをグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変にこわばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな欠伸あくびをしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。
 向うの入口のドアの横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木のぜんが這入って来るようである。
 それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……われを忘れて立上った。爪先走りに切戸のかたわらに駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕をねらいすまして無手むずと引っ掴んだ。……と……お膳とトースト麺麭パンと、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。
 私はシャれた声を振り絞った。
「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」
「……………………」
 相手は身動き一つしなかった。白い袖口そでぐちから出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。
「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は狂人きちがいでも……何でもない……」
「……アレエ――ッ……」
 という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく藻掻もがき初めた。
「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」
「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」
 ……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力がゆるんだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へけ出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。

 一所懸命にすがり付いていた腕を引き抜かれて、ハズミをくらった私は、固い人造石の床の上にドタリと尻餅しりもちを突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。
 すると……又、不思議な事が起った。
 今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るにれて、何とも知れない可笑おかしさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それはとてもタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本ごとにザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとからもなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。
 ……アッハッハッハッハッ。ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ………。
 こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った。涙をんではせかえって、身体からだじらせ、じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。
……アハハハハ。こんな馬鹿な事が又とあろうか。
……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人居る。俺はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。
……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が附かない。俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間とり合いになったのだ。アハハハハハ…………。
……これはどうした事なのだ。何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。アハ……アハ……可笑おかしい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。
……ああ苦しい。やり切れない。俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。
 私はこうしてもなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼のたまをコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、せんをしたままの牛乳の瓶とが転がっている。
 私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタをすくった焼麺麭パンを掴んでガツガツと喰いはじめた。それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお美味いしさをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクとみ込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、背後うしろに横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。
 それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、てのひらと、足の裏がポカポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。
 ……往来のざわめき。急ぐ靴の音。ゆっくりと下駄を引きずる音。自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。
 ……遠い、高い処でからすがカアカアといている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に甲走かんばしった女の声……。
「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」
 ……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。
 ……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。それはたしかに自動車の警笛サイレンで、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高いであるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私の処へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。それが朝の静寂しじまを作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見る私に迫り近付いて来て、今にも私の頭のモシャモシャした髪毛かみのけの中に走り込みそうになったところで、急に横にれて、大まわりをした。高い高いうなり声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、私の耳の穴にみ入るほどの高い悲鳴をげつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。何の物音も聞えなくなった。……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシックリとこまやかになって行く…………。
 ……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイ――ッと開いて、何やらガサガサと音を立てて這入って来た気はいがしたので、私は反射的に跳ね起きて振り返った。……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。
 私の眼の前で、ゆるやかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籐椅子とういすが一個えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲をくばかりに突立っているのであった。
 それは身長六しゃくを超えるかと思われる巨人おおおとこであった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、くじらのような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死ひんしの病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々とそびえていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色とと続きに生白く見えるのは、何か悪い病気にかかっているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広いひたいの斜面と、軍艦の舳先へさきを見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の外套がいとうを着て、その間から揺らめく白金色プラチナいろの逞ましい時計のくさりの前に、細長い、蒼白あおじろい、毛ムクジャラの指をみ合わせつつ、婦人用かと思われる華奢きゃしゃな籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。
 私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵化かえった生物いきもののように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、れ知らずその方向に向き直って座り直した。
 すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。そうして、あべこべに私の姿をジリジリと見下し初めたので、私は何故となく身体からだが縮むような気がして、自ずと項垂うなだれさせられてしまった。
 しかし巨大な紳士は、そんな事をすこしも気にかけていないらしかった。極めて冷静な態度で、とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私は何故という事なしに、今朝眼を醒ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず看破みやぶられているような気がして、一層身体を縮み込ませた。……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があって私の処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。
 するとその時であった。巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて前屈まえこごみになった。慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなく私の方に身体を反背そむけつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい咳嗽せきを続けた。そうしてやや暫らくしてから、やっと呼吸いきが落ち付くと、又、おもむろに私の方へ向き直って一礼した。
「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」
 それは矢張やはり身体に釣り合わない、女みたような声であった。しかし私は、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、うやうやしく一葉の名刺を差出しながら、紳士は又もき入った。
「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」
 私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。



九州帝国大学法医学教授
             若林鏡太郎
医学部長



 この名刺を二三度繰り返して読み直した私は、又も唖然あぜんとなった。眼の前に咳嗽せきを抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずにはいられなかった。そうして、
「……ここは……九州大学……」
 と独言ひとりごとのようにつぶやきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。
 その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、かすかにビクリビクリと震えた。あるいはこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。
「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもおやすみのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他事ほかでも御座いませぬ。……早速ですが貴方は先刻さきほど、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、如何いかがで御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」
 私は返事が出来なかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。
 ……これが驚かずにいられようか。私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。
 私が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、その僅かな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。
 私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。
 私は二重三重に面喰わせられたまま、てのひらの上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。
 ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、またたき一つしないで見下しているのであった。私の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあく程私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いない事が、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。
 二人はこうして、ちょっとのにらみ合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ない事を察したかして、如何いかにも失望したらしくソット眼を閉じた。けれども、そのまぶたが再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、かすかに二三度うなずきながら唇を動かした。
「……御尤ごもっともです。不思議に思われるのは御尤も千万です。元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」
 と云いさした若林博士は、又も、咳嗽せきが出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。
「……と申しますのは、ほかでも御座いません。……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで正木敬之まさきけいしという名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」
「……マサキ……ケイシ……」
「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から行詰ゆきつまったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然として樹立されました、偉大な学者で御座います……と申しましても、それは無論、今日まで行われて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますような非科学的な研究では御座いませぬ。純然たる科学の基礎に立脚して編み出されました、劃時代的かくじだいてきの新学理に相違ありませぬ事は、正木先生がこの教室内に、世界に類例の無い精神病の治療場を創設されまして、その学説の真理である事を、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく首肯しゅこう出来るので御座います。……申すまでもなく貴方あなたも、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」
「僕が……精神病の治療……」
「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられました貴方に対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、取りも直さず、甚しい筋違いに相違ないので、只今のように貴方から御不審を受けますのも、重々御尤ごもっとも千万と存じているので御座いますが……しかし……ここに遺憾千万な事には、その正木先生が、この一個月以前に、突然、私に後事を托されたまま永眠されたので御座います。……しかも、その後任教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前から居ないままになっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼任致しているような次第で御座いますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委托を受けまして、お引受致しましたのが、ほかならぬ貴方で御座いました。言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところ唯一つ……あなたが過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かにかかっていると申しましても、よろしい理由があるので御座います」
 若林博士がこう云い切った時、私はそこいら中が急にまぶしくなったように思って、眼をパチパチさした。私の名前の幽霊が、後光を輝やかしながら、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。
 ……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず項垂うなだれてしまったのであった。
……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。
……私の頭が今朝、眼を醒した時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病にかかっていた……否。現在も罹っている証拠なのだ。……そうだ。私はキチガイなのだ。
……鳴呼。私が浅ましい狂人きちがい……。
 ……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、叮嚀ていねい過ぎるくらい叮嚀な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。それにれて胸が息苦しい程ドキドキして来た。恥かしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも判然わからない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱ほてって来た。……眼の中が自然おのずと熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いにみたされつつ、かなしく両掌りょうてを顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。
 若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、唾液つばを呑み込んだようであった。それから、あたかも、たっとい身分の人に対するように、両手を前にたばねて、今までよりも一層親切なひびきをこめながら、殆ど猫撫で声かと思われる口調で私を慰めた。
「御尤もです。重々、御尤もです。どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。……しかし御心配には及びませぬ。貴方はこの病棟に這入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」
「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」
「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」
「……僕が……私が……狂人きちがいの解放治療の実験材料……狂人きちがいを解放して治療する……」
 若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ首肯うなずいた。「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。
「さようさよう。その通りで御座います。その『狂人解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何に劃時代的なものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績のうちに御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。……のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の衝動ショックのために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、或る驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」
「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」
 と私は思わずき込んで、寝台の端にニジリ出した。あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので……。その私の顔を見下しながら、若林博士は今迄よりも一層、冷静な態度でうなずいた。
「それは誠に御尤も千万な御不審です。……が……しかしその事につきましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」
「……僕自身に思い出す。……そ……それはドウして思い出すので……」
 と私は一層き込みながら口籠くちごもった。若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。
 しかし若林博士は騒がなかった。静かに手を挙げて私を制した。
「……ま……ま……お待ち下さい。それは斯様かよう仔細わけで御座います。……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお這入りになりました経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋を纏めようと致しますと、全部が虚構うそになってしまおそれがありますので……つまるところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出来ないという……それほど左様に幻怪、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……がしかし……当座の御安心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、僅々きんきん四箇月間の実験を行われましたのち、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、その僅かの間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておられたので御座います」
「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」
「さようさよう。貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎として言明しておられたので御座います。……のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方がかつて御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴を極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑わなかったので御座います。むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」
「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」
「さよう。とりあえず空前とは申しましたものの、あるいは絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」
「……そ……それは……ドンナ事件……」
 と、私は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。
 しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。端然として佇立ちょりつしたままスラスラと言葉を続けて行った。その青白い瞳で、静かに私を見下しながら……。
「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……何をお隠し申しましょう。只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座いますが……」
「……精神科学……応用の犯罪……」
「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい主題テーマで御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、斯様かよう申上げましたならば大凡おおよそ、御諒解が出来ましょう。……すなわち私が、斯様な主題テーマに就いて研究を初めました抑々そもそもの動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからで御座います。たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻なものがありますにも拘わらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供にでも面白可笑おかしく首肯出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。……もちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、歴々ありありと展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」
「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」
 若林博士は、いとも荘重にうなずいた。
「さようさよう。貴方は、その学説の真理である事を、身をもって証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来に於て、御自分の過去に関する御記憶を回復されましたあかつきには、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容がれましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。……たとえば或る人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。
 ……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるような事になっては大変である。その時には、現代に於て唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければならない訳であるが、しかしそうなったら最早もはや、取返しの附けようがないであろう。この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、殆ど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違ない事が、前以て、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。……と同時に、甚だ得手えて勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような恰好で……。
 ……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何なる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにも拘わらず、いつ、如何なる方法で盗み出したものか、その精神科学のうちでも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。……すなわちその犯罪の外観アウトラインと申しますは、或る富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として構成されているので御座います。……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようになりました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の温柔おとなしい、頭脳の明晰な青年の身の上に起った事件で御座います。……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統をつなぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい従妹いとこと結婚式を挙げる事になりました、その前の晩の夜半よなか過ぎに、その青年が、思いもかけぬ夢中遊行むちゅうゆうこうを起しまして、その少女を絞殺してしまいました。そうしてその少女の屍体したいを眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が曝露されまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が何人なんぴとであるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているか判然わからない事件で御座います。……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げてがい事件の調査に着手致しました私も、今日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りも掴み得ないまま、五里霧中に彷徨させられているような状態で御座います。
 ……で……そのような次第で御座いますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、唯一つ……すなわち、その事件の中心人物となって生き残っておいでになる貴方御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この一途いっとよりほかに方法は無い事に相成りました。それほど左様に神変自在な手段をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、踪跡そうせきくらましているので御座います。……こう申しましたならば、もはやお解かりで御座いましょう。その事件に就いて、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからで御座います。又……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身に貴方の御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏洩を警戒致したいからで、同時に、万一、貴方の御記憶が回復いたしました節には、時を移さず駈け付けまして、誰よりも先に、その事件の真相も聞かして頂かねばならぬ……その事件の真相をおおくらましている怪魔人の正体を曝露して頂かねばならぬ……という考えからで御座います。……しかも万一、貴方が過去の御記憶を回復されましたお蔭で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを捲き起すことに相成りましょう。すなわち正木先生が表面上、仮に『狂人の解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得る程の大実験の、最後的な結論とするべき或る重大な事実が、科学的に立証されまするばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と名付くる論文のうちの、最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂ける事になるので御座います。そうして正木先生と私とが、この二十年の間、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂ける事に相成るので御座います。……で御座いますからして、あなたが果して御自身のお名前を思い出されるかどうか。過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……という事にきましては、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第で御座います。……しかるに……」
 ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な、青白い一瞥いちべつを私に与えた。……と思うと、又もやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に押し当てながら、一所懸命に咳入り初めたのであった。
 そのしわだらけに痙攣ひきつった横顔を眺めながら、私は煙に捲かれたように茫然となっていた。今朝から私の周囲にゴチャゴチャと起って来る出来事が、何一つとして私に、新らしい不安と、驚きとを与えないものは無い……しかも、それに対する若林博士の説明が又、みるみる大袈裟おおげさに、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……私の身の上に関係した事ばかりのように聞えながら、実際は私と全く無関係な、夢物語みたような感じに変って行くように感じつつ……。

 すると、そのうちに咳嗽せきを収めた若林博士は又一つジロリと青白い目礼をした。
「御免下さい。疲れますので……」
 と云ううちに、やおら背後うしろ華奢きゃしゃ籐椅子とういすを振り返って、ソロソロと腰をおろしたのであったが、その風付ふうつきを見ると私は又、思わず眼をらさずにはいられなかった。
 初め、その籐椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにも潰れそうに見えたので、まだほかに誰か、女の人でも来るのか知らん……くらいに考えていた。ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘掛けの間に、何の苦もなくスッポリと這入った。そうして胸と、腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、膝小僧に乗っかる位低くして来ると、さながらに……私が、その怪事件の裏面に潜む怪魔人で御座います……というかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。その全体の大きさは、どう見ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなにやせこけているにしても……その外套の毛皮が如何に薄いものであるにしても、とても尋常な人間の出来る芸当とは思えない。しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち付けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風に響いて来るのであった。
「……どうも失礼を……然るに私が、只今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神の如くに的中して参りますことが、専門外の私にもよくわかるので御座います。貴方は現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、おつとめになりながら、何一つ思い出す事が出来ないので、お困りになっていられるで御座いましょう。それは貴方が、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一つの過程に過ぎないので御座います。……すなわち正木先生の御研究によりますと、貴方の脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中でも、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところの或る一個所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持った或る一点が存在しておったので御座います。
 ……ところが又一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかにったので御座いましょう。ちょうどその最も敏感な弱点をドン底まで刺戟する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張に陥れました結果、そこに遺伝、潜在しておりました貴方の古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、貴方の意識の表面に浮かみ現われながら、貴方を深い深い夢中遊行むちゅうゆうこう状態に陥れる事に相成りました。……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われました夢中遊行心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、只今のようにその夢遊状態から離脱される事になった訳で御座いますが、しかしその異状な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その附近に在る過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻な疲労が残っておりますために、只今のところでは全く自由が利かなくなっております。つまり古い記憶であればある程、思い出せない状態に陥っておられるので御座います。……そこで、今まで、さほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが今朝ほどから取りあえず覚醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと焦燥あせりながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在の貴方の精神意識の状態であると考えられます。正木先生はそのような状態を仮りに『自我忘失症』と名付けておられましたが……」
「……自我……忘失症……」
「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数箇月の間というもの、現在の貴方とは全く違った別個の人間として、或る異状な夢中遊行状態を続けておられたので御座います。……もちろんこのような深い夢中遊行状態、もしくは極端な二重人格の実例は、普通人によくあらわれる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて稀有けうのものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とか又は『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であった事を自覚した紳士の感想録』とか『生んだ記憶おぼえの無い実子に会った孤独の老嬢の告白』『列車の衝突で気絶したと思っているに、禿頭とくとうの大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡った筈の若い夫人が、翌朝になると白髪しらがの老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の懺悔譚ざんげものがたり』なぞいう奇怪な実例が、色々な文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の境界さかいに迷わせておりますが、そのような実例を、只今申しました正木先生独創の学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるので御座います。そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられますばかりでなく、そんな人々が、以前もとの精神意識に立ち帰ります際には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の両方から立証されて来るので御座います。……すなわち厳密な意味で申しますと、吾々われわれの日常生活の中で、吾々の心理状態が、見るもの聞くものによって刺戟されつつ、引っ切りなしに変化して行く。そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行でありまして、その心理が変化して行く刹那せつな刹那の到る処には、こうした『夢中遊行』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短かさで繰返されている。……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生は併せて立証していられるので御座います。……ですから、申すまでもなく貴下あなたも、その経過をとられまして、遠からず、今日只今の御容態に回復されるであろう事を、正木先生は明かに予知しておられましたので、残るところは唯、時日の問題となっていたので御座います」
 若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇をめたようであった。
 しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明に脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身をこわばらせていた。……さては今の話の怪事件というのは、矢張やはり自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……といったような、云い知れぬ恐怖からしたたり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。
 その時に若林博士は、その仄青ほのあおひとみを少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。
「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。あなたは最早もはや、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座います。……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、貴下あなた御自身のお名前を思い出させて差上げるために、斯様かようにお伺いした次第で御座います」
「……ボ……僕の名前を思い出させる……」
 こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。……若林博士が特に、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。
「……さよう。あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座います。その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何に恐るべきものであるか。如何なる理由で、如何なる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか。その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」
 私は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。思わず座り直して頓狂とんきょうな声を出した。
「……何というんですか……僕の名前は……」
 私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士はあたかも器械か何ぞのようにピッタリと口をつぐんだ。私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。
 後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言のうちに、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺戟させようとしたのであろう。
 しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。
 すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、繊細かぼそい声を出した。
「……いけませぬ……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言おっしゃれば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
 私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことが出来ましょうか」
 若林博士はキッパリと答えた。
「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」
 若林博士は斯様かよう云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力にされて、余儀なく項垂うなだれさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が判然わからないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。
 しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。
「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶がび起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、如何いかがで御座いましょうか」
 と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。
 私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっとも構いません。どうなりと御随意に……という風に……。
 しかし心の中ではすくなからず躊躇ちゅうちょしていた。否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。
……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。
……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。
……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……其奴そいつが描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。
……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。

 その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。おもむろに背後うしろの扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。
 その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字ひげをピンとやして、白い詰襟つめえり上衣うわぎに黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない扮装いでたちをしていた。四角い黒革の手提鞄てさげかばんと、薄汚ない畳椅子たたみいすを左右の手にひっさげていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の中央まんなかに湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用のはさみや、ブラシをふたの上につまみ出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。
 ……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。だから素跣足すはだしのまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字ひげの小男が、白い布片きれをパッと私の周囲まわりに引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。
「この前の通りの刈方かりかたで、およろしいので……」
 この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなくない口調で答えた。
「あ。この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。記憶しておりますか。あの時の刈方を……」
「ヘイ。ちょうど丸一個月前の事で、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。まん中を高く致しまして、お顔全体が温柔おとなしい卵型に見えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」
「そうそう。その通りに今度も願います」
「かしこまりました」
 そう云ううちにモウ私の頭の上で鋏が鳴出した。若林博士は又も寝台の枕元の籐椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引っぱり出している様子である。
 私は眼を閉じて考え初めた。
 私の過去はこうしてにもかくにもイクラカずつ明るくなって来る。若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても、私が自分で事実と信じて差支えないらしい事実だけはこうして、すこしずつ推定されて来るようだ。
 私は大正十五年(それはいつの事だかわからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、昨日きのうが昨日まで夢中遊行状態の無我夢中で過して来たものらしい。そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい以前まえに、頭をハイカラの学生風に刈っていた事があるらしい。その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。
 ……けれども……そうは思われるものの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。しかも、それとても赤の他人の医学博士と、理髪師から聞いた事に過ぎないので、真実ほんとうに、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから今までの、数時間の間に起った事柄だけである。その……ブーン……以前の事は、私にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすら判然しない。
 私はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに成長おおきくなったか。あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……又は、若林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。そんなにおびただしい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。
 ……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の空洞がらんどうをジッと凝視していると、私の霊魂たましいは、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる微生物アトムのように思われて来る。……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。
 ……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の襟筋えりすじるべくシャボンの泡をなすり付けたのであった。
 私はガックリと項垂うなだれた。
 ……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。それならば私は、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどのつまり私は、そんな事ばかりを繰返し繰返しっている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。
 若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて私の周囲まわりに起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行を……。
 ……私はそう考えるうちにハッとして椅子から飛び上った。……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。
 それは二個ふたつの丸いくしが、私の頭の上に並んで、息もかれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、一寸ちょっとにわからなくなってしまった。……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された亡者もうじゃみたようになって、グッタリと椅子にたれ込んで底もはてしもないムズがゆさを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこうなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。前途さきはどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。
「コチラへおでなさい」
 という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が這入はいって来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。首の周囲まわりの白い布切きれは、私の気づかぬうちに理髪師が取外とりはずして、扉の外で威勢よくハタイていた。
 その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリとページを伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」とせきをしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。
 顔一面の髪の毛とフケの中から、かろうじて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。
 若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。

 扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つずつ、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁のくぼみの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網かなあみで厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンとうなって、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて螺旋ねじをかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の振子球ふりこだまを揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札は無い。
 私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした鶏頭けいとうが咲き乱れている真白い砂地で、その又むこうは左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。
「……ああ……今は秋だな」
 と私は思った。冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の取付とっつきの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に内部なかに這入った。
 その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際に在る石造いしづくり浴槽ゆぶねから湧出す水蒸気が三方の硝子ガラス窓一面にキラキラとしたたり流れていた。その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと丸裸体まるはだかにして、浴槽ゆぶねの中に追い込んだ。そうしてい加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、私を流し場の板片いたぎれの上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい石鹸シャボンとスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて泡沫あわを山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、有無うむを云わさず私の両手を引っ立てて、
「コチラですよ」
 と金切声で命令しながら、モウ一度、浴槽ゆぶねの中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、非道ひどい目に会わされた看護婦が、三人のうちまじっていて、復讐かたきを取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。
 けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪をってもらって、竹柄たけえのブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで身体からだ中をぬぐい上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、流石さすがに生れ変ったような気持になってしまった。こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。
「これとお着換なさい」
 と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの襯衣シャツ、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ編上靴あみあげくつなぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。
 私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、そのついでに気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれもは、殆ど仕立卸したておろしと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに昔馴染むかしなじみでもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上衣の詰襟つめえりの新しいカラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には幾何いくら這入っているかわからないが、やわらかに膨らんだ小さな蟇口がまぐちさわった。
 私は又も狐につままれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、生憎あいにく破片かけららしいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。
 するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗いざらしの浴衣ゆかたを取りけた。その下から現われたものは、思いがけない一面の、巨大おおきな姿見鏡であった。
 私は思わず背後うしろによろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。
 今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者ひげむしゃで、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、てのひらで撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
 眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳はたちかそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、あごの薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
 その時に背後うしろから若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
 私はかむりかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液つばをグッとみ込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明わかった。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。
 しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながらむくいられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。
 その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく点頭うなずいた。
「……御尤ごもっともです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」
 私は新らしい編上靴を穿いた足首と、膝頭ひざがしらこわばらせつつ、若林博士の背後に跟随くっついて、鶏頭けいとうの咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮しんちゅう把手ノッブを引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「只今、よくおやすみになっております」
 と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
 若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部なかに這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方ねかたに横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。
 私は両手で帽子のひさしをシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチとまばたきをした。
 ……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。
 その少女は艶々つやつやしたおびただしい髪毛かみのけを、黒い、大きな花弁はなびらのような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬々ぼうぼうと乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい繃帯ほうたいで包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い睫毛まつげ、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎ふたえあごまで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
 すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。
 新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪廓りんかくのすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となくさびしい薔薇ばら色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々こうごうしいこと……。
 私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸いきも出来ないような気持になって、なおもまたたき一つせずに、見惚みとれていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露のたまになって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、かすかにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……あたしは心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
 それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右のめじりへ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢りょうびんの、すきとおるようなぎわへ消え込んで行くのであった。
 しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康すこやかな、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがてなごやかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
 私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後うしろをふり返った。
 私の背後に突立った若林博士は、最前さっきからの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石ろうせきのように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッとめて、今までとはまるで違った、ひびきの無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
 私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりをはばかるように、ヒッソリと頭を振った。
 ……イイエ……チットモ……。
 という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声でささやいた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
 私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きくまばたきをして見せた。
 ……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
 といわんばかりに……。
 すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、あたかも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹いとこさんで、あなたと許嫁いいなずけの間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
 と私は驚きの声を呑んだ。ひたいを押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にもまれな美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方あなたの、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで斯様かようにお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」
 若林博士の口調は、私を威圧するかのようにゆるやかに、つ荘重であった。
 しかし私はもとの通り、狐につままれたように眼をみはりつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。
「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」
「あれは夢を見ていられるのです。……今申します通りこの令嬢には最初から御同胞ごきょうだいがおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんがられたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」
「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」
 といううちに私は声を震わした。若林博士の顔を見上げながらジリジリと後退あとずさりせずにはおられなかった。若林博士の頭脳あたまが急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、ほかから見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない……して推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。
 けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響の無い、切れ切れの声で……。
「……それは……この令嬢が、眼をさましておられる間にも、そんな事を云ったり、たりしておられるから判明わかるのです。……この髪の奇妙ない方を御覧なさい。この結髪のし方は、この令嬢の一千年ぜんの御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、身体からだのこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。年齢としごろまでも見違えるくらい成熟された、優雅みやびやかな若夫人の姿に見えて来るのです。……もっとも、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグルまきにしておられるのですが……」
 私はいた口がふさがらなかった。その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを惘々然ぼうぼうぜんと見比べない訳に行かなかった。
「……では……では……兄さんと云ったのは……」
「それは矢張やはり貴方の、一千年ぜんの御先祖に当るお方の事なのです。その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる情景ありさまを、現在夢に見ておられるのです」
「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」
 と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。
「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」
 と云いさして若林博士もピッタリと口をつぐんだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれども最早もう、遅かった。
 私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリと大きく二三度まばたきをした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見る真白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。それにれて頬の色がにわかに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、
「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」
 と魂消たまぎるように叫びつつ身を起した。素跣足すはだしのまま寝台から飛び降りて、すそもあらわに私にすがり付こうとした。
 私は仰天した。無意識のうちにその手を払いけた。思わず二三歩飛び退いてにらみ付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。
 ……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を凝視みつめながら、よろよろと、うしろに退さがって寝台の上に両手をいた。唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。
 それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッタリとうなだれて、石の床の上に崩折くずおれ座りつつ、白い患者服のそでを顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。
 私はいよいよ面喰った。顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャれた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。
 若林博士は……しかし顔の筋肉すじ一つ動かさなかった。呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰をかがめた。耳に口を当てるようにして問うた。
「思い出されましたか。この方のお名前を……そうして貴女あなたのお名前も……」

 この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。……さてはこの少女も私と同様に、夢中遊行状態から醒めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……そうして若林博士は、現在、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイ――ンと鳴るほど緊張して少女の返事を期待した。
 けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。
「……それではこの方が、貴方とお許嫁いいなずけになっておられた、あのお兄さまということだけは記憶おぼえておいでになるのですね」
 少女はうなずいた。そうして前よりも一層はげしい、高い声で泣き出した。
 それは、何も知らずに聞いていても、まことに悲痛を極めた、はらわたを絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角せっかくその相手にめぐり合って縋り付こうとしても、素気そっけなく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。
 男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までそのれ果てた泣声に惹き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然まるで違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場におとしいれられてしまったのであった。この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければまらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい背面うしろ姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに苛責さいなまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。
 けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もうきに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
 こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙あんるいを拭い拭い立ちすくんでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
 耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷すすり上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。
 人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッときながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁一重ひとえを隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹いとこで、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿むこさんであった私」というような奇怪極まる私と同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それを私から払いけられたために、床の上へ崩折くずおれて、はらわたを絞るほど歎き悲しんでいる……
 というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
 けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急におしにでもなったかのように、ピッタリと口をつぐんでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣チョッキのポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、てのひらの上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。
 身体からだの悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、ゆるめたりしている姿を見ると、あたかもタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋にもだえている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。
 だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。
 ……しかも……私が、何だかこの博士から小馬鹿まわしにされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。
 何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。
 何も知らない私をつかまえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って紹介ひきあわせたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ可怪おかしいようである。この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の身体からだに合せて仕立てたものではないかしらん。又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの勿体もったいらしい錯覚におとしいれて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。
 ……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。
 ……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの木阿弥もくあみのガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、心配もない……。
 けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、左掌ひだりての上の懐中時計を、やおらもとのポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。
「いかがです。お疲れになりませんか」
 私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」
 私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。
「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました正木敬之まさきけいし先生が、御臨終の当日までられました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢にからまる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」
 若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。
 しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持で……。同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。
 すると若林博士も満足げにうなずいた。
「……では……こちらへどうぞ……」

 九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキぬり、二階建の木造洋館であった。
 その中央まんなかを貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。
 その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが多分まだ朝が早いせいであったろう。その扉の上の明窓あかりまどから洩れ込んで来る、仄青ほのあおい光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつもの室が並んでいる。その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼り附けた茶褐色の扉が見えた。
 先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。背後うしろを振り返って私を招き入れると、謹しみ返った態度で外套がいとうを脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。だから私もそれにならって、霜降しもふりのオーバーと角帽をかけ並べた。私たちの靴の痕跡あとが、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリにおおわれているらしい。
 それはステキに広い、明るい部屋であった。北と、西と、南の三方に、四ツずつ並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝でおおわれているが、南側に並んだ四ツの窓は、何もさえぎるものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のようにまぶしく流れ込んでいる。その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。
 その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。
「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました斎藤寿八さいとうじゅはち先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、もしくは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものがすくなくありませぬ。ところがその斎藤先生が他界されましたのち、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な煖炉ストーブまで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規のとどけも出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで届書とどけしょを出して正規の手続きをしてもらうように、言葉をひくうして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。
「なあに……そんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。総長にそう云っといてくれ給え……というのはコンナ理由わけなんだ。聞き給え。……何を隠そう、かく云う吾輩わがはい自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。とりあえずこんな参考材料と一所いっしょに、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成して御座ると思うんだがね……」
 と云って大笑されましたので、流石さすが老練の塚江事務官もけむまかれたまま引退ひきさがったものだそうです」
 こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の度胆どぎもを抜くのには充分であった。今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの素破すばらしさが、こうした何でもない諧謔かいぎゃくの中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一刹那せつなに、私は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が大切だいじがる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の辛辣しんらつ、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然としていた口がふさがらなくなるばかりであった。
 しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。
「……ところで、貴方あなたをこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは他事ほかでも御座いませぬ。只今も階下したの七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事を、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。……正木先生はかつて、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく一瀉千里いっしゃせんりに、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」
 若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。
 あたかも大人が小児こどもに云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。
 私が先刻さっきから感じていた……何もかも出鱈目でたらめではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。
 若林博士は流石さすがに権威ある法医学者であった。私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の隙間すきまもなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。その確信の底深さ……その計劃の冷静さ……周到さ……。
 ……それならば先刻さっきから見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり真実ほんとうに、私の身の上に関係した事だったのか知らん。そうしてあの少女は、やはり私の正当な従妹いとこで、同時に許嫁いいなずけだったのか知らん……。
 ……もしそうとすれば私は、いやでもおうでも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在ることになる。そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。
 ……ああ。「自分の過去」を「狂人きちがい病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。何という恥かしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。
 こんな風に考えが変って来た私は、われ知らずひたいにニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の内部なかを恐る恐る見廻しはじめた。思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。

 部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ硝子ガラス戸棚の行列が立塞たちふさがっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二けんぐらいに見える大卓子テーブルが、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子の表面に張詰めてある緑色の羅紗らしゃは、やはり薄いホコリをかぶったまま、南側の窓からさし込む光線をまぶしく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。又、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込とじこみらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面におおかぶさっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。しかもその前には瀬戸物の赤い達磨だるまの灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の欠伸あくびを続けているのが、何だか故意わざと、そうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。
 その赤い達磨だるまの真正面にき立っている東側の壁面かべは一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽にかがまれる位の大暖炉ストーブが取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーが懸かっている。その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、清々すがすがしい朝の光りの中に、あるいまぶしく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な静寂しじまを作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。
 事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種のなげやりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。
 私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に治癒なおりましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。
――歯齦はぐきの血で描いたお雛様ひなさまの掛軸――(女子大学卒業生作)――火星征伐の建白書――(小学教員提出)――唐詩選五言絶句「竹里館ちくりかん隷書れいしょ――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫きごうせしもの)――大英百科全書の数十ページを暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)――「カチューシャ可愛や別れのらさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動俳優の自称「創作」)――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作)――竹片たけきれで赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)――鼻糞で固めた観音像、硝子ガラス箱入り――(曹洞宗布教師作) 私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反向そむけて通り抜けようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。
 それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込つづりこみで、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れよごれてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から怪我けがをしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとにあかインキの一頁大の亜剌比亜アラビア数字で、※(ローマ数字1、1-13-21)、※(ローマ数字2、1-13-22)、※(ローマ数字3、1-13-23)、※(ローマ数字4、1-13-24)、※(ローマ数字5、1-13-25)と番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。

  巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
     心がわかっておそろしいのか

 その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。
 一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」
 若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後うしろからうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現あらわした珍奇な、面白い製作の一つです。当科ここの主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気呵成かせいに書上げて、私の手許に提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」
「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」
「さようで……」
「論文じゃないのですか……」
「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容がまた非常に変っておりまして科学趣味、猟奇趣味、色情表現エロチシズム、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと流石さすがに、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に横溢おういつしております。……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質をことにした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」
 若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。
「ヘエ。そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」
「……それは斯様かような訳です。その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状を呈しましたものらしく、自分自身で或る幻覚錯覚にとらわれた一つの驚くべき惨劇を演出しました。そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにも拘わらず、大体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に幽閉とじこめられて、想像も及ばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」
「……ヘエ。先生にはソンナ記憶おぼえが、お在りになるのですか」
 若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑のしわが寄った。それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。
「そんな事は絶対に御座いませぬ」
「それじゃ全部が出鱈目でたらめなのですね」
「ところが書いてある事実を見ますと、トテモ出鱈目とは思えない記述ばかりが出て来るのです」
「ヘエ。妙ですね。そんな事があり得るでしょうか」
「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」
「イヤ。読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」
「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、少くとも専門家にとっては面白いという形容では追付おいつかない位、深刻な興味を感ずる内容らしいですねえ。専門家でなくとも精神病とか、脳髄とかいうものについて、多少共に科学的な興味や、神秘的な趣味を持っている人々にとっては非常な魅力の対象になるらしいのです。現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと云っております。甚しいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤになって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人はやはりこの原稿を読んでから自分の脳髄の作用に信用がけなくなったから自殺すると云って鉄道往生をした者が一人居る位です」
「ヘエ。何だかモノスゴイ話ですね。正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。よっぽどキチガイじみた事が書いてあるんですね」
「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で、理路整然としている事は普通の論文や小説以上なのです。しかも、その見た事や聞いた事に対する、精神異状者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、只今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠く及ぶところでは御座いませぬ。……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さが又、普通人の所謂いわゆる、推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に捲き込まれそうになるのです。その意味で、斯様かような標題を附けたものであろうと考えられるのですが……」
「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が附けたのですね」
「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」
「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」
「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。……と申します理由は外でも御座いませぬ。この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な謎語なぞを解決する鍵が隠されているのではないか。このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからで御座います。……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、流石さすがに疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねる事が、当分の間、出来なくなってしまいました。……といって斯様かような不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろんハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、はからず面白い事に気付きました。元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧欧羅巴ヨーロッパ系統のなまり言葉が、方言として多数に残っているようですから、あるいは、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、色々と取調べてもらいますと、やっとわかりました。……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹伴天連キリシタンバテレンの使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、いて訳しますれば今の幻魔術もしくは『堂廻目眩どうめぐりめぐらみ』『戸惑面喰とまどいめんくらい』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違御座いません。……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます」
「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」
「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に記述しるされております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。たとえば、
……「精神病院はこの世のいき地獄」という事実を痛切に唄いあらわした阿呆陀羅経あほだらきょうの文句…………「世界の人間は一人残らず精神病者」という事実を立証する精神科学者の談話筆記…………胎児を主人公とする万有進化の大悪夢に関する学術論文…………「脳髄は一種の電話交換局に過ぎない」と喝破した精神病患者の演説記録…………冗談半分に書いたような遺言書…………唐時代の名工が描いた死美人の腐敗画像…………その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事件の調査書類…… ……そのようなものが、様々の不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした幻魔作用ドグラ・マグラの印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へといかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立帰って参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当りませぬ。……というのは、それ等の出来事の一切合財が、とりも直さず、只一点の時計の音を、或る真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と、最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じ唯一つの時鐘じしょうの音であり得る……という事が、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって証明され得る……という……それ程左様さようにこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるので御座います。……論より証拠……読んで御覧になれば、すぐにおわかりになる事ですが……」
 といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。
 しかし私は慌てて押し止めた。
「イヤ。モウ結構です」
 と云ううちに両手を烈しく左右に振った。若林博士の説明を聞いただけで、最早もはや私のアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がしたので……同時に……
……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程度のシロモノに過ぎないのであろう。……現在の私が直面しているドグラ・マグラだけでも沢山なのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この上にヘンテコな気持にでもなっては大変だ。……こんな話は最早もはや、これっきり忘れてしまうに限る……。
 ……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。そうして戸棚の出外ではずれの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べて在る写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めて行った。それは……
――精神病者の発病前後に於ける表情の比較写真――――同じく発病前後に於ける食物と排泄物の分析比較表―― といったような珍らしい研究に属するものから……
――幻覚錯覚に基く絵画――――ヒステリー婦人の痙攣けいれん、発作が現わす怪姿態、写真各種――――各種の精神病に於ける患者の扮装、仮装写真、種類別―― なぞいう、痛々しい種類のもの等々であったが、そんなものが三方の壁から、戸棚の横腹まで、一面に、ゴチャゴチャと貼りぜてある光景は、一種特別のグロテスクな展覧会を見るようであった。又その先に並んだ数層の硝子戸棚の中に陳列して在るものは……
――並外れて巨大な脳髄と、小さな脳髄と、普通の脳髄との比較(巨大な方は普通の分の二倍、小さい方の三倍ぐらいの容積。いずれもフォルマリン漬)――――色情狂、殺人狂、中風患者、一寸法師等々々の精神異状者の脳髄のフォルマリン漬(いずれも肥大、萎縮、出血、又は黴毒ばいどくに犯された個所の明瞭なもの)――――精神病で滅亡した家の宝物になっていた応挙おうきょ筆の幽霊画像――――ぐとその家の主人が発狂するという村正むらまさの短刀――――精神病者が人魚の骨と信じて売り歩いていた鯨骨の数片――――同じく精神病者が一家を毒殺する目的の下にせんじていた金銀の黒猫の頭――――同じく精神病者が自分で斬り棄てた左手の五指と、それに使用した藁切庖丁わらきりほうちょう――――寝台から逆様さかさまに飛降りて自殺した患者の亀裂した頭蓋骨――――女房に擬して愛撫した枕と毛布製の人形――――手品を使うと称して、嚥下のみくだした真鍮煙管しんちゅうきせる――――素手すでで引裂いた錻力板ブリキいた――――女患者が捻じ曲げた檻房の鉄柵―― ……といったようなモノスゴイ品物が、やはり狂人の作った優美な、精巧な編物や、造花や、刺繍ししゅうなぞと一緒に押し合いへし合い並んでいるのであった。
 私は、そんな物の中で、どれが自分に関係の在るものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いて行った。こんな飛んでもないものの中の、どれか一つでも、私に関係の在るものだったらどうしようと、心配しいしいのぞきまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つも無いようであった。かえって、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシと私の神経に迫って来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。
 私はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものに囚われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大卓子テーブルの片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。又もニジミ出して来る額の生汗なまあせをハンカチで拭いた。そうして急に靴のかかとで半回転をして西の方に背中を向けた。
 ……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子テーブル越しに、私の真正面まですべって来てピッタリと停止した。さながらにその額面と向い合うべく、私が運命附けられていたかのように……。
 私は前こごみになっていた身体からだをグッと引き伸ばした。そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に見惚みとれた。

 その図は、西洋の火焙ひあぶりか何かの光景らしかった。
 三本並んだ太い生木なまきの柱の中央に、白髪、白髯はくぜんの神々しい老人が、高々とくくり付けられている。その右に、せこけた蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに丸裸体まるはだかのまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。
 そのむごたらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の輿こしに乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた眷族けんぞくや、臣下らしいものに取巻かれつつも如何いかにも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きなてのひらで小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。
 又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の頭巾ずきんを冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、撞木杖しゅもくづえを突いて立ちとどまっているが、如何にも手柄顔に火刑柱ひあぶりばしらの三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、まばらな歯を一パイに剥き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
 私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者にかれたものとして、片端かたっぱしからき殺している光景を描きあらわしたもので、中央にりまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼卜筮者うらないしゃであった巫女婆みこばばあです。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳河やながわ骨董店こっとうてんから買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、むしろ徹底した治療法というべきでしょう」
 私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。
 そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さがこもっていたので……。私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。
「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」
 すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。
「……いや……必ずしもそうでないのです。或はと思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
 私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
 それは額の禿げ上った、胡麻塩髯ごましおひげを長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面にたたえている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。
「この写真はどなたですか」
 若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、いちじるしく柔らいだように見えた。何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」
 そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な歎息ためいきをしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。
「……やっとお眼に止まりましたね」
「……エッ……」
 と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。
「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」
 こう云われると同時に私はハッと気が付いた。この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。
 けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち俛首うなだれながら若林博士の言葉に耳を傾けた。
「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人焚殺ふんさつの絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」
 と私は独言ひとりごとのようにつぶやいた。又も底知れぬ恐怖にとらわれつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行われております。遺憾なく昔の通りに行われております。否。き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。今日只今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
 と云いさして私は言葉をみ込んだ。あんまり非道ひどい云い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。
「あんまりではありませぬ。儼然げんぜんたる事実に相違ないのです。その事実は追々おいおいと、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説をてられる事になったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、申分もうしぶんなく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」
 私は又も呆然となった。いた口がふさがらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁にとらわれつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。
「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」
「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」
「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」
「……二十年……」
 こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、咽喉のどの奥に引返した。その正木博士の二十年間の苦心が、そのまま私の頸筋くびに捲き付いて来るような気がしたので……。
 すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。
「そうです。正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」
「……まだ生れない僕のために……」
「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されましたのちに……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。その上で前後の事実を照合てらしあわされましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、御首肯ごしゅこう出来る事と信じます。……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」
 若林博士は、こう説明しつつ大卓子テーブルの前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。私はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰をおろすには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、唾液つばを呑込み呑込みしているばかりであった。
 その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向側の大きな廻転椅子の上に座った。最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、あらわに細長く折れ曲っている間へ、長い頸部くびと、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけがもとの通りの大きさでわっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大蜘蛛ぐもが、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を餌食えさにすべく、モーニングコートを着てい出して来たような感じに変ってしまったのであった。
 私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に居住居いずまいを正した。するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子の真中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッとごみを払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。
「……ところでその正木先生が、生涯をして完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますについては、誠に恐縮で御座いますが、かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったので御座います。しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通っているので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いませんでした。取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、すこぶる呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく他人ひとに貸してやったりしておられたものでした。そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べてわったりしておられたような事でした。……もっともこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。……『狂人解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計劃的な仕事であった。……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに驚目駭心きょうもくがいしんさせられているような次第で御座います。いずれに致しても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。
 ……と申しますのは斯様かような次第で御座います。元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学な方で御座いましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っている位であります。かつて、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があります。
「近頃当大学の学生や、諸先生が、よく花柳かりゅうちまたに出入したり、賭博にふけったりされる噂が、新聞でタタカレているようであるが、これは決して問題にするには当らないと思う。そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札をもてあそぶことでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。これは日本の学界の一大弊害と思う」
 と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端をうかがうのに十分で御座いましょう。
 ……しかし先生が当大学に奉職をされました当初のうちは、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、唯一人の精神病の専攻家として、助教授格で、僅かな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。いつもお気に入りの正木先生と、その頃から御指導を仰いでおりました私との二人をつかまえては、現代の唯物科学万能主義を罵倒したり、国体の将来を憂えたりしておられたものですが、そのような場合に私はどのような受け答えを致してよいのか解らなかったにも拘わらず、正木先生はいつも奇想天外式な逆襲をして、斎藤先生を閉口させておられたもので……その中でも特に私の記憶に残っておりますのはかような言葉で御座いました。
「……ソ――ラ、又、先生一流の愚痴の紋切型が初まった。安月給取りの蓄音器じゃあるまいし、もうソロソロ蝋管ろうかんを取り換えちゃどうです。今の人間は、みんな西洋崇拝で、一人残らず唯物科学の中毒にかかっているのですから、先生の愚痴を注射した位ではナカナカ癒りませんよ。……まあまあ、そんなにヤキモキなさらずに、今から二十年ほど待っていらっしゃい。二十年経つうちには、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者が現われるかも知れないのです。……そうするとその患者は、自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録、発表して全世界の学者を驚倒させると同時に、今日まで人類が総がかりで作り上げて来た宗教、道徳、芸術、法律、科学なぞいうものは勿論のこと、自然主義、虚無主義、無政府主義、その他のアラユル唯物的な文化思想を粉微塵こなみじんに踏み潰して、その代りに人間の魂をドン底まで赤裸々に解放した、痛快この上なしの精神文化をこの地上にタタキ出すべく、そのキチガイが騒ぎ初めるのです。……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功したあかつきには、先生のお望み通りに精神科学が、この地上に於ける最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を継子ままこ扱いにする学校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして、精々せいぜい長生をして待っていらっしゃい。学者に停年はありませんからね」
 といったような事だったと記憶しておりますが、これには流石さすがの斎藤先生もあきれておられましたようで……一緒に聞いておりました私も、少なからず驚かされた事でした。第一、こんな予言者めいた事を、正木先生が果して本気で云っておられるのか、どうかすら判然致しませんでしたので……正木先生がこの時、既に、自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚ろかそうと計劃しておられた……なぞいうような事が、その時代にどうして想像出来ましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もない事を云って人を驚かされる事は、その頃から決して珍らしい事ではありませんでしたので、斎藤先生も私も、この事に就いては格別に不審を起した事もなく、深く突込んで質問した事なぞもありませんでした。
 ……ところが間もなく、斯様かような斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と相俟あいまって、当時の大学部内に、異常な波瀾を捲き起す機会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに、たんを発したので御座いました」
「……胎児……胎児が夢を見るのですか」
 と私は突然に頓狂な声を出した。それ程に胎児の夢という言葉が、異様な響きを私の耳に与えたのであった……が……しかし若林博士は矢張やはりチットモ驚かなかった。私が驚くのが如何にも当然という風にうなずいた。手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。
「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、追付おっつけお眼に触れる事と存じますが、単にその標題を見ましただけでも尋常一様の論文でない事がわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日までその正体が判然わかっておりませぬのに、して今から二十年も昔にさかのぼった……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様な標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でない事は、ねてから定評がありましたので、この論文の標題は忽ち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼をみはらぬ者はないくらいで御座いました。
 ……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無論、その頃まで学術用語と称せられていた独逸ドイツ語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言まじりで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に、人を愚弄ぐろうしているかの如く見えましたので、流石さすがに当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰らわされてしまいました。その中でも八釜やかまし屋をもって鳴る某教授の如きは憤激の余りに……
「……こんな不真面目な論文を吾々に読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文銓衡せんこうの神聖をけがす者は、この正木という青二才にほかならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい」
 と敦圉いきまいているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。
 ……斯様かような事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、愈々いよいよ当日となりますと果して各教授とも略々ほぼ、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になりました。するとその時に、当時の最年少者として席末に控えておられました斎藤先生が、突然に立上られまして、今でも評判に残っておりますほどの有名な反対意見を吐かれました。
「……暫く待って頂きたい。席末から甚だ僭越と思うけれども、学術のためには止むを得ないと思うから敢えて発言するのであるが、私は諸君と全然正反対の意見を、この論文に対して持っている者である。その理由を次に述べる。
 ……第一にこの論文を批難する諸君は、文章がたいを成しておらぬ。規定に合っていない。……と主張されているようであるが、これは殆んど議論にならない議論で、特に弁護の必要はないと思う。ただ学術論文というものは『どうぞ卒業させて下さい』とか『博士にして下さい』とかいって御役所に差出す願書なぞとは全然、性質の違ったものである。規定された書式とか、文体とかいうものはどこにもない……という一言を添えておけば十分であると思う。
 ……次にはこの論文の内容であるが、これもまた、諸君が攻撃されるような不真面目なものでは絶対にないのである。この論文の価値が認められないのは、現代の医学者が、余りに唯物的な肉体の研究にのみとらわれて、人間の精神というものを科学的に観察する学術……すなわち精神科学に対する知識が欠けているからである。この論文に発表されているような根本的な精神、もしくは生命、もしくは遺伝の研究方法を発見すべく、全世界の精神科学者が、如何に焦慮し、苦心しているかという事実を諸君が御存じない。そのためにこの論文の真価値が理解されないものである事を、私は専門の名誉にかけて主張する者である。
 ……すなわちこの論文は、人間が、母の胎内に居る十箇月の間に一つの想像を超絶した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの『万有進化の実況』とも題すべき数億年、乃至ないし数十億年の長時間にわたる連続活動写真のようなもので、既に化石となっている有史以前の異様奇怪を極めた動植物や、又は、そんな動植物を惨死滅亡させた天変地妖の、形容を絶する偉観、壮観までも、一違わぬ実感を以て、さながらに描きあらわすのみならず、引続いては、その天変地妖の中から生み出された原始人類、すなわち胎児自身の遠い先祖たちから、現在の両親に到る迄の代々の人間が、その深刻な生存競争のためにどのような悪業を積み重ねて来たか。どんなに残忍非道な所業を繰返しつつ、他人の耳目をくらまして来たか……そうしてそのような因果に因果を重ねた心理状態を、ドンナ風にして胎児自身に遺伝して来たかというような事実を、胎児自身の直接の主観として、詳細、明白に描きあらわすところの、驚駭きょうがいと、戦慄とを極めた大悪夢である事が、人間の肉体、および、精神の解剖的観察によって、直接、間接に推定され得る……と主張している。ただし、それは胎児自身が記録した事実でもなければ、大人の記録に残っている事でもないので、いわば一つの推測に過ぎない。だから学術上の価値は認められない。卒業論文としての点数もゼロである……という事に諸君の御意見は一致しているようである。
 ……これは一応、御尤ごもっとも千万のように聞こえるが……しかし……私は失礼ながら、ここで一つ諸君にお尋ねしたい事がある。それは諸君が中学時代に於て、必ず一度は眼を通されたであろう『世界歴史』というものを諸君はドウ思って読んで来られたかという事である。……そもそも世界歴史というものは、人類生活の過去に属する部分の記録で、これを個人にとってみると、自分自身の過去の経歴に関する記憶と同様のものである……くらいの事は、今更、諸君の前で説明するさえ失礼な位に、わかり切った事であろう。いやしくも過去を持たない人間でない限り、否定し得ないところであろう。
 ……ところでもしそうとすれば、その歴史的の記録が残っていない、所謂いわゆる、有史以前の人類が、その宗教に、その芸術に、その社会組織に、如何なる夢を描きあらわしておったか。如何なる夢を見つつ自分達の歴史を記録し得るまでに進化して来たかという事を、現在の世界に残っている各種の遺跡に照し合わせて推測するところの学術……たとえば文化人類学、先史考古学、原始考古学なぞいう学問は学術上無価値のものといえようか。科学的の研究でないといえようか。……いわんや人類出現以前の地球の生活として記録されている地質の変遷や、古生物の盛衰興亡は、誰が見て来て、誰が記録しておいたものであろうか。現在の地球表面上に残る各種の遺跡によって、そんな事実を推定して行く地質学者や、古生物学者は皆、想像のみを事とするお伽話とぎばなしの作者といえようか。科学者でないといえようか。
 ……すなわち、この論文『胎児の夢』の一篇は、吾々の頭脳の記録に残っていない、みごもり時代の吾々の夢の内容を、吾々成人の肉体、および、精神の到る処に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も嶄新ざんしんな学術の芽生えでなければならぬ。最尖鋭、徹底した空前の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明の如きは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも、明け暮れ翹望ぎょうぼうし、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含している事が明らかに認められるので、本篇の主題たる『胎児の夢』の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分科して来たならば、恐らく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われる位である。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進むべき大道を切り開いているものである事を、私は特に、今一度、私の専門の立場から、強く裏書きしておく者である。
 ……私は確信する、この『胎児の夢』の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、所謂、博士論文なぞとは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な科学的価値を有する発表である。無論、今期、当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術が如何にして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初に於て、如何に空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ」
 ……云々といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。
 ……ところで斎藤先生の斯様かような主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのは無論の事でありました。斎藤先生はたちまちのうちに満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、該博がいはく深遠なる議論を以て、一々相手の攻撃を逆襲、粉砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きませぬ。何をいうにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の論争なのですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の銓衡せんこうを全部、翌日に廻わして、ラムプをけて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、のちに名総長とうたわれました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてその翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるる事になったのであります。
 ……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜おんしの銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか行衛ゆくえ不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行衛不明……どうしてでしょう」
 私が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしらフッと口をつぐんだ。あたかも何かしら重大な事を言い出す前のように、私の顔を凝視していたが、やがて、又、今までよりも一層慎しやかに口をひらいた。
「正木先生が何故なにゆえに、かかる光栄ある機会を前にして、行衛不明になられたかという真個ほんとの原因に就ては今日まで、何人なんぴとも考え及んだ者が在るまいと思います。無論、私にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑をれないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行衛をくらまされたものではないかと考えられるので御座います」
「……胎児の夢の主人公……胎児におびやかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方がよろしいと思いますが」
 と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙攣ひきつらせながら、依然として謹厳な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは、お解りにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれ貴方が、御自身の過去の記憶を、残りなく回復されました暁には、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が何人なんぴとであるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになる事と存じますから、その時の御参考のために、特にこの際御注意を促しておきます次第で御座います。……ところで、て、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のままで終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許に、正木先生からの書信が参りましたが、その中には斯様かような意味の抱負が述べてありましたそうです。
 ――自分は胎児の夢の一篇を理解してくれる人間が、現代の科学界に存在していようとは思わなかった。恐らく、そんな人間は一人も居ないであろう事を確信しつつ、落第を覚悟して提出したものであったが、意外千万にも、それが学部長閣下と、斎藤先生に推薦されたという事を聞いて、長嘆これを久しうした。あの論文の価値が、こんなに易々やすやすと看破されるようでは、まだまだ私の研究が浅薄であったに違いない。こんな事では吾が福岡大学の名誉を不朽に伝える事は出来ないと思った。
――私は閣下と斎藤先生に合わせる面目がないから姿を隠す。恩賜の時計は御迷惑ながら、当分お手許に御保管願いたい。この次にはキット、何人なんぴとにも理解されないほどの大研究を遂げて、この御恩報じをするつもりであるから――
 云々というのでした。盛山学部長はこの手紙を斎藤先生に見せて「どこまでも人を喰った男だ」と云って大笑いをされたという事ですが……。
 ……ところで正木先生は、それから丸八年の間、欧洲各地を巡遊して、墺、独、仏、三箇国の名誉ある学位を取られたのですが、そのうちに大正四年になって、コッソリと帰朝されますと、今度は宿所やどを定めずに漂浪生活を初められました。全国各地の精神病院を訪問したり、各地方の精神病者の血統に関する伝記、伝説、記録、系図等を探って、研究材料を集められる傍ら『キチガイ地獄外道祭文げどうさいもん』と題する小冊子を、一般民衆に配布して廻られたのです」
「……キチガイ地獄……外道祭文……それはドンナ事が書いてあるのですか」
「……その内容は只今お眼にかけますが、やはり前の胎児の夢と同様、未だ曾て発表された事のない恐ろしい事実が書いてあるので御座います。要約つづめて申しますと、その祭文の中には、前にもちょっと申しました現代社会に於ける精神病者虐待の実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の内幕ないまくが曝露してありますので……言葉を換えて申しますれば、現代文化の裏面に横たわる戦慄すべき『狂人の暗黒時代』の内容を俗謡化した一種の建白書、もしくは宣言書とでも申しましょうか。正木先生はこれを政府当局、その他、各官衙かんがや学校へあまねく配布されたばかりでなく、自分自身で木魚をたたいて、その祭文歌を唄いながら、その祭文歌を印刷したパンフレットを民衆に頒布はんぷしてわられたのです」
「……自分自身で……木魚をたたいて……」
「さようさよう……ずいぶん常軌を逸したお話ですが、しかし正木先生にとっては、それが極めて真剣なお仕事だったらしいのです……のみならず正木先生のそうした御事業に就いては、恩師の斎藤先生も、かげひなたに正木先生と連絡を取って、御自分の地位と名誉を投げ出す覚悟で声援をしておられた形跡があります。しかし、遺憾ながらその祭文歌の内容が、あまりに露骨な事実の摘発で、考えように依っては非常識なものに見えましたためか、真剣になって共鳴する者が無かったらしく、とうとう世間から黙殺されてしまいましたのは返す返すもお気の毒な次第で御座いました。……もっとも、その祭文歌の中に摘発してあります精神病院の精神病者に対する虐待の事実なぞが、一般社会に重大視される事になりますと、現代の精神病院は一つ残らず破毀はきされて、世界中に精神異状者の氾濫が起るかも知れない事実が想像され得るのでありますが、しかし正木先生は、左様な結果なぞは少しも問題にしてはおられなかったようで、唯、将来御自分の手で開設されるであろう『狂人解放治療』の実験に対する準備事業の一つとして、斯様かような宣伝をされたものと考えられるので御座います」
「それじゃり……」
 と云いさした私は、思わずドキンとして座り直さずにはおられなかった。そうして唾液つばみ込み嚥み込みつぶやいた。
「それじゃ……やっぱり……僕を実験にかける準備……」
「さようさよう……」
 と若林博士は猶予もなく引取ってうなずいた。
「前にも申しました通り、正木先生の頭脳は、吾々の測り知り得る範囲を遥かに超越しているのでありますが、しかし、正木博士のそうした突飛とっぴな、大袈裟おおげさな行動の中に、解放治療の開設に関する何等かの準備的な御苦心が含まれている事は、いなまれない事実と考えられます。これからお話致します正木先生の変幻出没的な御行動の一つ一つにも皆、そうした意味が含まれておりますようで、言葉を換えて申しますと、正木先生の後半の御生涯は、その一挙手一投足までも、貴方を中心として動いておられたものとしか考えられないので御座います」
 若林博士はコンナ風に云いまわしつつ、その青冷めたい、力ない視線をフッと私の顔に向けた。そうして私がモウ一度座り直さずにはおられなくなるまで、私の顔を凝視していたが、そのうちに私が身動きは愚か、返事の言葉すら出なくなっている様子を見ると、又、気をかえるようにハンカチを取出して、小さな咳払せきばらいをしつつ、スラスラと話を進めた。
「……しかるに去る大正十三年の三月の末の事で御座います。忘れもしませぬ二十六日の午後一時頃の事でした。卒業されてから十八年の長い間、全く消息を絶っておられた正木先生が、思いがけなく当大学、法医学部の私の居室へやをノックされましたのには、流石さすがの私もビックリ致しました。まるで幽霊にでも出会ったような気持ちで、何はともあれ無事を祝し合った訳でしたが、それにしても、どうしてコンナに突然に帰って来られたのかとお尋ねしますと、正木先生は昔にかわらぬ磊落らいらくな態度で、頭を掻き掻きこんなお話をされました。
「イヤ。その事だよ。実は面目ない話だがね。二三週間ぜん門司もじ駅の改札口で、今まで持っていた金側きんがわ時計を掏摸すりにしてられてしまったのだ。モバド会社の特製で時価千円位のモノだったが惜しい事をしたよ。そこでヒョイッと思い出して、十八年前にお預けにしておいた銀時計がもし在るならばと思って貰いに来た訳だがね。……ところでそのついでに、何か一つ諸君をアッといわせるような手土産をと思ったが、格別かんばしいものも思い当らないので、そのまま門司の伊勢源いせげん旅館の二階に滞在して、詰らない論文みたようなものを全速力で書き上げて来た。そこでまずこれを新総長にお眼にかけようと思って、斎藤先生に紹介してもらいに行ったら、それはこっちから紹介してもいいが、役目柄、学部長の若林君の手を経て提出した方がよかろうと云われたから、こっちへ担ぎ込んで来た訳だ。面倒だろうがどうか一つ宜しく頼む」
 というお話です。そこで……申すまでもなく保管してありました時計は、すぐに下附される事になりましたが、その時に正木博士が提出されました論文こそ、ダーウィンの『種の起源』や、アインスタインの『相対性原理』と同様……否、それ以上に世界の学界を震駭しんがいさせるであろうと斎藤先生が予言されました『脳髄論』であったのです」
「……脳髄論……」
「さよう。脳髄論と名づくる三万字ばかりの論文でしたが、その内容は、最前お話いたしました『胎児の夢』とは正反対に、厳粛、荘重を極めたもので、意味の取り違えを防ぐために、独逸ドイツ語と、羅甸ラテン語の二種類で書かれておりますが、これを文献も何も無い宿屋の二階で僅々きんきん二三週間の間に書き上げられた正木先生の頭脳と、精力からして既に非凡以上と申さねばなりますまい。……しかも正木先生はこの論文によって、今日まで何人なんぴとも説明し得ず、立証も実験もし得なかった脳髄の不可思議な機能を鏡にかけて見るように明白にされたのです。そうして同時に今日まで、精神病学界の疑問とされておった幾多の奇怪現象を、極めて簡明直截に説明してしまわれたのです。……ですから専門の関係上、この論文を一番最初に見られた斎藤先生は、無論、非常に驚かれまして、それから約一年ばかりの間寝食を忘れてこの論文を研究されたのですが、やっと昨年……大正十四年の二月の末に、と通りの審査、考究を終られますと、その翌日の早朝に、現、松原総長を自宅に訪問されまして、
「……私は今日限り、九大精神病科の教授の椅子を引退しまして、後任に正木君を推薦致したいと思います。もし他の大学に同君を取られるようなことがありますと、この大学の恥辱になると思いますから……」
 と暗涙を浮めて懇願されました。しかし正木先生はそれっきり宿所も告げずに、又も行衛ゆくえくらましてしまわれた折柄ですし、殊に斎藤先生の御人格に今更に深く敬服しました現、松原総長は、き込んでおられる斎藤先生を押しなだめて、留任を希望する一方に、この論文を学位論文として、正木先生に学位を授くる事に内定した……という事が、やはり学界の美談として伝えられております。もっともこの事は、誰かの口から洩れたと見えまして、新聞に掲載されたそうですが……私はツイ、うっかりしてその記事を見ませんでしたけれども……」
 若林博士はここまで物語って来ると、その時の思い出に打たれたらしく、いかにも感動したようにヒッソリと眼を閉じた。私も敬慕の念に満たされつつ斎藤博士の肖像を仰いだが、そう思って見たせいか、神様のような気高い姿に見えたので、思わず軽いため息をさせられながらつぶやいた。
「それじゃこの斎藤先生は、正木先生に後を譲るために、お亡くなりになったようなものですね」
 若林博士は、こういった私の質問が耳に這入ると一層深く感動したらしく、眼を閉じたままの眉の間のしわが一層深くなった。そうして今にも咳が飛出しそうな長い、太い溜息をいたが、やがて静かに眼を開くと、その青白い視線を、私の視線と意味あり気に合わせつつ、すこしばかり語気を強めた。
「その通りです。あの斎藤先生は、正木先生が学位を受けられてから間もない、昨年……大正十四年の十月十九日に、突然に亡くなられたのです。しかも変死をされたのです」
「……エ……変死……」
 と私は空虚うつろな声を出した。話の模様があんまり唐突とっぴに変化したのに面喰いながら若林博士の蒼白い顔と、額縁の中の斎藤博士の微笑とをかわる交る見比べた。そんなにまで人格の高い立派な人が、何で変死なんかしたんだろうと疑いながら……。
 しかし若林博士は、そうした私の疑いを押し付けるかのように静かに私の顔を見据えた。又もすこしばかり語気を強めた。
「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。斎藤先生は昨、大正十四年の十月十八日……すなわち変死される前の日の午後五時頃に、平生いつもの通り仕事を片附けて、医局の連中に二三の用務を頼んで、この部屋を出られたのですが、それっきり筥崎はこざき網屋町あみやちょうの自宅には帰られませんでした。そうしてそのあくる朝早く、筥崎水族館裏手の海岸に溺死体となって浮き上っておられたのです。発見者は水族館の掃除女でしたが、急報によって警察当局や、私共が駈け付けまして調査致しました結果、多量に飲酒しておられた事が判明致しましたので、多分、自宅へお帰りになる途中で、誰か極めて懇意な人に出会って、久方振りに脱線された結果、帰り道を間違えて、あすこの石垣の上から落ちられたものであろう……という事になっております。……もっともあの辺は、行って御覧になればわかりますが、街外れ特有の一面の塵芥捨場ごみすてばと、草原くさはらと、畠続きの大学裏で、よほどの泥酔者でなければ迷い込む気づかいの無い処です。……ですから、むろん他殺の疑いも充分にかけて、所持品等も遺憾なく調査してみましたが、紛失したものは一つも在りませんでした。……又、遺族の方々や、友人たちのお話を綜合してみますと、斎藤先生が外で酒杯さかずきを手にされるのは、学内でも極めて懇意な、気心のわかった連中から誘われた場合に限っているので、そうした相手の顔は一人残らず判明している位である。それ以外にタッタ一人でお酒を飲まれるのは自宅の晩酌以外に絶対に無いと云ってもいい。……のみならず、そんな風に外で深酔いをされた場合には、いつでも誰か、お相手の中の一人が、自宅まで送り付けて来るのが慣例のようになっているので、今度ばかりは全く不思議な例外としか考えられない……といったようなお話もありましたので、その意味でも色々な場合を想像して、充分に研究を遂げてみましたが、何しろ先生が海に落ちておられた附近は千代町ちよまち方向から長く続いた防波堤になっておりますので、どこからどんな風に歩いて来られて、どこで踏外ふみはずして海へ落ちられたものか、足跡一つ発見出来ませぬ。同伴者の在る無しは勿論のこと、仮りに他殺としましても犯人の手がかりが全然掴めないのです……。
 ……一方に、只今お話し致しましたような斎藤先生の御人格から考えましても、他人のうらみを受けられるような事は、まず無いとしか考えられませぬので、結局、やはり過失であろうという事になってしまいました。斎藤先生は滅多に酒を用いられぬ代りに、酔うと前後を忘れられるのが唯一つの欠点であったのですが、実に惜しい人を死なしたものです」
「……その一緒にお酒を飲んだ人は、まだ判明わからないのですか」
「……左様……今だに判明致しませぬが、これは余程デリケートな良心を持った人でなければ、名乗って出られますまい」
「……でも……でも……名乗って出ないと一生涯、息苦しい思いをしなければならないでしょう」
「近頃の人達の常識から申しますと、そんなにまで良心的に物事を考える必要がないらしいのです。……たとい名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の下から蘇生して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけの事に過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味になる……といったような考え方をしているのじゃないでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」
「……でも卑怯じゃないですか。それは……」
「……申すまでもない事です」
「……第一、忘れられる事でしょうか……そんな事が……」
「……さあ……そのような問題は、故、正木先生の所謂いわゆる『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」
「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」
「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに呆気あっけないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、誠に大きな意味を含む事になったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当、九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に座られる直接の因縁となり、更に、貴方と、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここでは仮りに因縁と申しておきましょう。しかしこの因縁が、果して人為のものか、それとも天意にでたものであるかは、やはり貴方が御自身の過去の御記憶を回復されましたのちでないと、確定的な推測が出来ませぬので……」
「アッ……そ……そんな事まで、僕の記憶の中に……」
「そうです。貴方の過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な、大切な鍵までも含まれているのです」
 私は次から次に落ちかかって来る疑問の氷塊ひょうかいに、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた。けれどもそこからは、何等の記憶も湧き出して来なかった。ただ、それに連れて眼の前に惨酷むごたらしい『狂人焚殺ふんさつ』の絵額や、ニコニコしている斎藤博士の肖像や、蒼白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大卓子テーブルや、その上に欠伸あくびをし続けている赤い達磨だるまの灰落しまでもが、一つ一つに私の過去と、深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
 私は一寸ちょっとの間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行衛不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それは斯様かよう仔細わけです」
 と云ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄然ひょうぜんと参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後でつかまえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったのですが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が取次とりついだのですから、誰一人として総長の斯様かようり方を、異様に思う者はありませんでした。かえって感激の拍手を以て迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、このかんの消息が詳しく素破抜すっぱぬいてありますが、その時に正木先生は、見窶みすぼらしい紋付もんつきはかまの姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えて、こんな不平を云われたものです。
「弱ったなあ。僕はく迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……」
 としょげ返って云われましたが、これを聞いた松原総長が……
「……今更、文句を云われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい」
 と云われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。
 ……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文さいもんの中で唄っておられた『狂人の解放治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に喚起される事になったのです。同時にその実験を初められた事が機縁となりまして正木先生御自身と、貴方と、あの六号室の令嬢との、最近の運命的な御関係を結ばれる事にもなりましたのです。これも矢張やっぱり天意と申せば申されましょうが、……しかしいずれに致しましても斯様かように偉大な正木先生を、当大学に迎えて、思う存分に仕事をさせられたのは、やはり故斎藤先生の御遺徳に相違御座いません。正木先生もそのような意味からして、この肖像をここに掲げられたものに相違ないと考えられるのですが……」
 私は又も深く歎息して斎藤博士の肖像を仰がずにはいられなかった。これ程の人格者、斎藤博士と、これ程の偉人正木博士と、眼の前の若林博士と、あの六号室の美少女と、そうして白痴同様の私とを一つに繋ぎ合わせているという因縁の糸の不可思議さを考えずにはおられなかった。
 或る感銘深い静寂が、少時しばらくの間、部屋の中を流れた。けれども、それは間もなく、私が何の気もなく発した質問で破られた。
「……あッ……大正十五年の十月十九日……あの斎藤先生の写真の下に懸かっているカレンダーの日附は、斎藤先生が亡くなられてから、ちょうど丸一年目の日附ですね」
 私がこう云って振り返った……その瞬間に変化した若林博士の表情の恐ろしかった事……それは、ほんの一瞬間ではあったが……大きな、白い唇をピッタリと閉じて、あごをグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイにき出して私をにらみ付けた。しかも、それが余りに突然であったために、私も思わず若林博士と同じ表情になって、睨み合ったような気がしたのであったが、そのうちに若林博士は次第に落付いて来たらしく、今度は如何にも満足にえないという風にひたいを輝やかして、幾度も幾度もうなずいた。
「……よくあれにお気が付かれましたね。あなたの過去の御記憶は、いよいよ鋭く眼ざめて参ります。もはや皮一重というところまで御回復になっておりますようで……。実は只今の御質問が出ると同時に、今度こそ貴方の過去の御記憶が、一時に目醒めて来はしまいか……そうしたらドンナ風に御介抱申上げようかと、ちょっと心配致しました次第で……。何をお隠し申しましょう。あのカレンダーは、今から約一箇月前の日附を示しているので御座います。今日は大正十五年の十一月二十日ですから……」
「それが……どうして、そのまんまになっているのですか」
 若林博士はこの時に、又も荘重にうなずいた。最前、六号室の少女の前で示した、神に祈るような態度で、かがんだ胸をグッと伸ばしつつ、両手をシッカリと握り合わした。
「その御不審が又、あなたの過去に関する大きな謎を解く鍵の一つとなっているので御座います。つまり正木先生は、あのカレンダーをあそこまで破って来られますと、あとを破ることを止められたのです」
「……そ……それは又なぜ……」
「正木先生は、あの翌日亡くなられたのです……しかも、ちょうど一年前に、斎藤先生が溺死を遂げられた、筥崎水族館裏の同じ処で、投身自殺をされたのです」
 ……青天の霹靂へきれき……とでも形容しようか。何とも云いようのない奇妙な驚きに打たれた私は、この時、何かしら一種の叫び声をあげたように思う。そうして、やっと気を落付けた時には、譫言うわごとのように口を動かしていたように思う。
「……正木先生が……自殺……」
 その声が自分の耳に這入ると私は又、自分の耳を疑った。正木先生のような偉大な、達人ともいうべき人が自殺する……そんな事が果して在り得ようか。
 そればかりでない。この精神病科教室の主任教授となった人が二人とも、ちょうど一年おきに、しかも場所まで同じ海岸の潮水に陥って変死する……そんな恐ろしい暗合が、果して在り得るものであろうか……と驚き迷い、呆れつつ若林博士の蒼白い顔を凝視した。
 そうすると若林博士も今までになく、儼然げんぜんと姿勢を正して私を凝視し返した。又も、神様に祈るような敬虔な声を出した。
「……繰り返して申します。……正木先生は自殺されたのです。只今お話し致しましたような順序で二十年の長い間、準備に準備を重ねて、前代未聞の解放治療の大実験を向うにまわして悪戦苦闘して来られた正木先生は、ついに、その刀を打ち折り、その箭種やだね射尽いつくされたとでも申しましょうか……どうしても自殺されなければならぬ破目はめに陥って来られたのです。……と申しましただけでは、まだおわかりになりますまいから、今すこし具体的に申しますと、正木先生の独創にかかわ曠古こうこの精神科学の実験は、貴方とあの六号室の令嬢が、めいめいに御自分の過去の記憶を回復されまして、この病院を御退院になって、楽しい結婚生活に入られる事になって完成される手筈になっていたので御座いますが、それが或る思いもかけぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、果して正木先生の過失に属するものであったか、どうかというような事は誰一人、知っている者は居なかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一週忌、正命日に当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでも御座いましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を去られたのです。その実験の中心材料となられた貴方と、あの六号室の令嬢と、それ等に関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」
「……そ……それでは……」
 と云いさして私は口籠くちごもった。形容の出来ない昂奮に全身が青褪あおざめたように感じつつかろうじて唇を動かした。
「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪ったのでは……」
「……イヤ。違います。その正反対です」
 と若林博士は儼乎げんこたる口調で云い切った。依然として私を凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。
「その反対です。正木先生は、当然あなたから御自分の運命をのろわれるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された曠古こうこの大学理の実験と、貴方の御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計劃を立てて、その研究を進めて来られたのです」
 それは私にとって一層の恐怖と、戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。
「……それは……ドンナ手順……」
「それはここに在ります書類を御覧になれば、お解かりになります」
 と云ううちに若林博士は、今まで話片手はなしかたてに眼を通していた書類の綴込みをパタンと閉じて、うやうやしく私の前に押し進めた。
 私も、それが何かしら重要な書類の集積に違いない事を察していたので、同じように鄭重ていちょうな態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラと繰って内容をあらためてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判罫紙けいしや、新聞の切抜を貼り付けた羅紗紙らしゃがみの綴じたものと一緒に、カンバス張りのボール紙に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、私はモウ一度パタリと表紙を閉じて、卓子テーブルの上に置き直した。
 その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリと私の瞳の上に据えた。
「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類で御座います。すなわち、只今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究のうちでも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前から手許に引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に、自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容をうかがうのに必要な文献としましては、わずかにソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせて行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が、その研究を進めて行かれた順序通りに、容易たやすく、面白く理解されて行く仕掛になっているようで御座います。
 ……すなわち、その一番初めに綴込んであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到る処の大道で、人を集めて配布された『キチガイ地獄外道祭文げどうさいもん』と題しまする阿呆陀羅経あほだらきょうの歌で、現代に於ける精神病者虐待の実情を見て、これを救済すべく、精神病の研究を初められた、そのそもそもの動機が歌ってあるので御座います。
 ……それから次に羅紗紙らしゃがみの台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜記事で御座いますが、そのうちでも最初に『地球表面上は狂人の一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人救済の動機から、精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、辛辣しんらつ諧謔かいぎゃくまじりに、新聞記者へ説明されましたもので『この地球表面上に棲息している人間の一人として精神異状者でないものはない』という精神病理学の根本原理が、極めて痛快、卒直に論証してあります。……又……その次に『脳髄は物を考える処にあらず』云々と題してありますのは、そうした原理に立脚された正木先生が、今日まで研究不可能と目されていた『脳髄』の真実の機能をドン底まで明らかにされると同時に、従来の科学が絶対に解決出来なかった精神病その他に関する心霊界の奇怪現象を一つ残らず、やすやすと解決して行かれた大論文『脳髄論』の内容を、面白おかしく新聞記者に説明されたもので御座います。
 ……それからその下の方の日本罫紙の綴じたのに、毛筆で書いてありますのは、その『脳髄論』の逆定理とも見るべき『胎児の夢』の論文で御座います。つまり自分を生んだ両親の心理生活を初めとして、先祖代々の様々の習慣とか、心理の集積とかいうものが、どうして胎児自身に伝わって来たかという『心理遺伝』の内容が明示してありますので、当大学第一回の卒業論文の銓衡せんこうに一大センセーションを捲き起したのは実に、この一篇に外ならないので御座います。……同時に正木先生が、あれ程の偉材を抱きながら、遂に自決さるるの止むなきに立到りました遠い原因もまた、実にこの一篇の中に胚胎していると申しましょうか……その次に在ります西洋大判罫紙フールスカップの走り書きは、その正木先生がそれ等の研究に、最後の結論を附けるべく書き残されました『解放治療の実験の結果報告』とも見るべき正木先生の遺言書です……ですから貴方は、それ等の書類を、その順序に御覧になりさえすれば、正木先生が精神科学の大道を開拓すべく、生涯をして研究して行かれた痛快な事蹟が、たやすく、順序正しくおわかりになるで御座いましょう。同時に、あなた御自身の御経歴を、裏面から支配して、今日の御運命に立ち到らせた、曠古こうこの大学理の流動、旋転が、一々大光明を発して、万華鏡まんげきょうの如く華やかに、グルリグルリと廻転しつつ、あなたの眼の前に……」
 私は若林博士の説明を、ここいらまでしか記憶していない。そんな説明を聞きながらも、何気なく一番初めの赤い表紙の小冊子を開いて、第一ページの標題から眼を通して行くうちに、いつの間にか本文に釣り込まれて、無我夢中に読み続けていたので……


   キチガイ地獄外道祭文
――一名、狂人の暗黒時代――

墺国理学博士         
独国哲学博士 面黒楼万児めんくろうまんじ 作歌
仏国文学博士         

 ▼ああア――アア――あああ。右や左の御方様おんかたさまへ。旦那御新造ごしんぞ、紳士や淑女、お年寄がた、お若いお方。お立ち会い衆の皆さん諸君。トントその後は御無沙汰ばっかり。なぞと云うたらビックリなさる。なさる筈だよ三千世界が。出来ぬ前から御無沙汰続きじゃ。きょうが初めてこの道傍みちばたに。まかりでたるキチガイ坊主……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
……サアサ寄った寄った。寄ってみてくんなれ。聞いてもくんなれ。話の種だよ。お金は要らない。ホンマの無代償ただだよ。こちらへ寄ったり。押してはいけない。チャカポコチャカポコ……
……サッサ来た来た。来て見てビックリ……スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ……
 ▼ア――あ――。まかり出でたるキチガイ坊主じゃ。背丈せいが五尺と一寸そこらで。年の頃なら三十五六の。それが頭がクルクル坊主じゃ。眼玉落ち込み歯は総入歯で。せた肋骨あばらが洗濯板なる。着ている布子ぬのこが畑の案山子かかしよ。足に引きずる草履ぞうりと見たれば。泥で固めたカチカチ山だよ。まるで狸の泥舟どろぶねまがいじゃ。乞食まがいのケッタイ坊主が。流れ渡って来た国々の。風にさらされ天日てんぴに焼かれて。きょうもおんなじ青天井あおてんじょうだよ。道のほとりにかばんを拡げて。スカラカ、チャカポコ外聞晒す。いわく因縁、故事、来歴をば。たたく木魚に尋ねてみたら……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
 ▼ア――あ。曰く因縁、木魚に聞いたら。親子兄弟、親類眷族けんぞくかかあめかけももちろん持たない。タッタ一人のスカラカチャンだよ。うじ素性すじょうもスカラカ、チャカポコ。鞄一つが身上しんじょう一つじゃ。親は木の股キラクな風の。吹くに任かせた暢気のんきな身の上。流れ渡った世界の旅行たびじゃ。北京ペキン、ハルピン、ペテルスブルグじゃ。赤いモスコー、四角い伯林ベルリン、酔うがミュンヘン、歌うが維納ウインナ、躍る巴里パリーや居眠る倫敦ロンドン、海を渡れば自由の亜米利加アメリカ。女の市場がアノ紐育ニューヨークじゃ。桑港シスコ賭博ばくちよ。市俄古シカゴの酒よと。千鳥足まで米利堅メリケン気取りの。阿呆つくした十年がかりじゃ。見たり聞いたりして来た中でも。タッタ一つの土産みやげというのが。ナント恐ろし地獄の話じゃ……スカラカ、ポクポク。チャチャラカ、ポクポク……
 ▼あ――ア。さても恐ろし地獄の話じゃ。しかも私のへこんだこの眼で、チャンと見て来た事実の話じゃ。今日が封切、お金は要らない。要らぬばかりかその聞き賃には、こんな書物かきものを一冊上げます。私が只今唄うております。歌の文句の活版刷りです。あとで何やらマヤカシ物をば。無理に買わせる手段てだてじゃないかと。疑うお方があるかも知れぬが。ソンナ心配一切御無用。これは私の道楽仕事じゃ。人類文化の宣伝事業じゃ。何も参考、話の種だよ。サアサ寄ったり、聞いたり見たり……外道――ア――エ――もん。キチガ――ア――イ――ごくウ――……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……

       一

 ▼あ――ア。外道祭文キチガイ地獄。さても地獄をどこぞと問えば。娑婆しゃばというのがここいらあたりじゃ。ここで作った吾が身の因果が。やがて迎えに来るクル、クルリと。眼玉まわして乗る火の車じゃ。めぐりめぐって落ち行く先だよ。修羅や畜生、餓鬼道越えて。ドンと落ちたが地獄の姿じゃ。針の山から血の池地獄。大寒地獄に焦熱地獄。剣樹けんじゅ地獄や石斫いしきり地獄。火煩かぼん、熱湯、倒懸さかづり地獄と。数をつくした八万地獄じゃ。娑婆で作った因果のむくいで。切られ、砕かれ、あぶられ、煮られ。阿鼻あびや叫喚七転八倒。死ぬに死なれぬ無限の責め苦じゃ。もしもその声、聞いたら最後じゃ。頭張り裂けクタバルなんぞと。高いとこから和尚おしょうの談義じゃ。……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。高いとこから和尚のお談義。なれどコイツは当てにはならない。死なにゃ行かれぬ地獄の噂じゃ。生きた坊主の賽銭さいせん集めじゃ。釈迦しゃかも知らない嘘八百だよ。わしが見て来た地獄というのは。ソンナ地獄と品事しなことかわって。かねを叩かず、念仏唱えず。十万億土の汽車賃使わず。そんじょそこらに幾らもあります。生きたながらのこの世の地獄じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。生きたながらのこの世の地獄じゃ。それも貧乏暇なし地獄や。浮いた浮いたの川竹かわたけ地獄。義理と人情にんじょのカスガイ地獄。又は犯した悪事のむくいで。御用、ったぞ、キリキリ歩めと。タタキ込まれる有期や、無期の。地獄なんぞと大きな違いじゃ。そんな道理がミジンも通らぬ。息もかれず、日の目も見えぬ。広さ、深さもわからぬ地獄じゃ。そこの閻魔えんまは医学の博士で。学士連中が牛頭馬頭ごずめずどころじゃ。但し地獄で名物道具の。昔の罪科つみとが、見分けてぎ出す。見る眼、嗅ぐ鼻、閻魔の帳面。人の心を裏から裏まで。透かし見通す清浄玻璃せいじょうはりの。鏡なんぞは影さえ見えない。罪があろうが、又、無かろうが。本気、狂気の見分けも附けずに。滅多矢鱈めったやたらに追い込み蹴込むと。聞いただけでも身の毛が逆立よだつ。地獄というのがそこらに在ります。見かけは立派な精神病院。嘘というなら這入って見なされ。責め苦の数々お望み次第じゃ。ナント恐ろしキチガイ地獄……チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。ナント恐ろしキチガイ地獄じゃ。サテモ恐ろし精神病院。なぞと云うても皆様方には。まだまだ合点がてんが行きかねましょうが。物は順序じゃお聞きなされよ。聞いているうち如何いかにも、もっとも、そんな事とは知らずにいたわい。成る程そうかと合点が行きます。合点が行ったら八万四千の。身内の毛穴がゾクゾク粟立あわだつ。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ。さても斯様かような地獄の起りが。いわく因縁イロハのイの字の。そもや初めと尋ねるならば。文明開化のおかげと御座る。そこで世界の文明開化の。日進月歩の由来と申せば。科学知識のたっとい賜物たまもの。中に尊といお医者の仕事じゃ。人の病気を治癒なおすが役目じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。人の病気を治癒なおすが役目じゃ。そこでお医者の仕事の中でも。人の身体からだの狂いをなおす。外科や内科の治療の仕方と。人の心の狂いをなおす。精神病院の手当ての仕方と。違うところを比べてみます。アッとビックリ、シャクリが止まるよ。トテも驚く進歩の違いじゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。トテモ驚く進歩の違いじゃ。違う筈だよ相手が違う。人の身体からだは形が見えます。手足胴体触ればわかるよ。五臓六腑も解剖ひらけば見えます。打診、聴診、エッキス光線。ピルケ反応、血液検査と。数をつくした診察道具じゃ。たとい何やら解らぬ病気や。薬ちがいや診察ちがいや。又は手当ての違いで死んでも。あとで屍体したいを解剖したなら。どこが悪いと、すぐさまわかるよ。そこで診察治療の仕方が。日進月歩で開けて行きます。これに引き換え神様とても。人の心は診察出来ない……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。人の心は診察出来ない。たとい如何なる名医じゃとても。人の精神、心の狂いの。どこの脈見て、どの舌出させて。どこの苦労に注射をするやら。どこの心配切解せっかいするやら。かんの虫見る眼鏡も無ければ。あなた恋しで上った熱度が。寒暖計にも上った事かや。にせのキチガイ真実ほんとのキチガイ。レントゲンでも透かして見えない。声も聞えず姿も見えない。より不思議な心の正体。これがどうして診察されよか。馬鹿に附けよう薬は無いと。昔のたとえは今でも真実ほんまじゃ。つまるところが精神病は。診察治療が絶対不可能。科学知識で研究出来ない。わけのわからぬ物じゃとわかる……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。わけのわからぬ物じゃと解かると。ここでも一つ理屈のわからぬ。奇妙不思議な事実に気が付く。そもやソモソモ一体全体。人の精神、心の狂いは。診察、治療が出来ぬとなったら。現在世界のどこでもここでも。精神病院、神経治療じゃ。又は瘋癲ふうてん、脳病院じゃと。四角四面の看板ひろげて。意匠らした玄関構えじゃ。高価たかい診察、治療のしろだよ。入院、看護の料金取り立て。肩で風切る精神病医は。どんな仕事をしているものかや。あれは詐欺師やましか掴ませものかと。どなたも御不審なさるであろうが。チョット待ったり話は順序じゃ。世にも馬鹿げた内幕話じゃ。診察治療が出来ないお蔭で。お医者がステキにもうかる話じゃ。これがホンマの阿呆陀羅経あほだらきょうだよ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……

       二

スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア――ああア。さても昔のその又昔。むかし昔のその大昔。科学知識の進まぬ頃では。人の身体からだの病気というても。人の心の病気と同様。何が何やら解らぬために。診察治療が当てズッポーだよ。家相、方角、星占いだよ。んぞんぞのさわりというては。祈祷、禁厭まじない御神水おみずじゃ、お守札ふだじゃ。御符ごふうなんぞを頂戴させて。どうぞ、こうぞで済まして来たが。それじゃ治療なおらぬ病気の数々。そこで薬が発見されます。めば病気がケロリとよくなる。それをたよりに調べた揚句あげくが。人の病気は身体の中の。ここが斯様かように狂うが原因もとじゃと。わかった理屈が医学のはじまり。今では解剖、生理に病理。医化学、細菌、薬物そのほか。外科じゃ内科じゃ、皮膚科じゃ、耳鼻科じゃ。眼科、整形、婦人や小児と。隅から隅まで手に品かえて。水も洩らさぬ器械やお薬。人の身体の狂いを治療なおす。科学知識の大光明が。日々に明るく輝やき渡るよ……スカラカ、チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。日々に明るく輝やき渡るが。これに引き換え精神病だよ。人の心の狂いを治癒なおす。医者の診察、手当ての仕方は。ドンナ進歩をしたかと見ますと。ズント昔は精神病者を。神の心が移ったものと。おそれ敬い礼拝したり。又は生き霊、死霊の所業しわざと。物を供えて大切だいじにかけたが。それはまだしも処によっては。こいつに悪魔がいたというので。その頃お医者と裁判官の。役目をしていた僧侶ぼうず巫女みこが。見付け次第の指さし次第に。やり刀剣かたなや、投げ縄、弓矢。棍棒こんぼうかついだ役人共が。かたぱしから頭を砕いて。手足胴体チリチリバラバラ。焼いて棄てたり樹の根に埋めたり。ちょうどこの節おかみでなさる。狂犬退治とおんなじ仕置しおきじゃ。これが精神病者に対する。最初の診察最初の治療じゃ。キチガイ地獄のイロハのイの字じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。これがキチガイ地獄のはじまり。そこで斯様かように精神病の。原因もとが何やら解からぬとこから。出来た迷信邪法を使って。悪い事する奴等が出て来た。しかも余っぽど怜悧りこうな奴等じゃ。物のうらみや嫉妬や毛嫌い。又は政敵、商売讐仇がたきと。道理はずれた憎しみそねみで。彼奴きゃつが邪魔じゃと思うた揚句が。何のおぼえもない人間をば。巫女や坊主や役人ばらに。賄賂わいろ使うて引っくくらせます。有無うむを言わさずキチガイ扱い。国のおきての死刑にさせます。軽いところで牢屋の住居すまいじゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。軽いところで牢屋の住居じゃ。世界の歴史を調べてみますと。高い身分や爵位や名誉や。又は財産、領地の引継ぎ。女出入りや跡取り世取りの。お家騒動、内輪うちわめから。邪魔な相手を片付けたさに。こうした手段を使った実例ためしが。チラリチラリと残っております。ならば今では、どうかと見ますと。おなじ事じゃと云いたいなれども。言えぬどころか、今少もちっ非道ひどいよ……スカラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……

       三

……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あアア――ああ……アアア。今は文明開化の御代みよだよ。科学知識の万能時代じゃ。そうしたサナカに精神病だけ。昔のまんまの暗黒時代で。診察治療が出来ないなんぞと。ウッカリ云うたら言い出しコキじゃ。そういう奴こそキチガイだろうと。仰言おっしゃるお方が在るかも知れぬが。そういうお方が私は好きだよ。理智と常識、科学の知識を。いつも忘れぬ立派なお方じゃ。そんなお方にお頼みしまする。物は試しじゃお閑暇ひまの時分に。ちょっとそこらの精神病院。又は学校、図書館あたりで。世界各地の博士や学士が。寄ってたかって研究し出した。キチガイ病気の書物を拡げて。ザット中味を調べて御覧よ。サテモ並んだ病気の名前じゃ。丸い洋文字、四角い漢字と。押し合いヘシ合い何百何千。指を折るさえ難儀な位じゃ。さては今では精神病者も。外科や内科の患者と同様。科学知識の光りに照され。底を見透す診察治療や。道理つくした介抱手当ての。数をつくしてもらっているかと。有難がるのは素人ばかりじゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。有難がるのは素人ばっかり。憎まれ口をばたたくじゃないが。お魂消たまげなさるな西洋日本で。天の際涯はてから地のドン底まで。調べ抜いたる科学者連中が。寄ってたかって研究しても。カンジンカナメの一番大切だいじな。オノレが頭蓋あたま空洞うつろの中に。トグロ巻いてる脳味噌ばかりは。ドンナ作用しているものやら。真実ほんとのところが全くわからぬ。それを嘘言うそじゃと思うたお方は。古今東西あらゆる学者が。人の脳髄調べた書物を。読んで御覧になったらわかるよ。これは物事聞いたり見たり。判断して行くところで御座るの。知識、経験、昔の記憶を。保存しておく倉庫で御座るの。何が何して何じゃらじゃら。浪花節なにわぶしなら前置きばっかり。エライ議論が出ておりますけれど。確かな事実は一つもわからん……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。確かな事実は一つもわからぬ。わからぬ筈だよ不思議は御座らぬ。およそ天下が広いというても。人の脳髄ホントに調べて。腹の立つほど簡単明瞭。奇妙キテレツ珍妙無類な。脳の作用を見貫みぬいた者なら。問わず語りで烏滸おこがましいが。ここに居りますわたくしばっかり。……なぞと云うたら皆さん方は。そういうお前の脳味噌だけが。毎日天日てんぴに焼かれたお蔭で。しょうが変ってきたものダンベイ。なぞとお笑いなさるか知らぬが。真実ほんとにそうダンベイかも知れぬが。そこが私の道楽仕事じゃ。世界各地の博士や学者を。アッといわせる研究仕遂しとげて。二十億万人類社会の。アタマの入れ換えするのが楽しみ。いずれそのうちその論文なら。或る大学から発表されます。それを御覧になったらわかるよ。ほかのあらゆる世界の学者は。脳の研究しかたを知らない。見当違いの思惑ずくめで。多分だろうと思った位の。真実まことめかした当筒砲あてずっぽうだよ。一つの道理は説明出来ても。ほかの事実が解釈出来ない。あちらを立てればこちらが立たない。九尺二間に雨戸が二枚じゃ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。九尺二間に雨戸が二枚じゃ。ましていわんや朝から晩まで。走馬燈籠まわりどうろうか百色眼鏡か。猫の眼玉じゃ、七面鳥じゃと。泣いて笑いつクルクルチラチラ。千変万化の秘術をつくす。人の心のその正体が。どんな姿の形のものやら。それがどうして狂うたものやら。酒屋の半七さんではないが。どこにどうして御座ろうものやら。ただの一つも解かっていませぬ。それが証拠は何より眼の前。今の精神病科の書物に。並び並んだ病気の名前じゃ。そんな書物を作った学者が。何が何やらわからぬまんまに。ザッと患者の表面うわつら眺めて。身振り素振りを引当て目当てに。つけもつけたり素人欺瞞しろうとだましじゃ。色気狂いろけぐるいが色情狂だよ。人を殺せば殺人狂です。舞踏狂なら踊りを踊るの。放火狂ならをするのと。何の科学で調べた事かや。わかり切ったる名前の附け方。医者でなくとも誰でも附けます。おこ上戸じょうごやアノ泣き上戸。笑い上戸に後引き上戸。梯子はしご上戸と世間の人が。酔うた姿を見かけの通りに。名前つけるとおんなじ流儀じゃ。これで診察出来るが奇妙じゃ……チャカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。
 ▼あ――ア。これで診察出来るが奇妙じゃ。サテモ精神病者を受け持つ。博士、学士の医者様たちは。人の心の狂うた処や。又は狂わぬ確かな証拠を。どこで調べて見分けて行くかと。不思議がるのは又素人だよ。そこは商売、心配無用じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。そこは商売、心配御無用。すべて精神病者と名付けて。遠方はるばるお医者の玄関げんかへ。連れて来られた人間ならば。誰が見たとて正気に見えない。かなりこうじた連中ばかりじゃ。又は見かけが普通と変らぬ。落付き払った病人とても。家族連中や掛りのお医者が。チャントおかみへ手続き済まして。精神病者に相違が御座らぬ。不法監禁お構いなしじゃと。法律ずくめの許可証揃えて。正々堂々連れて来るから。お医者側では手数がかからぬ。家族連中の話の模様や。又は患者の態度ようすを眺めて。書物拡げて照し合わせて。似合相当の名前を付けたら。それで診察おわりというので。赤い煉瓦れんがち込むだけだよ。中には診察違いの者なぞ。ポツリポツリと居るかも知れぬが。これもやっぱり心配御無用。ほかの種類の病気と違うて。こいつばかりは誤診がわからぬ。一度「キの字」ときまるが最後じゃ。二度と出られぬ煉瓦の地獄じゃ。「違う違う」と云い訳したとて。それが、そのまま「キの字」の証拠と。今も昔も変らぬ運命さだめじゃ。放火狂じゃと診察みこみをつけて。八百屋お七を解剖したらば。何ぞはからん色情狂だよ。窃盗狂者どろぼうマニア標本みほんと思って。石川五右衛門入院させたら。誇大妄想狂者とわかった。なぞとお尻がハジケル心配。決してないから気楽なものだよ。テンカラ診察出来ない患者じゃ。何が何やらわからぬ病気じゃ。サテモ気楽なキチガイ医者だよ……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。さても気楽な精神病キチガイ医者だよ。ならば治療の仕方はどうかと。心配するだけ野暮天やぼてん、素人。これも、やっぱり診察同様。盲目めくら探りの真っ暗闇だよ。すぐに脳天砕かぬところが。開け行く世のお蔭か知らぬが。患者側から云わせて見たなら。どうか解からぬ証拠は眼の前。どこでも構わぬソンジョのそこらの。精神病院のぞいて御覧よ。鉄の格子の牢屋はもちろん。今の未決監みけつや監獄なぞには。影も見せない道具の数々。鉄の鎖に袖無し襯衣シャツだよ。手枷てかせ、足枷。磔刑はりつけ寝台じゃ。小窓開いた石箱なんぞが。ズラリズラット並んだ光景ありさま。どんな極重悪人とても。五体震わす拷問道具じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。五体震わす拷問道具じゃ。それに引換え入院患者の。心の狂いをホントに治癒なおす。薬器械のたぐいというたら。只の一つも見当りませぬ。眠らぬ患者に麻酔まやくの注射じゃ。騒ぐ者には鎮静剤だよ。物を喰わねば栄養物の。注射、浣腸かんちょうぐらいのものです。下手な内科や外科にも劣る。あとは治癒なおればお医者の手柄で。死ねば運じゃと済ましたもんだよ。アハハのエヘヘの平気の平左へいざじゃ。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ。なれどここらはまだ小手調べじゃ。キチガイ地獄の三途さんずの川だよ。聞いたばかりで身の毛がザワ付く。八万地獄は愚かな事だよ。阿呆メチャクチャ出鱈目でたらめ放題。あらん限りの虐待つづける。この世からなる精神病者の。地獄ゥ――めぐりィ――はァ――サテこれェ――かァ――ら――じゃァ――い……スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……

       四

 ▼スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア。なんと皆さん魂消たまげなさるなよ。これは日本の話じゃ御座らぬ。から天竺てんじくあちらの話じゃ。世界各地の精神病医が。こんな無慈悲な心で建てたる。外観みかけ立派な病院地獄は。こんな愚かな亡者の患者で。一つ残らず満員している。それも道理かその第一には。そんな地獄の寝台ねだいの数をば。今の千倍、万倍したとて。人間世界のそこでもここでも。ヒョクリヒョクリとあらわれ飛び出す。精神病者の数には足りない。しかも一旦入院したなら。治癒なおる期間が長いはまだしも。一生出られぬ患者もあるので。いやが応でも大入満員。そこでお医者が威張るわ威張るわ。どんな事でも患者に仕向けて。面倒臭いか納める金が。すこし渋るかするその時は。直ぐにドシドシ退院させます。自宅治療のお許し附きで。無事に出て来る患者もあれば。ほかの病気の診断書おみたて付きで。棺に這入って出るのも在るが。後の代りはアトカラアトカラ。押すな押すなの改札口だよ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。押すな押すなの改札口だよ。なれどソイツは話が怪訝おかしい。奇妙、不思議じゃ一体全体。そんな処へお金を出して。何がためなら入院させるか。なぞと御不審なされるお方は。われと身内に精神病者が。出来た経験持たない方だよ。まずはゆっくりお聞きなされませ。モット驚く話がこれから。チャカラカ、チャカポコ飛び出しまする。私ゃ知らんが木魚が知っとる。……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。わたしゃ知らんが木魚が知っとる。もっと驚く事実があります。しかもどこでも共通平等。精神病院関係者ならば。云わず語りで誰でも知っとる。極秘親展正直正銘。ここを限りの話というたら。ちょっと辻褄つじつま合わぬか知らぬが。チャント合うのが木魚の話じゃ。すべてキチガイ患者を連れて。赤い煉瓦のお玄関先げんかさきへ。お辞儀しに来る連中の中でも。親や兄弟、妻子つまこやなんぞは。どうか治癒なおして下さりませと。涙流して溜息ついて。頼み入るのが少くないが。そんな骨肉みうちの連中の中でも。ホンニしんから真情まごころめて。治療なおすつもりで介抱するのは。実のところが母親ばっかり。それも真実わが腹痛めた。息子か娘が患者の場合じゃ。ほかの骨肉みうちの連中と来たなら。同じ血分けたおや兄弟でも。実に冷淡無情なものだよ。ことにお若い妻君なんぞは。申訳もうしわけだけ二三日位は。側で溜息くかと思えば。里の方から迎えに来るのを。待っていたようにハイチャイめ込む。それもまだまだ最極上だよ。医者に患者を渡すと間もなく。部屋がどこやら決定きまりもせぬうち。電話かけにか便所に行くのか。帯の間の鏡を覗いて。鼻のアタマをパタパタやるうち。スラリと姿を消したが別れじゃ。二度と姿を見せないものだよ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。二度と姿を見せぬが普通じゃ。ドウセ治癒なおらぬ病気と決定きまれば。医師に見せるは体裁だけだよ。棄てに来るのが本当の腹だよ。生きて生き甲斐ないこの病気。どうぞよろしく頼みますると。頼む挨拶ウラから聞くと。もしも治癒なおれば迷惑千万。なろう事なら殺して欲しいと。云わぬ心がハッキリ見え透く。ここが患者の生死の境いで。医者が大いに儲かるところじゃ。……オットそんなに眼の色かえて。そんな事が……とお白眼にらみなさるな。現にこの眼で見て来た事です。但し日本の事では御座らぬ。から天竺てんじく西洋あちらの事だよ。耳も無ければ眼玉も持たない。物も云わない木魚の話じゃ。……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。物を云わない木魚の話じゃ。唐や天竺あちらの話じゃ。男、女の区別を問わない。一度発狂した人間なら。ドンナ平気な顔しておっても。思いがけなく乱暴したり。人を斬ったり放火つけびをしたり。嫌な気持やオカシナ所業しわざを。あたり八方ひろげてサラゲル。人の姿の犬畜生だよ。人間扱いするには及ばぬ。ドンナ手酷てひどい仕置きをするとも。石やかわらの投げ撃ちしても。罪にゃならない相手も記憶おぼえぬ。たとい立派に治癒なおったようでも。いつが何時なんどき、再発するやら。油断がならぬと今の世までも。昔ながらにいうその上に。あれは血統ちすじじゃさておそろしやの。何のたたりじゃ応酬むくいじゃなんどと。眼指めざし指さしするのが世間じゃ。そんなサナカに自分の身内に。思いがけない精神病者が。ヒョイと出て来るサア一大事じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。ヒョイと出て来るサア大変だよ。それも上流、金持ち社会で。ものに不自由せぬうちだったら。座敷牢でも作れば片付く。治癒なおる当てどもない病院へ。入れる必要あるまいなんぞと。アッサリ云うのは上流社会の。つらいところを知らない人だよ。すこし世間に知られた一家で。一度キの字を出したら最後じゃ。万劫まんごう末代血統ちすじさわる。早い話がせがれや娘の。縁があぶなくなるその上に。近所隣りの目下の連中に。あれは非道ひどうなお金の祟りよ。無理な出世のむくいよなんどと。白い眼をされ舌さし出され。うしろ指をばさるるらさ。御門構えの估券こけんにかかわる。そこで情実、権柄けんぺいずくだの。縁故辿たどった手数をつくして。赤い煉瓦へコッソリ入れます。もしも満員している時は。もっと届いた手数をつくして。無理な都合を院長に頼む。とかくこの世はお金の沙汰だよ。してキチガイ地獄の沙汰だよ。閻魔面えんまづらした院長さんでも。すぐに地蔵の笑顔に変って。慈悲の御手おんてで迎える代りに。ほかの患者を極楽まわしじゃ。金があってもまずこの通りじゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。金があってもまずこの通りじゃ。身分家柄、名誉や地位なぞ。あれば在るほど精神病者の。自宅治療はいよいよ困難。赤い煉瓦へ人目を忍んで。封じておかねば安心出来ない。ところが中流社会となったら。きまり切ったる月給年俸。細い収入生命いのちの綱ぞと。頼む主人や家族の中で。だれか一人が発狂しますと。借家だったら追い立て喰います。座敷牢なぞ思いも寄らない。すこし患者に手数がかかると。貯金、恩給、忽ち煙じゃ。しかもその上介抱人が。主人だったら出勤でかたかなわず。奥さんだったら仕事が出来ない。又は子供が学校に行けば。あれは「キの字」の卵よなんどと。寄ってたかって嘲弄されます。云うに云われぬ切なさらさが。たった一度に皆落ちかかるよ。残る一つの頼みの綱なら。赤い煉瓦の院長様よと。出来ぬ算段して来て見れば。どこへ行っても満員ばかりじゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。どこへ行っても満員ばっかり。しかもコイツが一段落ちて。その日暮しのシガナイ稼ぎじゃ。かかあは内職、娘は工場こうば。なぞというような一家となったら。むご悲惨みじめさ話にならない。介抱どころか、お薬どころか。すぐにそのまま一家が揃うて。あごを天井に吊るさにゃならぬ。いっそ狂うて死んでもくれたら。まだも増しよとうらんでみても。当の本人キチガイ殿は。死ぬるどころか大飯喰ろうて。治癒なおもない顔つきだよ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。治癒なおる当てどもない顔付きだよ。こんな調子で人間世界に。麦の黒穂か菜種の馬か。花や野菜の狂いと同様。わけもわからず理屈も立てずに。ヒョクリヒョクリと現われ飛び出す。数え切れない精神病者を。無料ただで引受け入院させるは。広い世間に大学ばっかり。それも寝台が何百あろうか。しかも慈善でするのじゃ御座らぬ。学生教授の研究材料。生きた標本講義の参考に。都合よいのをり取り見取りで。アトは要らぬと玄関払いじゃ。ならば私立はどうかと見ますと。これは何しろ商売本位じゃ。みんな金ずく権柄けんぺいずくめの。オエライ患者で超満員だよ……チャカラカ、チャカポコ……
 ▼あ――ア。エライ患者の大入満員。さても斯様かように持て余されたる。数も知れない狂人たちは。どこでどうして片付けられるか。さても不思議としらべてみたれば。サアサこれから又聞き事だよ。耳も聞こえず眼玉も見えない。口も動かぬ片輪かたわの木魚が。見たり聞いたりして来た話が。腹はからッポ公平無私だよ。タタキ出します阿呆陀羅経あほだらきょうだよ。地獄めぐりのチョンガレ文句が。ドンと一段、深みへ落ちます。……サアサ寄った寄った話の種だよ。お金は要らない。聞いたらビックリ……スカラカ、チャカポコチャカポコ。チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……

       五

 ▼スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア――あア――ア。エ――エ。さても皆さん斯様かような次第で。一人のキチガイ患者が出ますと。ほかの病気と品事しなことかわって。あとに残った正気の家族が。あるにあられぬ責め苦を受けます。トテモこうして自宅うちへは置けない。どうかせねばと思案をしても。どうも仕様が見当りませぬ。とかくするうち無理算段した。金は無くなる、仕事は出来ない。やがて一家が干乾ひぼしは眼の前。さても切なや、悲しや、らや……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。さても切なや、悲しや、辛らや、それも吾身は露いとわねど、お年寄られた親様はじめ。可愛い吾児わがこの行末までも。生きて甲斐ない一人のために。棄てて介抱するのが道理か。人に迷惑かけないうちに。患者もろとも首でもくくって。一家揃うて死ぬのが道かや。何の因果で斯様かようき目と泣いて怨めど肝腎カナメの。当の患者はアラレヌ眼付きで。キョロリキョロリとしているばっかり……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。キョロリキョロリとしているばかりじゃ。もとの姿は残っていても。元の心は藻抜もぬけの殻だよ。人の形をしているだけに。犬や猫より始末が悪いよ。情ないとも何ともとも。なろう事なら代ろうものをと。歎きもだえた揚句あげくの果てが。切羽せっぱ、詰まった大罪犯す……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……。
 ▼あ――ア。切羽詰まった大罪犯す。どこか遠国とおく移転ひっこすふりや。知らぬ処の病院さして。入れに行く振り人には見せて。又と帰らぬ野山の涯へ。泣きの涙で患者を棄てます。なれどコイツは捨児すてごと違うて。拾い育てる仏は居ませぬ。居らぬどころか行く先々では。打たれたたかれ追いこくられます。飢えてこごえてたおれた処の。木の根、草の根、肥やすか知れない。それを承知で見棄てる鬼をば。キョロリキョロリと探して見まわす。憐れな患者の名残りの姿を。はるか離れた物蔭、木蔭で。両手合わせる千万無量……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。両手合わせる千万無量じゃ。古い伝えは延喜えんぎの昔に。あのや蝉丸せみまる逆髪さかがみ様が。何の因果か二人も揃うて。盲人めくらと狂女のあられぬ姿じゃ。父の御門みかどに棄てられ給い。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に逢坂おうさか山の。お物語りは勿体もったいないが。斯様かような浮世のせつないならわし。切羽詰まった秘密の処分さばきは。古今東西いずくを問わない。金の有る無し身分の上下。是非と道理を問わないものだよ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。是非と道理がいえないものだよ。そんな事情で野山の涯に。迷う憐れな患者の中でも。すこし正気の残った者なら。他所の掃溜はきだめあさってみたり。物を貰うて又生き延びるよ。そのうち正気に帰るにしても。そこでこの世の悲しさ辛らさが。遣瀬やるせないほど身にみ渡る。又は吾身の姿に恥じて。残る家族のためぞと思い。人を諦らめ世を諦らめて。流す涙が乞食の姿じゃ。三日続けば止められないと。聞いた気楽な世界に落ち込む。それがそこらの名物乞食じゃ。又は野臥のぶせ山窩さんかにまじって。寺の門前。鎮守の森蔭。橋のたもと蒲鉾小舎かまぼこごやで。しらみ取り取り暮しているのを。一人二人と集めてみたなら。とても大した人数にんずになります。しかも左様なミジメな姿は。みんなこうした地獄のあわれを。知らぬ顔する国家や社会が。いっそ死ねよといわないばかりの。冷めたい仕打ちに消え行く数の。千か万かの一人か二人じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。千か万かの一人か二人じゃ。なんと皆さん如何いかがで御座る。これが普通の病気であったら。達者な者より大切だいじにされて。医者よ薬よ看護婦さんだよ。やわい寝床じゃ、良い喰べ物じゃと。あるが上にもお見舞受けます。人間ばかりか犬畜生でも。小鳥、金魚も場合によっては。後生大切ごしょうだいじに介抱されます。それに引換え精神病者は。病気の正体わからぬお蔭で。赤い煉瓦か野山の涯か。いずれのがれぬ地獄の責め苦じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。いずれのがれぬ地獄の責め苦じゃ。なれど皆さんお聞きなされませ。私が今まで木魚をチャカポコ。たたき出したる地獄のお話。病院地獄と野山の地獄は。正直正銘、金箔きんぱく付きの。精神病者が落ち行く地獄じゃ。尋常普通のキチガイ地獄じゃ。さてもこれから今馬力ばりきと。親に不孝な馬鹿声張り上げ。弁じ上げます地獄の話は。それにも一つ※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)しんにゅうませた。スゴイ、ドエライ地獄の話じゃ。罪もむくいも何にも知らない。正気狂わぬ普通の男女が。チャント物事わきまえながらに。不意に手足の自由を奪われ。声も出されぬ無理往生おうじょうだよ。無理や無体に引擦り込まれて。タタキ込まれるキチガイ地獄じゃ。しかもよくよく調べてみますと。から天竺てんじく、西洋あたりに。ズラリ並んだ大建築だよ。チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。とても立派な大建築だよ。磨き立てたる金看板にも。新聞紙上の大広告にも、何々病院何々治療と。四角四面の能書のうがきばっかり。別に地獄と書いてはないが。警察新聞探偵社なぞが。チャント中味を知り抜きながらに。知らぬ顔する不思議な商売。天下御免の扉の内側へ。ウカと片足入れたが最後じゃ。泣けど叫べど狂えど藻掻もがけど。二度と出られぬ暗黒世界じゃ。そんな処が在るとも知らずに。二十世紀の文化の世界じゃ。科学知識の万能時代じゃ。法律道徳礼儀の世界と。威張り腐って歩るけたものだよ。明日あすは自分が落ちるか知れない。キチガイ地獄のドン底地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……

       六

 ▼チャカポコチャカポコ。チャカラカチャカポコ。あ――ア。よもや日本にゃ無いとは思うが。人を殺すにゃ短刀ピストル。麻酔薬まやく、毒薬、絹紐きぬひも、ハンカチ。数を尽くした瓦落多がらくた道具が。あるが中にも文明国では。一と呼ばれるホントウ国だよ。そこの首都みやこのタマゲタシチーで。わしが見て来た新式手段が。意気で高尚こうとでハイカラ道具は。昼の日中に公々然と。巡査お医者を立会いさせて。血潮残さず指紋も止めない。ドンナ検事や探偵連中が。不審抱いて調べて見たとて。指もさされぬステキナ手段じゃ。但しお金が少々かかるが。かかる代りに利益もうけが大きい。とかくこの世はお金が讐敵かたきじゃ……チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。とかくこの世はお金が讐敵じゃ。まずは財産相続事件じゃ。政治、外交、軍機の秘密と。何か素敵すてきな大金儲けで。彼奴あいつが邪魔じゃと思うた一念。ねらう相手が一人で歩るく。情婦いろ棲家すみか賭博ばくちの打場か。又は秘密の相談場所だの。ソッと入込む息抜き場所に。近いあたりの道筋突き止め。かねて雇うた精神病医の。慾の深いを同伴させて。ソンジョそこらの巡査に頼む。実は私の親友ですが。すこし精神異状を呈し。家に帰らず淋しい処を。ブラリブラリと歩くが病い。そこでお医者に見せたいなれど。俺は何ともないなぞいうて。得物えもの振り立て暴れまするで。止むを得ませぬ非常の手段。いつもここらを通るとわかり。取って押えに張り込みまする。そこでお仲間両三人の。お手が拝借願えましょうか。なぞと云ううちお金をいくらか。医師の口添え右から左と。思う通りに手順を運んで。ドンと落せばドンデン返し。狙う相手は千仞奈落せんじんならく。生きて出られぬキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。出るに出られぬキチガイ地獄じゃ。これがお家の騒動なんかで。狙う相手がまだウラ若い。息子か娘と来ているならば。もっと気取った手段があります。殊に近代思想にカブレた。頭の過敏の連中だったら。ズット手数が省ける訳だよ。すこし皮肉に取扱ったり。又は立場をコミ入らせると。すぐに神経衰弱式だよ。頬が青褪め眼玉がキラキラ。挙動そぶり言語ことばが変って来まする。これをシコタマ掴んだお医者に。せてしまえばこっちのものだよ。静養させるは表面うわべの口実。花のつぼみが開かぬまんまに。あわれ落ち行く無間むげんの地獄じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。あわれ落ち行く無間の地獄じゃ。こんな患者を専門にして。やって行くのがホントウ国でも。音に名高いマッタク博士じゃ。それも初めは普通のお医者で。やっていたのがこの種の患者は。貰う謝礼がステキに大きい。そこでだんだんそちらの専門。今じゃ大入おおいり大繁昌だよ。ナント吃驚びっくりタマゲタシチーに。善美つくした病院構えて。中に並ぶが現代文化の。すいを揃えた拷問道具に。息も洩らさぬ殺人設備じゃ。一眼見たらば真夏の土用も。零下何度の大寒地獄じゃ。それに引換え表の通りは。光り輝やく玄関構えに。並ぶ自動車その数知れない。しかも富豪や名士の家庭の。秘密握っているのが強味じゃ。強請ゆすり次第にお金が取れます。もしもその手が利かない時には。当の本人、秘密の正体。無理に作った正気の患者を。誤診だったと発表するぞよ。すぐに全快退院させるぞ。又は患者の味方となって。そちらの秘密を世間へあばくぞ。なんぞかんぞと絞った揚句あげくに。ゆする相手が破産をしたり。こちらの不正がれると見込めば。当の秘密の入院患者に。注射一本、水薬ポッタリ。あとで解剖してみるとても。そんな薬を使わにゃならぬ。ほどに暴れた患者かどうだか。今の医学の力じゃわからぬ。そこがマッタク博士の附け目じゃ。精神病医の手品のたねだよ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。精神病医の手品の種だよ。しかもまだまだ不思議の数々。流石さすがキチガイ地獄の本場じゃ。ホントウ国でもタマゲタシチーで。マッタク博士が大胆不敵に。そんな商売しておりながら。同じ仲間の地道なお医者に。指を一本指されぬばかりか。文句云われず批難を受けない。政府、警察、新聞記者まで。鳴りを静めて見ているばっかり……スチャラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。鳴りを静めて見ているばかりじゃ。つづく不思議がホントウ国の。機密費用の大弗箱ドルばこだよ。そこを洩れ出す巨万のお金が。マッタク博士のポケットの中へ。ソロリソロリと音さえ立てない。それかばかりかマッタク博士の。広い肩幅大きな胸には。並ぶメタルや勲章の数々。それも国家に偉大な功労。捧げた文官武官の連中が。滅多めったに貰えぬドエライ奴だよ。独逸ドイツ仏蘭西フランス英吉利イギリス露西亜ロシヤ。日本なんぞは無かったようだが。それにつけてもマッタク博士が。そんな世界の強国相手に。ドンナ偉大な功労つくせば。コンナ勲章貰えたものかや。これはドウジャと魂消たまげるばっかり……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……

       七

 ▼スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ。あ――ア。さても皆さん退屈様とは。思いますれどここらで止めては。仏作って魂入れずじゃ。破れカブレの封切序ふうきりじゅんに。並べ上げたる不思議の数々。眼にも止まらず耳にも聞こえぬ。科学文化の地獄の正体。底のドン底のドンドコドンまで。タタキ破ってらげて拡ろげて。これはホントにタマゲタ話じゃ。マッタクすごいよ成る程そうかと。お立会いしゅ合点がてんの行くまで。ザット御機嫌伺いまする。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。世にも不思議な木魚の話じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。聾唖おしの木魚の阿呆陀羅経だよ。さてもしかるにスカラカ、チャカポコ。そもやホントウ民衆国は。表向きでは世界の強国。世界一ならお国の自慢じゃ。自由正義の本場ときまった。民権本位の理想の国じゃと。呼ばれまするが日本と違うて。国の元首に誰でもなれます。お金本位の勢力本位じゃ。忠義という字も言葉も無いから。一から十までお金が物言う。正義、法律、お金で買えます。良心、貞操、むろんの事だよ。自由民権手段を撰ばず。掴んで離さぬ熊鷹くまたか根性の。億万長者の一流どころが。国の利益は自分の利益と。盤石ばんじゃく動かぬ算盤そろばんずくめで。政治の実権握っているから。いくら政府が交代したとて。億万長者の威光は変らぬ。上は大臣、議員をはじめて。下は巡査や兵隊たちまで。国の繁昌一手に握った。一流どころの億万長者の。お金儲けの番頭手先じゃ。法律正義の仮面をかむって。弱い正しい人間たちの。自由、道徳、義理人情をば。かたぱしから踏み付けまわる。そこで斯様かような富豪たちの。非道な栄華をしんから憎しむ。正義の味方の学者や牧師が。言論自由の権利の下に。富豪いじめの演説はじめる。又は書物に書いたりしますと。エライエライと皆め立てます。下層社会の人気が集まる。資本家倒せの輿論よろんが高まる……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。富豪倒せの輿論が高まる。そこで富豪が厄鬼やっきとなります。そんな主張や輿論を掲げた。雑誌新聞デスクに投げ出し。これをどうしてくれるかなんどと。葉巻片手に政府を責めます。そこで政府は大いに困る。困る筈だよ政府の連中は。そんな富豪の番頭さんなら。御機嫌取らなきゃ立場があぶない。次の選挙の費用が貰えぬ。なれど個人の自由は自由じゃ。国の掟にちっとも触れない。筋道通った立派な人物。正義の味方の学者や牧師を。まさか追立て喰わせもならず。して牢屋へ入れたりしたらば。エライ輿論の反対受けます。そこで思案に詰まった揚句が。裏の裏行くキチガイ地獄じゃ。そんな学者や牧師の中でも。首領株だけ眼星をつけて。お手の物なら刑事を使って。狙うているとは夢露ゆめつゆ知らずに。タッタ一人で淋しい処を。歩く後から足音忍ばせ。アットいう間に引ずり倒して。精神病者を押えた形式かたちで。大きな手錠と足錠かけます。顔に当てがう麻酔薬まやくのハンカチ。蔭に待たせたマッタク博士の。病院自動車眼がけて投込む。あとは皆まで云わずとわかる……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。あとは皆まで云わずとわかるよ。これを感付く文明諸国じゃ。国家個人の区別を問わない。わるい思案に詰まった連中が。こんな便利な手段は無いぞと。われもわれもと秘密ないしょの頼みじゃ。這入る患者は政治家、学者。軍事探偵、大発明家。富豪、名家の跡取り世取り。又は名優スターの類だよ。他人の野心や不正の利得や。又は秘密の計画事業の。邪魔をする程手腕があったか。エライ立場におったが因果じゃ。予審、公判、宣告無しの。無期や有期の徒刑は勿論。電気椅子より手軽い死刑も。註文次第の何やら次第じゃ。ほんにこれこそ地獄の沙汰だよ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。ホンニこれこそ地獄の沙汰だよ。そこに落ち行く患者の中には。無論、狂人、瘋癲ふうてん病者も。申訳もうしわけだけ居るには居るが。中にまじった優れた人物。英雄、豪傑、天才なんどを。白い服着た鹿爪しかつめらしい。キチガイ地獄の牛頭馬頭ごずめずどもが。手取り足取りして行くあとから。金や勲章の山築やまつく上から。ニヤリ見送るマッタク博士じゃ……チャチャラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……

       八

 ▼チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア。ナント皆さん紳士や淑女よ。お立ち会いしゅの大勢さまよ。これが私の洋行土産みやげじゃ。現代文化の影身かげみに付添う。この世からなる地獄の話じゃ。鳥がさえずり木の葉が茂り。花に紅葉もみじに極楽浄土の。中にさまよう精神病者じゃ。身寄りたよりに突きはなされて。罪も報いも泣こうに泣かれぬ。キチガイ乞食のあわれな姿じゃ。ここの村里、彼処かしこの町で。夜毎日毎よごとひごとに追いまくられては。石や瓦の投げ打ちされては。雨にたたかれ風にさらされ。雪や氷に消え入るばっかり。そんな地獄をこの世に作った。丸い明るい天道様まで。クルリクルリと顔をば背向そむけて。俺は知らぬと云うたか云わぬか。ピカリピカリと笑って御座るよ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。ピカリピカリと笑って御座るが。それはまだしも気楽な地獄じゃ。昼夜不断の電燈瓦斯燈ガスとう。唯物科学の文化の光りが。明るく光れば光って来るだけ。暗くなるのが精神文化じゃ。金じゃ女じゃ。権利じゃ義務じゃと。手段撰ばぬ悪智慧比べじゃ。道理外れた生存競争。電車自動車ソラ飛行機じゃと。縦横無尽に行きい飛び交う。人の運命一寸先だよ。暗に隠るる秘密の扉じゃ。連れて来られた老若男女は。狂気本気の区別を問わない。馬鹿も怜悧りこうも一列平等。ドンと蹴込けこんでピタリと閉じたら。タッタ一呑み文句を云わせぬ。音ももなく落ち行く先だよ。娑婆しゃばの道理や人情の光りが。影もさない暗黒世界じゃ。鉄筋煉瓦やセメント造りの。科学知識のこの世の地獄じゃ。中に重なるキチガイ地獄の。上に在るのが親切地獄で。次が軽蔑、冷笑地獄じゃ。下は虐待ぎゃくたい、暗殺地獄の。底は何やらわからぬ地獄じゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。あとは何やらわからぬ地獄の。次に並ぶはモひとつスゴイよ。これは何でもわかった地獄じゃ。おのれ彼奴あいつが正気の俺をば。こんな処へ投げ込みおるかと。歯噛み、身もだえ、地団駄じだんだ、踏んでも。踏めば踏む程、親切地獄じゃ。それでもめねば虐待地獄じゃ。あとは無念の白骨地獄で。化けても出られぬ奈落へ抜けます……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。化けて出られぬ奈落へ抜けるよ。そんな危い地獄の扉が。もしも本当ほんとにそこいら中に。あるとなったらさてどうなるか。お立会い衆は無論の事だよ。政府当局、天下の学者。知識階級の誰かれ問わない。血あり涙のある方々が。知らぬ顔して捨ててはおけまい。古い川柳に座敷の牢屋で。薬飲むにも油断がされぬと。(註にいわく――座敷牢薬をのむに油断せず――柳樽やなぎだる――)御座りまするはお江戸の昔じゃ。していわんや近代文化の。科学知識の進歩の中でも。人の脳髄、心の正体。何が何やらわからぬために。精神病学研究し方が。八方ふさがり昔のままだよ。にせのキチガイ真実ほんとのキチガイ。ハッキリ区別も出来ない癖に。ほかの医学の体裁真似して。治療診察なんどというては。四角四面の病院作って。器械標本、薬に書物と。並べ飾って威張っているなら。こんな地獄が出来るは当然。これを防ぐが目下の急務じゃ。そんな病院見当り次第に。タタキ潰すが何より急務じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……

       九

 ▼チャチャラカ、ポコポコ。スカラカ、ポコポコ……さても左様なイカサマ病院。キチガイ地獄が出来ないように。防ぐ工夫があるかというたら。タッタ一つの手段があります。しかもなかなか大きな仕事じゃ。どこか気候と景色のよろしい。交通便利な離れた島へ。ザット一千万円かけて。かくいう私が新案工夫の。デッカイ精神病院建てます。そこへ研究試験所つけます。患者を無料で入院させます。地獄なんぞが出来ないように。解放治療というのをやります。これも私の新案工夫じゃ。すなわち正しい精神科学の。正しいキチガイ病気の治療じゃ。薬使わず手術もしませぬ。鉄の鎖や、石箱、鉄箱。袖無襯衣そでなしシャツなぞ一切使わず。ありとあらゆる精神病者を。広い処へ追い放しにして。一番自然な正しい治療を。しようというのが解放治療じゃ。いわば精神病者の牧場まきばじゃ。キチガイ患者の極楽世界じゃ。奇妙キテレツ珍妙無類の。世界初めの精神病院。むろん誰でも参観随意じゃ。ドンナ素敵な観物みものになるかは。ふたを開けねば私もわからぬ。何から何まで新発明だよ。スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。何から何まで新発明だよ。いずれそのうち発表しますが。世界の学者が一人も知らない。キチガイ病気の出て来る原理じゃ。しかもすこぶる簡単明瞭。ステキ滅法愉快な学理を。そこで実地の試験にかけます。診察予防が絶対不可能。薬も無ければ手術も出来ない。キチガイ病気の正体調べて。診察治療が出来るとなったら。トテモ評判大したものだよ。世界に人種が数ある中で。日本人種は見上げたものだよ。正義人道たっとぶ国だよ。精神科学の先進国だと。云わせたいのが私の願いじゃ……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。云わせたいのが私の願いじゃ。なれど何しろ一千万の。金というたら大したもんだよ。私が親から引譲られた。田地田畑でんちでんぱた、貯金や証文。古いふんどしお金に換えても。やっと半分そこらのものだよ。あとは政府のお助け仰いで。それにも一つ皆様方の。清いたっといお志を。たよりすがりにりたい考え。五厘一銭、わら一筋でも。多寡たかいとわぬ願人坊主じゃ。頭たたいて頂きまする……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。アタマたたいて頂戴しまする。なれど、そういう願人坊主が。やはり「キの字」の片割かたわれらしいぞ。眼付き風付ふうつき何やらおかしい。非人乞食に劣らぬ姿で。道のほとりにかばんを投げ出し。駄声だごえはり上げ木魚をチャカポコ。昼の日中ひなかに外聞さらす。しかも文句が常識外れた。世界文化の千万円じゃの。耳に聞こえず眼にさえ見せない。人の心の狂いを直すの。古今独歩の研究なんどと。途方途轍とてつもない事並べて。寄附を集めるイカサマ坊主じゃ。そんな古手にかかると思うか。要らぬ処で道草喰うたぞ。早く行こうと仰言おっしゃるならば。これは如何いかさまもっとも千万。道理至極じゃスカラカ、チャカポコ。頭たたいてお詫びをしまする……チャカポコチャカポコ……
 ▼あ――ア。頭たたいてお詫びをしまする。そもやそもそも一体全体。こんなスカラカ、チャカポコ頭が。身の程知らない木魚をたたいて。頼み手も無い金にもならない。要らぬ赤恥、天日てんぴにさらげる。事の起りはキチガイ地獄じゃ。文明社会の裏面に拡がる。無茶と野蛮の底抜け地獄じゃ。筆も言葉も木魚も及ばぬ。むごさ、せつなさ、悲しさらさを。底の底まで見て来たお蔭で。こちらの頭が少々変テコ。これをこのまま棄ててはおけぬと。思い込んだが因果のはじまり。これを助ける方法手段を。あれよこれよと思案のあげくが。精神病者を無料で預る。デカイ病院建てるが第一。それを建てるにゃ皆様方の。輿論のお力借りねばならぬ。又は一厘一銭たりとも。無駄に使わぬ思案の果だよ。思い付いたる乞食の姿が。お眼に障わったお詫びの印じゃ。今のキチガイ地獄の歌をば。印刷はんに起した斯様かような書物を。お立ち会い衆へおわかちしまする。お金は要らないお願いしまする。持って帰ってお読みなされて。これはどうやら真実ほんとうらしいぞ。寄附をしようかと思うたお方や。さては私の一生仕事の。狂人救済事業の中味を。もっと詳しく調べてみたい。又は世界の漫遊みやげの。眼先変ったキチガイ話や。家のたたりや血統ちすじさわりや。生霊、死霊の怨みやなんぞが。人の心を狂わせ惑わす。スゴイ因果の因縁話を。聞いてみようかそれとも又は。何か大勢集まる場所で。そんな話をやらせて見たらば。奇抜な余興になるかも知れぬと。思召おぼしめしたらお手数ながら。ここに挟んだ葉書が一枚。これにお名前お所番地。それとこれなるページの終りに。止めましたる宛名を書いて。ぽんとポストにお願いしまする。願うところはこの世の中に。こんな事実があります事を。向う三軒両お隣りや。どなたこなたの噂の種に。語り伝えて下さりませよ。すれば今云うキチガイ地獄や。人類文化の裏面の秘密が。いやが応でも世間へ広まる。悪い事する精神病院。キチガイ地獄を片端なぐりに。タタキ潰せと輿論が高まる……チャカポコチャカポコ……
 ▼そこで政府も黙っておれない。棄てておけない重大問題。社会事業の急務というので。私が投げ出す財産全部の。五百余万のお金を基本に。精神病者を無料で預かる。国立精神病院建てます。到る処の精神病者の。生産過剰の緩和を初める……チャカポコチャカポコ……
 ▼人に忘られ世に忘られて。狂い藻掻もがいて生命いのちを終る。あわれな精神病者が助かる……ポコチャカポコチャカ……
 ▼それかばかりかその病院で。研究し出したキチガイ病気の。治療のし方が世間に広まる。世界各地のキチガイ地獄が。一つ残らず引っくり返って。ありとあらゆる精神病者の。なぶり殺しが止みますならば。こんな本懐至極しごくは御座らぬ……ポコポコチャカチャカ……
 ▼あ――ア。こんな本懐至極は御座らぬ。そこで成る程貴様の仕事は。実に道理もっとも千万至極じゃ。奇特、感心、立派な了簡りょうけん。俺が付いてる心配するなよ。ウント踏張り勉強やらかせ。狂人地獄をスカラカ、チャンまで。タタキ潰せよフレ――やフレーと。お賞めなされて下さるならば。私の喜び天井知らずじゃ……チャカチャカポコポコポコポコチャカチャカポコポコ……

       十

 ▼スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。あ――ア。さても皆さん相済みませぬ。御用、お急ぎ、散歩の足をば。変な姿や奇妙な文句で。お引止めして気の毒千万。なれどつらつらおもんみまするに。三千世界を流るる時間が。何万、何億、何兆年とも。知れぬ無限の時間のうちなら。五十、七十、百まで生きても。アッという間の一生涯だよ。何が何やらわからぬまんまに。会うて別れて生まれて死に行く。数え切れない人数にんずの中だよ。今日が只今この道傍みちばたで。お眼にかかるも何かの御縁じゃ。お許しなされて下さりませよ。よしやこのままお別れしても。残る名残りがスカラカチャカポコ。もしもこののち世間の噂や。雑誌新聞、小説なんぞで。キチガイ話を御覧になったり。又はホンマの精神病者を。通りすがりに御覧になったら。思い出しても下されませよ。月の光りや太陽の輝やき。星の光りも掻き消すばかりに。まなこくらめくモダーン文化や。又は博愛仁慈の光明。正義道理のサーチライトも。昔ながらに照らさぬ世界じゃ。地獄以上のキチガイ地獄に。音ももなく消え行く先だよ。広さ深さも無限のやみの。底に青ずみ漂う血の海。上にさまよう陰火おにびの焔は。罪も報いも無いまま死に行く。精神病者の無念の思いじゃ。聞いて聞こえぬ怨みの数々。聞いた心がクドキの文句じゃ。念仏代りの阿呆陀羅経あほだらきょうだよ。無調法なる木魚に合わせて。チョット御機嫌伺いまする。げどう――さア――えエ――もオ――んンン。キチガイ――イ――地獄ウ。
――ヘイ。御退屈様――

 ◆葉書は左記へお出し下さい。



 九州帝国大学医学部精神病学教授
  斎藤寿八氏自室気付

  面黒楼万児宛


┌───┐
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└───┘



  地球表面は
   狂人の一大解放治療場

九州帝国大学       
       正木敬之氏談
精神病科教室       

去る三月初旬以来、九州帝国大学精神病科本館裏手に起工されて、その附属病院の工事と共に着々進捗しんちょくしつつある「狂人解放治療場」は、過般来かはんらいその内容が厳秘中であったが、右は同科新任教授正木博士が私費を投じて開設したものである事が判明した。右にき正木博士は同教授室に於て、往訪の記者に対しかく語った。

 世間では今度、吾輩が九大で開始した「解放治療」を吾輩の独創だとか、嶄新ざんしん奇抜だとかいって騒いでいるようであるが、正直のところを云うと決して吾輩の独創でもなければ、嶄新奇抜な療法でもないのだ。すなわちこの地球表面上は、昔々の大昔の、歴史にも伝説にも残っていない以前から、狂人の一大解放治療場になっているので、太陽はその院長、空気はその看護婦、土はその賄係まかないがかりに見立てられ得るのだ。
 ……といっても吾輩は別に奇矯な言辞をろうしているのではない。そうした事実を断言し得る相当の理由があるから云うので、何を隠そう吾輩の「精神病研究」の第一歩はこの「地球表面上が狂人の一大解放治療場になっている」という事実に立脚していると云ってもいいのだ。
 それは何故かというと、元来この地上に生み付けられている人間は、身分の高下、老若男女の区別を問わず、指一本でも自分の自由にならぬか、又はどこか足りないか、多過ぎるかした人間を発見すると、すぐに「片輪かたわ」という名前を附けて軽蔑したり、気の毒がったり、特別扱いにしたりする事にきめている。同様に、頭のハタラキが本人の自由にならぬか、又は、頭の働きのどこか足りないか、多過ぎるかした人間を見付けると、早速、精神病患者、すなわちキチガイの烙印やきいんを押し付けて差別待遇を与える事にきめているようである。禽獣きんじゅう、虫ケラ以下の軽蔑、虐待を加えてもいいものと考えているらしく考えられる……が……しからばその精神病者を侮蔑し、冷笑している所謂いわゆる、普通の人間様たちの精神は、果して、何もかも満足に備わっているであろうか。すべての人々の脳髄は、隅々までも本人の意志の命令通りに、自由自在に動いているであろうか。
 吾輩はあえて云う。公平、つ厳正な学問の眼から見ると、決してそうは思えない。それは手足の曲ったのや、眼鼻の欠け落ちたのと同様に、外から肉眼で見わける事が出来ないだけで、実際のところをいうとこの地球表面上に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の片輪者かたわものばかりと断言して差支えないのである。曲ったり、くねったり、大き過ぎたり、小さ過ぎたり、又は智慧や情慾が多過ぎたり、足りなかったりする、所謂、精神的の片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態を呈していると考えても、断然間違いはないのである。
 早い話がなくて七癖、あって四十八癖というではないか。見っともない、下らない習慣が、いくら他人に笑われても止まない。又は出世の妨げになったり、他人に迷惑をかけたりするので、是非とも止める決心をして、神や仏にがんをかけたり、新聞に広告までしてちかいを立てても悪い癖が止められないのは取りも直さず、自分の頭が、自分の自由にならない事を実地に証明しているのではないか。自分の頭の間違っているところを、自分の意志で直す事の出来ない、精神病的発作の根強いあらわれを見せているのではないか。又は泣くまいと思ってもツイ涙が出る。おこる場合でないと思ってもついムカムカッと来て前後を忘却したりするのは、やはり一時的の精神のかたよりを、自分で持ち直す事が出来ないという、アタマの弱点を曝露しているのではないか。
 そのほかしょうき性、ムラ気、お日和ひより機嫌、胴忘どうわすれ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、変態心理なぞの数をつくして、出会う人ごとに、知るも知らぬも、多少のキチガイ的傾向を帯びていない者は無い。頭の働らきの不叶ふかないなところを持っていない者は無い。すなわち精神病者と五十歩百歩の人間でない者は居ないのだ。
 その証拠には、そんな連中のそうした弱点……すなわち頭の不叶いなところを指摘してやると、誰でもヒヤリとして赤面するか、青すじを立てて弁明するか、腕まくりをして喰ってかかるかする。これはキチガイが自分自身をキチガイでないと主張するのと同じ心理で、まことに馬鹿馬鹿しい極みであるが又、人情の止むを得ないところであろう。……しかもその人情の止むを得ないところを、そのままにしてったらかしておくと、そんな精神病的傾向が当り前の事のように思えて来る。いわんや当世流行の紳士待遇でも与えようものならイヨイヨ病癖が増長して、イヨイヨ止むを得なくなって来る。そうしてトウトウ絶対に取り止めが出来なくなったのが、家庭悲劇や、犯罪事件となって社会に曝露する。軽いので社会的制裁、重いのになると法律の手にかかる。それでも反省出来ない、ブレーキの利かなくなったガタガタ自動車みたいな奴が、何々狂と名付けられて、精神病院に担ぎ込まれる事になるのだ。
 誤解しては困るが、何もそれが悪いと云うのじゃない。万物の霊長諸氏を侮辱する意味で云ったのでは毛頭ないが、しかし、そんな風に生れ付いたり、習慣付けられたりしている所謂いわゆる、紳士淑女連中が、自分のアタマと五十歩百歩の精神病患者を見るとヤタラに軽蔑したり、恐れたりする。自分だけは誰が何と云っても精神病的傾向をミジンも持たない、完全無欠なアタマの持主だと自惚うぬぼれ切っているから、ツイ吾輩も冷やかしてみたくなるのだ。……そんな紳士淑女連中からアラユル残酷な差別待遇を受けている、罪もむくいも無い精神病患者を弁護してみたくなるのだ。
 すなわち、いずれにしても斯様かように観察して来ると、普通人と狂人の区別がつけられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている者との区別が付けられないのと同じ事になって来るであろう。平ったく云えば赤い煉瓦に這入る程度にまで露骨でない悪党と、キチガイとを一緒にしたものが、所謂、普通人……もしくは紳士淑女という事になるであろう。
 もちろんこれは一種の暴言である。実に失礼とも無作法とも、何ともカンとも申上げようのない遺憾千万な云い草ではあるが、事実はどこまでも事実に相違ないのだから仕方がない。こうした観察点に立脚しなければ、精神病に関する真個ほんとうの科学的研究がやって行けないのはあたかも、人間が一個の動物に過ぎないという見地に立脚しなければ、すべての医学の研究が遂げられないのと同じ事なんだから止むを得ない。もし又、万が一にも「俺ばかりはキチガイじゃないんだぞ。絶対に完全無欠な精神を持っている人間なんだぞ」という自信を持っているお方があったら、イツ何時でも吾輩の処へおで下さいだ。そのお方は当大学の研究患者として、官費で入院さして上げる。ちょうどその式の患者が、学生の講義に必要なところだからね……。
 太陽は、これ等無限の精神病患者の大群を、地上一面に生み付けて、永久に無言の解放治療を続けている。そうするとその禽獣きんじゅう、虫ケラ以下の半狂人である人類たちは、永い年月のうちに自然と自分たちがキチガイの大群集である事を自覚し初めて、宗教とか、道徳とか、法律とか、又は赤い主義とか青い主義とかいう御叮嚀なものを作って「お互いに無茶を止しましょう……変な真似をやめましょう」をやっている。だから吾輩もその小さな模型を作って、僭越ながら太陽氏になり代って「無薬の解放治療」を試みている。「人類全部がキチガイ」という観察点に立脚した、ホントウの科学的な精神病の研究治療を試みているのだ。
 ……ナニ……その解放治療場にはドンナ種類の精神病患者を収容するのか……それはまだわからないよ。いずれ吾輩の学説……新しい精神科学の学理実験材料として差支えない患者を選み出して収容する予定にはなっているんだがね……。
 ……その学説はドンナ学説……吾輩が唱え出した精神科学の内容かね。それあトテモ大変な質問だ、なかなか一朝一夕に説明し切れる訳のものじゃないよ。しかし要するに今日までの精神病の研究法を根本から引っくり返した行き方だという事は断言しておいてもいいね。まず人間の脳髄の作用から研究し直して「脳髄は物を考える処」という従来の迷信的な学説をドン底から訂正する。それからその新しい「脳髄の作用」に反映して行く精神の遺伝作用を明らかにする。そこで出来上った精神解剖学、精神生理学、精神病理学から観察診断した、最もわかり易い最も興味深い、精神病患者の標本ばかりを集めて、吾輩独特の精神的な暗示と刺戟を応用した治療法を試みてみたいと思っているんだがね。ドンナ標本が集まるか……ドンナ騒動が初まるか、吾輩自身にも予断出来ないんだよ。ハハハ……。
 但し念のためにお断りしておくが、その実験をやっている吾輩ばかりが、精神に異状の無い、太平無事のデクノ坊だと誤診されては迷惑だよ。
 あの太陽が、一旦、ギラギラと光り出して、地獄と名づくる精神病者の一大解放治療場の全面をあぶりまわし初めたらナカナカ止めない。いい加減なところで醤油でも附けたら……と思ってもソンナ余裕なんか持たないらしく、どこまでもどこまでもピカピカジリジリと焙り廻し続けている。それと同様に一度狂人の研究を初めた吾輩は、それ以外の事が考えられなくなった。往来で小便をし初めたのと同様に、殿様がお通りになろうが、巡査がお見えになろうが、お手討ちも罰金も覚悟の前で、根の切れるまでシャアシャアやり続けている。
 だから地上のほかの狂人は治療なおるとも、吾輩の精神異状だけは永遠に全快しないだろうと思う。これだけはたしかに保証出来る。云々。


  絶対探偵小説
      脳髄は物を考える処に非ず

        ===正木博士の学位論文内容===

一記者
 ナニ。吾輩の学位論文「脳髄論」の内容がナゼ学界に発表されないかッテ……アハハ。馬鹿にするな。物議を起すのを怖がって発表を差控えるような吾輩じゃないよ。実はチョット書き添えたい事があるから、手許に引取っている迄の事さ。
 その内容を話せって云うのか。ウン。それあ話せない事はないさ。……しかし話したら直ぐに新聞に書くだろう。実はこのまいに吾輩が話した「地球表面上は狂人の一大解放治療場」云々の記事を、君の新聞に書かれたんで、少々弱らされたよ。自家広告の宣伝記事だというので、ダイブ方々で八釜やかましかったらしいんだ。
 ナアニ。吾輩は平気さ。何と云われたってビクともするんじゃないが、吾輩がすこし大きな事を云うと、事なかれ主義の総長や、臆病者の学部長が青くなって心配するのが気の毒でね。鶴川君の「万有還金」の研究や、赤井君の「若返り手術」以来、九大には山師ばかり居るように誤解されているからね。ましていわんや今度の「脳髄論」の内容と来たら、前の解放治療の話に何層倍輪をかけた物騒なテーマを吹き立てているんだから……。
 フン。書かないから話せというのか。新聞記者の書かない口上も久しいもんだが大丈夫かい。ウン……そんなら話そう。ところでドウダイ……葉巻を一本……上等のハバナだ。吾輩の気焔の聞き賃、兼、新聞記事の差止め料だ。チット安いかね。ハハハハハハ。きょうは吾輩閑散ひまだからね。少々メートルを上げるかも知れないよ。
 ……時に君は探偵小説を読むかい。ナニ読まない。読まなくちゃいかんね。近代文学の神経中枢とも見るべき探偵小説を読まない奴はモダンたあ云えないぜ。ナニ……読み飽きたんだ……ウハハハ。コイツは失敬失敬。さもなくとも君の商売は新聞記者だったっけね。アハハハハ。イヤ失敬失敬。
 それじゃここに吾輩が秘蔵している、もっとも嶄新ざんしん奇抜な探偵事実談があるが一つ拝聴してみないか。実はどこかの科学雑誌にでも投稿してやろうかと思って、腹案していたものなんだが、小手調べに君の批評を聞いてみてもいい。筋の複雑、微妙さと、解決の痛快皮肉さは恐らく前代未聞だろうと思うがね。むろん他に類例があったら、二度とお眼にかからないという、すこぶる非常的プレミヤム付きの……。
 ナアニ。胡魔化ごまかすんじゃないよ。今云う吾輩の脳髄論と大関係があるんだ。探偵小説というものは要するに脳髄のスポーツだからね。犯人の脳髄と、探偵の脳髄とが、秘術をつくして鬼ゴッコやいたちゴッコをやる。そのかんに生まれる色々な錯覚や、幻覚、倒錯観念の魅力でもって、読者のアタマを引っぱって行くのが、探偵小説の身上じゃないか。ねッ。そうだろう。
 ところがだ。吾輩の探偵小説というのはソンナ有り触れた種類の筋書とは断然ダンチガイのシロモノなんだ。すなわち「脳髄ソノモノ」が「脳髄ソノモノ」を追っかけまわすという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説なんだ。しかもその絶対的科学探偵小説のドンドンのドンガラガンの種明かしをして、人類二十億の脳髄をアッといわせるトリックそのものが、ソックリそのまま吾輩の「脳髄論」のテーマになっているんだからスゴイだろう。
 ナニ。わからない。ハハハハハ。わからない筈だ。まだ何も話していないんだからね。ハッハッ。
 ああいいともいいとも。速記に取ったって構わないよ。吾輩が「脳髄論」を学位論文として正式に発表する時まで、新聞に掲載するのを待っていてくれさえすればいいのだ。何ならアトで吾輩が筆を入れてやってもいい。談話として発表するよりも吾輩の創作として発表する方が都合がよくはないか……。
 もっとも前以て断っておくが、この探偵事実談を聞いても、わかるか解からないかは保証の限りでないよ。何しろ脳髄が脳髄を追っかけまわすという、絶対、最高度の探偵小説なんだからね。解決が最初から立派についていながら、読者には絶対にわからない。ただ無暗矢鱈むやみやたらに奇抜突飛な、幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きのゴチャゴチャだけしか感じられない……かも知れないというのが、トップのトップを切った脳髄小説のミソなんだからね。ハハハハハハハ。

 ところでだ……まず劈頭へきとう第一に一つの難解を極めた謎々をタタキ付けて、読者のアタマをガアンと一つ面喰らわせてしまうのが、探偵小説の紋切型だろう。しかもその「人間の脳髄」を極度に面喰らわせ得る謎というのは、取りも直さず「脳髄」そのものに関するソレでなくてはならぬ事が必然的に考えられて来るだろう。
 果然と※(感嘆符二つ、1-8-75) ……一つおどかしておくかね。ハハハハハハ。何を隠そうその「脳髄」こそは現代の科学界に於ける最大、最高の残虐、横道おうどうを極めた「謎の御本尊」なんだ。人体の各器官の中でもタッタ一つ正体のわからない、巨大な蛋白質製のスフィンクスなんだ。地上二十億の頭蓋骨を朝から晩までガンガンいわせ続けている怪物そのものにほかならないのだ。
 人間の脳髄と称する怪物は、身体の中でも一番高い処に鎮座して、人間全身の各器官を奴僕ぬぼくの如く追い使いつつ、最上等の血液と、最高等の営養分をフンダンに搾取している。脳髄の命ずるところ行われざるなく、脳髄の欲するところ求められざるなし。何の事はない、脳髄のために人間が存在しているのか、人間のために脳髄が設けられているのか、イクラ考えても見当が付かないという……それ程左様に徹底した専制ぶりを発揮している人体各器官の御本尊、人類文化の独裁君主がこの脳髄様々に外ならないのだ。
 ところが、それはそれとしてここに一つ不思議な事があるのだ。
 それは他事ほかでもない、その脳髄と自称する蛋白質の固形物かたまり自身が、古往今来、人体の中でドンナ役割をつとめているのか、何の役に立っているものか……という事実を、厳正なる科学的の研究にかけて調べてみると、トドのつまり「わからない」という一点に帰着する事だ。逆にいうとこの脳髄と名付くる怪物は、古今東西の学者たちの脳髄自身に、脳髄ソレ自身のホントウの機能をミジンも感付かせていない事だ。……のみならず……その脳髄自身は、ソレ自身がトテモ一キロや二キロの物質の一塊いっかいとは思えないほどの超科学的な怪能力、神秘力、魔力を上下八方に放射して、そうした科学者たちの脳髄ソノモノに対する科学的の推理研究を、片端からメチャメチャに引掻きまわしている。モット手短かにいうと「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳髄ソレ自身に解からせないように解からせないように努力している」とでも形容しようか。従ってその脳髄は、脳髄ソレ自身によって作り出された現代の人類文化の中心を、次第次第にノンセンス化させ、各方面に亘って末梢神経化させ、頽廃たいはいさせ、堕落させ、迷乱化めいらんかさせ、悶絶化させつつ、何喰わぬ顔をして頭蓋骨の空洞の中にトグロを巻いているという、悪魔中の悪魔ソレ自身が脳髄ソレ自身になって来るという一事だ。
 むろんこれは吾輩一流の法螺ほらやヨタじゃない。吾輩の専門の名誉にかけて断言するのだから……。
 エッ……脳髄は物を考える処だ……と云うのかい。
 そうだよ。みんなそう思っているんだよ。現代一流の科学者は勿論のこと、全世界のありとあらゆる種類、階級の人々は、プロとブルとを押しなべて皆、脳髄で物を考えているつもりで生きているんだ。ラジオも、飛行機も、相対性原理も、ジャズも、安全剃刀かみそりも、赤い理論も、毒瓦斯ガスも何もかも、この一二〇〇グラム以上、一九〇〇グラム以下の蛋白質のカタマリから生み出されたものと確信し切っているのだ。
 成る程、人間の屍体を解剖して、脳髄なるものを覗いてみると、そうした考え方は万々間違いないように見える。大脳、小脳、延髄、松果腺しょうかせんなんどと、無量無辺に重なり合っている、奇妙キテレツな恰好をした細胞が、やはり、奇想天外式に変形した神経細胞の突起によって、全身三十兆の細胞の隅から隅までつながり合っている。その連絡系統を研究して行くと結局、人体各部を綜合する細胞の全体が、脳髄を中心にして周到、緻密ちみつ、且つ整然たる糸を引合った形になっているのだ。だから人間一切の行動を支配する精神もしくは、生命意識なるものは、脳髄の中に立てもっているのじゃないかしらんと考えられる。少くとも「脳髄は物を考える処」と考えて差支えないように考えられるのだ。
 こうした考え方は現在ではもう人類全般の動かすべからざる信念……もしくは常識となってしまっているのだ。この「脳髄が物を考える処」という事実について今更めかしく疑いを起すものは、ドコを探しても一人も居ない事になっているのだ。現代の燦然さんぜんたる文化文物は針一本、紙一枚に到るまでも、一つ残らずこうした「物を考える脳髄」によって考え出されたものである……と演説しても「ノーノー」を叫ぶ者は一人も居ない位にアタマ万能主義の世の中になってしまっているのだ。
 ……しかるにだ……ここで吾輩の脳髄探偵小説は、こうした世界的の大勢を横眼に白眼にらんだ一人の青年名探偵、兼、古今未曾有式超特急の脳髄学大博士を飛び出させているのだ。脳髄に関する従来の汎世界的迷信を一挙に根柢から覆滅ふくめつさせて、この大悪魔「脳髄」の怪作用……ノンセンスの行き止まり……アンポンタンの底抜けとも形容すべき簡単、明瞭な錯覚作用の真相を、煌々こうこうたる科学の光明下にらけ出し、読者の頭をグワ――ンと一撃……ホームランにまで戞飛かっとばさせている……という筋書なんだがドウダイ……読者に受けるか受けないか……。
 ナニ。まだわからない……もうすこし聞いてみなければ……。
 何だって……空想小説じゃないかって……。しからん……。だから一番最初に「科学探偵事実小説」と断っているじゃないか。空想なんてものをコレンバカリも取入れたら、全篇の興味がゼロになってしまうじゃないか。むろんそうだとも……初めから一分一厘ノンセンスものじゃないんだから安心して聞き給え。そんな甘物じゃない事が、そのうちにわかって来るんだよ。いいかい……。
 ところでその青年名探偵、兼、脳髄学の大博士は、吾輩が仮りにアンポンタン・ポカン君と名付けている二十歳ばかりの美青年なんだ。いいかい……むろん実在の人物なんだよ。しかもその美青年は古今無双のいい頭を持っているにも拘わらず、非常に危険な遺伝的、精神病の発作にかかったので、この大学に入学すると間もなく、この教室の附属病院に収容する事になった。
 ……ナアニ……ヨタじゃないったら……恐ろしく疑い深い読者だね君は……虚構うそだと思うならイツ何時なんどきでも本人に紹介してやるよ。スグこの向うの七号室に居るのだから訳はない。「オイ。ポカン君……」と呼ぶと、ビックリしたように振り返る横顔がタマラなく可愛いよ。
 ところでこのシークボーイ……アンポンタン・ポカン君は、その遺伝発作を起して人事不省に陥ったあとで、ヤット正気を取返すと間もなく、自分の生れ故郷や、両親の名前は勿論のこと、自分自身の名前までもキレイに忘れてしまっている事を、自分自身に気が付いた。そこで取りあえず吾輩からアンポンタン・ポカン博士の名誉ある称号を頂戴している訳だが、ポカン博士自身も元来のアタマがいだけに、この事が非常に気になるらしく、毎日毎日夜も昼もブッ通しに、病室の中の人造石の床を歩るき廻って、自分の脳髄の事ばかり考えているらしいのだ。……「わからないわからない。いったい僕の脳髄は今まで何をしていたのだろう……何を考えていたのだろう」とか又は「僕の脳髄が僕の全身を支配しているのか……それとも僕の全身が僕の脳髄を支配しているのか……解らない解らない」……といったような事を口走っては、蓬々ぼうぼうと伸びた自分の頭の毛を掻きまわしたり、拳固げんこでコツンコツンと後頭部をなぐり付けたりしいしい、一分間も休まずに、部屋の中をグルグルと歩きまわっているのだ。
 ところが、そのうちに、ソンナ発作がダンダンと高潮して来るとポカン博士は、やがて部屋のマン中の人造石の床の上に立止まって不思議そうにキョロキョロとそこいらを見廻わし初める。そうして自分の蓬々たる頭の毛の中から、何かしら眼に見えないものを掴み出して、床の上に力一パイ叩きつける真似をする。それからその床の上にタタキ付けたものを指して、脳髄に関する演説を滔々とうとうと、身振ゼスチュアまじりに初めるのであるが、そのうちに自分の演説に感激して、興奮の絶頂クライマクスに達して来ると、ツイ今しがた自分の頭の中から掴み出して床の上にタタキ付けた眼に見えない或るものを、片足を揚げて一気に踏み潰す真似をすると同時に、ウーンと眼をわして床の上に引っくり返ってしまう。そうして約三四十時間も前後不覚の状態に陥って、昏々こんこんと眠り続けると、又もや、アンポンタン・ポカン然として眼球めだまをコスリコスリ起上るのだ。そうして前の通りに「わからないわからない」を繰返しながら部屋の中をグルグルと歩るきまわる。そのうちに又も、頭の中から眼に見えないものを取り出して足下の床の上にタタキ付ける。前後左右を見まわして、拳固を振り上げながら脳髄の演説を開始する。そうして何だか解からないものを床の上で踏み潰しては、ウーンと云って引っくり返る……というのが、この青年名探偵アンポンタン氏の日課になっているのだ。

 ……ところで面白いのはこのポカン博士の演説なんだ。
 ポカン博士が演説をする時は、何でもどこかの往来の烈しい、電車の交叉点か何かで、繁華な人ゴミの中に立ち止まっているつもりらしい。交通巡査みたいに大手を拡げて、前後左右の群集を睨みまわす恰好をすると、イキナリ拳固を空中に舞わしながら、金切声を振り絞り初めるのだ。
「……止まれッ……。
 ……止まれッ……。
 電車も、自動車も、自転車も、オートバイも、バスも、トラックも、人力車も皆止まれッ……。紳士も、淑女も、モガも、モボも、サラリマンも職業婦人も、ブルもプロも、掏摸すりも、巡査も動いてはいけない。
 ……諸君はタッタ今、非常な危険と直面しているのだ。
 ……諸君は現在タッタ今、脳髄で物を考えつつ歩いているだろう。……その脳髄の判断力でもって交通巡査のゴー・ストップを聞き分け、旗振りの青と赤を見分け、飾窓ショーウインドの最新流行を批判し、ポスターに新人の出現を知り、夕刊記事の貼出しに話題トピックを発見し、掏摸を警戒し、債権者を避け、イットの芳香を追跡しつつ……イヤが上にもその脳髄の感触を高潮させつつ、文化人のプライドをステップしている……つもりでいるだろう。
 ……それが危険だと云うのだ。それが非常だと警告するのだ。……脳髄の非常時……。

 ……見よ。聞け。驚け。あきれよ……
 ……現代二十億の人類はことごとく、諸君と同様の阿呆である。郵便局に自分の引越し先を尋ねに行く頓馬とんまである。電話口でこちらの番号を怒鳴る慌て者である。『脳髄』を『物を考えるところ』と錯覚している低能児である。
 そうして、そんなトンチンカンな幻覚錯覚を得意然と肩の上に乗っけて、その錯覚のタッタ一つを唯一無上のタヨリにしつつ『アタマは最上の、最後の資本』『現代はアタマのスピード時代』という倒錯観念の競争場裡に、かくもおびただしい電車、自動車、オートバイを飛ばせて、夜を日に継いで人類文化を、ゴチャゴチャの悶絶界に追い込みつつある、諸君自身の脳髄である。
 とてもケンノンで見ていられないではないか。

 ……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。
 アンポンタン・ポカンのスローガンだ。
 人類文化の罵倒だ。
 脳髄文明の覆滅だ。
 唯物的科学思想の建てかえ建て直しだ。

 ポカンは宣言する。
 ……『物を考える脳髄』はにんげんの最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。……天地開闢かいびゃくの始め、イーブに智慧のこのみを喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……それが『物を考える脳髄』の前身である……と……。

 ……眼を開け……。
 ……この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。
 ……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄信を清算せよ。

 人間の脳髄は自ら誇称している。
『脳髄は物を考える処である』
『脳髄は科学文明の造物主である』
『脳髄は現実世界に於ける全智全能の神である』
 ……と……。
 脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭称しつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を奴僕ぬぼくの如く駆使している。最上等の血液と、最高等の営養物を全身から搾取しつつ王者のおごりを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでもどこまでも高めて行く一方に、その脳髄の権威を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落の淵に沈淪ちんりんさせている。
 その『脳髄の罪悪史』のモノスゴサを見よ。

 吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左の如き断定を下すことを得た。
 いわく……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。
 『人間を神様以上のものと自惚うぬぼれさせた』
 これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。
 『人間を大自然界に反抗させた』
 これが、その第二ページであった。
 『人類を禽獣きんじゅうの世界にい返した』
 というのがその第三ページであった。
 『人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた』
 というのがその第四ページであった。
 『人類を自滅の斜面スロープへ逐い落した』
 それでおしまいであった。

 事実は何よりも雄弁である。
 医学の歴史をひもどけばわかる……。
 人間の脳髄というものを、初めて人間の屍体の中に発見したのは西洋医学中興の祖と呼ばれている大科学者ヘポメニアス氏であった。
 ところがその近代科学の泰斗たいとヘポメニアス氏の偉大なる脳髄は、すこぶる大胆巧妙を極めたトリックを使って、自分が発見した死人の脳髄の機能を、絶対の秘密裡に封じてしまったものである。
 すなわちヘポメニアス氏の脳髄は『俺の正体がわかるものか』といわむばかりに、灰白色はいいろの渦巻きをヌタクラせている『死人の脳髄』と、ヘポメニアス氏自身の毛髪蓬々ぼうぼうたる頭蓋骨の中の『生きた脳髄』とを睨み合わせて、あらゆる推理の真剣勝負を開始させたのだ。
 ……ハテ。これは一体、何の役に立つものであろう。造化の神は何のために、コンナ灰白色の蛇のトグロ巻きみたようなものを、頭蓋骨の屋根裏に納めて御座るのだろう……。
 という難問に引っかけて、ヘポメニアス氏の頭を幾日幾夜となく悩まし苦しめたのだ。
 ……ハアテ……この蛋白質の団塊かたまりは、なみだと鼻汁の製造場のようにも見えるし、所謂いわゆる章魚たこくそに類似した物のようにも思える。人間と名付くる建築物たてものの屋根裏に在るところを見ると、貴重な滋養分の貯蔵タンクではないかとも思えるし、小腸とおんなじような曲線でヌタクッているところから想像すると、何かの消化器官のようにも考えられる。……ハテ。何だろう……わからないわからない……。
 といった風に散々に首をひねらせ、苦心惨憺させ、昏迷疲労させた。そうしてトウトウ何が何だか解らなくしてしまったあげく、ヘポメニアス氏の頭蓋骨の内側を、シンシンと痛み出させたのであった。
 偉大なる天才科学者ヘポメニアス氏はここに於て、トウトウ物の美事に、自分の脳髄のトリックに引っかかってしまったのであった。そうして机を叩いて躍り上がったのであった。
「……わかったッ……脳髄は物を考える処だッ。その脳髄を使い過ぎたためにコンナに頭が痛み出して来たんだッ……」
 ……と……。

 そこでその科学者は直ちにメスをって、その脳髄を取出した屍体の全部を十万分の一ミリメートルの薄さに切りきざんだ。そうして人体の各器官を形成する三十兆の細胞群が、隅から隅まで一粒残らず、脳髄を中心とした神経細胞の糸を引き合っている事実を確かめるや否や、死人の脳髄を両手に捧げて、一気に往来へ飛び出した。
「……わかったぞッ。わかったぞッ。何もかもわかったぞッ……。
 生命の本源を神様の摂理だなぞというのは嘘だ。神様は人間の脳髄が考え出したものに過ぎないのだ。
 ……この脳髄を見よ……。
 生命の本源はこの千二百グラム乃至ないし、千九百瓦の蛋白質のかたまりの中に宿っているのだ。吾々の精神意識というものは、この蛋白質の分解作用によって生み出された、一種の化学的エネルギーの刺戟に外ならないのだ。
 ……すべては脳髄の思召おぼしめしなのだ……。
 科学の発見した脳髄こそ、現実世界に於ける全知全能の神様なのだ」
 ……と……。

 当時の基督キリスト教の迷信と僧侶の堕落腐敗に飽き果てていた尖端人種は、これを聞くや否や大喝采裡に共鳴した。れも吾れもとヘポメニアス氏の迷説を丸呑みにした。『脳髄は物を考えるところ』という錯覚を、プレミヤム付きで迷信してしまった。
「そうだそうだ。この世界には神様なんか存在しないんだ。すべては物質の作用に外ならないんだ。吾々は吾々の頭蓋骨の中に在る蛋白質の化学作用でもって、新しい唯物文化を創造してゆくんだぞッ……」
 ……と……。

 かくして物の美事に人間世界から神様を抹消ノックアウトした『物を考える脳髄』は、引続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯物文化を創造し初めた。
 脳髄はまず人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。
 あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人をふやし、産児制限を自由自在にしてやった。
 あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。
 あらゆる光りを工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。
 そうして自然のである人間をかたぱしから、鉄と石の理詰めの家に潜り込ませた。瓦斯ガスと電気の中に呼吸させて動脈を硬化させた。鉛と土で化粧させて器械人形ロボットと遊戯させた。
 そうしてアルコールと、ニコチンと、阿片アヘンと、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚薬と、貞操消毒剤と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴチャゴチャが生み出す不自然の倒錯美をホントウの人類文化と思い込ませた。……不自然なしには一日も生存出来ないように、人類を習慣づけてしまった。
 ……そればかりでない……。

 人間世界から『神様』をタタキ出し、次いで『自然』を駆逐し去った『物を考える脳髄』は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合財を『唯物科学的に見て不合理である。だから不自然である』という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ、自涜じとく化させ、神経衰弱化させ、精神異状化させて、遂に全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷さまよわせるようになってしまった。
『物を考える脳髄』は、かくして知らずらずのうちに、人類を滅亡させようとしているのだ。

 その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ。
 これが放任しておかれようか。
 そればかりじゃない……。

『物を考える脳髄』は、かくして人間の一人一人を、錯覚の虚無世界に葬り去るべく害悪をたくましくする一方に、人類全体のアタマを特別念入りの手品にかけて、ミジンに飜弄しつくしているのだ。
 そうして同時に吾輩……アンポンタン・ポカンの探偵眼を徹底的にくらますべく試みているのだ。
 ……見よ……。
 ……『脳髄のトリック』に飜弄されつつある『脳髄の悲喜劇』が、いかに夥しく諸君の鼻の先に転がりまわっているかを見よ。『脳髄のノンセンス劇』が如何に真剣に、全世界を舞台として展開されつつあるかを看取せよ。
 ……よ……。
『物を考える脳髄』はこの通り人類世界の文化に君臨している。……宇宙万有の秘奥に到るまで、考え得ざるものなし……と誇称しつつ、科学文化のドン底までも支配し指導しつつある。
 ……ところがドウダ……。
 その『アラユル物を考え得る脳髄』が、自分自身に考え出した学理学説と、その学理学説によって生み出した唯物文化の産物を、地球表面上、眼も遥かに、気も遠くなる程ギラギラピカピカと積上げ、並べ立てているそのマッタダ中に、タッタ一ツ、カンジン、カナメの『脳髄自身』に関する科学的の研究ばっかりを、疑問の真暗まっくらがりの中にホッタラかしているのはドウシタ事か。宇宙万有の神秘をドン底までも考えつくして来ている脳髄が、脳髄自身の事だけをタッタ一つ考え残しているのはドウシタ訳か。……今日までの科学者の学説、論文の中に、脳髄の作用を的確に説明し得た文献が只の一篇も無いのは何という不思議な現象であろう。
 のみならず諸君……もしくは諸君の脳髄の代表者たる全世界の科学者たちの脳髄が、きょうが今日までこの矛盾、不可思議に気付かないでいたのは、何という迂濶うかつさであろう。

 ……見よ……人間の脳髄は、人間の肉体に関する研究をドコドコ迄も行き届かせている。解剖、生理、病理、遺伝と、あらゆる方面に手を分けて、微に入り、細に亘らせているではないか。病気の治療も同様に、内科、外科、耳鼻科、皮膚科、眼科、歯科と数をくして研究を競わせているではないか。
 しかもそのマッタダ中に、そんな研究を編み出した脳髄と、その脳髄に関する病気の研究ばかりを大昔のマンマの『盲目探めくらさぐりの状態』に放置しているのは、何という間の抜けた片手落ちか……精神病の研究のために是非とも必要な精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞいう研究科目を、世界中のドコの大学にも分科させないで、所謂いわゆる、脳病とか、精神病とかの治療に、あらゆる医者のさじを投げさせてしまっているのは、何という脳髄の不行届ふゆきとどきであろう。……『人間の生命、もしくは生命意識はドコにドウして宿っているのか』『幻覚はドウして見えるのか』『早発性痴呆とはドコがドウなった事をいうのか』……といったような、誰でも不思議がる『脳髄』関係の重要問題を、これ程に賢明な人間の脳髄が、かたぱしから不得要領の大欠伸おおあくびの中に葬り去っているのはソモソモ何という大きな無調法であろう。
 占筮者うらないしゃが自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなくなってしまっている。
 これが脳髄の悲喜劇でなくて何であろう。
 脳髄に飜弄されつつある脳髄たちの大ノンセンス劇でなくて何であろう。

 モット手近い、痛切なところでは俗に所謂いわゆる『泣き中気ちゅうき』とか『笑い中気』とかいうのがある。これは腹が立とうが、ビックリしようが、何でもカンでも感情が動きさえすればおなじ事……泣くか、笑うかの一本槍で、ほかの感情の一切を外へあらわし得ない病気であるが、この病気の説明を脳髄はヤハリ『脳髄が物を考える』式で押し通して行くべく、全世界の科学者に厳命している。だからこの厳命を奉戴した世界中の科学者たちは、こうした中風の症状を「これは脳髄の全体が、出血のためにしびれてしまっているのだ。そうしてその中で『泣く』とか『笑う』とかいうタッタ一つの感情を動かす部分だけが生き残って活動しているのだ。だからその人間に起るすべての感情はその『泣く』か『笑う』かの一箇所の神経細胞の活動によって、表現されるよりほかに行き道がなくなっているのだ。……脳髄は物を考える処……という前提を前提とする以上、ドウしてもそれ以外に説明の仕様がないのだ」としか説明が出来なくなっているではないか。
 ところが生憎あいにくな事に、そうした中風患者の脳髄を病理解剖に附した結果を見ると、いつも豈計あにはからんやの正反対になっている。脳出血でやられているのは、脳髄の全体ではない。僅かに脳髄の中の或る小さな、狭い、一箇所だけに限られている場合が極めて多いのだから皮肉ではないか。泣きも笑いも出来ない脳髄のイタズラ劇にしかなり得ないから悲惨ではないか。
 モット皮肉で奇抜な例には夢中遊行むちゅうゆうこうというのがある。この病気は無論アタマ万能宗の科学者達には寄っても附けない不可解病として諦らめられ、敬遠されているのであるが、しかもその上に、そのフラフラの夢中遊行患者は、そんな科学者たちのアタマをイヨイヨ馬鹿にすべく、色々な奇蹟を演出する事があるのだ……たとえばこの種の患者は、その夢中遊行の発作にかかっている最中に限って、トテモその人間のアタマとは思えない素晴らしい智慧や技巧をあらわして、人間わざでは出来そうにないスゴイ仕事をやって退けたりする。……のみならずその人間があくる朝眼を醒ますと、いつの間にやら元の木阿弥もくあみのケロリン漢に立ち帰って、そんな素敵な記憶の数々を、ミジンも脳髄に残していないというような摩訶まか不思議をあらわす。そうして『脳髄は物を考える処』とか『感ずる処』とか『記憶する処』とかいう迷信を迷信しているその方面の専門家連中の脳髄の判断力を一つ残さず、絶対、永久のフン詰まり状態にフン詰まらせている。
「トテモ人間の脳髄では考えられない」
 なぞと悲鳴をげさせているからモノスゴイではないか。
 ヤリキレナイ脳髄の恐怖劇ではないか。

 しかも唯物宗の牧師、科学万能教の宣教師をもって自ら任じている科学者のすべては、それでもまだりないで、脳髄の絶対礼讃を高唱している。
「脳髄の大きさはその持ち主の進化程度をあらわし、その渦紋の多寡たかはその文化程度を示している。すなわち人類は、その大きな、発達した脳髄のために存在しているので、その脳髄は又、物を考えるために存在しているのだ。だから脳髄は文化の神、科学世界の造物主、唯物宗の守り本尊である」
 とか何とかいう迷説を聖書以上に尊重して、一所懸命に自己の脳髄の権威を擁護しているが、しかも、そんな科学者たちの顕微鏡の下で、脳髄どころか、頭も尻も無い下等動物の連中が、暑い寒いを正確に判断したり、喰い物のり好みをするのはまだしも、人間の脳髄なんぞが寄っても附けない鋭敏な天気予報までも、ハッキリと現わして見せるから痛快ではないか。おまけにソンナ下等動物は、口にこそ云わねメイメイに身ぶり素振りで、
「脳髄が無くとも物は考えられますよ」
「私たちは全身が脳髄なのですよ」
「私たちは脳髄の全体をソックリそのまま変形して、手足にしたり、胴体にしたり、又は耳、眼、口、鼻、消化排泄、生殖器官なんどの色々に使い分けているのですよ」
「あなた方は、そんな作用を分業にして、別々の器官に受持たせておられるだけの事ですよ」
「あなた方の手足だってチャント物を考えているのですよ」
「お尻でも見たり聞いたりしているのですよ」
「股をねれば股だけが痛いのですよ」
のみが喰えばそこだけがかゆいのですよ」
「脳髄は痛くも痒ゆくも何ともないのですよ」
「まだお解りになりませんか」
「アハハハハハハハハ」
「オホホホホホホホホホ」
「イヒヒヒヒヒヒヒ」
 と笑い転げているからベラボーではないか。
 これが脳髄の諷刺劇でなくて何であろう。
 これが脳髄のトリック芝居でなくて何であろう。

 それかあらぬか一方には、この唯物文化のまっただ中に、精神や霊魂関係の、怪奇劇や神秘劇が大昔のまんまに現われて来る。しかも、モウ沢山というくらいに、後から後から現われて来て、一々人間のアタマを冷笑して行くから愉快ではないか。
 唯物資本主義の黄金時代、科学文化で打ち固めた大都会のマッタダ中で、死んだ人間が電話をかけたり、知らない人間が一緒に写真に映ったりする。又は宝石が美人の寿命を吸い減らしたり、魔の踏切が汽車をおびやかしたりするはまだしも、大奈翁だいなおうの幽霊がアメロンゲン城の壁を撫でて、老カイゼルに嘆息して聞かせたり、ツタンカーメン王の木乃伊みいら埃及エジプト探検家にたたったりする。現に科学的推理の天才的巨人、指紋、足跡、煙草の灰式、唯物的探偵法の創始者シャーロック・ホルムズさえも、晩年に到ってはトウトウこの種の怪現象に引きずり込まれて、心霊学の研究に夢中になったまま息を引取った……のみならず、あの世からイーサーの波動を用いない音波をもって、生き残った妻子に話しかけた……という位である。みんな不思議だ不思議だというが、そんな事実が在り得るとか、在り得ないとか断言し得る者は一人も居ない。あってもしまいには水掛論みずかけろんになってしまうので、結局、お互いの脳髄を怪しみ合いつつ物別れになる事が、最初から解り切っている。そうして、あーでもない。コウでも駄目だと、あらゆる推理や想像をねくりまわしたあげく、トウトウ悲鳴をあげ初めて『脳髄が、脳髄の事を考えるとはコレ如何いかに』なぞと、場末の寄席みたようなコンニャク問答の鉢合せを繰り返している現状ではないか。
 ドウダ諸君……ザットしたところがコンナ調子である。
『人間の脳髄』が何よりも先に研究を遂げておかねばならぬ『人間の脳髄の病理』……精神病学の基礎、中心となるべき重要な諸問題は、御覧の通り『物を考える脳髄』のために、かたぱしからフン詰まりの状態を現出させられているではないか。地上、一切の精神病学者と、一切の精神病院の診断、治療を、無能、無意義の嘲笑の中に立往生させているではないか。そうして地上、無数の精神病者を、永久、絶対に救われ得ない侮蔑、虐待の世界に放置させているではないか。この世からなるキチガイ地獄を、全地球表面上に現出させているではないか。
 これが偉大なる『脳髄のイタズラ劇』でなくて何であろう。『物を考える脳髄』が『物を考える脳髄』に自作自演さした一大恐怖ノンセンス劇のドン詰めでなくて何であろう。

 拍手するものは拍手せよ。
 喝采するものは喝采せよ。
 泣くものは泣け。笑う者は笑え。
 吾輩……アンポンタン・ポカンはこの脳髄文化の現状に気が付くと同時に、歯の根が合わなくなったのだ。この恐怖戦慄に価する脳髄社会の光景を、人知れず嘲笑しているポカン自身の脳髄の冷めたさを自覚すると同時に、左右の膝頭ひざがしらの骨がガタガタとはずれそうになったのだ。この脳髄のトリックをタタキ破って、脳髄に対する汎世界的の唯物科学的迷信をドン底から引っくり返して、かくも残忍、悽愴を極めた大恐怖ノンセンス劇の興行を停止させずにはおられなくなったのだ。
 吾輩……アンポンタン・ポカンはここに於て立ち上った。奮然として腕によりをかけた。猛然、畢生ひっせいの心血を傾注した最高等の探偵術を応用しつつ、無限の時空に亘って捜索の歩を進めた結果、遂にこの脳髄と称する大悪魔の正体……『呪われたる唯物文化の偶像』の正体を徹底的に看破する事が出来たのだ。全人類界の大悪夢……『物を考える脳髄』に関する迷信、妄執をび醒ますべく『絶対無上の大真理』に逢着ほうちゃくする事が出来たのだ。
 ……しかも……その大真理なるものは、それが余りに簡単で、平凡であり過ぎるために、かえって誰にも気付かれなかった程の驚異的な大真理であった。初めて脳髄が発見されて以来、ベーコン、ロック、ダーウィン、スペンサー、ベルグソンなんどに到るまでのアラユル非凡な脳髄たちが、彼等自身に認識し得なかったところの『脳髄の真活躍』そのものでなければならなかった。地上二十億の生霊を弄殺ろうさつしつつある『脳髄の大悪呪文』を焼き棄てる一本の燐寸棒マッチぼうに外ならなかったのだ。

 諸君よ。欣喜雀躍きんきじゃくやくせよ。勇敢に飛び上り、逆立ち、宙返りせよ。フォックストロット、ジダンダ、ステップせよ。
 交通巡査も安全地帯も蹴飛けとばしてしまえ。
 古来今に亘る脳髄の専制横暴……人類最後の迷信から解放された凱歌を歌え。
 吾輩……アンポンタン・ポカンは遂にかくの如くにして、地上の大悪魔を諸君の眼前にまで追究して来たのだ。神出鬼没、変幻自在の怪犯人、残忍非道のイタズラ者のトリックの真相をドン底まで突き止めて来たのだ。そうしてタッタ今、その大悪魔の正体……ポカン自身の脳髄を、諸君の眼の前にタタキ付けて、絶叫する光栄を有するのだ。……いわく……
 ……脳髄は物を考える処に非ず……
 ……と……」

       ×          ×          ×

 アッハッハッハッハッハッ。どうだい。痛快だろう。超特急だろう。絶対的ブラボーだろう。全世界二十億の脳髄をダアとなすに足る、超特急探偵小説だろう。
 ……ナニイ。まだ解らない……?……。
 アハアハアハ。それは脳髄で考える癖がまだ抜け切れないからだよ。「精神は物質也」式の唯物科学的迷信が、まだ頭の隅のドコかにコビリ付いているせいだよ。
 聞き給え。吾が青年名探偵アンポンタン・ポカン博士は、タッタ今地上にタタキ付けたばかりの泥ダラケの脳髄を指して、コンナ論証を続けているのだ。

       ×          ×          ×

「……見よ……聞け……驚け……呆れよ。
 この脳髄のトリックの真相を……悪魔以上の悪魔の横道おうどうぶりを……。
 吾々人類は、脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス以来、この『物を考える脳髄』のために飜弄され続けて来たのだ。明けても暮れてもこの脳髄の前に、自分のアタマを拝脆はいきさせられるべく……自分の肉体と、精神の全部を挙げて奉仕させられるべく、錯覚させられ続けて来たのだ。そうしてく云うアンポンタン・ポカン自身の頭も、そうした頭の中の一個であったのだ。
 ……しかし……今やその錯覚は打ち破られなければならぬ時が来たのだ。脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス氏の錯覚が清算されねばならぬ機会が来たのだ。ポカンの足下に横たわるポカンの脳髄と同様に、泥塗どろまみれになってしまわねばならぬ時機が来たのだ。
 ……ポカンはこの十字街頭に於て、地上最初の宣言を高唱する。すなわち最尖端の学術……最末期の科学的宗教……アンポンタン・ポカン式『脳髄論』を公表する光栄を有するのだ。
 吾輩ポカンは断言する。『物を考える脳髄が、物を考える脳髄の事を考え得ない』という事は『二つの物体が、同時に、同所に存在し得ない』という物理学上の原則と同様に、万古不易の公理でなければならぬ。だから『物を考える脳髄』の事を考える『物を考える脳髄』は、一番最初に脳髄を発見した科学者ヘポメニアスが、自分の脳髄の作用を錯覚した『脳髄の幽霊』に悩まされ続けて来たのである。そうして今やまさに、自分の脳髄の幽霊に取り殺されようとしている現状である。
 だから吾輩……アンポンタン・ポカンはこれに対して堂々と挑戦したのである。
 ……物を考える処は脳髄ではない……。
 ……物を感ずる処も脳髄ではない……。
 ……脳髄は無神経、無感覚の蛋白質の固形体かたまりに過ぎない……。
 ……と……。

 ……これあしからん。諸君は何が可笑おかしくて、そんなに笑い転げるのだ。
 ……何でソンナに往来を転がりまわるのだ。
 何だって交番に這い込むのだ。……電柱に抱き付くのだ。……赤いポストに接吻するのだ。……諸君は精神に異状をきたしたのではないか。
 ……ナニナニ……?????……。
 ……『脳髄で考えなくてドコで考える』と云うのか……。
 ……『脳髄で感じなくてどこで感ずるのだ』と云うのか……。
 ……『吾々の精神意識はどこに在る』……『吾々はドウして生きている』というのか……。
 ……ナアンダ……。
 チットモ可笑しい問題ではないではないか。不思議でもなければ奇抜でもない。極めて平々凡々の問題ではないか。

 ……パンツの泥を払え。
 ……シャッポを冠り直せ。
 ……クラバアツを正して聞け……。

 吾々の精神……もしくは生命意識はドコにも無い。吾々の全身の到る処に満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジ事なんだ。
 お尻をねればお尻が痛いのだ。お腹がくとお腹が空くのだ。
 すこぶる簡単明瞭なんだ。
 しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかりにくいかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、吾々が常住不断に意識しているところのアラユル慾望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、吾々の全身三十兆の細胞の一粒一粒ごとに、絶対の平等さで、おんなじようにもっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒ごとに洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ。
 赤い主義者は、その党員の一人一人を細胞と呼んでいる。それと同様に細胞の一粒一粒を人間の一人一人と見て、人間の全身を一つの大都会になぞらえると、脳髄はその中心に在る電話交換局に相当する事になる。そうしてソレ以外の何物でもあり得ない事がわかるのだ。

 ……それでもまだ合点がてんが行かなければ吾輩、ポカンと一緒にこっちへ来るがいい。時間と空間のあらん限りを馳けめぐって、脳髄の正体を突止めて行ったポカンの苦心惨憺の蹤跡あとをモウ一度くり返して辿たどってみるがいい。

 まず第一に脳髄が如何なる処から、如何なる理由の下に、如何にして生まれて来たかを探るべく、アタマ航空会社専用の超スピード機『推理号』の銀翼の間に、吾輩アンポンタン・ポカンと相並んで同乗するのだ。そうして爆音勇ましくアタマ飛行場を離陸すると、無限の時空を一気に翔破しょうはしつつ、諸君の眼下に横たわる雄大、荘厳を極めた万有進化の大長流を六億年ほど逆航するのだ。
 見たまえ。……現在の人類全盛の世界は一瞬間に未来の夢となって、マンモス、エレファス、ステゴドンなぞいう巨獣が、とき得顔えがおにノサバリ廻っている百万年前の象の世界が、脚下に展開して来るであろう。
 それから更に、その百万年前の竜の世界、その又以前の鳥の世界、その又ズット以前の魚の世界、貝類の世界、スポンジの世界と、次第に進化の度の低い、小さな生物ばかりの世界へ超スピードで引返して、遂に六億万年前の古世代までやって来ると……ドウダ……天地をくつがえす大噴火、大雷雨、大海嘯おおつなみ、大地震の火煙ひけむり、水けむり、土煙つちけむりが、あとからあとから日月をおおいながら渦巻きのぼっているこの世界の若々しさはドウダ。地球の元気さはドウダ。
 そこでこの地表に泡立ち漂っている塩分の薄い、摂氏四十度内外の温度を保っている海水の一滴を採取して、顕微鏡にかけて覗いてみたまえ。諸君は眼の前に、無量無数に浮游している単細胞生物の拡大像を発見するであろう。将来一切の生命の共同の祖先となるべき元始細胞の大群集を、さながらに見渡し得るであろう。……しかもこの元始細胞こそは地球の表面が、御覧の通りの天変地妖を起しながら、少しずつ少し宛冷却して来るうちに、あとからあとから作り出して来た色々な化合物の中でも、一番最後に出来た最高等複雑なものであった。諸原素の活力を最も円満、敏活に発揮し得るように化合させた微妙精英の有機体……あめ、の、みなかぬしの正統、エホバのいと、日の神の王子ホルスともたたうべき、地上最初の生命の群れに外ならなかったのだ。
 だからこの元始細胞の一粒一粒は、その環境の変化に応じてアラユル意識だの、感情だの、判断力だのを現わし得る、無限の霊能を持っていたものである。自分以外の無機物、有機物を同化して、自己を増大し分裂すると同時に、その分裂した近所合壁きんじょがっぺきの細胞同志に、お互いの感覚や意識を反射交感させ合う霊能までも一緒に持っていたのだ。
 その証拠に見たまえ……諸君の眼の前で、今の元始細胞が盛んに自己を分裂増大して、その形態と能力をグングン進化させ初めたではないか。その霊能でもって見る見るうちに成長し、分裂し、結合し、反射交感して、一心同体となって共鳴、活躍しつつ、自分達の共産的霊能を飽くまでも地上に発揮すべく、次第に高等複雑な姿に進化し初めたではないか。そうして……
最早もう、ここまで進化したら天下無敵だろう。オレサマ以上に進化した奴は他にいないであろう」
 と安心して、自惚うぬぼれ切った奴が、そうした得意時代の姿をソックリそのまま、スポンジ、貝類、魚、鳥、けものという風に、それぞれの子孫に伝えて来るうちに……ドウダ……いつの間にか今日の通りの複雑多様、千変万化のありとあらゆる生物界を、諸君の眼の前に展開させて来たではないか。

 ……ところで見たまえ。
 コンナに色々と千差万別している動物たちの中でも、進化の度合いの極めて低い、海月くらげ以下の動物連中は、御覧の通り脳髄とか、神経りゅうとかいうハイカラなものを持っていないだろう。大昔の通りに全身の細胞同志の反射交感作用でもって、あらゆる感覚を全身同時に意識し合いつつ、考えて、動いて、喰って、寝て、生きているだろう。
 ところが吾々みたように高等複雑な進化を遂げた動物になって来ると、御承知の通り、意識の内容が非常に立て込んで来る。細胞同志の距離間隔へだたりもだんだんと遠くなって『あんな処まで俺の身体からだかしら』なぞと、湯槽ゆぶねの中であしゆびを動かしてみる位にまで長大な姿になっている。だから、手足や、眼鼻が専門専門で分業になっているように、意識の方でも『脳髄』と名付くる自動式、複式、反射交感局を作って、全身三十兆の細胞同志の感覚や、意識を縦横ムジンに反射交感させつつ、全身一斉に……俺は俺だぞ……俺はこうして生きているんだぞ……という気持になっているのだ。
 吾々の全身三十兆の細胞は、かようにして、流れまわっている赤血球、白血球から、固い骨や、毛髪の尖端に到るまでも、吾々が感じている意識の内容をソックリそのままの意識内容を、その一粒一粒ごとに、同時に感じ合って、意識し合っているのだ。
 眼のたまばかりで物を見る事は出来ない。耳ばかりで音は聞えない。その背後うしろには必ずや、全身の細胞の判断感覚がなければならぬ。
 同様に脳髄が、脳髄ばかりで物を考えたり、感じたりする事は不可能である。その背後うしろには必ずや全身の細胞相互の主観、客観がなければならぬ。さもなければ人間の脳髄は、銀幕と観衆を喪失なくした活動写真機と同様の無意義なものになってしまうのだ。
 しかも、その脳髄によって仲介された全身の意識の、反射交感作用の敏活な事というものは、真に驚くばかりである。トテモ電信電話、ラジオぐらいで繋がり合っている人間の社会組織なぞの追付くところでない。……背筋がヒヤリとすると同時に全身がゾ――ッと粟立あわだつ……お尻がチクリとするかしないかに『アッ』と飛び上る……という、それ程左様に迅速敏活を極めているのだ。
 吾々の全身の各器官を形成する三十兆の細胞の一団は、こうしてメイメイに各自専門の仕事を分担しつつ、脳髄の反射交感機能を使って、一斉に、直接に物を見て、聞いて、いで、味わっているのだ。脳髄を中心として一斉に意識し、感激し、闘い、歌い、舞い、めき、叫んでいるのだ。
 ……嬉しいと食慾が進む。胃袋も一緒にハシャイでいるからだ。
 ……飯を喰うと、まだ消化もしないうちに元気が付く。全身の細胞が同時に満腹するからだ。
 だから吾々が自分の生命、もしくは精神として意識しているものの正体は、全身無数の細胞の一粒一粒が描きあらわすところの主観客観が、脳髄の反射交感作用仲介で、タッタ一つにマン丸く重なり合ったのを、透かして覗いているだけのものだ……という事が、もはや文句なしにわかるだろう。同時に吾々が今日まで迷信させられて来た脳髄の偉大な内容は、実は全身の細胞の一粒一粒に含まれている無限の霊知霊能が、そこで反射交感されているのを錯覚していたものだ……ちょうど電話交換局が、都会を支配していると考えるように……という事実が、何のタワイもなく点頭うなずかれるだろう。

 ……ナント諸君……簡単明瞭ではないか。
 ……いた口がふさがらぬではないか。
 ……現代の科学者たちが、最大、最高級の不可思議とし、驚異としている生命意識の根本問題は、こうして『脳髄が物を考える』という考えを引っくり返して考えると同時に、何の苦もなく氷解してしまうではないか。脳髄の受持っている役割が、手足のソレと同様にハッキリして来るではないか。

 ……それでも、まだわからなければモウ一度、こちらへ来てみたまえ。ポカンの足の下に横たわっているこの脳髄と名づくるアンポンタン・ポカン式、自動式、反射交換局の内部を覗いてみたまえ。この交換局の中に詰めかけている親切明敏を極めた交換嬢……神経細胞たちの仕事振りを参観して見給え……。
 彼女たち……神経細胞の大集団は、御覧の通り自分自身に電線となり、スイッチとなり、コードとなり、交換台、中継台となり、又はアンテナ、真空管、ダイヤル、コイル等に変形すると同時に、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係り、笑い係り、見係り、聞係り、記憶係り、惚れ係りなぞいう、あらん限りの細かい専門に別れながら、アノ通り夜となく昼となく、浮世を離れた気持になって、全身三十兆の市民の気持を隅から隅まで、反射交感させられているのだ。
 ……諸君は彼女たちに話しかけてはいけない。
 彼女たちは全身の細胞群の中から選み出された反射交感術の専門技手なのだ。だから彼女たちは、普通の交換局の彼女たちと同様に、自分がドンナ事を反射交感しているか……なぞいう事は全然知らないまま、一分一秒の休みもなく呼び出され、呼び出し、切り換え、継ぎ直させられているのだ。……内閣が代ろうが戦争が初まろうが、大地震が初まろうが、大火事になろうが、又は、暑かろうが寒かろうが、頭に蜂がそうが、尻に火が付こうが、頓着しているひまは無いのだ。彼女たちはタダそうした意識や、判断や、感覚を、全身に反射交感するアンポンタン・ポカン式電池、コード、交感台、コイル、ダイヤル、真空管、等々々に過ぎないのだから……。
 だから諸君は彼女たちに話しかけてはいけないのだ。彼女たちに物を考えさせてはいけないのだ。彼女たちにソンナ受持以外の仕事をさせて、彼女たちを二重に疲れさしてはいけないのだ。
 そうして彼女たちが、ほかの事を考えなければ考えないほど……単純な反射交感の仕事だけに一心不乱になればなる程、全身の反射交感機能が敏活、迅速を極めて行く。アタマが疲れない。チラチラしなくなる。頭脳明晰……シーク……ホガラカという事になって行くのだ。
 ナント簡単明瞭ではないか。アタマが、アンポンタン・ポカンとなるではないか。
 吾輩……アンポンタン・ポカン局長はここに於て明言する事が出来る。
 この簡単明瞭なる脳髄局のアンポンタン・ポカン式、反射交感組織にシャッポを脱いで、頭脳明晰……意識ホガラカとなったアンポンタン諸君のアタマならば、最早もはや、二度と再び脳髄のトリックに引っかからないであろう。脳髄で物を考えないであろう。……そうして最尖端式脳髄学のトップのトップを切った大博士となって、アラユル脳髄関係の不可思議現象を、一挙にアンポンタン・ポカン化し得ると同時に、この人類文化の死命を掌握する大怪魔『脳髄』の正体をここまで、的確に探偵し、曝露して来た吾輩……かくいうアンポンタン・ポカンの名脳髄振りに、今一度シャッポを脱がずにはいられなくなるであろう……と……。
 しかしながら諸君の中には、まだシャッポを脱がない人が居るかも知れない。
 これだけではまだ十分な説明が出来ないであろうところの精神病関係、もしくは心霊に関する各種の怪奇、不可思議現象について、首をひねっている篤学の士が居るかも知れない。
 ……よろしい……大いによろしい。
 そういう人々こそ共に怪奇を語るに足る人々である。この地上、最大の怪奇的神秘の正体……一切のエロ、グロ、ノンセンスの主人公たる脳髄を、徹底的にアンポンタン・ポカン化しなければ止まない最新、最鋭、最高級の尖端人種でなければならぬ。
 ……宜しい……大いに宜しい。
 そのような人々は済ないがモウ一度シャッポをかむり直して、脳髄局の大玄関に引返してくれ給え。そうしてここだここだ……ここに掲示してある『脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約』なるものを読んでみたまえ。
 ドウダイ諸君……この規約箇条はこの通り僅かに三箇条しかない。普通の電話交換局加入規約の何十分の一にも足りない。すこぶるアッサリしたものである。しかもこの三箇条の加入規約は、人間の全身三十兆の細胞が、祖先伝来の不文律として、非常識なほど極端に遵奉しているものであるが、しかもこの簡単な三箇条が呑み込めさえすれば、諸君はモウ立派な一人前の、押しも押されもせぬ脳髄学大博士になれるのだ。現在、地球の全表面に亘って演出されつつある脳髄関係のあらゆる不可解劇、皮肉劇、侮辱虐待劇、ノンセンス劇、恐怖劇、等々々の楽屋裏が、如何にタワイもないものであるかを何のタワイもなく看破する事が出来るのだ。
◇第一条 脳髄局ヨリ反射交感シきたル諸般ノ報道ハ、仮令たとい、事実ニあらズトモ、事実ト信ジテ記憶スベシ。 ……泥棒が這入った夢を見て、大声を揚げてうち中を呼び起す連中は、この第一箇条に支配されている連中にほかならないのだ。
◇第二条 脳髄局ヨリ反射交感シ来ラザル事ハ、仮令自身ニ行イタル事トいえどモ、事実ト認ムベカラズ。記憶ニモとどムベカラズ。 ……『昨夜ゆうべ、君の蒲団ふとんを引ったくった覚えはない』なぞと頑張る連中は、この第二箇条を厳守している正直者に相違ない。
 ところで右の二箇条は、現在の精神病学界で二重圏点付きの重大疑問となっている『ねぼけ状態』を引き起す規約である。むろん普通のアタマの人間にも、よくある事だし、文句も簡潔だから記憶し易いが、第三条となると御覧の通り、文句が少々ヤヤコシイようである。しかし意味は前の二箇条と同様すこぶる簡明である。すなわち……
『脳髄の反射交感機能に異状が起った場合には、脳髄の無い下等動物と同様に、脳髄以外の全身の細胞の反射交感作用を脳髄の代りに活躍させよ』
 という意味の規約で、いわば脳髄の非常時に対する応急手段とでもいおうか。……しかもの『物を考える脳髄』が今日まで、幽霊、妖怪、幻覚錯覚、精神異状、泣き中気ちゅうき、笑い中気、夢中遊行、朦朧もうろう状態なぞいうあらゆる超科学的、もしくは超説明的な怪現象を演出して、全世界の科学者の脳髄をドン底まで飜弄して来たモノスゴイ手品の種シカケは、実にこの簡単明瞭な第三条の規約の逆用そのものに外ならなかったのである。いわく、
◇第三条 脳髄局ノ反射交感機能ニ故障ヲ生ジタル場合、ソノ故障ヲ生ジタル一個所ニ於テ反射交感サレツツアリシ或ル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ絶チ、全身ノ細胞各個ガ元始以来保有セル反射交感作用ヲ直接ニ元始下等動物ト同様ノ状態ニ於テ(脳髄ノ反射交感作用ト無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ感覚シ、判断シ、考慮シ、又ハ全身ヲ支配シテ運動活躍セシムルヲ得ベシ。【附則】 (イ)脳髄局ガ反射交感スルいとまナキ急迫ノ場合……例エバ無意識ニ眼ヲ閉ジ又ハ飛ビ退ク場合等。(ロ)麻酔セル場合……例エバ麻酔剤ニテ脳髄ノ全体ガ反射交感機能ヲ停止シイル場合ニ、全身ノ細胞ノ感覚、意識記憶等ニヨリテ行ウ無意識ノ挙動言語等。(ハ)脳髄ガ異状ノ深度ニ熟睡セル場合……例エバ夢中遊行、寝言、歯ギシリ等。以上ノ三種類ノ場合モコレニ準ズ。 忘れないうちにノートか何かに書き止めておき給え。学生諸君には特におすすめする。この第三条が脳髄衛生学の初め終りで、諸君の持病といってもいい神経衰弱は、要するにこの規約から生まれた病気に外ならない……否……人類の中でも文化民族と自称する者の大部分は現在、この第三条の規約に引っかかって、精神的の破産、滅亡状態に陥りつつあるのだから……。
 と……いうのは他の理由でもない。今まで説明して来たところでもアラカタ想像が付くであろう通りに脳髄局のポカン式反射交感機は、構造が非常にデリケートに出来ているのだから色んな故障を起し易いばかりでなく、その故障箇所の取換えが、なかなか急に行かない。だから止むを得ずコンナ応急手段的な規約が設けられているのだ。
 しかも、こうした脳髄局に於ける反射交感の応急規約、第三条の存在を最も有力に、簡単明瞭に証拠立てて、脳髄が作り出した地上一切の怪奇現象のカラクリの種明しをするのに持って来いの第一例というのが、ツイ今しがた引合いに出した『泣き中気』『笑い中気』だから愉快ではないか。
 すなわち脳髄の中の或る一個所……たとえば『笑い係り』の交感台が、脳出血のために麻痺して、反射交感が不能になると、そこで反射交感されていた『笑いの電流』だけが第三条の規約通り、ほかの意識との連絡を失って遊離してしまう。そうして脳髄以外の全身の細胞が元始以来遺伝して来ている反射交感の機能を先廻りに使用しながら、何でもカンでも無暗矢鱈むやみやたらに笑わせるのだ。ほかの『怒り』や『悲しみ』の電流が動きかけても、その電流が中央の反射交感台を遠まわりして来るうちに、遊離している『笑いの電流』の方が、直接に全身の細胞を馳けまわって、先へ先へと笑い散らかして行くのでほかの感情が外へあらわれるすきが無いのだ。これが俗に『笑い中気』という奴で『怒り中気』でも『泣き中気』でも、みんな、おなじ理屈で起るのだ。
 いうまでもなく、これは脳出血から来た故障だから、病理解剖をして頭のふたを取ってみればすぐにわかる。……『ハハア。ここが笑いの電流を交感する処だな』……という事実が一目瞭然する訳であるが、しかし、実をいうとコンナ風に、肉眼で見える脳髄の故障というものはドチラかといえば例外に近い方で、まだこのほかに眼に見えない脳髄の故障が演出する怪奇現象の種類がドレ位あるか、わからない。所謂いわゆるエロ、グロ、ノンセンスのモノスゴイところを取交とりまぜて科学文明の屋根裏から地下室……アタマ文化の電車通りから横路地に到るまで、昼夜不断にウヨウヨヒョロヒョロと、さまよい廻っているのだ。……のみならず、その怪奇現象ソレ自身の一つ一つが又、ソックリそのままに、聴診器にも這入はいらず、レントゲンにも感じないデリケートな脳髄の故障を、一つ一つにハッキリと証拠立てているから面白いではないか。
 まず第一に、何よりも憤懣に堪えないのは、現代の所謂『物を考える脳髄』諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が存在している事実を、夢にも気付かないでいることだ。……だから『脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない』とか何とか云って、ヤタラに頭を抱えたり、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。……脳髄が物を考える処でない……単純な反射交感専門のアンポンタン・ポカン局……という事実にミジンも気付かないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力している事だ。……電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。
 そのために脳髄局の交換手たちがドレ位、事務の過重負担に悩まされているか……そのためにドレくらい思い切った反射交感事務の間違い……幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、殆ど想像も及ばないであろう。
 論より証拠……事実は眼の前だ。
 アンマリ脳髄で物を考え過ぎると、電流を通じ過ぎたコイルと同様に、脳髄の組織の全体が熱を持って来て、その反射交感の機能が弱り初める。そうすると全身の細胞に含まれている色んな意識が、お互い同志に連絡をうしなって、めいめい勝手な自由行動をりはじめる事になる。ソイツが軽い、半自覚的な、意識の夢中遊行となって、全身の細胞が作り出している意識の空間を無辺際に馳けまわるのだ。……諸君が何か知ら考え詰めてアタマの疲れた時分にウットリと凝視している、アノ取止めのない空想とか、妄想とかいうものがソレで、そのうちに脳髄がイヨイヨ疲れて眠り込んで来ると、そんな意識同志の連絡もイヨイヨ絶え絶えになって来る。そうして次第次第に辻褄の合わない夢になって行く状態は、諸君が小説を読みさして眠りかける時だの、教室や電車の中で舟をいだりする際にマザマザと体験しているところであろう。
 昔の人は迷信が深かったから、暗闇の中なぞを行く時には、恐怖のために脳髄を疲らして色々な幻覚や倒錯観念に陥ったものだ。そんな幻視や幻感が、幽霊になったり、妖怪変化へんげになったりして、物の話に伝わり残っているのであるが、しかも、そんな事実を笑う連中はお気の毒ながら現代式のハイカラな神経の持主とはいえないのだ。神経衰弱とヒステリーと、制限剤と睡眠薬を持ちまわる紳士淑女の仲間に這入れないのだ。
 諸君みたような近代人のうちでも、特に目まぐるしい都会生活をやっている人間たちは、真昼さ中でも脳髄の機能を疲らしているから、色んな意識作用や、判断感覚なぞいうものが遊離して、全身の神経末梢……細胞相互間の反射交感機能を這いまわりつつ、フラフラチラチラとした夢中遊行状態になりかけているのだ。……だから、大きな煙突の傍を通ると、今にも頭の上に倒れかかって来るような気がして、思わず急ぎ足になるのだ。……眠っている枕元に、往来の電車の音が走りかかって来るような気がして、ツイ電燈をけてみたくなるのだ。そのほか、ストーブが欠伸あくびをしたの、卵の黄味が皿の中から白眼にらんだの、昨夜帰りがけに、向うの辻の赤いポストの位置が違っていたの、パン焼竈やきがまが深夜に溜息をしたの、画像が汗を流したの、机の抽出ひきだしから白い手があらわれてオイデオイデをしたの、ピストルが自分の方を向いてズドンといったの……というような奇怪現象が、科学文化のマン中に引っ切りなしに起って来るのは、みんな脳髄の疲労から起る、反射交感事務の間違い……すなわち意識の夢中遊行に外ならないのだ。
 ところで前にも断った通り、この程度の精神異常だったら諸君の中にもザラに在るのだ。しかもこの程度の連中は、自分でもウスウス自分の精神異常を自覚しているので、ウッカリ気違い扱いにすると、益々病状を昂進させるおそれがあるから、わざと精神病者の数に入れてないのであるが、コイツが今一歩進んで来るとトテも放ったらかしておけなくなる。金箔きんぱく付の発狂となって、赤煉瓦のアパート生活に、護衛付の資格が出来て来るのだ。
 吾輩……アンポンタン・ポカンが今日まで御厄介になっている九州帝国大学の精神病科教室には、ソンナ連中がウジャウジャ居たもんだ。しかも、ソンナ連中を代る代る教壇へ引っぱり出して、そこの主任の正木キチガイ博士が生徒に講義をするのを聞いてみると、チョウドこの吾輩、アンポンタン・ポカンが考えている通りの事を饒舌しゃべっているから面白い。
「……エヘン……人間の脳髄というものは、今も説明した通り、全身の細胞の意識の内容を細大洩さず反射交感して、一つの焦点を作って行くところの複合式球体反射鏡みたようなものである。人間の脳髄が全身三十兆の細胞の一粒一粒の中を動きまわる意識感覚の森羅万象しんらばんしょうを同時に照しあらわしている有様は、蜻蛉とんぼの眼玉が大千世界の上下八方を一眼で見渡しているのと同じ事である。……ところでその人間の脳髄によって、時々刻々に反射交感されて、時々刻々に一つの焦点を作って行くところの精神……すなわちその人間の全身の細胞の一粒一粒の中に平等に含まれている、その人間の個性とか、特徴とかいうものは、吾輩の実験によると一つ残らず、その人間が先祖代々から遺伝して来た、心理作用の集積に外ならないのだ……すなわち、その先祖代々が体験して来た、千万無量の心理的習慣性のあらわれが、脳髄の反射交感作用によって統一されてお互いに調和を保ち合いつつ、焦点を作って行くのを所謂いわゆる、普通人と名付けているのであるが、しかし……人間の心理作用というものは一人一人ごとに、それぞれ違った癖があるもので、その癖を先祖が矯正しないまま子孫に伝えて来ると、代を重ねるうちにダンダン非道ひどくなる事がある。たとえば或る一つの事をどこまでも思い詰める癖を遺伝した女が、どうかした拍子に或る一人の男を見初みそめたとする……寝ても醒めても会いたい、見たい……一緒になりたいといったような事ばかりを繰返し繰返し考え続けて行く事になると、そうした『恋しい意識』を反射交感する脳髄の一部分がトウトウくたびれて動けなくなる。そこでその一部分で反射交感されていた恋しい意識が、次第次第に遊離して、空想、妄想とり固まった挙句あげく、執念の蛇式の夢中遊行を初める。夜も昼もさまのお姿を空中に描きあらわして、その事ばかりを口走らせるようになる。そうなると又、その恋しい係りの交感台の交感嬢がイヨイヨやり切れなくなってヘタバリ込む。恋しい意識がイヨイヨ完全に遊離して活躍空転する。ますます発狂の度合が深くなる。……往来へ馳け出す……取押えられる。鉄の格子をゆすぶって狂いまわる……又は何々狂乱と名付けられて花四天の下に振付けられ、百載ひゃくさいのちまでも大衆の喝釆を浴びる……という順序になる。
 もっとも、これは普通の人間が普通に発狂して行く順序で、こうした傾向をチットばかり持っている人間が普通人で、多分に持っている人間を所謂いわゆる精神病系統キチガイスジの人間と呼んでいるに過ぎない。だから発明狂、研究狂、蒐集狂、そのほか何々狂、何々キチガイと呼ばれている人間は程度の相違こそあれ皆、このお仲間に相違ない。手当が早ければ救われ得る場合が無きにしもあらずであるが、サテコイツがモウ一段開き直って、本格の夢中遊行病となるとガラリと趣が違って来る。……無論、精神病の一種に相違ないし、その活躍ぶりも普通の狂人以上にモノスゴイものがあるのだが、しかしその当の本人は普通人とチットモ変らない。否、むしろ、鼻の病気か何かで少々ボンヤリしていたり、頭が素敵にデリケートで学問が出来過ぎたり、気が弱過ぎて虫も殺せなかったりするような、特別あつらえの善人の中に往々にして発見される珍病で、キチガイなぞいう名前はドウしてもつけられないのであるが、それでいてその人間が真夜中になると、ムクムクと起上って、キチガイ以上の奇抜滑稽や、残忍無道をヤッツケルのだから、イヨイヨモノスゴくて面白い事になるのだ。
 すなわちその人間が眼を醒している間の意識状態は普通の人間とチットモ変らない。その全身の細胞の意識は、脳髄の反射交感作用によって万遍なく統一、調和されて行くのであるが、サテ日が暮れて夜が更けて、その人間の脳髄が、全部休止の熟睡状態に陥ることになると、その熟睡状態なるものが普通人のソレと違って来る……つまり普通の熟睡の程度をズット通り越して、死の世界の方へ近付いて行くので、当り前のユスブリ方や怒鳴り声では絶対に眼を醒まさない所謂いわゆる、死人同様の状態にまで落ち込んでしまう……というのがこの夢中遊行病患者の特徴になっているのだ。
 ところでソンナ風に睡眠の度が深くなって来ると、その必然的な結果として、全身の細胞の意識の中に、そこまで深く睡り切れない奴が一つか二つ出来る事になる。しかもその眠りおくれた意識は、背景が黒くなればなる程、前景が光り出して来るように、睡眠が深くなればなる程ハッキリと眼を醒して、色々な活躍を初める事になるのだ。
 たとえば或る人間が、或る感情とか、意志とかの一つだけを、極度に昂奮させたまま眠りに落ちたとする……『あのダイヤが欲しいナア』とか……『憎いアンチキショウを殺してやりたい』とか思って昂奮しいしい眼をつむっていると、やがて、その脳髄が熟睡のドン底に落ちた時に、その脳髄と一所に睡っている細胞の中でも、その意識だけがタッタ一つ睡りおくれて眼を醒している。そうしてその意識は、良心とか、常識とか、理智とかいうものと連絡を失った、片チンバの姿のままで起き上って、全身の細胞が持っている反射交感作用を脳髄の代りに使いながら動き出す。そうして全身の細胞の中から、必要に応じて勝手気儘に呼び起した判断、感覚なぞいうものと連絡を取りつつ、見たり聞いたり、考えたりして、望み通りの仕事をする。欲しいダイヤを失敬したり、憎いアンチキショウを殺したりするのであるが、しかし、そんな仕事をしている途中の出来事は、脳髄を通過した印象でないからチットモ記憶していない。あとで眼を醒してもケロリとして、平生とチットモ変らないアンポンタン・ポカン人種に立ち帰っている。たとい盗んだダイヤモンドや殺した相手の死骸を突付けられても、知らない事は白状出来ないので、いよいよアンポンタン・ポカンとなるばかりだ。
 その代り、そうした夢中遊行の最中は、全身の細胞が、脳髄の役目と、自分たちの専門専門の役目と両方を、同時に引受けて活躍している訳だから、眼が醒たあとで一種異様な疲労を自覚するのが通例になっている。この道理は薬を使って、脳髄だけを麻酔させた場合と全然同一であるのを見ても、容易に首肯出来るのであるが、しかし又、この麻酔後の疲労と、夢中遊行後の疲労とは、そんな風に全然同じ性質の疲労でナカナカ鑑別が出来にくいものだから、非常に面白い法医学上の研究問題となる事がある。
 その好適例として持て来いの標本は、現在、ここに突立って、吾輩の講義を傾聴しているこの青年である。この青年は諸君の中に見知っている人が居るかも知れない。住所姓名は例によって公表を差控えるが、まだやっと二十歳はたちになった今年の春に、この大学の入学試験を受けて、最高級の成績でパスすると間もなく、可哀相に先祖から遺伝して来た夢中遊行病の発作にかかって、結婚式の前夜に、自分の花嫁を絞殺してしまった。しかもこの青年はそればかりでなく、その前に十六の年にも同じ発作にかかって、実の母親を絞め殺したという、この方面でも稀に見る英雄児であるが、しかもその後、この教室にやって来て、吾輩独特の解放治療にかかっているうちに、次第に正気を回復して来たらしく、この頃は自分の頭髪あたまを掻きまわしたり、耳の上を挙固でコツンコツンとなぐったりしてここがドウかなっているに違いない違いないと云い出しはじめた。そうして時々部屋の中で立止って、脳髄の演説を初める事があるが、その演説が又、一から十まで、この教室で聞いた吾輩の受けうりだから痛快で、吾輩も時々参考のために拝聴に行く位だ。この種類の人間の記憶力のスバラシサというものはトテモ想像を超越したモノスゴイものがあるのだからね……何故かというとこの青年は強烈な夢遊病の発作にかかった結果、過去の記憶から完全に切離されているので、現在の出来事に対する記憶作用は、何ものにも邪魔されない絶対の自由世界に浮いて遊んでいる。だから一旦注意力を集中するとなるとドンナ細かい事でも超人的の正確さをもって記憶する事が出来るのだ。しかし平生はこの通り、初めて卵から這い出した生物のように、ビックリした表情を続けているから、とりあえずアンポンタン・ポカン博士という尊称を奉っている訳であるが……」
 正木教授がここまで講義して来ると、学生連中が一度にこっちを見てゲラゲラ笑い出したものである。だから吾輩は、そのままポカンと精神病院を飛び出してしまった。そうして今日只今、この十字街頭に立って、諸君の脳髄の異状振りを観察しているうちに、断然、棄てておけなくなったからこんな警告を発したのだ。時空を超越したポカン式脳髄論を、思い切って公表したのだ。

 ……ナント諸君感心したか。見たか。聞いたか。驚いたか。
 吾輩アンポンタン・ポカンが一たび『脳髄は物を考える処に非ず』と喝破するや、樹々はその緑を失い、花はそのくれないけしたではないか。一切の唯物文化は根柢からくつがえされ、アラユル精神病学はことごとく机上の空論となってしまったではないか。

 ……繰返して云う。
 人類は物を考える脳髄によって神を否定した。大自然に反逆して唯物文化を創造した。自然の心理から生れた人情、道徳を排斥して個人主義の唯物宗を迷信した。そうしてその唯物文化を日に日に虚無化し、無中心化し、動物化し、自涜じとく化し、神経衰弱化し、発狂化し、自殺化した。
 これは悉く『物を考える脳髄』のイタズラであった。『脳髄の幽霊』を迷信する唯物宗の害毒であった。
 けれども今や、この迷信は清算されねばならぬ時が来た。神に対する迷信を否定した人類は、今や『物を考える脳髄』を否定しなければならぬドタン場に追い詰められて来た。唯物科学の不自然から唯心科学の自然に立帰らなければならぬスバラシイ時節が到来したのだ。
 だからそのスローガンの実行の皮切かわきりに、吾輩アンポンタン・ポカンはこの通り、自分自身の『物を考える脳髄』を地上にタタキ付けて見せたのだ。
 そうしてこの通り踏み潰してしまうのだ。
 ……エイッ……ウ――ン……」

       ×          ×          ×

 ……と……。
 アハハハハハ……ドウダイ驚いたか。……見たか。聞いたか。感心したか。
 これが吾輩の所謂いわゆる、絶対科学探偵の事実小説なんだ。超脳髄式の青年名探偵アンポンタン・ポカン博士が、博士自身の脳髄をおっかけまわして、物の美事に引っ捕えて、地ビタにタタキ付けて、引導を渡すまでの経過報告だ。世界最高級の科学ロマンス「脳髄マイナス脳髄」の高次方程式の分解公式なんだ。
 だからこの小説のトリックの面白さが、ホントウにわかる頭ならば……ホラ……この間君に貸してやったろう。あの「胎児の夢」と名付くる論文の正体の恐ろしさがわかる。その胎児が、母の胎内で見ているスバラシイ大悪夢を支配する原理原則がわかる。そのモノスゴイ原理原則を実験している解放治療の内容だの、そこに収容されているアンポンタン・ポカン博士の正体や、その戦慄すべき経歴なぞが、手に取るごとく理解されて来るのだ。
 しかもその上に、モウ一つオマケのお慰みとしては……「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考える処に非ず」という結論が生れて来る……という事実はモウわかったとして、その「考える処に非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……この儀お眼止まりましたならばよろしくお手拍子てびょうし……。
 ……ナニイ。眼がまわって来たア……。
 アハハハハハ……それあ眩るだろう。吾輩の気焔を聞かされたら、大抵の奴がフラフラフラと……。
 ……ナ……なんだ。そうじゃない。葉巻に酔ったんだと?……
 アッハッハッハッ……コイツは大笑いだ。
 ワッハッハッハッハッハッハッ。(文責在記者)
  胎児の夢

――人間の胎児によって、他の動植物の胚胎の全部を代表させる。――宗教、科学、芸術、その他、無限の広汎に亘るべき考証、引例、および、文献に関する註記、説明は、省略、もしくは極めて大要に止める。
 人間の胎児は、母の胎内に居る十箇月の間に一つの夢を見ている。
 その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、乃至ないし、数百億年に亘るであろう恐るべき長尺ちょうじゃくの連続映画のようなものである。すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状態から初まっていて、引き続いてその主人公たる単細胞が、次第次第に人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像も及ばぬ長い長い年月に亘る間に、悩まされて来た驚心きょうしん駭目がいもくすべき天変地妖てんぺんちよう、又は自然淘汰とうた、生存競争から受けて来た息もかれぬ災難、迫害、辛苦、艱難かんなんに関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現わして来るところの、一つの素晴しい、想像を超越した怪奇映画である。……その中には、既に化石となっている有史以前の怪動植物や、又は、そんな動植物を惨死、絶滅せしめた天変地異の、形容を絶する偉観、壮観が、そのままの実感を以て映写し出される事はいう迄もない。引続いては、その天変地妖の中に、生き残って進化して来た元始人類から、現在の胎児の直接の両親に到るまでの代々の先祖たちが、その深刻、痛烈な生存競争や、種々雑多の欲望に駆られつつ犯して来た、無量無辺の罪業の数々までも、一々、胎児自身の現実の所業として描き現わして来るところの、驚駭と戦慄とを極めた大悪夢でなければならぬ事が、次に述べる通りの「胎生学」と「夢」に関する二つの大きな不可思議現象を解決する事によって、直接、間接に立証されて来るのである。

 まず第一に、人間の胎児が母の胎内に宿った時、その一番最初にあらわしている形は、すべての生物の共同の祖先である元始動物と同様に、タッタ一つのマン丸い細胞である。
 そのマン丸い細胞の一粒は、母胎に宿ると間もなく、左右の二粒に分裂増殖する。そうしてそのまま密着し合って、やはり一個の生物となっている。
 その左右の二個はやがて又、各々おのおの上下の二個ずつに分裂、増殖する。そうして矢張やはり、その四個とも一つに密着し合って、母胎から栄養をりつつ、一個の生物の機能を営んでいる。
 かようにして四個、八個、十六個、三十二個、六十四個……以上無数……という風に、倍数ずつに分裂しては密着し合って、次第次第に大きくなりつつ、人類の最初の祖先である単細胞の微生物から、人間にまで進化して来た先祖代々の姿を、その進化して来た順序通りに、間違いなく母胎内で繰返して来る。
 まず魚の形になる。
 次にはその魚の前後のひれを四足に変化さしていまわる水陸両棲類の姿にかわる。
 次には、その四足を強大にして駈けまわるけものの形態をあらわす。
 そうして遂には、その尻尾しっぽを引っこめて、前足を持上げて手の形にして、後足で直立して歩きまわる人間の形……普通の胎児の姿にまで進化してからオギャアと生まれる……という段取りになるので、そうした順序から、これに要する時間までも、万人が万人、殆ど大差ないのが通例になっている。
 これは胎生学上、既にわかり切っている事実で、誰一人、否定し得ない現象であるが、さて、それならば、あらゆる胎児は何故なにゆえに、そのような手数のかかる胎生の順序を母胎内で繰返すのであろうか。何故に、直ぐさま小さな人間の形になって、そのままに大きくなって、生まれて来ないのであろうか。又は、最初のタッタ一粒の細胞が何故に、そんなに万人が万人申合せたように、寸分たがわぬ胎生の順序を繰返して来るのであろうか。すなわち……
「何が胎児をそうさせたか」
 という問題になると、誰一人として適当の解釈を下し得るものが居ない。現代の科学書類の隅から隅まで探しまわってもこの解釈だけは発見されない。唯、不思議というよりほかに説明の仕様がない事になっている。

 次に、一切の胎児は斯様かようにして、自分の先祖代々が進化して来た姿を、その順序通りに寸分の間違いなく母の胎内で繰返して来るのであるが、しかしその経過時間は非常に短かめられているので、人間の先祖代々の動物が、何百万年かもしくは何千万年がかりでひれを手足に、うろこを毛髪に……といった順序に、少しずつ少しずつ進化させて来た各時代時代の姿を、僅かに分とか、秒とかで数え得る短時間のうちに繰返して、経過して来る事さえある。これは既に一つの説明の出来ない不思議として数えられ得るのであるが、更に今一歩進んだ不思議な事には、その縮められている時間と、実際の進化に要した時間の割合が、決して出鱈目でたらめの割合になっていないらしい事である。
 すなわち人間の胎児はおよそ十箇月間で、元始以来の先祖代々の進化の道程を繰返す事になっているのであるが、その他の動物は概して、進化の度合が低ければ低いだけ、その胎生に要する時間が短かくなっているので、進化の度の最も低い……すなわち元始時代の姿のままの、細菌、その他の単細胞動物は大部分、胎生の時間を全然持たない。そのままの姿で分裂して二つの新しい生物になって行く……というのが事実上の事実になっているのであるが、これは一体、どうした理由であろうか。進化の度の最も高い人間の胎児は何故なにゆえに、最も長い胎生の時間を要するのであろうか。換言すれば、
「何が胎児をそうさせるか」
 という問題に就いて適当の解釈を加えようとすると、現代の科学知識では絶対に不可能である事が発見される。やはり唯、不思議というよりほかに説明の仕様がない事になっているのである。
 以上は胎児に関する不可思議現象の実例であるが、次に、こうして出来上った人間の「肉体」を、解剖学方面から研究、観察してみると又、同じような不可思議現象が数限りなく現われて来る。
 すなわち人間の肉体なるものを表面から観察してみると、その進化の度が高いだけに……換言すればその胎生に念が入っているだけに、他の動物よりも遥かに高尚優美に出来上っている事が、とりあえず首肯うなずかれるであろう。その柔和な、威厳を含んだ眼鼻立から、綺麗な皮膚、美的に均整した骨格や肉付きまで、如何にも万物の霊長らしく見受けられるのであるが、しかし一度ひとたびその肉体の表皮をくって、肉を引き離し、内臓を検査し、脳髄や五官の内容を解剖して細かに観察してみると、その各部分部分の構成は一つ一つに、下等動物から進化して来た吾々の先祖代々、魚、爬虫はちゅう、猿等の生活器官の「お譲り」である事が、判明して来る。すなわち一本の歯の形にも、一筋の毛髪の組織にまでも、それをそこまで洗練し、進化させて来た、驚くべき長年月に亘る自然淘汰の大迫害、もしくは生存競争の辛苦艱難の歴史がアリアリと記録されているので、そんな歴史を一々刻明に記念して、その通りに胎児の姿を繰返して進化させて、人間の姿にまで仕上げて来たあるものの偉大、深刻なる記憶作用が、完成した人間の細胞の隅々までも、明瞭に刻み付けられているのである。
 いう迄もなく斯様かような現象は進化論、遺伝学、又は解剖学等々で如実に証明されている事柄だから、ここには詳細な説明は加えないが、しかし、それは何者が記憶していて、そのような歴史を繰返させたか。
「何が胎児をそうさせたか」
 という事に就いては、まだ、何一つ説明が与えられていない。やはり唯、一つの不思議というよりほかに説明出来ない事になっている。
 しかも、そればかりではない。
 更に今一歩突込んで、人間の精神なるものの内容を観察すると、斯様な事実が、更に一層、深刻痛切に立証されて来る。
 すなわち人間の精神もまた、これを表面から観察すると、他の動物とはトテモ比較出来ない程、段違いの美しさを現わしている。「人間は万物の霊長である」という自覚、もしくは「文化的プライド」と名付くる、所謂いわゆる「人間の皮」一枚を以て、自己の精神生活の内容をおおい包んで、常識とか、人格とか名付くるお化粧を施して、超然と澄まし返っているのであるが、しかし一旦、その表皮、すなわち人間の皮なるものを一枚剥ぎ取ってみると、その下から現われて来るものは、やはりその人間の遠い遠い祖先である微生物が、現在の人間にまで鍛い上げられて来た、驚くべき長年月に亘る自然淘汰、生存競争の大迫害に対する警戒心理、もしくは生存競争心理が、その時代時代の動物心理の姿で、ソックリそのままに遺伝されたものばかりである事実が、余りにも露骨に発見されて来るのである。
 まず所謂、文化人の表皮……博愛仁慈、正義人道、礼儀作法なぞで粉飾してある人間の皮を一枚くると、その下からは野蛮人、もしくは原始人の生活心理があらわれて来る。
 この事実を最もよく立証している者は無邪気な小児である。まだ文化の皮のかぶり方を知らない小児は、同じように文化の皮の被り方を知らない古代民族の性格を到るところに発揮して行くので、棒切れを拾うと戦争ゴッコをしたくなるのは、部落と部落、種族と種族の間の戦争行為によって生存競争を続けて来た、所謂、好戦的な原始人の性質の遺伝、すなわち細胞の中に潜在して伝わって来た野蛮人時代の本能的な記憶が、棒切れという武器に似た恰好のものの暗示によって刺戟され、眼醒めさせられたものである。虫ケラを見付けると、何の意味もなしに追い廻してみるのは、動くものを見れば、何でも追いかけてみるという狩猟時代の心理の遺跡を、虫ケラの暗示によって刺戟誘発されたもので、そうして捕え得た虫ケラの手足を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取り、羽翼を奪い、腹を裂き、火にあぶりなぞして、喜びたわむれるのは、そうした方法に依って獲物や、俘虜を処分し、飜弄し、侮辱して、勝利感、優越感を徹底的に満足させようとした古代民族の残忍性の記憶を、そのままに再現しているものに外ならないのである。又、赤ん坊を暗い処に置くと泣き出すのは、やはり火を持たぬ時代の原始人が、猛獣毒蛇に満ち満ちた暗黒に対する恐怖の復活で、どこへでも大小便を洩らすのが大昔、樹の根や、草の中に寝ていた時代の習慣の再現である事は、現代の進歩した心理学の研究によって説明されている通りである。
 次にこの野蛮人もしくは、原始人の皮を今一度くってみると、その下には畜生……すなわち禽獣きんじゅうの性格が一パイに横溢している事が発見される。
 たとえば同性……すなわち知らない男同志か、女同志が初対面をすると、一応は人間らしい挨拶をするが、腹の中では妙に眼のたまを白くし合って、ウソウソと相手の周囲を嗅ぎまわる心理状態をあらわす。油断をすると相手の尻のあたりまで気を廻して、微細な処から不愉快な点を発見して、お互いに鼻にしわを寄せ合ったり、歯を剥き出し合ったりする気持をほのめかす。ウッカリすると吠え立てる。噛み付く……町の辻で出会った犬猫の心理と全然同一である。そのほか自分より弱いものを見付けると、ちょっといじめてみたくなる。すこし邪魔になる奴は殺してくれようかと思う。誰も居なければ盗んでやろうか。ひとの小便をかいでおこうか。自分の遺物は埋めておこうか……なぞいった畜生のままの心理の表現を、吾人は日常生活の到る処に発揮しているので、誰でも口にする「コン畜生」とか「このけだものめ」とかいう罵倒詞に当てはまる心理のあらわれは皆、これに他ならぬのである。
 次に、この禽獣性の下に在る隔膜かくまくを、今一つ切開くと今度は、その下から虫の心理がウジャウジャと現われて来る。
 たとえば、仲間を押し落しても高い処へい上ろうとする。誰にも見えない処を這い廻って美味うまい事をしようとする。うまい事をすると、すぐに安全第一の穴へ潜り込もうとする。栄養のいい奴を見付けるとコッソリ近付いて寄生しようと試みる。あたり構わぬ不愉快な姿や動作をして一身を保護しようとする。固い殻に隠れて寄せ付けまいとする。敵と見ると、ほかの者を犠牲にしても自分だけ助かろうとする。いよいよとなると毒針を振廻す。墨汁すみを吹く。小便を放射し、悪臭を放散する。又はそこいらの地物じぶつや、自分より強い者の姿に化ける……なぞ、低級、卑怯な人間のする事は皆、かような虫の本能の丸出しで、俗諺ぞくげんにいう弱虫、蛆虫うじむし米喰こめくい虫、泣虫、血吸ちすい虫、雪隠せっちん虫、屁放へっぴり虫、ゲジゲジ野郎、ボーフラ野郎なぞいう言葉は、こうした虫ケラ時代の心理の遺伝したもののあらわれを指した軽蔑詞に外ならない。
 次に……最後に、この虫の心理の核心……すなわち人間の本能の最も奥深いところに在る、一切の動物心理の核心を切開いてみると、黴菌ばいきん、その他の微生物と共通した原生動物の心理があらわれて来る。それは無意味に生きて、無意味に動きまわっているとしか思えない動き方で、所謂群集心理、流行心理もしくは、弥次馬心理というものによって、あらわされている場合が多い。その動きまわっている行動の一つ一つを引離してみると、全然無意味なもののように見えるが、それが多数に集まると、色々な黴菌と同様の恐るべき作用を起す事になる。すなわち光るもの、立派なもの、声の高いもの、理屈の簡単なもの、刺戟のハッキリしているもの、なぞいう新しい、わかり易いものの方へ方へと群がり寄って行くのであるが、無論判断力もなければ、理解力もない。顕微鏡下に置かれた微生物と同様の無自覚、無定見のまま恍惚として、大勢に引かれながら大勢が行く。そこに無意味な感激があり、誇りと安心があるのであるが、しまいには何という事なしに感激のあまり夢中になって、惜し気もなく生命いのちを捨てて行く……暴動……革命等に陥って行く有様は、さながらに林檎酸りんごさんの一滴に集中する精虫の観がある。
 人間の心理はここに到って初めて物理や、化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている黴菌性の流露に外ならないのである。
 斯様かような心理の中で、最単純、低級なものを中心にして、外へ外へと高級、複雑な動物心理で包み上げて、その上を所謂、人間の皮なるもので包装して、社交、体裁、身分家柄、面目人格なぞいうリボンやレッテルを以て飾り立て、お化粧を塗って、香水を振かけて大道を闊歩して行くのが、吾々人類の精神生活であるが、その内容を解剖してみると大部分は右の通りに、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が、再現したものに他ならない事が発見されるのである。しかしこれとても前に述べた肉体の解剖的観察と同様、胎児が如何にしてそんな千万無量の複雑多様の心理の記憶を、その細胞の潜在意識、もしくは本能の中に包み込んで来ているのか、
「何が胎児をそうさせたか」
 というような事柄は全く説明されていない。否、一個の人間の精神の内容が、そんなような過去数億年間に於ける、万有進化の遺跡そのものであるという事実すらも「人間は万物の霊長」とか「俺は人間様だぞ」とかいう浅薄あさはか自惚うぬぼれにおおい隠されて、全然、注意されていない状態である。

 以上は胎児の胎生と、その胎生によって完成された成人の肉体と、精神上に現われている、万有進化の遺跡に関する不可思議現象を列挙したものであるが、次にはその人間が見る「夢」の不可思議現象に就いて観察する。

 夢というものは昔から不思議の代表と認められているので、少しでも意外な事に出会うと、直ぐに「これは夢ではないか」と考えられる位である。実物とすこしも違わぬ森羅万象しんらばんしょうが見えるかと思うと、想像も及ばぬ奇抜、不自然な風景や、品物がゴチャゴチャと現われたり、その現われた風物に、現実世界に於ける心理や、物理の法則が、その通りに行われて行くかと思うと、神話、伝説にもないような突飛とっぴな法則によって、その風物が行きなり放題に千変万化したりするので、その夢の正体と、そうした夢の中の心理、景象の変化の法則については古来、幾多の学者が、頭を悩まして来たものであるが、ここにはそのような夢の特徴の中でも、夢の本質、正体を明らかにする手がかりとして最も重要な、左の三項を挙げる。
 (一)夢の中の出来事は、その進行して行く移り変りの間に非常に突飛な、辻褄つじつまの合ないところが屡々しばしば出て来る。否。そのような場合の方がズッと多いので、そんな超自然な景象、物体の不合理極まる活躍、転変が、すなわち夢であると考えた方が早い。にも拘わらず、その夢を見ているうちには、そうした超自然、不合理を怪しむ気が殆ど起らないばかりでなく、その出来事から受ける感じがいつでも真剣、真面目しんめんもくで、現実もしくは現実以上に深刻痛切なものがあること。
 (二)未だ曾て、見た事も聞いた事もない風景や、ステキもない天変地妖が、実際と同様の感じをもって現われて来ること。
 (三)夢の中に現われて来る出来事は、それが何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間は僅に分、もしくは秒を以て数え得る程に短かいものである事が近代の科学によって証明されていること。

 以上列挙して来たところの「胎児」と「夢」とに関する各種の不可思議現象は、何人なんぴとも否定し得ない科学界の大疑問となっているのであるが、しかも、そうした不可思議現象が、何故なにゆえに今日まで解決されていないか。これらの不思議を解決する鍵が、どうして今日まで、誰にも見当らなかったかという疑問について考えてみると、これには二つの原因がある。
 その一つは人間を胎生させ、つ、その胎生によって完成した成人に夢を見せるところの人体細胞に関する従来の学者の考え方が、全然間違っていること、それから今一つは、この宇宙を流れている「時間」というものに対する人類一般の観念が、根本的に間違っていること……とこの二つである。
 言葉を換えて云えば、人体を組織している細胞の一粒一粒の内容は、その主人公である一個の人間の内容よりも偉大なものである。否。全宇宙と比較されるほどのスバラシク偉大複雑な内容、性能を持っているものである。だからその細胞の一粒の内容を外観から顕微鏡で覗き、その成分を化学的に分析し、その分裂、繁殖の状況をその形態や、色彩の変化によって研究する従来の唯物科学式の行き方では到底、細胞の内容、性能の偉大さは解るものでない。それは英雄、偉人の生前の業績を無視して、単にその屍体の外貌を観察し、内部を解剖する事のみによって、その偉大な性格や、性能を確かめようとするのと同様の無理な註文である。……又、時間というものに就ても同様の事がいえる。……中央気象台や、吾々の持っている時計の針や、地球、太陽の自転、公転なぞによって示されて行く時間というものは真実の時間ではない。唯物科学が勝手に製作し出した人工の時間である。錯覚の時間、インチキの時間である。……真実の時間というものは、そんな窮屈な、寸法で計られるような固苦しいものではない。モットモット変通自在な、玄怪不可思議なものである……という事実が実際に首肯出来れば、同時に「胎児の夢」の実在が、首肯出来る筈である。生命の神秘、宇宙の謎を解く鍵を握ったも同然である。

 元来細胞なるものは、人間の身体の何十兆分の一という小さい粒々つぶつぶで、度の弱い顕微鏡にはかからない位の微粒子である。だからその内容の複雑さや、そのあらわし得る能力の程度なぞも、やはり人間全体の能力の何十兆分の一ぐらいのものであろう……いずれにしても極度に単純な、無力なものであろう……というのが今日までの科学者の頭の大部分を支配して来た考えであった。だからその後その細胞の不可思議な生活、繁殖、遺伝等の能力が、次から次に発見されて科学者を驚異させて来たけれども、その研究は依然として顕微鏡で覗かれ、化学で分析され得る範囲……すなわち唯物科学で説明され得る範囲の研究に限られて来たもので、大体の考え方は、やはり人体の何十兆分の一という程度の単純な、無力なもの……という概念を一歩も踏出していない。そうしてソレ以上の研究をするのは唯物科学を冒涜するものである。学者として一つの罪悪を犯すものであるとさえ考えられて来た。
 しかしこれは現代の所謂いわゆる、唯物科学的な論法にとらわれて来た学者連中が、細胞の内容や能力を、その形や大きさから考えて「多分これ位のものだろう」という風に見当をつけた、極めて不合理な一つの当て推量が、先入主となったところから起った量見違いである。生命の神秘、夢の不可思議なぞいう科学界の大きな謎が、いつまで経っても不可解のままに取残されているのは、そうした「よしの髄から天井覗く」式の囚われた、唯物論的に不自由、不合理な……モウ一つ換言すれば科学に囚われ過ぎた非科学的な研究方法によって、広大無辺な生命の主体である細胞を研究するからである事が、ここに於て首肯されなければならぬ。そんな旧式の学問常識や、囚われたコジツケ論に対する従来の迷信を一掃して、もっと自由な、囚われない態度で、宇宙万有を観察すると同時に、この問題を、もっと適切明瞭な、実際的な現象に照し合せて考えてみると、その一粒の細胞の内容には、顕微鏡や、化学実験室で観測、計量し得るよりも遥かに偉大、深刻な、実に宇宙全体と比較しても等差を認められない程の内容が含まれている事実が、現代を超越した真実の科学知識によって気付かれなければならぬ。所謂、唯物科学的な研究、考察方法を、生命いのちの綱と迷信している人々が、如何に否定しようとしても否定出来ない事実に直面しなければならぬ。
 その第一に挙げなければならぬのは細胞が、人間を造り上げる能力である。すなわち生命いのち種子たねとして母胎に宿った唯一粒の細胞は、前に述べた通りの順序で、分裂して生長しながら、先祖代々の進化の跡を次から次へとうて成長して来る。あそこはああであった。ここはこうであったと思い出し思い出し、魚、蜥蜴とかげ、猿、人間という順序に寸分間違いなく自分自身を造り上げて来る。しかも一概には云えないが、なるべく両親の美点や長所を綜合して、すこしでも進歩したものにしようとするので、耳、目、鼻、口の位置は万人が万人同様でありながら……これはあたしだ。誰にも似ている。彼にもている。癇癪かんしゃくの起し具合はお父さんに生き写しだ。物覚えのいいところは妾にソックリだ……なぞと極めて細かいところまで微妙に取合せて行く。その細胞一粒一粒の記憶力の凄まじさ。相互間の共鳴力、判断力、推理力、向上心、良心、もしくは霊的芸術の批判力等の深刻さはどうであろう。更にその細胞の大集団である人間が、宇宙間の森羅万象に接してこれを理解し、又はこれに共鳴感激して、国家とか社会とかいう大集団を作って共同一致、人類文化を形成して行く。その創造力の深遠広大さはどうであろう。そのような、殆ど全智全能ともいうべき大作用のすべては、帰納するところ、結局、最初のタッタ一粒の細胞の霊能の顕現あらわれでなければならぬ。換言すれば現代人類の、かくも広大無辺な文化といえども、その根元を考えてみると、こうした顕微鏡的な存在に過ぎない細胞の一粒の中に含まれている霊能が全地球表面上に反映したものに外ならぬのである。
 ◇備考 斯様かように偉大な内容を持つ細胞の大集団が、脳髄の仲介によって、その霊能を唯一つ、即ち各細胞共通、共同の意識下に統一したものが人間である。だからその人間があらわす知識、感情、意志なぞいうものは、細胞一粒一粒のソレよりも遥かに素晴しいものでなければならない筈であるが、事実はその正反対になっているので、世界初まって以来、如何なる賢人、又は偉人といえども、細胞の偉大な霊能の前には無力同然……太陽の前の星の如く拝跪はいきしなければならない。すなわち人間の形に統一された細胞の大集団の能力は、その何十兆分の一に当る細胞の能力の、その又何十兆分の一にも相当しないという奇現象を呈している。これは人間の身体各部に於ける細胞の霊能の統一機関……すなわち脳髄の作用が、まだ十分の進化を遂げていないために、細胞の霊能の全分的な活躍が妨げられているものと考えられる。同時に、地上最初に出現した生命いのち種子たねである単細胞が、地上に最初に出現した時の初一念? とその無限の霊能が、その霊能を地上に具体的に反映さすべく種々の過程を経て、最有利、有能な人間にまで進化して来て、まだまだ有利、有能な生物に進化して行きつつある。その過渡期の未完成の生物が現在の人間であるがために、斯様かような矛盾、不都合な奇現象があらわれて来るものとも考えられる次第である。しかしこの事は極めて重大な研究事項で、一朝一夕にき尽し得べき限りでないからここには唯参考として一言しておくに止める。

 しかして人間の肉体、及び精神と、細胞の霊能との関係が、斯様に明白となった以上「夢」なるものの本質に関する説明もまた、極めて容易となって来るのである。
 すべての細胞はその一個一個が、吾々一個人の生命と同等、もしくはそれ以上の意識内容と、霊能を持っている一個の生命である。だから、すべての細胞は、それが何か仕事をしている限り、その労作に伴うて養分を吸収し、発育し、分裂、増殖し、疲労し、老死し、分解、消滅して行きつつある事は近代医学の証明しているところである。しかもその細胞の一粒一粒自身が、その労作し、発育し、分裂し、増殖し、疲労し、分解し、消滅して行く間に、その仕事に対する苦しみや、楽しみを吾々個人と同等に、否それ以上に意識している……と同時に、そうした楽しみや苦しみに対して、吾々個人が感ずると同等、もしくはそれ以上の聯想、想像、空想等の奇怪、変幻を極めた感想を無辺際にたくましくして行く事は、あたかも一個の国家が興って亡びて行くまでの間に千万無量の芸術作品を残して行くのと同じ事である。
 この事実を端的に立証しているものが、即ち吾々の見る夢である。
 そもそも夢というものは、人間の全身が眠っている間に、その体内の或る一部分の細胞の霊能が、何かの刺戟で眼を覚まして活躍している。その眼覚めている細胞自身の意識状態が、脳髄に反映して、記憶に残っているものを吾々は「夢」と名付けているのである。
 たとえば人間が、不消化物をみ込んだまま眠っていると、その間に、胃袋の細胞だけが眼を醒ましてウンウンと労働している。……ああ苦しい。やり切れない。これは一体どうなる事か。どうして俺達ばっかりコンナに非道ひどい眼に逢わされるのか……なぞと不平満々でいると、その胃袋の細胞のはてしもない苦しい、不満な気持が、一つの聯想となって脳髄に反映されて行く。すなわちその苦しい思いの主人公が、罪の無いのに刑務所に入れられて、重たい鎖につながれて、自分の力以上の石をかつがせられてウンウンうなりながら働いているところ………不可抗的な大きな地震で、家の下敷になって、藻掻もがきまわって、悲鳴を上げているところなぞ……そのうちにその苦しい消化の仕事が楽になって来るとヤレヤレという気持になる。……そうすると夢の中の気持……脳髄に反映されて行く聯想や空想の内容も楽になって、山の絶頂で日の出を拝んでいるところだの、スキーに乗って素晴しいスロープを一気にすべり下る気持だのに変る。
 あるいは又、寝がけに「彼女に会いたいな」と思って眼を閉じていると、その一念の官能的な刺戟だけが眠り残っていて、彼女の処へ行きたくてたまらないのに、どうしても行けない自烈度じれったい気持を、夢として描きあらわす。彼女の姿は美しい花とか、鳥とか、風景とかいうものによって象徴されつつ彼の前にみ輝いているが、それを手に入れようとすると、色々な邪魔が出て来てなかなか近附けない。その細胞の記憶に残っている太古時代の天変地妖が、突然、眼の前に現われて来るかと思うと、祖先の原人が住んでいた地方の物凄い高山、断崖が見えて来る。その中を祖父がおちぶれて乞食していた時の気持になったり、親父おやじが泳ぎ渡った大川の光景を、同じ思いをして泳ぎ渡ったりする。又は猿になって山を越えたり、魚になって海に潜ったりしつつ、千辛万苦してヤット彼女を……花、もしくは鳥を手に入れる事が出来た……と思うと、最初の自烈度じれったい気持がなくなるために、その夢もおしまいになって目を醒ます。
 そのほか寝小便のお蔭で、太古の大洪水の夢を見る。鼻が詰まったお蔭で、溺れ死にかかった少年時代の苦しみを今一度、夢に描かせられる。なぞ……斯様かようにして手でも足でも、内臓でも、皮膚の一部でも、どこでも構わない。全身が眠っている間に、何等かの刺戟を受けて目を醒ましている細胞は、きっとその刺戟に相応ふさわしい対象を聯想し、空想し、妄想している……何かの夢を見ている。すなわちその時その時の細胞の気持に相応した、又は似通った場面や、光景を、その細胞自身が先祖代々からけ伝えて来た記憶や、その細胞の主人公自身の過去の記憶の中から、手当り次第に喚び起して、勝手気儘に重ね合せたり、繋ぎ合せたりしつつ、そうした気持を最も深刻、痛切に描きあらわしている。もしそうした気分が非常識、もしくは変態的なもので、それに相応した感じをあらわす聯想の材料が見当らない場合には、すぐに想像の品物や、風景で間に合せ、埋め合せて行く。人体内に於ける細胞独特の恐怖、不安をあらわすために、蚯蚓みみずや蛇のようにのたくりまわる台所道具を聯想したり、苦痛をあらわすために、鮮血のしたたる大木や、火焔の中に咲く花を描きあらわしたりする事は、あたかも神秘の正体を知らない人間が、羽根の生えた天使を考えるのと同様である。
 これは吾々の眼が醒めている間の気分が、周囲の状況によって支配されつつ変化して行くのとは正反対で、夢の中では気分の方が先に立って移り変って行く。そうしてその気分にシックリする光景、風物、場面を、その気分の変って行く通りに、あとから追いかけ追いかけ千変万化させて行くのであるから、その千変万化が如何に突飛とっぴな、辻褄つじつまの合ないものであろうとも、そのかんに何等の矛盾も、不自然も感じない。のみならず現実式の印象よりもかえって自然な、深刻、痛切な感じを受けるように思うのは当然の事である。
 換言すれば夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、聯想の群れを、理屈も筋もなしに組み合せて、そうした気分の移り変りを、極度にハッキリと描きあらわすところの、細胞独特の芸術という事が出来るであろう。
 ◇備考 欧米各国に於ける各種の芸術運動の近代的傾向は、無意味なもしくは断片的な色彩音響、又は突飛な景象物体の組合せ等によって、従来の写実的、もしくは常識的の表現法以上の痛切、深刻な気分を表現しようとする事によって、漸次、夢の表現法と接近しつつある。

 夢の正体が、細胞の発育、分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識内容の脳髄に対する反映である事は以上説明する通りであるが、次に夢の内容に於て感ずる時間と、実際の時間とが一致しない理由を明かにする。すなわち一般の人々が、時計とか、太陽とかにって示される時間を、真実の時間と信じているために、如何に大きな錯覚を起して、厳正な科学的の判断に錯覚をきたし、驚愕し、面喰いつつあるかを説明すれば、この疑問は立所たちどころに氷解する筈である。
 現代医学に依ると普通人の平静な呼吸の約十八、もしくは脈搏の七十幾つを経過する時間を標準として一分間と定めている。その六十倍が一時間、その二十四倍が一日、その又三百六十幾倍が一年と規定してある。同時にその一年は又、地球が太陽を一周する時間に相当する事になっているので、信用ある会社で出来る時計が示す時間は、万人一様に同じ一時間という事になっているのであるが、しかしこれは要するに人工の時間で、真実の時間の正体というものは、そんなものではない。その証拠には、その同じ長さの人工の時間を各個人が別々に使ってみると、そこに非常な相違が現われて来るから不思議である。
 手近い例を挙ぐれば、同じ時計で計った一時間でも、面白い小説を読んでいる一時間と、停車場でボンヤリ汽車を待っている一時間との間には驚くべき長さの相違がある。尺竹しゃくだけで計った品物の一尺の長さが、万人一様に一尺に見えるような訳には行かないのである。又は水に潜って息を詰めている一分間と、雑談をしている一分間とを比較しても思い半ばに過ぐる事で、前者はたまらない程長く感ずるのに反して、後者は一瞬間ほどにも感じない……というのが偽らざる事実でなければならぬ。
 更に今一歩進んでここに死人があるとする。その死人は、その死んだのちに於ても、その無感覚の感覚によって、時間の流れを感じているとすれば、一秒時間も、一億年も同じ長さに感じている筈である。又そう感ずるのが死後の真実の感覚でなければならぬので、すなわち一秒のうちに一億年が含まれていると同時に、宇宙の寿命の長さといえども一秒のうちに感ずる事が出来る訳である。この無限の宇宙を流れている無限の時間の正体は、そんなような極端な錯覚、すなわち無限の真実のうちに、矢の如く静止し、石の如く疾走しているものに外ならないのである。
 真実の時間というものは、普通に考えられている人工の時間とは全く別物である。むしろ太陽、地球、その他の天体の運行、又は時計の針の廻転なぞとは全然無関係のままに、ありとあらゆる無量無辺の生命の、個々別々の感覚に対して、同時に個々別々に、無限の伸縮自在さを以て静止し、同時に流れているもの……という事が、ここに於て理解されるのである。
 次に、地上に存在している生命の長さを比較してみると、何百年の間、茂り栄える植物や、百年以上生きる大動物から、何分、何秒の間に生れかわり死にかわる微生物まであるが、大体に於て、形の小さい者ほど寿命が短かいようである。細胞も亦同様で、人体各別の細胞の中で寿命の長いものと短かいものとの平均を取って、人間全体の生命の長さに比較してみると、国家の生命と個人の生命ほどの相違があるものと考え得る。しかし、それ等の長い、又は短かい色々の細胞の生命が、主観的に感ずる一生涯の長さは同じ事で、その生れて死ぬまでの間が、人工の時間で計って一分間であろうが百年であろうが、そんな事には関係しない。生まれて、成長して、生殖し老衰して、死滅して行きつつ感ずる実際の時間の長さは、どれも、これも同じ一生涯の長さに相違ないのである。この道理を知らないで、朝生まれて夕方死ぬ嬰児あかんぼの哀れさを、同じく朝生まれて日暮れ方に老死する虫の生命と比較して諦めようとするのは馬鹿馬鹿しく不自然、かつ、不合理な話で、畢竟ひっきょうするところ、融通の利かない人工の時間と、無限に伸縮自在な天然の時間とを混同して考えるところから起る悲喜劇に過ぎない。
 一切の自然……一切の生物は、かように無限に伸縮自在な天然の時間を、各自、勝手な長さに占領して、その長さを一生の長さとして呼吸し、生長し、繁殖し、老死している。同様に人体を作る細胞の寿命が、人工の時間で計って如何に短かくとも、その領有している天然の時間は無限でなければならぬ。だからその細胞が、その無限の記憶の内容と、無限の時間とを使って、大車輪で「夢」を描くとすれば、五十年や、百年の間の出来事を一瞬、一秒の間に描き出すのは何の造作もない事である。支那の古伝説として日本に伝わっている「邯鄲夢枕物語かんたんゆめまくらものがたり」に……盧生ろせいが夢の五十年。実は粟飯一炊あわめしいっすいの間……とあるのは事実、何の不思議もない事である。

 以上述ぶるところによって、タッタ一粒の細胞の霊能が、如何に絶大無限なものであるか、その中でも特に、そのタッタ一粒の「細胞の記憶力」なるものが、如何に深刻、無量なものがあるかという事実の大要が理解されるであろう。人間の精神と肉体とを同時に胎生し、作り上げて行く「細胞の記憶力」の大作用を如実に首肯されると同時に……何が胎児をそうさせたか……という「胎児の夢」の存在に関する疑問の数々も、大部分氷解されたであろうと信ずる。

 胎児は母の胎内に在って、外界に対する感覚から完全に絶縁されているために、深い深い睡眠と同様の状態に在る。その間に於て、胎児の全身の細胞は盛んに分裂し、繁殖し、進化して、一斉に「人間へ人間へ」と志しつつ……先祖代々が進化して来た当時の記憶を繰返しつつ、その当時の情景を次から次へと胎児の意識に反映させつつある。しかもその胎児は、前述の通り、母胎によって完全に外界の刺戟から遮断されていると同時に、極めて平静、順調に保育されて行くために、ほかの事は全く考えなくてよろしい。ただ一心に「人間へ人間へ」という夢一つを守って行けば宜しいので、その夢の内容もまた、極めて順調、正確に、精細をきわめつつ移りかわって行く。この点が、勝手気儘な、奔放自在な成人の夢と違っているところである。
 これを逆に説明すれば、胎児を創造するものは、胎児の夢である。そうして胎児の夢を支配するものは「細胞の記憶力」という事になる。すべての胎児が母胎内で繰返す進化の道程と、これに要する時間が共通一定しているのはこのためで、現在の人類が、或る共同の祖先から進化して来たために、細胞の記憶、即ち「胎児の夢」の長さが共通一定しているからである。又その無慮数億、もしくは数十億年に亘るべき「胎児の夢」が、僅に十個月の間に見てしまわれるのも、前述の細胞の霊能を参考すれば、決して怪しむべき事ではないので、進化の程度の低い動物の胎生の時間が、割合に短かいのは、そんな動物の進化の思い出が比較的簡単だからである。……だから元始以来、何等の進化も遂げていない下等微生物になると全然「胎児の夢」をたない。祖先そのままの姿で一瞬の間に分裂、繁殖して行くという理由も、ここに於て容易たやすく首肯される筈である。
◇備考 如上の事実、すなわち「細胞の記憶力」その他の細胞の霊能が、如何に深刻、微妙なものがあるか。そうしてそれが一切の生物の子々孫々の輪廻転生りんねてんしょうに、如何に深遠微妙な影響を及ぼしつつ万有の運命を支配して行くものであるかという事に就ては、既に数千年以前から、埃及エジプトの一神教を本源とする、各種の経典に説かれているので、現在、世界各地に余喘よぜんを保っている所謂いわゆる、宗教なるものは、こうした科学的の考察を粉飾して、未開の人民に教示した儀礼、方便等の迷信化された残骸である。だからこの胎児の夢の存在も、決して新しい学説でない事を特にここに附記しておく。

 しからば、その吾々の記憶に残っていない「胎児の夢」の内容を、具体的に説明すると、大要どのようなものであろうか。
 これはここまで述べて来た各項に照し合せて考えれば、最早もはや、充分に推測され得る事と思うが、尚参考のために、筆者自身の推測を説明してみると大要、次のようなものでなければならぬと思う。

 人間の胎児が、母の胎内で見て来る先祖代々の進化の夢の中で、一番よけいに見るのは悪夢でなければならぬ。
 何故かというと、人間という動物は、今日の程度まで進化して来る間に、牛のような頭角も持たず、虎のような爪牙そうがもなく、鳥の翼、魚の保護色、虫の毒、貝の殻なぞいう天然の護身、攻撃の道具を一つも自身に備付そなえつけなかった。ほかの動物と比較して、はるかに弱々しい、無害、無毒、無特徴の肉体でありながら、それをそのまま、あらゆる激烈な生存競争場裡に曝露して、あらゆる恐ろしい天変地妖と闘いつつ、遂に今日の如き最高等の動物にまで進化し、成上なりあがって来た。その間には、殆ど他の動物と比較にならない程の生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害等を体験して来た筈で、その艱難辛苦の思い出は実に無量無辺、息もかれぬ位であったろうと思われる。その中でも自分の過去に属する、自分と同性の先祖代々の、何億、何千万年に亘る深刻な思い出を、一々ハッキリと夢に見つつ……それを事実と同じ長さに感じつつ……ジリジリと大きくなって行く、胎児の苦労というものは、とてもその親達がこの世で受けている、短かい、浅墓あさはかな苦労なぞの及ぶところではないであろう。
 まず人間のタネである一粒の細胞が、すべての生物の共同の祖先である微生物の姿となって、子宮の内壁の或る一点に附着すると間もなく、自分がそうした姿をしていた何億年前の無生代に、同じ仲間の無数の微生物と一緒に、生暖かい水の中を浮游ふゆうしている夢を見初める。その無数とも、無限とも数え切れない微生物の大群の一粒一粒には、その透明な身体に、大空の激しい光りを吸収したり反射したりして、或は七色の虹を放ち、又は金銀色の光芒こうぼうを散らしつつ、地上最初の生命の自由を享楽しつつ、どこを当ともなく浮游し、旋回し、揺曳しつつ、その瞬間瞬間に分裂し、生滅して行く、その果敢はかなさ。その楽しさ。その美しさ……と思う間もなく自分達の住む水に起った僅かな変化が、形容に絶した大苦痛になって襲いかかって来る。仲間の大群が見る見るうちに死滅して行く。自分もどこかへ逃げて行こうとするが、全身を包む苦痛に縛られて動く事が出来ない。その苦しさ、堪まらなさ……こうした苛責が、やっと通り過ぎたと思うと、たちまち元始の太陽が烈火の如く追い迫り、蒼白い月の光が氷の如く透過する。或は風のために無辺際の虚空に吹き散らされ、又は雨のために無間むげん奈落ならくに打落される。こうして想像も及ばぬ恐怖と苦悩の世界に生死も知らず飜弄されながら……ああどうかしてモット頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも堪えられる身体からだになりたい……と身も世もあられずもだおののいているうちに、その細胞は次第に分裂増大して、やがてその次の人間の先祖である魚の形になる。即ち暑さ寒さをしのぎ得る皮肌、うろこ、泳ぎ廻るひれ尻尾しっぽ、口や眼の玉、物を判断する神経なぞが残らず備わった、驚くべき進歩した姿になる。……ああ有難い、これなら申分もうしぶんはない。俺みたような気の利いた生物はいまい……と大得意になって波打際を散歩していると、コワ如何に、自分の身体の何千倍もある章魚たこ入道が、天をおおうばかりの巨大な手を拡げて追い迫って来る。……ワッ――助けてくれ……と海藻の森に逃込んで、息を殺しているうちにヤット助かる。そこでホッと安心してソロソロ頭を持上げようとすると、今度は、思いもかけぬ鼻の先に、前の章魚よりも何十層倍大きな海蠍うみさそりはさみが詰め寄って来る。スワ又一大事と身を飜えして逃げようとすると背中から雲かと思われる三葉虫が蔽いかかる。横の方からイソギンチャクが毒槍をひらめかす。その間を生命いのちからがら逃出して、小石の下に潜り込むと……ブルブル。ああ驚いた。情ない事だ。コンナ調子では未だ安心して生きておられない。一緒に進化して来た生物仲間は物騒だというので、自分の身体を固い殻で包んだり、岩の間から手足だけ出したりしているが、自分はあんな事までしてこの暗い、重苦しい水の中に辛棒しているのはいやだ。それよりも早くおかに上りたい。あの軽い、明るい空気の中で自由に、伸び伸びと跳廻はねまわられる身体になりたい……と一所懸命に祈っているとその御蔭で、小さな三つ眼の蜥蜴とかげみたようなものになってチョロチョロとおかの上にい上る事が出来た。
 ……ヤレ嬉しや。ありがたや……とキョロキョロチョロチョロと駈けまわる間もなく、今度は世界が消え失せるばかりの大地震、大噴火、大海嘯おおつなみが四方八方から渦巻き起る。海は湯のように沸き返って逃込む処もない。焼けた砂の上で息も絶え絶えに跳ねまわっているその息苦しさ。セツナサ……その苦しみをヤッと通り越したと思うと今度は、山のような歩竜イグアノドンあしの下になる。飛竜プラテノドン[#ルビの「プラテノドン」はママ]の翼に跳ね飛ばされる。始祖鳥アルケオフェリクスの妖怪然たるくちばしにかけられそうになる。……アアたまらない。やり切れない。一緒に進化して来た連中は、身体中にとげを生やしたり、近まわりの者に色や形を似通わせたり、甲羅こうらかぶったり毒を吹いたりしているが、あんな片輪かたわじみた、卑怯な、意久地いくじのない真似をしなくとも、もっと正しい、とらわれない、温柔おとなしい姿のまんまで、この地獄の中に落付いていられる工夫はないか知らんと……石の間に潜んで、息を殺して念じ詰ていると、頭の上の顱頂孔ヒクメキの処に在る眼玉が一つ消え失せて、二つ眼の猿の形に出世して、樹から樹へ飛び渡れるようになった。
 ……サアめたぞ。モウ大丈夫だぞ。俺ぐらい自由自在な、進歩した姿の生物はいまいと、木の空から小手をかざしていると、思いもかけぬ背後うしろから蟒蛇うわばみが呑みに来ている。ビックリ仰天して逃出すと、頭の上から大鷲が蹴落しに来る。枝の間をつたわって逃げおおせたと思うと、今度は身体からだ中にだにがウジャウジャとタカリ初める。山蛭やまひるが吸付きに来る。寝ても醒ても油断が出来ないうちに、やがて天地もくつがえる大雷雨、大颶風ぐふう、大氷雪がおちかかって、樹も草もメチャメチャになった地上を、死ぬ程、狂いまわらせられる。……ああ……セツナイ。たまらない。自分は何も悪い事はしないのに、どうしてコンナに非道ひどい目にばかり遭うのであろう。どうかしてモットえらい者になって、コンナ災難を平気で見ておられる身体になりますように……と木の空洞うつろに頭を突込んで、胸をドキドキさせながら祈っていると、ようようの事で尻尾しっぽが落ちて、人間の姿になる事が出来た。
 ……ヤレ嬉しや。有難や。これから愈々いよいよ極楽生活が出来るのかと思っていると、どうしてどうして、夢はまだおしまいになっていない。人間の姿になると直ぐに又、人間としての悪夢を見初めるのである。

 胎児の先祖代々に当る人間たちは、お互い同志の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍卑怯な獣畜心理、そのほか色々勝手な私利私慾を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されて来るのである。……主君をしいして城を乗取るところ……忠臣に詰腹つめばらを切らして酒のさかなに眺めているところ……奥方や若君を毒害して、自分の孫に跡目を取らせるところ……病気の夫をし殺して、あだし男と戯れるところ……生んだばかりの私生児を圧殺するたまらなさ……嫁女よめじょ濡衣ぬれぎぬを着せて、首をくくらせる気持よさ……憎い継子ままこを井戸に突落す痛快さなぞ……そのほか大勢で生娘きむすめいじめる、その面白さ……妻子ある男を失恋自殺させる、その誇らしさ……美少年、美少女を集めて虐待する、その気味のよさ……大事な金を遣い棄てる、その愉快さ……同性愛の深刻さ……人肉の美味うまさ……毒薬実験……裏切行為……試斬ためしぎり……弱い者いじめ……なぞ種々様々のタマラナイ光景が、眼の前の夢となって、クラリクラリと移り変って行く。又は自分の先祖たち……過去の胎児自身が、隠しおおせた犯罪や、人に云い得ずに死んだ秘密の数々が、血塗ちまみれの顔や、首無しの胴体や、井戸の中の髪毛かみのけ、天井裏の短刀、沼の底の白骨なぞいうものになって、次から次に夢の中へ現われて来るので、そのたんびに胎児は驚いて、おびえて、苦しがって、母の胎内でビクリビクリと手足を動かしている。
 こうして胎児は自分の親の代までの夢を見て来て、いよいよ見るべき夢がなくなると、やがて静かな眠りに落ちる。そのうちに母体に陣痛が初まって子宮の外へ押し出される。胎児の肺臓の中にサッと空気が這入る。その拍子に今迄の夢は、胎児の潜在意識のドン底に逃げ込んで、今までと丸で違った表面的な、強烈、痛切な現実の意識が全身にみ渡る。ビックリして、魘えて、メチャクチャに泣き出す。かようにしてその胎児……赤ん坊はヤットのこと限りない父母の慈愛に接して、人間らしい平和な夢を結び初める。そうしてやがて「胎児の夢」の続きを自分自身に創作すべく現実に眼醒め初めるのである。
 何の記憶もない筈の赤ん坊が、眠っているうちに突然に魘えて泣き出したり、又は何か思い出したようにニッコリ笑ったりするのは、母胎内で見残した「胎児の夢」の名残を見ているのである。生れながらの片輪かたわであったり、精神の欠陥が在ったりするのに対しても、それぞれに相当の原因を説明する夢が、その胎生の時代に在った筈である。又は胎児の骨ばかりが母胎内に残っていたり、或は固まり合った毛髪と、歯だけしか残っていないような所謂いわゆる鬼胎きたいなるものが、時々発見されるのは、その胎児の夢が、何かの原因で停頓するか、又は急劇に発展したために、やり切なくなって断絶した残骸でなければならぬ。――以上――

  空前絶後の遺言書

      ――大正十五年十月十九日夜
――キチガイ博士手記
 ヤアヤア。遠からむ者は望遠鏡にて見当をつけい。近くむば寄って顕微鏡で覗いて見よ。われこそは九州帝国大学精神病科教室に、キチガイ博士としてその名を得たる正木敬之とは吾が事也。今日しも満天下の常識屋どものきもっ玉をデングリ返してくれんがために、突然の自殺を思いたったるそのついでに、古今無類の遺言書を発表して、これを読む奴と、書いた奴のドチラが馬鹿か、気違いか、真剣の勝負を決すべく、一筆見参仕るもの……吾と思わむ常識屋は、眉につばきしてで会い候え候え……。
 ……と書き出すには書き出してみたがサテ、一向に張合がない。
 ……ない筈だ。吾輩は今、九大精神病学教室、本館階上教授室の、自分の卓子テーブルの前の、自分の廻転椅子に腰をかけて、ウイスキーの角瓶を手近にはべらして、万年筆をななめに構えながら西洋大判罫紙フールスカップの数帖とにらめっくらをしている。頭の上の電気時計はタッタ今午後の十時をまわったばかり……横啣よこくわえをした葉巻からは、紫色の煙がユラリユラリ……何の事はない、糞勉強のヘッポコ教授が、居残りで研究をしている恰好だ。トテモ明日あすの今頃には、お陀仏だぶつになっている人間とは思えないだろう。……アハハハ……。
 吾輩は、いつもコンナ風に、常識を超越していないと虫が納まらない性分でね。にもかくにも吾輩を一種の狂人と認めている満天下の常識屋諸君に同情するよ。
 そこでだ……そこで何から書き初めていいかトント見当が付かないが……何しろ遺言書なぞを書くのは後にも先にも今度が初めてだからね。
 しかし、ここいらでチョイト普通人の真似をして、常識的の順序を立てて書く事にすると……まず第一に明かにしなければならぬのは吾輩の自殺の動機であろう。
 ソモソモ吾輩の自殺の動機というものは一人の可憐な少女に関聯している……という事が断言出来る……エヘン。笑っちゃいけない。
 そもそもその少女の美しい事といったらとても迚も迚も迚もと二三十行書いて止めておいた方が早わかりする位だ。世界中のハンケチの上箱うわばこ、化粧品のレッテル、婦人雑誌の表紙、衣裳屋の広告人形、ビール店、百貨店のポスターなんどの在らん限りを引っぱり出して来ても……欧米のキネマ撮影所を全部引っくり返して来ても、こんなに勿体もったいないほど清らかな、痛々しいほど匂やかな、気味の悪いほどウイウイしい……アハハハハハ。これ位にしておこう。年甲斐もなくソンナ別嬪べっぴんひじ鉄砲を喰って、この世をダアと観じたな……なぞと感違いされては困るから……。そんな御心配はコッチから願い下げで御座る。何を隠そう、その少女は今から半年ばかり前に、人間の戸籍からけずられているのだから……。
 そんならその少女が死んだためにこの世を果敢はかなんで……なぞと又、早飲込みをする常識屋が出て来るかも知れないが一寸ちょっと待ったり……慌ててはいけない。現在、死人の戸籍に這入っているその少女は、近いうちに自分のシャン振りと負けず劣らずの、ステキ滅法界めっぽうかいもない玉の如き美少年と、偕老同穴かいろうどうけつちぎりを結ぶ事になっているのだ。そこで吾輩のこの世に於ける用事もハイチャイを告る事になるのだ……と云ったら又、頭のいい痴呆患者が出て来て……そんならイヨイヨ発狂自殺だ。おおかた死んだ美少女と、いきた美少年のラブシーンを夢に見るか何かして、気が変になったのだろう……何かと考えるかも知れない。
 ……どうも驚いたな。遺言書なんてものはコンナ書きにくい、自烈度じれったいものとは知らなかった。しかしそれでも折角せっかく自殺するのだから、何とか書いておかないと、アトで張合がないだろうと思って、おまけのつもりで書く訳だが、何を隠そう、その鬼籍に入った美少女とピンピン生きている美少年とが、現実に接吻、抱擁する事に依て、吾輩が畢生ひっせいの研究事業である精神科学の根本原理……即ち心理遺伝と名づくる研究発表の結論となるべき実験が、芽出度めでたし芽出度しになる手筈になっているのだ。
 どうだい。コンナ面白い、痛快な学術実験が、又とほかに在りますかい。アハハハ……。
 イヤ。恐らく無い筈だ。……というのは第一に、この実験の基礎となっている精神科学という学問が、吾輩独特の新規新発明に属するものなんだから……のみならずその中でも亦、吾輩専売の精神病学の実験というのが、普通の医学や何かのソレと違って、鳥やけものや、人間の屍体なぞを相手に研究は出来ない。何故かというと鳥や獣は、或る種の精神病患者と同様、最初から動物性の丸出しで研究材料に不適当だし、死んだ人間には肝腎の実験材料になる魂が無い。必ずやピンピン溌溂たる人間の、正しい、健康な精神を材料に使わねばならぬ。そんな立派な精神が、突然に発狂して、やがて又、次第次第に回復して行く……その前後の移り変りをコクメイに研究して、記録して行かなければならないのだから大変である。ことに吾輩が研究の主題テーマとして選んだ材料を、今の学者の流儀で名付けると、遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾とも名付くべき、世にもややこしい代物しろものと来ているんだから厄介この上もない。
 そんな実験の材料として選まれる人物はトテモ生やさしい御方ではない。ウッカリするとこっちがギューとやられるかも知れないのだから、吾輩は冒頭のっけから生命いのちがけで、この実験に取りかかったものだが、とうとうその実験のあおりを喰って、自分自身が、自殺にまで追い詰められる事になって……イヤ。まだ自殺までには大分時間があるから、充分、十二分に落ち付いて、紫の煙と、琥珀こはく色の液体を相手に悠々と万年筆をふるう事にする。
 諸君もユックリ読んでくれ給え。遺言とか何とかいったって気楽なもんだ。ナマンダ式やアーメン式、又は無念残念式とはネタが違う。キチガイ博士のキチガイ実験の余興みたいなもんだ。残る煙がお笑いの種明しだ。……吾輩の研究の中心となっている稀代の美少年と、絶世の美少女との変態性慾に関する破天荒の怪実験が、ドンナ学理の原則に支配されて、ドンナ風に緊張し、白熱化しつつ、実験者たる吾輩の全生涯を粉砕すべく爆発しかけて来たかという、その自然発火の裏面のカラクリが、次第次第に手に取る如く判明して来るんだから……。

 話はすこし以前まえにさかのぼる。
 今年の十月の何日であったかに、福岡の某新聞の学術欄で、吾輩の「脳髄は物を考える処にあらず」という意味の談話が連載された時の、世論の反響のドエラサには正直のところタジタジと来たね。「人間という動物は自惚うぬぼれと迷信で固まっているものだ」ぐらいの事はウスウス知っていないではなかったが、それにしてもコンナまで篦棒べらぼうなものであろうとは、この時がこの時まで気が付かなかった。彼等、すなわち常識屋は、新聞に、雑誌に、念入りなのは書信に、もっと御念入りなのは吾輩に直接面会などいう、ありとあらゆる手段を以て、吾輩の放言をタタキ潰すべく試みた。殊にきもを潰すべきは、研究の自由をモットーとしているこの大学の中で、お上品な顔をして、アゴを撫でたり、ヒゲをひねったりしている教授連中までが、一斉に奮起して、「あの非常識にして暴慢、不謹慎な、狂人学者ヒポマニーをタタキ出せ。しからずむば赤煉瓦の中へタタキ込んでしまえ」というので、机を叩いて総長に迫ったという。
 これを聞いた時には流石さすがに海千山千の吾輩も、尻に帆を上げかけたね。大学の中だけは学術研究の安全地帯だと思っていたのが、豈計あにはからんやのビックリ箱と来たもんだからね。幸いにして総長が、行政官じみた事なかれ主義の男で、ていよくマアマア式に切り抜けたお蔭で、吾輩も今日までマアマアに有り付いて来た訳だが、それにしても考えて見れば阿呆あほらしい話じゃないか。ドウセ博士とか、大学教授とかになる人物なら、一番上等のところで名誉狂か、研究狂程度の連中にきまっている。それを恥かしいとも思わないで、今一枚の名誉狂、兼、研究狂である吾輩を捉まえて、キチガイ呼ばわりをするんだから、片腹痛からざるを得ないではないか。この時に吾輩が、如何に片腹痛かったかは、吾輩の親友若林学部長が知っている。
「コンナ塩梅あんばい式では吾輩の精神解剖学や精神生理、精神病理、心理遺伝なぞいうものは、とても剣呑ケンノンで発表出来ないね。普通の人間よりも、精神病者の方が、気がたしかだという学説なんだからね。ハハハハ……」
「そうですねえ。科学ぐらい人類を侮辱しているものはないという事を、大抵の人間は知らずにいるのですからね」
「そうだとも、しかし『人間は猿の子孫也』と聞いてソレ見ろと得意になっている連中が……お前達はみんなキチガイだと云われると、慌てておこり出すところは奇観じゃないか。猿の進化したものが人間で、人間の進化したものがキチガイだという事実を知らないばかりじゃない。全然反対の順序に考えているらしいんだからね。ワッハッハッハッハ……」
 なぞと笑い合った位だから……。
 だから吾輩は訂正追加のために、手許に取り寄せていた「脳髄論」の公表までも差し控えてしまった。そうして約半年後の今日只今、そんな著述の原稿を一緒に、みんな引っくるめて焼き棄ててしまった。
 ナニ。別に理由は無い。つまらないからサ。
 人類の文化は、吾輩の研究を受け入れるべく、余りにアホラシク幼稚だからサ。……しかも、そんな大きな事実に二十年もの永い間、気付かないで、コンナ桁外けたはずれの研究に黒煙くろけむりを立て続けて来た吾輩のアホラシサが、今更にシミジミとわかって来たからサ。或は吾輩の精神異状が、こうして静まりかけているのかも知れないが……呵々かか……。
 ……但し……そんな著述の中でも一番美味おいしいロースのクラシタどころだけは、この遺言書の中に留めておいて、適当の時代に、こうした研究を想い立つであろうキチガイ学者の参考に供する事にした。その中でも吾輩の「脳髄論」の内容は、ここに挟んだ切抜きの通り、既に新聞に破抜ぱぬかれているので、これ以上の内容がある訳でもないから、くやしい事はちっともない。又、精神解剖学以下、精神病理学に到る研究のヒレどころも、既に、二十年前に吾輩が、卒業論文として九大に提出したこの「胎児の夢」の論文の中に含まれているのだから大略するとして、ここには只、吾輩大得意の「狂人の解放治療」と「心理遺伝」の関係について略記しておきたいと思う。
 これを前の新聞記事や、胎児の夢の論文と一緒に読めば、前述の美少年と美少女を材料とする怪実験が、大正十五年の十月十九日……すなわち今日の正午を期して、空前の成功を告げると同時に、絶後の失敗に終ったという、奇々怪々な精神科学の学理原則の活躍が、明々、歴々と判明して来る。同時に現代文化の粋を極めた常識とか、学識とかいうものが、一挙に葉微塵ぱみじんとなって、あとにはからっぽの頭蓋骨だけが、累々るいるいとして残る事になる……という訳なんだが……。
 ……ところで……エート。ここいらでチョット失敬して、消えた葉巻に火をつけるかな。……実は大好物でね。どんなに貧乏生活をしている時でも、コイツとアルコール分だけは座右に欠かさなかったものだが……もはや死ぬまでに何本というところまで漕ぎ付けたんだから、一つ勘弁して頂きたい。ハハハハ……。

 お待ち遠さま……サテ然るにだ……吾輩の極楽行きの直接原因を生んだの「狂人解放治療場」を見た人々は、誰でも狂人の散歩場ぐらいにしか思っていないようである。中には新聞の記事なぞを読んで「ハハア成る程」なぞと首肯うなずく者が居るかと思うと、すぐにあとから「いかにもねえ。こうしておけば狂人も昂奮しませんね」とか「ハハア。一種の光線治療ですね」なぞと、知ったか振りを云うくらいの事で、誰一人としてこの実験の正体を看破した者は居ないから面白い。否。この実験の秘密はこの教室で仕事をしている副手や助手にさえも洩した事はないのだから、彼等は唯、何か非常に高遠な実験らしい……ぐらいにしか心得ていないのであるが、実は他愛ない……しかもステキに面白い実験なのだ。「解放治療」なぞいう鹿爪しかつめらしい名前は、世を忍ぶ仮の名に過ぎないのだ。
 何を隠そうこの「解放治療」の実験は、吾輩が嘗て、当大学の前身であった福岡医科大学を卒業する時に書いた「胎児の夢」と名付くる一篇の論文の実地試験に外ならないのだ。
 但し吾輩が「胎児の夢」の中に並べ立てた引例は皆、人類各個お互い同志に共通した、喰いたい、寝たい、遊びたい、喧嘩したい、勝ちたいといった程度の心理の遺伝で、極く極く有り触れた種類のものばかりであるが、ここで研究しているのは、それよりもモットモット突込んだ、個人個人特有の極端、奇抜な心理遺伝の発作なんだ。近頃流行の猟奇趣味とか、探偵趣味なぞいうものが、足元にも寄り付けないくらい神秘的な、尖端的な、グロテスクな、怪奇、毒悪がいどくを極めた……ナニ、まだ見た事がないから見せてくれ。お易い御用だ。タッタ今お眼にかけよう……。
 ……サアサアらっしゃい入らっしゃい。世界中、どこを探しても見られぬ生きた魂の因果者の標本、日中の幽霊、真昼の化け物、ヒュ――ドロドロの科学実験はこれじゃこれじゃ……見料けんりょうは大人が十銭、小供なら半額、盲人めくら無料ただ……アッ……そんなに押してはいけない。狂人きちがい連中に笑われますぞ。お静かにお静かに……。
 ……エヘン……。
 ここに御紹介致しまするは、九州帝国大学、医学部、精神病科本館の裏手に当って、同科教授、正木先生が開設されましたる、狂人解放治療場の「天然色、浮出し、発声映画」と御座います。映写致しまする器械は、最近、九大、医学部に於きまして、眼科の田西博士と、耳鼻科の金壺かなつぼ教授とが、正木博士と協力致しまして、医学研究上の目的に使用すべく製作されましたもので、実に精巧無比……目下米国で研究中の発声映画なぞはトーキー及ばない……画面と実物とに寸分の相違もないところにお眼止めとめあらむ事を希望致します。
 まず……開巻第一に九州帝国大学、医学部の全景をスクリーンに現わして御覧に入れます。
 御覧の通り九大の構内と構外とは一面に、と続きの松原の緑に埋められておりますが、その西端に二本並んだ大煙突のもとに見えます見すぼらしい青ペンキ塗り、二階建の西洋館が、天下に有名なるキチガイ博士、正木先生のられる精神病学教室の本館で、そのすぐ南側に見えます二百坪ほどの四角い平地が、これから御紹介申上げます「狂人の解放治療場」で御座います。……撮影機と技師とを搭載致しました飛行機はだんだんと下降致しまして、精神病科本館階上、教授室の南側の窓の縁に着陸致します。……まるで蜻蛉とんぼはえなんぞのようで……時に大正十五年十月十九日……の午前正九時と致しておきましょうか。
 この解放治療場を取巻いておりまする赤煉瓦の塀は、高さが一丈五尺。これに囲まれました四角い平地は全部この地方特有の真白い、石英質の砂で御座いますから、清浄この上もありませぬ。真中に桐の木が五本ほど、黄色い枯れ葉を一パイにつけて立っております。この桐の木はズット以前からここに立っておりまして、本館の中庭の風情となっておったもので御座いますが、この解放治療場開設のため周囲を地均じならし致しまして以来、斯様かように著しい衰弱の色を見せて参りましたのは、何かのわるい前兆と申せば申されぬ事もないようであります。あるいはこの桐の木が、斯様な思いがけないところに封じ込られたために精神に異状を呈したものではないかとも考えられるのでありますが、しかしその辺の診断は、当教室でもまだ気が付きかねております。……無駄を申上げまして恐れ入りました。
 治療場の入口は、東側の病室に近い処に只一つ開いておりまして、便所への通路を兼ておりますが、その入口板戸の横に切りあけられた小さな、横長い穴から、黒い制服制帽の、人相の悪い巨漢が、御覧の通り朝から晩まで、冷たい眼付で場内を覗いているところを御覧になりますると、この四角い解放治療場の全体が、さながらに緑の波の中に据えられた巨大な魔術の箱みたように感じられましょう。
 この魔術の箱の底に敷かれました白い砂が、一面に真青な空の光りを受て、キラキラと輝いております上を、黒い人影が、立ったり、座ったりして動いております。一人……二人……三人……四人……五人……六人……都合十人居ります。
 これが正木博士の所謂「脳髄論」から割出された「胎児の夢」の続きである「心理遺伝」の原則に支配されて動いている狂人たちであります。……しかも、これから三時間後……大正十五年十月十九日の正午となりまして、海向うのお台場から、轟然ごうぜんたる一発の午砲ごほうが響き渡りますと、それを合図にこの十人の狂人たちの中から、思いもかけぬスバラシイ心理遺伝の大惨劇が爆発致しまして、天下の耳目を聳動させると同時に、正木先生を自殺の決心にまでい詰める事に相成るのでありますが、その大惨劇の前兆とも申すべき現象は、既に只今から、この解放治療場内にアリアリとあらわれているので御座いますから、よくお眼を止められまして、狂人たちの一挙一動を精細に御観察あらむ事を希望いたします。
 そこでその精細な御観察の便宜と致しまして、この十人の狂人たちの一人一人の姿を大写しにして御覧に入れます。
 まず、最初に現わしまするは、西側の煉瓦塀れんがべいの横で、双肌脱もろはだぬぎになって、セッセと働いている白髪の老人で御座います。この老人は御覧の通り、両手に一挺のくわを掴んで打振うちふりながら、煉瓦塀に並行した長い畑を二半ほど耕しておりますが、しかしその体躯からだを見ますと御覧の通り、腕も、すねも生白くて、ホッソリ致しておりまするのみならず、老齢の労働者に特有の、首筋をめぐる深い皺も見えませぬので、いずれに致しましても、こんな百姓の仕事に経験のある者とは思われませぬ。ことにミジメなのはそのてのひらで、鍬を握っておりますから、よくは見えませぬが、その鍬のの処々に、黒い汚染しみがボツボツとコビリ付て見えましょう。あれは、その掌の破れた処からニジミ出している血の痕跡あとで御座います。しかも……老人は、それでも屈せず、たゆまず、セッセと鍬を打ち振て行くところを見ますと、正木博士の発見にかかる、心理遺伝の実験が、如何に残忍、冷厳なものであるかという事が、あらかた、お解りになるで御座いましょう。
 次にあらわしまするはその横に突立つったって、老人の畠打はたうちを見物致しております一人の青年で御座います。お見かけの通り黒っぽい木綿着物に白木綿の古兵児帯へこおびしめて、頭髪あたま蓬々ぼうぼうとさしておりますから、多少けて見えるかも知れませぬが、よく御覧になりましたならば、二十歳前後のういういしい若者であることが、おわかりになりましょう。久し振りに日陽ひなたに出て来ましたせいか、肌が女のように白く、ホンノリした紅い頬に、何かしらニコニコと微笑を含みながら、鍬を振り廻す白髪の老人の手許を一心に見守っております。その表情だけを見ますと、ちょっと普通人かと思われますが、なおよくお眼を止めて御覧下さい。その眼眸まなざしと、瞳の光りの清らかなこと……まるで深窓に育った姫君のように静かに澄み切って見えましょう。これは或る種類の精神病者が、正気に帰る前か、又は発作を起す少し前に、あらわしまする特徴で、正木博士が始終手にかけておられました、真狂しんきょうと、偽狂ぎきょうの鑑定の中でも特に鑑別し難い眼付なので御座います。
 次には今の老人と青年の、遥か背後うしろの方にかがまっている一人の少女にレンズを近付てみます。お見かけの通り、幽霊みたように青白く瘠せこけたソバカスだらけの顔で、赤茶気た髪をくくり下げに致しておりますが、老人が作りました畠のへりに跼みまして、繊細かぼそい手で色んなものを植え付ております。桐の落葉、松の枯枝、竹片たけぎれ、瓦の破片なぞ……中にはどこで見付たものか、青い草なぞもあります。しかし何しろ相手の畠が、サラサラした白砂のうねで御座いますから、竹の棒なぞはウッカリすると倒れそうになるのを、御覧の通り色々と世話を焼いて真直に立てております。あんな面倒臭い事をせずとも、グッと砂の中に突込んだら良さそうなもの……と思われる方があるかも知れませぬが、それは失礼ながら素人考えで……この少女は瓦片かわらぎれや竹の棒なぞを、やはり普通の草花か何かの苗だと信じ切っておりますので、決してそんな乱暴な扱いを致しませぬ。さも大切そうに根方ねもとに砂を被せておりまするところがねうちで……しかし、それでも折角、世話してやった竹の棒が二三度も倒れますと……アレ、あの通り癇癪かんしゃくを起しまして、柔かい草の苗と同じように、竹の棒を何の苦もなく引千切ひっちぎって棄ててしまいます。あの繊細かよわい、細い腕から、どうしてあんな恐ろしい、男も及ばぬ力量ちからが出るかと、怪しまるるばかりで御座いますが、実は人間というものは、どんな優しい御婦人でも、大抵あれ位の力は持ておられますので……ただ……人間は、ほかの動物に比べて上品な、弱いもの……殊に女は……といったような暗示が、先祖代々から積み重なって来た結果、それだけの力を出し得ずにおりますので、それが精神に異状を来すか、地震、火事といったような一大事にぶつかるか致しますと、その暗示が一時的に破れまするために、本来の腕力に立帰りまする事が、現在、只今、この少女によって証拠立られているので御座います。毎度説明が脱線致しまして申訳もうしわけありませぬが、これは正木博士の「心理遺伝」を逆に証明する実例で御座いますから、特に申添えました次第で御座います。
 その次にあらわしまするは、破れたモーニング・コートを着た毬栗いがぐり頭の小男で、今の老人と、青年と、少女の一群ひとむれが居る処とは正反対側の、東側の赤煉瓦塀に向って演説をしているところで御座います。
「……達摩だるまは面壁九年にして、少林の熊耳ゆうじと云われました。故に吾人は九年間面壁して弁論を練り、糊塗縦横ことじゅうおうの政界を打破りまして、あらゆる不平等を平面にすべく……きたるべき普選の時代に於て……即ち、その……吾人が……」
 と大声をあげるかと思うと、思い出したように右手を高くあげて左右に動かしております。
 その背後を一人の奇妙な姿をした女が通って行きます。御覧の通り、まことに下品な、シャクレた顔をした中年増ちゅうどしまで、顔一面に塗りつけております泥は、厚化粧のつもりだそうで御座います。着物の裾もあらわな素跣足すあしで、ボロボロの丸帯を長々と引ずっておりますが、誰がこしらえてやりましたものか、ボール紙に赤インキを塗った王冠の形の物を、ザンバラの頭の上に載せて、落ちないようにあおのきつつジロリジロリと左右をめまわしながら女王気取りで、行きつ戻りつ致しておりますところはナカナカの奇観で御座います。
 その女が前を横切る度毎たびごとに、桐の木の根方ねもとに土下座をして、あまたたび礼拝を捧げておりまするひげだらけの大男は、長崎の某小学校の校長で御座います。親代々の耶蘇やそ教信心が、この男に到って最高潮に達しました結果、この病院へ収容されますと、煉瓦や屋根瓦の破片に聖像を彫って、同室の患者たちに拝ませたり致しておりましたが、只今は又、の女王気取の狂女を、マリヤ様の再来と信じまして、随喜、渇仰かつごうの涙を流しているところで御座います。
 それから又、あの土下座している髯男の周囲まわりを跳まわっておりますお垂髪さげの少女は、高等女学校の二年生で、元来、内気な、憂鬱な性格で御座いましたが、芸術方面に非常な才能をあらわしておりまするうちに、所謂いわゆる、早発性痴呆となったもので御座います。……ところが、その発病と同時に、今までの性格がガラリと一変致しましたもので、ここへ入院致しました当時、正木院長から名前を尋ねられた時にも「あたしは舞踏狂よ……アンナ・パブロワよ」と答えたという病院切っての愛嬌者で、いつも御覧の通り、自作の歌を唄いながら、踊りまわっているので御座います。

アオいオラを見イたら
 イロいウモがアかく
 ウロいウモがイクく
 アカア良オくウアらんで
 フウラリフウラリ飛んで
     フウララフウララフゥ――ララ……

 あたいも一緒にアラんでエ
 フウラリフウラリるいたらア
 アカいアべにぶつかったア
     フウララフウララフゥ――ララ……
     フウララフウララフゥ――ララ……」

 又、こちらの方では四十位の職人風の男が二人、親密そうに肩を組んで、最前の年増女としまおんなと直角の方向に、行きつ戻りつしております。もっとも右側の男は東京見物、左側の一人は南極探検の意味で、斯様かように意気が投合して、大旅行を続けているのだそうですから、まことに世話が焼けません。それからこちらの入口の処に座っております肥ったお婆さんは、相当な身分の人らしい事が、その上品な着物の柄で推量出来ますが、しかし御本人は、そんなつもりではないらしく、いつもあのように貧民窟に住んでいるような恰好で、居りもせぬしらみを一所懸命に取っては潰し、つまんでは棄てております……かと思うとアレ……あの通り帯を解いて丸裸体まるはだかになりまして、大きな音を立てながら着物をハタキ初めますので、そのたんびに演説屋も、二人の職人も、女学生も、心理遺伝の発作を中止して、指さし、眼さし、腹を抱えております。

 さて……以上、映写致しましたところの狂人たちの一挙一動を御覧になりました方々の中には、必ずや意外に思われた方が、おありになるに相違ないと存じます。
「……ナアンダイ……これあ。当り前の狂人じゃないか。何もこの解放治療場に限った事はない。どこの精神病院の散歩場に行っても、こんな光景が見られるじゃないか。狂人の解放治療場という位だから、眼もはるかなひろに、何百か何千かわからぬ狂人の群れが、ウジャウジャして、あらん限りの狂態を演じている光景が見られるのかと思っていたが、これじゃあチットモ張合がない。第一心理遺伝なんて、どこが心理遺伝なのかサッパリ解らないじゃないか」
 ……と……失望、落胆、軽蔑、冷笑される方がキットお在りになる事と存じますが、まあ、そう急がずにお待ち下さい。実を申しますと正木先生の御研究にかかわる、心理遺伝の実験に使う人物はこれだけで沢山なので、この中の二三人の狂態が、如何なる心理遺伝によって演出されつつあるものであるかを、映画に就て簡単に説明致しましただけでも、世界中のありとあらゆる精神異状の原因は残らずおわかりになろうという……申さばこの十人の精神病患者は地上千万無数の狂人の中から選み出された精神異状の代表的チャムピオン……もしくは正木博士の過去二十年間の御研究に係る心理遺伝の原理を、身を以て直接に証明すべく現われた、世界的の標本とも見られるので御座います。
 その先頭第一に御紹介致しまするは、最前から赤煉瓦塀の横で畠を打っております、あの白髪頭しらがあたまの老人で御座います。
 この老人は、名前を鉢巻儀作はちまきぎさくと申しますが、その五代前の祖先、すなわちこの儀作の曾々祖父に当ります者は、福岡の御城下、鳥飼とりかい村に居りました名高い豪農で、同名儀十ぎじゅうと申す者で御座いました。その儀十という男は、生れ付き左利きで御座いましたが、仲々の体力と精力の持主で、自分一代のうちに鍬一本で、大身代しんだいを作り上げて、御領主黒田の殿様から鉢巻という苗字と、帯刀を許されたという立志伝中の人物だそうで御座います。
 ところで又、何が故にそのような奇妙な苗字を頂戴に及んだかと尋ねますると、この鉢巻と申しまするのは元来、この男の若い時分の綽名あだなで御座いました。つまり汗を拭う時間が惜しいというので、田畠の仕事を致します時には、いつも眉の上の処に、手拭てぬぐい後鉢巻うしろはちまきを致しておりましたところから来た綽名だというので御座いますから、如何にその働らき振りが猛烈であったかが、おわかりになるでしょう。夜が明けてから暮れる迄の間に休むのはタッタ一度だけ……福岡、舞鶴城の天守のやぐらで、うまの刻……只今の正午のお太鼓がド――ンと聞えますと、すぐに鍬を放り出して、近くのどて草原くさばらの木蔭か軒下のきしたに行って弁当を使う。それから約半刻はんとき……と申しますと只今の一時間で御座いますな。その間、午睡ひるねをしてから、ムックリ眼を醒ましますと又、日が落ちて、手元が見えなくなるまで休まないというのですから豪気なもので……多分この男も一種の偏執性性格といったような素質を持った人間で御座いましたろうか。その赤黒い額に残った白い、横一文字の鉢巻の痕跡あとが、息を引き取った後迄のちまでも消えなかった。殿様の前に出た時も同様で御座いましたので、お側に居った慌て者が「コレコレ鉢巻を取れ」と申しましたところから、殿様が大層、興がらせられて、斯様かような苗字を賜わったという、世にも名誉ある鉢巻で御座いました。
 ところが、それから物変り星移りまして、その鉢巻儀右衛門から五代目に当るこの儀作爺さんになりますと、その名誉ある鉢巻も左利きも、それから惜しい事にその大身代も、どこかへなくしてしまいまして、博多名物の筆屋の職人に成り下りました。そうして斯様に老年に及びまして、眼が霞んで細かい筆毛が扱えないようになりましたために、余儀なく失職する事に相成りますと、それを苦に致しました結果、精神に異状を来しまして、一週間ばかり前に、当大学に連れ込まれるという、憐れな身の上と相成ったので御座います。
 ところが不思議で御座います。正木先生がこの爺さんの発狂の動機、すなわち心理遺伝の内容を探るべく、解放治療場に解放されましてから間もなくの事で御座いました。場内の片隅に、小使が蛇を殺したまま置き忘れて行った鍬を見付けますと、早速先祖の真似を初めました。もっとも鉢巻は致しませぬが、御覧の通り最前から一度も汗を拭いませぬ。又、鍬を持っている手附きも、発狂前と正反対の左利きになっておりまして、十二時の午砲ドンを聞きますと同時に、鍬を投げ出して病室に帰って、サッサと食事を済まして、ゴロリと寝台の上に横になるところまで、五代前の儀十の生れ代りとしか思えませぬ。但し一度寝てしまいますと、疲労が甚しいせいか、あくる朝までブッ通しに白河夜舟しらかわよふねで、晩飯も何も喰いませぬ。おおかた夢の中で、曾々祖父の儀十になって、大身代でも作っているので御座いましょう。
 ……これが心理遺伝の第一例……御質問がありましたら御遠慮なくお手をお上げ下さい。
 次に御紹介致しまするは最前から、赤煉瓦の壁に向って演説を致しております破れモーニングの小男で御座います。これは、あの空中で振り動かしております右の手附と、物を支え持ったような恰好にしている左の手と、それからあの、演説のうちに使っている言葉が、有力な参考になるので御座います。
「……これは帝国の前途に横たわる一大障壁であります。今日の如く上塗うわぬりの思想が横行し、糊塗縦横の政治が永続しているならば、吾々日本民族の団結は、あの切藁すさを交えぬ土塀の如く、外来思想の風雨のために、遠からず土崩瓦解の運命に……」
 いかがです。最前からお聞きの通り、この毬栗いがぐりのフロック先生の演説の中には、壁という文句や、又は壁に関係した言葉が、度々出て参ります。すなわちこの小男の母方の祖父は、黒田藩御用の左官職であった……お笑いになっては困ります。落語では御座いません……でありまして、その祖父の左官職人が、或る時、福岡城の天守やぐらの上で仕事を致しておりますうちに、過って足をすべらして墜落惨死を致したので御座いますが、しかも、その祖父というのは元来、何事につけても身の軽いのが自慢だったそうで……天守台の屋根に漆喰しっくいのかけ直しをする時なぞは、殿様が遠眼鏡とおめがねで、その離れわざを御上覧になった位だそうで御座います。そのほか平生の時にも足場を極めて簡略にして仕事をする癖がありましたために、出来上りは早う御座いましたが、何度も足がかりを誤ったり、途中に引っかかったりして生命いのちうしないかけましたのを、いつも奇蹟的に助かって来たので御座いました。
 然るに、それが幾歳の時で御座いましたか、やはり天守の御屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働らいておりまするうちに、ウッカリ殿様の方へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係りの役人が、止せばいいのに大音を揚げまして「心せいや――い。御本丸から御上覧ぞ――う」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったもので御座いましょう。たちまち足を踏みすべらしまして、数丈の石垣から転がり落ちつつ、粉微塵こなみじんとなって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたので御座いますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいもので御座います。この男は中学時代までも時々、夜中に寝呆けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか云って叫び出す癖がありました。その都度つどに家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち付かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたような処から、真逆様まっさかさまに落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙では御座いませんか。斯様かように普通人の眼から見れば何でもない、軽い、夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした刹那せつなの、徹底した恐怖の記憶が再現しているところなぞは、何という不思議な心理遺伝の実例で御座いましょう。……否、あにひとりこの演説男のみに限らんやであります。一般に吾々が睡眠中に、どこか高い処から落ちたような気がして、ハッと眼を醒ますことがありますのもこの例に照してみますと、格別、不思議では御座いませぬ。吾々の両親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「俺は死ぬんだッ」とか思う瞬間の、悽愴、悲痛を極めた観念の記憶が、一つの心理遺伝となって、吾々子孫に伝わったものの再現であろう事は、誰しも疑い得なくなるで御座いましょう。
 御質問は御座いませんか……。
 ついでに今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に戴いて、行きつ戻りつしている年増女で御座います。これはあの衣紋えもんのクリコミ加減でもお解りになります通り、或る町家ちょうかの娘で、芸妓げいしゃに売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて、間もなく或る若い銀行家に落籍ひかされる事になりました。ところがその銀行家の両親が昔気質むかしかたぎの頑固者揃いで「身分違い」という理由の下に、彼女を正妻に迎える事を許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、或る宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ……わたしさかずき指すなんて生意気バイ」と啖呵たんかを切りますと、イキナリその盃を相手にタタキ付けて、三味線を踏み折ってしまった……そのまま当病室こちらへ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主で御座います。しかし、思案のほかとは申しながら、昔と違いました新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上で御座いますから、それくらいの事で取り乱すのはチト気が狭過せますぎるように思われるかも知れませぬが、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろう事が、彼女の発病後の態度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばったお上品ずくめで、腰附きから眼づかい、足どりまでもうえがたのお上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうソックリで御座います。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の鍋取公卿なべとりくげ……貧乏華族の成りそこねであった事を、彼女はその精神異状によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない清河原きよかわらという苗字で御座います。つまり彼女は、発病致しませぬ前までは、環境まわりの風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたで御座いましょうが、一旦、精神に異状を呈してしまいますと、最近、一二代の間に出来た町家風まちやふうの習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方の気風を、そのままにあらわしているので御座います。
 ……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。
 ……ナナ……ナル……ナルホド……如何にも御尤ごもっとも千万……よくわかりました。つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか……タッタそれんばかりの研究のために、正木博士は生命いのちがけの騒ぎをやっているのか……と仰言おっしゃるのですね。
 ……恐れ入りました。多分その御質問が出る頃と存じましたから、このフィルムの編輯者の方でも気を利かしまして、次には心理遺伝の発見者である当の正木博士を、正面のスクリーンに映写致しますと同時に、只今の御質問について一場の講演をさせる順序に取計とりはからっております。……九大の狂人きちがい博士として、アインスタイン、スタインナハ以上に有名な正木博士がスクリーンに現われましたならば、何卒、われむばかりの拍手を以て、お迎えあらむ事を希望致します。何故かと申しますと当の御本人が非常な拍手好きで、講義中でも学生に拍手させるのを何よりのたのしみに致しておった位で御座いますから……ナニ……何ですか……スクリーンの中からじゃ、手を叩いても聞えまい……?……。アハハ。これは御尤も千万……ところが聞えるから不思議で御座います。論より証拠……たたいて御覧になればわかる事で……どこに種仕掛たねしかけがあるかは、眉につばをつけて御覧になれば、すぐに、おわかりになる事と存じますが……エヘンエヘン…………。
 ……エエ……これが天下に有名な九州帝国大学、医学部、精神病科教授、医学博士、正木敬之けいし氏で御座います。背景は九州帝国大学、精神病科本館、講堂のボールドで、白い診察服を着ておりますのは、平生の講義姿をそのままに画面にあらわしたもので御座います。
 お眼止めどまりました通り、身長は五尺一寸キッカリしかない、色の浅黒い小男で御座いますが、丸い胡麻塩ごましお頭を光る程短かく刈込んだところから、高い鼻の左右にピカピカ光る大きな鼻眼鏡と、その下に深く落凹おちくぼんだ鋭い眼付き、横一文字にピッタリと結んだ大きな口元、又は鼻眼鏡をかけた骸骨ソックリの表情で、テーブルの前に立ちはだかって、諸君を一渡り見まわしてから、総入れ歯をカッとき出して笑うところまで、満身これ精力、全身これたん渾身こんしんこれ智……。
 ……どうも……そうお笑いになっては困ります。……ナニ。質問……ハイハイ何ですか。ハハア。説明している私と、画面の中の正木博士と同一人か別人か……。
 アハハハハハ。これは失敗……早速退散致しまして画面の中の私……否。正木博士に説明させる事に致します。【説明者消失】

【映写幕上の正木博士、身振りに従って発声】
 ……エヘン……オホン……。
 ……吾輩は満天下の新人諸君と、この銀幕上に於て相見あいまみゆる事を生涯の光栄とし、かつ、無上の満足とする者である。
 諸君は常識の世界に住んでいながら、非常識の世界に憧憬あこがれている人々である。現在、地上の到る処……汽車、汽船の行き尽すきわみ、自動車、飛行機の飛びつくす隈々くまぐま儼然げんぜんとコビリ付き、冷え固まっている社交上の因襲、科学に対する迷信、外国の模倣、死んだ道徳観念……なぞいう現代社会の所謂いわゆる常識なるものに飽きはてて、変化溌溂、奔放自在なる生命の真実性そのものの表現を渇望する心……すなわち溢るるばかりの好奇心に輝くまなこを以て、吾輩の畢生ひっせいの研究事業たる「心理遺伝」の実験を見られると、立所たちどころにこれを理解された。一般の精神病者なるものが、如何なる力に支配されて、何事を行っている者であるかという事実を何の苦もなく首肯された。……のみならず諸君の好奇心は、それだけに満足しないで、更に、百尺竿頭かんとう一歩を進めた質問を発せしめた。いわく……「心理遺伝はタッタそれだけのものか」……と……。すなわち諸君の頭脳は、吾輩の二十年分の研究と相伯仲はくちゅうする……否……正木キチガイ博士の頭のスピード以上の明快なるスピードを以て……イヤ……有難う。まだ拍手するには早いよ……この点に就て吾輩は特に、満腔の敬意と、感謝とを表明する次第である。
 ……何を隠そう。吾輩の所謂「極端な心理遺伝」が、ただ、そんな風にして精神病者にだけ現われるものならば、大して驚く事も、心配する事もないのだ。尤も今まで説明して来た程度の研究でも、そこいらにウジャウジャしているオタマジャクシ学者なんかにとっては眼の玉がデングリ返る程の大発見かも知れないが、しかし、く申す吾輩、キチガイ博士にとっては、いざりの乞食が駈け出した位にしか感じない程度の新発見に過ぎないのだ。
 吾輩が「心理遺伝」の恐しい事を、大声疾呼たいせいしっこして主唱する所以ゆえんの第一は、それが斯様かようにして精神病者に現われるばかりでない。普通人……すなわち諸君や吾輩にも精神病者と同様に、フンダンに現われている事が、明かに証明出来るからなのだ。
 ……ナニ。質問……イヤ。ちょっと待ってくれ給え。質問の意味はアラカタ解っている……それでは精神病者と、普通人との区別が、わからなくなるではないか。そんな篦棒べらぼうな話があるものか……と云うんだろう。
 ……ところが純正な科学者の立場からいうと、そんなベラボーな話が「ある」という以外に返事の仕様がないから困るのだ。しかも精神病者とおんなし程度どころの騒ぎではない。吾々……むろん諸君も含んでいるんだよ……の精神生活の中には、精神病者と寸分違わない……もしくはソレ以上のモノスゴイ「心理遺伝」が、朝から晩まで、一分、一秒の隙間すきまもなく活躍している……眠っている間も夢となって立現たちあらわれて、執念深く吾々の心理を支配しているから困るのだ。そのために自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多いから困るのだ。おかげで新聞、雑誌の社会記事が、無限に提供されて行く事になるのだから、問題にしない訳に行かなくなって来るのだ。
 ……これはズット以前、新聞記者にチョット話した事がある、心理遺伝の中でも極く極く手軽い実例ではあるが、無くて七癖、あって四十八癖という奴は、精神病者と同様に、自分の気持が、自分で自由にならない好適例である。しかも、それを他人からドンナに笑われても、又は自分自身で是非とも改めなければならぬ必要を感じていても、どうしても止める事が出来ないのは、ソレが今いう心理遺伝のあらわれだからである。……泣くまいと思ってもツイ涙が出る。おこる場合でないと思っても、思わずムラムラッと来て、前後を忘却してしまうのも、やはり一時的の精神のかたよりを、自分で持ち直す事が出来ない……という性格を、先祖の誰からか遺伝して来ているので、取りも直さず心理遺伝のあらわれにほかならないから困るのだ。
 そのほか、り性、き性、ムラ気、お日和ひより機嫌、胴忘どうわすれ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、男あさり、女たらし、変態心理なぞの数を尽して百人が百人、千人が千人とも多少の精神異状的傾向を持たない者はない。心理遺伝に支配されていない者はないから大変なのだ。
 この道理は吾輩がズット前に書いた「胎児の夢」という論文を読めば一層よくわかるが、人間の精神とか霊魂とかいうヤツは要するに、その先祖代々の動物や人間から遺伝して来た、色々な動物心理や民衆心理なぞの無量無辺の集まりに過ぎないのだ。その表面を「コンナ事をしたら笑われる」とか「もし見付かったら大変だ」とかいう所謂いわゆる人間の皮一枚で包んで、その上から又、倫理、道徳、法律、習慣なぞいうテープで縛って、社交、礼節、身分、人格なぞいう様々なリボンやレッテルで飾り立てて、更にその上からもう一つ、お化粧や油で塗りこくって、パラソルやステッキを振り廻しながら「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「あなたがレデーならあたしも淑女だわ」「ウヌが人間なら俺様も人間だ」といった風に、肩で風を切って白昼の大道を濶歩するのが所謂普通人……もしくは文化人に外ならないのだ。
 ところが、こうしたアイタイずくめの文化人の包装は、その低級深刻にして、奔放無頼なる心理遺伝の内容を洩らすまいとして、いつも一パイに緊張している。その苦しまぎれに、ソッと少しずつ、息を抜きながら、人前だけをつくろって知らぬ顔をしているのが普通人であるが、それがトテも我慢し切れなくなって、どうかした拍子に大きく破れる事がある。それが個人では癇癪かんしゃく、脱線、喧嘩、殺傷、詐欺、泥棒、姦通その他の背徳行為となり、破れて復旧しないものは精神異状者となり、大勢の間では暴動となり、戦争となり、悪思想となり、頽廃的風潮となる。こうした心理遺伝の曝露の実例は、毎日の新聞でウンザリするほど見せ付けられているであろう。
 吾輩はあえて断言する……諸君も吾輩も共々に、精神病者と五十歩百歩の心理状態で生きているのだ。普通人と精神病者との区別が付けられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている人間との善悪の区別が付けられないのと同じ事である。即ち地球表面上は古往今来ソックリそのまま「狂人の一大解放治療場」となっているので、九大の解放治療場は、その小さな模型に過ぎないのだ。その証拠には、その中に居る患者たちも、やはり諸君や吾々と同様に「俺はキチガイではないぞ」と確信しつつ、盛んに心理遺伝を発揮しているではないか……と……。
 ハハハハハ……どうだい諸君。少々腹が立ちはしないか。ナニ。……立たない……エライエライ。成る程諸君は立派な常識屋だ。現代文化を代表するに足る紳士淑女たちだ……エッ。何だって……? そうじゃない。相手がキチガイ博士だから、初めから本当にして聞いていない……?……ウハッ。こいつは恐れ入った。そこまで常識が発達していちゃかなわない。
 よろしい。その儀ならばこっちにも覚悟がある。由来、科学の研究は厚顔無恥、無礼無作法を以て本領とする。御免をこうむついでにモット手近いところで人間諸君の赤恥をつっつき出して、是非とも一つ腹を立てさせて進ぜる事にしよう。
 これはドナタでも御経験の事と思うが、すこし頭がボンヤリして来ると、色々な空想や幻覚が、次から次に浮き出して来るものである。
 ところでこの空想とか、幻覚とかいう奴が、取りも直さず心理遺伝の幽霊に他ならないので、学問的に説明すると、脳髄の反射交感機能が疲労、凝帯ぎょうたいしたために、理智や、常識との連絡を失った色々な心理遺伝のアラレもない連中が、全身の反射交感機能の中で我勝ちに、勝手気儘な夢中遊行を初めたものに相違ないのである。……とりあえず女ならば、障子の蔭で、洗濯物か何かをツヅクリ廻しながら、し方、行く末の事を考えまわしているうちに、いつの間にか取止めもない事を考え初める……あのデパートのあの指輪を万引して、もし見付からないものだったらナアとか……今の亭主が、今のうちに財産を残して死んだら、あんない人とコンナ面白い生活が出来るんだけどナアとか……憎いアン畜生を、こんな風になぶり殺しにしたらナアとか……お義母っかさんに猫イラズをませたらドンナにか清々せいせいするだろうにナアとか……あんな役者と心中したらとか……いっその事ヴァンパイヤになってやろうか知らん……なぞと……。又、男は男で、電車の窓から外を見て、長々と欠伸あくびでもしながら……あの紳士の横ッつらぱたいたらドンナ顔をするだろう……この町に風上から火をけて、火の海にしてしまったらドンナに綺麗だろう。あの群集を撫で斬りにしたらドンナに痛快だろう。あの瀬戸物屋にダイナマイトをブチ込んだら……あの巡査のむこずねをタタキ折ったら……あの金魚屋の金魚を電車通りにブチけたら……あんなお嬢さんをめかけにしたら……あの銀行の金庫をポケットに入れたら……なぞいう、飛んでもない光景を、その人間の鼻の鼻の先で描いている。そうしてハッと気が付いては、ひとりで赤面したりしている。
 これはみんな、自分の先祖代々の連中が、やってみたくてまらないままに、ジッと我慢して来た残忍性、争闘性、野獣性、又は変態心理なんどの面々が、入れ代り立ち代り現代式の姿で、吾々の意識の中に立ち現われているので、そんな事はないなぞいうのは、内省力のない石頭か、あっても忘れている低能連中に過ぎない。その証拠には、そんな夢遊心理のドレカ一つが昂進し過ぎて、精神異状にまで出世したのを見ると解る。ちょうど小説の濃厚な場面に読み入って、そうした光景を意識のうちに描きながら、思わずよだれを垂らす時のように、精神病者の病み疲れた反射交感機能の中では、そんな遺伝心理が、現実の気持ちや感じ以上に強烈、深刻に夢遊しあらわれている……と同時に、それ以外の意識は殆ど打ち消されてしまっているから、本人はシラ真剣になってその夢遊意識をその通りに実行する。だからそのする事、なす事が、一々先祖から伝わって来た気持の通りになって行くのだ。ソックリそのまま吾輩の学説とピッタリ一致して来る事になるのだ。
 今を去る事三千余年。ここをる事三千里。
 天竺てんじく仏陀迦耶ぶっだがやなる菩提樹ぼだいじゅ下に於て、過去、現在、未来、三世さんぜの実相をあきらめられて、無上正等正覚むじょうしょうとうしょうがくらせられた大聖釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ様が「因果応報」とのたもうたのはここの事じゃ。親の因果が子にむくいじゃア……エエカナア……。アハハハハハハハ。白骨の御文章もんしょうではない。投げぜにも放り銭もらぬ。現代科学のうちでも最新、最鋭の精神科学の講義だ。諸君が日常フンダンに経験している恐ろしい精神生活の説明だ。
 しかし諸君。まだ驚いては早過ぎるよ。精神科学の原理原則は、もっともっと恐ろしい、驚目、駭心がいしんあたいする事実を提供しているんだよ。
 今まで説明して来たところによって既に、アラカタ理解されているであろう。人間の代が変るのは、吾々が眠って又、醒めるようなものである。一夜眠ったら昨日きのうの事なぞ、キレイに忘れていそうなものだが、サテ起き上ってみると、殆ど無意識に、大工は昨日建てかけた家の続きを建てに行き、左官も同様に昨日の壁の続きを塗りに行く。そうすると又、昨日の事を思い出して……ハテ昨日、ここで十銭玉をオッコトシタが……とか、きのうの丁度今時分に、向うを別嬪べっぴんが通ったっけが……とかいうので、昨日のその時分に、そこでそうした通りに、キョロキョロしたり、ポカンとなったりする。
 精神の遺伝もその通り……親は昨日の自分で、子は明日あしたの自分じゃ。夜は昨日の自分から、今日の自分が生まれて来る、暗い、無自覚のみごもりの姿になる時間じゃ。
 されば男女を問わず人間は、自分の先祖がかつて、そんな気分、精神状態になった場面、品物、時候、天候なぞいう、所謂いわゆる、暗示にブツカルと、今の大工や左官と同様に、ありし昔の心理状態に立ち帰る……しかも、そんな風にして先祖代々から遺伝して来た心理は、一つや二つじゃないぞよ。又、そうした心理の暗示となるべき場面、品物、天候なぞいうものも、そこいら中にベタ一面に充満していて、夜となく、昼となく吾々の心理遺伝を刺戟し続けていて、眼の見える限り、耳の聞える限り、一刻一刹那せつなも休んでいないのだから恐ろしいぞよ。吾々の一生を支配している「うしとら金神こんじん」というのは、実にこの「心理遺伝」の原則であるぞよ。今にドエライ証拠を出すぞよ……。
 アハハハハハ。大本おおもと教のお筆先と間違えてはいけない。吾々が日常に経験している極めて平凡な事実だ。吾々の気持が朝から晩までフンダンにクラリクラリと変化し、入れ換って行く……活動見に出かけるつもりが、途中でフイッと縁日の夜店に引っかかったり……旅支度で家を飛び出した奴が、図書館にモグリ込んだり……いた同志が結婚間際でイヤになったり……かね草鞋わらじで探し当てたタッタ一つの就職口をハガキ一本で断ったりするような、重大な心理の変化が引っきりなしに起るのは、そうした種々雑多な、無量辺の暗示が、引っきりなしに吾々の心理遺伝を支配しているからで、それを自分自身に気付かないでいるのは、そうした暗示と心理遺伝の関係の千変万化が、あまりに刹那的で、微妙、深刻を極めているからだ。
 ……ところで……どうだい諸君。こうした暗示と心理遺伝の関係をモット深く、学理的に研究したら、イロンナ面白いイタズラが出来そうには思えないかね。ちょうど物理や化学の実験を見るように他人の精神に対して、思い通りの変化が与えられそうには思わないかね。
 手近い例をあげると、人間の犯罪心理というものは、実につまらない……又は全然、何の関係もないと思われる暗示のお蔭で、意想外に大きな刺戟を与えられている場合が、非常に多いものである。……たとえば赤インキを附けたペン先をジッと見詰めているうちに何故ともなく横に在る女優の写真の眼玉に、突き刺してみたくなったり……青い空や、白い壁を見つめているうちに、フイッと残忍な気持になったり……窓の外の霧を見ると、ピストルの手入ていれをしてみたくなったり……大風の音をきいているうちに、短刀をふところにして歩いてみたくなったり……よく切れる剃刀かみそりを見ると、鏡の中の自分の顔と見比べてニヤニヤと笑ってみたり……寝床の中で女が冗談に「殺してもいいわよ」と云った笑顔を見てホントウに殺す気になったり……応接間に聞えて来る小鳥のき声が、今の今まで真面目であった男女の間に、不倫な情緒を起させるキッカケになったり……なぞする。そんな気持の変化を見ると、別段に、何故という理屈の附けようのないところが、心理遺伝のあらわれに相違ないので、しかもそのいずれもが、スバラシク大きな犯罪心理の最初の芽生えである事は云う迄もない。
 又は、古い講談、随筆、伝説、記録なぞいうものを読んでいると先祖が見てはいけないと云い残した幽霊の掛軸を見てから、妙な事を口走るようになったの、抜いてはならぬといましめられている伝家の宝刀を抜いて見ているうちに、血相が変って来たの……というような話が、いくらでも出て来るのは、そうした恐しい心理遺伝の暗示の力を、誰にでもよくわかる品物であらわしてあるので、吾輩が調査記録した書類の中にも、そんな例が山を積む程ある。
 ところで、こんな暗示の怖るべき作用を、学理的に研究して、ドシドシ実際に応用する事が出来るとなったら、ドンナ事になるだろう。犬山道節どうせつ、石川五右衛門、天竺てんじく徳兵衛、自来也じらいや以上の幻魔術が現代に行われ得る事になりはしまいか。
 それ程でなくとも、この種類の暗示を巧みに利用すると、出会い頭に他人を発狂させる事が出来る。無調法な現代の科学応用の兇器みたように、音を立てたり血を流したりしないから、白昼の往来でそばを通っている者でも怪しまない。当代の如何なる名探偵が駈け付けて来ても全然目星めぼしの付けようのない犯罪が行える……否、現在そこいらでドシドシ行われているとしたらどうだね。
 フフフフ……そんなに固くなって座り直さなくともいい。イクラ吾輩が精神科学の大家でも、このスクリーンの中から暗示を与えて、満場の諸君を一斉に発狂させる術は、まだ発見していないからね。もっとも、そんな事が出来たら面白いだろう……とは思っているんだが……ハッハッハッ……。
 イヤ、これは冗談だが、こうした犯罪手段は既に、空想や、推測の範囲を通り越して、眼の前の問題となって来ている。事実は常に研究に先立って存在するものである……と云ったらチョット眉に唾液つばきを付けてみたくなるであろう。
 ところが驚くなかれだ。現に吾輩の畏友いゆう、九州帝国大学医学部長、若林鏡太郎わかばやしきょうたろう君の名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』と題する草稿の中に、緒論として、コンナ愚痴ぐちが並べてある。ちょうどその緒論だけが、吾輩の処へ校閲を頼んで来ているから、ちょいと失敬して抜き読みをしてみると、コンナあんばいだ。……いわく……

 ――余ノ調査研究セルトコロニレバ、既ニ往昔おうせきヨリコノ種ノ犯罪ガ行ワレツツアリシ事実ヲ認ムルヲ得ベシ。例エバ役行者(えんのぎょうじゃ)、阿部晴明(あべのせいめい)、弘法大師等ノ密教、陰陽術ノながれヲ伝ウル者、真言秘密ノ行者、修験者よげんじゃ、祈祷師、代人、巫女みこ、ソノ他、何々教、何々様ト称スル神仏類似ノモノニ奉仕スル輩ノ中ニハ、積年ノ経験ヨリ得タル一種ノ精神科学的ノ暗示法ヲ口伝くでん心伝シオリ、コレヲ理智、理性ノ発達不充分ナル女子、小児、モシクハ無智、蒙昧もうまいナル男子等ニ応用シテ、ソノ精神作用ニ何等カノ変化、傷害ヲ与エツツ、利得ヲほしいままニセシ形跡アリ、即チ、古来伝ウルトコロノ「狐ヲ使ウ」「真言秘密ノ呪法じゅほうニカケル」又ハ「生霊、死霊ヲケル」「神罰、仏罰ヲ当テル」等ノ霊験、神業かみわざ行力ぎょうりき等ニ類似シタル所業ハ、精神科学ノ立場ヨリ見ルモ絶対不可能ノ事ニあらザレバナリ、ソノ高等ナルモノニ到リテハ、催眠術、心霊術、降神術等ノ技術者ガ、文明社会ノ裏面ニ於テ異常ナル勢力ヲ保有シオリ、玄怪ニシテ捕捉シ難キ犯罪事件ノ裏面ニ往々ニシテコノ種ノ技術ノ活躍セル証拠ヲ見ルトキハ、ソノ全部ガ理智的詐術ナリトハ断ジかたキモノアリ――
 ――現今、我国内ニ於テモ、到ル処ノ精神病院、行路病者収容所、又ハ街頭ヲ彷徨ほうこうスル精神異常者ノ中ニ、カカル犯罪行為ノ犠牲者ガ存在シオラズトハ断言シ難シ、ただ、コレヲ合理的ニ探査追求シテ、犯人ヲ検挙スル事ガ、目下ノトコロ、殆ンド不可能ナルガタメニ、実例トシテ列挙シ難キノミ。何トナレバ、かくノ如キ手段ヲ用イテ、精神的ニ人ヲ殺傷スル場合ニハ、他ノ犯罪手段ニ於ケルガ如キ物的証拠ヲ厘毫りんごうモ留メズ、一滴ノ血、一刹那せつなノ音響、一片ノ煙ダモ認ムルあたワザルノミナラズ、当該被害者モまた、直チニ一切ノ証言ヲ為シ得ベキ資格ヲ喪失スルト同時ニ、ソノ精神ノ異状ヲ回復セムガタメニハカナリノ長日月ヲ要シ、又ハ永久ニ回復セズ、万一コレヲ回復スルモ、ソノ被害当時ノ回想、又ハ犯罪手段ニ対スル記憶ノ残留セルモノアリヤ否ヤ、はなはダ疑問トスベキモノアリ、調査上甚シキ困難ニ遭遇スベキ事、予想ニ難カラザレバナリ――
 ――思ウニ現代ノ文化ハ所謂いわゆる、唯物科学ノ文化ナリ。故ニ、したがッテソノかんニ行ワルル犯罪ノ種類モまた、唯物科学ノ原理ヲ応用セルモノ多カルベキハ自然ノ理ナリ。しかレバ将来、精神科学ノ諸般ノ学理ガ、一般ノ常識トシテ普及スルニ到ラムカ、同様ニコレヲ応用セル犯罪ガ、旺盛ナル流行ヲ示スベキハ論ヲタザルベク、しかシテソノ犯行ノ恐怖、戦慄ニ値スベキ事、現代ノ所謂、唯物科学応用ノ犯罪ノ比ニあらザルベキモ亦自明ノ理ナルベシ。而シテかくノ如キ犯罪ニ対シテ、吾人法医学者ハ、如何ニシテ犯罪ヲ調査シ、兇器ヲ研究スベキヤ。如何ナル基礎知識ニ照シテ、犯行ノ径路、手段ノ内容ヲ明カニスベキヤ――云々――
 ……どうです諸君。吾が畏敬すべき法医学者、若林鏡太郎君は、遠からず全世界に大流行をきたすべき「精神科学応用の犯罪」を研究して、その流行を未然に喰い止めるべく、その実例を蚤取眼のみとりまなこで探している。その犯罪の被害者らしい精神病者や自殺者が、地上到る処にウヨウヨしているに拘わらず、その犯行の手がかりとなるべき暗示材料、その他の証拠が見当らないために、本当の研究が発表出来ないという悲惨事に直面して、あらゆる苦心惨憺を続けている。そうして、あらゆる人間の身振り、素振り、眼付き、手付き、口つき、言葉つきの端々はしばしに到るまでも、精神科学応用の犯罪ではないかと疑い続けているのだ。
 ……しかるにだ……。
 ……諸君どうです……。
 ここに一つドエライ研究材料が、吾輩の処へ転がり込んで来たものだ。……もっともコイツを最初に発見したのは、今の若林鏡太郎君で、同君はこれを空前の「精神科学応用の犯罪」に相違ないと睨んで、調査をげて来たものなんだが、一方に、吾輩の所謂「心理遺伝」の参考材料としても、その価値は形容の出来ない程に素晴らしいものがある。しかも、そいつに釣り込まれて、ウッカリ手を出したのが運の尽きで、流石さすがの吾輩も十万億土行きの片道切符を買って、裸一貫で逃げ出さなければならない破目に立到ったほど、それほど左様に恐しい研究材料だったのだ。……その発狂の動機となっているモノスゴイ暗示材料の正体は勿論の事、その心理遺伝に支配された夢中遊行開始前後の怪奇、悽愴せいそうを極めた状況。もしくは心臓がトロトロと溶解して、流れて行くくらい気持のいい、心理遺伝の内容の詳細まで、何一つ遺憾なく完備した、途方もない調査記録が手に這入はいったのだ。実に、国宝とも世界宝とも何とも言いようのない……極度に科学的で、徹底的にローマンチックな、エロ、グロ、ノンセンス共に百二十パーセント以上の含有量をもった……空前絶後の超々特作的スケールの雄大さと、ストーリーの深刻さをあらわした……実にソノ何ともかんとも……。
 アハアハアハ。イヤ失敬失敬。わかったわかった……拍手は止してくれ給え。形容詞ばかり並べて済まなかった。どうもアルコールが欠乏して来ると、アタマの反射交感機能が遅鈍になるのでね。チョット失敬してキング・オブ・キングスの喇叭らっぱふかしてもらおう。ついでにハバナの方も一つ輪にふかして……オットット……これはしたり。吾輩はまだ教壇の前に居るんだっけね。早速スクリーンの中から引退して、代りに今云った怪事件の内容を映写しながら弁士の役を引受ける事にする。そうして諸君の常識を一撃の下にコッパ・ミジンに……。
 ……ナニ……吾輩がスクリーンの外へ出たって、おんなじ事じゃないかって……?……。ウワア。コイツは又一本参られた。ソウ頭がよくちゃ始末が悪いね。……実はモウ暫くすると今一人、別の吾輩が銀幕の中に現われて、その怪奇を極めた心理遺伝事件の内容を「解放治療」の実験にかけて行く実況を演出する事になるのだ。だからその時にそのモウ一人の吾輩である吾輩は、是非とも映写幕の外に出て、説明役にまわらないとドウモ具合が悪いのだ。未来派の芝居とは違うからね……。
 ……勿体もったいなくもケーシーMASARKEYマサーキー会社の超々特作と題しまして『狂人の解放治療』という、勿論、今回が封切の天然色、浮出し、発声映画と御座いまして、出演俳優は皆、関係者本人の実演に係る実物応用ばかり……稀代の美少年と、絶世の美少女を中心として、渦巻き起る不可解に続く不可思議、戦慄に続く驚異のうちに、二十余名の男女の血と、肉と、霊魂とがいつからともなく、どこからともなく卍巴まんじともえと入り乱れて参りまして、遂にはこの「狂人解放治療場」に於て、悽惨、無残、眼も当られぬ結末を告げるか、告げぬかの際どいクライマックスに到達しようという……よろしく満腔の御期待をもって……【溶暗】……

 【字幕】 実母と許嫁いいなずけと、二人の婦人を絞殺した怪事件の嫌疑者、呉一郎くれいちろう(明治四十年十一月二十日生)大正十五年十月十九日、九州帝国大学、精神病科教室附属、狂人解放治療場に於て撮影――
 【説明】 まず最初に御紹介致しまする、この事件の若い主人公……すなわち最前、小手調としてお眼にかけました十名の狂人の中でも、老人の畠打はたうちを見物致しておりました青年の、正面向きの大写しで御座います。字幕にあらわしました通り、名前を呉一郎と申しまして、当年取て二十歳で御座いますが、御覧の通り、男が見ましても吸付いてみたいほどのういういしい美少年で御座います。
 ところでこの事件の内容に立入りまするに先立って、何故なにゆえに事件の主人公の顔を、斯様かように大写しにして御覧に入れたかと申しますと、ほかの理由でも御座いませぬ。この少年の骨相が、この事件の根本を支配致しております心理遺伝と、重大な関係を持っているからで御座います。
 御承知の通り骨相学と申しますのは、目下のところ、まだ純正な科学とは申しかねるのでありますが、しかし、その中の或る部分部分は、確かに実際と一致することが判明致しておりますので、正木先生はかようにして、新しい精神病患者の顔を見るごとに、その骨相を詳細に亘って研究されまして、その血液の中に、如何なる人種の特徴が混入しているかを、おこたらず調査しておられるので御座います。換言致しますれば、一切の人間の心理遺伝は、その近い先祖たちの各個人個人の特徴をあらわすと同時に、ずっと大昔の野蛮未開時代に、各方面から入れまじって来た、各人種の心理的特徴をも、併せて現わしておりますので、一口に日本と申しましても、その骨相と性格の中には、蒙古もうこ印度インド馬来マレイ猶太ユダヤ拉甸ラテン、アイヌ、スラブ等の各民族の風采と性格が、切っても切れない因果関係をもって結ばり合つつその人間の特徴を作り出しているので御座います。……すなわち人間の骨相というものは、その先祖代々の血統の縮図……又、或る一人の性格というものは、その人間の先祖代々の精神生活のり固まりとも考えらるべきもので御座いますから、そのような点を考慮致しまして、その人間の表面的の性格は勿論のこと、本人自身にも気付れずにいる、隠れた性格を探し出して、その人間の発狂の状態と照し合せるという事は、研究上、誠に必要な事で御座います。……の愛犬家や愛馬家が、市場に並んでいる動物の顔付き、毛並み、骨格なぞを、ただ一眼見廻しただけで、その血統や性質、習慣、又は隠れたる性癖までも、星を指す如く云い当てるのは、この原理を動物に応用したものに過ぎませぬので、将来の探偵術や、法医学者の研究は、是非ともここまで突込んで来なければ嘘であるという確信を、正木先生はズット以前から持っておられるので御座います。
 そこでその正木先生の診断メモによって、この少年の骨相を解剖的に説明致しまして、引続き曝露致して参ります物凄い事件の特徴と、対照して頂く事に致しますと、どなたでも、第一に気付かれます事は、この少年の血色が、日本人としては白すぎる事で御座います。御覧の通り、頬にポーッと紅味あかみがさしておりますのは、まだ童貞でいる証拠で御座いますから、除外するとしましても、その皮膚にあらわれた日本人独特の健康色のもとを流るる透明な乳白色は、明らかに白皙はくせき人種の血が、この少年の血統にまじっている事を推定させますので……しかも……そうとしますれば余程以前に、少なくとも一千数百年以前に、天山テンシャン山脈を越えて支那地方に入り込んで来たもので、所謂いわゆる胡人こじんと称せられているものの血が加わっていたものが、現代に於てこの少年の骨相上に復活したものではあるまいか……という事が、のちに出て参りますこの少年の祖先に関する記録によって推測されるので御座います。
 次に、この少年の骨相のうちで、純粋に蒙古人種系統を代表致しておりますのは、素直な、黒い髪毛の生え際と、鼻の中の内部の形だけであります。この少年の鼻の穴は、曲りが少のう御座いますので、器械で覗きますと一直線に奥までわかる……お笑いになってはいけません。これは遺伝学上から申しましても大切な調査なので、もし白人の系統を引いた鼻の穴だと、恐ろしく曲りくねっているので御座います。
 さて……以上の蒙古人系統の特徴を除外した、この少年の骨相をよくよく観察致しますと、そこにあらゆる異人種系統の寄り合所帯が発見されるので御座います。
 まず……大体の顔の形は拉甸ラテン系統のふくらみを持った卵型でありますが、眉と、睫毛まつげが、絵筆で描いたように濃く長くて、眼の縁の隈がドコとなく青ずんで見えまするところは、何といってもアイヌ式であります。又、鼻の外見的な恰好は純然たる希臘ギリシヤ型で、頬からあごへかけての抛物線パラボラと、小さな薄い唇が、ハッキリと波打っている恰好を見ますると、我国の古い仏像などに残っているアリアン系統の手法を聯想させますが……よく御覧下さい。こころもち薄い腮の中央まんなかに、北欧人種式のくぼみがありますから……「頬の笑凹えくぼがルビーなら腮の笑凹はダイヤモンド」と申しますアレで、男にはあまり必要のない美的要素で御座いますが……御覧の通り微笑を含みますと一層よく解るので御座いますが……。
 ところで斯様かように、一人一人の人間の骨相を調べましてから、その人間の特徴と照し合せてみますとまことによく一致いたします。その中でも一番よく一致いたしますのは性癖、その次は趣味、その次が才能という順序になっておりますようで……すなわちこの少年は、日本人式の順良さと、アイヌ式の尊崇心と、拉甸ラテン人種式の頭の良さとを同時に持っているので御座いますが、それが又……あの通りウットリとしたまばたきのし方でもお察し出来ます通りに、どことなく北欧人種式の隠遁的な、高雅な気風によって包まれておりますために、表面にパッと現われていないのであります。……つまり一口に申しますとこの少年は、どちらかといえば年齢の割合に落付おちついた、物静かな性格と見るべきで御座いましょう。
 然るに、そのような表面的に冷静な性格が、一朝にして心理遺伝の暗示によって、撃破、顛覆てんぷくされてしまいますと、今まで内部に潜み流れておりました大陸民族式の、想像も及ばない執拗深刻、かつ、兇暴残忍な血が、驀然まっしぐらに表面へ躍り出して、摩訶まか不思議な大活躍を演ずる事に相成ましたので、つまり只今から御紹介致します空前絶後的な怪事件の真相と申しますのは、要するにこの少年の鼻の穴の中に隠れておりました蒙古人種モンゴリア系統の心理遺伝が、一時に暴れ出したものと、お考え下されば宜しいので御座います。
 なお又、このほかに、この少年の骨相の中には、見逃してはならぬ大切なものが残っております。それは一面に極めて楽天的な、呑気なところがありながら、チョットした刺戟や、僅かな環境の変化にもすぐに感激昂奮して、あたり構わず笑ったり、泣いたり、怒ったりする……一口に申せば極めて気の変り易い、仏蘭西フランス人みたいな性格を象徴している、純拉甸ラテン型の薄い腮を持っている事でありますが、しかし、この特徴も、この少年の平生の性格には、あまり現われていないようであります。やはり前に述べました極めて明晰な頭脳と、厭人えんじん的にハニカミがちな性格に押え付けられているらしく思われるのであります。……とは申せ、随分と著しい特徴でありますから、この少年が解放治療場に参りましてからのちの、長い長い心理遺伝の発作の途中、もしくはその回復期に於て、いつかはそうしたこの少年の腮の性格……感傷的な、もしくは激情的な気質が、あらわれるに違いないであろう事を、正木博士は楽しみにして待っておられた次第で御座います。
 ……以上述べましたところで、この呉一郎と申す少年の骨相は、あらかた、おわかりになった事と存じます。斯様かように色々な人種系統の特徴を、造化の神は如何にして、これ程まで端麗明朗に、且つ、純真美妙に取り合わせたかという事を考えますと、誠に気味が悪くなります位で……科学の権威とか、人智の進歩とかを一枚看板にしてオマンマを頂いております私共も、こうした生きた芸術の傑作に接しましては、唯、気を呑み、声を呑んで、頭を下るよりほかに致方いたしかたがないのであります。
 次にはこの少年の心理遺伝を中心とする事件の推移が、如何に奇々怪々なるプロットを以て正木博士の眼界に……オット違った。同博士が自分の頭蓋骨と名付くる「天然色、浮出し、発声映画撮影機の暗箱」に取付けている二つの眼球のレンズと、左右の耳朶じだのマイクロフォンに、如何なる順序で、そうした事件の推移が印画されて来たかという事を、その順序通りに廻転して行くフィルムに就て説明して参ります。……【溶暗】

 【字幕】 九州帝国大学、法医学教室、屍体したい解剖室内の奇怪事……大正十五年四月二十六日夜撮影――
 【説明】 あらわれましたる映画は御覧の通り隅から隅まで、どこがドコやら、何が何やらわかりませぬ。うるしのような闇黒あんこくな場面で御座います。従って説明の致しようもない訳で御座いますが、しかしよく御覧下さい。繻子しゅす天鵞絨びろうどか、暗夜やみよからす模様かと思われるほど真黒いスクリーンの左上の隅に、殆ど見えるか見えない位の仄青ほのあおい、蛍のような光りの群れが、不規則な環の形になって漂うているのが、お眼に止まりましょう。……あれは最近大流行を致しておりまする猫イラズで自殺を遂げた芸妓げいしゃの胃袋の中のものが、硝子ガラスの皿の中から燐光を放っているので御座います。
 あれをお認めになりましたならば、賢明なる諸君は、もはやこの闇黒が、尋常一様の闇黒でない事を充分に御推察になった事と信じます。……すなわちこの闇黒は九州帝国大学、法医学教室の一隅に在る、屍体解剖室内の暗夜の状態を、すぐ横の階段下の物置から、天井裏へ潜り込んだ処に在る、板の隙間からのぞいている光景で御座います。
 この天井裏ののぞき穴は、よく出歯亀でばかめ心理にとらわれた小使や、又は好奇心に駆られた新聞記者なぞがコッソリと屍体解剖を覗く処で御座いますが、よほど古くから在るものと見えまして、穴の内側の処が、爪やナイフでY字形にけずり拡げられておりまして、すこし顔の向きを換えさえすれば、部屋の下半部の隅々までも手に取る如く見廻されます……のみならず、少々窮屈では御座いますが、物置の棚の上に足を伸ばしますると、三等列車に乗ったのよりもズット楽な気分で寝ている事が出来ますからまことに重宝で……くだんの燐光を放っておる不浄な皿は、実は向側の隅の机の上に置いてあるので御座いますが、真上から見下して撮影致しておりますために、あのようにフィルムの上方に見えておるので御座います。
 なおこの室内に在りますものが、あの皿一つでない事は申すまでもありませぬ。しかも両側の窓の鎧戸よろいどや、入口の扉が、固くとざされておりまするために、この部屋の闇黒の度合は極めて深くなっておりますので、あの汚物の燐光が辛うじて認められます以外には、何一つ発見出来ませぬ。どこかでシイ――インと湯が湧いているような、死んだような静寂の裡に、正木博士撮影の「天然色、浮出し、発声映画」のフィルムはただ、漆のように黒く、時の流れのようにひめやかに流れて行くばかり……五十尺……百尺……二百尺……三百尺…………。
 ……そもそも正木博士は、何の必要があってか、御苦労千万にも、その双耳、双眼式、天然色、浮出し、発声映画の撮影暗箱カメラを、この解剖室の天井裏までかつぎ上げたものであろう……如何なる目的の下に、斯様かような詰らない闇黒の場面を、いつまでもいつまでも辛棒強く凝視した……否、撮影し続けたものであろう……堂々たる大学教授の身分でありながら、斯様な鼠と同様の所業に憂身うきみをやつすとは、何という醜体しゅうたいであろう……と諸君は定めし不審に思われるで御座いましょうが、この説明はのちになってから自然とおわかりになる事と存じますから、ここには略さして頂きます。
 ……時は大正十五年四月二十六日の午後十時前後……呉一郎の心理遺伝を中心とする怪事件が勃発致しましてから約二十時間後の光景……フィルムは依然として真黒なまま、秘やかにすべっております。五百尺……八百尺……一千尺……一千五百尺……画面の静けさと闇黒さとは以前の通りで、ただあの汚物の燐光が、次第に青白く、明瞭の度を加えて来るばかりであります。折りしもあれ、この教室を包む一棟のうちの、遥かに遠くの小使室で打ち出す時計の音が、いんこもって……一ツ……二ツ……三ツ……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ンボ――ンボ――ンボ――ン…………ボオ――オオ――ンン……。
 ……十一時を打ち終りますと同時に、眼の前の闇黒の中で、何かしら分厚い、大きな木の箱を閉したような音がバッタリと致しますと、間もなくパアッと大光明がさして、眼もくらむほどギラギラと輝やくものが、そこいら中一面にユラメキ現われました。それは御覧の通り、部屋の中央に近く、四ツほど吊されております二百燭光しょっこうの電球のスイッチが、最前からこの部屋の中に息を殺していたらしい人間の手で、次から次にひねられたからで御座います……が、よく眼を止めて見ますと……。
 ……おお……その室内の光景の如何に物々しい事よ……。
 まず第一に視神経を吸い寄せられまするのは、部屋の中央を楕円形に区切って、気味の悪い野白色のはくしょくの光りを放っている解剖台で御座います。この解剖台は元来、美事な白大理石で出来ているので御座いますが、今日までにこの上で数知れず処分されました死人の血とか、脂肪とか、あかとかいうものが少しずつ少しずつ大理石の肌目きめに浸み込んで、斯様な陰気な色に変化してしまったもので御座います。
 その解剖台上に投げ出された、黒い、凹字おうじ型の木枕に近く、映画面の左手に当ってギラギラと眼もくらむほど輝いておりますのは背の高い円筒形、ニッケル鍍金メッキ湯沸器シンメルブッシュで御座います。これは特別註文の品でも御座いましょうか、欧洲中世紀の巨大な寺院、もしくは牢獄の模型とも見える円筒型の塔の無数の窓から、糸のような水蒸気がシミジミと洩れ出している光景は、何かしらこの世ならぬ場面を聯想させるに充分で御座います。それから今一つ……初めのうちはチョットお気が付きかねるかも知れませぬが、やがて何となく異様に眼に映って来るであろうと思われまする品物は、右手の窓の下に、壁に接して横たえられております長方型の大きな箱で御座います。その上に白い布がおおわれているところを見ますと、いか様これは死人を納めた寝棺に相違御座いますまい。……もっとも死体解剖室に寝棺といえば、必然過ぎるくらい必然的な取り合わせでは御座いますが、それが何となく異様に眼を惹きますのは、その上に掛かっております白い蔽いが、高価な絹地らしい、上品な光りを放っているせいでも御座いましょうか……。これは余談かも知れませぬが、このような立派な寝棺が、法医の解剖室に運び込まれるような事は、まずないと申しても宜しい位で、大抵の場合、松か何かの薄い荒板製に、白墨チョークで番号を書き放した程度のものが多いのですが……。
 そうした解剖台と、湯沸器シンメルブッシュと、白い寝棺と、三通りの異様な物体の光りの反射を、四方八方から取り巻く試験管、レトルト、ビーカー、フラスコ、大瓶、小瓶、刃物等のおびただしい陰影の行列……その間に散在する金色、銀色、白、黒の機械、器具のとりどり様々の恰好や身構え……床の上から机の端、棚の上までひしめき並んでいる紫、茶、乳白、無色の硝子ガラス鉢、又は暗褐色の陶器の壺。その中に盛られている人肉の灰色、骨のコバルト色、血のセピア色……それらのすべてが放つまぶしい……冷たい……刺すような、斬るような、えぐるような光芒と、その異形な投影の交響楽が作る、身にみ渡るような静寂さ……。
 しかも……見よ……その光景の中心に近く、白絹に包まれた寝棺と、白大理石の解剖台の間から、スックリと突立ち上った真黒な怪人物の姿……頭も、顔も、胴体もことごとく、灰黒色の護謨ゴム布で包んで、手にはやはり護謨と、絹の二重の黒手袋を、又、両脚にも寒海の漁夫が穿くような巨大なゴムの長靴を穿うがっておりますが、その中に、ただ眼の処だけが黄色く縁取ふちどられた、透明なセルロイドになっております姿は、さながらに死人の心臓を取って喰うという魔性の者のような物々しさ……又はやぶの中に潜んでいる黒蝶の仔虫さなぎを何万倍かに拡大したような無気味さ……のみならず、あんなに高い処に在る電球のスイッチを、楽々と手を伸してねじって行った、その素晴しい背丈せいの高さ……。こう申しましたならば諸君はお察しになりましたでしょう。この怪人物こそは、の有名な「血液に依る親子の鑑別法」の世界最初の発見者であると同時に、現在『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまする、空前の名著を起草しつつある現代法医学界の第一人者、若林鏡太郎氏その人であります。
 その名法医学者、若林鏡太郎氏は、只今申しました呉一郎少年の心理遺伝を中心とする精神科学界空前の大犯罪事件が勃発後、約二十時間を経過致しましたこの深更しんこうになりますと、何等かの仕事をすべく、コッソリとこの解剖室に這入りまして、斯様かように物々しい準備を整えたまま、時計の針が十一時……宿直の医員や、当番の小使が寝静まる時刻を指すのを、今や遅しと待っていた者である事が、現在の状況に依って、お察し出来る事と思いますが……サテ斯様に電燈をけてみますと……ナント諸君。ここに又一つ奇妙な事実があらわれているのに、お気付きになりませんか。
 この部屋の内部の状況は、御覧になりまする通り初めてのお方にとっては、何一つとして奇怪でないものはない。無気味でないものはない……と思われるので御座いますが、それでも今まで御覧になりましたところによって、「若林博士は何かしら解剖台に向って仕事を始めようとしているのだナ」とか「その仕事の材料になる屍体は、多分あの寝棺の中に納まっているのだナ」というぐらいの事は、もはや十分に御推察になっている事と思います。
 しかし……もし左様さようと致しますれば、その若林博士の助手となるべき人間が、この部屋の中に一人も見当らないのは、どうした事で御座いましょうか。斯様かような屍体の解剖には、大抵の場合何等かの意味で、一人か二人の人間が立会っている事は、殆ど原則ともいうべき通例となっているのでありますが……にも拘わらず、御覧の通り若林博士は、そのような人間を一人も室内に近づけていないところを見ますると、何故なにゆえ判明わかりませぬが若林博士は、今夜に限ってタッタ一人で、或る重大な、極めて秘密の仕事を決行せねばならぬ必要に迫られているのではありますまいか……否……解剖台の前後に在る二つの扉の双方ともに、鍵を挿し放しにしている事実に照しますと無論そうでなければならぬ。普通の事件で持ち込まれた屍体の解剖や検案なぞとは違った、非常的な秘密事項が今夜の仕事に含まれているに相違ない……という事が、明らかに推測されるで御座いましょう。
 ……と思ううちに、部屋の隅の洗面器の処へ行って、手袋を穿めたままの両手を念入りに洗って参りました若林博士は、やおら身をかがめまして、寝棺の白い覆布おおいを取りけて、これとてもこのような室には滅多に見受けられぬ、分厚い白木の棺の蓋を開きますと、中から一個の盛装した少女の屍体を取り出しました。
 前からの説明を御記憶の諸君には、最早もはや、この少女が何者であるかという、あらかたの御推察が付いている事と存じます。
 この少女こそは、前回に御紹介致しました本事件の主人公、呉一郎の花嫁となって、華燭かしょくてんを挙げるばかりに相成っておりましたその少女で、名前をくれモヨ子と申します。当年取って十七歳に相成りまする絶世の美少女で御座います。その許嫁いいなずけになっておりまする呉一郎……ケーシーMASARKEYマサーキー会社の超特作は、超時代的、超常識的、精神科学映画『狂人解放治療』の主人公たる無双の美少年俳優の相手役となりまして、互いに、あらゆる精神科学的の妖美と、戦慄とを描き出すべきそのエース花形女優は、かくして取りあえず、寝棺の中の屍体の姿となって、諸君にお目見得をする次第で御座います。
 当年流行の新月色に、眼もまばゆい春霞と、五葉の松の刺繍を浮き出させた裲襠うちかけ。紫地、羽二重はぶたえの千羽鶴、裾模様の振袖三枚がさねの、まだシツケの掛かっているのを逆さに着せて、金銀の地紙を織出した糸錦の、これも仕立卸したておろしと見える丸帯でグルグルグルと棒巻にしたまま、白木の寝棺に納めてある……その異様な美しさ、痛々しさ。この事件の並々ならぬ内容が窺われますばかりでなく、そうした死骸を、こうして棺に納めた人々の思いまでも察せられまして、そぞろに胸がふさがるばかりで御座います。
 しかし最早すでに、学術の権化ともいうべき心理状態になっているらしい若林博士は、そんな事を気にかけるような態度を微塵みじんも見せませぬ。衣裳なんぞには用はないという風に、極めて無造作に、裲襠と、帯と、振袖の三枚がさねを掴みのけて、棺のかたわらに押し込みますと、その下から現われましたのは素絹しらきぬに蔽われました顔、合掌した手首を白木綿で縛られている清らかな二の腕、紅友禅べにゆうぜん長襦袢ながじゅばん緋鹿子絞ひかのこしぼりの扱帯しごき、燃え立つような緋縮緬ひぢりめんの湯もじ、白足袋たびを穿かされた白い足首……そのようなものがこうした屍体解剖室の冷酷、残忍の表現そのものともいうべき器械、器具類の物々しい排列と相対照して、一種形容の出来ないムゴタラシサと、なまめかしさとを引きはえつつ、黒装束の腕に抱えられて、煌々こうこうたる電燈の下に引き出されて参ります。中にも一際ひときわもの凄くもまた、憐れに見えますのは、たけなす黒髪を水々しく引きはえて、グッタリと瞑目している少女の顔に乱れ残った、厚化粧と口紅で御座います。そうして……おお……あれを御覧なさい。
 あの襟化粧をした頸部くび周囲まわりに、生々しい斑点となって群がり残っている絞殺の痕跡……紫や赤のダンダラを畳んでいる索溝ストラングマルクを……。
 ……それを静かに、大理石の解剖台上に横たえました黒怪人物の若林博士は、やはり何の容赦もなく、合掌した手首の白木綿の緊縛を引きほどき、緋鹿子絞りの扱帯を解き放って、長襦袢の胸をグイグイと引きはだけました。そうして流石さすが斯界しかいの権威と首肯うなずかれる手練さと周到さをもって、一点の曇りもない、玲瓏れいろう玉のような少女の全身を、残るくまなく検査してしまいましたが、やがてホッとしたように肩で息をつきますと、両腕を高やかに組んで、少女の屍体をジッと見下したまま、真黒い鉄像のように動かなくなりました。
 ……この深夜に、斯様かような場所に於て、世にも稀な美少女の屍体と、こうしてタッタ一人で向い合っている黒装束の若林博士は、果して何事を考えているので御座いましょうか……この少女の死にからまる残酷と奇怪を極めた事情を、屍体を前にしつつ今一度考え直して、そこに博士独特の透徹、鋭利なる観察の焦点を発見すべく、苦心惨憺しているので御座いましょうか……それともこの屍体が、この教室に於ていまかつて発見された事のない程に、無残な美くしさと、深刻なあでやかさとをあらわしておりますために、生涯を学術のために捧げている独身の同博士も、思わず凝然、恍惚として、何等かの感慨無量に及んでいるので御座いましょうか……否々。そのような想像は、厳正周密なる同博士の平生の人格に対して、敬意を失する所以ゆえんで御座いますから、これ以上に深く立入らぬ事に致します。
 ……と……やがて突然、われに帰ったようにハッとして、誰も居ない筈の部屋の中をグルリと見廻しました若林博士は、黒装束の右のポケットに手を突込んで、何やら探しもとめているようで御座いましたが、そのうちにフト又、思い出したように寝棺の箱に近付いて、美しく堆積した着物の下から、子供の玩具ほどの大きさをした黒い、喇叭らっぱ型の筒を一本取り出しました。これはこの節の医者は余り用いませぬ旧式の聴診器で、人体内の極く微細な音響まで聴き取ろうと致します場合には、現今のゴム管式のものよりもこちらの方が有利なので御座います。若林博士は、その喇叭型の小さい方の一端を、少女の屍体の左の乳房の下に当てがいまして、他の一端を覆面の下から、自分の耳に押当てて、一心に聴神経を集中しているようで御座います。
 屍体の心音を聴く。……おお……何という奇怪な若林博士の所業で御座いましょう。見ている者の胸の方が、かえってオドロオドロしくなりますくらいで……。
 ……けれども御覧なさい。若林博士は依然として旧式聴診器ステトスコープ耳朶みみたぶを押当てたまま、片手で解剖着の下から、銀色の大きな懐中時計を取り出して、一心に凝視しております……確かに心臓の鼓動音が聞えているので御座います。すなわち、この解剖台上の少女の肉体は、まだ生きているに違いないのであります。……そういえば最前、若林博士がこの少女の全身を検査した時に、死後相当の時間を経過した屍体の特徴として、どこかに、是非とも現われていなければならぬ薄青い死斑が、どこにも影を見せなかった……又、強直した模様もなかったところを見ますると、多分、この少女はあの寝棺に納まっているうちから……否。あの棺箱に納められる以前から、死んではいなかったに違いないという事が考えられるのであります。頸部くび周囲まわりには歴然たる索溝ストラングマルク――絞殺の痕跡を止めたまま……。
 ……何という不可思議な出来事で御座いましょうか……。
 しかし若林博士は格別、驚いた様子も見せませぬ。間もなくステトスコープを耳から離して、時計と一緒にチョッキのポケットに突込みましたが、如何にも満足そうに二ツ三ツ大きくうなずきながら、改めて少女の姿を見下しているので御座います。
 こうした態度から察しますると若林博士は、一番最初に、この少女の屍体を検案致しました時から、この少女が医学上、稀有とされている仮死状態に陥ったものである事を、早くも看破していたものと見えます。勿論それは、その以前に馳付けたであろう附近の医師や、警察医が、充分に診察を遂げたのちの事でなければなりませぬが、それにも拘わらず、仮死である事を確認致しましたのは、如何なる点に着眼したもので御座いましょうか。しかも、その上に、その仮死体を、如何なる名目の下に斯様かような棺桶につめて、この部屋へ運び込ませたものか……のみならずその奇怪な少女の仮死体を、こうしてタッタ一人で極秘密裡にいじくりまわしているというのは、如何なる理由と目的があっての事で御座いましょうか。尋ねるよすがもありませぬが、何に致せ一代の名法医学者、若林鏡太郎氏の事で御座いますから、古今東西に於ける仮死の例証を、既に充分に研究し尽しているので御座いましょう。そうしてこの少女の屍体が、仮死体であるという事実を、単に自分一個限りの絶対秘密にしておくという事が、この空前の怪事件の解決のために必要、止むを得ないであろう何等かの重大な理由を、彼自身に確認しているからの事で御座いましょう。
 そればかりでは御座いませぬ。……その若林博士が扮装しました、この黒怪人物は、先刻から闇黒くらやみの中に潜んでおりました際に、の寝棺の蓋をソッと開きまして、この少女を仮死状態から覚醒せしむべく、同博士独特の何等かの刺戟手段を施しつつ、時々ステトスコープでもって少女の心音を窺っていた事が、疑いなく察せられるのであります。……というのはツイ今しがた、その若林博士の黒怪人物が、十一時の時計の音を聞いて電燈をけます前に、何やらパタリと音を立てましたのは、同博士が棺の蓋を閉じた音に違い御座いませんので、ステトスコープもその時に、着物の下へ置き忘れて来たものと考えられるからであります。……が、それと同時に、極めて些細な事ではありますけれども、斯様な大切な商売道具を置き忘れるという事は、平生の同博士の極度に冷静周密な性格から推して考えますと、真に意外と思われる出来事で、今夜の若林博士は、確かに平常と違った心理状態にある。少くとも同博士が如何に夢中になって、この少女をこの世に呼びかすべく闇黒の中で苦心、熱中していたかという事は、この一事を以てしても、十二分に察せられる訳では御座いますまいか。
 しかし若林博士の手腕が、如何に卓抜恐るべきものがあるかという事は、まだまだこれから追々おいおいとお解りになりますので、今迄のところはホンの皮切かわきりに過ぎないので御座います。
 若林博士は、解剖台上の少女が、その仮死状態から時々刻々に眼醒つつある事を知りますと、御覧の通り極めて緊張した態度で、左右の手袋を脱ぎました。解剖着の下にまん丸く膨れております洋袴ズボンのポケットにその手を突込んで、色々な品物を取出しながら、一つ一つかたわらの木机の上に並べました。白髪染しらがぞめの薬瓶と竹の歯ブラシ。三四本の新しい筆。小さな墨汁すみかん。頬紅と口紅を容れたコンパクト。化粧水。香油。クリーム。練白粉ねりおしろいの色々……等々々。いずれも、斯様かような部屋に似合しからぬ品物ばかりで……。それから入口に近い棚の奥に隠してありました茶色の紙包を開きますと、中から白木綿と白ネルの筒袖の着物、安っぽい博多織はかたおりの腰帯、都腰巻みやここしまき、白い看護婦服と帽子、バンドの一揃い、スリッパ、看護婦帽、ヘヤピンなぞの、いずれも新しいものばかりを取出しまして、やはり傍の木机の上に置き並べました。斯様な品物は皆、昼間から準備していたもので、多分、解剖台上の少女に着せるつもりではないかとも思われますけれども、何のために、そんな事をするのかという事はまだ判明致しませぬ。
 次に若林博士は、今一度ステトスコープを取り出して、少女の心音を念入りに聴き直した上で、向うの薬棚から小さな茶色の瓶を取って参りまして、その中の無色透明な液体を、心持ち顔をそむけながら、脱脂綿の一片の上にポトポトとたらしました。それをまだお白粉の残っている少女の鼻の処へ、ソロソロと近付けつつ、左手でしずかに脈を取っているので御座います。申すまでもなく、これは麻酔剤をかがしているので……あまり早く少女が覚醒しては困る事があると見えます。しかしこの少女を麻酔さしておいて、どうするつもりか……というような事は、やはり只今のところでは判明致しませぬので、そうした若林博士の行動ばかりが、愈々いよいよでて、いよいよ奇怪に見えて来るばかり……。
 ……と思ううちに、麻酔剤をがせ終りました若林博士は、はだけたままの少女の胸を掻き合せますと、今度はツカツカと正面の薬棚に近づいてその片隅に突込んである美濃型、日本つづりの帳面を一冊取り出しました。その表紙には「屍体台帳……九大医学部」と大字で楷書してありまして、その表紙を開くと、各ページごとに「屍体番号」「受取年月日」「引取人住所氏名」「引渡年月日」なぞいうものが、一面に行列を立てて書込んである上と下に、一々若林という検印がしてあります。……ところでその帳面の半分に近い、書込みの残っている頁まで、バラバラと繰って参りました若林博士は、やがて最終から二番目の屍体番号「四一四」、容器番号「七」と書いたのを指で押えますと、そのまま帳面を傍の机の上に投げ出しまして、長々とした手をさし伸しながら、頭の上の二百燭光のスイッチを四個とも切ってしまいました。
 室内は、もとの通りの闇黒状態に立ち帰ったので御座います。
 しかも、このフィルムの闇黒状態は、ソックリこのまま、他の部屋の闇黒状態に入れ変って行くので御座いますが、果して、どのような意味の闇黒がフィルムの前途に待ち構えているで御座いましょうか……【暗転】

 ……闇黒のフィルムが依然として諸君の眼の前に連続して行きます……十尺……十五尺……三十尺……五十尺……諸君の眼の前にり固まって行く闇黒の核心に、やがて黄色い、小さい、薄汚れた電球がともりました。御覧の通り、どこかの鍵穴から覗いた陰気な室内の光景が現われました。
 ……ナント諸君……このような部屋を御覧になった事がありますか。
 右手に見えております混凝土コンクリートの暗い階段は、この部屋が地下室である事を示しておりますので、正面に並んだ白ペンキ塗の十数個の大きな抽斗ひきだしは、皆、屍体の容器なので御座います。すなわちこの部屋は、九大医学部長の責任管理の下にある屍体冷蔵室で、真夏の日中といえども、肌膚はだえが粟立つばかりの低温を保っているのでありますが、殊に只今は深夜の事とて、その気味の悪い静けさは、死人の呼吸も聞えるかと疑われるくらい……。
 ここに姿を現わしました当の責任者、医学部長、若林博士が扮しました黒怪人物は、室内の冷気に打たれたものと見えまして、暫くの間、絶え入るばかりに苦しいせきを続けておりますが、そのうちにようようの事で、それを押ししずめますと、ポケットから合鍵を取出して「七」と番号を打った屍体容器に取付けてある堅固な南京錠を取除きました。それから車仕掛になった頑丈な容器をゴロゴロと、有り合う台の上に引出しましたが、一息吐くもなく、やおら上半身を傾けまして、全身を繃帯で棒のように巻き立てられた少女の強直屍体を、ズルズルと床の上に抱え下しました。見るとその強直屍体は、最前の仮死体の少女とは似ても似つかぬ色の黒い、醜い顔立ちではありますけれども、年恰好や背丈け、肉付き、又は生え際の具合なぞは、どうやら似通っているようで御座います。
 若林博士は前からこの屍体に眼星をつけていたものらしく、よくあらためもせず、又は、少しの躊躇も見せずに、容器をピッタリと元にかえして、南京錠を引っかけますと、その屍体を材木か何ぞのように担ぎ上げて、一歩一歩とコンクリートの階段を昇り詰めながら、片手で壁際のスイッチを切って、地下室の電燈を消してしまいました。【暗転】

 ここで又、暫くの間、闇黒の場面が続くので御座いますが、しかし……お聞き下さい。あの夥しい犬の吠え声を……。
 あれは今の屍体冷蔵室と、法医学教室の裏手に連なる松原の闇黒くらやみ伝いに、人眼を避けつつ屍体を担いで行く、若林博士の異様な姿を、その松原の附近に設けられている実験用の動物の檻の中から、野犬の群が発見して、吠え立てているところであります。それにおびえて狂いまわる猿輩さるども裂帛れっぱくの叫び……呑気な羊や、とりの類までも眼を醒して、声を限りに啼き立て、めき立てている。その闇黒の騒がしさ……モノスゴサ……。けれども斯様な動物どもが騒ぎまわる事は、殆ど毎晩といっても宜しいので、誰一人として怪しむ者はありませぬ。して堂々たる大学の医学部長が、自分の責任管理に属する屍体をコッソリ盗んで行く……という前代未聞の怪事実を吠え立てていようなぞと、誰が思い及びましょう。九州帝国大学構内を包む春の夜の闇は、すさまじい動物どもの絶叫、悲鳴のうちに、いよいよ闃寂げきじゃくとしてけ渡って行くばかりで御座います。
 やがてその声が次第に遠ざかって、ピッタリと静まったと思う間もなく、又もパッパッと四個の二百燭光の電燈がきますと、場面は以前の法医学の解剖台の処に立ち帰ります。
 みると四百十四号の少女の強直屍体は、もうコンクリートの床の上に横たわっておりますが、一方に入口の扉を以前もとの通りに厳重にとざし終った若林博士は、解剖台の前に突立ったまま、黒い覆面の上から汗を押え押え息を切らしております。

 大正十五年四月二十七日夜の、九大法医学部、解剖室には、かくして二個の少女の肉体が並べられた事になります。美しくよみがえりかけている少女と、醜くく強直している少女と……中にも解剖台上に紅友禅べにゆうぜんを引きはえました少女の肉体は、ほんの暫くの間に著しく血色を回復しておりまして、麻酔をかけられたままに細々と呼吸しはじめている、そのふくよかな胸の高低が見える位になっております。その異常な平和さ、なまめかしさ……台の下の醜い少女の顔と相対照しておりますせいか、その美しさは一層美しく、ほとんど気味の悪いくらい、あでやかに感じられるようであります。
 その脈搏を取り上げた若林博士は、時計のセコンドと睨み合せつつ、麻酔の効果を検診し初めました。その真黒い博士の姿が、心持ち頭を傾けたまま、石像のように動かなくなりますと、それに連れてこの室内の空虚が、ソックリこのまま、地下千尺の処に在る墓穴のような、云い知れぬ静寂に満たされてまいります。
 そのうちに脈を取っていた少女の手を投げ出して、時計をポケットに納めました若林博士は、その少女の身体からだをそっと抱え上げて、部屋の隅に横たえてある寝棺の蓋の上に寝かしました。そうしてその代りに四一四号の少女の強直屍体を解剖台の上に抱え上げて、凹字おうじ型の古びた木枕を頭部に当てがいますと、大きな銀色のはさみを取上げて、全身を巻立てている繃帯をブツブツとり開く片端かたはしから、取除いて行きましたが……御覧なさい……その蒼黒い少女の皮膚の背中から胸へ、胸から股へと、縦横にタタキ付けられている大小長短色々の疵痕きずあとを……殴打、烙傷らくしょう擦傷さっしょうの痕跡を……それらの褐色、黒色、暗紫色の直線、曲線は腰部にあらわれている著明な死斑と共に、煌々こうこうたる白光下に照し出されると同時に、そのままの色と形の蛇や、蜥蜴とかげや、がまとなって、今にも彼女の皮肌の上をいまわり初めるかと疑われるくらい……。
 御承知の御方も御座いましょうが、全国の各大学や、専門学校の研究用の解剖屍体には、こうした種類の屍体がよく持込まれるので御座います。殊に、この九大に収容されるのは、同地方に多い炭鉱や紡績、その他の工場、又は魔窟なぞへ誘拐虐待されたもの、又は自殺者、行路病者なぞの各種類に亘っておりまして、中には引取人のないのも珍しくありませぬが、九大側では、そんなのをかたぱしから研究材料にして切り散らしたあげく、大学附属の火葬場で焼いてこつにして、五円の香典を添えて遺族に引渡す。又、引取人のないものは共同墓地へ埋めて、年に一度の供養法会くようほうえ執行とりおこなう事になっておりますので、この屍体も、そうした種類の一つと考えられるのであります。
 こう申しますうちに、屍体の全身を手早く検査し終りました若林博士は、今一度ホーッとばかり、あえぐように溜息しつつ、覆面ごしに顔の汗を押えておりましたが、やがて部屋の隅の洗面器の処に近付いて、水道栓から直接にゴクゴクと水を飲んではせかえり、呼吸を落付けては水を飲んで、暫くの間は息も絶え絶えに咳入せきいっております。永年の肺病にとらわれて、衰弱に衰弱を重ねております同博士にとりまして、これだけの労作はたらきは、如何ばかりかつらく、骨身にこたえた事でしょう。
 けれども同博士のかいより出でて怪に入る仕事は、まだ半分も進行していないので御座います。
 程もなく洗面器の処から引返しました若林博士は、まず屍体の足の処にボール鉢を置いて、そこに取付けてあります水道栓のホースを突込んで、屍体の脚部から背中へかけた解剖台面に水を放流し初めました。次いで今一つのボール鉢に湯を取りまして、スポンジと石鹸を使いながら、解剖台上の少女の虐殺屍体を、隅から隅まで叮嚀に洗いきよめましたが、次いでその皮膚の全面を、ガーゼと脱脂綿とでスッカリ拭い乾かしますと、その貧しい赤茶色の髪の毛を真二つに引分けて、かたわらに光り並んでいるメスの一つを取上ると見る間に、屍体の眉間みけんの処をブスリと一突き……それから次第に後頭部に到る頭の皮を、一直線にキリキリとり開いて行きました。
 ところで多少共にこの方面に関する知識を持っていられる方は、定めしここで「オヤ」と思われる事と存じます。若林博士のこうしたやり方は、普通の場合に於ける屍体解剖の手順になっております胸部、腹部から頭部、次に背部という順序を無視して、頭部から初めている事になりますから……。
 そもそも古今の名法医学者若林博士は、何の目的の下に、このような勝手気儘な順序を以てメスをふるいはじめたのか……と疑う間もなく四一四号の少女の頭の皮はたくみにクルリと裏返しにされまして、髪毛かみのけと一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました。次に、その下から現われました白い坊主頭を、のこぎりで鉢巻形に引切りました若林博士は、その下から現われた脳髄を、器用な手附で鋏を使いながら硝子ガラスの皿の上に取出しますと、そこで同博士一流の念入りな調査をこころみるか、それとも標本にして取っておくのか……と思われましたが、これが又案に相違して、まるでビフテキかオムレツでも取扱うような無関心さで、皿の中の脳髄をクルリと宙返りさせますと、そのままもとの空洞に納めまして、頭蓋骨を冠せて、皮と髪毛をクルリとおおうて、針と糸を迅速にさばき働かせつつ、あらっぽく縫い合せてしまいました。
 ……これは意外である。一種の狼藉ろうぜきとも見るべき所業である。厳格方正を以て聞えた若林博士は、何故なにゆえに今夜に限って、斯様かような不誠意を極めた屍体解剖を試みるのであろうか……と疑いの眼をみはっているうちに、屍体は間もなく……ゴロリと俯向けに引っくり返されました……と見ると、きずだらけの背筋の中央、脊椎の左右の筋肉が円刃刀メスでもってゴリゴリと切り開かれました。そこから二股ふたまたの鋸を突込んで、左右の肋骨ろっこつを切りけた若林博士は、取出した背骨を縦に真二つに切り開いただけで、ロクに検査もせずに、もとの処に当てがいまして、太い針でブスブスと縫い合せてしまいました。その一気呵成いっきかせい的なゾンザイサというものは、やはり前とおんなじ事なので……。
 次に若林博士は今一度、屍体をあお向けにして、汚れた処をザッと洗い浄めてから、腹部の皮の厚さを押えこころみている……と思ううちに、新しいメスをキラリと取上げて、咽頭いんとうの処をブスリと一突き……乳の間から鳩尾みぞおち腹部へと截り進んで、へその処を左へ半廻転……恥骨ちこつの処まで一息に截り下げて参りますと、まず胸の軟骨を離して胸骨を取除とりのけ、両手を敏活に働らかせつつ、胸壁から下へ腹壁まで開いて参りましたが、只一刀で腹壁、腹膜が同時に、切開かれておりまして、内臓には一点のきずも附いていない。……五臓六腑の配置が歴々整然として、蒼白い光りに輝き濡れている光景は、気味悪いと申しましょうか、物凄いと形容致しましょうか……その肺臓の一面にあらわれている黒い汚染しみは、この少女が炭坑労働に従事しておった事をあらわし、その致死の直接原因と見られる肝臓の破裂と内出血は、この少女に加えられた虐待、もしくは迫害が、如何に激烈であったかを証明しているのでありますが、しかし若林博士は相も変らず、そんな事には眼もくれませぬ。ただ、それ等の内臓の一つ一つを手当り次第に廻転さしたり、掻き乱したりしただけで、その最後に胃袋と、大小腸と、膀胱ぼうこうとを、ほんの形式だけ截り破るなぞ、あらゆる検査の真似型だけを終りますと、普通の解剖のように、各臓器の一部ずつを標本に取るような事もせずに、又も、太い針と麻糸を取り上げまして、下腹部から順次に咽頭部まで縫い上げて行きました……が……その間に於けるメスふるい方の思い切って残忍痛烈なこと……その針と、糸の使い方の驚くべき巧妙迅速を極めていること……そうしてその手付きや態度にあらわれて来る、たまらないほど辛辣な満足のわななき……それはこうした仕事によって、或る深刻痛烈な慾望を満足させつつある、精神異常者そのままの表現ではないかと疑われるくらい……。
 先刻から、かような一挙一動を、詳しく見ておいでになりました諸君は、もはやハッキリとお気付きになっているで御座いましょう。今や若林博士の態度は、その平生の冷静、荘重な物腰を全然うしなってしまって、殆ど別人かと思われる残忍、酷烈な、且つ一種異様な興味に駆られた、元気溌溂たる人間に変って来ておりますことを……。
 しかし、これは決して怪しむべき現象ではありませぬ。昔から或る仕事の大家とか、又は或る技術の名人とか天才とか呼ばれる人間が、自分の仕事に熱中して参りますと、その疲労から来る異常な興奮と、超自然的な神経の冴えが生み出す妄覚等によって、平生とはまるで違った心理状態になって、一見極めて非常識に見える事に深刻な興味を持ったり、又は変態怪奇を極めた所業しわざを平気で演じて行くたとえは、随分沢山に伝わっておりますので……いわんや若林博士のような特殊な体質と頭脳を持った人間が、斯様かような古今に類のないであろう事業……闇黒の中に絶世の美少女の仮死体を蘇生させるという、玄怪微妙な仕事が済むと間もなく、今度は世にも珍らしく、むごたらしい少女の虐殺屍体を、無二無三に斬りさいなむという、異常を超越した異常な作業にかかっているのですから、その神経が、どんな程度にまで昂進して、その心理が如何なる方向に変形して来ているかは到底常人の想像し得るところではありますまい。
 そうした不可解な心理を包んだ黒怪人物……若林博士は、かくして間もなく、少女の胸腹部を、咽頭の処まで縫合せ終りますと、最後に一際ひときわ鋭い小型のメスを取上げて、四一四号の少女の顔面に立向いました。
 まず、右の眼の縁へズクリとメスを突立てますと、あたかも同博士独特の毒物の反応検査を試みるかのように、両眼をグルリグルリとえぐり出してしまいましたが、例によって、別に眼底をあらためるでもなく、そのまま直ぐに元の眼窩がんかに押込んでしまいました。次には、その中間の鼻梁びりょうを、奥の方の粘膜が見える処までガリガリとち割りました。それから唇の両端を耳の近くまで切り裂いて、咽頭が露われるまでガックリと下顎を引卸しました。
 屍体の顔はかようにしてトテモ人間とは思われぬまでに変形してしまいましたが、これを又モトの通りに一個所ごとに縫い合せました黒衣の巨人は、ホッと一息する間もなく、ガーゼと海綿を取上げてアルコールをタップリと含ませながら、汚れた処を一々叮嚀に拭上げますと、やがて今までとはまるで相好の変った、誰が誰やらわからぬ奇妙な恰好の屍体が一個出来上ってしまいました。
 黒衣の博士はここでヤット一息入れますと、解剖台の上と下とに横たわる二人の少女の肉体を繰返し繰返し見較べておりましたが、そのうちに、二重の手袋を左右とも脱ぎ棄てまして、かたわらの机の上に在る固練白粉かたねりおしろいてのひらで溶きながら、一滴もこぼさないように注意しいしい、四一四号の少女の顔、両肩、両腕と、腰から下の全部にお化粧を施し初めました。
 ……ところでその手附を御覧下さい。いかがです。あらい縫目や、又は毛髪の生際はえぎわなぞに白粉が停滞しないように注意しつつ、デリケートに指を働らかせて行くところは、如何にも斯様な化粧品を扱い慣れている手附では御座いませんか。
 これは恐らくこの博士が、自身に何回となく変相をした経験があるせいでは御座いますまいか。それともこの博士の裏面的性格から来た、飽く事を知らぬ変態的趣味と、法医学的研究趣味とが相俟あいまって、伝え聞く数千年前の「木乃伊ミイラの化粧」式な怪奇趣味にまで、ズット以前まえから高潮しておりましたのが、斯様な機会に曝露したもので御座いましょうか。いずれに致しましてもあのように青黒い、又は茶色に変色した虐待致死の瘢痕はんこんといしの粉でおおうて、皮膚の皺や、繃帯のあとを押し伸ばし押し伸ばしお白粉しろいを施して行く手際なぞは、実に驚くべきもので、多分遊廓の遣手婆やりてばばが、娼妓の病毒を隠蔽する手段なぞから学んだもので御座いましょうか……とうとう色の黒い、傷だらけの少女の肌を、色の白い少女の皮膚の色と変らない程度にまで綺麗に塗上げてしまいました。それから口紅、頬紅、まゆずみ、粉白粉なぞを代る代る取上げて、身体各部の極く細かい色の変化を似せて、大小の黒子ほくろまでを一つ残らずモデルの通りに染め付けた上に、全身の局部局部の毛を床の上の少女と比較しつつ、理髪師も及ばぬくらい巧みに染め上げて、一々香油を施しました。
 ……と思うと今度は、手近い机の抽斗ひきだしを開いて赤、青、紫、その他の検鏡用のアニリン染料を、梅鉢型のパレットに取って、新しい筆でチョイチョイチョイと配合しながら、首のまわりの絞殺の斑痕を、実物と対照して寸分違わぬ色と形に染付け始めましたが、これとても実に巧妙、精緻を極めたもので、浮上ったような蚯蚓腫みみずばれや、蜥蜴とかげのような血斑が、見ているうちに頸のまわりを取巻いてしまいました。
 しかし黒怪人物の黒怪事業はまだまだ進行する模様で御座います。
 黒怪人物は、それから大急ぎで二重の手袋を穿め直しまして机の下から一包みの繃帯を取出しました。その繃帯でもって化粧済みの屍体の顔から頭へかけて真白に巻き潰してしまいましたが、続いて頸、肩、上膊部、胸、腹部、両脚という順序に、全身をグルグルグルグルグルと巻上げますと、御覧の通り木乃伊ミイラの出来そこねか又は、子供の作るテルテル坊主の裸体はだかぼうを見るような姿にしてしまいました。それから今度は、寝棺の蓋の上に寝ている美少女の派手な下着を剥ぎ取って、白坊主に着せまして、その上から緋鹿子絞ひがのこしぼりの扱帯しごきをキリキリと巻付けてやりましたが、その姿の奇妙さ、滑稽さ……そうして、それと向い合って見下している黒怪人物の、今更に眼に立つ物々しい妖異さ……。
 しかしまだテルテル坊主の屍体には、ふしの高いカサカサに荒れた両手が、ニューと突出されたまま残っております。これをどうして胡麻化ごまかすかと見ておりますと、流石さすがは絶代の怪人物黒衣博士です。何の造作もないこと……その両腕の肘の関節をポキンポキンと押曲げてチャンと合掌させて、白木綿でシッカリと縛り包んでしまいました。成る程。これなら大丈夫と思ううちに、これも同じく隠しようのないままに残されていたひびだらけの足のかかとも、美少女の小さな足袋たびの中に無理やりに押込んでヒシヒシとコハゼをかけてしまいました。そうして愈々いよいよ強直してしまった、なまめかしい姿の白坊主をヤットコサと抱き上げて、寝棺の中にソッと落し込んで、三枚がさねの振袖と裲襠うちかけを逆さに着せて、糸錦いとにしきの帯で巻立ててやりますと、今度は多量のスポンジと湯と、水と、石鹸と、アルコールとで解剖台面を残るくまなく洗いきよめました。その上に意識を恢復しかけている美少女の裸身をソロッと抱え上げまして、その下敷になっていた分厚い棺の蓋を、テルテル坊主の上からシックリと当てがって、その上を白絹の蔽いでスッポリと蔽い包んでしまいました。
 しかし黒怪人物の怪事業は、まだ残っておりました。しかも今度こそは、その黒怪手腕中の黒怪手腕を現わすホントの怪事業とでも申しましょうか。

 ここで寝棺と解剖台との間に突立って、又もホッとばかり肩をおののかして一息しました黒衣の巨人はやがて又大急ぎで手袋を脱ぎ棄てますと、まず鋏を取上げて、解剖台上の少女の長やかに房々とした頭髪を掻分かきわけながら、まん中あたりの髪毛かみのけ一抓ひとつまみ程プッツリと切取りました。それを机の抽斗ひきだしから取出した半紙でクルクルと包みまして、同じ抽出ひきだしから出した屍体検案書の刷物すりものや二三の文房具と一緒に先刻の屍体台帳の横に置並べましたが、やがて鉄製の円型腰掛を引寄せながら、新しい筆を取上げて墨汁を含ませますと、今の半紙の包みの上にうやうやしく「遺髪」「呉モヨ子殿」と書きました。それから、ちょっと時計を出して見ながらジッと考えている様子でしたが、屍体検案書の書込みの方は後廻しにする決心をしたらしくソッと横の方へ押遣おしやって、屍体台帳の方を繰拡げますと、その中央に近い処にある「四百十四号……七」と書いた一枚をほかの書込みの行列と一緒に叮嚀に破って、抜取ってしまいました。
 それから別の皿へ墨汁を溶かして、色々の墨色を作りながら、破ったページ文字とソックリの筆跡で十数個の屍体に関する名前、年月日、番号等を書入れて参りました……が……その中でも今の「四百十四号……七」に関する書込みは全部飛ばして、次の「四百二十三号……四」の分を記入して、一々「若林」という認印みとめいんしてしまいました。……すなわち、今しがた寝棺の中に納められたばかりの少女の変装屍体に関する記入は、かくしてこの屍体台帳から完全に追出されてしまった訳で御座います。
 ……諸君はここに於てか、今迄の若林博士の苦心惨憺の怪所業の一々が、何を意味しておったか……という事を、ことごとく明白に理解されたで御座いましょう。
 美少女、呉モヨ子の身代りとなって、棺の中に納められておりますのは、もともと身よりたよりの無い、行衛ゆくえも知らぬ少女の虐殺屍体で、こちらから通知を出さない限り、遺骨を受取りに来る気づかいのない種類のものである事が、容易に察せられるのであります。
 一方に当大学内に於て、屍体解剖を行われました人間の身寄みよりの者は、大抵、その翌日のうちに遺骨を受取りに来るように通知が出されるのでありますが、実は、解剖が済みますと直ぐに、裏手の松原に在る当大学専用の火葬場の人夫が受取って行って、立会人も何も無いままに荼毘だびに附して、灰のようになった骨と、保存してあった遺髪だけを受取りに来た者に引渡す……という、一般の火葬の場合とは全然違った、信用一点張りの制度になっておりますので、屍体の替玉に気付かれる心配は万に一つもないといってよろしい。もっとも、その火葬以前にやって来て、今一度、死人の顔を見せてくれと要求するような、取乱した親達がないという断言は出来ないのでありますが、仮令たといそのような場合があるにしても、のメチャメチャに縫い潰した顔を見せたら、タ目と見得る肉親の者はまずありますまい。
 但、唯一つここに懸念されるのは、その筋の係官や、関係医師なぞが、今一度、念のために検分に来る場合でありますが、これ程に二重三重の念を入れて、巧妙、精緻な手を入れた換玉かえだまである事を、どうして見破り得ましょう。いずれに致しましてもその人格に於て、又はその名声に於て、天下に嘖々さくさくたる若林博士が、九大医学部長の職権を利用しつつ、念を入れ過ぎる位に念を入れて仕上げた仕事ですから誰が疑点をはさみ得ましょう。どこに手ぬかりがありましょう……九大、屍体冷蔵室の屍体紛失事件が、若林博士以外にはタッタ一人しか居ない係りの医員に、不審の頭を傾けさしたまま、永久の闇から闇に葬られて行く時分には、行衛不明になった少女の虐殺屍体は既に、一片の白骨となって、立派な墓の下に葬られて、香華こうげ手向たむけられている訳であります。
 同時に現在、気息を恢復しつつある解剖台上の少女……呉モヨ子と名付くる美少女は、戸籍面から抹殺された、生きた亡者となって、あの蒼白長大な若林博士の手中に握り込まれつつ、呼吸する事になるので御座いますが、しかし、それがのちになって何の役に立つのか、若林博士は何の目的でこの少女を、生きた亡者にしてしまったのか。……その説明はのちのお楽しみ……と申上げたいのですが、実はこの時までは天井裏から覗いておりました正木博士にもサッパリ見当がついておりませんでしたので……恐らく諸君とても御同様であろうと思います……が……。
 ……しかし同時に、新聞紙上で、迷宮破りとまで称讃されている絶代のモノスゴイ頭脳の持主、若林鏡太郎博士が、かほどの惨憺たる苦心と、超常識的なトリックを用いて挑戦しつつある事件の内容……もしくはその犯人の頭脳が、如何に怪奇と不可解を極めた、凄絶なものであろうか……という事実に就いては最早もはや、十分十二分の御期待が出来ている事と存じます。しかも、この御期待にそむかない事件の驚くべき内容と、その過程の具体的なものが、順序をうて諸君の眼前に展開して参りますのは、最早、程もない事と思われますので……。
 すなわち御覧の通り、事件は最早、既に、九大法医学部、解剖室内の黒怪人物、若林博士の手に落ちているので御座います。そうして同博士は今や、一代の智脳と精力を傾注しつつ、その怪事件を捲起した裏面の怪人物に対する、戦闘準備を整えているところですから……。

 却説さて……斯様にして屍体台帳の書換えを終りました若林博士は、その台帳を無記入ブランクの屍体検案書と一緒に、無雑作に机の上に投出しました。疲れ切った身体からだを起して室内に散らばっているガーゼ、スポンジ、脱脂綿なぞを一つ残らず拾い集めて、文房具、化粧品等と一緒に新しい晒布さらしに包み込んで、繃帯で厳重にくくり上げてしまいました。多分、どこかへ人知れず投棄して、出来る限り今夜の仕事を秘密にする計劃で御座いましょう。四一四号の屍体の各局部の標本を取らなかったのも、そうした考えからではなかったかと考えられます。
 こうした仕事を終りまして今一度そこいらを念入りに見廻しました若林博士は、やがてかたわらの机の上に置いた新しい看護婦服と白木綿の着物を取上げて、まだ麻酔から醒ずにいる少女に着せるべく、解剖台に近づきました……が……若林博士は思わず立止まりました。手に持っている物を取落して背後うしろによろめきそうになりました。
 今更に眼をみはらせる少女の全身の美しさ……否、最前の仮死体でいた時とは全然まるで違った清らかな生命いのちの光りが、その一呼吸ごとに全身に輝き満ちて来るかと思われるくらい……その頬は……唇は……かぐわしい花弁はなびらの如く……又は甘やかなジェリーのように、あたたかい血の色によみがえっております。中にもそのずらかな恰好の乳房は、神秘の国に生れた大きな貝のかなぞのようにき活きとした薔薇色に盛り上って、煌々こうこうたる光明の下に、夢うつつの心をほのめかしております。
 ……冷たい……物々しい、九大法医学部屍体解剖室の大理石盤の上に、又と再び見出されないであろう絶世の美少女の麻酔姿……地上の何者をも平伏ひれふさしてしまうであろう、その清らかな胸に波打つふくよかな呼吸……。
 その呼吸のに酔わされたかのように若林博士はヒョロヒョロと立直りました。そうして少女の呼吸に共鳴するような弱々しいあえぎを、黒い肩の上で波打たせ初めたと思うと、上半身をソロソロと前に傾けつつ、力無くわななく指先で、その顔の黒いおおいを額の上にマクリ上げました。
 ……おお……その表情の物凄さ……。
 白熱光下に現われたその長大な顔面は、解剖台上の少女とは正反対に、死人のように疲れゆるんだまま青白い汗に濡れクタレております。その眼には極度の衰弱と、極度の興奮とが、熱病患者のソレの如く血走り輝やいております。その唇には普通人に見る事の出来ない緋色ひいろが、病的に干乾ひからび付いております。そうした表情が黒い髪毛かみのけを額に粘り付かせたまま、コメカミをヒクヒクと波打たせつつ、黒装束の中から見下している……。
 彼はこうして暫くの間、動きませんでした。何を考えているのか……何をしようとしているのか解らないまま……。
 ……と見るうちに突然に、彼の右の眼の下が、深い皺を刻んで痙攣ひっつり始めました……と思う間もなく顔面全体に、その痙攣けいれんの波動がヒクヒクと拡大して行きました。泣いているのか、笑っているのか判然わからないまま……洋紙のように蒼褪あおざめた顔色の中で、左右の赤い眼が代る代る開いたり閉じたりし初めました。何事かを喜ぶように……緋色に乾いた唇が狼のようにガックリと開いて、白茶気た舌がその中からダラリと垂れました。何者かをあざけるように……それは平生の謹厳な、紳士的な若林博士を知っている者が、夢にだも想像し得ないであろう別人の顔……否……彼がタッタ一人で居る時に限って現われる悪魔の形相……。
 けれどもそのうちに彼はソロソロと顔を上げて参りました。いつの間にか乾いている額の乱髪を、両手で押上げつつ、青白い瞳をあげて、頭の上に輝く四個の電球を睨み詰ました。
 その呼吸が又も次第次第に高く喘ぎ初めました。その頬に一種異様の赤味がホノボノとさし初めました。空中の或者と物語っているかのように眼を細くして、腹の底から低い気味の悪い音を立てつつ切れ切れに、
「……アハ……アハ……アハアハ……」
 と笑っておりましたが、やがてその唇をじっと噛んで、美少女の寝顔を見下しますと、ワナワナと震える指をさし上げて、頭の上の電燈のスイッチを一ツ……二ツ……三ツ……と切って、最後に四ツ目をパッと消してしまいました。
 しかし室内はモトの闇黒あんこくには帰りませんでした。閉じられた窓の鎧扉ブラインドの僅かの隙間すきまから暁の色が白々と流れ込んで、へやの中のすべての物を、海底のように青々と透きとおらせております。
 ……茫然と、その光りを見つめておりました彼は、やがてその両手の指をわななかせつつ、ピッタリと顔に押当てました。ヨロヨロと背後うしろによろめいて壁に行き当りました。そのままズルズルと床の上に座り込みますと、失神したように両手を床の上に落して、両脚を投出して、グッタリと項垂うなだれてしまいました。
 その時に解剖台上の少女の唇が、微かにムズムズと動き出しました。ほのかな……夢のような声を洩らしました。
「……お兄さま……どこに……」……【溶暗】……

 【字幕】 正木若林両博士の会見。
 【説明】 次に映写し出されましたるは、九州帝国大学精神病学教室本館階上、教授室に於ける正木博士の居睡いねむり姿で御座います。時は大正十五年の五月二日……すなわち前回の映画にあらわしました若林博士の屍体スリ換えの場面が、正木博士の天然色浮出発声映画カメラのフィルムに収められましてから丁度一週間目の、お天気のいい午後の事で御座います。教授室の三方の窓には強い日光を受けた松の緑がまぶしく波打っておりまして、早くも暑苦しい松蝉まつぜみの声さえ聞えて来るのでありますが、南側に並んだ窓の一つ一つには、胡粉絵ごふんえの色をした五月晴さつきばれの空が横たわって、その下を吹く明るい風が、目下工事中の解放治療場の作業の音を、次から次に吹込んで参ります。
 正面の大卓子テーブルと、大暖炉との中間に在る、巨大おおきな肘掛回転椅子に乗っかった正木博士は、白い診察服の右手の指に葉巻の消えたのを挟み、左には当日の新聞紙を掴みながら鼻眼鏡をかけたままコクリコクリと居睡りをしております。トント外国の漫画に出てまいりますっぽこドクトルそのままで……読みさしの新聞の裏面に「花嫁殺し迷宮に入る」という標題が、初号三段抜きで掲げてありますところを特に大うつしにして御覧に入れておきます。そのうちに大暖炉の上の電気時計の針が、カチリと音を立てて三時三分を指しますと、大学のお仕着せを着た四十恰好の頭を分けた小使が、一葉の名刺を持って這入って来て、うやうやしく正木博士の前に捧げました。
 扉のしまった音で眼を醒ました正木博士は、その名刺を受取ってチョット見ますと如何にも不機嫌らしく両眼をへこませました。
「ナアーンだ。何遍云って聞かせてもわからない唐変木とうへんぼくだ。馬鹿叮嚀にも程がある。これから、こんなものを一々持って来なくとも、黙って勝手に這入って来いと、そう云え」
 と云いながら、その名刺を大卓子の上に投げ出しました。ナカナカ威張ったもので……そのまま眼を閉じて、又もウトウトと睡りこけております。
 ところへ、青いメリンスの風呂敷を一個、大切そうに抱えた若林博士が、長大なフロック姿を音もなく運んで這入って来まして、正木博士と向い合った小さな回転椅子に腰をかけました。矮小な正木博士が、大きな椅子の中一パイにハダカッているのに対して、巨大おおきな若林博士が、小さな椅子の中に恭しくかしこまっている光景は、いよいよ絶好の漫画材料で御座います。……と、やがて若林博士は例によって持病の咳に引っかかりまして、白いハンカチを口に当てたまま、ゴホンゴホンと苦しみ始めました。
 正木博士はその騒ぎでやっと眼を醒ましたものと見えまして、新聞と葉巻を空中にヤーッとさし上げて、眼の前の若林博士は勿論のこと、この室も、九州大学も、しまいには自分自身までも一呑みにしてしまいそうな、素敵もない大欠伸あくびを一つしました。
 くして事件勃発以後に於ける二人の博士の最初の会見は、この大欠伸によって皮切られたのでありますが、続いて始まる二人の会話が、表面から見ますと何等の隔意もないように思われまするにも拘らず、その裏面には何かしら互いに痛烈な皮肉を含ませて、出来るだけ深刻に相手を脅威すべく火花を散らしている……らしい事にお気が付かれましたならば、この事件の裡面に横たわっている暗流が如何に大きく、且つ、深いものがあるかを御推察になるのに充分であろうと信じまする次第で……。
「アーッ……アーッと。イヤア。とうとうやって来たね。ハハハハハハ多分もうやって来る時分だと思っていたが」
「ハア……ではもう、事件の内容は御存じなので……」
「知っているぐらいじゃない……これだろう……花嫁殺し迷宮に入る……という……無論記事の内容にはヨタが多いだろうが……」
「さようで……しかし私がこの事件に関係致しておりますことは、どうして御存じで……」
「……ナアニ……この間一寸ちょっと用事があって君に電話をかけたら、午後の講義をブッ潰して、自動車でどこかへフッ飛んで行ったというから、さては何か初まったナ……と思っていると、その日の夕刊に……結婚式の前夜に花嫁を絞殺す……とか何とかいう特号四段抜きか何かの記事が出たから、さてはこの事件に引っかかったナ……と察していた訳なんだがね」
「ナルホド。しかし今日私がこちらに伺いますことは、どうして御存じで……」
「ウン……それあ今日かいつか知らないがキッと来るには間違いないと思っていた。……というのはこの事件は……ホラ……例の心理遺伝に違いないと最初から睨んでいたからね。君が調べ上げて吾輩の処へ持込んで来るのを実は待っていた訳だ。ハハハハハ」
「恐れ入ります。お察しの通りで……実は私は二年前からこの事件に関係致しておりましたので……」
「エッ。二年以前から……」
「さようで……」
「……フ――ン。二年前にも、こんな事件があったんかい」
「ハイ、それも同じ少年が、実母を絞殺致しました事件で……」
「ウーム。おんなじ奴が、おんなじ手段で……しかも実母を……ウーム……」
「実はその時に、こちらから進んで事件に関係致しました私は……この事件の犯人は別にいる。この少年が殺したのではない……と主張致しておったので御座いますが、その犯人がその後どうしても見つかりませぬ」
「君の炯眼けいがんを以てしてかい」
「……お恥かしい次第ですが、このような難解な事件に接しました事は、私も生れて初めてで……何と説明致したら宜しう御座いましょうか……犯跡が歴然と致しておりながら、犯人が居た形跡がないとでも……」
「……フ――ン。面白いナ……」
「……で御座いますから、その少年が前回の実母絞殺事件で無罪と相成りましたのちも私は決して安心致しませんで、何とかして犯人の目星めぼしをつけたいと考えました結果、被害者の実の姉で、少年の伯母おばに当る八代子やよこという者や、警察方面とも連絡を取りまして、もしこののちに、この少年の起居動作、又は一身上の出来事なぞにすこしでも変った事があったら、すぐに知らせてくれるように頼んだりなぞ致して、絶えず注意を払っていたので御座いますが、とかくするうちに二年後の今日と相成りますと、果して又も同じ少年が、今度は自分の伯母に当る八代子の娘でしかも自分の花嫁となるべき呉モヨ子という少女をその結婚式の前夜に絞殺致しましたので、二年前の実母殺しも、やはりこの少年が、同じような精神病的発作に駆られてやったものに違いない……というような事になりました。お蔭で二年前に……この少年の母を殺した犯人は別にいる……と申しました私の言葉は、目下のところスッカリ信用を失っておりますような訳で……」
「アハハハハハ痛快痛快……。そう来なくっちゃ面白くない。君の腕試しには持って来いの事件らしいね」
「イヤどうも……腕試しどころでは御座いませんので……。実は私もこの事件を、ねてから御指導によって研究致しております精神科学的犯罪の好研究材料と信じまして、一ツの事を三ツも四ツもの各方面から調査致しまして、スッカリ書類にしておいたので御座いますが……この風呂敷包みの中のがそれで……」
「……ウワッ……オッソロシイ大部なモンじゃないかそれあ……事件が始まってから、まだ一週間しか経たないのによく、それだけの書類が……」
「イヤ、この中には、二年前の事件に関する調査書類も一緒になっておりますので……又今度の事件の分も、いつ何時なんどき私が重態に陥りましても差支えないように、調べる片端かたっぱしから不眠不休でノートに致して参りましたのですが……おかげで持病の喘息ぜんそくが急に悪化しまして、幾何いくばくもない私の余命が、一層たよりなくなったような気が致します」
「ウ――ム。そういえば近来急に影が薄くなったようだ。気をつけなくちゃいけないぜ。木乃伊ミイラ取が木乃伊式に、自分自身が精神科学の幽霊になったんじゃけりのつけようがないからね。アハハハハ、イヤ御苦労御苦労……ところで、その包の上にツン張り返っている四角い箱は何だいソレア……」
「ハイ。これが今回の心理遺伝事件の暗示に使われました一巻の絵巻物で、箱は私が指物屋さしものやに命じて作らせたもので御座います。……その呉一郎と申す青年は、誰かにこの絵巻物を見せられた結果、精神異常をきたしたものに相違ないと考えられるので御座いますが、今も申します通り、当局者と私の見込が全く違ってしまいまして、呉一郎の精神異状は自然的の発病か、もしくは精神病者を装っているものと認められておりますために、この絵巻物を当局者に参考材料として見せましても、頭から一笑に附しているので御座います。併し又、一方から申しますと、そのお蔭で、斯様かような貴重な参考材料が、都合よくこちらの手に這入りましたような訳で……」
「アハハハハ。そいつはよかったね。君がその風采で、警察や裁判所の奴等の前にそんな巻物を持出して、ソモソモこれが恐れ多くも勿体もったいなくも正木博士独特の御研究にかかる前代未聞の新学理、心理遺伝の暗示材料で御座る……なぞ云い出したら、大抵面喰めんくらってしまったろう。よく香具師やしと間違えられなかったね、アハハハハハハ」
「ハハハハハ。イヤ実は例の隠蔽になりませぬように形式だけ見せたので御座いますが、実はこちらの物にしたくてたまりませんでしたので……」
「如何にも……そこに抜かりはない男だからね……」
「イヤ……どうも……」
「……ところで今日の用事というのは、その書類と事件とを吾輩に押しつけに来たんかい」
「ハイ。それも御座いますが今一つ……現在、花嫁殺しの犯人と目されて、福岡土手町どてまちの未決監に入れられております少年呉一郎の精神鑑定がお願い致したいので……」
「ウン。あの少年かい。あの少年の精神状態なら新聞記事だけで大抵様子は判っているよ。所謂いわゆる発作後の健忘状態という奴だ。つまりその絵巻物の暗示か何かで精神異状を来した結果、或る夢中遊行を起して、花嫁を殺したりしている奴を、無理矢理に取押えて夢中遊行を中絶させようとしたために大暴れに暴れ出した。そうして、そんな興奮から来た神経細胞の極度の疲労のために、発作以前にもさかのぼったアラユル過去の記憶がタタキ付けられて活躍不能になってしまった。すなわち『逆行性健忘症』に陥った……というぐらいの事は新聞記事を読んだだけでチャント見当がついている。そこいらによくある奴で、何も別に吾輩を呼出さなくとも君が説明してやれば、それで沢山だと思うがね」
「ハイ。それがその……今度の事件では私の信用がくつがえりまして、私の鑑定だけではあてにならなくなりましたために、裁判所の方でも弱っておりますようで……事に依ると呉一郎少年は殺人狂ではないか……なぞと申しておるようで御座いますが……」
「フーム。そいつはしからんナ。素人とは云い条、司法官の癖に無智にも程がある。第一殺人狂なぞいう精神病がこの世の中に存在すると思っているからして人を馬鹿にしているじゃないか。人を殺したからといって、すぐに殺人狂だなぞいうのは故殺と謀殺とを一緒にするよりも非道ひどい間違いだぜ」
「それはそうで……」
「そうだとも……君なぞはっくに気が付いているだろうが、精神病鑑定の参考材料としてその発病前後の言動が如何に有力なものであるかという事は、ちょうど犯罪検挙に於ける嫌疑者の犯行前後に於ける言動と同様だという事を、今の学者は一人も知らんから困るのだ。精神病者というものは、いくらキチガイだからといって、決して無茶苦茶な乱暴の仕方をするものでない。その発病のキッカケとなった刺戟、心理遺伝の内容、精神異常状態の深さ等によって、キッチリとした筋道を立てて、いろんな脱線をして行くもので、そのかんすこしの誤魔化ごまかしもないから、普通人の犯罪の跡なんぞよりもずっと合理的で順序が立っている。ことに人でも殺したとなると、その兇行の前後の様子は、普通の犯罪以上に有力な参考として見なければならぬ」
御尤ごもっともで……初めて伺いました」
「この理屈を知らないもんだから、人を殺すと、イキナリ殺人狂なぞいう名前をつける。二人も殺すと尚更なおさら間違いないことになるんだ。……成程なるほど人を殺したという結果から考えると、殺人狂とでも云えるかも知れないが、その殺人狂が寒暖計の代りに人間の頭をタタキ割ったものとしたらどうだい。ハハハハハハ。それでも殺人狂と名づけ得る学者があったらお眼にかかるよ。……精神病者から見ると自分以外の存在は、人間でも、動物でも、風景でも、天地万象の一切合財がみんな影法師か、又は動く絵ぐらいにしか見えない場合がある。たとえば赤い絵具が欲しいという慾望が起れば、その精神病者は他人の頭をタタキ割るのも、赤いアルコール入りの寒暖計をブチ壊すのも同じ事に心得ているのだからね。その真実の目的が、赤い液体を手に入れて赤い花の絵を描きたいためであったと解れば、決して殺人狂なぞいう名前はつけられないであろう。だから吾輩の眼で見ればこの少年の兇行も、目的はほかにあると思う。換言すれば、この少年を支配している心理遺伝の内容次第だ」
「御尤もで……実は私も、そんな事ではないかと思いましたので、これは全然私の畠ではない、先生の御領分と存じまして、かように御参考用として、関係書類を全部持参致しました訳で御座いますが……それに尚、今一つ……この事件に関する疑問の最後の一点だけが、当然私の受持になっておりますので、その点に就て特に御援助を仰ぎたいために、今日実はお伺い致しました次第で……」
「フーム。何だか話が恐しく緊張して来たね。何だいその最後の一点というのは……」
「ハイ……それはこの絵巻物を使って呉一郎に暗示を与えた人間……」
「アッ……ナルホドね。そんな人間がもし居るとすれば、其奴そいつはトテモ素晴しい新式の犯罪者だよ。たしかに君の受持だね。そいつを探り出すのは……」
「さようで……けれども、この一点が今のところではカイモク判りませぬために、事件の全体が隅から隅まで、神秘の雲に奥深く包み込まれた形になっておりますので……」
「それあそうだろうさ。心理遺伝に支配された事件は大抵神秘の雲に包まれたっきり、わからず仕舞じまいになるのが、昔からの吉例になっているんだからね。新聞に出た奴だけでも、どれ位あるか判らん」
「しかし……私が考えますと、今度の事件に限っては、その神秘の雲を破り得る可能性がありますようで……と申しますのは外でも御座いませぬ。その最後の疑問の一点というのは、必ずやその少年の記憶の底に……」
「ヤッ……わかったわかった。重々相判あいわかった……つまりその少年の精神状態を回復さしたら、その絵巻物を見せてくれた人の顔や姿を思い出すだろう……だからその記憶を探し出す目的で、とりあえず精神鑑定をやってくれというのだろう」
「さようで……まことに恐入りますが、こればかりは、どうしても私の力に及びませぬので……」
「イヤ。わかったわかった。重々相わかった。流石さすがは一代の名法医学者だ。よいところへお気が付かれました……かね。ハハハハ。イヤ引受けた。たしかに引受けた」
「ドウモ……まことに……」
「ウンウン。心得た心得た。万事心得た。最早もうこの事件をスッカリ頭から取り去て悠々自適のうちにビタミンを摂取したまえ……イヤ、ビタミンといえば、どうだい一ツ今から吉塚へうなぎを喰いに行かないか。久振りに一杯……といっても、飲むのは吾輩だけだが……まあいいや。この事件に対する君の慰労の意味で……」
「ハイ、それはどうも……しかし、その少年の精神鑑定にはいつ頃御出張願えましょうか。私から裁判所へ通告致しておきますが……」
「ウン。それあいつでもいいよ。何も面倒な事じゃない。その少年のつらをたった一目見ただけで、コレは殺人狂でも偽狂でも御座らぬ。しかし、なお細かい鑑定のために入院させる必要が御座るというので、この精神科へ連れてくる手筈が、今からチャンときまっているから他愛たあいないね。若林博士の評判地に落ちるに反して、正木の名声隆々たりかネ……ハハハハハハ」
「恐れ入ります……ではこの書類はどう致しましょうか」
「……ア……そいつは吾輩が預かるんだっけね。ハテ、どうしようか……ウン。いい事がある。こちらへよこし給え……このストーブの中へほうり込んで、こうして蓋をしておこう。今年の冬までは火をく気遣いないからね。お釈迦しゃかア様アでも気が付くめえ……と来やがった……」
「ハア……それは何の声色こわいろですか」
「声色じゃない。謡曲勧進帳の一節だ。法医学者の癖に何も知らないんだナア君は。アハ……」――【溶暗】――

 オーヤオーヤ……ナアーンのコッタイ……。天然色浮出うきだし発声活動写真が、とうとう会話ばかりになってしまった。これじゃ下手なラジオか蓄音機と一緒だ。活弁もやって見るとナカナカ楽じゃないね。一々「御座います」とくっ付けるだけでも大変なお手数だ。ツイ面倒臭くなって「御座います」を抜きにしようとするもんだから、こんな事になるんだが……。おかげで少々くたびれたから今度は一ツ「御座います」抜きの「説明らず」という映画を御覧に入れる。否……「説明要らず」どころではない。「スクリーン要らず」の「映写機要らず」の「フィルム要らず」の……これを要するに「何もも要らずの映画」と云っても差支ないという……とても独逸ドイツ製の無字幕映画なぞいう時代遅れな代物しろものが追付く話ではない。……というのはどんなシロモノかと云うと、種を明かせば何でもない。すなわち今の若林君が、吾輩に引渡して、吾輩がからストーブの中にほうり込んでおいた一件の調査書を、吾輩が後から読んで要点だけを抜書きにして、自分一個の意見を書き加えた所謂いわゆる抜萃の各ページを、一枚ごとに順序をうて、映画として御覧に入れるのだ……というと又、ドエライ手数がかかるようだが、実は何でもない。ただ、その抜萃の原本を、この遺言書のココントコへ挿入しておくだけの手数で……エヘン……諸君もただ、それを読むだけで訳がわかるという……吾輩最近の発明にかかるトリック映画だ。今にこの式の映画が大流行をきたすと思うから、何ならパテントをお譲りしても宜敷よろしい。御賛成の諸君がありましたら……ハイ只今……一寸ちょっとお待ち下さい。
 実はこの抜萃記録は吾輩の「心理遺伝論」の中に挿入しようと思っていたものであるが、そんな論文の原稿は最前すっかり焼棄てたけれども、特にこの一部だけは残しておいたものだ。諸君は今迄吾輩が説明したところによって、現在天晴あっぱれの精神科学者を兼ねた名探偵となって御座るわけだから、その力でこの記録を読んで行かれたならば、徹底的にこの事件の真相を看破して、ギャフンとまいる位の事は、何の雑作もあるまいと思う。
 ……この事件は如何なる心理遺伝の爆発によって生じたものか? その心理遺伝を故意に爆発させた者が居るか居ないか。又、居るとすればどこに居るか。そうしてこの事件に対する若林と吾輩の態度はこの事件の解決に対して、如何なる暗示を投げかけているか……という風にね。併し、よっぽどしっかりとふんどしを締めてかからないと駄目だよ……なぞと脅かしておいて、その間に吾輩は悠々とスコッチをあおり、ハバナをくゆらそうという寸法だ……ハハン…………。


 ◆心理遺伝論附録◆…………各種実例

     その一 呉一郎の発作顛末
           ――W氏の手記に拠る――



     第一回の発作

◆第一参考 呉一郎の談話
▼聴取時日 大正十三年四月二日午后零時半頃。同人母にして、左記女塾の主人たる被害者千世子ちよこ(三十六歳)の初七日仏事終了後――▼聴取場所 福岡県鞍手くらて直方のうがた町日吉町二〇番地ノ二、つくし女塾の二階八畳、呉一郎の自習室兼寝室に於て――▼同席者 呉一郎(十八歳)被害者千世子の実子、伯母八代子(三十七歳)福岡県早良さわらめい浜町はままち一五八六番地居住、農業――(W氏)――以上三人――
 ――ありがとう御座いました。先生があの時「どんな夢を見ていた?」と尋ねて下さるまでは、僕はどうしてもあの夢の事を思い出さなかったのです。先生(W氏)のおかげで、僕は親殺しにならずに済みました。
 ――母を殺した者が僕でない事が皆さんにわかれば、僕はもうそれで沢山です。何も云う事はありません。けれども、その犯人をお探しになる参考になりますのなら、何でも尋ねて下さい。ずっと昔の事は母が話さずに死にましたから、僕が大きくなってのちの事しか知らないんですけど、お話して悪いような事は一つも無いと思います。
 ――僕は明治四十年の末に、東京の近くの駒沢村で生れたのだそうです。父のことは何も知りません。(註に曰く……呉一郎の生所は事実と相違せる疑あり。然れども研究上には別に差支えなきを以てここには訂正せず。)
 ――母は生れた時からこの伯母と二人で姪の浜に住んでいたそうですが、十七の年に、絵と刺繍を勉強するといってこの伯母の家を出たのだそうで、そののち、僕の父を尋ねながら東京へ行って、方々を探しているうちに僕が生れたのだそうです。「男ってものは、偉ければ偉いほど嘘をく」って母はよくそう云っておりましたが、大方、父の事をうらんでそう云ったのでしょう(赤面)。ですけど父の事を尋ねますと母はすぐに泣きそうな顔になりますので、大きくなってからは、あまり尋ねませんでした。
 ――けれども母が一所懸命で、父の行衛ゆくえを探しているらしい事は、僕にもよく判りました。僕が四ツか五ツの時だったと思いますが、母と一緒に東京のどこかの大きな停車場から汽車に乗って長い事行くと、今度は馬車に乗って、田圃たんぼの中や、山の間の広い道を、どこまでもどこまでも行った事がありました。一度眠ってから眼を醒ましたら、まだ馬車に乗っていた事を記憶おぼえています。そうして夕方、真暗まっくらになってから或町の宿屋へ着きました。それから母は僕を背負って、毎日毎日方々のうちを訪ねていたようですが、どっちを向いても山ばかりだったので、毎日毎日帰ろう帰ろうと言って泣いては叱られていたようです。それから又、馬車と汽車に乗って東京へ帰りましてから、山の中で馬車屋が吹いていたのと、おんなじのする喇叭らっぱを買ってもらった事を記憶しています。
 ――それから、ずっとのちになって、これは母が、父の故郷に尋ねて行ったものに違いないと気が付きましたから「あの時汽車に乗った停車場ステーションはどこだったの」と尋ねましたら母は又、涙を流しまして「そんな事を聞いたって何にもならない。お母さんは、あの時までに三度も、あそこへ行ったんだけど、今ではスッカリ諦めているから、お前も諦めておしまい。お前が大学を出る時まで、お母さんが無事に生きていたら、お前のお父さんの事を、みんな話してあげる」と云いましたから、それっきり尋ねませんでした。もうその時に見た山の形や町の様子なぞもボンヤリしてしまって、只、ガタ馬車の喇叭のが耳に残っている切りです。しかし、それからのち、いろんな地図を買って来まして、あの時に乗った汽車や、馬車の走った時間の長さを計ったりして調べて見ますと、どうしても千葉県か、栃木県の山の中に違いないと思うんです。エエ。線路の近くに海は見えなかったようです。けども汽車の窓の反対側ばかり見ていたかも知れませんから、ホントの事はわかりません。
 ――東京で住んでいた処ですか。それは方々に居りましたようです。僕が記憶おぼえているだけでも駒沢や、金杉や、小梅、三本木という順に引越して行きまして、一番おしまいに居た麻布の笄町こうがいちょうからこっちへ来たのです。いつでも二階だの、土蔵くらの中だの、離座敷はなれみたような処だのを二人で間借りをして、そこで母はいろんな刺繍をした細工物を作るのでしたが、それが幾つか出来上りますと、僕を背負おぶって、日本橋伝馬町の近江屋おうみやといううちに持って行きました。そうするとその家の綺麗にお化粧をしたおかみさんが、キット僕にお菓子をれました。今でもその家と、お神さんの顔をおぼえております。
 ――母がその時に作っていた細工物の種類ですか? サアそれはハッキリおぼえませんけども、神様の垂れ幕だの、半襟だの、袱紗ふくさだの、着物の裾模様だの、羽織の縫紋ぬいもんだのいろんなものがあったように思います。それをどんなにして縫っていましたか……どれ位のお金で売れていたか、その時はまだチッチャかったものですから、一つもわかりませんでしたけれども……たった一つ、今でもハッキリ記憶おぼえておりますのは、東京から直方こちらへ来る時に、母が近江屋のお神さんに遣りました小さな袱紗の模様です。それは薄い薄い、向うが透かして見えるような絹一面に、いろんな色と形の菊の花を刺繍した、とてもとても綺麗なもので、毎日指の頭ぐらいずつしか出来ませんでしたが、それが出来上ったのを持って行って僕の手からお神さんに遣りますと、お神さんはビックリして、大きな声で家中うちじゅうの人を呼びましたが、みんな眼を丸くして感心しながら見ておりました。あとから聞きましたら、それは真物ほんものの「縫いつぶし」といって、今の人が誰も作り方を知らない昔の刺繍だったのだそうです。それからそのお神さんの御主人が母にお金をれたようでしたが、お辞儀をして返して、お菓子だけ貰って帰りました。母とお神さんがいつまでも門口に立って泣いているので、僕は困ってしまいました。
 ――東京から直方こちらへ来たわけは、母が卜筮うらないを立てたんだそうです。「狸穴まみあなの先生はよく適中あたる」って云っていましたから大方、その先生が云ったのでしょう。「お前達親子は東京に居るといつまでも不運だ。きっと何かに呪われているのだから、そのやくを落すためには故郷へ帰ったがいい。今年の旅立ちは西の方がいいとこの通り易のオモテに出ている。お前は三碧木星さんぺきもくせいで、菅原道真や市川左団次なぞと同じ星廻ほしまわりだから、三十四から四十までの間が一番災難の多い大切な時だ。尋ね人は七赤金星しちせききんせいで、三碧木星とは相剋だから早く諦めないと大変な事になる。双方の所持品もちもの同志でも近くに置くとお互いに傷つけ合おうとする位で、相剋の中でも一番恐ろしい相剋なのだから、忘れても相手の遺品かたみなぞを傍近くに置いてはいけない。そうして四十を越せば平運になって、四十五を越せば人並はずれたいい運が開けて来る」と云ったんだそうです。それで僕が八ツの年に、こっちへ来たのだそうですが、「ホントにその通りだ。私は天神様や何かとおんなじ星廻りだから、文学や芸術事が好きなのだろう」って母は何遍も塾生に話して笑っていましたので、僕はそんな云い草をスッカリそらでおぼえてしまったのです。……でも七赤金星の話は僕ばかりにしかしなかったそうで、誰にも話してはいけないと口止めされていたのですけども……。
 ――母は直方こちらへ来ると間もなく、このうちを借りて塾を開きました。生徒はいつも二十人位なのを、夜と昼の二組にわけて下の表の八畳で教えていましたが、大変にいい処のお嬢さん方が見えると云って母は喜んでいました。けれども母は気が短かいので、よく生徒を叱りました。又よく無頼漢ならずものや不良少年見たような者が生徒をからかいに来たり、母を脅迫おどかしてお金を強請ゆすったりしましたが、そんな時も母は一人で叱り付けて追い払いました。……ですから、このうちの中に這入って来た男の人は家主のお爺さんと、中学時代の僕の受持の鴨打かまち先生と、電燈工夫ぐらいしかありません。そのほかには、母へ手紙が来た事もなければ、こっちから出した模様もありません。あんなに懇意だった近江屋のお神さんにも便りをしなかったようで、何でもかんでも自分の居所を人に知られるのを怖がっていたようです。その理由わけは何故だか、僕にも話しませんでしたけれども、大方狸穴の占者せんせいの云った事を本当にし過ぎて、誰かが自分を狙っているように思ったのじゃないかと思います。母は迷信家ではありませんでしたが、狸穴の先生だけは真剣に信じていたようですから……。
 ――けれども僕は本当の事を云いますと、この直方のうがたを好きませんでした。それは東京からこっちへ来ます途中で、身体からだの具合がわるかったせいか、汽車にヒドク酔いまして、あの石炭の煙のにおいが大嫌いになってしまいましたのに、こっちへ来ますと、そこら中が炭坑だらけで、朝から晩までそんな臭いばかりするからだろうと思います。けれども、母が折角いい処だと云って喜んでおりましたから、仕方なしに我慢しておりました。そうするとそのうちに慣れてしまって、汽車にも酔わなくなりましたけれども、空気の悪いのと、石炭の臭いだけはシンから嫌でした。それから学校に這入りますと、生徒の言葉が色々になっていて乱暴でわからないので困りました。日本中から集まった人の子供がいるんですから……。
 ――それに又、僕は小さい時から方々を引越していたせいか、友達がすくないのです。こっちへ来ましても学校友達はあまり出来ませんでしたが、そのうちに中学の四年になりますと、すぐに一所懸命の思いをして、福岡の六本松の高等学校へ這入りましたら、空気がトテモ綺麗で見晴しが素敵なので嬉しくて嬉しくてたまりませんでした……エエ……そんなに早く試験を受けましたのは直方のうがたが嫌いだったからでもありますけど、ホントの事を云いますと、早く大学が卒業したかったんです。そうして母と約束していた父の話を出来るだけ早く聞いてみたいような気持がして仕様がなかったのです……母にはそんな事は云いませんでしたけれども……中学へ入る時もそうだったのです。何故っていうわけはありませんでしたけども……そうしてやっと文科の二年になったばかしのところです(赤面、暗涙)。
 ――ですけど不思議なことに、母は試験が出来ても、あまり嬉しそうな顔をしませんでした。これはずっと前からそうでしたけど、母は僕が勉強をして成績がよくなるのは何とも云いませんでしたが、成績が貼出されたり、僕の名前が新聞や雑誌に載ったりするのはしんからきらいだったらしいのです。僕もそんな事は好きませんでしたので、学校の規則で成績品を出さなければならない時には、母がわざわざ僕を連れて「なるたけ隅っこの人眼につかない処へ出して下さい」と先生の処へ頼みに行った事もある位です。先生の方では「なかなか奥床おくゆかしい方だ」なぞ云って母を賞めていましたけれども、母の方は奥床しいどころでなく真剣に嫌がっていたようでした。高等学校へ這入る時も、僕の名前が福岡の新聞に出るのを無暗むやみに心配しているようでしたので「そんなら東北かどこか遠方のつまらない私立の専門学校か何かを受ける事にして、そこへ僕と一緒に、引越したらどうです。そうすれば福岡の新聞には出ないかも知れませんよ」と云いましたら、暫く考えてから「お前はどうしても大学へ入れなければならないし、これだけの塾生を見捨てるのも惜しいから」と云って、とうとう福岡を受ける事に決めました。けども、それでも「福岡には不良少年や不良少女がタントいるから、無暗に寄宿舎から出てはいけない」とか「途中で知らない人から話かけられても無暗に口を利いてはいけない」なぞと云って聞かせておりましたが、今から考えますと、やはりあの狸穴まみあなの先生が云った事は適中あたっていたので、母は何か人に、つけ狙われるような憶えがありましたために、自分達の居所をできるだけ隠そうとして、いろいろと気をんでいたのだろうと思います。
 ――学校に居る間は寄宿舎に這入っていましたが、土曜の晩から日曜へかけてはキット直方へ帰って来ました。休暇の間もずっとうちに居て毎朝すこし早く起きて母の手伝てつだいをしたり何かしましたが、その代り夜は九時か十時頃に寝るのでした。母はずいぶん気の強い女で、人気にんきの悪い直方に住んでいながら、僕の居ない時はたった一人でこのへやに寝るのでしたが「朝は八時半頃からボツボツ生徒が来るし、夜は十一時頃まで休む間もないから、ちっとも淋しいとは思わない。勉強のせわしい時なぞは無理に帰って来なくてもいいよ」なぞとよく云っておりました。
 ――ついこの頃になっても別にかわった事はありませんでした。ただ、去年の夏でしたか、母が刺繍材料の包み紙になって来た亜米利加アメリカの新聞を持って来て「これは何という人か」と尋ねますので、そこの処の記事を読んで見ましたら、ロンチェニーという活動俳優が扮した道化役ピエロだとわかりましたので、母はつまらなさそうに「フン。そうかい」と云って降りて行きました。その時に僕の父は、あんな顔をした人間で外国に居るのだなと思いましたから、その写真は細かい処までよく記憶おぼえています。チョット見ると大きなお蚕様かいこさまみたような顔でしたから、私はソッと下へ降りて、六畳に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗いて見ましたが、ちっとも似ていませんでした(赤面)。
 ――あの晩も別に変った事はありませんでした。僕はいつもの通り九時頃に寝てしまいましたが、母がやすんだのは何時頃だったかおぼえません。いつもの通りなら十一時頃に寝たのでしょう。
 ――それから、これは警察では云いませんでしたが、あの晩僕は夜中に目を醒しました。こんな事は今まで滅多になかったのですから、話して疑われるとつまらないと思いましたから……何だかわかりませんけれども、ゴトーンと大きな音がしたように思いましたから、フイと目を醒しましたが、真暗でわかりませんので、寝しなに枕許に近づけておきましたこの電気をひねって、読みさしたままの書物の下になっている腕時計を見ますと、一時に五分過ていました。……それからお小用こように行こうと思って起上りがけに、こっちを向いてスヤスヤ眠っている母の顔を何の気もなく見ますと、口を少しいて、頬が真赤で、額が瀬戸物のように真白く透きとおっていて、不思議なくらい若く見えました。恰度ちょうど、家に来る大きい生徒位にしか見えませんでした。それから下に降りて用を足して、六畳と八畳の電燈をつけて見ましたが、何も変った事はありません。最前さっき、ゴトーンといったのは何だったのか知らんと考えて見ましたが、もしかしたら僕の思違いかも知れないと思いましたから又、二階に上って来て母の顔を見ますと、もう向うを向いて布団に潜っていて、櫛巻くしまきの頭だけしか見えませんでした。僕はそれから、すぐに電燈を消して寝ましたが、母の顔はそれっきり見ません。
 ――それから警察署で先生(W氏)にお話しましたように変な夢ばかり見ていたのです。僕は夢なんか滅多に見た事はないのに、あの晩はホントに不思議でした。イイエ。人を殺すような夢は見なかったようですけど、汽車が線路かられてウンウン唸りながら僕を追っかけて来たり、巨大おおきな黒い牛が紫色の長い長い舌を出してギョロギョロと僕をにらんだり、青い青い空のまん中で太陽が真黒な煤煙すすをドンドン噴き出して転げまわったり、富士山の絶頂が二つに裂けて、真赤な血が洪水のように流れ出して僕の方へ大浪を打って来たりして、とても恐しくて恐しくてたまりませんけど、何故だか足が動かなくなって、いくら逃げようとしても逃げられないのです。そのうち家主おおやさんの養鶏所からとりき声が二三度きこえたように思いましたが、それでも、そんな恐しい夢が、あとからあとからハッキリと見えて来ますので、どうしても醒める事ができません。ですから一所懸命になって苦しがって藻掻もがいておりますと、そのうちにやっとの思いで眼を開ける事が出来ました。
 ――その時にはもう、この窓の格子が明るくなっておりましたから、僕はホッと安心しまして、起上ろうとしますと、頭が急にズキンズキンと痛みました。それと一緒に口の中が変に臭いようで、胸がムカムカして来ましたので、これはきっと病気になったんだと思って又寝てしまいました。その時はちょっとのつもりでしたが、今度は夢も何も見ずに、汗をビッショリ掻いて、グーグー睡っていたようでした。
 ――すると又そのうちに、誰だかわかりませんが不意に僕を引きずり起して、右の手をシッカリと押えつけて、どこかへ連れて行こうとする者がいます。僕は寝ぼけたまま、やはり夢を見ているのかと思って、振り放して逃げようとしますと、又一人誰か来て、僕の左手を押えてズンズン梯子段はしごだんの方へ引っぱって行きました。その時にやっと気がついて振り返って見ますと、背広を着た人と、サアベルを引きずった巡査とが母の枕元にかがまって、何か調べているようでした。
 ――それを見ると僕は、キット母が虎烈剌コレラか何かにかかったのに違いない。そうして僕も同じ病気になっているから、こんな身体からだの具合が変なのだろうと半分夢うつつのように思い思い、二人の男に引っぱられて行きましたが、その時の苦しかった事はいまだに忘れません。何だか身体中が溶けるようにるくって、骨がみんな抜け落ちそうで、段々を一つ降りるごとに眼の前が真暗になって、頭の中が水か何ぞのようにユラユラして痛みます。それを立止まって我慢しようとしますと、下から急に片手を引っぱられましたので、思い切って転がるように段々を降りて行ったのですが、その途中でヒョイと顔を上げますと、階子段はしごだんに向い合った頭の上の手摺てすりから、私の母の色の褪めた扱帯しごきが輪の形になってブラ下がっているのが眼に這入りました。
 ――けれどもその時は、それが何故そうしてあるのか考える力もありませんでしたし、そのうちに又附いている男からヒドク小突かれて眼がくらみそうになりましたので、そのまま勝手口に来て、母が平生穿ふだんばきにしておりました赤い鼻緒はなお下駄げたを穿いて横路次に出ました。その時に、もしや母はもう死んでいるのじゃないか知らんと思いましたから、ハッとして立止って左右を見ましたら、両手を押えている男というのは、顔だけよく知っている直方署の刑事と巡査で、怖い顔をして僕を睨みつけながら、グングン両手を引張って行きましたから、何も尋ねる事はできませんでした。
 ――往来はまぶしい程日が照っていましたが、家の前には大勢の人がたかっていて、僕が出て行きますと一斉にこっちを見ました。近くにいる人は逃げ退いたりしましたが、僕はそんな人達の黄色く光っている顔を見ますと、又、眼がまわって倒れそうになりました。それと一緒に、頭の中がシインと痛くなってきそうになりましたので、ひたいを押えようとしましたが、両手を押えられているので何も出来ません。その時に母は病気じゃない。殺されるかどうかしていて自分にうたがいをかけられているのだなと思いましたから、そのまま温柔おとなしく引かれて行きました。
 ――僕はその時にキット頭がどうかなっていたのでしょう。ちっとも悲しくも恐ろしくもありませんでした。けれども身体中が汗だらけで、背中や腰のまわりがビショビショになった白い浴衣の寝巻き一枚しか着ていませんでしたので、たまらない程ゾクゾクしました。その上に、頭の上から照りかかる太陽の光りが、変に黄臭きなくさいような、息苦しいような感じがして気が遠くなりかけたり、口の中がなまぐさくて嘔きそうになったりしましたので、時々眼をあけて、キラキラ光る地面じべたを見ながら、唾を吐き吐き歩きました。そうしたら、やっぱりお医者の処へ行くのじゃなくて警察の方へ曲って行きましたので、急に胸がドキドキしましたが、警察の入口の段々を上ると又、スッカリ落付いてしまいました。そうして何だか自分の事を書いた探偵小説を読んでいるような、夢見ているような気持になって、汚ならしい床板を見つめておりますと、不意に僕の背後うしろで大きな声が聞えましたから、ビックリして振向きますと、それは僕を連れて来た刑事が怒鳴どなったので、あとからいて来た大勢の人が警察の中へ這入ろうとするのを叱っているのでした。その中には知っている顔もあったように思いますが、誰だったかはっきり記憶おぼえません。
 ――僕はそれから、奥の方にある狭いへやで、木製のバンコ(九州地方の方言。腰掛の事)に腰かけさせられて、巡査部長や刑事から色々な事をかれました。けれども、頭が割れるように痛んでいましたのでどんな返事をしたかスッカリ忘れてしまいました。「嘘だろう嘘だろう」って何遍も云われましたから「嘘じゃない嘘じゃない」と云い張った事だけは記憶おぼえていますけれど…………。
 ――そうすると間もなく、この直方の町中で知らない人はない「わに警部」と綽名あだなのついている谷警部が這入って来まして、ダシヌケに「お前の母親おふくろは殺されたんだぞ」と云いました。その時に僕は急に胸が一パイになって、どんなに我慢しても、声を立てて泣かずにはいられないような気持になりましたのを、一所懸命に我慢をして涙を拭いておりますと、暫らく黙っていた谷警部は「お前が知らない筈はない」と云って僕の前にある汚い木机の上に何か投げ出しました。それは母がいつも寝床の上に置いて寝る平生着ふだんぎの帯締めで、紫色の打紐うちひもに、鉄の茄子なすが附いているのでした。何でもよっぽど古いもので、母が故郷を出る時から締めていたのだそうですが、しかし、それがどうしたのか、よく解りませんでしたから俯向うつむいていますと「お前はこれで母親を締め殺したんだろう」と谷警部がかみなりのような声で怒鳴りました。アンマリ非道ひどいので僕はカッとなって、思わず立上って谷警部を睨みつけましたが、その時に又、頭が割れるように痛んで嘔き気がつきましたので、机の上に両手をついて、身体からだをブルブル震わして我慢していました。けれども口惜くやしくて口惜しくて涙がポロポロ出て来るのを、どうしても止める事が出来ませんでした。
 ――谷警部はそれから又、いろんな事を云って僕を責めました。この警部はここいらの炭坑中の悪党が「鬼」とか「鰐」とか云って怖がっているのだそうですが、僕は何ともありませんでしたから、黙って聞いておりますと……今朝八時半頃、いつもの通り塾生が二三人お稽古に来たが、いつになく裏表の戸がまっているのを見て、裏の家主おおやさんに知らせた。それで家主のお爺さんが勝手口の戸の隙間すきまから大きな声で呼んでみたが、どうしても起きない。そのうちに勝手口の方へ降りて来る階段の昇り口の処に白い足が二本ブラ下がっているのが薄明ほのあかるく見えたので、お爺さんは真青になって警察へ駆込んで来た。……それから警察の人が行って見ると、勝手口の突かい棒が落ちているのが一番先に解った。それから二階に上ろうとすると、母が寝巻一つのまま階段の上の手摺に細帯を結んで、それに首を引っかけて手足を垂らしているのが発見されたが、お前はそんな事は知らないような風に、床から半分脱け出して大の字になったままグーグー寝ていた。しかし母親の屍体を調べて見ると、首の周囲まわり疵痕きずあとは細帯と一致しないし、寝床も取り乱してあるしするのだから、たしかに絞殺した後で首をくくったように見せかけたものに違いない。又うちの中には何も盗まれたような跡が無いようだし、外から人が這入って来た様子もないから、お前よりほかに怪しい者はいない事になる………。
 ――それからまだある。お前の母は寝床の中で絞殺しめころされがけに随分苦しんでいるらしく、その絞めた疵痕が二重にも三重にもなっている位だから、横に寝ているお前が眼を醒さない筈はない。第一お前は平常いつもと違って三時間以上余計に朝寝をしていたのはどういう訳か。絞め殺しておいて胡魔化ごまかすつもりで寝ていたのが、つい寝過したのじゃないか。お前はほかに、お前を好いている女がいるのじゃないか。それとも塾生の中にお前が好いている娘がいて、その事にいて母親と喧嘩したのじゃないか。母親にお金を強請せびったのじゃないか。毎月小遣こづかいを幾ら貰っているか。一体あれはお前の本当の母親なのかどうか。情婦を親に見せかけていたのじゃないか。スッカリ白状し給え……なんて飛んでもない事を色々と云いかけるのです。……ですけれども、僕はそんな事を聞いているうちに、頭がしびれたようになりまして、それじゃ人間てものは自分でも知らない間に、人を殺すような事がホントウにあるのか知らん。僕は夢うつつのうちに母親を殺して忘れているのじゃないかしら……なぞとボンヤリ考えたりしながら、俯向うつむいておりますと「そんならここで考えていろ」と留置場に入れられました。
 ――それからその日と、その晩の一夜は何も喰べずに眠ったり醒めたりして、あくる朝の御飯も頭が痛むのでそのままにしていましたが、あんまりお腹がいて来ましたので、お昼のを頂きますと大変にお美味いしくて頭の痛いのがすっかりなおりました。それから夕方になりますと、僕の母ソックリの女の人が面会に来ましたのでビックリしましたが、それはこの伯母でしたので、僕は生れて初めて会った訳なのです。その時にこの伯母も先生(W氏)と同じ事を云いました。「何か夢を見ていやしなかったか」って……。けれどもその時はどうしても思い出せなかったものですから、何も知らないと答えました。……でも麻酔剤をがされていた事なんか、ちっとも知らなかったものですから……。
 ――あくる日になると先生(W氏)がおでになるし、中学にいた時の僕の受持ちの鴨打かまち先生も会いに来て下さいました。その又あくる日になったら裁判所からも人が来て親切にいろんな事を聞いたりして何だかゆるされそうなので、僕は母がどんなになっているか、見に行きたくてたまりませんでしたが、一昨日おととい帰って見ますと、母の遺骸からだはもう火葬にしてありましたのでガッカリしました。僕のうちには写真が一枚もないので母の顔はもう見られないのです。けれども明日あしたはこの伯母が、僕をめいはま自宅うちに連れて行ってくれると云いますし、モヨ子っていう従妹いとこもいるそうですから、そんなに淋しくはないだろうと思います。
 ――僕が一番好きなのは語学ですが、そのうちでも一番面白いのは外国の小説を読むことで、特にそのうちでもポーと、スチブンソンと、ホーソンが好きです。みんな古いって云いますけど……今に大学に這入ったら精神病を研究してみようかとも思っている位です。ホントウは文科に入って各国の言葉を研究して、母と一緒に父の行衛ゆくえを探しに行きたいと考えていましたが、父の事に就いては母が極く少しばかりしか話さずに死んでしまいましたのでガッカリしています。その外に、今のところでは、どんな者になろうとも思っておりません。国語や漢文も嫌いではありませんが、中学を出たのちにはわざわざ勉強しようとは思いませんでした。その次に好きなのは歴史と博物で、つまらないと思ったのは地理と物理と数学でした。一番できないのは唱歌ですが、それでも聴くのは大好きです。いい西洋音楽のレコードを聴いたりしますと、名画を見ているような気持になります。民謡なぞも母が機嫌がいいと、よく塾生と一緒にうたいましたから、いなあと思って聞いていました(赤面)。
 ――僕は今迄に病気した事は一度もありません。母も寝たことはないようです。
 ――僕はこれから、警察へ訪ねて来て下すった鴨打先生の処へお礼に行きます。

◆第二参考 呉一郎伯母八代子の談話
 ▼同所同時刻に於て、呉一郎が外出後――

 ――まったく何もかも夢のようで御座います。一郎あれは私の妹の子に相違ちがい御座いません。眼鼻立ちが母親に生きうつしで、声までが私共の父親にそっくりで御座います。
 ――ずっと古い昔の事は存じませぬが、私の家は代々めいはまで農業を致しておりました。私共姉妹きょうだいは母に早く別れましたが、父も私が十九の年の正月に亡くなりましたので、家の血統ちすじは私と、この妹(位牌いはいをかえり見て)の千世子と二人切りになってしまいました。それで、その年の暮に私は、亡くなりました夫の源吉を迎えますと間もなく妹は「東京へ行って絵と刺繍ぬいとりの稽古をして、生涯独身で暮すから構わないでくれ」という置手紙をして家を出ました。それが明治四十年の新の正月頃の事で御座いましたが、その後、福岡で妹を見かけたという人もありましたけれどもハッキリした事はわかりません。やはり全く絵と刺繍ししゅうが好きなためで御座いましたろうと思います。一郎が申しますように、人並はずれて勝気な娘で、十七年の年に県立の女学校を一番で出た位で御座いますが、何か始めますと夢中になる性質たちで、夜通し寝ないで小説を読んだり、絵をいたりする事がよく御座いました。ことに刺繍ぬいとりは小学校にいました時から好きで、夕方暗くなりましても縁側に出て、図画用紙にお寺のふすまの絵を写して来たのを木綿の糸屑で縫っている位で御座いましたから、私が夫を迎えたのを見澄みすましてその方の稽古をねんがけて行ったものと存じます。今から思いますとその時が今生こんじょうのお別れで御座いました。もっとも、田圃たんぼや畑の荒仕事を嫌いますので、よく留守番をさせましたが、私の家は門の処から町並では御座いますし、出入りもかなりに多い方で御座いましたから、別に可怪気おかしげない事を仕出かして出て行ったものとも思われませぬ。
 ――それからのちの妹のたよりは、明治四十年の暮に、東京の近くの駒沢村という処で、一郎という男の子が生れましたといって、村役場から知らせて参りましただけで御座います。その時もすぐに警察にお頼みして捜して頂きましたが、届出てあった所番地の家は、ずっと前から貸家になっておりましたものだそうで、なお、念のために私が出しておりました手紙も戻って参りましたので力を落しました。一郎が小学校へ入学致しました時の戸籍の書類かきつけなぞはどうして取りましたものかわからないままに全くの音沙汰なしになっておりました。そうして私が二十三になりました年の正月に夫と別れますと間もなく、今居りますモヨ子と申します娘を一人生みましたから、それから後は娘と二人切りで暮しておりました。
 ――今度の事を新聞で見ました時は夢心地で馳付けて参りました。いろいろお調べを受けましたが、只今の通りお答を申上げておきました。
 ――初めて一郎を見ました時は思わず涙が出ました。その時に夢の事を尋ねましたのは、私の処に居ります若い者が読んでおりました活動の話に、夢遊病の事が書いて御座いましたからです。何か西洋あちらの事で、私どもにはよく解りませぬけれども、夢遊病にかかってした事なら罪にならぬから、これから夢遊病の真似をして悪い事をしようか……なぞ若い者が申して笑っておりましたから、その事を思出しまして、もしやと思って尋ねて見たので御座いますが、女の癖に差出がましいとは存じましたけれども助けたいが一心で御座いましたから(赤面)。おかげ様で一郎が元の潔白な身体からだになりますばかりでなく、妹にも久しく不品行ふしだらな事が御座いません事が、亡骸なきがらをお調べ下さいましてから、お判りになりましたとの事で、これがせめてもの心遣こころやりで御座います。……で御座いますから私はここで立派に法事を営みましてから、お世話になりました皆様へも、世間並の御挨拶をして立ちたいと思います。
 ――昨日きのう、東京の近江屋おうみやの御主人からお香奠こうでんに添えてこのようなお手紙(略)が参りました。「宮内省のお役人から、お装束の修繕つくろいがさせたいからと頼まれて、妹の行衛ゆくえを探しているところへ、警察から人が来られたので、初めて知ってビックリした」と申して参りましたが、その手紙の様子で見ますと妹が色々と身の上話をお聞かせしたその奥様は、もう亡くなっておられるようで御座います。妹もせめて今少し生きておりましたならば、よい目に逢ったかも知れませんが……何のうらみか存じませぬが、このようなひどい事を致しました者が捕えられましたならば、ざきにしてやりたい位に思います(落涙)。
 ――私の家は只今のところでは遠い親類しか居りませぬので、只今では親身の者と申しましては娘と私と二人切りで御座います。一郎はこれから私の子供分に致しまして、私の力一パイ立派な人間に育て上げて行きたいと存じますが……父無子ててなしご位牌子いはいごをたよりに、暮すことを思いますと……(涕泣すすりなき)。

◆第三参考 松村マツ子女史(福岡市外水茶屋みずぢゃや翠糸女塾すいしじょじゅく主)談
 ▼同年同月四日 玄洋新報社朝刊切抜抜萃再録

 ――その刺繍の上手なお嬢さんが、この翠糸女塾に通っていたのは、もう二昔前の日露戦争頃の事で、私が三十代の時ですから、詳しい事は判りませんねえ。エエ、通っていた事はたしかですよ。その頃が十七か八位でしたろうかねえ。ちょっと眼立たぬ風をしておられましたが、小柄なキリリとした別嬪べっぴんさんで、名前は虹野にじのミギワさんと云いました。イイエ、間違いはありません。珍しい名前ですからよく憶えております。又今お話しになりました「縫い潰し」なぞいう刺繍のできる人は虹野さんより外に見た事がありません。
 ――虹野さんの作品は私の処には一つも残っておりません。その頃はまだ、そんな贅沢なものの値打ちが判りませんでしたので手間損だったのです。たった一度、二月ふたつきばかりかかってこしらえた五寸四方ばかりの小袱紗こぶくさを、私の塾の展覧会に出した事がありましたが二十円という値段付けだったので売れ残ってしまいました。今あったら大変なものでしょう。私も習っておけば良かったと思います。虹野さんはそんな風に技術しごとが良かった上に、小野鵞堂がどうさんの字をお手本よりもズッと綺麗に書きましたので、私の弟子の刺繍に使う字をよく書いてもらいました。絵も却々なかなか上手で、私の処にある下絵の中でも良いのは大抵写して行かれました。けれどもかれこれ半年余りかよって来たと思うとパッタリ見えなくなりました。エ……その時姙娠の模様は見えなかったかって……いいえ、小柄な方でしたから直ぐに判る筈ですが……その色男が虹野さんを棄てて逃げたのですって? ヘエー左様ですか。ヘエー……。
 ――その頃住んでいた家ですか。サア、それは存じておればですが……その頃いた生徒はみんなもう四十近くのお婆さんになっているんですからネエ。ヘヘヘヘヘ。マア、その男が虹野さんを殺したらしいんですって。……おおわ! あんな別嬪さんを、まあおしいこと……そういえば思い当る事があります。誰にも仰言おっしゃっては困りますがね。虹野さんは大変な男喰いで、大学生の中でも失恋させられた人が二三人あったそうですよ。もっともこれは噂だけですがね。その頃の虹野さんのうちもどこか判らず、東から来たり西から来たり、帰りがけもその通りで、誰も本当のうちを知っているものはありませんでしたよ。私の塾には品行の悪い人は一切入れませんでしたが、そんな風でどこが悪いといって取り止めた事は一つもなかった上に、本人がシッカリした風で仕事が上手だったもんですからね。いいえ写真なぞもありません。けれどもその頃の怨みにしちゃ、チット古過ぎますわねえ。ホホ……。
 ――ヘエッ、それがあの有名な迷宮事件の呉さんですって?……マアどうしましょう。どうして虹野さんが、呉さんという事が判ったんですか。ヘエ、東京の袋物屋のお神さんに身の上を話していた。只、男の名前だけが判らない……ヘエ、そうですか。どうぞこの事は内証にして下さい。云々。

▲附記 呉一郎の第一回の発作に関する事件記録の要点は前掲三項の断片に残らず包含されおるを以て詳細は省略す。但、第三参考「松村女史の断片」は、余の所謂いわゆる「呉一郎の第一回発作」の参考としては全然不必要の範囲に属するも、この記録を作製したるW氏の主張を尊重する意味に於て、且又かつまたがい事件に関する司法当局の探査方針、及び当時の各新聞の記事が暗黙のうちにW氏の意見に影響されつつありし証左としてここに掲ぐるものなり。

 ◆右に関するW氏の意見摘要

 余(W氏)は初め、この事件に関する報道を新聞紙上に発見するや、極めて稀に存在する夢遊病の好適例にあらずやと思惟しいして出張したるところ、この直方のうがた地方は元来筑豊炭田の中心地に位置し、日本屈指の殺傷事件の本場たり。従って警察方面の捜索方針も単純かつ粗放にして、現場の証拠等は事件発生の翌日に於て、完膚かんぷなき迄に攪乱蹂躙かくらんじゅうりんされおり、充分なる調査をぐるを得ず、しかれ共なお、現場の形況及び前記各項の談話、警察当事者の記憶、近隣の噂等を綜合したる結果、この事件の特徴として左の諸項を認め得たり。
 (甲)犯行の現場たる女塾内には、呉一郎母子おやこと塾生に関する事跡及び勝手口の唯一の締りとされおりたる径約一すん、長さ四尺一寸あまりの竹の支棒つっかいぼうが、不明の原因にて土間に脱落しおりたる以外に、犯人の指紋、足跡等の一切を認め居ず、拭い消したるものなるや否やも不明なり。なお、右支棒は外より板戸を強く押せば、指をさし入れてはずし得る位置に在りたるものなる事を推定し得たり。而して右板戸の縁辺ふちへんの支棒に接触する部分は、磨滅を防ぐためと支棒の作用の堅確を期するため、新しく亜鉛あえん板を以ておおいありたるも、かえって軽微の力を以て、支棒を脱落せしめ得る原因となりたるものの如し。
 (乙)被害者千世子は同夜午前二時――三時の間に、背面より絹製の帯締おびじめを以て絞殺され、寝具を蹴散けちらし、畳の上を輾転てんてんして藻掻もがき苦しむなど、甚しき苦悶の跡を残したるまま絶命せるものを、更に階段の処に持行きて手摺てすりより細帯にて吊し下げ、階段の降り口に正面させて縊死いしと見せかけたる事明らかなり。しかも、その絞首の跡を示す斑痕が、二重もしくは三重となりおる状況は、犯行当時に於ても明瞭に認められし事を察し得るに拘わらず、更にこれに縊死をよそわしめたるは、一見、浅薄なる犯行隠蔽の手段なるが如きも、実はあらず、他の指紋等を消去りたる犯人の行動と比較考慮する時は、その矛盾せる行為の相互間に生ずる一種の錯覚を以て、犯人に対する目星めぼしを誤らしめんがためにりたる極めて巧妙なる手段なりと思惟しいし得べし。
 尚、被害者の手中その他には何物もとどめず。或は軽き麻酔を施されたるものに非ずやとも疑わる。
 尚又、当時犯行用と認められし帯締めは、その後、数名の警官の手に転々したるのちなりしを以て、何等犯人に関する証跡を検出するを得ず。
 (丙)呉一郎は、麻酔を施されたるものなる事を、同人の談話に現われたる予後の諸徴候に依りて推測し得べし。
 (丁)屍体は死後約四十時間目に、同女塾の裏庭に於て、舟木医学士立会、余(W氏)執刀の下に解剖の結果、最近に於ける性交の形跡なく、子宮には、かつて一児をはらみたる痕跡をとどむるのみなる事を確かめ得たり。

 如上じょじょうの事実にり犯人及び犯行の目的等に関する推定は殆んど困難なり。然れども、犯人は相当の学識あり、麻酔剤の使用に慣れ、思慮深く、且つ腕力たくましからざる者なる事、及び犯行が呉一郎に及ぶ事を好まざりし者なる事を推測しべし。(中略)。その筋の捜索方針は、初め如上の推定にもとづきて進行し、呉一郎を釈放したるも結局、再びこの方針を放棄し、純然たる見込捜索に移りたるため、ついに何等るところなく、事件は所謂いわゆる迷宮裡に遺棄さるるに到りたり。(下略)

 ▼右に関する精神科学的観察

 この事件は著者(正木)自身が直接に調査したるものにあらざるを以て、専門の精神科学的の考察と説明には多少の不便を感ずるものなり。然れどもW氏が、同氏独特の法医学的の見地に立ちて調査記録したる、この事件の各種の特徴に依て観察する時は、この事件の真相が現代の所謂、科学知識及び、これに伴う所謂常識の発達範囲に於ては、到底判断しかつ、説明し得べからざる「心理遺伝の発作」にあることうたがいを容れず。筆者の所謂「犯人無き犯罪」の最も顕著なる好適例なり。すなわちW氏の最初の直覚が適中しおりたる事を、一切の事象が指しいる事を一々摘出、明示し得べし。W氏が事件後もなお、この点に関する疑念を捨てず、前掲の如き貴重なる談話を記録せる、その用意の周到なるに、劈頭へきとうの敬意を表せざるを得ざるものなり。
 すなわち前記W氏の観察と、三項の談話とを通じて、この事件の真相をきわむべき、観察要項を列挙すれば左の如し。

  【一】 呉一郎の性格と性的生活

 呉一郎は当時満十六年四ヶ月の少年なるが、かくの如き母性愛を主とせる家庭に人となり、且つ平生若き女性に接する機会を有する文弱明敏、且つ発育円満なる少年に有り勝ちの特徴として事件発生前より、既に十分の性的充実をきたしおりたるも、その母性愛の純美さと、自己の頭脳の明晰さとに品性を浄化されて、これを肉体的に発露し得るが如き心理の欠陥を有せず、無垢むくの童貞を保ちおりたるものと認めらる。異性の唱歌を傾聴したる旨を告白し且つ赤面せるが如きは、かかる性格を有するかかる時代の少年の特徴と認むるを得べく、又、談話中の到る処に発見さるる可憐なる率直さ、及び自身が犯人として眼指めざさるるべき理由の動かすべからざるものあるを自覚しつつも、自己の立場に対する何等の恐怖を感ぜざりし事実等より推して、その心理に微小の暗影をもとどめざる、清浄純真の童貞生活を送りきたりし者なる事を察知し得べし。しかして右年齢と性的生活の推定は、この事件に関する精神科学的観察の全部に影響する、重要なる断定の基礎となるべきものなるを以て、特に冒頭に掲げて、注意を促す所以ゆえんなり。

  【二】 夢遊状態を誘発せし暗示

 事件発生の当夜、午前一時前後に覚醒して、母の寝顔を見たる時、異常の美しさを感じたりという呉一郎の告白は、前記の観察の妥当なる事を裏書せると同時に、同夜に於ける呉一郎の心理遺伝の発作、即ち夢遊状態発生の暗示が如何なる性質のものなりしかを説明しおるものと認め得べし。即ち、夜半の覚醒が、性的の衝動の高潮と切実なる関係を有せる事実にちょうする時は、当時の呉一郎の精神状態は、或る危機の最高潮にひんしおりたるものなる事、前記の告白によって明かなるべし。しかしてその危機は、同人が一度階下に降りて用便し、再び二階に昇りきたりたる間に著しく緩和されたる筈なり。且つ、その刺戟の対象たる母親千世子が、うしろ向きになりたる姿を見たるがために、すくなからず幻滅されて、平生の埋智に帰りて就寝したるものなる事もまた察するにかたからず。然れどもかくの如くにして一時抑圧されたる性的の衝動は、呉一郎が熟睡に陥るや、その無意識界に潜在せる、或る恐るべき心理遺伝を刺戟して、夢中遊行状態を誘発し(後出第二回の発作の項参照)、ついかる兇行を演ぜしめたるものなる事を、以下縷述るじゅつするところの各項の理由に照して、逐次了解するをべし。

  【三】 呉一郎の第一回覚醒と夢中遊行との関係

 呉一郎が、同夜に限りて夜半の覚醒を見たるは、同人が従来あまり経験したる事なき異状なる出来事なる旨陳述せるが、右は又、適々たまたま以て、その後の睡眠間に於ける夢遊状態の存在を指示しおれる一徴候と認め得べき理由あり。然れども、この理由を明かにする以前に於て、必然的に考慮せられざるべからざる一事は、勝手口の支棒つっかいぼうの落ちたる音が、呉一郎の第一回の覚醒の原因となりおれる如く思惟されおることなり。右は呉一郎本人も、かく信じおれるが如くなるも、は睡眠中の感覚作用と、覚醒時の知覚作用とを同一視せるより出でたる誤解にして、甚だ軽率なる判断なりと認むるに躊躇ちゅうちょせず。何となれば睡眠中に或る音響を耳にして、直ちに覚醒したりと信じたるものが、覚醒後の正確なる判断力に依ってこれを検する時は、そのかんに数分、甚だしきに到っては一二時間の睡眠を経過せる事を発見する例、すくなからず。その最極端なる一例は、所謂いわゆる、朝寝坊が起さるる時にして、数回に亘る呼び声に応答しつつ、又も熟睡に陥り、日三竿さんかんに及びて蹶起けっきして、今日は唯一回の呼声にて覚醒したりなぞ主張する事珍らしからざるは、世人の周知せる事例なり。睡眠中に感じたる音響と、これに依って刺戟されたる覚醒との間に於ける、経過時間に対する錯誤の如何に甚だしきかは、この一事を以てしても充分に立証し得べし。いわんや、夢中に於て、明かに物音を知覚して覚醒したるにも拘らず、その後の冷静なる検査に依りて何事もなかりしを知る場合極めて多きに於てをや。これに依ってこれをれば、支棒つっかいぼうの落ちたる音と、呉一郎の覚醒との間に必然的の因果関係を認むるは、正確なる推理の進行上すこぶる危険なる所業にして、むしろ、右二ツの現象を全然無関係のものとして、この事件を観察する方、自然に近きものと言うを得べし。いわんや更に、これを呉一郎の覚醒後の異常なる気持ちと直接に結び付けて、外より何者かが入り来りて、麻酔剤を施しつつ、この兇行を演じたりと速断するが如きは、非常なる冒険、且つ、不合理と評するもあえて過言にあらざるべし。
 しかして、右の支棒の脱落と思い誤られたる夢中の音響の正体については、別に発表し得べき重要なる研究資料を有すれども、右はすこぶる広汎なる実例と、極めて精密詳細なる心理学的の説明を要するを以て、ここには大略し、ただ「夢中に於て実在せざる音響を感ずる場合」のうち、睡眠自体を破る程に著しき実例の二三を挙げて参考とするにとどむべし。

 (a) 夢中に感ぜられつつある幻象の進行が、急に或る行詰まりを生じたる場合……たとえば、或る一種の感情(喜怒哀楽等)が急速に高潮して極点に達すると同時に、何物かの爆発、散乱、又は落下の光景を幻視せし瞬間……等……。
 (b) 夢の進行が突然、或る無限の深さを有する空虚に陥りたる場合……たとえば、世界のはてより踏みはずし、又は、闇黒の谷に墜落したる刹那せつな……等……。
 (c) 夢中に進行しつつありし或る二つの心理現象が、突然に交叉し、又は衝突したる場合……たとえば、或る者を恐れつつ行いおりし秘密の仕事が、その恐れおりし或る者に発見されし刹那、又は、衝突を憂慮しつつありし汽船、又は自動車等が、果して急激に進路を曲げ来りて、眼前に衝突したる瞬間……等……。
 (d) 夢の中に進行しつつありし事象が、全然予期せざる、正反対の心理の対象たるべく急変したる場合……たとえば、親友が兇漢なる事を発見し、又は、同伴者が急に恐ろしき者に変じ、或は又、快適なる室内の諸器物、楽しき花園の花等が、自己の最も恐怖嫌忌けんおする形象物体等に変化したる刹那……等……。

 右に依って観察する時は、夢の中に感ぜられる、非実際的の音響の正体なるものは他にあらず。すなわち夢の進行中に於て、突然、不可抗的に受けたる驚愕、恐怖、歓喜、その他の心境の急変化と、覚醒時に於て不意に大音響に打たれたる心理の急変化とが酷似せるがために、逆に錯覚されて一ツの音響と感ぜられたるものなる事を知るを得べし。
 更に右の事例に照して、この事件を考察する時は、呉一郎の第一回の覚醒なるものは、その直前に於て、同人の心理に高潮充満しおりたる、性的の衝動に依って描かれつつありし或る種の夢の進行が、これに依って刺戟喚起されたる良心的の衝動を象徴する或る幻像の出現と不可抗的に交叉衝突したる刹那の恐怖的心理状態が、音響的の錯覚を与えたるものに非ずやとも考えらる。しかして、この仮定を認むる時は、その性的衝動の危機のうちに眼覚めたる呉一郎が、その母の寝顔を見て、異常の美を感じたりという事実は、極めて自然なる心理の帰趨きすうにして、特に、春季に於ける年少の童貞に有り勝ちの秘密的、心的経験に関する、純潔、偽らざる告白というを得べく、同時にその後の熟睡中に於て、同じ衝動によって刺戟誘発されたる夢中遊行の存在し得べき可能性は、一層、底強く裏書きせられ得るものと云うべし。
 尚又、支棒つっかいぼうが落ちたる事実は、本人が夢中遊行中の無意識的理智の発動に依って行いたる犯罪の隠蔽手段に非ざるなき。兇行その他の不正行為を敢てする事多き夢中遊行者が、かかる行為を併せ行う例は、甚だ珍らしからず。しかも、その大部分は、この事例に於けるが如く、常に笑うべき浅薄なる手段なるに照しても、這般しゃはんの疑問が不自然に非ざるを知り得べし。又、あるいは、外より何者かが入り来らむとしたる際、誤って支棒を落し、様子を覗いおるうち、呉一郎が降り来りたるを以て逃亡したる等の、偶然の事跡の暗合せるものに非ずやとも考え得べし。然れども這般の疑点に[#ルビの「つ」は底本では「つい」]いては調査が欠如しおるが如くなるを以てしばらく疑問として保留しおくべし。

  【四】 夢遊状態発作当初の行動……絞殺……

 この事件の根本的説明となるべき兇行の目的が、今日に到るまで茫乎ぼうことして、推理の範囲外にある事実と同時に「つくし女塾内には呉一郎母子おやこと、女塾生に関する以外の事跡を認めず」云々というW氏の調査諸項を併せ考うる時は、この事件の真相が呉一郎のその母に対する夢中遊行の発作なる事を、最も簡単、且つ適切に首肯し得ると同時に、その他の犯人に関する推断が、強いて第三者を仮想せむと試みたるより生じたる一種の錯覚なる事をも、遺憾なく説明し得べし。すなわち呉一郎は前記の性的衝動を心理に包みて熟睡後、これに依りて刺戟誘発されたる心理遺伝の発作のために夢中遊行状態となりて起き上り、その意識裡に現われたる夢幻(その内容はこの時まで不明)の欲求に従って、眼に当りたる被害者の帯締めを拾い取りて、その夢幻の対象たる一女性……実は母親……に対する兇行を遂げ、なおのちに述ぶるが如く学術上の珍とすべき奇怪なる夢中遊行の若干を続行したるのち、就寝したるものと推測さる。而して右の兇行は、同人の脳髄の作用、即ち意識的精神作用が熟睡によって休止しおる間に於て、全身の細胞相互間の反射交感作用が、脳髄の代用となりて(主として交感、迷走神経と連絡せる内臓の諸機関がこの役をつとめ、筋肉、結締組織、脂肪、血液等もこれに参加して、事後に於ける異常の疲労状態を呈す――拙著『精神病理学』参照)五官と直接に連絡し、見、聞き、判断し、且つ実行せるものなるを以て、覚醒後の有我的意識には、殆ど何等の記憶の痕跡を留めず、この点を混同して、一切の判断力を要する行動を、有我的意識(脳髄の覚醒時に於ける意識作用)に依ってのみ行われ得るものと妄信せられたるがために、前記の如く、仮想の犯人を拈出せんしゅつするが如き、推断上の錯誤を生じたるものにして、現代に於ける科学知識の発達程度に於ては、誠に止むを得ざるに出でたる帰結と云うを得べし。
 ちなみに、この事件に依って研究さるべき呉一郎の夢中遊行状態中、第二回の発作(後段参照)に依て演出さるべき、この事件の眼目たる心理遺伝の内容と直接の連絡関係を有せる発作は、この……絞首……の一事のみにして、爾後じごの夢中遊行は寧ろ脱線的のものと云うを得べし。然れども、その爾後の脱線的夢中遊行なるものの正体は、実に学界の珍とも称すべきものにして、精神科学上の研究価値甚だ高く、且つかくの如く親近なる参考事例を他に発見し得ざるを以て、いささか脱線を共にするのきらいあれども特にここに記述し、併せてこの事件の真相が、呉一郎の夢中遊行発作によって一貫せられおる事実を、徹底的に明白ならしめんと欲する所以ゆえんなり。

  【五】 絞首に引続く第二段の夢中遊行……屍体飜弄……

 被害者が、床上その他を輾転てんてんして苦悶したる痕跡及び絞殺のあと顕著なるにもかかわらず、更にこれを縊死と見せかけたるは浅薄なる犯罪隠蔽行為なるが如くにして実は然らず……云々として、犯人たる仮想の第三者の智力の尋常ならざるを疑われたるは、一面の理由ある判断なるが如くなるも、これ亦、余りに穿うがち過ぎたる不自然の観察なりと信ずるに躊躇せず。何となれば右の事象は又、偶々たまたま以て夢中遊行状態特有の怪異なる行動が当夜、同所に於て行われたる事跡を物語るものにして、著者の所謂いわゆる……屍体飜弄……が当夜の呉一郎に依って演ぜられたるものと認めていささかの不自然を感ぜざるのみならず、かえって右の事象に対する説明の簡単適切、疑うべからざるものあるを以てなり。
 但し夢中遊行中の屍体飜弄なる現象に関しては古来、明確なる記録の憑拠ひょうきょするに足るべきもの殆ど存在せず。唯、かかる超唯物科学的なる現象に対して深き興味を有する拉甸ラテン人種間に伝われる記録及び迷信深き東洋諸民族間に残存せる伝説等に散見するあるのみ。而してその記録なるものも所謂、実見記等の類にあらず。或る特異の頭脳を有する僧侶、医師等が他人より聞知し、又は探聞し得たる事を記載せる随筆程度のものに過ぎざるのみならず、その記事の十中八九は屍体を使用して人を脅威し、電力を与えて死者を動かし試み、死人をよそおうて悪事を働らく等、その他、迷信的の薬物たる臓器の獲得、埋葬品の奪掠だつりゃく屍姦しかん等の事跡の誤認、誤伝せられたるものなるを以て、容易に真相を捕捉し難きうらみあり。
 然れどもかる屍体飜弄の事実の古来より存在せる事はうたがいを容れず。即ち支那、印度インド、日本等に於て屍神ししん屍鬼しき、もしくは火車かしゃ等と称する妖異ものがたりの内容を検する時は、この種の夢遊行為……すなわち屍体飜弄が誤伝せられたるものなる事を、自然科学、精神科学等の各方面より推知するを得べし。
 而してかかる事実の詳細に関しては他日「妖怪篇」なる一篇に集積して研究論証すべく、目下材料の整理中に属すれども、その一班を摘要すれば、元来この屍神、屍鬼、もしくは火車等と称する妖異現象は、狐猫こびょうの類族、又はからすふくろう等の怪禽妖獣の族の所業なるが如く信ぜられおる傾向あり。然れども事実はあらず。すなわちそれ等の伝説記録等に拠って、屍体飜弄の状況を按見あんけんするに、まず劈頭へきとうに、棺柩かんきゅう中、もしくは床上に静臥安居しおりたる屍体が忽然こつぜんとして立上り、虚空を走るという形容あり。続いて眼を閉じ、毛髪と両手とを力無く垂下したる亡者が、或は逆立さかだちし、或は飜筋斗返とんぼがえりし、斜立しゃりつしたるまま静止し、又は行歩こうほし、丸太転び、尺蠖歩しゃくとりあゆみ、宙釣り、逆釣さかづり、錐揉きりもみ、文廻ぶんまわし廻転、逆反さかぞり、仏倒ほとけだおし、うしろ返り、又は跳ね上り、飜落ほんらくするなぞ、あたかも何者かが手を加えて操縦せるが如くなる、あらゆる奇抜なる形状と運動とを描き現わすものとなせるが、尚よく冷静、仔細にこの形容を観察する時は、かくの如き形状と運動とは、恰もの無邪気なる小児が、人形、生物体、もしくは人像に類せる物体を飜弄して、あらゆる残忍なる姿勢動作を演ぜしめつつ、嬉戯きぎ満悦せる情態に酷似せるを看取し得べし。しかも当該小児は此の如き遊戯に際し、自ら手を加えて飜弄しつつある事実を殆ど忘れおり、さながらに人形が自己の意志を直感して、好むがままに変化躍動しつつあるかの如く錯覚しつつ、一種の残忍性を満足せしめおる心理は、吾人の日常随所に発見し得るところなり。しかしてかくの如き生物、もしくは擬生物体飜弄の心理は、吾々人類の祖先が、その野蛮蒙昧時代に於て獲物、もしくは敵手を征服捕獲し、又はたおし得たる際の満悦と勝利感の高潮によって、あたかも現在の食肉禽獣、虫類間に遺伝残存しおるが如き獲物飜弄の高等なるものを行いたる習性が変形遺伝せしもの(敵手の首級を投げ上げ投げ上げ歓喜したる史実厳存す。且つ、かかる擬生物体飜弄の習性が主として男児に現われ易き事実に注意すべし――拙著、心理遺伝本論中、変型遺伝の部参照)なる事実と照合する時は、かかる心理遺伝が、かくの如き屍体飜弄の夢中遊行を誘起し得べき事、うたがいを容れざるべし。
 次に、如上の考察を事実と照合して具体的に説明すれば、まず、或る瀕死の病人に最後迄附添いおりたる者、又は、屍体の始末をなしたる人間が睡眠後……特に介抱その他に依る身神しんしんの疲労又は一種の安心等のために平常よりも深き熟睡に陥りたる場合に於て、その屍体より受けたる深刻なる暗示のために、前記の如き残忍性を帯びたる夢遊心理を誘起され、未葬もしくは既葬の屍体を取り出して飜弄したりとせむか。自身は殆どその自ら手を下したる事実を記憶せざるべきは当然と見るを得べし。或は、半ば朦朧もうろう状態に於て意識せるものとするも、の小児の人形飜弄の如く、自己が手を下したるものとは思惟しいせずして、屍体そのものの活躍なりと錯覚し、一種の悪夢の如きものと信じつつ屍体を飜弄して、どこへか遺棄し去り、又は棺桶等に投入返還したるまま、床に帰りて就寝したる者が、翌朝に到りて屍体の変位、紛失等を発見するや大いに驚き、妖異の所業しわざと解釈してかる伝説の由縁ゆうえんを作るべき事は疑を容れず、すなわちかかる伝説、口碑の殆ど全部が、屍体に側近する者のすくなき貧家の不幸事、もしくは屍体一個、側近者一個を題材として伝えられおるを見ても、その妖異の主人公が屍体そのもの、もしくは他の獣鬼等にあらず、かたわらに眠りおりたる者の夢中遊行に依るものなる事を察するに足るべく、現今、行われおる多人数の通夜の習慣は、この種の妖異の防遏ぼうあつに最も有効なる事が古来幾多いくたの人々の経験に依って知、不知の間に確認せられおりし事を今日に立証しおるものと見るを得べし。又、死者の枕頭ちんとうに刃物を置く習慣は、その刃物の光鋩こうぼう、もしくは、その形状の凄味すごみより来る視覚上の刺戟暗示を以て、この種の夢遊病者の幻覚を破るに有効なるものありしより起りし習慣に非ざるなき。いずれにしてもかくの如く観察し来る時は、この屍体飜弄なる夢遊状態の存在は疑う余地なきところにして、特に通夜の習慣及び火葬の流行以前には、屍体の側近者によりてかなり多数にこの種の夢遊状態が実現されおりし事は自明の理なるべし。
 次に如上の研究考察をこの事件と照合するに、当夜に於ける呉一郎の女性絞殺行為後の夢中遊行症は殆ど右と同様のものなるべけれども、更に、ここに変態性慾的内容を有する夢中遊行を添加したる形跡の明らかなるものあるは特に珍重頑味すべきところなり。即ち呉一郎は、自己の血統に伝われる、独特固有の、変態性慾的「心理遺伝」の夢中遊行発作(後段第二回の発作参照)に依って、まずその夢幻の相手たる異性を絞殺して第一段の満足を得、然るのち、その屍体の暗示により、前述の如き一般的なる夢遊状態……屍体飜弄に移りたるものなる事を、察するにかたからざるべく……屍体の甚だしく煩悶輾転てんてんせる痕跡、云々と認められしは、その飜弄の痕跡と混同しおる疑あり、或は被害者の苦悶に属するものは、その中の極めて小なる一部分なりしやも計り難し。同時に、その屍体飜弄が一種の変態性慾的の快適を求むる特殊の深刻味を含めるものなりし事は、その飜弄が転々飽くところを知らず、窮極するところついに、変態性慾中に於ても最高度の変態(次項参照)に到達したるを見て察知すべし。

  【六】 屍体飜弄に引続く第三段の夢中遊行……
           自己虐殺の幻覚と自己の屍体幻視……

「自己虐殺の幻覚」および「自己の屍体幻視」と称する変態心理は、夢中遊行に非ざる一般の場合に於ても、特異中の特異例に属すべきものなるを以て、そのかくの如き変態にまで陥り来りたる心理経過を一々説述し来るは容易のわざに非ず。然れども当座の参考のためにこれを要約して説明すれば、元来性慾もしくは恋愛なるものは、自己以外の異性に恋着する心理を指すものなれども、これをその本源にさかのぼりて考察する時は、如何に没我的なる恋愛、もしくは性慾の発露なりといえども、畢竟ひっきょうするところ、自己の生ける霊肉の要求を愛惜し尊重する本能的主義的、もしくは利己的心理の表現に外ならず、故に、その性慾もしくは恋愛が、体質、性格及び境遇等に影響されて常住不断に飽くあたわず……又は飽く方法を知らず……又は飽く事を知らざる(これと正反対なる性慾耄衰ぼうすいの場合にもほぼ同一の結果に達すれどもここには省略す)場合は、その欲求が極度に高潮尖鋭化し、深刻痛烈化し来る結果、ついに尋常の手段にては満足を得るあたわず、窮極するところついに変態性慾の境界に脱線し去りてなお飽き足らず、更に窮極の極、その心理の本源に逆転し来りて、自己を恋着、愛惜する心理に陥り来るべきは必然の帰結なり。
 すなわちまず、これを積極方面より例示せむか。飽く事なき異性の愛撫慾が極度に高潮辛辣化すれば平凡なる性交の満足にみて、異性の虐待、乃至ないし、虐殺の快適味愛好(サジスムス)又は屍好(ネクロヒリ)となり、更に進んで異性の肉体覗見、異性の形状愛好(ビクマリオニスムス)、異性の附属物歎美(フェチシスムス)等の順序を以て漸次、異性より直接に受くる刺戟、もしくは感覚よりそむき遠ざかりつつ、却って深刻味ある快美感を受け得るに到るべく、しかも尚、それ以上の異端、もしくは猟奇的深刻味を求めて止まざる結果は、ついに人間本来の自己愛惜の本能に吸引せられて自己恋着に陥り来るに到るべし。
 又、これを消極方面より観察する時は、被愛撫的満足の飽く事なき願望が超自然的に高潮すれば被虐待の要望(マゾヒスムス)となり、一転して異性の汚物愛好(コプロラグニー)に進み、異性よりの侮蔑冷視、嘲笑嫌忌の甘受慾(エキシビステンその他)等の経過を見て結局、前者と同様の結末に陥り来るべきは自然の帰趨きすうなり。所謂いわゆるNARZISSMUSナルジスムス(自己恋着)はこれにして、筆者の所謂積極消極両様の変態恋愛の交叉帰一点そのものの発露と見るを得べし。
 しかもこの「自己恋着」と名づくるものの中にも亦、積極消極、両極端の合一せる変態あり。すなわち自己に対する極度の愛撫、粉飾等は進んで自己の虐待、自己の一部露出、もしくは覗見しけん等の変態趣味に移り、一転して自己の軽視、冷遇、嘲笑、嫌忌もしくは自己恐怖等の心理を感ずるに到り、更に進んで自己虐殺の快適、もしくは自己の屍体幻視の快美感耽溺者となり来るものなり。事実、この種の心理の実例は極めて広汎多端たたん、且つ普遍的の性質を有しおるものにして、往昔の切腹、義死、憤死等の心理又は、普通の自殺者の遺書等の中に発見さるる夢の如き「自己歎美」又は、甘美なる涙を含む「自己陶酔」の心理の裏面にはこの種の変態心理の多少を認め得ざる事なく、殊に失恋自殺者の心理にして、この種の変態的欲求に最後の、且つ、唯一最高の満足を求めおらざるもの一人も無しと断言するもあえて過言にあらず。その他、この種の心理の発露の特異なるものに到っては、自己の名前、肖像等の抹殺破棄……鏡面の理由なき破壊……模擬戦、又は劇等に於ける傷者、死者等の役廻り志願……各種の芸術作品中、自己にせる人物に対する作者の残忍なる描写……等の軽度なるものより、遺書なき自殺……他人もしくは公衆の面前に於ける自殺……自己及び環境を美化粉飾したる自殺……同情の情死……同性同胞の情死……自殺倶楽部クラブの存在……等、その欲求の変幻、その発露の怪奇、殆ど端倪たんげいすべからざるものあり。その他、人類生活の日常到るところの起臥きが談笑の間に於ても、本来自然の自己愛着心と不即不離の関係を保ちつつ、知不知、不言不語のうちにこの種の変態心理が流露反映しつつあるものなるを以て一々枚挙にいとまあらず、故に、ここには唯、斯の如き極端なる変態心理がその研究価値のすこぶる高度、非常なるものあるにも拘らず、その発露する事例は決して稀有珍奇なるものに非ず、他の中間的なる変態性慾よりも却って普遍的なる傾向を有しおるものにして、相当の自省力を有する人士は常に、自己の心理生活の到るところにこの種の変態心理を発見し得べき事を証するに止むべし。
 以上述ぶるところに依って、この事件の示す特徴を研究考察するに、呉一郎は、その夢中遊行の第一段たる絞首行為の前後に於て、その被害者の風貌が自己に酷似せる事を認めたるべきは推測にかたからざるべし。しかして同時にその夢中遊行の本源たる深刻痛切なる性慾の衝動が、その夢遊行動に依て解除さるるを得ざるがために、飽く事なき飜弄を続行中にも、幾回となく、その屍体の風貌の自己に彷彿ほうふつたるものあるを認めしに相違なかるべく、その結果、おのずから自己虐殺の錯覚、幻覚に誘致され、屍体を自己にし、数回に亘りてこれを絞首したるものと認むるは、決して不自然なる推測にあらざるべし。かくして最後に、自己の屍体幻視の夢遊に移り、自己に擬したる被害者の屍体を階上の手摺てすりより吊り下し、相対あいたいする階段附近よりこれを正視して歓興したるものと察するをべく、かくの如く観察し来る時は、被害者が二重三重に絞首されしのち、縊死に擬せられたる等の、本事件の最重要なる各種の特徴は極めて自然に、且つ明白に説明され得るを見るべし。本事件の検案調査が、かかる諸点に留意されず、尋常一般の犯罪と同一視されたる結果、この方面に関する指紋、足跡等の事跡が大略看過されたる傾向あり。ために、かかる珍奇なる夢中遊行特有の怪奇なる行動の詳細に亘りて推測するあたわざるものあるはまたやむを得ざる遺憾事と言うべし。
 ちなみに、呉一郎の夢中遊行の発作をここまで支持し来りし性慾衝動の最高潮状態は、この自己の屍体幻視を終極的として、解除されたるものと推測し得べき理由あり。爾後じごの呉一郎の行動は、この夢中遊行症の余波ともいうべき夢中遊行にして、筆者の所謂いわゆる、蹌踉状態に陥りたるものと認むるを得べし。然れども、その蹌踉そうろう状態の下に行われたる夢遊行動中にもまた、本事件の表面上に現われたる、重要なる疑問的特徴を作りしものあるを推測され得るを以て、特に項を改めて記述すべし。

  【七】 呉一郎の悪夢、口臭、その他が表わす夢中遊行症の特徴

 呉一郎が悪夢を見たりという事実と、覚醒後の頭痛、眩暈げんうん、悪寒、口臭、嘔気おうき等を感じたる事実等を綜合して、麻酔剤の使用を疑われたる事は一面の理由あるものの如し。然れども、これを精神科学的の見地より観察する時は、これまた、現代の科学知識の発達程度に照して、誠に止むを得ざるに出でたる錯誤と評するを得べし。すなわち、畢竟ひっきょうするところ右は、夢、および、夢中遊行なるものの真相の学理的に闡明せんめいされ、且つ、常識的に理解されおる程度が、甚だ浅薄低級なる結果にして、下記二段の説明を以てこれを判断する時は、右の諸現象が麻酔剤の使用に依って起りしものにあらず、却って夢遊病の併発症状ともいうべき諸特徴を最も顕著に示しおる事を認め得べし。
 (イ)口臭、その他と轆轤首の怪談 呉一郎が覚醒後に感じたりという頭痛、嘔気、疲労等は前述の如く、皆夢遊病の特徴として起り易き併発症状なれども、就中なかんずく、特に興味ある観察材料としてここに掲げむと欲するものは……口中に不快なる臭気を感じたり……という当該本人の陳述なり。しかしてかくの如き夢遊病者の口臭その他に関しては他日稿を改めて「妖怪論」中に詳論すべきも、その腹案の一部をここに披瀝すれば、一般に或る夢遊病者が、或る発作を遂行し終るまでは、その夢中遊行の本源たる各種の内的衝動に駆られて、何等の疲労をも自覚せざるのみならず普通人の想像を超越したる精力と忍耐力を続行し得たる事例、亦、すくなしとせず。然れども、その発作の最高潮時、もしくは発作の主要部分を経過したるのちは、精神の弛緩しかんと共に異常なる疲労を感じ、且つ、甚しきかつを覚ゆるは生理上当然の帰結なり。(苦悶、呻吟等の軽き夢中遊行を伴いたる悪夢等の覚醒後に於ても亦然り)而してこの道理を根拠としてこの事件と比較研究さるべき絶好の参考材料は、日本の巷間こうかんに伝うる轆轤首(ロクロクビ)もしくは抜け首と称せらるる怪談なり。
 ロクロ首の怪談、又は絵画が、人間の夢、又は夢中遊行の心理を象徴せるものなる事は、ここにあらためて呶々どどするを要せざるべし。而して同時に、このロクロ首が、油、又は下水その他の不浄の水をめる習癖あるがため、翌朝に到りて口中に悪臭を感ずるものなる事は、この種の怪談、又は絵画等に依って説明され来りたるところにして、一見、荒唐無稽の空説なるが如く見ゆるも決してに非ず。すなわち、この怪談に於て、単にその首だけが脱出蜿蜒えんえんして、何ものかを舐めたるが如く推断されたるは、夢、もしくは、夢中遊行の真相をらざるがために附会ふかいしたる一個の想像にして、実は本人が夢中遊行中、生理上当然の欲求に駆られて、何等かの液体を渇望しつつ探し廻り、且つ、これを口にしたる結果に外ならず。しかも右は、必ずや、発作の最高潮を経過したるのちに起るべき欲求にして、単に甚しきかつの刺戟に依ってかろうじて夢中遊行を続行しおるが如き状態なるべきを以て、意識の明瞭度は著しく減退しおり、且つ捜索探求の能力等も著しく薄弱となりおれる筈なり。従ってその液体の何たるかを問わず、単に水に似たるもの、もしくは、それが何等かの液体なる事を認めたるのみにて直ちにこれをみ下すことは、あり得べき道理なり。夢中遊行中に、油、又は下水溝の汚水の如きものを口にして自らこれを知らず、翌朝に到りて異状の口臭を感じ、又は嚥下物えんかぶつの不消化等に依る頭痛、嘔気等を訴えて家人に怪しまれ、仏壇、又は行燈あんどんの油の減少せる等の事実と、想像とが結び付けられたる結果、当該本人の首のみが脱出したるが如き疑いを受くることは、人智未開の往昔に於て、当然あり得べき事なりと考えらる。なお、このロクロ首、即ち夢中遊行の主人公が、平生あらゆる本能的自我的心理の発動を抑圧し、又は抑圧されがちなる妙齢の美人と人間の祖先たる下等動物中STEGOCEPHALIAを象徴したる三ツ眼の怪物との二種類によって代表されおり、且つ、長き舌を出して液体を舐むるという動物的の挙動が、これに結び付けられおる諸点は心理遺伝学中、動物心理の遺伝発露に就て研究すべき好参考材料なれども、ここにははんを避けて冗説せざるべし。以上述ぶるところによって見る時は、呉一郎の覚醒後の口臭は、吸入、又は注射に用いられたる麻酔薬の影響によって起りたる嗅神経の異状、又は、使用せられたる薬剤の口中粘膜よりの再分泌等によってきたれるものに非ず。同夜、何等かの水に非ざる液体(例えば香水、化粧水、又はクリーニング用の揮発油の如きもの)等を口にしたる証左にして、その他の病的現象の大部分も、該液体の作用と認むるを自然に近きものと思惟さる。然れども、この点に関する諸般の調査が、全然閑却されあるは、止むを得ざる事とはいえ、千秋の遺憾と云うべし。
 (ロ)悪夢 又呉一郎が、事件当夜一時五分前後に覚醒し、次いで就寝したる以後に連続して見たりと信じおれる悪夢は、実は第二回の覚醒以前の僅少時間に見たるものが記憶に止まりたるものなる事、普通の夢と同様にして、夢中遊行の内容とは直接の関係を有せず。却って夢中遊行中に口にせし、何者かの影響なるべき事は前段の説明によって明かなるべし。

  【八】 夢中遊行の行われたる時間、その他

 如上述べ来れる理由に依り、この事件を考察する時は、呉一郎の当夜の発作は、第一回と、第二回の覚醒の間に於て行われたるものと推定するを得べく、被害者の絶命時間が、二時――三時の間とすれば、呉一郎は第二次の就寝後三十分乃至一時間ののちに、かかる夢中遊行状態の起り得べき、最深度の熟睡に陥りたるものなる事を察し得べし。而して、第二回の払暁時ふつぎょうじの覚醒は、平生の覚醒時に於ける習慣的の潜在意識の発露と見るを得べく、その後の睡眠に於て、呉一郎は初めて夢中遊行の余波、もしくは夢中遊行中の嚥下物えんかぶつに依って刺戟せられたる悪夢より離脱し、真の熟睡、休養に入りたる事を、その発汗現象によりても察知するを得べし。

  【九】 夢中遊行に関する覚醒後の自覚、及び二重人格に関する考察

 次に呉一郎が覚醒後、警察に於て、母殺しの嫌疑の下に訊問を受けし際、茫然自失しながらも「そんなら、自分が殺しておいて忘れているのじゃないかしら」というが如き、極めて軽微なる疑問が動きおりし事を告白せるは、一見、同人が自己の夢中遊行の幾分を記憶にとどめおれる重大なる証左なるが如く思惟さるべし。すなわち第四項に略説せし通り、同人の当夜に於ける夢中遊行の事実は、同人の有意識的の記憶には存在せざる筈なれども、脳髄以外の細胞が作りし無意識的記憶のうちの或るもの……たとえば当時の甚しき疲労感等が、警部の訊問の暗示力によって意識裡に浮み出でしものにあらざるなきやも疑い得べし。然れども、これを他の一面より見る時は、気質の純真と、良心の澄明とが反映したる、極めて明敏なる頭脳の所有者にして且つ、小説類の愛好者たる呉一郎が、かかる局面に立ちたる結果起したる、この種の頭脳特有の錯覚に非ざるなきやを保し難し。したがって、這般しゃはんの疑問は、呉一郎の夢中遊行の存在を的確に立証し得るものに非ず。唯、一箇の補遺的参考としてここに掲ぐるを得るのみ。
 なお、以上述ぶるところに依って、古来、夢中遊行病者が一種の二重人格の所有者なるが如く思惟せられおる事が、真に近き理由をも理解するを得べし。すなわち、祖先代々より遺伝し来りたる無量の記憶と、その血統中に包含されたる各人種、各家系、各個性等の無数の性能の統一体たる一個の人間の性格のうち、その一部が覚醒中に分離してあらわれたるものが所謂二重人格にして、同じく睡眠中に発露されたるものが夢中遊行症なり。しかしてかかる夢遊病者の素質が、遺伝性を帯びおるものなるは無論なるを以て、夢遊病者が夢中遊行中に行いし犯罪に対する責任は、夢遊病者本人が負うべき場合甚だすくなく、これを遺伝せしめたる祖先及びその時代の社会等が、負うべき場合多き事を、この事件に対する法律的考察の参考として附記しおくべし。

  【十】 呉家の血統に関する謎語

 劈頭へきとうに掲げし四項の談話中、右に摘出したる以外にもまた、呉一郎の心理に、かかる夢中遊行を発作し得べき遺伝的の或るものが存在せる事を暗示せる個所すくなからざるが如し。即ち左の如し。
=呉一郎の談話中= 同人母千世子は、女性にしては珍らしき明晰なる頭脳を有し、且つ、気強き性格の持ち主なる事が説明されおり、且つ、迷信家にあらざる旨を弁護しあるにも拘らず、母子二人の宿命、もしくは運命に関しては、極めて平凡、且つ愚昧に属する迷信を極度に固執しおれる事実より推して、同女の心理に何等か不可抗的の憂悶不安の、不断に存在せるに非ざるなきやを疑い得る事。
=同= 狸穴の先生と呼ばるる占断者うらないしゃの言に「お前達は、何者かにのろわれている」とあるは、同占断者が、同女との対話中に、同女の言葉の中に含まれたる或る事実を推測して、く云いたるに非ずやと疑わるる事。
=八代子の談話中= 直方のうがた署の留置場に於て、初めて呉一郎に面会したる際「お前は何か夢を見ていやしなかったか」と尋ねしは「かつて夢遊病の事を耳にせしためなり」云々と弁明せるが、一婦人、特に農家の一主婦としての教養以外に、何等の高等なる学識を有せざるべき筈の八代子が、かくの如き非常事件に際し、かかる超常識的に高等なる、精神科学的現象の存在の、可能なる事を考え得るさえも、不可思議というべきに、更にこれを実地に当てめて、直ちに事件の裡面の真相を穿うがたんと試みたるが如きは、真に驚くべき事実にして、仮令たとい同婦人が如何に慧敏けいびん、且つ果敢なる判断力を有するものと見るも、尚且つ、不自然の感を免れず。但し、同婦人が常に、何等かの痛切なる事情に迫られて、かかる問題を念頭にかけおり、かくの如き事実に関する風説又は説明等に就て、鋭き注意を傾注しおりたるものとすれば、かかる際、かかる質問を発するはあながちに不自然と云い得べからざること。
=同= 同婦人は、めいはまなる実家に、近き親戚のすくなき旨を洩らせるが、田舎の富家には往々にして此の如く血縁的に孤立せる家系あり。而して、その孤立の原因は多くの場合、その家柄もしくはその血統に絡まる伝統的の悪風評もしくは、或るむべき遺伝的の素質あるがために、附近の者が姻戚関係を結ぶを好まざる結果なるを以て、呉家も、或はその種の家柄に非ずやと疑わるる事。
=同= 妹千世子が家出の原因は刺繍と絵画の修業を目的とせるものにほかならざる旨、繰返して弁明せるも、前項の疑点と照合する時は、尚、別の意味をも含まれいるものの如し。すなわち千世子は、姉と共に同家に居りては、到底結婚の不可能なるべきを予感し、又は他国に於て、呉家の血統をつなぎ残すべく、姉との黙契の下に家出したるものにして、これあるがために、その行衛ゆくえ捜索に対する姉の態度は、稍々やや不熱心のきらいなきに非ざりしやの疑を存する余地あり。且つ、同姉妹が二人共、女性としては珍らしき気嵩きがさなる性格の所有者なる事実よりこれを推せば、両人の間にかかる黙契の成立し得べき事は想像にかたからざる事。
=松村マツ子女史の談話中= 「千世子が有名なる男喰いなりとの噂」云々の事実と、前記の疑問とを綜合する時は、かくの如き事情を負うて家出せる同女の、その後の行動の一斑をうかがうに足るべき事。
 如上の各項の疑点を通じて、姪の浜の呉家に伝統的の、しかも、極めて恐怖すべき或るものが存在せる事、及び同家の最後の血統を有せる八代子と千世子の姉妹が、この事を熟知しおるらしき事は、この事件の当初より既に、充分に暗示しありたるものと見るを得べし。

【十一】 残るところは、この事件に於ける呉一郎の夢中遊行の発作が「如何なる種類の心理遺伝の、如何なる程度の発露に依りて行われたるものなりや」という問題なり
 即ち這般しゃはんの第一回の発作は、その夢中遊行の直接誘因とも見るべき有形的の暗示が「一女性の寝顔の美」という簡単なるものに過ぎず、且つその刺戟が、異性的魅惑力の最も薄弱なる母親によって与えられたるものなりしため、呉家の固有に属する驚異的の心理遺伝に対する暗示の度もまた、甚だ浅かりしものと察せらる。従って、その夢中遊行の内容も、同家固有の心理遺伝の内容(後段参照)と合致せるは唯「絞首」の一事あるのみ。爾余じよはその屍体、及びその容貌の暗示より来れる脱線的の夢中遊行に移りて、それ以上の心理遺伝の内容を示さざりしものと思惟しいし得べし。
 しかして、前記諸項に関する一切の根本的の疑問に対する解決と説明は、この直方事件の発生後、約二箇年目に現われたる左記、第二回の発作に現われたる諸般の事情に依って、徹底的に明らかにするを得べし。


     第二回の発作

◆第一参考 戸倉仙五郎の談話
▼聴取日時 大正十五年四月二十六日(所謂いわゆる姪之浜めいのはまの花嫁殺し事件発生当日)午後一時頃――▼聴取場所 福岡県早良郡姪之浜町二四二七番地、同人自宅に於て――▼同席者 戸倉仙五郎(呉八代子方常雇じょうやとい農夫、当時五十五歳)――同人妻子数名――(W氏)――以上――
   【注意】 甚しき方言なるを以て標準語に近づけて記載す。

 ――ええもう、このような恐ろしい事は御座いませなんだ。その時に梯子はしごのテッペンから落ちて打ちました腰が、この通り痛みまして、小用こようにもうて参ります位で、すんでの事に生命喪いのちうしないをするところで御座いました。しかし、今朝けさ程から茄子なすびの黒焼を酒で飲みまして、御覧の通り、妙薬のふなを潰して貼っておりますけに、おかげで余程痛みがくつろいだようで御座います。
 ――呉様のお家は、千俵余米と申しまして、この界隈でも一といわれる名うての大百姓で御座います。そのほか、養蚕かいこから、養鶏にわとりから何から何まで、今の後家さんのお八代さんが、たった一人で算盤そろばんはじかっしゃるので、身代しんだいは太るばかり……何十万か、何百万かわからぬと申しますが、えらいもので御座います。学校も自分で建てた学校なら、お寺も御先祖が建てさっしゃったお寺で、跡目相続人あととりの若旦那(呉一郎)は大幸福者おおしあわせもので御座いますのに、思いがけない事が出来ましたもので……。
 ――若旦那様は、温柔おとなしい、口数のすくな御仁おひとで御座いました。直方のうがたからこちらへ御座ってのちというもの、いつも奥座敷で勉強ばっかりして御座ったようですが、雇人やといにんや近所の者にも権式を取らしゃらず、まことに評判がよろしゅう御座いました。それに今までは呉家の人と申しましても後家のお八代さんと十七になる娘のオモヨさんと二人切りで、うちの中が何となく陰気で御座いましたが、一昨年おととしの春から若旦那が御座らっしゃるようになると、妙なもので、家内がどことなく陽気になりまして、私共も働らき甲斐があるような気持が致して参りましたような訳で……ヘイ……。そのうちに、今年の春になりましてからは又、若旦那様が福岡の高等学校を一番の成績で卒業して、福岡の大学に又やはり一番で這入らっしゃると、そのお祝を兼ねて、若旦那とオモヨさんの祝言おめでたがあるというような事で、呉さんのお家はもう、何とのう浮き上るようなあんばいで……ヘイ……。
 ――ところが恰度ちょうど昨日きのう(四月二十五日)の事で御座います。福岡因幡町いなばちょうの記念館という大きな西洋館の中で、高等学校の生徒さんの英語の演説会がありましたそうですが、若旦那様はその時に、卒業生の総代になって、一番初めの演説を受持って御座るとかで、高等学校の服を着て行こうとなさるのをお八代さんが引止めて、大学校生徒の新しい服を着せてやろうとしました。その時に若旦那は苦笑いをしながら、どうしても着て行かぬ。まだ早いと云うて逃げようとされますのを、お八代さんが無理矢理に着せて、あとを見送りながら、さも嬉しそうにして涙を拭いておりました態度ようすが、今でも眼にすがっております。今から思えばあの時が、若旦那の大学服の着納めで御座いましたろう。
 ――ところで又、そのあくる日のきょうは今も申します通り、若旦那様とオモヨさんの、お芽出度めでたい日取りになっておりましたので、私共も一昨日おとといから泊り込みで手伝いに参っておりました。オモヨさんも高島田にうて、草色の振袖に赤襷あかだすきがけで働いておりましたが、何に致せ容色きりょうはあの通り、御先祖の六美むつみ様の画像も及ばぬという、もっぱらの評判で御座いますし、それに気質きだてがまことに柔和すなおで、「綺倆きりょう千両、気質が千両、あとの千両は婿次第」と子守女が唄うている位で御座いました。又、若旦那様はと申しますと年は二十歳はたちという事で御座いますが、分別といい、物ごしといい、三十近い者でも追い付かぬ位シッカリして御座って、ことに男ぶりが又御覧でも御座いましつろうが、お公卿くげ様にも無かろうと思われる位、品行がよろしゅう御座いましたので、これ位の夫婦は博多にもあるまいという噂で御座いました。……それにお支度が又金にかしたもので、若旦那の方から婿入りの形にするために、地境じざかいの畠を潰しまして、見事な離家はなれが一軒建ちました位で、そのほか着物は、福岡一の京屋呉服店から仕立てて来る。お料理の方も昨日きのうから、やはり福岡一の魚吉うおきちという仕出し屋が持ち込んで騒いでいるという勢いで、後家さんの気張りようというたなら大したもので御座いました。
 ――ところが昨日きのうの演説会での若旦那様のお役目というのはホンのチョットで、どんなに遅うなっても二時までには間違わずに帰ると云いおいて行かれたので御座いますが、とやかく致しておりますうちに三時が過ぎましても、お帰りの姿が見えませぬ。若旦那はこのような事は決して御間違いにならぬ性分で御座いましたので、私は年寄役に、チョットこの事を不審を打ちますと皆の者は「おおかた演説の初まりが遅うなったとじゃろう」なんぞと申しまして格別気にかけませなんだ。しかし今までにこのような事は一度も無いので、折柄が折柄では御座いますし、私も心配せぬでは御座いませんでしたが、ツイせわしいのにまぎれておりますと、そのうちに日和癖ひよりぐせで、空が一面に曇って参りまして、長い春の日がにわかに夕方のように暗くなりました。すると、それで気がついたものと見えまして、明日あすからは母親のお八代さんが、濡れ手を拭き拭き私を物蔭に呼びまして「二十歳はたちにもなっとるけん間違いはなかろうが、まだ帰らぬ模様ごとあるけん、そこいらまで見に行ってくれまいか」という頼みで御座います。私もちょうどそう思うているところで御座いましたけに、やりかけておりました蒸籠せいろ修繕つくろいを片づけまして、煙草を一服吸うてから草鞋穿わらじばきのまま出かけましたのが、かれこれ四時頃で御座いましつろうか。軽便鉄道けいべん西新町にしじんまちまで行きまして、今川橋の電車の行き詰りの処に、煮売屋にうりやを開いております私の弟の処へ立ち寄りまして「うちの若旦那を見かけなんだか」とたずねますと「おお……その若旦那なら、今から二時間ばかり前にここを通って、軌道には乗らずに歩いて西の方へ行かっしゃった。初めて大学の服をば着て御座るのを見たけん、二人が表に出て、しばアらく見送っておった。え婿どんじゃなア」と夫婦で申します。
 ――若旦那は平生ふだんからこの軌道の煙のにおいがお嫌いだそうで、高等学校に行かっしゃる時も運動になるからちうて、毎日毎日姪の浜から田圃たんぼ伝いに歩かっしゃった位で御座います。しかし、それにしても今川橋から姪の浜までは一里そこらで御座いますから、二時間もかかる筈はないが……と心配しいしい帰りかけましたのが四時半頃で御座いましつろうか。国道沿いの軌道伝いに帰って参りましたところが、ちょうど姪浜ここから程近い道傍みちばたの海岸側に在る山の裾に石切場が御座います。切っております石は姪浜石めいのはまいしと申しまして黒い柔かい石で、お帰りに御覧になればお解りになりますが、福岡の方から参りますにも、又、こっちから福岡の方角に出ますにも、是非とも通らなければならぬ処で御座います。……あの石切場の石が屏風のように突立って、西日を赤々と受けております奥の方の薄暗い処へ、四角い帽子を冠った洋服の姿がチラリと動いて見えたように思いました。
 ――私は眼が悪う御座いますが、これこそと思って近寄って見ますと、あんじょう若旦那様で、高岩の蔭に腰をかけて、何か巻物のようなものを見ておいでになります。私は、そこいらに積み重ねてある切石の上を伝うて、ちょうど若旦那の頭の上に出ましたので、ソロ――ッと首を伸ばして覗いて見ますと、それは長い長い巻物の途中と思われる処で御座いましたが、不思議なことには、それは只の白い紙ばかりで、何一つ書いて無いもののように見えました。しかし若旦那の眼には、何か見えておりましたらしく、その白い処を一心になって見て御座る様子で御座います。
 ――私は呉様のお家にたたる絵巻物があるという事をかねてから噂には聞いておりました。けれどもそれはもう余程大昔の事で、今の世の中に、そのような事があろう筈はない。あっても話ばかりと思うておりましたけに、真逆まさかその巻物がソレであろうとは夢にも思いつきません。やはり眼が悪いのだろうと思いまして、若旦那に気取けどられぬように、出来るだけ顔を近付けて見ましたけれども、白い紙はやはり白い紙で、いくら眼をこすりましても、物が書いてある模様は見えません。
 ――サア私は不思議でならなくなりました。若旦那が何を見て御座るのか、一つ聞いて見ようと思いますと、急いで岩角を降りました。そうしてワザと遠廻りをして、若旦那の前に出てヒョッコリ顔を合わせますと、若旦那は私が近寄りましたのに気もつかれぬ様子で、半開きの巻物を両手に持ったまま、西の方の真赤になった空を見て何かボンヤリと考えて御座るようで御座います。そこで私が咳払いを一つ致しまして「モシ若旦那」と声をかけますと、ビックリさっしゃった様子で、私の顔をツクヅク見ておいでになりましたが「おお、仙五郎か。どうしてここへ来た」と初めて気が附いたようにニッコリ笑われますと、裏向きにして持って御座った巻物を捲き納めながら、グルグルとひもで巻いてしまわれました。私はその時若旦那が、何か余程大切な事を考え御座ったものとばかり思っておりましたから、何の気もつかずに、お八代さんが心配して御座る事を話しまして「一体それは何の巻物で御座いますか」と手に持って御座るのを指して尋ねました。そうすると、又いつの間にか背振山せぶりやまの方をふり返って、何か考えて御座った若旦那様は、又、ハッとしたように私の顔と、巻物とを見比べておられましたが「これかね。これは僕がこれから仕上げねばならぬ巻物で、出来上ったら天子様に差し上げねばならぬ大切な品物だ。誰にも見せる訳に行かん」と云い云い外套の下の洋服のポケットにお入れになりました。
 ――私はいよいよ訳がわからぬようになりましたが「しかし、その中には何が書いて御座いますので……」と申しますと、若旦那は心持ち赤くなられまして、苦笑いをしながら「それは今にわかる。とても面白いお話と、恐ろしい絵がいてある。僕達が式を挙げる前に是非とも見ておかねばならぬものだとその人が云われた……今にわかる……今にわかる……」と云われました。私は何だか訳がわかったような、わからぬような妙な気持ちになりましたが、しかし、その若旦那のものの仰言おっしゃりようが、何とのううわそらで、平生いつもとは余程違うて御座る事に気が附いて参りましたので、執拗しつこいようでは御座いましたが今一度念のために「ヘエー。そのようなものを誰が差し上げました」と尋ねますと、又も穴のあく程、私の顔を凝視みつめておられました若旦那様は、やがて又、ハッと正気づかれたように眼を丸くして、二三度パチパチとまたたきをされました。そうして何を考えられましたものか、すこし涙ぐんで口籠くちごもりながら「これを僕にれた人かね……それは死んだお母さんの知り合いの人で、お母さんから秘密に預かった巻物を私に返しに来たのだ。その人は又そのうちにキット私にめぐり会おう。名前はその時に云って聞かせよう……と云ったきりで、どこかへ消え失せてしまったが、私はその人が誰だかチャンと知っている。しかし……まだ何も云われん云われん。お前もこの事を他人に云う事はならん。よいか……サア行こう行こう」と云われるうちに若旦那はにわかにソワソワとなられて、石の上を飛び飛びに往来に出て、私の先に立ってズンズンお歩きになりましたが、そのおみ足の早かった事……まるで物に取りかれたようで、平生いつもとまるで違うておりました。今から思いますと、あの時からもう、いくらか妙なきざしがありましたようで……。
 ――若旦那が家へお着きになりますと、すぐにお八代さんに「只今……遅うなりました」と云われましたが、お八代さんが「仙五郎に会いなすったか」と尋ねますと「ハイ。石切場の所で会いました。今そこに帰って来ております」と云うて、うしろから這入って来た私を指示ゆびさされまして、サッサと離家はなれの方へ行かれました。お八代さんは、それで安心したらしく、私には別に何にも尋ねずに、唯「御苦労」を云うただけで、横の板張に親椀おやわんを並べて拭いていたオモヨさんに眼顔で、差図さしずをしますと、オモヨさんは大勢に見られながら、恥かしそうに立上って、若旦那の後から鉄瓶をげて、離家の方へ行きました。
 ――それからもう一つ、これは後から訳が判ったように思うので御座いますが、日が暮れるまえにチョット妙な事が御座いました。……私はそれから裏口の梔子くちなしの蔭にむしろを敷きまして、煙管きせるくわえながら先刻さいぜん蒸籠せいろつくろい残りをつづくっておりましたが、そこから梔子の枝越しに、離家の座敷の内部ようす真正面まむきに見えますので、見るともなく見ておりますと、若旦那は離家のお座敷の机の前で着物を着換えさっしゃってから、オモヨさんが入れたお茶を飲みながら、何かしらオモヨさんに云い聞かせて御座るようで……硝子ガラス雨戸の中ですから声はわかりませぬが、お顔の色が平生いつもになく青ざめて、眉がヒクヒクと動いているあんばいは、まるで何か叱って御座るようにも見えましたが、しかしよく気をつけて見ますと、そうでも御座いません。当の相手のオモヨさんはその前で洋服を畳みながら、赤い顔をして笑い笑い「イヤイヤ」と頭を横に振っているようで、まことに変なアンバイで御座いました。
 ――ところがそれを見ると若旦那はいよいよ青い顔になられまして、オモヨさんにピッタリとニジリ寄って行かれました。そうしてここから見えます、あの三ツ並んだ土蔵おくらの方角を指さして見せながら、片手をオモヨさんの肩にかけて、二三度ゆすぶられますと、最前から火のように赤うなって身体からだをすぼめていたオモヨさんが、やっとのこと顔をあげて、若旦那と一緒に土蔵おくらの方を見ましたが、やがて嬉しいのか悲しいのか解らぬような風付ふうつきで、水々しい島田の頭をチョットばかりたてに振ったと思うと、首のつけ根まで紅くなりながら、ガックリとうなだれてしまいました……まるで新派の芝居でも見ておりますようなアンバイで……ヘイ……。
 ――するとその態度ようすをジット見て御座った若旦那は、オモヨさんの肩に手をかけたまま中腰になって硝子ガラス雨戸越しにそこいらをジロジロと見まわして御座るようでしたが、やがて軒先のきさきの夕空を見上げながら、思い出したように白い歯を出して、ニッタリと笑われました。そうして赤い舌を出してペロペロと舌なめずりをさっしゃったようでしたが、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いました事というものは、思わずゾッと致しました位で……ヘイ……けれども真逆まさか、それがあのような事の起る前兆まえおきとは夢にも思い寄りませなんだ。ただ学問のある人はあのような奇妙な素振りをするものか……と思い思いせわしさにまぎれて忘れておりましたような事で……ヘイ……。
 ――それから昨晩、家中うちじゅうの者が一人残らず寝静まってしまいましたのが午前の二時頃の事で御座いましたろうか。花嫁御のオモヨさんと、母親のお八代さんとは母屋おもやの奥座敷に……それから花婿どんの若旦那と、親代りの附添役になりました私は、離家はなれに床を取ってやすみました。もっとも私は若旦那よりもズット遅れまして、十二時過ぎに湯に這入りまして、離家の戸締りを致しますと、若旦那のお次の間の、茶の間になっている処へ床を取って寝みましたが、年寄りの癖で、今朝けさほど、まだ薄暗いうちに眼が醒めましたので、便所へ行こうと思いまして、二方硝子ガラス雨戸の薄ら明りを便たよりに若旦那のおへやの前の縁側まで来ますと、そこの新しい障子が一枚開いて、その前の硝子雨戸が又一枚開いてあります。それからお室の中を覗きますと、寝床の中に若旦那のお姿が見えません。……ハテ妙な事……と思いますとチョット胸騒ぎが致しましたが、外は小雨が降っておりましたので、新しい台所の上り口から自分の下駄を持って参りまして、飛び石伝いに母屋の方へ参りますと、奥座敷の戸袋の処が一枚開いて、そこにすこしばかり砂のついた下駄の跡が薄明りなりに見えるようで御座います。私はそこで又チョット考えましたが、間もなく思い切って下駄を脱いで、抜き足さし足で廊下を伝って行って、奥座敷の硝子障子を覗き込みますと、暗い電燈の下に、お八代さんは片手を投げ出して寝ておりますが、その横に敷いてあるオモヨさんの寝床は藻抜もぬけの殻で、夜具が裾の方に畳み寄せてありまして、ぐくしの高枕が床のまん中に置いてある切りで御座います。
 ――私はその時にようやっと最前日暮れ方に見た事を思い出しまして……ナアンダ、そんな事だったか。それなら別段心配せんでもよかったに……と、どうやら胸を撫でおろしました。……が……しかし又考えてみますと、この道ばかりは別とはいえ、あの若旦那のなさる事にしてはチョット様子が可怪おかしいと気がつきましたので、又、何とのう胸騒ぎがし初めました。やっぱり虫が知らせるというもので御座いましつろうか……とにかく自分の手落ちになってはならぬ。皆が起きぬうちに……と思いましたから、お八代さんを起したので御座いますが、私がオモヨさんの寝床を指さしまして、コレコレと申しますと、眼をこすっておりましたお八代さんはハッとした様子で……「この頃一郎が、何か巻物のようなものをば持っとるのを見かけはせんじゃったか」……と不意に妙な事を尋ねながら、寝床の上にピタリと座り直しました。私は、しかし、その時までは何も心付きませんので「……ヘエ……昨日きのう、石切場で会いました時に、何か存じませんが白い紙ばかりの、長い巻物を読んで御座ったようで……」と申しましたが、その時のお八代さんの血相の変りようばっかりは今でも忘れません……「又出て来たか――ッ」とカスレたような声で申しますと、唇をギリギリと噛んで、両手を握り固めてブルブルとふるわして、眼を逆様さかさまに釣り上げて、チョット取り詰めた(逆上喪神の意)ようになりました。私は何事か判らぬままにきもつぶしまして、尻餅しりもちをついたまま見ておりますと、やがてお八代さんは気を取り直した様子で、涙をハラハラと流したのをたもとで拭い上げまして、泣き笑いのような顔をしながら「イヤイヤ。私の思い違いかも知れぬ。お前の見違いかも知れぬ。とにかくどこに居るか探しておくれ」と云うて立ち上りました。その時はもう平生いつもとかわらぬ風付ふうつきで、先に立って縁側から降りて行きましたが、実はよほど周章うろたえて御座ったと見えまして、跣足はだしで表口の方へ行かっしゃる後から、私が下駄を穿いていて行きました。
 ――小雨はもうその時には降りやんでおりましたようですが、間もなく離家はなれの前の……ここから見えますあの一番右側の三番土蔵ぐらの前まで来ました時に、私は土蔵くらの北向きになっている銅張あかがねばりのが、開いたままになっているのに気が付きまして、先へ行くお八代さんを引止めて指をさして見せました。あとから考えますとこの三番土蔵は、麦秋むぎ頃まで空倉あきぐらで、色々な農具が投げ込んでありまして出入りがはげしゅう御座いますので、若い者がウッカリして窓を明け放しにしておく事がチョイチョイ御座いました。この時なぞもそうだったかも知れませぬので、別に不思議がる事はなかった筈で御座いますが、昼間の事を思い出しましたせいか、思わずハッとして立ち止りましたので……するとお八代さんもうなずきまして、土蔵くらの戸前の処へまわって行きましたが、内側からどうかしてあると見えまして、土戸つちど微塵みじんも動きません。すると、お八代さんは又うなずいて、すぐ横の母屋の腰板に引っかけてある一間半の梯子はしごを自分で持って来て、土蔵の窓の下にソッと立てかけて、私に登って見よと手真似で云いつけましたが、その顔付きが又、尋常で御座いません。その上に、その窓を仰いで見ておりますと、何かチラチラ灯火あかりがさしている模様で御座います。
 ――私は御承知の通り大の臆病者で御座いますから、どうもい心地が致しませんでしたが、お八代さんの顔付きが、生やさしい顔付では御座いませんので、余儀なく下駄を脱ぎまして、尻を端折からげまして、梯子を登り詰めますと、その窓の縁に両手をかけながら、ソロッと中の様子を覗いたので御座いますが……覗いているうちに足の力が抜けてしもうて、梯子が降りられぬようになりました。それと一緒に窓の所にかけておりました両手の力が無くなりましたようで、スッテンコロリと転げ落ちますと、腰をしたたかに打ちまして、立ち上る事も逃げ出す事も出来なくなりました。
 ――ヘイ。その時に見ました窓の中の光景ありさまは、一生涯忘れようとして忘れられません。そのもようを申しますと、土蔵くらの二階の片隅に積んでありました空叺あきがますで、板張りの真中に四角い寝床のようなものが作ってありまして、その上にオモヨさんの派手な寝巻きや、赤いゆもじが一パイに拡げて引っかぶせてあります。その上に、水のしたたるような高島田にうたオモヨさんの死骸が、丸裸体まるはだかにして仰向けに寝かしてありまして、その前に、母屋おもやの座敷に据えてありました古い経机きょうづくえが置いてあります。その左側には、お持仏じぶつ様の真鍮しんちゅうの燭台が立って百匁蝋燭めろうそくが一本ともれておりまして、右手には学校道具の絵の具や、筆みたようなものが並んでいるように思いましたが、細かい事はよく記憶おぼえませぬ。そうしてそのまん中の若旦那様の前には、昨日きのう石切場で見ました巻物が行儀よく長々と拡げてありました……ヘイ……それは間違い御座いませぬ。たしかに昨日見ました巻物で、はじ金襴きんらんの模様や心棒(軸)の色に見覚えが御座います。何も書いてない、真白い紙ばかりで御座いましたようで……ヘイ……若旦那様はその巻物の前に向うむきに真直に座って、白絣しろがすりの寝巻をキチンと着ておられたようで御座いますが、私が覗きますと、どうしてどられたものか静かにこちらをふり向いてニッコリと笑いながら「見てはいかん」という風に手を左右に振られました。尤も、斯様かようにお話は致しますものの、みんな後から思い出した事なので、その時は電気にかかったように鯱張しゃちばってしまって、どんな声を出しましたやら、一切夢中で御座いました。
 ――お八代さんはその時に私を抱え起しながら何か尋ねたようで御座いますが、返事を致しましたかどうか、よく覚えませぬ。土蔵の窓をゆびさして何か云うておったようにも思いますが……そうするとお八代さんは何か合点がてんをしたようで、倒れかかった梯子を掛け直して自分で登って行きました。私は止めようとしましたが腰が立たぬ上に歯の根が合わず、声も出ませぬので、冷い土の上に、うしろ手を突いたまま見上げておりますと、お八代さんは前褄まえづまをからげたままサッサと梯子を登って、窓のふちに手をかけながら、矢張やっぱり私と同じようにソロッと覗き込みました。……が……その時のお八代さんの胆玉きもたまわりようばっかりは、今思い出しても身の毛が竦立よだちます。
 ――お八代さんは窓から、中の様子をジッと見まわしておりましたが「お前はそこで何事なんごとしおるとな」と落付いた声で尋ねました。そうすると中から若旦那様が、いつもの通りの平気な声で「お母さん……ちょっと待って下さい。もうすこしすると腐り初めますから……」と返事なさるのがよく聞えます。四囲あたりがシンとしておりますけに……そうするとお八代さんは、チョット考えておるようで御座いましたが「まあだナカナカ腐るもんじゃない。それよりも最早もう夜が明けとるけん、御飯をば喰べに降りて来なさい」と云いますと、中から「ハイ」と云う返事がきこえまして、若旦那が立上られた様子で、窓際に映っている火影ほかげがフッと暗くなりました……が……これが現在の娘の死骸を眼の前に置いた母親の言えた事で御座いましょうか……それから、お八代さんは急いで梯子から降りて来て、私に「お医者お医者」と云いながら、土蔵くらの戸前の処に走って行きましたが……お恥しい事ながら、その時は何の事やら解りませんでしたので、又、解ったにしたところが、腰が抜けておりますから行かれもしません。只、恐ろしさの余り、立っても居てもいられずにふるえておりましたようで御座います。
 ――土蔵の戸前が開きますと、中から若旦那が片手に鍵を持って、庭下駄を穿いて出て来られて、私共を見てニッコリ笑われましたが、その眼付きはもう、平常いつもと全く違うておりました。待ちかねていたお八代さんは、その手からソッと鍵を取り上げて、何かだますかすような風付ふうつきで、耳に口を当てて二言三言云いながら、サッサと若旦那の手を引いて、離家はなれに連れ込んで寝かして御座るのが、私の処からよく見えました。
 ――それからお八代さんは引返して、土蔵くらの二階へ上って、何かコソコソやっているようで御座いましたが、私はその間、たった一人になりますと、生きた空もない位恐ろしゅうなりましたので、這うようにして土蔵のうしろの裏木戸まで来まして、そこに立っている朱欒じゃがたらの樹にすがり付いて、やっとこさと抜けた腰を伸ばして立ち上りました。すると頭の上の葉の蔭で、土蔵の窓の銅張あかがねばりの扉がパタンとまる音が致しましたから、又ギックリして振り返りますと、今度は土蔵の戸前にガッキリと鍵をかけた音が致しまして、間もなく左手に、巻物をシッカリと掴んだお八代さんが裸足はだしのまま髪を振り乱して離家の方へ走って行きました。そうして泥足のまま縁側から馳け上りまして、たった今寝たばかりの若旦那を引き起して巻物をさしつけながら恐ろしい顔になって、何か二言三言責め問うているのが、もう明るくなった硝子ガラス戸越しによく見えました。
 ――若旦那はその時に、昨日きのうの石切場の方を指して、頭を振ったり、奇妙な手真似や身ぶりをぜたりして、何かしら一所懸命に話して御座るように見えました。そのお話はよく聞いてもおりませんでしたし、六ヶ敷むずかしい言葉ばかりで、私共にはよく判りませんでしたが「天子様のため」とか「人民のため」とかいう言葉が何遍も何遍も出て来たようで御座いました。お八代さんも眼をまん丸くしてうなずきながら聞いているようで御座いましたが、そのうちに若旦那はフイと口をつぐんで、お八代さんが突きつけている巻物をジイッと見ていられたと思うとイキナリそれを引ったくって、懐中ふところへ深く押込んでしまわれました。するとそれを又お八代さんは無理矢理に引ったくり返したので御座いましたが、あとから考えますと、これが又よくなかったようで……若旦那様は巻物をられると気抜けしたようになって、パックリと口を開いたまま、お八代さんの顔をギョロギョロと見ておられましたが、その顔付きの気味のわるかった事……流石さすがのお八代さんも怖ろしさに、身を退いて、ソロソロと立ち上って出て行こうとしました。するとそのたもとを素早く掴んだ若旦那様は、お八代さんを又、ドッカリと畳の上に引据えまして、やはりギョロギョロと顔を見ておられたと思うと、さも嬉しそうに眼を細くしてニタニタと笑われました。
 ――その顔を見ますと、私は思わず水を浴びせられたようにゾッとしました。お八代さんも慄え上ったらしく、無理に振り切って行こうとしますと、若旦那はスックリと立ち上って、縁側を降りかけていたお八代さんの襟髪えりがみを、うしろから引っ捉えましたが、そのまま仰向けにき倒して、お縁側から庭の上にズルズルときずりおろすと、やはりニコニコと笑いながら、有り合う下駄を取り上げて、お八代さんの頭をサモ気持さそうに打って打って打ち据えられました。お八代さんは見る見る土のように血のがなくなって、頭髪がザンバラになって、顔中にダラダラと血を流して土の上に這いまわりながら死に声をあげましたが……それを見ますと私は生きた心が無くなって、ガクガクする膝頭を踏み締め踏み締め腰を抱えて此家ここへ帰りまして「お医者お医者」とかないに云いながら夜具をかぶって慄えておりました。そうしたらそのお医者の宗近むねちかどんが、戸惑とまどいをして私の家へ参りましたので「呉さんのとこだ呉さんのとこだ」と追い遣りました。
 ――私が見ました事はこれだけで御座います……ヘイ……皆正真正銘で、掛け値なしのところで御座います。あとから聞きますと、お八代さんの叫声さけびごえを聞きつけた若い者が二三人起きて参りまして、若旦那を押えつけて、細引で縛ったそうで御座いますが、その時の若旦那の暴れ力というものは、とても三人力や五人力ではなかったそうで、細引が二度も引っ切れた位だそうで御座います。それをやっとの事で動けないようにして、離家はなれの床柱の根方ねもとくくり付けますと、若旦那は疲れが出たらしく、そのままグウグウ眠って御座ったそうですが、やがてそのうちに又眼が醒めますと不思議にも、若旦那の様子がガラリと違いまして、警察の人が物を尋ねられても、ただ何という事なしにキョロキョロして御座るばかり、返事も何もなさらなかったそうで御座います。……この前、直方のうがたでも、あの病気が出たそうで御座いますが、その時はやはり大学の先生のお調べで、麻痺薬まやくをかけられていた事が判りましたそうで、その後も何とも御座いませんので連れて来たと、お八代さんは云うておりましたが、血統ちすじというものは恐ろしいもので今度の模様を見て見ますと、やはりあの巻物の祟りに違いないようで御座います。
 ――もっともこの巻物の祟りと申しますのも久しい事出ませんので、私共も、どんな事か存じません位で御座いますが……何でもあの巻物は、向うに屋根だけ見えております……あの如月寺にょげつじというお寺様の、御本尊の腹の中に納っておりましたものだそうで、それを見ますと、呉家の血統の男に生れたものならば、きっと正気を取り失いまして、親でも姉妹きょうだいでも、又は赤の他人でも、女でさえあれば殺すような事を致しますのだそうで、その由来ことわけを書いたものが、あのお寺にあるとか……ないとか云うておるようで御座いますが……その巻物が、どうして若旦那様のお手に這入りましたものか不思議と申すほか御座いません。……ヘイ……あの如月寺の只今の御住持様は、法倫ほうりん様と申しまして、博多の聖福寺しょうふくじ様と並んだ名高いお方だそうで御座いますから、こんな因縁事なら何でもおわかりの事と思いますが……ヘイ……もう余程のお年寄りで、鶴のようにせたお身体からだに、眉とひげが、雪のように白く垂れ下がった、それはそれは、有り難いお姿の、和尚おしょう様で御座います。何ならお会いになりまして、お話をお聞きになって御覧なされませ。かかあに御案内を致させますから……。
 ――ヘイ……お八代さんは今では半狂乱きちがいのようになったまま足をくじいて床に就いているそうで御座います。頭の怪我けがは大した事はないとの事で御座いますが、云う事は辻褄つじつまが合うたり合わなんだりするそうで、道理もっともとも何とも申しようが御座いません。腰が抜けておりますので、お見舞いにも行かれませんで……。
 ――私が宗近(医師の姓)へ走らなかったので万事が手遅れになったように申した者もあったそうで御座いますが、これは無理で御座います。オモヨさんが絞め殺されたのは今朝の三時から四時の間だと、宗近さんが私の腰をに来た時に云うておりました。蝋燭の減り加減がやっぱりそれ位の見当で御座いましたそうで。……ヘエ……あとは只今お話し申し上げた通りで御座います。お八代さんがたしかにしておれば何もかもわかる筈で御座いますが、今も申上げました通り、若旦那をうらんだような事を云うかと思えば……早う気を取り直してくれよ。お前一人が杖柱つえはしら……なぞと夢うつつに申しておりますそうで、トント当てになりませぬ。
 ――まだ警察の方は一人も私の処へ尋ねてお出でになりませぬ。……と申しますのは、この騒動に一番先に気が付きました者は、お八代さんの金切声をきいて馳け付けた、泊り込みの若い者しか居りませぬ。警察の方はそれからのちの話を詳しく調べてお帰りになりましたそうで……私はもうその前から用心を致しまして、もし自分が疑われてはならぬと思いましたから、宗近先生に口止めを頼みましたが僥倖しあわせと大騒動にまぎれて、誰が宗近先生をびに行ったやら、わからずにおりましたところへ、思いがけない先生のお尋ねでもうもう恐れ入りました。ヘイ。何一つ隠し立ては致しません。なろう事なら先生のお力でこの上警察に呼ばれぬようにお願い出来ますまいか。この通り腰が抜けておりますし、警察と聞いただけでも私は身ぶるいが出る性分で御座いますから……ヘイ……。

◆第二参考 青黛山如月寺縁起せいたいざんにょげつじえんぎ
       (開山一行上人いちぎょうしょうにん手記)
       ――註――同寺は姪浜めいのはま町二十四番地に在り。呉家四十九代の祖虹汀こうてい氏の建立に係る――

 あしたに金光をちりばめし満目まんもくの雪、ゆうべには濁水じょくすいして河海かかいに落滅す。今宵こんしょう銀燭をつらねし栄耀えいようの花、暁には塵芥じんかいとなつて泥土にす。三界は波上のもん、一生は空裡くうりの虹とかや。いわんや一旦の悪因縁を結んで念々に解きやらず。生きては地獄の転変に堕在し、叫喚鬼畜の相をげんし、死しては悪果を子孫に伝へて業報ごっぽう永劫の苛責に狂はしむ。その懼怖くふ、その苦患くげん、何にたとへ、何にたくらべむ。
 こゝにこの因果を観じて如是にょぜ本末の理趣ことわり究竟くきょうし、根元こんげんを断証して菩提心に転じ、一宇の伽藍がらんを起して仏智慧ぶつちえ荘儼しょうごんたてまつり、一念称名しょうみょう人天咸供敬にんてんげんくぎょうの浄道場となせる事あり。その縁起をたずぬるに、慶安の頃ほひ、山城国、京洛、祇園の精舎しょうじゃに近く、貴賤群集のちまたに年経て住める茶舗美登利屋みどりやといふがあり。毎年宇治のめいを選んで雲上うんじょうたてまつり、「玉露」と名付けてほうを全国に伝ふ。当主を坪右衛門つぼえもんと云ひ一男三女を持つ。なん坪太郎つぼたろうと名づけ、鍾愛しょうあい此上無かりしが、此男子なんし、生得商売あきないの道を好まず、いとけなき時より宇治黄檗おうばくの道人、隠元いんげん禅師に参じて学才人に超えたり。かたはら柳生の剣法に達し、又画流を土佐派にみ、俳体を蕉風しょうふうに受けて別に一風格を成す。長じて空坪くうへいと号し、ひたすら山水を慕ひてまた、家をぐの志無し。しかれども年長ずるにしたがひ他に男子無きの故を以て妻帯を強ひらるゝ事一次ならず、学業未到の故を以て固辞すといえどもかん葛藤を避くるにいとまあらず。ついに、父坪右衛門のこいにより隠元老師の諭示を受くるに到るや、心機一転する処あり、
「二十五の今日まで聞かず不如帰ほととぎす
 といふ一句を吾家の門扉に付して家を出で法体ほったいとなりて一笠一杖いちりゅういちじょうに身を托し、名勝旧跡を探りつゝ西を志す事一年に近く、長崎路より肥前唐津からつに入り来る。時に延宝二年春四月の末つかた、空坪年二十六歳なり。
 空坪此地の景勝を巡りて賞翫する事一方ならず。虹の松原にちなんで名を虹汀こうていと改め、八景を選んで筆紙をべ、自ら版に起してあまねく江湖こうこわかたん事をおもへり。かくて滞留すること半載はんさいあまり、折ふし晩秋の月まどかなるに誘はれて旅宿を出で、虹の松原に上る。銀波、銀砂につらなる千古の名松は、清光のうちに風姿をくして、宛然えんぜん、名工の墨技ぼくぎ天籟てんらいを帯びたるが如し。行く事一里、漁村浜崎はまさきを過ぎて興なお尽きず。更に流霜りゅうそうふ事半里にしてえびすはなに到り、巌角につて遥かに湾内の風光を望み、雁影を数へつゝ半宵はんしょうに到りぬ。
 折しもあれ一人の女性にょしょうあり。年の頃二八には過ぎじと思はるゝが、華やかなる袖をひるがえし、白く小さき足もと痛ましげに、荒磯の岩畳を渡りて虹汀のかたわらに近づき来り、見る人ありとも知らず西方に向ひて手を合はせ、良久しばし祈念をらすよと見えしが、涙を払ひて両袖をかき抱き、あはや海中に身を投ぜむ気色きしょくなり。虹汀おどろき馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴ひ、事の仔細を問ひ訊すに、かの乙女、はじめはひたぶるに打ち泣くのみなりしが、やう/\にして語り出づるやう。わらわは此の浜崎といふ処に、くれなにがしといふ家の一人娘にて六美女むつみじょと申す者にはべり。吾家わがいえ、代々此処の長をつとめて富み栄え候ひしが、満つれば欠くる世の習ひとかや。さるにてもまた、世に恐ろしき因縁とこそ申しつれ。昔より吾家に乱心の血脈尽きず。只今に及び候ては、妾唯一人、悲しくも生きて残り居る有様にてさむらふ。
 その最初はじめを如何にと申すに、吾家に祖先より伝はれる一軸の絵巻物のはべり。中に美婦人の裸像を描きとどめたり。うけたまわり及びたる処によれば、呉家の祖先なにがしと申せし人、最愛の夫人に死別せしを悲しみ、そのしかばねの姿を丹青たんせいに写しとどめ、電光朝露の世の形見にせむと、心を尽して描きめしが、如何なる故にかありけむ、その亡骸なきがらみる/\うちに壊乱えらんして、いまだその絵のなかばにも及ばざるに、早くも一片の白骨と成り果て候ひぬ。あるじの歎き一方ひとかたならず、遂に狂ほしき心地と相成り候ひしを、亡き夫人の妹くれがしうじ、いろ/\に介抱し侍りしが力及ばず、遂に夫人と同じ道に入り候ひぬ。その時妹のくれがし氏は、その狂へる人のたねを宿し、既に生み月に近き身に候ひしが、同じ歎きを悲しびて、やがて又、めいを終らむばかりなりしを、やう/\に取り止め候ひしとか承り及びて候。
 去る程にその折ふし、筑前太宰府、観世音寺かんぜおんじの仏体奉修の為め、京師けいしより罷下まかりくだり候ひし、勝空しょうくうとなん呼ばるゝ客僧かくそうあり。奉修の事へて帰るさ、行脚あんぎゃついでに此のあたりに立ちまはり給ひしが、此の仔細を聞き及ばれて不憫ふびんの事とやおぼされけむ。吾家にしゃくとどめ給ひてその巻物を披見ひけんせられ、仏前に引摂結縁いんじょうけちえんし給ひてねんごろ読経供養どきょうくようを賜はりしのち、裏庭に在りし大栴檀樹だいせんだんじゅつて其の赤肉せきにくを選み、手づから弥勒菩薩みろくぼさつの座像をきざみて其の胎内にの絵巻物を納め、吾家の仏壇の本尊に安置し、向後こうごこの仏壇の奉仕と、此の巻物の披見は、此の家の女人のみを以てつかまつる可し。そのほか一切の男子の者を構へて近づくる事なかれと固くいましめて立ち去り給ひぬ。
 その後、かの狂へる人のたね、玉の如き男子なりしが、事無く此世に生まれ出で、長じて妻を迎へ、吾家の名跡みょうせきを継ぎ候ひしが、勝空上人の戒めに依り、仏壇には余人を近づけしめず。閼伽あか香華こうげの供養をば、その妻女一人につかさどらしめつゝ、ひたすらに現世げんぜの安穏、後生の善所を祈願し侍り。されども狂人の血をけ侍りし故にかありけむ。この男子壮年に及びて子宝こだから幾人いくたりを設けしのち、又も妻女の早世にふとひとしく乱心仕りて相果あいはて候。その後代々の男子の中に、折にふれ、事にさわりて狂気仕るもの、一人二人と有之これあり。その病態さま世の常ならず。あるいは女人をあやめむと致し、又は女人の新墓にいはか鋤鍬すきくわを当つるなぞ、安からぬ事のみ致し、人々これを止むる時は、その人をも撃ち殺し、傷つけ候のみならず、吾身も或は舌を噛み、又はくびれて死するなぞ、代々かはる事なく、誠に恐ろしき極みに侍り。
 かやうの仕儀に候へば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ。あるひは男子の身にての絵巻物を窺ひたるたたりと申し聞え、又は不浄の女人の、の仏像に近づけるさわりかと怪しむなぞ、遠きも近きも相伝へて血縁を結ぶことをみ嫌ひ候為め、吾家の血統ちすじの絶えなむとする事度々に及び候。さ候へば、あるひは金銀に明かし、又は人を遠き国々に求めてからくも名跡を相立て候ひしが、近年に及び候ては下賤乞食こつじきに到るまでも、吾家の縁辺と申せば舌をふるはし身をわなゝかす様に侍り。只今にては血縁の者残らず絶え果て、わらわ、唯一人と相成りて候。わけても妾の兄御前ごぜん二人は、此程引続きて悩乱のていとなり、長兄は介隈かいわいの墓所をあばき、次兄は妾を石にて打たむと仕るなぞ、恐ろしき事のみ致したるはて、相次ぎて生命いのちを早め侍りしばかりにて、さる噂、一際ひときわ高まりたる折節に候へば大抵およその家の者はいとまを請ひ去り、永年召し使ひたる者も、妾を見候てため息を仕るのみ。はか/″\しく物云ふ者すらなく、わびしくも情なき極みと相成り果て候。
 さる程に、かゝる折柄、此の唐津藩の御家老職、雲井なにがしと申す人、此事を聞き及ばれ候ひて、御三男の喜三郎となん云へる御仁ごじんをば、妾が婿がねに賜はり、名跡をがせらる可き御沙汰あり。召し使ひたる男女なんにょ共、あたゞに立ち騒ぎ打ち喜びて、かほどの首尾しあわせはよもあらじと、今までに引き換へてさゞめき合ひ候ひしが、そが中に唯一人、妾をり育て候乳母めのとの者、さまで嬉しからぬおももちにて打ち沈み居り候故、その仔細を尋ね候ひしに、ため息して申し侍るやう。はゆめ/\喜ばしき御沙汰には候はず、妾の夫にて御屋敷奉公致せる者より卒度そとらし参りしやうには、の喜三郎と云へる御仁は、雲井様の妾腹の御子にて剣術の達者、藩内随一の聞え高き御方なるが、若き時より御行跡穏やかならず、長崎御番ごばん御伴おともしての地に行かれしより丸山の遊びに浮かれ、ついにはよからぬともがらまじわりを結びて彼処此処かしこここの道場を破りまはり、茶屋小屋の押し借りするなぞ、狼籍ろうぜきの限りを尽して身の置き処無きまゝに、此程ひそかに御帰国ありし趣に候。さりながら御家中の誰あつて、嫁婿の御望みを承るものなきのみならず、蛇、毛虫の如くみ恐れ居り候ひし処、当家の事を聞き及ばれ、かく御沙汰ありしものに侍り。のみならず、其のまことの下心は、御事済おんことずみののち、御家老の御威光をもちて、呉家の物なりを家倉いえくらともに押領せられむ結構とこそ承り候へ。御運とは申せ、力無き事とは申せ、御行末おんゆくすえの痛はしさを思へば、眼もれ、心も消えなむばかりと、涙を流して申し候。妾もいかゞはせむと打ち惑ひ侍りしが、かよわき身の詮方せんかたもなく、案じび候ひし折柄、此程の秋の取り入れごと相済み候ひて、やや落ち付き侍りし今宵こよいの事、の雲井喜三郎といふ御仁、御供人おんともびとも召し連れ給はず、御羽織袴おはおりはかまも召されぬまま、唯お一人にて、思ひもかけず吾家へお見えなされ候。
 は如何にとて皆々せまどひ、御酒肴ごしゅこう取りあへず奥座敷にしょうじ参らするうち、妾も化粧をあらためて御席にまかり出で侍りしが、の御仁体を見奉みたてまつるに、半面は焼けただれてひとへに土くれの如く、又残る片側かたつらは、眉千切ちぎれ絶え、まなじり白く出で、唇ななめかたよりて、まことに鬼のすがたとや云はむ。あまつさ何方いずかたにて召されしものか、御酒気あたりをくんじ払ひて、そのおそろしさ、身うちわなゝくばかりに侍り。そをやう/\にへ忍びて、心も危ふく御酌おしゃくに立ち候ひしに、御盃の数いく程も無きうちに、無手むずと妾の手をり給ひつ。その時、妾、思はず手を引き候ひしに、御盃の中のもの、御膝に打ちこぼれしより、たちまち御酒乱のていとならせ給ひ、押しとどむる乳母を抜く手を見せず討ち放され候。妾は其の間に逃れ出で、やう/\に此処まで参り侍りしが、かばかり打ち続く吾家の不祥、又は、此身の不倖ふしあわせのがれ方なく、たゞ死なむとのみ思ひ入り侍りしを、かくとどめられまゐらせ候。この上はただ尼とやならむ。巡礼とやならむ。何国いずくの御方か存じ参らせねど、此の上の御慈悲おんなさけに、そのすべ教へて賜はれかしと、砂にひれ伏して声を忍ぶていなり。
 虹汀聞き果てゝ打ち案ずる事稍久ややしばし、やがて乙女をたすけ起して云ひけるやう。よし/\吾にすべあり。今はさばかり歎かせ給ふな。づ其の絵巻物を披見して、御身おんみの因果を明らめ参らせむと、六美女の手をきて立ち去らむとする折しもあれ、松の陰より現はれ出でし半面鬼相の荒くれ武士、物をも云はず虹汀に斬りかゝる。虹汀、修禅の機鋒きほうを以て、身を転じてくうを斬らせ、咄嵯とっさに大喝一下するに、の武士白刃と共に空を泳いで走る事数歩、懸崖の突端より踏みはずし、月光漫々たる海中に陥つて、水烟すいえんと共に消え失せぬ。
 かくて虹汀は六美女を伴ひて呉家に到り、家人と共にの乳母の亡骸なきがらを取り収め、自ら法事読経どきょうして固く他言をいましめつ。さて仏間に入りて人を遠ざけ、本尊弥勒仏みろくぶつの体中よりの絵巻物を取りいだし、畏敬いきょう礼拝をげつゝ披見するに、美人の五体の壊乱えらん膿滌のうできせる様、只管ひたすら寒毛樹立かんもうじゅりつするばかりなり。すなはち仏前に座定ざじょうして精魂をしずめ、三昧さんまいに入る事十日余り、延宝二年十一月晦日みそかの暁の一点といふに、忽然こつぜんとしてまなこを開きていわく、
凡夫の妄執を晴らすは念仏にくは無し 南無阿弥陀なむあみだ 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏/\
 と声高らかに詠誦えいじゅする事三べんにして、くだんの絵巻物をかたわらの火炉中に投じ、一片の煙と化しおわんぬ。
 かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めてべけるやうは「われ、法力によつて、呉家の悪因縁を断つ事を得たり。すなはち此灰を仏像に納めて三界の万霊と共に供養くようし、自身は俗体となつて、此家に婿となり、勝果しょうかを万代にのこさむと欲す。家人の思はるゝ処あらば差し置かず承らまほし」とありけるが、一人も所存を申し出づるもの無く、ひたぶるに国老雲井家のとがめをおそるゝてい也。虹汀其心を察し、その日のうちに厚くねぎらひて家人にいとまを与へ、家屋倉廩そうりんを封じて「公儀に返還す。呉坪太くれつぼた」と大書したる木札を打ち、唯、金銀、書画の類のみを四駄に負はせて高荷たかにに作り、屈竟くっきょう壮夫わかものに口を取らせ、其身は弥勒の仏像を負ひて呉家の系図をふところにし、六美女の手を引きて、あくる日の昧爽まだきに浜崎を立ち出で、あずまの方を志す。折ふし延宝二年臘月ろうげつ朔日ついたちの雪、繽紛ひんぷんとして六美女の名にちなむが如く、長汀曲浦ちょうていきょくほ五里に亘る行路の絶勝は、須臾たちまちにして長聯ちょうれん銀屏ぎんぺいと化して、虹汀が彩管さいかんまがふかと疑はる。
 かくてやや一里を出でし頃ほひ、東天ようやくれないならむとする折しもあれ、うしろの方に当つて人音ひとおとおびただしく近づき来るものあり。虹汀、何事ぞと振り返るに、その数二三十と思しき捕吏とりての面々、手に/\獲物をたずさへたる中に、の海中に陥りし半面鬼相の雲井喜三郎、如何にしてかよみがえりけむ、白鉢巻、小具足、陣羽織、野袴のばかま扮装いでたち物々しく、長刀を横たへて目前に追ひ迫り来り、大音げてののしるやう、やをれ悪僧其処そこ動くな。此間はなんじを大公儀の隠目付かくしめつけと思ひあやまり、一旦の遠慮に惜しきやいばを収めしが、其後そののち藩命をこうむりて、あまねく汝の素性行跡を探りしに、画工といつわつて当城下の地形ちぎょううかがふのみならず、法体ほったいと装ひて諸国を渡り、有徳うとくの家をたばかつて金品をかすめ、児女をいざなひて行衛をくらます、不敵無頼の白徒しれものなる事、天地に照して明らかなり、汝空をかけり土にひそむとも今はのがるゝに道あるまじ、いでや者輩ものども、当藩の物を奪ひ去る無法狼藉ろうぜきの坪太はそれよ。女人を誘拐かどわかす卑怯未練の賊僧はそれよ。容赦なく踏み込んで召捕れやつと大喝すれば、声を合せて配下の同心、雪を蹴立てゝきおひかゝる。一方は峨々ががたる絶壁半天にかかれり。一面は断崖海に臨みて足もたまらず。背後には繊弱かよわき女人と人馬を控へたり。のがれつべうもこそあらじと見えつるが、虹汀少しも騒ぐ気色けしきなく、ひ奉りし仏像を馬士まごに渡し、網代笠あじろがさの雪を払ひて六美女に持たせつ、手に慣れし竹杖を突き、衣紋えもんつくろ珠数じゅず爪繰つまぐりつゝ、しづ/\と引返し進み出でければ、案にたがひし捕手の面々、気先を呑まれてぞ見えたりける。
 その時虹汀、大勢に打ち向ひて慇懃いんぎんに一礼を施しつゝ、咳一咳がいいちがいしてべけるやう、は御遠路のところ、まことに御苦労千万也。かゝる不届ふとどきの狼藉者を、かほどの大勢にて御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、まことに感服にへたりと云ふ可し。さは云へ折角の御芳志ならば、今すこしばかり彼方かなたの筑前領まで御見送り賜はりてむや。さすれば御役目とどこり無く相済みて、無益むやく殺生せっしょうも御座なかる可く、御藩の恥辱とも相成るまじ。此儀如何や。御返答承りしと言葉さわやかにえみを含めば、一同あきるゝ事稍久ややしばし焉。たちまちにして雲井喜三郎は満面に朱を注ぎつ。おのれ口の横さまに裂けたる雑言哉ぞうごんかな。此間こそ酔ひれて不覚をも取りたれ、今日は吾が刀のさびまでもあるまじ。かゝれや物共、相手は一人ぞ。女のほかは斬り棄つるとも苦しからず。かゝれ/\と刀柄つかをたゝけば、応と意気込む覚えの面々、人甲斐ひとがいも無き旅僧たびそう一人。何程の事やあらむとあなどりつゝ、雪影うつらふ氷のやいばを、抜きれ抜き連れきそひかゝる。虹汀さらば詮方せんかたなしと、竹の杖を左手ゆんでに取り、空拳を舞はして真先まっさきかけし一人のやいばを奪ひ、続いてかゝる白刃を払ひ落し、群がり落つる毬棒いがぼう刺叉さすまた戞矢かっし/\と斬落して、道幅一杯に立働らきつゝ人馬のかたわらに寄せ付けず、其のほか峯打ち当て身の数々に、或は気絶し又は悶絶して、雪中を転び、海中に陥るなど早くも十数人に及びける。
 思ひもかけぬ旅僧の手練てなみに、さしもの大勢あしらひ兼ね、しらみ渡つて見えたりければ、雲井喜三郎今は得堪えたへず、小癪こしゃくなる坊主の腕立てかな。いでや新身あらみの切れ味見せて、逆縁の引導いんどう渡しれむと陣太刀じんだちながやかに抜き放ち、青眼に構へて足法そくほう乱さず、切尖きっさきするどく詰め寄り来る。虹汀何とか思ひけむ。奪ひ持ちたる刀を投げ棄て、竹杖かろげに右手めてに取り直し、血にかっしたる喜三郎の兇刃に接して一糸一髪いっしいっぱつゆるめず放たず、冷々れいれい水の如く機先を制し去り、切々せつせつ氷霜ひょうそうの如く機後きごを圧し来るに、音に聞えし喜三郎の業物わざものも、大盤石だいばんじゃくに挟まれたるが如く、ひたすらに気息を張つて唖唖ああ切歯せっしするのみ。虹汀これを見て莞爾にっこりと打ち笑みつ。如何に喜三郎ぬし。早やさとり給ひしか。弥陀みだの利剣とは此の竹杖ちくじょうの心ぞ。不動の繋縛けばくとは此の親切の呼吸ぞや。たとひ百練千練の精妙なりとも、虚実生死しょうじの境を出でざるつるぎは悟道一片の竹杖にも劣る。眼前の不可思議かくの如し、疑はしくは其刀を棄て、悪心をひるがえして仏道に入り、念々に疑はず、刻々に迷はざる濶達かったつ自在の境界に入り給へ。然らずは一殺多生いっせつたしょうの理に任せ、御身おんみを斬つて両段となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死しょうじ断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那せつなぞ。如何に/\と詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪あおざまなこ血走り、白汗はっかんを流してあえぐばかりなりしが、流石さすがに積年の業力ごうりき尽きずやありけむ。又は一点の機微に転身をやしたりけむ、忽然こつぜん衝天しょうてんの勇をふるひ起して大刀を上段真向まっこうに振りかむり、精鋭一呵いっか、電光の如く斬り込み来るをひらりと避けつゝはたと打つ。竹杖のあやまたず。喜三郎の眉間みけんに当れば、まなこくるめき飛び退き様、横に払ひし虚につけ入りたる虹汀、喜三郎の腰に帯びたる小刀のつかに手をかくるとひとしく、さらば望みに任せするぞと、云ひも終らず一間余り走り退くよと見えけるが、再び大刀を振り上げし喜三郎は、そのまま虚空にのけぞりて、仏だふれにあおのきたふれつ。大袈裟おおげさがけに斬り放されし右の肩より湧き出づる血に、雪を染めつゝ息絶えける。
 此の勢ひに怖れをなしけむ。残りし者は遠く逃れて、はむとする者も見えざりければ、虹汀今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸なきがらに返し、たなごころを合はせ珠数じゅずみつゝ、念仏両三遍となへけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像をひ取り、人心ひとごころも無き六美女をいたわり慰めつ、笠を傾け、人馬を急がして行く程もなく筑前領に入り、深江ふかえといふに一泊し、翌暁まだまぬ雪をんで東する事又五里、此の姪の浜に来りて足をとゞめぬ。
 虹汀此の所の形相けいそうを見て思ふやう。此地、北に愛宕あたごの霊山半空にそびえつゝ、南方背振せぶり雷山らいさん浮岳うきだけの諸名山と雲烟うんえんを連ねたり。万頃ばんけいの豊田眼路めじはるかにして児孫万代を養ふに足る可く、室見川むろみがわの清流又杯をうかぶるにへたり。衵浜あこめはま小戸おどの旧蹟、芥屋けやいくの松原の名勝を按配して、しかも黒田五十五万石の城下に遠からず。まさに山海地形のすいを集めたるものと。すなはち従ひ来れる馬士まごを養ひて家人となし、田野を求めて家屋倉廩そうりんを建て、故郷京師けいし音信いんしんを開きて万代のはかりごとをなすかたわら、一地を相して雷山背振の巨木を集め、自ら縄墨じょうぼくつかさどつて一宇の大伽藍がらん建立こんりゅうし、負ひ来りたる弥勒菩薩の座像を本尊として、末代迄の菩提寺、永世の祈願所たらしめむと欲す。山門高くそびえては真如実相しんにょじっそうの月を迎へ、殿堂いらかつらねては仏土金色こんじき日相観じっそうかんを送る。林泉奥深うして水あおく砂白きほとり、鳥き、魚おどつて、念仏、念法、念僧するありさま、まこと末世まっせ奇特きどく稀代きたいの浄地とおぼえたり。
 かくて
 人皇にんのう百十一代霊元天皇の延宝五年丁巳ひのとみ霜月しもつき初旬に及んで其業おわるや、京師の本山より貧道ひんどうを招き開山住持じゅうじの事を附属せむとす。貧道、寡聞かもん浅学の故を以て固辞再三に及べども不聴ゆるさず。遂に其の奇特に感じ、荷笈下向かきゅうげこうして住職となり、寺号を青黛山如月寺せいたいざんにょげつじと名付く。すなはち翌延宝六年戊午つちのえうま二月二十一日の吉辰きっしんぼくして往生講式七門の説法を講じ、浄土三部経を読誦どくじゅして七日に亘る大供養大施餓鬼だいせがき執行しゅぎょうす。当日虹汀は自ら座に上り、略して上来の因縁を述べて聴衆に懺悔ざんげし、二首の和歌を口吟くちずさむ。
唱  六っの道今は迷はじっの文字
       み仏の世にくれ竹の杖      坪太郎
和  くれ竹のよゝを重ねてみほとけの
       すぐにむなしき道に帰らむ     六美女
 続いて貧道座に上り、くわしく縁起の因果を弁証し、六道りくどう流転るてん輪廻転生りんねてんしょうことわりを明らめて、一念弥陀仏みだぶつ即滅無量罪障そくめつむりょうざいしょう真諦しんたいを授け、終つて一句のを連らぬ。
  一念称名声いちねんしょうみょうのこえ 功徳万世伝くどくばんせいにつたう 青黛山寺鐘せいたいさんじのかね 迎得真如月むかええたりしんにょのつき
 なほ六美女は当時十八歳なりしが、かねてより六字の名号みょうごうを紙に写すこと三万葉に及びしを、当来の参集にわかちしに、三日に足らずしてくせりといふ。
 かくの如きの物語、六道りくどうちまた娑婆しゃばにあらはし、業報ごっぽう理趣ことわりを眼前に転ず。聞く煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい六塵即浄土ろくじんそくじょうどと、呉家祖先の冥福、末代正等正覚まつだいしょうとうしょうがく結縁けちえんまことにかぎりあるべからず。呉家ののちに生るゝ男女なんにょにして此の鴻恩こうおんを報ぜむと欲せば、深く此旨を心に収め、法事念仏を怠る事なかれ。事他聞たもんを許さず、あやまつて洩るゝ時は、あるいは他藩のうらみを求めむ事を恐る。当寺当時の住職、および、呉家の当主夫妻にのみとどむ可し。穴賢あなかしこ
 延宝七年七月七日一行しるす
◆第三参考 野見山法倫のみやまほうりん氏談話
 ▼聴取日時 前同日午後三時頃
 ▼聴取場所 如月寺方丈ほうじょうに於て
 ▼同席者 野見山法倫氏(同寺の住職にして当時七十七歳。同年八月歿)
       (W氏)=以上二人=

 ――その御不審は誠に御尤ごもっともで御座います。この縁起の本文にも書いて御座いまする通り、今より百余年の昔に、呉家の中興の祖とも申すべき虹汀こうてい様が、残らず焼いて灰にして、弥勒みろくの世までもと封じておかれました絵巻物が、如何ようなる仔細でもとの絵巻物の形に立ち帰って、今の世に現われまして、呉一郎殿のお手に渡って、あられもない御乱心の種と相成りましたか……という事に就きましては、実は、お尋ねがなくとも申し上げて貴方様あなたさま(W氏)の御分別を仰ぎたいと思うておったところで御座いました。
 ――元来この縁起の書付かきつけと申しますのは、呉家の名跡みょうせきがるる御主人夫婦が初めての御墓参の時に人を払って御覧に入れる事に相成っております。そのほか呉家の御血統に関係致しました事は、尋常きたりの事のほか、一切他人に洩らしませぬのが、開山一行上人以来このかた、当寺の住職たるものの本分の秘密と定められておるので御座いますが、余儀ない御方の御尋ねで御座いますし、殊更ことさらには、呉一郎殿がまことの狂気かいつわりかが相判あいわかりますることが、罪人となられるか、なられぬかの境い目とうけたまわりますれば、何をお隠し申しましょう……。
 ――と申しまする仔細はほかでも御座いませぬ。この寺の御本尊様の御胎内に、灰となって納まっている筈のあの絵巻物が、実は、もとの形のままでおります事を、ずっと以前から探り出しておった人が在ったので御座います。のみならず、その絵巻物を御本尊の胎内から取り出して、呉一郎殿の御病気を誘い出す原因もとを作られたのも、やはり、そのお方に違いないと思われる人物を、私はよう存じているので御座います。それは申す迄もなく私の心当りだけで申上げるので御座いますから、どなたでも意外に思召おぼしめすか存じませぬが、外ならぬ呉一郎殿の実の母御ははごで、先年直方のうがたで不思議の横死おうしげられた千世子殿の事で御座います……さよう……これは誠にしからぬお話で、何よりも第一に、そんな恐ろしい申伝もうしつたえのある品物を、かけ換えのない吾児わがこに渡すような無慈悲な母親が、この世に在ろうとは思われぬので御座いますが、これには何か深い仔細がありそうに思われますので、いずれに致しましても、これから申述べまするお話をお聴き取り下されますれば、やがて何事もお解りになるであろうと存じます。
 ――思いますればもうた昔……イヤ……もう三十年ほどにもなりましょうか。まことに古い事で御座います。もはや御承知か存じませぬがの千世子という御婦人は、幼ない時から何事に依らず怜悧りこう発明な上に、手先の仕事に冴えたお方で、中にも絵をく事と、刺繍ぬいとりをする事が取分けてお上手だったそうで、まだお合羽かっぱさんに振袖のイタイケ盛りの頃から、この寺の本堂の片隅なぞにタッタ一人でチョコナンと座って、ふすまに描いてある四季の花模様や、欄間らんまの天人の彫刻ほりものなぞを写して御座る姿を、よく見受けたもので御座います。その頃からもうそれはそれは可愛らしい、人形のような眼鼻立ちで御座いましてナ……。
 ――ところがやがて十四か五になられた頃であったかと思います。学校の帰りと見えまして、海老茶えびちゃはかま穿かれた千世子殿が、風呂敷包みを抱えたままこの方丈ほうじょうに這入って来られまして、唯一人で茶を飲んでおりました私に向って……和尚おしょう様……あの御本尊の真黒い仏様の中には美しい絵巻物が這入っておるとの事じゃげなが、ソッと私に見せて下さらぬか……という御話で御座います。この絵巻物の事はこの寺の開山当時の大法要以来、この界隈の名高い話と相成っておりまして、この村でも心得ている者がいくらも居る筈で御座いますから、そんな者からでも聞かれたので御座いましょうか……その時に私は笑いまして……それはもうズットの昔に灰にしてしまってあるゆえ、今は見せとうても見せられぬ……と申しますと……それでも、たった今、あの仏様を私がゆすぶって見たら腹の中でコトコトと音がした。何かキット這入っているに違いない……とお千世殿が云われます。私はビックリ致しまして……そんな事をする者でい。仏罰ぶつばちが当りますぞ……と叱って返しました……が……お千世殿が帰られてからタッタ一人になりますとさて、何とのう心配になって参りましたので、コッソリと本堂に参りまして、勿体もったいのうは御座いましたが、御本尊の弥勒みろく様をゆすぶり立てて見ますると、成る程コトコトと音が致します。ちょうど巻物のような形のものが、内部なかに納まっているに違いない、と思われる手応えで……。
 ――私は余りの不思議に胸がとどろくほど驚き入りました。御本尊様の胎内は、この縁起の本文に書いてありまする通りに、絵巻物を焼いた灰ばかりと思い入っておりましたので……なれども、その時に私は又思案を致しまして、これは昔虹汀こうてい様が、その絵巻物を焼いたといつわって実は、もとの形のままにして仏像へ納めておかれたものではあるまいか。その周囲まわりの詰め物が、年代に連れて乾きゆるんで、このように音を立てるのではあるまいか。絵の好きな人に、ありそうな事で、絵巻物を惜しむの余りにそんな事にして、年月を重ねて供養していたならば、次第次第に因縁も薄らぎ、たたりもむであろうと思うて、一存ではからわれた事ではあるまいか。それならば改めて取り出して焼き棄てるべきものであろうか。どうしたものであろうか……なぞと、様々に思わぬでは御座いませんでしたが、それにしても、ちっとに落ちかねるところもあるようで、空恐ろしい気持ちも致しましたので、真逆まさかに御本尊の仏体を破って内部なかを見るような者もあるまいと思い思い、そのままに致しておりました。
 ――ところがそのうちに、月日の経つのはお早い事で、昨年の秋に相成りますと、ちょうどお彼岸の前の日の夕方の事、お八代殿と、一郎殿と、オモヨさんの三人が連れ立ってお墓掃除に見えました。その時にお八代さんは唯一人でお霊屋たまやの掃除をされるついでに、この方丈に立ち寄られて、茶を飲まれましたが、四方八方よもやまのお話の序に……まだちっと早いようじゃけれど、来年の春、一郎が六本松の学校(福岡高等学校)を卒業したならば、すぐに、モヨ子と祝言をさせようと思うが、どうであろうか……という相談で御座いました。お八代さんは、いつもこんな事を披露される前には、必ず私に話をされましたので、私は、まことに結構な事と御返事を致した事で御座いましたが、それから二人で立って本堂の縁側へ出てみますと、の山門の横の墓所はかしょの前に、お掃除を仕舞われた学校服姿の一郎殿と赤い帯を締めたオモヨさんとが、仲よさそうに並んでかがみながら、両手を合わせて御座るところが見えました。それを見るとお八代さんは何やら胸がふさがりましたらしく、急いで顔を押えながらお霊屋たまやの方へ行かれましたが、私はあとに残りまして、まことにお似つかわしいお二人の姿を見守りながら、呉様のお家の行く末の事なぞを考えるともなく考えておりますと、そのうちに、ゆくりなくもた昔以前のお千世殿のお話を思い出しましたので、思わずハッと致した事で御座いました。……尤もその折に、これは年寄の要らざる気苦労ではないかと考えぬでも御座いませなんだが、それでも気にかかっておりましたものと見えて、その夜になりますとどうしても寝つかれなくなったので御座います。
 ――そこで私はソロソロと起き上りましてナ……窓からさし込む月のあかりと、お燈明とうみょうの光を便たよりに、唯一人で本堂に参りまして、御本尊様を勿体もったいのうは御座いましたが両手をかけて、ゆすぶり動かしてみますと、この前の時にはたしかに聞えておりました物音が、すこしも致しませぬ。……のみならず何とのう中味が空虚からになっているような手応えでは御座いませぬか。
 ――その時にも虫が知らせたとでも申しましょうか、私は何やら空恐ろしい気持ちが致した事で御座いました。なれども思い切って御本尊様を厨子ずしの中から抱え卸して、この方丈に持って参りまして、眼鏡をかけてよくよくあらためて見ますと、一面の塵埃ちりほこりでチョット解りにくうは御座いますが、お像の首が襟の処で切りめになっておりまして、力を入れて揺すぶりますと抜けるようになっております。私はその時に成る程と思いました。そうして轟く胸を押ししずめながら廊下伝いに土間に持ち出して音を立てぬように塵を払うて参りまして、この電燈あかりの下に毛氈もうせんを敷いて、その切嵌きりはめの処から御像の首を抜いて見ますと、ちょうどお経筒きょうづつの形にり抜いてあります底の方に、古い唐紙とうしに包んだ灰があるにはありますが、その灰包みのまん中は、チャント巻物の軸の形にくぼんでおります。それを見ますと虹汀様は絵巻物を焼いたと云うてはおかれましたが、別に何か深いお考えがあった事で御座いましょう。真実は焼かずに、もとの形のままにして納めておかれましたもので、それを又、誰かが盗んで行ったもの……という事は、もはや疑いもない事と相成りました。ハイ……その外には、周囲まわりに詰めてありましたらしい古綿のほか、紙屑かみくず一つ見当りませぬ……こちらへお出で下さい。御本尊をお眼にかけましょうから。=後段備考参照=
 ――御覧の通りで御座います……これは私の不念ぶねんと申しましょうか、何と申しましょうか……ああ……何か事が起らねばよいがと、胸を痛めました事は一通りでは御座いませなんだ。しかし又、一方から考えますと、もしお千世殿が持って行かれたものとすれば、何の必要があっての事であろうか。又、直方であのような最後をげられたのち、今日までの間、誰が隠し持っていたものであろうか。お千世殿の亡き跡を片付けられたお八代さんが、見付け出しておらるれば一言なりとも私に話されぬ筈はないが……なぞと、とつおいつ思案に暮れておりましたところへ、このたびの事が起りましたので、最早もはや心も言葉も及ばぬ不思議と申すよりほかに致し方が御座いませぬ。……うけたまわりますればその絵巻物は、一郎殿の御乱心ののち行衛ゆくえが知れませぬとの事で、これもまた、不思議の一つで御座います。村の者の中には、一郎殿の乱心の前と後とに、絵巻物が蛇のように波を打って虚空を渡るのを見た……なぞと申している者があるそうで御座いますが如何なもので御座いましょうか。これと申すも私の不念より起りました事で、亡くなられましたオモヨ殿と、狂気された一郎殿の御痛わしさ。老い先の短かい生命いのちに代られるものならばと思うて、涙にかき暮れまするばかり……云々。

◆第四参考 呉八代子の談話概要
 ▼聴取時刻 前同日午後五時頃
 ▼聴取場所 同人宅奥座敷に於て
 ▼同席者 呉八代子、余(W氏)――以上二人――

 ――ああ先生……ようお出でで下さいました。どのように待っておりました事か……イエイエ。私の傷は構いませぬ。生命いのちも何も要りませぬ。どうぞどうぞお願いで御座いますからこの絵巻物を(……と固く秘めたる懐中より取り出して渡しつつ)お寺から盗み出して、あの石切場で待ち伏せして一郎に渡して、この家中の者を取り殺そうとたくらんだ奴を、ゼヒゼヒ探し出して下さいませ。そうして其奴そやつが見付かりましたならば、タッタ一言でよろしう御座いますから、何のうらみでこのようなムゴイ事をしたかと(涕泣すすりなき)タッタ一言でよろしう御座いますからキットお尋ね下さいませ(涕泣)……一郎が正気でおりますうちにその人間の事を尋ね出し得ませなんだのが残念で残念で……わかったら骨を噛み砕いても飽き足らぬと(涕泣)……イエイエ。直方のうがたを引き上げる時には、そんな物は御座いませなんだ。一郎の身のまわりは、私が残らず調べております。……警察の奴が何が解りましょう。一郎をあんな非道ひどい眼に会わせたりして……私は尋ねられても返事もしてやりませなんだ。……私はもう諦らめました。一郎が正気になろうがなるまいが、娘が生き返ろうがかえるまいが、私の生命がどうなろうが知りません。ただ妹の千世と、一郎と、娘の讐敵かたきは同じ奴……この絵巻物の事情わけを知りながら、あの一郎に見せた奴が……(昂奮、錯乱して問答を継続し得ず。爾後ややのち、約一週間ののちに到り、漸次平静に帰すると共に、放神状態になり行く傾向を認められつつあり)

◆備考 (イ)事件発生当日午前十時半、出入を禁じありたる呉家の土蔵くら(三番倉と呼ばれおるもの)の内部を検するに、階下の板の間の入口に敷かれたる古新聞の上に、呉一郎の朴歯ほおば下駄げたの跡と、モヨ子の外出穿きの赤きコルク草履ぞうりが正しく並びおり、そのかたわらより蝋燭ろうそく滴下したたり起り、急なる階段の上まで点々としてつらなれり。
 階上の状況、及、被害者の屍体には格闘、抵抗、苦悶等の形跡を認めず。
 屍体したい頸部には絞縛こうばくしたる褶痕しゅうこん鬱血うっけつ、その他の索溝さっこう相交あいまじって纏繞てんじょうせり、しかれども気管喉頭部、及、頸動脈等も外部より損傷を認むるあたわず。なお脂粉のにおいある新しき西洋手拭タオル一本、屍体の前に置かれたる机の下に落在らくざいせるが、右は加害者の所持品にして、右兇行に使用したるものと認めらる。
 机上中央には鼻紙とおぼしく、婦人の体臭ある四ツ折の半紙十数枚を重ねて拡げあり。その向って左端に同家の仏具の一たる真鍮の燭台を置き、百蝋燭一本を立てて点火したる跡あるが、後日検査の結果、点火後約二時間四十分を経て、消されたるものと推定されたり。
 なお、この他に新しき三本の百匁蝋燭が燐寸マッチの箱と共に机の下に置きありたるが、以上四本の蝋燭の上部、及、中央部附近に印せられおる数多の指紋は、ことごとく、被害者モヨ子の左右手各指の指紋のみにして、加害者呉一郎のものは一個も存在せず。つ、燐寸マッチの箱よりも被害者の指紋のみが検出されたる事実より見れば、前記四本の蝋燭は、被害者自身が持ち来りたるものにして、手ずから燐寸マッチりてその中の一本に点火し、机の左端に置きたる事疑う余地なし。(その他八代子の足跡等に関する記述略)
 (ロ)同夜九時、被害者の屍体、九州帝国大学医学部法医学教室に到着、直ちに余(W氏)執刀、舟木医学士立会の下に解剖、同十一時終了の結果、死因は頸部の圧迫、絞扼死こうやくしと判明す。且つ、被害者が何等かの原因にて意識喪失後、絞首したるものと推定さる。なお処女膜には異常を認めず。(その他略)
◆備考 (A)如月寺の本尊弥勒みろく菩薩の座像を調査するに、頭大にして身小さく、形相怪異にして、後光も無く偏袒へんたんもせず。普通の法衣の如く輪袈裟わげさをかけ、結跏趺座けっかふざして弥勒のいんを結びたるが、作者の自像かと思わるるふしあり。全体の刀法すこぶ簡勁かんけい雄渾ゆうこんにして、鋸歯状きょしじょう、波状の鑿痕さっこん到る処に存す。底面中央に、極めて謹厳なる刀法を以て「勝空しょうくう」の二字を一寸角大に陰刻しあり。
 (B)中央の空虚は縦深一尺、横径三寸三分余の円筒型にして、上部、及、底部に詰めたる綿と、灰の厚さを差引く時は、高さ一尺六分強となり、絵巻物(別参考品)の体積と相違なく適合せり。尚、その蓋に当る首の根の方形部には糊付けのあと残存せるを見る。
 (C)灰を包みたる唐紙、及上下左右に詰めたるものと思しき綿を検するに、古色等、記録の時代とやや相当するを認む。灰は検鏡分析の結果、普通の和紙と、絹布とを焼きたる形跡を認むるのみ。表装用の金糸、又は軸に用いられたるべき木材、その他の痕跡絶無也(その他略)
◆備考 (一)姪浜めいのはま入口の国道沿い、海岸側に在る山裾の石切場附近を調査の結果、前日呉一郎が絵巻物を披見しつつ腰かけいたりという石は、切り残されたる粗石あらいしの蔭に位置しおりて、街道を通過する者の注意をき難き個所に在り。
 (二)石切場内には大小無数の石片石塊と、石工いしくの作業の跡、及、街道より散入したるわら、紙、草鞋わらじ、蹄鉄片、その他凡百の塵芥じんかい類似の物のほか、特に注意すべき遺物を認めず。なお、小雨に洗われたるがためか、呉一郎その他一切の人物の足跡類似のものを認むるあたわず。
 (三)平生、同所にて作業せる石工にして、姪浜町七五番地ノ一に居住せる脇野軍平は、前々日来、その妻女ミツ、及、養子格市と共に腹痛下痢を発し、流行病のうたがいを受けて交通を遮断されおりしが、日ならずして本服後、二人に問い試みしところを綜合するに、頃日来けいじつらい、作業中、疑わしき人物の石切場に立ち入り、又は附近を徘徊はいかいせしようの記憶無し。又同人等の疫病に関しては同所の魚類等は常に新鮮なるを以て、食物中毒等の原因は考慮し得ず。結局病原不明に帰せりと。

       ――――――――――――――――――――

 ◇ 絵巻物写真版挿入の事
 ◇ 右絵巻物由来記記入の事
 ◇ 右第二回の発作全般に亘る、観察研究事項記入の事

       ×          ×          ×

 ハッハッハッハッ……。
 ……どうです諸君。面喰いましたかね。
 これが吾輩の遺言書の中の最重要なる一部分なぞいうことは、もういい加減忘れて読んでいたでしょう。悲劇あり。喜劇あり。チャンバラあり。デカモノあり。これに加うるに有難屋ありがたやの宣伝もありという塩梅あんばいで、ずいぶん共にオカカの感心、オビビのビックリに価する、奇妙奇天烈きてれつな記録の内容でげしょう。殊にその心理遺伝のあらわれ方の奇抜なことは、真に、お負けなしの古今無類で、現代の所謂いわゆる常識や科学知識の如何なる虎の巻をひっくり返して来ても到底歯が立ちそうにない。流石さすがの名法医学者若林鏡太郎博士も、この事件には少々手古摺てこずったと見えて、その調査書類の中に、こんな歎息を洩している。いわく……
 余はこの事件の犯人を敢えて仮想の犯人と呼ばむと欲す。何となれば、当該事件の犯人は、現代に於ける一切の学術は勿論、あらゆる道徳、習慣、義理、人情を超越せる、恐るべき神変不可思議なる性格の所有者と想像する以外に、想像の余地なければなり。即ち、かくの如く、僅々きんきん二箇年の間に、三名の婦人と一人の青年とをあるいは殺し、或は発狂せしめて、その一家の血統を再び起つ能わざる迄に破滅せしむるが如き残虐を敢えてせるにも拘わらず、その残虐の遂行手段は、いずれも偶然の出来事か、もしくは、或る超科学的なる神秘作用を装いて、それ以外の推測を許さず。犯人の存在はもとより、此の如き犯行を一貫したる目的の存在さえも疑わしきものあり……云々。
 ……と……。ところでどうです。前に御覧に入れた記録と、この文句を照し合わせて御覧になった諸君は、最早とっくにお気付きになっているであろう。法医学専門の立場にいる若林君の主張と、精神病学者としての吾輩の、該事件に対する主張の中心は、事件の勃発当初からハッキリと正反対になっていて、今日に到るまでも一致せずにいることを……。すなわち若林君はその法医学者特有の眼光に照して、この事件には是非とも別に、隠れたる犯人が居るに相違ない。その犯人がどこからか糸をあやつって、この事件に関するあらゆる不思議な現象を自由自在にもてあそびつつ衆目しゅうもくくらましているに違いない……と初めからきめてかかっているのに対して、吾輩の方はドッコイそうは行かぬ。精神科学の立場から見ると、これは所謂いわゆる「犯人無き犯罪事件」だ。外形内容共に奇抜な精神病の発作のあらわれに過ぎないので、被害者も犯人も共に、或る錯覚の下に同一の人間となって行った兇行に外ならぬのだ。それでも是非に犯人が必要だというのなら、呉一郎にこんな心理を遺伝せしめた先祖を捕えて牢屋へブチ込めと主張している。ここにこの事件の中心的興味がつながっている訳だが……。
 エッ……ナナ何だって……ブルブル……もうこの事件の真犯人がわかったというのかね……。
 ……イヤ……これあドウモ驚いた。いくら名探偵だってそう敏活に頭が働らいちゃ困る。第一吾輩と若林が飯の喰い上げになる。
 まあまあき込まずと待ってくれ給え。たとい諸君の目指す人間が、正真正銘間違いなしのこの事件の真っ黒星で、若林君の所謂仮想の怪魔人であるにしても、要するにそれは一つの推測で、確乎かっこたる証跡があるわけではなかろう。又、たとい確乎動かすべからざる証跡があって、犯人は現在どこに居って、どんな事をしているという事まで、諸君の方で知って御座るにしても、その犯人を取って押えてタタキ上げて御覧になった揚げ句に、アッとビックリ二の句が告げない新事実を、事件の裏面に発見されたならば、如何遊ばすおつもりかね。フフフフフ……。
 だからいわない事じゃない。こんな深刻不可思議な事件を、一寸ちょっとした証拠や、概念的な推理で判断するのは絶対危険の大禁物である。すくなくともこの事件が、前記の通りの状態で勃発してのち、如何なる径路をんで吾輩の手にズルズルベッタリにすべり込んで来たか。それに対して吾輩が如何なる観察を下し、如何なる方法に依って研究の歩武ほぶを進めて来たか、且つ又、その研究によって摘発されたる第二回の発作の内容の説明が、如何に悽惨、痛烈、絢爛けんらん、奇怪にして、且つ、ノンセンスを極めたものがあるか。しかも、そうした研究の道程が、何故なにゆえに吾輩の自殺の原因にまで急変し、進展して来たか……というような事を徹底的に観察したのちでなければ、犯人の有無は決定されぬ筈だ。「サテはそんな事だったか……ウ――ン」と眼をまわされる筈だ……とまず一本へこましておいて……サテ、この事件に対する吾輩の研究が、その後どんな風に進展して行ったかという実況を、引き続き天然色浮出し映画について「御座います」抜きで説明する段取りとなる。
 ところで吾輩みたいな田舎活弁の、しかも新米の映画説明の口上から「御座います」を抜いてしまったら、何の事はない素人の書いたシナリオの朗読みたいなものになるだろう。吾輩不幸にしてシナリオだの支那料理だのいうものを製造した事がないから様子がよくわからないが、まだ夜が明ける迄には、だいぶ時間が余っているから、今生こんじょうのふざけついでにそのシナリオなるものを一つやっつけてみよう。ただし、ここで改めて断っておくが、こんな風に事件の核心である心理遺伝の内容を一番あとまわしにして、外側の事実から順々に中味へ中味へと支那料理……オット、シナリオにして行くのは筋がチャンポンという洒落しゃれではない。この事件に関する吾輩の記録は、ことごとく、事件そのものが、吾輩の眼界に這入って来た当時のプロットによって並列されているので、この順序を研究しただけでもこの事件の真相はあらかたわかるという……この点に就てははばかりながら、極めて科学的な、絶対に誤魔化ごまかしの無い俯仰ふぎょう天地に恥じざる真実の記録と信ずる次第で……御座います……かね……ヤレヤレ。

 【字幕】 呉一郎の精神鑑定=大正十五年五月三日午前九時、福岡地方裁判所応接室に於ける。
 【映画】 正木博士は羊羹ようかん色の紋付羽織、セルの単衣ひとえにセルばかま、洗いざらしの白足袋という村長然たる扮装いでたちで、入口と正反対の窓に近い椅子の上に、悠然と葉巻を吹かしつつ踏んりかえっている。
 中央の丸卓子テーブルの上には正木博士所持のものらしい古洋傘コウモリと、古山高やまたかほうり出してある。その傍に、フロック姿の若林博士が突立っていて、いかめしい制服姿の警部と、セルずくめの優形やさがたの紳士を、正木博士に紹介している。
「大塚警部……鈴木予審判事……いずれもこの事件に最初から関係しておられる方々で……」
 正木博士は立ち上って二人の名刺を受取ると、如何にも気軽そうにペコペコと頭を下げた。
「私が、お召しに依って罷出まかりいでました正木で……生憎あいにく名刺を持ちませんが……」
 警部と予審判事は一層威儀を正して礼を返した。
 ところへ紺飛白こんがすりあわせ一枚を、素肌に纏うた呉一郎が、二人の廷丁ていていに腰縄を引かれて這入って来ると、三人の紳士は左右に道を開いて正木博士に侍立じりつした形になった。
 呉一郎はその前に立ち止まったまま、黒ずんだ憂鬱な眼付きで室の中をマジリマジリと見まわした。その白い腕や首の周囲まわりには大暴れに暴れながら無理に取押えられた時のかすり傷や、あざ幾個いくつとなく残っていて、世にも稀な端麗な姿を一際ひときわ異様に引っ立てているかのように見える。その背後うしろから二人の廷丁が揃って挙手の礼をした。
 正木博士は目礼を返しつつ、葉巻の煙を長々と吹かし終ると、手錠のかかった呉一郎の両手を無雑作に取って引き寄せながら、顔と顔を一尺位に近寄せて瞳と瞳とをピッタリと合わせた。その瞳の底を覗き込みつつ何事かを暗示するかのように……又は呉一郎の眼の光りを、自分の眼の光りで押し返して、その瞳孔の底に押し込むかのように……。こうして二人は眼と眼を合わせたまま暫くの間動かなかった。
 そのうちに正木博士の表情が、どことなく緊張して来た。……立ち会っている紳士たちの表情も、それにつれて緊張して来た。
 しかしその中で若林博士だけは眉一つ動かさずに、青白い瞳を冷やかに伏せて、正木博士の横顔を凝視していた。正木博士の表情の中から、人知れず何ものかを探し求めるかのように……。
 けれども呉一郎は平気であった。正気を失った人間特有の澄み切った眼付きで、何の苦労もなげに正木博士の顔から視線をらすと、すぐ横に突立っている若林博士の長大なフロック姿を下から上の方へソロソロと見上げて行った。
 正木博士の表情が、みるみる柔らいで行った。呉一郎の横頬を見ながらニッコリとして、消えかかった葉巻を吸立てつつ、気軽い調子で口を開いた。
「そのオジサンを知っているかね君は……」
 呉一郎は、若林博士の蒼い、長い顔を見上げたまま、こころもちうなずいた。夢を見るような眼つきになりつつ……。それを見ると正木博士の微笑が一層深くなった。その時に呉一郎の唇がムズムズと動いた。
「……知っています。僕のお父さんです」
 ……と……。けれどもこの言葉が終るか終らぬかに変った若林博士の表情の物凄さ……只さえ青い顔が見る間に血のうしなって白堊はくあのように光りを失った額のまん中に青筋が二本モリモリと這い出した。憤怒とも驚愕とも形容の出来ない形相ぎょうそうになったと思うとヒクヒクと顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみを震わしつつ正木博士を振り返った。今にも噛み付きそうな凄まじい眼色をして……。
 しかし正木博士はそんな事には気が附かぬかのように、四方あたり構わぬ大声をあげて笑い出した。
「ハッハッハッハッ。お父さんはよかったね。……それじゃこのオジサンは誰だか知っているかね」
 と云い云い自分の鼻を指した。
 呉一郎はそのまま、矢張りマジマジとした眼付きで正木博士の顔を見ていたが、間もなく唇をムズムズと動かした。
「……お父さん……です……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッ」
 と正木博士は一層愉快そうに……しまいには呉一郎の手を離してトテモたまらなさそうに笑いこけた。
「アーッハッハッハッハッ。どうも驚いたな。それじゃ君のお父さんは二人いる訳だね」
 呉一郎は考えるともなく躊躇したが、間もなく黙ってうなずいた。正木博士はいよいよ腹を抱えた。
「ワッハッハッハッ。トテモ素敵だ。珍無類だ。……それじゃ君は、その二人のお父さんの名前を記憶おぼえているかね」
 正木博士が冗談半分見たようにこう云い出すと、今までけむに捲かれて面喰い気味の一座の人々の顔が一時にサッと緊張味を示した。
 しかし、呉一郎はこう尋ねられるとフッと暗い顔になった。静かに眼をらして、窓の外一パイに輝いている五月晴さつきばれの空を飽かず飽かず眺めているようであったが、やがて何事かを思い出したらしく、その大きな眼に涙を一パイに浮き出させた。その様子を見ていた正木博士は又も呉一郎の手をりながら、葉巻の煙を一服ユッタリと吐き出した。
「イヤ。もういいもういい。無理に君のお父さんの名前を思い出さなくともいいよ。どちらを先に思い出しても、エライ不公平なことになるわけだからね。ハハハハハハ」
 今まで異様な緊張味にとらわれていた人々が一時に笑い出した。やっとの事で、もとの表情を回復していた若林博士も、変に泣きそうな、こわばった笑い方をした。
 その笑い顔の一つ一つを、如何にも注意深い眼付きで見まわしていた呉一郎は、やがて何やら失望したように、溜め息をしたまま伏し目になると、涙をハラハラと落した。その涙のたまは、手錠の上から、汚れた床の上に落ち散って行った。
 その手を取ったまま正木博士は、無雑作に人々の顔を見まわした。
「とにかくこの患者は私がお預りしたいと思いますが如何でしょうか。この患者の頭の中には、事件の真相に関する何等かの記憶がキット残っていると思います。只今御聞きの通り、誰の顔でも、父の顔に見えるという事は、あるいはこの事件の裏面の真相を暗示している、或る重要な心理のあらわれかも知れませんからね……出来れば私の力で、この少年の頭を回復させて、事件の真相に関する記憶を取出してみたいと思うのですが、如何でしょうか……」

 【字幕】 解放治療場に呉一郎が現われた最初の日(大正十五年七月七日撮影)
 【映画】 解放治療場のまん中に立った五六本の桐の木の真青な葉が、真夏の光りにヒラヒラと輝いている。
 その東側の入口から八名の狂人が行列を立てて順々に這入って来る。中には不思議そうに、そこいらを見まわしている者もあるが、やがてめいめいに取りどり様々の狂態を初める。
 その一番最後に呉一郎が這入って来る。
 如何にも憂鬱な淋しい顔で、暫くの間呆然と、四方の煉瓦塀や、足元の砂を見まわしていたが、そのうちにフト自分の足の下の砂の中から何やら発見したらしく、急に眼をキラキラと光らして拾い上げると、両手の間に挟んでクルクルとんでから、まぶしい太陽に透かしてみた。
 それは青い、美しいラムネの玉であった。
 呉一郎は真正面まともに太陽に向けた顔をニッコリとさせながら、その玉を黒い兵児帯へこおびの中にクルクルと捲き込んだが、大急ぎで裾をからげて前にかがみながら、両手でザクザクと焼けた砂を掘返し初めた。
 最前から入口の処に突立って、その様子を見ていた正木博士は、小使に命じてくわちょう持って来さして呉一郎に与えた。
 呉一郎はさも嬉しそうにお辞儀しいしい鍬を受け取って、前よりも数倍の熱心さでギラギラ光る砂を掘り返し初めた。それにつれて濡れた砂が日光にさらされると片端かたっぱしから白く乾いて行った。
 その態度を熱心に見守っていた、正木博士はやがてニヤリと笑ってうなずきつつ、サッサと入口の方へ立ち去った。

 【字幕】 それから約二個月後の解放治療場に於ける呉一郎(同年九月十日撮影)
 【映画】 解放治療場中央の桐の葉にチョイチョイ枯れた処が見える。その周囲の場内の平地の処々に真黒く、墓穴のように砂を掘り返したところが、重なり合って散在している。
 その穴と穴の間の砂の平地の一角に突立った呉一郎は、鍬を杖にしつつ腰を伸ばして、苦しそうにホッと一息した。その顔は真黒く秋日にけている上に、連日の労働に疲れ切っているらしく、見違えるほどやつれてしまって、眼ばかりがギョロギョロと光っている。流るる汗は止め度もなく、あえぐ呼吸は火焔のよう……殊に、その手に杖ついている鍬の刃先はさきが、この数十日の砂掘り作業の如何に熱狂的に猛烈であったかを物語るべく、波形に薄くり減って、銀のようにギラギラと輝いている物凄さ……生きながらの焦熱地獄にちた、亡者の姿とはこの事であろう。
 その呉一郎はやがて又、何者かに追いかけられるように、真黒な腕で鍬を取り直した。新しい石英質の砂の平地に、ザックとばかり打ち込んで別の穴を掘り初めたが、そのうちに大きな魚の脊椎骨を一個ひとつ掘り出すと、又急に元気付いて、前に倍した勢いで鍬をふるい続けるのであった。
 舞踏狂の女学生が、呉一郎の背後に在る大きな穴の一つに落ち込んで、両足を空中に振りまわしながら悲鳴をあげた。ほかの患者たちが手をって喝采した。
 しかし呉一郎は、ふり向きもせずに、なおも一心不乱に掘って掘って掘り続けて行くと、やがて今度は何か眼に見えぬものを掘り出したらしく、両手の指でしきりにねくっていたが、すぐに鍬を取り直して、眼を火のように光らし、白い歯を砕けるほど噛み締めつつ、死に物狂いの体で足の下を掘り返しはじめた。
 そのうしろから正木博士が悠々と這入って来た。鼻眼鏡をキラキラと光らせつつ、暫く呉一郎の作業振りを見守っていた。がやがて傍近く歩み寄って来て、鍬を振り上げた右の肩をポンとたたいた。
 呉一郎は驚いて鍬を下し、呆然となって正木博士を振り返りつつ、流るる汗を拭い上げた。
 そのすきを見た正木博士は、眼にも止らぬ早さで、片手を呉一郎のふところに突込んで、汚いハンカチで包んだ丸いものと、最前掘り出した魚の脊椎骨をつかみ出すと、素早く背後うしろに隠してしまった。しかし呉一郎はチットモ気付かぬらしく、なおも流るる汗を拭い上げ拭い上げして眼をしばたたきつつ、穴の中から見上げた。その顔を穴のふちから見下して正木博士はニッコリした。
「今掘り出したのは何だね」
 呉一郎は気まり悪る気に顔を赤くしつつ、左手の食指を博士の鼻の先に突き出して見せた。博士が鼻眼鏡を近づけてみると、その指の頭には、女の髪の毛が一本グルグルと捲きつけてあった。
 正木博士は、それが何を意味するかを知っているらしく、真面目な顔でうなずいたが、今度はうしろ手に隠していた汚れたハンカチの包みを解いて、中味を左のてのひらに取ると、呉一郎の鼻の先に突き出した。その掌の中には、二個月ぜんにこの解放治療場に這入ると直ぐに拾ったラムネの玉と、きょう掘り出した魚の骨との外に、赤いゴムくしの破片と、小指ほどの硝子ガラス管の折れたのが光っていた。
「これは、お前が土の中から掘り出したのだろう」
 呉一郎はあえぎ喘ぎうなずいた。博士の顔と四ツの品物とを見比べつつ……。
「ウム……ところでこれは何だね。何の役に立つのかね、これは……」
「それは青琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)せいろうかんの玉と、水晶のくだと、人間の骨と、珊瑚さんごの櫛です」
 呉一郎は別段考えるでもなく、無雑作にそう答えると間もなく、博士の手から四個のガラクタとハンカチを受け取って、石のように固く結び固めると、如何にも大切だいじそうに懐中ふところの奥深く押し込んだ。
「フーム。……ではお前は何のためにそんなに一所懸命になって、土を掘り返しているのだね」
 呉一郎は又も土に打ち込みかけた鍬の左手に杖ついて、右手で足の下を指した。
「ここいらに女の屍体が埋まっているのです」
「ウーム。ナルホド。ウーム」
 と正木博士は唸った。そのまま鼻眼鏡ごしに呉一郎の両眼を穴のあく程深く覗き込みつつ、厳格なハッキリした言葉付きで、一句一句、相手の耳に押し込むように問うた。
「……フーム……ナルホド……。しかし……その女の屍骸が、土の下に埋められたのは……イッタイいつの事だね……」
 呉一郎は両手に鍬を支えたまま、ビックリしたように博士の顔を見上げた。その頬の赤い色がスーと消え失せて、唇をムズムズと動かした。
「……イツ……イツ……イツ……いつの事……」
 とおびえたような口調で繰り返し初めた。そうしてやや暫くの間、茫然として、そこいらを見まわしていたが、やがて何ともいえない淋し気な、途方に暮れた表情にかわった。……パタリと鍬を取り落して、力なく眼を伏せると、ガックリとうなだれて穴を這い上りながら、ソロソロと入口の方へ歩み去った。
 そのあとを見送った正木博士は、腕を組んで会心のえみを洩らした。
「果せるかなだ。心理遺伝が寸分の狂いもなく現われて来るわい。……しかし、もう一辛棒ひとしんぼうしなくちゃなるまい。これからが本当の見物だからな……」

 【字幕】 再び同年十月十九日(前の場面から約一箇月後)の解放治療場内の光景。
 【映画】 一番最初に映写した通りの、平らな砂地になった場内の煉瓦塀の前に、畠を打っている老人の鉢巻儀作はちまきぎさくがあらわれる。ただし、儀作は、最初の場面に現われた時よりも一畝ひとうねほど余計に畠を作っているが、かたわらに居るせた少女も、その半分の処まで、枯れ枝や瓦の破片かけらを植えつけている。
 その前に突立っている呉一郎も、最初の場面の通りに微笑を含んで、両手をうしろに廻したまま、老人の打ち振る鍬の上げ下しを一心に見守っているが、僅か一箇月ほど経過した間にスッカリ色が白くなって、肉が丸々と付いているのは、その間じゅう穴掘りの労働を中止して、自分の室……第七号室に閉じ籠っていたからであろう。
 その背後うしろから正木博士がニコニコしながら近付いて来て、やおら肩の上に手を置くと、呉一郎はハッとしたように振り返った。
「……どうだい……久し振りに出て来たじゃないか。スッカリ色が白くなって……おまけに肥って」
「……ハイ……」
 と呉一郎も相変らずニコニコしながら、又も鍬の上り下りを見守り初める。
「何をしているんだね。ここで……」
 と正木博士はその顔を覗き込むようにして尋ねた。……と、呉一郎は鍬に眼を注いだまま静かに答えた。
「……あの人の畠打はたうちを見ているのです」
「フーム。だいぶ意識がハッキリして来たな」
 と正木博士は独言ひとりごとのように云いつつ、その横顔を見上げ見下していたが、やがて心持ち語勢を強めて云った。
「……そうじゃあるまい。あの鍬が借りたいのだろう」
 この言葉が終らぬうちに一郎の頬がサッと白くなった。眼を丸くして正木博士の顔を見たが、間もなく又、鍬の方を振り返りつつ独言ひとりごとのようにつぶやいた。
「……そうです……あれは僕の鍬なのです」
「ウン。それは解っているよ」
 と正木博士はうなずいて見せた。
「……あの鍬は君のものなんだ。しかし折角せっかくああやって熱心に稼いでいるんだから、もうすこし待っていてくれないか。そのうちに十二時のドンが鳴れば、あの爺さんはキットあの鍬を放り出して、飯を喰いに行くにきまっているんだから……そうして午後はもう日が暮れるまで決して出て来ないのだから」
「キットですか」
 こう云って正木博士をふり返った呉一郎の眼は何となく不安そうに光った。正木博士は安心せよという風に深くうなずいて見せた。
「キットだよ。……そのうちに今一挺、新しいのを買ってやるよ」
 呉一郎は、それでも何かしら不安そうに鍬の上げ下げを凝視していたが、間もなく独言ひとりごとのように口籠くちごもりつつつぶやいた。
「僕は今欲しいんです……」
「フーム。何故だね……それは……」
 しかし呉一郎は答えなかった。ピッタリと口を閉じて、又も、鍬の上下を見守り初めた。
 正木博士はその横顔を、緊張した表情でジッと睨みつけた。その表情の中から、何かを探り出そうと思っているらしい。
 大きなとびの影が、二人の前の砂地をスーッとすべって行く。

       ――――――――――――――――――――

 エート……ここまで御覧に入れましたところによって、呉一郎の心理遺伝のソモソモが青琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)せいろうかんの玉、水晶の管、珊瑚さんごの櫛なぞいうものを身に着ける、古代の高貴な婦人と関係があるらしい事と、その婦人をモデルと致しました或る絵巻物を完成さすべく、呉一郎が斯様かように熱心に、女の死骸を求めているらしい事が、やっと判明して来たようであります。
 しかし、その死骸が土中に埋められたのはいつかという正木博士の質問に対して呉一郎が茫然、答うるところを知らず、そのまま自分の室に帰って考え込んでしまったのは何故か……。
 それが又、一箇月後のきょう……大正十五年の十月十九日に到って、フラリとこの解放治療場に出て参りまして、老人の鍬がくのを一心に待ち構えているのは何故か……。
 ……こういうにもこの狂人解放治療場の危機は、現在如何なるところから、如何にして迫りつつあるのか……。
 この疑問を明らかにし得るものは、只今のところ、この事件を調査した若林博士と、その相談相手となっている私だけ……否、スクリーンの中の正木博士……ではない……イヤそうでもない……エエ面倒臭い、吾輩にしちまえ……ついでに活動写真も止めちまえ。もう一つ序に九大精神病科の教授室の深夜に、たった一人でこの遺言書を書いている、正木キチガイ博士に帰っちまえだ。
 少々ヨタが強過ぎるかも知れないが、どうせ死ぬ前の暇潰ひまつぶしに書く遺言書だ。ウイスキーがいくら利いたって構うこたあない。あとは野となれ山となれだ……ここいらで又、一服さしてもらうかね。
 ……ああ愉快だ。こうやって自殺の前夜に、宇宙万有をオヒャラかした気持ちで遺言書を書いて行く。書きくたびれるとスリッパのまま、廻転椅子の上に座り込んで、膝を抱えながらプカリプカリと、ウルトラマリンや、ガムボージ色の煙を吐き出す。……そうするとその煙が、朝雲、夕雲の棚引たなびくように、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるものの如く結ぼれつ解けつ、悲しそうに、又は嬉しそうに、とりどり様々の非幾何学的な曲線を描きあらわしつつ薄れ薄れて消えて行く。それを大きな廻転椅子の中からボンヤリと見上げている、小さな骸骨みたような吾輩の姿は、さながらにアラビアンナイトに出て来る魔法使いをそのままだろう…………ああねむい。ウイスキーが利いたそうな。ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……窓の外は星だらけだ。……エ――ト……何だったけな……ウンウン。星一つか……「星一つ、見付けて博士世を終り」か……ハハン……あまり有り難くないナ……ムニャムニャムニャムニャムニャ………………ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ…………………………………………………………………………ムニャムニャ ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

       ×          ×          ×

「どうだ……読んでしまったか」
 という声が、不意に私の耳元で起った……と思ううちに室の中を……ア――ン……と反響して消え失せた。
 その瞬間に私は、若林博士の声かと思ったが、すぐに丸で違った口調で、快濶な、若々しい余韻を持っている事に気が付いたので、ビックリして背後うしろを振り向いた。けれども室の中は隅々までガランとして、鼠一匹見えなかった。
 ……不思議だ……。
 明るい秋の朝の光線が、三方の窓から洪水のように流れ込んで、数行に並んだ標本棚の硝子ガラスや、塗料のニスや、リノリウムの床にまぶしく反射しつつ静まり返っている。
 ……チチチチチチチ……クリクリクリクリクリクリ……チチ……
 という小鳥の群が、松の間を渡る声が聞えるばかり……。
 ……おかしいな……と思って、読んでしまった遺言書をパタリと伏せながら、自分の眼の前を見るともなしに見ると……ギョッとして立ち上りそうになった。
 私のツイ鼻の先に奇妙な人間が居る……最前から、若林博士が腰かけているものとばかり思い込んでいた、大卓子テーブルの向うの肘掛廻転椅子の上に、若林博士の姿は影も形もなく消え失せてしまって、その代りに、白い診察服を着た、小さな骸骨じみた男が、私と向い合いになって、チョコナンと座っている。
 それは頭をクルクル坊主に刈った……眉毛をツルツルに剃り落した……全体に赤黒く日にけた五十恰好の紳士であるが、本当はモット若いようにも思える……高い鼻の上に大きな縁無しの鼻眼鏡をかけて……大きなへの字型の唇に、火をけたばかりの葉巻をギュッとくわえ込んで、両腕を高々と胸の上に組んでりかえっている……骸骨ソックリの小男……それが私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真白な歯を一パイにき出してクワッと笑った。
 私は飛び上った。
「ワッ……正木先生……」
「アハハハハハ……驚いたか……ハハハハハハハ。イヤえらい豪い。吾輩の名前をチャンと記憶していたのは豪い。おまけに幽霊と間違えて逃げ出さないところはイヨイヨ感心だ。ハッハッハッハッハッ。アッハッハッハッ」
 私はその笑い声の反響に取り捲かれているうちに全身が、おのずとしびれて行くように感じた。右手に掴んでいた正木博士の遺言書をパタリと大卓子テーブルの上に取り落した……と同時に、それを書いた正木博士の出現によって、今朝けさからの出来事の一切合財がキレイに否定されてしまったような気がして、急に全身の力が抜けて来て、又も、元の廻転椅子の中へ、ドタンと尻餅を突いてしまった。幾度も幾度も唾液つばを呑みながら……。
 そうした私の態度を見ると、正木博士はいよいよ愉快そうに、椅子の上にりかえって哄笑した。
「アッハッハッハッハッ。ヒドク吃驚びっくりしているじゃないか。アハハハハハ。何もそう魂消たまげる事はないんだよ。君は今、飛んでもない錯覚に陥っているんだよ」
「……飛んでもない……錯覚……」
「……まだわからないかね。フフフフフ。それじゃ考えてみたまえ。君は先程……八時前だったと思うが……若林に連れられてこのへやに来てから色んな話を聞かされたろう。吾輩が死んでから一箇月目だとか何とか……ウンウン……あのカレンダーの日附けがドウとかコウとか……ハハハハハ驚いたか、何でも知っているんだからな……吾輩は……。それから君がその『キチガイ地獄の祭文』だの『胎児の夢』だの新聞記事だの、遺言書だのを読まされているうちに、吾輩はもうっくの昔の一箇月前に死んでいるものと、本当に思い込んでしまったろう……そうだろう」
「……………」
「アハハハハハ。ところがソイツは折角だが若林のヨタなんだ。君は若林のペテンにマンマと首尾よく引っかかってしまっているんだ。その証拠に見たまえ。その遺言書の一番おしまいの処を見ればわかる。ちょうどそこの処がいているだろう。……どうだい……昨夜から吾輩が夜通しがかりで書いていた証拠に、まだ青々としたインキの匂いがしているだろう。ハハハハハ。どんなもんだい。遺言書というものは、是非とも本人が死んだ後から現われて来なければならぬものと、きまってやしないぜ。吾輩がまだ生きていたって、何も不思議はなかろうじゃないか。アッハッハッハッハッ」
「……………」
 私はいた口がふさがらなかった。正木、若林の両博士が、何のためにコンナ奇妙なイタズラをするのかと思い迷った。悪戯いたずらにしても余りに奇妙な、不合理な事ばかり……一体今朝けさから見た色んな出来事や、様々の書類の内容は、みんな真剣な事実なのか知らん。それとも二人の博士が馴れ合いで、私を戯弄からかうために仕組んだ、芝居に過ぎないのじゃないかしらん……と……そんな風に考えまわして来るうちに、今の今まで私の頭の中に一パイになっていた感激や、驚きや、好奇心なぞの山積が、同時にユラユラグラグラと崩れ初めて、自分の身体からだと一緒にスウーとどこかへ消え失せて行くように感じたのであった。
 それをジッと踏みこたえて、大卓子テーブルの端に両手をシッカリと突いた私は、鼻の先にニヤニヤしている正木博士の顔を、夢のようにボンヤリと眺めていた。
「ウッフッフッフッフッ」
 と正木博士は噴飯ふきだした。その拍子にみ込みかけていた葉巻の煙にせて、苦しさと可笑おかしさをゴッチャにした表情をしながら、慌てて鼻眼鏡を押え付けた。
「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ是非とも吾輩が死んでいないと具合がわるいと……ゲッヘンゲッヘン……云うのかね。ゲヘゲヘ弱ったなドウモ……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室のまん中に大の字なりに寝ていた。そうして眼を醒ますと、イキナリ自分の名前を忘れているのに驚いて、タッタ一人で騒ぎ廻ったろう」
「……エッ……どうしてそれを御存じ……」
「御存じにも何も大きな声を出して怒鳴どなり散らしたじゃないか。他の奴はみんな寝ていたが、このへやでこの遺言書を書いていた吾輩が聞き付けて行ってみると、君はあの七号室で、一所懸命に自分の名前を探しまわっている様子だ。……さてはヤット今までの夢遊状態から醒めかけているんだナ……と思って、なおも大急ぎで遺言書を書き上げるべく、二階へ引返して来た訳だが、そのうちに夜が明けてから、やっと居睡いねむりから眼を醒ました吾輩が、少々気抜けのていでボンヤリしていると、間もなく若林が例の新式サイレンの自動車で馳け付けて来る様子だ。……こいつは面黒おもくろい。君が夢中遊行の状態から醒めかけている事を、早くも誰かが発見して若林に報告したと見える。ナカナカ機敏なものだが、さて馳け付けて来てドウするつもりか……となおも物蔭から様子を見ていると、若林は君の頭を散髪さして湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立て上げてから、君のへやと隣り合わせの六号室に入院している一人の美少女に引き合わせたろう。……しかも、それは君の許嫁いいなずけだというのでスッカリ君を面喰めんくらわせたろう」
「エッ……それじゃあの娘は、やっぱり精神病患者……」
「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異状さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの花婿さんから、思いもかけぬ『変態性慾の心理遺伝』なぞいう途方とほうトテツもない夢遊発作を見せられたために、吾れ知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その花婿さんと同じ系統の心理遺伝の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ玄宗皇帝や楊貴妃を慕ったり、居もしない姉さんに済まないと云い出したり、又は赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと云ったりしていた……もっとも今では、よほど正気付いてはいるがね……」
「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」
「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。音に聞えた姪の浜小町さ……呉モヨ子さ……」
「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉一郎……」
 私が、こう云いかけた時、正木博士はその大きなへの字口をピッタリとつぐんだ。葉巻の煙に顔をしかめたまま、黒い瞳の焦点をピッタリと私の顔に静止さした。
 私は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタとしたたり落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、又もフラフラとなりかけたように思った。大卓子テーブルに両手を支えて立っている自分の身体からだが空気と一緒に散り薄れて、あとにはただ眼のたまだけが消え残ってシッカリと正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中に私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で駈けめぐっていた……呉一郎としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れ戦きつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠い処から、大浪を打たせて責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルと戦きふるえていた。
 けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、あえぎまわっても、私の魂はどうしても、呉一郎としての過去の思い出を喚び起し得なかった。そのあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない、「呉一郎」という名前に対して「これが自分の名前だ」というようななつかし味や親しみが微塵みじんほども感ぜられなかった。私の過去の記憶はイクラ考え直しても、今朝けさ暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまでさかのぼって来ると、ソレッキリ行き詰まりになってしまうのであった。……私は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎と認める事が出来ないのであった。
 ……私はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識が次第次第に私のまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり初めた。やがてドタリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋の下からタラタラと冷汗がしたたった。
 すると、それと同時に私の鼻の先で、澄まし返った顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。
「どうだい。自分の過去を思い出したかい」
 私は無言のまま頭を左右に振った。そうしてポケットから新しいハンカチを引き出して顔の汗を拭いているうちに、よほど気が落ち付いて来たように思った。……しかし、それにしても訳のわからない事があんまり多過ぎるようで、身動きするのさえ恐ろしくなりつつ、椅子の中へヒッソリとずくまった。……と……間もなく正木博士が大きな咳払いを一つしたので私は又ビックリして飛び上りそうになった。
「……エヘン……思い出さなければモウ一度云って聞かせるが、いいかい……気を落ち付けてよく聞きたまえよ。君は現在、一つのトリックに引っかけられているのだよ。つまり……吾輩の同輩若林鏡太郎博士は、君自身を呉一郎と認めさせて、充分に間違いのない事を確信させた上で、吾輩に面会させようとしているのだ。そうして吾輩をこの世に二人といない、極悪無道の人非人にんぴにんとして君に指摘させようとしているのだよ」
「エッ。あなたを……」
「ウン。まあ聞け。君がよく気を落ちつけて、今朝けさから起った出来事を今一度ハッキリと頭の中で考え合わせて来さえすれば、万事が何の苦もなく解決するのだ。……いいかい」
 正木博士は改めて真面目に帰ったように、落ち付いた調子で咳一咳がいいちがいした。椅子の上にり返って濃い煙をあとからあとから吹き上げると、悠然として大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。
「いいかい。改めて云っておくが、今日は大正十五年の十月二十日だよ。いいかい。もう一度、繰り返して云っておく。きょうは大正十五年の十月二十日……この遺言書に書いてある通り、呉一郎が一個月振でこの解放治療場にヒョックリと出て来て、鉢巻儀作爺の畠打ちを見物していた、十月十九日のその翌日なんだよ。……その証拠にあのカレンダーを見たまえ。……OCTOBER……19……すなわち昨日きのうの日付になっている。これは吾輩が昨日からあまり忙がしかったので、あの一枚を破るのを忘れていたからで、同時に吾輩が昨日から徹夜してここに居た事を証明しているのだ……いいかい。解ったね。……それから、ついでに吾輩の頭の上の電気時計を見たまえ。今は十時十三分だろう。ウン。吾輩のとピッタリ合っている。つまり吾輩が今朝になって、その遺言書を書きさしたまま、居睡いねむりを初めてから、まだ五時間しか経過していない理窟になるんだ。……こうした事実と、その遺言書のおしまいの処のインキがまだ青々としている事実とを綜合したら、吾輩がこうしてケロリとしていたって別に不思議がる事はなかろうじゃないか。いいかい、……この点をまずシッカリ頭に入れとかないと、あとで又大変な錯覚に陥るかも知れないおそれがあるんだよ」
「……しかし……若林先生が先刻さっき……」
「いけない……」
 と一際ひときわ大きな声で云ううちに、正木博士の右手の拳骨げんこつが高く揚がると、私の頭の中の迷いを一気にたたきけるように空間で躍った。……活溌な……万事を打ち消すような元気を横溢おういつさして……。
「いけない。吾輩の云う事を信じ給え。若林の云う事を本当にしてはいけない。若林はサッキからこの一点でタッタ一つの大失敗を演じているんだ。彼奴きゃつ先刻さっき、この室に這入ると間もなく、吾輩がこの大暖炉の中で焼き棄てた著述の原稿の、げ臭いにおいを嗅ぎ付けたに違いないのだ。それからこの遺言書をこの卓子テーブルの上で見付けると直ぐに一つのトリックを思い付て、その通りに君へ説明をしたんだ」
「……でも……けれども……今日は先生がお亡くなりになってから一箇月後の十一月二十日だと……」
「チェッ……仕様しようがないな。ドウモそういう風にどこまでも先入主になって来られちゃかなわない……いいかい。聞き給え……こうなんだよ」
 と噛んで含めるように云いつつ正木博士はさも忌々いまいまし気に、舌に粘り付いた葉巻の屑を床の上に吐き棄てた。それから机の上にのしかかって両肱りょうひじを立てると、呆然となっている私の鼻の先に、煙草のやにで黄色くなった右手の指を突きつけて一句一句私の頭の中へ押し込むようにして説明した。
「いいかね。よく聞き給えよ。間違わないようにね……今日は吾輩の死後一箇月目だなんて、あられもないヨタを若林が飛ばしたのは、君を騒がせないための小細工に過ぎないんだよ。いいかね……もし吾輩がこの遺言書をこんな風に書きさしたまま、どこかへ消え失せてから、まだ幾時間も経っていないという事が君にわかれば、君はキット吾輩が自殺に出かけたものと思ってハラハラするだろう。又実際そうとなったら彼奴きゃつだってジッとしてはおられまい。友人の義務としても、又は、学部長の責任としても否応いやおうなしに万事を打ち棄てて、吾輩の行衛ゆくえを突き止めて、自殺を喰い止めなくちゃならない事になるだろう。……ところで又そうなると若林は、自分の手一つで君の過去の記憶を呼び返させ得る唯一無二の機会を失う事になるかも知れないだろう……ね……そうだろう……君が過去の記憶を思い出すか出さないかは、若林の身にとってみると生涯の一大事になる訳があるんだからね。しかも今朝けさが絶好の機会と来ているんだから……」
「……………」
「……だから若林は、吾輩がどこからか耳を澄ましているのをチャント知り抜いていながら、今日はこの遺言書が書かれてから一箇月後の十一月二十日だなぞと、法医学者にも似合わない尻の割れた出鱈目でたらめを云って、とにも角にも君を落ち付かせようとしたんだ。そうしてゆっくりとこの実験をげて、呉一郎としての君の記憶を回復させさえすれば、モウ何もかもこっちのものだと考え付いたんだ。……君が若林の見込み通りに、呉一郎としての過去の記憶を回復しさえすれば、その次に、かく云う吾輩を君の不倶戴天ふぐたいてんの親の仇、兼、女房の仇と認めさせる位の事は、説明の仕様で何の雑作もない事になるんだからね。……又、実際吾輩は有難い事に精神科学者なんだから、何も知らない呉一郎に催眠術でもかけて、親や女房を絞め殺させて、これだけの実験材料をこしらえ上げる位の仕事はいつでも出来る自信があるんだからね。この事件の嫌疑者には持って来いの人物なんだ。ね。そうだろう」
「……………」
「そうして、もし又、万が一にもその実験がうまく行かなかったらだね。……つまりそんな書類を君に読ませても、君自身が何にも思い出さなかったら、最後の手段を用いてくれよう……今度は君に気付かれないようにソット姿を隠して、あとからキットここに出て来るに違いないであろう吾輩と君を突き合わせて、吾輩の顔を君が思い出すか出さないか……そうして思い出したら、その印象によって君自身の過去の記憶が回復されるかどうかを試験してやろう……そうして万が一にもその試験がうまく行ったら、窮極するところ、吾輩の力で吾輩を恐れ入らしてやろうという、実に巧妙辛辣しんらつを極めた計略をたくらんだ訳だ。その辺の呼吸の鋭どい事というものは、実に彼奴きゃつ一流の専売特許なんだよ。いいかい」
「……………」
「元来彼奴きゃつはコンナ策略にかけては独特のスゴ腕を持っているんだ。ドンナに身に覚えのない嫌疑者でも、彼奴の手に引っかかって責め立てられて来ると、頭がゴチャゴチャになって、考え切れないような心理状態に陥ってしまうんだ。とうとうしまいには何が何だかわからなくなったり、到底逃れられぬと観念したり、そうかと思うと慌てた奴は、成程御尤ごもっとも千万と感心してしまったりして、知りもしない罪を引き受けたりする位だからね。近頃亜米利加アメリカ八釜やかましい第三等の訊問法なんかは河童かっぱだ。彼奴きゃつの使う手は第一等から第百等まで、ありとあらゆる裏表を使い別けて来るんだからたまらない。……現に今だってそうだ。仮りに吾輩が彼奴の見込み通りに斎藤先生を殺して、その後釜あとがまに座って、コンナ実験をこころみて失敗をして自殺を思い立った人間とするかね。その吾輩がどこからか耳を澄ましている前で、だんだんと吾輩がそんな大悪人と認められて来るように……そうして君自身が、その吾輩の当の怨敵である呉一郎自身と認められて来るように、合理的に話が進められて行く。同時に、その吾輩の生涯をした事業の功績が、スウーッと奪い去られて行くのを、手も足も出ないまま見たり聞いたりしていなければならない状態に陥って行くとしたら、吾輩にとってコレ以上の拷問があり得るかドウか考えてみるがいい。そのまま黙って自殺するか、飛び出して来て白状するか、二つに一つの道しかないだろうじゃないか……彼奴、若林の遣り口は早い話がザットこんな塩梅あんばい式だから堪らないのだ。ドンナ難事件でも一旦彼奴の手にかけるとなると、キットどこからか犯人をヒネリ出して来る。そのために彼奴が『迷宮破り』なぞと新聞に唄われている事実の裏面には、こうした消息がひそんでいるんだよ」
「……………」
「ところがだ。ところが今度という今度ばかりはそう行かないらしいんだ。今朝から連続的にこころみて来た彼奴の実験が、一々見込み外れになってしまって、君自身に何等の反応を現わさなかったばかりでなく、彼奴お得意の訊問法のトリックが、コンナ風にテッペンから尻を割っているところを見ると、そんなに恐怖おっかながる程の事もないようだね。……流石さすがの古今無双の法医学者先生も、相手が吾輩というので緊張し過ぎたせいか、今朝から少々慌てて御座るようだ。或はこれこそ先生の『空前絶後の失敗』かも知れないがね。ハッハッ……」
「でも……でも……でも……」
「まだ『でも』が残っているのかい……何だい……その『でも』は……」
「……でも……その実験は先生がなさるのが当り前……」
「そうさ。無論、君の過去を思い出させる実験は吾輩がやるのが当然さ。だから彼奴きゃつはこんなトリックを用いて、この実験の結果を独り占めにしようとしたんだ……彼奴は出来る限り吾輩を見殺しにしようとしたんだよ」
「エッ……ソ……そんな無茶な事が……」
「チャント実行されているから面白いだろう。第一吾輩が、その手を喰わずに、こうやって生き長らえて、ここへ出て来て喋舌しゃべっているのが何よりの証拠じゃないか」
 こう云い終ると正木博士は、如何にも憎々しい、皮肉を極めた冷笑を浮めた。回転椅子の上にりかえって傲然ごうぜんと腕を組んだ。葉巻の煙を高々と吹き上げつつうそぶいた。あたかも若林博士が、どこからか耳を澄まして聞いているのをチャント予期しているかのように……。
 それを見ると私の心臓は又も、新しい恐怖に打たれて、一たまりもなく縮み上がってしまったのであった。……何という物凄い両博士の闘いであろう。何という深刻執拗な智慧比べであろう。今の今まで、そんな恐ろしい闘争の間に自分自身が挟まれている事を夢にも知らなかった私は……今の今まで見て来た苦しさや、せつなさ、恐ろしさや物狂おしさなぞが、みんなこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いに引っかけられて、引きずりまわされて来たせいである事を、初めて気が付いた私は……もう悲鳴をあげて逃げ出したいような衝動に満ちたされてしまったのであった。今にも立ち上りそうに腰を浮かしかけたのであった。……が……。
 ……しかしこの時の私は、どうしたわけか一寸も椅子から離れる事が出来なかった。額にニジミ出る汗をハンカチで拭いつつ、又も腰を落ちつけてため息した。そうして、正木博士の顔を一心に凝視しつつ、その黒ずんだ、気味のわるい唇が動き出すのを、生命いのちがけの気持ちで待っていなければならぬような心理状態に陥ってしまったのであった。……それは恐らく、この二人の博士が、全力というよりもむしろ死力をつくして奪い合っているほどの怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力のために私の魂がもう、スッカリ吸い付けられてしまっていたせいかも知れない……その話の底を流るる形容の出来ない不可思議な真実性が、グッと私の心臓を引っ掴んで、云い知れぬ好奇心の血を波打たせているせいかも知れない。……なぞと……そんな事を考えつつ茫然として、眼の前の空間を凝視している私の耳元に、又も咳一咳がいいちがいした正木博士の声が、新しく、き活きと響いて来た。

「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……しかしまだ少々解らないところが在るだろう。ウン。在る……なかなか頭がいいね。……第一そこに居る君自身が、どこの何という青年で、如何なる因果因縁でもってこの事件に捲込まれるに到ったか……という事が君にはテンキリ解っていない筈だからね。ハッハッハッ……しかし心配し給うな。吾輩がこれから話すことを聞いておれば、一切の疑問が櫛の歯でくようにパラリと解けて来る。その話というのは、少々重複するかも知れないが、その吾輩の遺言書の続きになる話で、この実験に関する吾輩と若林の過去の秘密から、だんだんと呉一郎の心理遺伝の内容に立ち入って行って、一番おしまいに君自身が何者であるかという事が、やっとわかる段取りになるのだ。もっともその途中で君自身が自分の身の上を感付くとすれば止むを得ない。話はそれ切りの芽出度めでたし芽出度しになる訳だが、その時はその時として、まずそれまでのお楽しみとして聞いていたまえ。……しかし、もう一度念を押しておくが、もうこの上になお、錯覚を起したりしちゃいけないよ。吾輩が幽霊だとか、吾輩が死んでから一箇月目だとかいうような飛んでもない気もちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心して話を進めるが……」
 と云い云い正木博士は消えかけた葉巻に火をつけた。それからポケットに両手を突込んでサモ美味うまそうにスパスパと吸立てたが、やがて葉巻をくわえ直すと、濛々もうもうたる煙の中にヤッコラサと座り直した。
「……ところでだ。……ところで、こいつはいずれ社会に曝露される事と思うから、その時に新聞で見ればわかるが……いや。もう昨日きのうの夕刊か、今朝あたりの新聞に出ているかも知れないが……実は、昨日、あの狂人の解放治療場に一大事変が勃発したのだ。つまり吾輩がこの事件を中心とする心理遺伝の実験の結論をつけるために、あの解放治療場の精神病者の群れの中に仕掛けておいた精神科学応用の爆弾の導火線が、この間からジリジリと燃えつまって来たのが、昨日の正午――すなわち大正十五年の十月の十九日の午砲ドンが鳴ると殆ど同時に物の美事に爆発したのだ……ナアニ。種を明かせば何でもない。その導火線というのは一挺の鍬に仕かけてあったに過ぎないのだが、何といっても精神科学を応用した導火線で煙も立てず、火も見えないのだから普通人の眼には、そんな種仕掛けがあるものとは思えない。どこまでも普通の鍬としか見えていなかったのだ。……しかも、その結果は、正直のところ爆発し過ぎたと云ってもいい位で、吾輩も一時面喰った位の意外な惨劇になってしまったので、その責任を負うた吾輩は、即刻、総長室に出頭して辞職を申し出たんだが……なおよく考えてみると……何でもここいらが吾輩の実験の切り上げ時らしい。吾輩の今日までの研究に関する一切の発表はあとに若林が控えているから……実は吾輩もその時までは若林を、それほど腹の黒い奴と思っていなかったもんだからね……若林が、どうにかしてくれるだろう。ついでに面倒臭いから人間の方も辞職しちまえ……というので吾輩は一旦、下宿へ帰って、あとを片付けて、それから東中洲ひがしなかすの賑やかな処で一杯引っかけてスッカリいい心持ちになりながら、書類を整理すべくここへ引返して見ると……又驚いたね。つい今先刻さっき、吾輩がここを出かける時まで空室あきべやであった、あの六号の病室にアカアカと電燈がいている。おかしいなと思って帰りかけている小使に様子を聞いてみると、若林先生がどこからか一人のお嬢さんを連れて来て、当直の医員に頼んで、たった今入院おさせになったところだと云う。おまけにそのお嬢さんというのは、今までに見た事もない、何ともかんとも云えない美しい綺倆きりょうだと云うんだ。
 ……その時には流石さすがの吾輩も、思わずアッと感歎の膝を打ったね。コイツは面黒おもくろい事になった。この様子でみると彼奴きゃつ若林鏡太郎はどうして一筋縄にも二筋縄にもかかる奴じゃない。彼奴の法医学者としての価値に相当する……否、それ以上かも知れない大悪党だ。第一、吾輩の前ではスッカリ猫をかぶっているが、ウッカリすると吾輩に敗けない位の精神病学者で、おまけに人情の弱点を利用する事にすこぶる妙を得ているという事が一ペンにわかってしまったのだ。……というのはほかでもない。この遺言書にも書いておいた通り、れ若林鏡太郎が、この事件の勃発当時に、学長の権威を利用しての少女を生きた亡者にしてしまって、自分の手中に握り込んだ目的がどこにあるかという事は、その当時から今日までどうしてもわからなかったのであるが、今となってみると何の事はない。彼奴は、君が或る程度まで本性を回復した時を見澄まして、コッソリとあの娘に引き会わせて、色と、慾と、理詰めの三方から、君自身に君自身を無理にも呉一郎と認めさせよう。そうして今も云ったように、吾輩を君の不倶戴天ふぐたいてん仇敵かたきと思い込ませて、その事実を公式に言明させよう……彼の思い通りに引きゆがめた事件の真相を社会に曝露させてやろう。……のみならず、その君の言明を、自分の畢生ひっせいの事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようとたくらんでいるスジミチが手に取る如くわかって来たのだ。
 ……そこで吾輩も考えた。……よろしい。そっちがそんな考えなら、こっちにも了簡りょうけんがある。もともと若林の精神科学的犯罪の研究は、吾輩独創の心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているんだから、まぜっ返しをしようと思えば訳はない。ここで思い切って吾輩の精神科学の研究発表の原稿を全部焼き棄ててしまって、あとにその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残しておけば、彼奴、若林は嫌でも応でもその著述の中に、この遺言書を組み込まなければ研究発表の筋が立たなくなる訳だ。しかし、果して彼奴きゃつが吾輩の遺言書を公表し得るかどうか……公表するとすれば、どんな風に手品を使って公表するかは、ずいぶん面白い見物だぞ……事に依ると吾輩の遺言書は恐らく空前絶後のタチのわるい置き土産になるかも知れないぞ……。
 ……と……こう考えると吾輩、急に嬉しくなったね。大急ぎでこのへやへ来て書類をスッカリ焼き棄てて、この遺言書を書き初めたんだが、そのうちに夜が明けてみると、君が覚醒しかけたというので、兼ねてから待ちかねて準備していた若林が時を移さず馳けつけて、早速の美少女に引き合わせた。……が……こいつはまんまと首尾よく失敗した。尤も先方は君を恋しい恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功した訳だが、御本尊の君自身が、あの美少女にズドンと肘鉄砲ひじでっぽうを喰わせた……自分の従妹いとことも許嫁いいなずけとも、何とも認めなかったので、今度は手段をかえて、君をこの室に連れて来る様子だ。
 ……ところで、実を云うとこの時には吾輩もいささ狼狽ろうばいしたね。恐るべきは彼奴、若林鏡太郎だ。彼奴は吾輩のこうした心事を、もうっくに見抜いていたんだ。彼奴は吾輩が遅かれ早かれこの危険千万な放れ業式の解放治療の実験を切り上げて、その内容を学界に発表すると同時に、行衛をくらますであろう事を、ずっと前から察していたんだね。しかも、それと同時に、このめいはまの花嫁殺し事件も、吾輩一人の実験材料に使い棄てて、あとから誰が見ても犯罪事件と見えないようにして、学界に報告するであろう事までもチャンと看破していたんだね。そこで彼奴は全力を挙げて電光石火式に事を運んだ。そうして吾輩がまだ行衛をくらまさないうちに吾輩を押え付けてギャフンと参らせようと、たくらんだ訳だ。
 ……彼奴は吾輩が昨夜からここに居据いずわりで居る事を、今朝けさ本館の玄関を這入ると同時に見貫みぬいていたに違いない。そうして何等かの策略で吾輩をへこませるために、君をここへ連れて来るんだな……と気が付いたから、ドッコイその手は桑名くわなの何とかだ。一つ驚かしてやれと思って、その遺言書や、焼き残りの書類をそこに置きっ放しにしたまま、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消してしまったのだ。無論窓から飛び出したのでもなければ、向うの扉から抜け出した訳でもない。一歩もこの室から出ないまま誰にも気付かれないように消え失せた……というと何だか又精神科学応用の手品じみて来るが、そんな事じゃない。種というのはこの大暖炉ストーブだ。
 この大暖炉は、万一この実験が失敗するか、又は吾輩の研究の内容を他人に盗まれそうになった時に、そんな著述の原稿を全部、この中で焼き棄ててくれよう。事に依ったら吾輩自身もこの大暖炉を利用して天下をけむに巻きながら、ヒュードロドロドロと行衛を晦ましてくれようと思って、最初から瓦斯ガスと電気併用の自動点火式に設計したものだが……見給え……この鉄の蓋を取ると、内部なかはこんなに広々して、底一面の電熱装置の間から瓦斯が噴き出すようになっている。何の事はないブンゼンラムプの大きなヤツを二百ばかり併列した形だ。この上に生きた物でも戴せて、瓦斯のコックを開いて電気のスイッチをじると、取りあえず瓦斯が飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱して来て、ドカンと瓦斯に点火したら一時間経たぬうちに骨までボロボロになってしまうだろう。その上に石でも瓦でも積み重ねておくと全部白熱して強烈な輻射熱を出すのだからね。見給え、肉よりも焼けにくいという西洋紙の原稿ばかり、本箱に四杯近くもあったのが、どうだい。たったこれんばかりの白い灰になってしまっているだろう。これで吾輩が又けむになれば、折角の大学理が、又、もとの空中に還元されてしまうわけだ。ハッハッハッ。……吾輩は、君と若林が、あの階段を上って来る音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込んで、この灰の上にこうして新聞紙を敷いて楽々と胡座あぐらいたまま、いつ何時でも煙になる覚悟で、葉巻を吹かし吹かし耳を澄ましていた訳だ。
 ……ところが流石さすが彼奴きゃつだ。天下の名法医学者だ。吾輩の姿が見えなくても平気の平左でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君を錯覚に陥れ初めた。……彼奴のアタマは聖徳太子と同様二重三重に働くんだからね。だから吾輩や斎藤先生の事を色々と君に話して行く片手間に、この遺言書の内容を大急ぎで検査してみると、少々都合のわるい処もあるが、結論まで書いてないのだからまず安全である。のみならず、こいつを君に読ませれば、自分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉一郎と思い込ませ得るという見込みが付いたので、わざと君に押し付けておいて、君が夢中になって読んでいるうちにコッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して吾輩がドンナ処置をるかを試験しているらしい様子だ。
 ……そこで吾輩いよいよ面白くなったね。……よし……その儀ならばこっちも一つその計略の裏を行って、あべこべに彼奴の挑戦に逆襲してやれと思って、暖炉ストーブの中からソーッとここへ出て来て、この椅子に腰を卸しながら、君がその遺言書を読み終るのを待っていた訳なんだが……。ハッハッ……どうだい。今君と吾輩とは天下の名法医学者、若林鏡太郎氏の計劃の下に対決しているんだよ。そうして君がどこの何という名前の青年であるか……この事件と如何なる因果関係によって結び付けられて、現在その椅子に座らせられているのかという事は、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。
 ……だから彼奴、若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉一郎として覚醒して、吾輩をその事件の裏面に活躍している怪魔人……血も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は吾輩の負けになる。しかし、これに反して、君がドウシテモ呉一郎としての過去の記憶を思い出さなければ、早い話が吾輩の勝になる……君は『自我忘失症』と名づくる一種の自家意識障害を起して、九大の精神科に収容されている、第三者の立場から若林の手にかかって突然にこの事件に捲き込まれて来た無名の一青年という事実が公表され得る事になって、若林の計劃がオジャンになるという、その際どい土俵際に立っているんだよ君は……。ドウダイ面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた智慧比べだ。しかも、その勝負を決すべき呉一郎が、君自身だかどうだかは、今も云う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ残った残ったというところだね。ハッハッハッ……」
 正木博士の高笑いは、へやの中の色々なものにケタタマシク反響しつつ、私の耳に飛び込んで来た。そうして二人の博士の云う事の、どちらが本当か嘘か解らないままボンヤリとなっている私の頭の中を、メチャメチャに引っかき廻すとそのまま、どこかへシインと消え失せて行った。

 しかし正木博士は私のそうした気持ちに頓着なく、又も片眼をシッカリとつぶって、さも美味うまそうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから廻転椅子の肘掛けに両手を突張って、ソロソロと立ち上りかけた。
「……や……ドッコイショ……と……そこでいよいよ本勝負に取りかからなければ、ならないのだ。まず是非とも吾輩の手で君の過去の記憶を回復さして、君が誰であるかを君自身に確かめさせなくちゃ、若林の手前、卑怯に当るからね。……とりあえずこっちに来てみたまえ。今度は吾輩自身が、君の過去を思い出させる第一回の実験をやってみるんだから……」
 私はもう半分夢遊病にかかっている気持ちでフワフワと椅子から離れた。どこからか若林博士の青白い瞳が覗いているような気味わるさの中を、正木博士に導かれるままに南側の窓に近づいた……が……正木博士の白い診察服の肩ごしに窓の外を一眼見ると、私はハッとして立ち止まった。
 眼の下に狂人解放治療場の全景が展開されているのであった。……そうしてその一隅にまぎれもない呉一郎が突立っているのであった。……老人の畠打はたうちを見守りながら、背中をこっちに向けている……髪毛かみのけ蓬々ぼうぼうとさした……色の白い……頬ぺたの赤い……黒い着物をダラシなく纏うた青年の姿……。
 その悽惨みじめな姿をアリアリと現実に見た一瞬間、私は思わず眼を閉じた。その上から両手でピッタリと顔をおおうた。……とても正視出来ないほどの驚きと……恐れと……云い知れぬ神経の緊張に打たれて……。
……呉一郎はあそこに居るじゃないか。あれはの遺言書の中に書いてあった呉一郎の姿に違いないじゃないか。そうしてあれが呉一郎に間違いないとすれば……ここに立っている私は一体、何者であろう……。
……たった今窓の外を覗いた一瞬間に、私自身が、私自身から脱け出して行って、姿をかえてあそこに突立っているような……それを、あとに残った魂魄たましいだけが眺めているような……そんなような陰惨な、悽愴とした感じ……。
……もしや今見たのは私の幻覚ではなかったろうか。白昼の夢というものではなかったろうか……。
 頭の中で電光のように、こう考えまわしつつ……何ともいえず息苦しい、不可思議な昂奮にとらわれつつ、私は又も、しずかに眼を開いてみた。
 しかし解放治療場内の光景は、どう見直しても夢とは思えなかった。……青い青い空……赤い煉瓦塀……白くまぶしく光る砂……その上を逍遥さまよう黒い人影……。
 その時に、私の前に立って、何かしら考え込んでいた正木博士は、やおら私をふり返って、何気なく窓の外をゆびさした。
「……どうだい……ここがどこだか知っているかね君は……」
 けれども私は返事が出来なかった。只かすかに首肯うなずいて見せたばかりであった。それほど左様さように私は眼を開いた次の瞬間から、何ともいえぬ異様な場内の光景に魅せられてしまったのであった。
 青空の光りと照し合っている場内一面の白砂の上を、ウロウロと動きまわっている患者たちの黒い影は、殆ど全部が、最前の遺言書に描きあらわしてあった通りの仕事を、そのままに繰返していた。あたかも、その一人一人の一挙一動が、正木博士の心理遺伝の原則を、実地に証明する芝居ででもあるかのように……儀作老人は依然としてくわふるいつつ、今一本の新らしい砂のうねを作り……青年呉一郎はやはり、こっちに背中を向けながら、老人の前に突立って、鍬を動かす手許を一心に見守っている。……年増女としまおんなは、ボール紙の王冠を落したのを気付かぬまま、威張ってあるきまわり……それを拝んでいた髯面ひげづらの大男は、拝みくたびれたかして、砂の中にひたいを突込んで眠り……小男の演説家は煉瓦塀に拳固を押し当てて祈り……痩せた青黒い少女は、老人の作った新しい畝に植えるものを探すらしく、キョロキョロと場内を物色してまわっている。そのほかの連中も、その位置が違っているように思えるだけで、やっている仕事の意味は、最前読んだ遺言書の説明とすこしも違わない。唯……最前から歌を唄って踊りまわっていた筈の、舞踏狂らしいお垂髪さげの女学生が、私たちの立っている窓のすぐ下に、肩まで手が這入るような砂の穴を掘って、ボール紙の王冠と、松の枯れ枝を利用しながら、小さな陥穽おとしあなを作りかけているのが、少々脱線しているように思われるだけである。しかし、いずれにしても正木博士がたった今話した、昨日きのうの正午の大惨事というのは、いつ、どこで、どの狂人が起したものか、そんな形跡さえ見えないのが、私には不思議に思われて仕様がなかった。舞踏狂の少女が歌をやめたせいか、それとも硝子ガラス窓越しに眺めているせいか、すべてが影のようにヒッソリと静り返っている。その薄気味わるさ……こころみに人数を数えてみると、やはり遺言書に書いてある通りの十人で、えても減ってもいないのはどうした事であろう。
 しかも、更に不思議な事には、その何も変った事のない、静かにハッキリした光景を見下しているうちに、この十人の狂人の心理遺伝を利用して、正木博士が仕掛けておいたという精神科学的の大爆発……正木博士の辞職の原因となった大惨事が、もうじきに初まろうとしている……それは昨日の事でもなければ一昨日おとといの事でもない。たった今、眼の前に起りかけている事実なのだ……という予感がして、しようがないのであった。否……場内に居る狂人ばかりではない。向うの屋根の上に二本並んで、藍色の大空を支えている赤煉瓦の大煙突……その上から、たった今吐き出され初めた黒い黒い煤煙のうねり……その上にまん丸くピカピカ光っている太陽までもが、何等かの神秘的な精神科学の原則に支配されつつ、時々刻々にその空前絶後の大事変の方へ切迫して行きつつあるのではないか……というような底知れぬ冷やかな、厳粛な感じが、しきりに首すじの処へ襲いかかって、全身がゾクゾクして来るのを我慢する事が出来なかった。そんな馬鹿な事が……と思えば思う程そう思えて仕様がなくなって来るのであった。私はそうした神秘的な……息苦しい気持を押え付けよう押え付けようと焦燥あせりつつ、なおも、解放治療場内の光景に眼を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉一郎のうしろ姿を、異様な胸の轟きのうちに凝視した……。
 その時であった。私の耳の傍で突然に、低い、ささやくような声がしたのは……。
「何を見ているのだね……君は……」

 その声の調子は、今までの正木博士のソレとは丸で違っていたので、私は又もドキンとして振り返った。
 見ると正木博士は、いつの間にか私のすぐ傍に来て、細い煙の立つ葉巻を手にして突立っていたが、その顔からは今までの微笑が、あとかたもなく消え失せていて、鼻眼鏡の下に真黒い瞳を据えたまま穴のあく程私の横顔を睨みつけているのであった。
 ……私は深い溜息を一つした。そうして出来るだけ気を落ち付けて返事をした。
「解放治療場を見ているのです」
「フ――ウ――ム」
 と腹の底でうなった正木博士は、やはり瞬き一つせずに私の瞳を見据えた。
「フ――ム。……そうして何か見えているかね……解放治療場の中に……」
 私は正木博士の尋ね方が何となく異様なので、静かにその瞳を見返した。
「ハイ……狂人が十人居るようです」
「……ナニ……狂人が十人……」
 と慌てた声で云いさした正木博士は、何かしら余程驚いたらしく、今一度グッと私を睨み付けた。
 その視線を横頬に感じながら、私は又も解放治療場内をふり返って、呉一郎のうしろ姿を凝視しはじめた。……今にもこっちを振り向いて、私と顔を合わせそうな気がして……そうしたら、何かしら大変な事が起りそうに思えて……身体からだじゅうが自然おのずと固くなるように感じつつ……。
「ウーム……」
 と正木博士は私の横で気味のわるい程ハッキリと唸った。
「あの中で狂人が遊んでいるのが、アリアリと見えるかね君には……」
 私は無言のままうなずいた。いよいよ奇妙な質問の仕方だとは思いながら、別段気にも止めないで……。
「フ――ム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね」
 私は又、うなずきつつ振り返った。
「ハイ。キッチリ十人おります」
「……ウ――ム……」
 と正木博士は唸った。真黒い眼のたまを奥の方へへこませながら……。
「フーム。こいつは妙だ。……トテモ面白い現象だぞこれは……」
 と独言ひとりごとのように云いつつ、おもむろに私の顔から視線をらして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジッと考え込んでいるようであった。がやがて以前の通りに元気のいい顔色に返ると、ニッコリと白い歯を見せつつ私を振り返った。窓の外を指しつつ快濶かいかつな口調で問うた。
「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」
「ハイ。おります」
「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」
 私は正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。
「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」
「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」
 正木博士がこう云いさした時、私の全身は何故なにゆえか知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。
 その時に正木博士にゆびざされていた青年……呉一郎のうしろ姿は、あたかも、何等かの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。私達の覗いている硝子ガラス窓越しに、私とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……今朝けさ程、あの湯殿の鏡の中で見た私の顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。……顔の丸い、眼の大きい、あごの薄い……と思う間もなく、又も、ニコニコと微笑を含みながら、しずかに老人の畠打ちの方に向き直ってしまった……ように思う……。
 ……私はいつの間にか両手で顔をおおうていた。
「……呉一郎は……私だ……私は……」
 と叫びつつヨロヨロとうしろに、よろめいた……ように思う……。
 それを正木博士が抱き止めてくれた。そうしてせかえるほど芳烈な、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれた……ように思うが、何が何であったかハッキリとは記憶しない。唯、その時に正木博士が、私の耳の傍で怒鳴どなっていた言葉だけが、切れ切れに記憶に残っているだけであった。
「……しっかりしろ。しっかりしろ。そうして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……サアサア……そんなに震えてはいけない。そんなに驚くんじゃない。ちっとも不思議な事はないんだ。……確りしろシッカリ……あの青年が君にソックリなのは当り前の事なんだ。学理上にも理屈上にも在り得る事なんだ。……気を落ちつけて気を、サアサア……」
 私はこの時、よく気絶してしまわなかったものと思う。おおかたこの時までに、いろんな不思議な出来事に慣らされていたせいかも知れないが、それでも、どこか遠い処へ散り薄れかけている自分の魂を、一所懸命の思いで、すこしずつすこしずつ呼び返して、もとの硝子ガラス窓の前にシッカリと立たせる迄には何遍眼を閉じたりいたりして、ハンカチで顔をコスリまわしたか知れない。しかも、それでも私には今一度窓の外を見直す勇気がどうしても出なかった。こうべれて床のリノリウムを凝視みつめたまま、何回も何回もふるえた溜め息をして、舌一面に燃え上る強烈なウイスキーの芳香においを吹き散らし吹き散らししていたのであった。
 正木博士は、その間に手に持っていたウイスキーの平べったい瓶を診察着のポケットに落し込んだ。そうして自分自身もやっと落ち付いたように咳払いをした。
「イヤ。驚くのも無理はない。あの青年は君と同年の、しかも同月同日の同時刻に、同じ女の腹から生れたのだからね」
「……エッ……」
 と叫んで私は正木博士の顔を睨んだ。同時に一切がわかりかけたような気がして、やっと窓の外の呉一郎をふり返るだけの勇気が出た。
「……ソ……それじゃ僕と、あの呉一郎とは双生児ふたご……」
「イイヤ違う……」
 と正木博士は厳格な態度で首を振った。
双生児ふたごよりもモット密接な関係を持っているのだ。……無論他人の空似でもない」
「……ソ……そんな事が……」
 と云い終らぬうちに私の頭は又、何が何やら解らなくなってしまった。一種の皮肉な微笑を含みかけた正木博士の顔の、鼻眼鏡の下の、黒い瞳を凝視した。冷かしているのか、それとも真面目なのか……と疑いつつ……。
 正木博士の顔には見る見る私をあわれむような微笑が浮かみあらわれた。幾度も幾度もうなずきつつ、葉巻の煙を吸い込んでは、又吐き出した。
「ウンウン。迷う筈だよ。……君は昔から物の本に載っている、有名な離魂病というのにかかっているのだからね……」
「……エ……離魂病……」
「……そうだよ。離魂病というのは、今一人別の自分があらわれて、自分と違った事をするので、昔から色んな書物に怪談として記録されているが、精神科学専門の吾輩に云わせると、学理上実際にあり得る事なんだ。しかし、そいつを現実に、眼の前に見ると、何ともいえない不思議な気持ちがするだろう」
 私は慌てて、今一度眼をコスリ直した。恐る恐る窓の外を見たが……青年はもとのまま、もとの位置に突立っている。今度はすこしばかり横顔を見せて……。
「……あれが僕……呉一郎と……僕と……どっちが呉一郎……」
「ハハハハハハハ、どうしても思い出さないと見えるね。まだ夢から醒め得ないのだね」
「エッ夢……僕が夢……」
 私は眼を真ン丸にして振り返った。得意そうにり身になっている正木博士を見上げ見下した。
「そうだよ。君は今夢を見ているんだよ。夢の証拠には、吾輩の眼で見ると、あの解放治療場内には先刻さっきから人ッ子一人いないんだよ。ただ、枯れ葉をつけた桐の木が五六本立っているきりだ……解放治療場は、昨日の大事変勃発以来、厳重に閉鎖されているんだからね……」
「……………」
「……こうなんだ……いいかい。これは、すこし専門的な説明だがね。君の意識の中で、現在眼を醒まして活躍しているのは現実に対する感覚機能が大部分なんだ。すなわち現在の事実を見る、聞く、嗅ぐ、あじわう、感ずる。そいつを考える。記憶する……といったような作用だけで、過去に関する記憶を、ああだった、こうだったと呼び返す部分は、まだ夢を見得る程度にしか眼を醒していないのだ。……そこで君がこの窓から、あの場内の光景を覗くと、その一刹那せつなに、昨日まであそこに、あんな風をして突立っていた君の記憶が、夢の程度にまでよみがえって、今見ている通りのハッキリした幻影となって君の意識に浮き出している。そうしてそこに突立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、君の記憶の中から夢となって現われて来た、君自身の過去の客観的映像で、硝子ガラス窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実とを一緒に見ているのだよ君は……今……」
 私はもう一度シッカリと眼をこすった。大きく瞬きをしいしい正木博士の妙な笑い顔を睨んだ。
「……そんなら……僕は……やはり呉一郎……」
「……そうだよ。理論上から云っても、実際上から見ても、君はどうしても呉一郎と名乗る青年でなくては、ならなくなるんだよ。不思議に思うのは無理もないが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度でない、ハッキリした現実にまでスッカリ回復してしまったとなれば、残念ながらこの実験は若林の大勝利で吾輩の敗北だ……かどうだかは、まだ結果を見ないと解らないがね。フフフフ」
「……………」
「……とにかく奇妙奇態だろう。変妙不可思議だろう。しかし、これを学理的に説明すると、何でもない事なんだよ。普通人でも頭が疲れている時とか、神経衰弱にかかっている時なぞには、よくこんな事があるんだよ。尤も程度は浅いがね……白昼まひるの往来を歩きながら、昨夜ゆうべ自分が女にチヤホヤされて、大持てに持てていた光景を眼の前に思い浮かめてニヤリニヤリと笑ったり、淋しい通りを辿たどってゆくうちにこの間、電車にかれそこなった刹那の光景を幻視して、ハッと立ち止まったりする。女は又女で、古くなった嫁入道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してポーッとなったり、女学生時代の自分の思い出の後影うしろかげうて、ウッカリ用もない学校の門の前まで来たり……まだ色々とあるだろう。ちょうど夢の中で、自分の未来の姿である葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的の記憶が生んだ虚像と、現在の主観的意識に映ずる実像とを、二枚重ねて覗いているのだ。しかも君のは、その夢を見ている部分の脳髄の昏睡が、普通の睡眠よりもズット程度が深いのだから、その解放治療場内の幻覚も、今、君が見ている通り、極めてハッキリとしている。熟睡している時の夢と同様に、現実とかわらない程の……否、それ以上の深い魅力をもって君に迫っているので、現実の意識との区別がなかなかつけにくいのだ」
「……………」
「……おまけに今も云う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能の或る一部分が、ごく最近の事に関する記憶から初めて、少しずつ少しずつよみがえらせながら見せている夢だと思われるから、事によると、まだなかなか醒めないかも知れない。……醒める時はいずれ、窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこのへやも、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が失神しかけた時に、サテは最早もう覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」
「……………」
 いつの間にか又眼を閉じていた私は、唯、正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから昏迷させられつつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼をいたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌を動かしていた。
 その時であった。殆ど無意識に頭を押えていた私の右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際の処まで撫で卸して来ると、突然、背骨にみ渡るほどの痛みを感じたのは……。
 私は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少しふくらんでいるようであるが、しかしれ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、又は打たれるかした痕跡あとである……今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうして又、今朝けさから今までの間に、そんなに非道ひどく頭を打ったおぼえは一つもないのだが……。
 夢に夢見る心地とは、こんな場合をいうのであろう。私はその痛みの上にソッと手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったところはなかった。ただ最前から解放治療場の附近を舞いまわっているらしい、一匹の大きなとびの投影が、又も場内の砂地の上を、スーッと横切っただけであった。
 それを見た時に私は、どうしても一切が現実としか思えない事を自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、又は、恐ろしい精神科学的現象の重なりあいであるにせよ、私自身にとっては決して、夢でもなければうつつでもない。たしかに実在の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴いている事を確信しない訳に行かなかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。私は、今一人の自分自身としか思えないほど私によく肖通にかよっている窓の外の青年、呉一郎の立っている姿を、何等の恐怖も感じないままに、今一度冷然と睨み付ける事が出来た。それからおもむろに正木博士をふり返ると、博士はたちまち眼を細くして、義歯いればを奥の方までアングリとあらわした。
「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えても解らないかい。君自身を呉一郎とは思えないかい」
 私は無言のまま、キッパリと首肯うなずいた。
「ハッハッハッ。イヤえらい豪い。実は今云ったのは……みんな嘘だよ……」
「エッ……嘘……」
 と云いさして私は思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま正木博士と向き合って、大きな眼をき出していたように思う、恐らく「あっ」という文字をそのままの恰好で……。
 その私の眼の前で正木博士は、さもたまらなさそうに腹を抱えた。小さな身体からだから、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑いけ初めた。葉巻の煙にせて、ネクタイを引きゆるめて、チョッキのぼたんを外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声ごとに、室中へやじゅうの空気が消えたり現われたりするかと思う程徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。
「ワッハッハッハッ。トテモ痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。アッハッハッハッハッハッ。ああ可笑おかし……ああたまらない……おこってはいけないよ君……今まで云ったのは嘘にも何にも、真赤な真赤な金箔きんぱく付のヨタなんだよ……アハ……アハ……併し決して悪気で云ったんじゃないんだよ。本当はあの青年……呉一郎と君とが、瓜二つに肖通にかよっているのを利用してチョット君の頭を試験して見たんだよ」
「……ボ……僕の頭を試験……」
「そうだよ。実を云うと吾輩はこれから、あの呉一郎の心理遺伝のドン詰まりの正体を君に話して聞かせようと思っているんだが、それにはもっともっと解らない事がブッ続けに出て来るんだからね。よほど頭をシッカリしていないと飛んでもない感違いに陥るおそれがあるんだ。現に今でも君の方から先にあの青年を『自分と双生児ふたごに違いない』なぞと信じて来られると、吾輩の話の筋道がスッカリこんがらがって滅茶めちゃになってしまうから一寸ちょっと予防注射をこころみた訳さ。アハハハハ」
 私は本当に夢から醒めたように深呼吸をした。今更に正木博士の弁力に身ぶるいさせられつつ、今一度、頭の痛い処に手をった。
「……しかし、僕のここんとこが、今急に……うずき出したのは……」
 と云いさして私は口をつぐんだ。又笑われはしまいかと思って、恐る恐る眼をパチつかせた。
 しかし正木博士は笑わなかった。あたかもそうした痛い処が私の頭の上に在るのを、ズット以前まえからチャンと知っていたかのように、事もなげな口調で、
「ウン……その痛みかい」
 と云ってのけたので、笑われるよりも一層気味がわるくなった。
「それはね……それは今急に痛み出したのではない。今朝けさ、君が眼を醒ました前から在ったのを、今まで気が付かずにいたんだよ」
「……でも……でも……」
 と私はまだふるえている指を一本ずつ正木博士の前で折りかがめた。
「……今朝から理髪師とこやが一ペン……と、看護婦が一度と……その前に自分で何遍も何遍も……すくなくとも十遍以上ここんとこを掻きまわしているんですけど……ちっとも痛くはなかったんですが……」
「何遍引っ掻きまわしていたって、おんなじ事だよ。自分が呉一郎と全然無関係な、赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉一郎の姿と、自分の姿が生き写しだという事がわかると、その痛みを突然に思い出す。……そこに精神科学の不可思議な合理作用が現われて来る……宇宙万有はことごとく『精神』を対象とする精神科学的の存在に過ぎないので、所謂唯物科学では、絶対、永久に説明出来ない現象が存在する事を如実に証拠立て得る事になるという、トテモ八釜やかましいこぶなんだよ、それは……すなわち君の頭の痛みは、あの呉一郎の心理遺伝の終極の発作と密接な関係があるのだ。というのは呉一郎は昨夜ゆうべ、その心理遺伝の終極点まで発揮しつくして、壁に頭を打ち付けて自殺を企てたのだからね。その痛みが現在、君の頭に残っているのだ」
「……エッ……エッ……それじゃ……僕は……やはり呉一郎……」
「ママ……まあソンナに慌てるなってこと……あぶの心ははち知らず。豚の心は犬知らず。張三が頭を打たれても李四は痛くも何ともないというのが普通の道理だ。すなわち唯物科学式の考え方なんだが」
 正木博士は突然に、こんな謎のような言葉を、葉巻の煙と一緒にパクパク吐き出した。そうして私がその意味を飲み込めずに面喰めんくらっているうちに、片眼をつぶってしかめながらニヤニヤと笑い出した。
「然るにだ……現在、君自身には赤の他人としか思えない呉一郎の頭の痛みが、如何なる精神科学の作用で、君自身の顱頂骨ろちょうこつの上に残っているか……」
 私は今一度窓の外を振り向いて、解放治療場の一隅にニコニコ笑いながら突立っている呉一郎の姿を凝視しない訳には行かなかった。しかも、それと同時に私の頭の痛みが、何となく神秘的な脈動をこめて、あらたきとうずき出したように思えてならなかった。
 その眼の前に正木博士は、又も一ぷく巨大なけむりの一団を吹き出した。
「……どうだい。この疑問が君自身で解決出来そうかい」
「出来ません」
 と私はキッパリ返事をした。頭を押えたまま……今朝けさ眼が醒めた時と同じような情ない気もちになって……。
「出来なければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰やらわからない、風来坊でいる迄の事さ」
 私は急に胸が一パイになって来た。それは親に手を引かれて知らない処を歩いていた小児が、急に親から手を放されて、逃げられてしまったような悲しさであった。思わず頭から手を放して両手を握り合わせた。拝むように云った。
「教えて下さい……先生。どうぞ、お願いですから……僕はもう、これ以上不思議な事に出会でっくわしたら死んでしまいます」
意気地いくじのない事を云うな。ハハハハハ。そんなに眼の色を変えないでも教えてやるよ」
「どうぞ……誰ですか……僕は……」
「まあ待て……それを解らせる前に一ツ約束しておかなくちゃならん事がある」
「……ど……どんな約束でも守ります」
 正木博士の顔から微笑が消え失せた。吐き出しかけた煙を口の中へ引っこめて、私の顔をピッタリと見据えた。
「……キット守るか……」
「キット守ります……どんな約束です……」
 正木博士の顔には又、博士独特の皮肉な冷笑が浮んだ。
「ナニ。君が今の通りのたしかな気持ちで『俺はどんなに間違っても呉一郎じゃないぞ』という確信を以て聞けば、別に大した骨の折れる約束ではないと思うが……つまり吾輩はこれから呉一郎の心理遺伝事件について、ドンドコドンのドン詰まで突込んだ、ステキな話を進めるつもりだが、その話の内容が、どんなに怖ろしい……又は……あり得べからざる事であろうとも我慢しておしまいまで聞くか」
「聞きます」
「ウン……そうしてその吾輩の話が済んでから、その話の全部が一点の虚偽をまじえない事実である事を君が認め得ると同時に、その事実を記録して、あの吾輩の遺言書と一緒に社会に公表するのが君の一生涯の義務である……人類に対する君の大責任である……という事がわかったならば、仮令たとい、それが如何に君自身にとって迷惑な、且つ、戦慄に価する仕事であろうとも必ずその通りに実行するか」
「誓って致します」
「ウム……それから今一つ……もしそうなった暁には、君は当然、あの六号室の少女と結婚して、あの少女の現在の精神異状の原因を取り除いてやる責任があることも同時に判明するだろうと思うが、そうした責任も君はその通りに果せるか」
「……そんな責任が本当に……僕にあるんでしょうか」
「それはその場になって、君自身が考えてみればいい……とにかく、そんな責任があるかないか……言葉を換えて云えば、呉一郎の頭の痛みが、どうして君のオデコの上に引っ越したかという理由を明らかにする方法は、すこぶる簡単明瞭なんだからね。物の五分間とかからないだろう」
「……そんな……そんな容易やさしい方法なんですか」
「ああ、雑作ない事なんだ。しかも理窟は小学生にでもわかる位で、吾輩の説明なぞ一言も加えないでいい。唯、君が或る処へ行って、或る人間とピッタリ握手するだけでいいのだ。そうするとそこに吾輩が予期している、或る素晴しい精神科学の作用が電光の如くきらめき起って……オヤッ……そうだったかッ……俺はこんな人間だったのかッ……と思うと同時に、今度こそホントウに気絶するかも知れぬ。もしかすると、まだ握手しないうちに、その作用が起るかも知れないがね」
「……それを今やってはいけないんですか……」
「いけない。断じていけない。今君が誰だという事がわかると、今云った通り飛んでもない錯覚に陥って、吾輩の実験をメチャメチャに打ち壊すおそれがあるんだ。だから君がスッカリ前後の事実を飲み込んで、それを一つの記録にして社会に公表すべく、吾輩の指図通りの手段を取るのをチャント吾輩の眼で見届けた上でなくちゃ、その実験をやる訳に行かないと云うのだ。……どうだ。出来るかい……その約束が……」
「……出来……ます……」
「よろしい……それじゃ話そう……イヤ。話が篦棒べらぼうに固苦しくなった。こっちへ来たまえ……」
 と云ううちに正木博士は、私の手をグングンと引っぱって、大卓子テーブルの処へ連れて来て座らせた。自分ももとの肘掛回転椅子に私と差し向いに座ると、白い服のポケットからマッチを出して新しい葉巻に火をつけた。吸い残りの短いのは達磨だるまの灰落しの口へタタキ込んだ。
 私は窓の外が見えなくなったので、ホット重荷を卸したような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問の数々が、益々深刻に交錯して来るのを、頭の中心にハッキリと感じながら…………。

「イヤ。馬鹿に話が固苦しくなった」
 と今一度わざとらしく繰り返した正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になって机の上に両肱をついた。その上に顎を載せて、長い葉巻を横啣よこくわえにしながら、ニヤニヤと私の顔をのぞき込んだ。
「ところでどうだい。君自身が何者かというような問題はとりあえず別にしておくとして、君は今朝けさ見たあの少女をどう思うね」
 私は質問の意味が解りかねて眼をパチパチさせた。
「どう思う……とは……」
「美しいとは思わなかったかね」
 不意打ちにこうした方角違いの質問を浴びせられた私は狼狽ろうばいせずにはおられなかった。頭の中を羽虫のように飛びめぐっていた大小無数の「インタロゲーションマーク」が一時に消えうせて、その代りに黒くうるんだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月眉……ポーッと薄毛に包まれた耳……なぞがかわるがわる眼の前に浮かんで来たと思うと、私の首すじのあたりがポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しかけた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと身体からだ中をめぐり初めたように思って、われ知らずハンカチで顔を拭いた。顔中から一面に湯気が湧き出すような気がして……。
 正木博士はニヤニヤしたまま顎でうなずいた。
「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかとかれて平気で返事の出来る青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、又は八犬伝や水滸伝すいこでんに出て来る性的不能患者の後裔こうえいだからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね」
 私は本当を云うと、この時の私の心持ちをここに記録したくない。……がしかし、事実を偽ることは出来ない。私は正木博士からこう尋ねられたお蔭で、あの少女に対する私の気持ちが、今朝けさ初めて会った時以上に一歩も進み出ていないことを、この時初めて気が付いたのであった。ただ、その気味のわるいほどの初々ういういしさと、眼も当てられぬイジラシイ美しさに打たれただけであった。どうかして正気に返してやりたい……この病院から救い出してやりたい……そうして思っている青年に会わしてやりたいと思い思いして来ただけであった。そうしてそれが果して彼女に対する私の「恋の表現」の「変形」であったかどうか……なぞいう事を考えてみるいとまがなかったのであった。否……それ以上に深く自分の心を解剖するのを彼女に対する冒涜とさえ考えて、心の奥の奥で警戒していた……その図星を正木博士に指されたような気がしたので、私は何のタワイもなく赤面させられてしまったのであった。石のように固くなって、切口上で返事をしたのであった。
「え……可哀想とは……思いました」
 正木博士はこう聞くとサモ満足気に幾度いくたびも幾度もうなずいた。その態度を見ると正木博士はこの時に私があの少女を恋しているものと思い込んでしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕も私は持たなかった。何とかして誤解をさせぬようにとヤキモキ考えているうちに正木博士は、なおも悠々と念入りに点頭うなずき直してしまった。
「そうだろうともそうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋した事だからね。そうでないという奴は似非えせ道徳屋……」
「……ソ……そんな乱暴な……セ……先生……誤解です……」
 と私は周章あわてて半布ハンケチを持った手をあげつつ叫んだ。
「……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情慾とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する冒涜です……精神科学者にも似合わない乱暴な云い草です……無茶苦茶です。それは……」
 というような反駁の言葉を一時に頭の中でひらめかしながら……。しかし正木博士はビクともしないでニヤニヤを続けた。
「わかってるわかってる。弁解しなくともいい。君の方ではあの少女に恋なぞされるのは迷惑かも知れないが、まあ任せ給え。君があの少女を恋しているいないに拘わらず運命に任せ給え。そうしてその運命の結論をつけるべく、あらわれて来た君の頭の痛みと、あの少女とがドンナ関係に於て結ばれているかという話を聞き給え……少々取り合せが変テコだが。……そいつを聞いて行くうちには、法律と道徳のドッチから見ても、君とあの少女とは、或る運命の一直線上に向い合って立っていることがわかるからね。この病院を出ると同時に結婚しなければならぬ事が、一切の矛盾や不可思議が解けるにつれて、逐一判明して来るからね」
 こうした正木博士の言葉を聞いているうちに、私は又も、ガックリとうなだれさせられてしまった……しかし、それは赤面してうつむいたのではなかった。その時の私の気持ちは赤面どころではなかった。正木博士の言葉の中に含まれている、あらゆる不可思議な事実の中から、私の現在の立場を解決すべき焦点を、どうして発見しようかと、又も一所懸命に眼を閉じ、唇を噛み締めたのであった。今朝けさからの出来事を順々に、思い浮めては考え合せ、考え合せては分解してみたのであった。
……正木、若林の両博士は、表面上無二の親友のように見せかけているが、内実は互いに深刻な敵意を抱き合っている仇讐かたき同志である。
……その仲違なかたがいの原因は、私と呉一郎を実験材料とした精神科学に関する研究から端を発しているらしく、今はその闘いが、白昼公々然とこの教室で行われる位にまで高潮して来ている。
……しかし、私とあの六号室の少女とを無理にも結婚させようとする意志だけは二人とも奇妙に一致しているようである。
……しかも、万に一つ私が、あの呉一郎と同一人か、もしくは呉一郎と同名、同年の、同じ姿の青年であって、あの少女が又、呉モヨ子に相違ないとすれば、実に変テコな事になるのだ。すなわち私達二人をその結婚の前夜に、或る精神科学的の犯罪手段に引っかけて、このような浅ましい運命に陥れたものは、この二人の博士以外に在り得ないように思われるではないか。……コンナ矛盾した事が又とほかに在り得ようか。
……もっとも強いて解釈をつけようとすれば付かぬ事もない。二人の博士は何等かの学理研究の目的で一人の少女と、双生児ふたごの片ッ方か何かとを、見ず知らずの赤の他人同志のまま、わざわざ精神病患者にして、或る念の入った錯覚に陥れて、二人が本気でクッ付き合うように仕向けている……と考えられぬ事もないが、しかし、いくら何でもソンナ残忍不倫を極めた、奇怪千万な学理実験が、人間の心と、人間の手で行われ得るとは考えられない。
……そもそもこうした矛盾と不可解は、どこの行き違いから来たものであろう。
……二人の博士はドウシテこんなに私を中心にして騒ぎまわるのであろう……。
 ……と……。
 けれども、それは詰るところ無用の努力であった。そんな風に考えれば考えるほど一切がこんがらがって来て、推測すればする程不可解にもつれ乱れて来るばかりであった。しまいには考える事も推測する事も出来なくなって、唯、眉をしかめて、唇を噛んでいる石像のような自分の姿を頭の中で想像しつつ、凝然と眼を閉じているばかりとなった……。
 ……コツコツ……コツコツ……扉をたたく音……。
 私はギクンとして眼を見開いた、おびえたようになって入口の扉を見た。もしや若林博士ではないかと思って……けれども正木博士は見向きもしないで頬杖を突いたまま、ビックリする程大きな声を出した。
「オーイ……這入れエーッ……」
 その声が室中へやじゅうに響き渡ると間もなく鍵穴をガチャガチャいわせて、扉を半分ばかり開きながら這入って来た者を見ると、それは九州帝国大学の紺のお仕着せを着たテカテカ頭の小使いであった。もう余程の老人らしく、腰を真二つに折りかがめていたが、右手に支えた塗盆ぬりぼんの上にすすけた土瓶と粗末な茶碗二個ふたつとを載せて、左手にはカステラを山盛りにした菓子器を捧げながら、ヨチヨチと大卓子テーブルに近づいて、不思議そうな顔をして見ている正木博士の前に置いた。そうして何かにおびえているかのようにオドオドと禿頭はげあたまを下げたが、み手をしいしい首をもたげて、正木博士と私の顔を霞んだ眼で等分にキョロキョロと見比べると、又一つ、床に手が届くくらい馬鹿叮嚀なお辞儀をした。
「ヘイヘイ、今日はまことによいお天気様で……ヘイヘイ……これはあの、学部長様からのお使いで、お二方ふたかた様のお茶受けに差し上げてくれいとの、お申し付けで御座いましたが……ヘヘイ……」
「アハハハハハハ。そうかい。若林がよこしたのかい。フーム……イヤ御苦労御苦労。若林が自分で持って来たんかい」
「イエ……あの、学部長様が先刻さきほどからお電話で御座いまして、正木先生がまだおいでになるかとお尋ねで御座いましたから、私はビックリ致しまして、如何か存じませぬがチョット見て参りましょうと申しまして、おへやの外まで参りますと、お二人様のお声が聞えました。それで学部長様に左様さよう申し上げましたれば、それならば後から物を持たしてやるから、お茶受けに差し上げてくれいとのことで……ヘイ」
「ウン。そうかそうか。たしかに受け取った。暇なら話しに来いと電話で云っとけ。イヤ御苦労御苦労……入口の鍵は掛けなくともいいぞ」
「ヘヘヘイ。先生方がおいでになりますことはチョットも存じませんで……きょうは私一人で御座いますもんじゃけん、まだお掃除も致しませんで……まことに不行届きで……申訳御座いませんで……ヘイヘイ……」
 小使のじじいは二人の前に、あぶなっかしい手附きで茶をいで出すと、何遍もお辞儀しいしい禿頭を光らせて出て行った。
 そのあとを見送って、扉の閉まるのを見届けた正木博士はイキナリ前屈まえこごみになってカステーラの一片を手掴みにすると、たった一口に頬張り込んで熱い茶をグイグイと呑んだ。そうして私にも喰えという風に眼くばせをした。
 しかし私は動かなかった。両手を膝の上に束ねて眼をみはったまま、正木博士のする事を見ていた。何かは知らず私には解らない別の意味で、互いに火花を散らしているらしい二人の博士の緊張ぶりに心をかれながら……。
「アハハハハハ。何もそんなに気味わるがる事はないよ。これだから吾輩は悪党が好きなんだ。彼奴きゃつめ吾輩が昨夜から徹夜をして、何も喰っていない事を知っていやがるんだ。そこで吾輩の大好物の長崎のカステラをよこして上杉謙信を気取りやがったんだ。病院の前で患者の見舞用に売っているシロモノだから何も心配する事はない。猫イラズも何も這入ってやしないよ。ハハハハハハハ」
 と云ううちに又二きれきれ口の中へ押し込んで茶を立て続けに飲んだ。
「ああ美味うまい。時にどうだい。これからもっと話を進めるんだが、その前に、今さっき読んだ呉一郎の前後二回の発作については、もう何も疑問の点は残っていないかい」
「あります」
 と私は鸚鵡おうむ返しに返事をした。ところがその返事は、私の思いもかけないハッキリした声で飛び出して室中に大きな反響を起したので、私はれながらハッとした。思わず座り直して下腹へ力を入れた。
 それはたった今眼の前で起った小さな波瀾……カステーラ事件のために、今まで行き詰まっていた私の気持ちがクルリと転換させられたのかも知れない。それともツイ今しがた失神しかけた時に飲まされたウイスキーが、この時やっと、本当の利き目を現わして来たのであったかも知れないが、いずれにしてもこの時に、私の返事がへやの中で「ウワ――ン」と反響して消え失せたのを耳にすると急に勇気付けられたような気持ちになりつつ、熱い茶を一杯グッと飲み込んだ……が、その又お茶の美味おいしかった事……舌から食道へと煮え伝わって行くかんばしいかおりを、クリ返しクリ返し味わって行くうちに、全身の関節がフンワリとゆるんで、血の循環がズンズンとよくなって来るのがわかった。気持ちがユッタリとなって、頭がポッカリと軽くなって、吾れにもあらず濡れた唇をめまわしながら、正木博士の顔を見据えたのであった。ウイスキー臭い、熱い鼻息をフ――ッと吹きながら……。
「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉一郎と思う事は絶対に出来ない……」
 と大きな声で宣言したいような気持ちになりつつ……。すると又、不思議にも、それにつれて今の今まで私の身の上に起って来た色々の出来事が、まるで赤の他人の事のように考えられて何ともいえず面白くなって来たのであった。今朝から見たり聞いたりした色々様々な事が、さながら百色眼鏡でも覗いているかのように、云い知れぬ興味と色彩とを帯びつつ、クルリクルリと眼の前で回転し初めると同時に、たった今まで、とてもオッカナイ、物騒な相手に見えていた二人の博士が、チットモ怖くなくなったばかりでなく、ステキに面白いオモチャ見たような存在に見えて来たのであった。
……二人の博士はキット何かしら飛んでもない大きな感違いをしているのだ。
……事によるとこの事件の真相は、思いもかけぬ阿呆あほらしい喜劇かも知れないぞ。
「……私と瓜二つの青年がいて、二人共奇想天外式の精神病にかかっている。そのためにその二人が混線してしまって、ドッチがドッチだか解らなくなったのを、二人の博士が競争で見分けようとしてウンウン云っているが、どうしても解らない。とうとう苦しまぎれに、そのドッチかの許嫁いいなずけであった少女をそのドッチかにくっつけて結論にして、その手柄を自分のものにすべく、あらゆるペテンを尽してしのぎを削っている……というような、途方もなく愉快奇抜な筋書とも見れば見られるではないか。……面白いな……いよいよソンナ事に違いないと決定きまれば二人の博士が私のかたきだろうが味方だろうが、その二人が私にかけているダマシの手段が、如何に巧妙な恐ろしいものであろうが、チットモ恟々びくびくする事はない。是非とも私自身にこの事件の正体がわかるところまで突込んで行かなければ嘘だ。そうして事件の真相をトコトンまでえぐり付けて、あの少女をこのキチガイ地獄から救い出して、二人の博士の鼻を明したら、どんなにか痛快至極だろう……」
 ……というような、無暗むやみに大胆な、浮き浮きした気分にかわってしまったのであった。……へやの中の爽快な明るさ……窓一パイの松の青さ……その中に満ち満ちている白昼の静けさなぞが、今更に気持ちよく、身にみて来たのであった。
 しかし、こんな風に私の頭の中が変化してしまったのはほんの数秒の間の事であったように思う。間もなく吾に帰ってみると、正木博士は、そうした私の顔を鼻眼鏡ごしにニヤリと眺めながら頭のうしろに両手をまわしてりかえっていた。私の質問を待っているかのように……。
 私はちょっと間誤付まごついた。どっちにしても質問したい事があんまり多過ぎるので……しかし、どこからでも構わない気で、眼の前の遺言書を取り上げてバラバラと繰って行くうちに、やがて事件記録抜萃の一番おしまいの処まで来ると、そこを指して正木博士に見せた。
「この……絵巻物の写真版と、その由来記を挿入のこと……と書いてあります。その本物は、どうなっているのですか」
「アッ。そいつは……」
 と云い終らぬうちに正木博士は両手を卸して、大卓子テーブルの端をドシンと叩いた。
「……そいつはうっかりしていたよ。ハッハッハッ。君の記憶を回復させようというので夢中になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見せるのを忘れていた。そいつを見なくっちゃ呉一郎の心理遺伝の正体はわからない。吾輩の遺言書も、仏作って魂入れずだ。ハハハハハハ……イヤ失敗失敗。睡眠不足で頭が少々御座ったかナ……イヤ。早速お眼にかけよう。コレ……ここにあるがね」
 正木博士はこう云って頭を掻きつつ、片手を伸ばして横に在るメリンスの風呂敷包みを引き寄せた。手早く結び目を解いて、中から長方形の新聞包みと、厚さ二寸位の西洋大判罫紙フールスカップ綴込つづりこみを抱え出すと、わざわざ北側の窓の処まで持って行って風呂敷をハタイた。
「……プッ……プップッ……どうもヒドイホコリだ。長い事ストーブの穴に放り込みっ放しだったもんだからね。……ところで見給え。この綴込みが姪の浜事件に関する若林の調査書で、君が読んだその抜萃の原本だ。あの肺病患者特有の冴え返った神経で、二重にも三重にも、透きとおるほど綿密に調べ抜いてあるんだからトテモ遣り切れたものじゃない。だから読むにしてもいずれあとからユックリの事にしてもらって、今日は取り敢えずこの絵巻物と、その由来記を見てもらう事にしよう……ところでまず由来記の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た方が面白いだろうからナ……」
 こうした言葉のうちに新聞の包みが開かれると、その中の白木の箱の上に置いてある日本紙一帖位の綴込みが、無雑作に私の前に投げ出された。
「それはこの絵巻物の奥付になっている由来記の写しだ。つまりこの如月寺にょげつじの縁起ものがたりの前に起った出来事で、今からおよそ一千百年前の大昔から初まった呉一郎の心理遺伝のソモソモが書いてあるんだが、君がそれを読んでいるうちに……ハテナ……これはズット以前にコンナ処でこうして読んだ事があるぞ……という事実をハッキリと思い出すか出さないかが、矢張やはり若林と吾輩の生死の別れ目になるんだ。ね。そうだろう。それを読んだ記憶が一分一厘でも君のアタマに残っておれば、君は呉一郎に相違ないのだからね……ハハハハ……とにかく読んでみたまえ。遠慮する事はない。素敵に面白い話だから……」
 私はそれが如何に貴重な内容の書類であるかを百も承知していながら……しかもその書類によって正木博士が、私に試みつつある精神科学の実験が、如何に重大深刻な意味を持っているかを、察し過ぎる位察していながら、すこしもそんな緊張した気持ちになれなかったのは不思議であった。あるいは飲んだばかりのウイスキーが、いくらか利いていたせいでもあったろうが、かえって正木博士の真似でもするかのように無雑作に、その綴込みを取り上げて、矢張り無雑作にその第一ページひるがえしたが、見ると中には四角い漢字が真黒に押し固まって、隙間もなく並んでいるのであった。
「ワー。これあ漢文……しかも白文じゃありませんか。句読くぎり送仮名おくりがなも何も付いてない……トテモ僕には読めません。これは……」
「フーン。そうかい。フーン、それじゃ仕方がないから、取りあえずその内容の概要あらましを、吾輩が記憶している範囲で話しておくかね」
「ドウカそうして下さい」
「……ウーイ……」
 と正木博士は曖気おくびをしながらり返った。スリッパを穿いたまま椅子の上に乗って、両膝を抱えるとクルリと南側を向いて、頭の中を整理するように眼を半開はんびらきにして窓の光りを透かしながら、ホッカリと青い煙を吐いた。
 私もウイスキーがまわったせいか、何となくだるいような、睡たいような気持ちになりつつ、机の上に両肱を立ててあごを載せた。
「……ゲップ……ウ――イイ……と、そこでだ。そこで大唐の玄宗皇帝というと今からちょうど一千一百年ばかり前の話だがね。その玄宗皇帝の御代みよも終りに近い、天宝十四年に、安禄山あんろくさんという奴が謀反むほんを起したんだが、その翌年の正月に安禄山は僭号せんごうをして、六月、賊、かんる、みかど出奔しゅっぽんして馬嵬ばかいこうず。楊国忠ようこくちゅう楊貴妃ようきひちゅうに伏す……と年代記に在る」
「……ハア……よく記憶おぼえておられるんですねえ先生は……」
「歴史の面白くない処は、暗記しとくもんだよ。……ところでその玄宗皇帝が薨じたのは年代記の示す通り天宝十五年に相違ないらしいが、それより七年以前まえの天宝八年に、范陽はんよう進士しんし呉青秀ごせいしゅうという十七八歳の青年が、玄宗皇帝の命を奉じ、彩管さいかんうてしょくの国にり、嘉陵江水かりょうこうすいを写し、転じて巫山巫峡ふざんふきょうを越え、揚子江を逆航ぎゃっこうして奇勝名勝を探り得て帰り、あつむるところの山水百余景を五巻に表装して献上した。帝これを嘉賞かしょうし、故翰林かんりん学士、ほうれんの遺子黛女たいじょを賜う。黛は即ちふんの姉にして互いに双生児ふたごたり。相並んで貴妃きひの侍女となる。時人じじんこれを呼んで花清宮裡かせいきゅうり双※(「虫+夾」、第3水準1-91-54)そうきょうと称す。時に天宝十四年三月。呉青秀二十有五歳。芳黛十有七歳とある」
「これあ驚いた。トテモ記憶おぼえ切れない。それもヤッパリ年代記ですか」
「イヤ。これは違う。『黛女を賜う』という一件の前後までは『牡丹亭秘史ぼたんていひし』という小説に出ている。その小説には玄宗皇帝と楊貴妃が、牡丹亭で喋々喃々ちょうちょうなんなんの光景を、詩人の李太白りたいはくよだれを垂らして牡丹の葉蔭から見ている絵なぞがあって、支那一流の大甘物あまものだが、その中でも、呉青秀に関する記述の冒頭だけは、この由来記の内容と一字一句違わないから面白いよ。そのうち文科の奴に研究させてやろうと思うが、第一非常な名文で、思わずらず暗記させられる位だ」
「そうですかねえ。でも何だか、漢文口調のお話は、耳で聞いただけでは解らないようですね。その使ってある字を一々見て行かないと……」
「ウン。それじゃモット柔かく行くかナ」
「ドウゾ……助かります」
「ハハハハハハ。要するにこの玄宗皇帝というおやじは、楊貴妃と一緒にお祭りの行燈絵あんどんえに描かれる位で、古今のデレリック大帝だ。四夷しいを平らげ、天下を治め、兵農を分ち、悪銭を禁じ……と来たまではよかったが、楊貴妃に鼻毛を読まれて何でもオーライで、兄貴の楊国忠ようこくちゅうを初め、その一味のろくでなし連中をドンドン要職に引き上げた。つまり忠臣をい出して奸臣かんしんを取り巻きにして、太平楽を歌った訳だね。あげくの果は驪山宮りさんきゅうという宏大もない宮殿の中に、金銀珠玉をちりばめた浴場バスを作って、玉のような温泉を引いて、貴妃ヤンと一緒に飛び込んで……お前とオーナラバ、ドコマデモオ……と来たね」
「ウワア。やわらか過ぎます。……それじゃア」
「イヤ。真面目に聞いてくれなくちゃ困る。チャン公一流のヨタなんかコレンバカリも混っていないんだぜ。これがあの四五年前に流行した『ドコマデモ』という俗謡の本家本元なんだ。チャント記録に残っているんだ」
「……ヘエ。そんなもんですかね」
「そうだとも。第一お前さんと一緒ならサハラだのナイヤガラ見たような野暮やぼな処へは行かない。一緒に天に昇って並んだ星になって、下界の人間をトコトンまで羨やましがらせましょうというんだから遣り切れないよ。覗いて聞いていた奴もタイシタ奴に違いないが……」
「しかし、それが絵巻物とドンナ関係があるんですか」
「大ありだ。まあかないで聞き給え。大陸の話だからナカナカ焦点が纏まらないんだよ。いいかい……こんな文化式の天子だから玄宗皇帝は芸術ごとが大好きで、李太白なぞいう、呑んだくれの禿頭とくとう詩人を贔屓ひいきにして可愛がる一方に、当時、十九か十八位の青年進士呉青秀に命じて、あまねく天下の名勝をスケッチして廻らせた。すなわち居ながらにして天下を巡狩じゅんしゅしようという、有難い思召おぼしめしだ……ドウヤラ貴妃様の御注文らしいがね」
「絵の天才だったのですねその青年は……」
「無論さ。十八九の青年の癖に、古今に名高い禿頭の大詩人、李太白の詩と並ぶ絵を描く奴だから、生優しい腕前じゃないよ。もっとも運が悪くて夭死わかじにしたために、名前も描いたものも余り残っていない。前にも云った通りその頃の記録には勿論の事、近頃の年代記類にも記載してあるにはあるが、書物によって年代や名前が少しずつ違っていて、確実なところはわからないようになっている。しかし、何しろここに詳しい事を記載した実物の証拠があるんだから、将来の史学家はイヤでもこの方を本当にしなければなるまいて」
「そうするとその絵巻物はトテモ貴重な参考史料なんですね」
「貴重などころの騒ぎじゃない……ところで話はすこし前に帰るが、その青年進士呉青秀は、天子の命を奉じてスケッチ旅行を続けている間がチョウド六年で、久し振りの天宝十四年に長安の都に帰って来ると、そのお土産の風景絵巻が、すこぶる天子の御意ぎょいに召して、御機嫌ななめならず、芸術家としての無上の面目を施した上に、黛子たいこさんという別嬪べっぴんの妻君を貰った。おまけにチョウド水入らずで暮せるような、美しいお庭付きの小ヂンマリした邸宅を拝領したりして、トテモ有り難い事ずくめだったので、暫くは夢うつつのように暮していた訳だね。ところがそのうちに、だんだんと落ち付いて来ると、時あたかも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴、妖※(「(屮/(師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90)ようげつ頻々ひんぴんとして起り、天下大乱の兆が到る処に横溢しているのに気が付いた。しかも天子様はイクラお側の者がいましめてもぬかに釘どころか、ウッカリ御機嫌に触れたために、冤罪えんざいで殺される忠臣が続々という有様だ。……これを見た呉青秀は喟然きぜんとして決するところあり、一番自分の彩筆の力で天子の迷夢を醒まして、国家を泰山の安きに置いてやろうというので、新婚匆々そうそうの黛夫人に心底を打ち明けて、ここで一つ天下のために、お前の生命いのちを棄ててくれないか。いずれ自分も、あとから死んで行くつもりだが……と云ったところが……あなたのおためなら……という嬉しそうな返事だ……」
「トテモ素敵ですね」
「純然たる支那式だよ。それから呉青秀は大秘密で大工や左官を雇って、帝都の長安をる数十里の山中に一ツの画房を建てた。つまりアトリエだね。しかしその構造は大分風変りで、窓を高く取って外から覗かれないようにして、真ン中に白布をおおうた寝台を据え、薪炭菜肉しんたんさいにく、防寒防蠅ぼうようの用意残るところなく、籠城ろうじょうの準備が完全に整うと、黛夫人と一緒にコッソリ引き移った。そうしてその年の十一月の何日であったかに、夫婦は更に幽界でめぐり会う約束を固め、別離の盃、哀傷の涙よろしくあって、やがて斎戒沐浴さいかいもくよくしてあらたに化粧をらした黛夫人が、香煙縷々るるたるうちに、白衣を纏うて寝台の上に横たわったのを、呉青秀が乗りかかって絞め殺す。それからその死骸を丸裸体はだかにして肢体を整え、香華こうげさん神符しんぷを焼き、屍鬼しきはらい去った呉青秀は、やがて紙をべ、丹青たんせいを按配しつつ、畢生ひっせいの心血を注いで極彩色の写生を始めた」
「……ワア……凄い事になったんですね。さっきの縁起書とは大違いだ」
「……呉青秀は、こうして十日目ごとにかわって行く夫人の姿を、白骨になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写しとどめて、玄宗皇帝に献上し、その真に迫った筆の力で、人間の肉体の果敢はかなさ、人生の無常さを目の前に見せてゾッとさせる計劃であったという。ところが何しろ防腐剤なぞいうものが無い頃なので、冬分ふゆぶんではあったが、腐るのがだんだん早くなって、一つの絵の写し初めと写し終りとは丸で姿が違うようになった。とうとう予定の半分もき上げないうちに屍体は白骨と毛髪ばかりになってしまった……というのだ。……或は科学的の知識が幼稚なために、土葬した屍体の腐り加減を標準にして計劃したのかも知れないが……何にしても恐ろしい忍耐力だね」
「あんまり寒いから火をいてへやを暖めたせいじゃないでしょうか」
「……ア……ナルホド。暖房装置か、そいつはウッカリして気が付かずにいた。零下何度じゃ絵筆が凍るからね……とにかく忠義一遍にり固まって、そんな誤算がある事を全く予期していなかった呉青秀の狼狽ろうばいと驚愕は察するにあまりありだね。新品卸し立ての妻君を犠牲にして計劃した必死の事業が、ミスミス駄目になって行くのだから……号哭ごうこくあたわずとあるが道理もっとも千万……ついに思えらく、吾、一度天下のために倫常りんじょうを超ゆ。また、何をかかえりみんという破れかぶれの死に物狂いだ。そこいら界隈の村里へ出て、美しい女を探し出すと、れ馴れしく側へ寄って、あなたの絵姿を描いて差上げるからといつわって、山の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしようと企てたが……」
「ウワア……トテモ物騒な忠君愛国ですね」
「ウン。こんな執念深さは日本人にはないよ。けれども何をいうにも、ソウいう呉青秀の風釆が大変だ。頬が落ちこけて、鼻がんがって、眼光竜鬼りゅうきの如しとある。おまけに蓬髪垢衣ほうはつこうい骨立悽愴こつりゅうせいそうと来ていたんだからたまらない。袖を引かれた女はみんな仰天して逃げ散ってしまう。これを繰り返す事累月るいげつ。足跡遠近に及んだので、評判が次第に高くなって、どの村でもこの村でも見付け次第に追い散らしたが、幸いにして山の中の隠れ家を誰も知らなかったので、生命いのちだけはかろうじて助かっていた。然れ共呉青秀の忠志はついに退かず、至難に触れて益々る。つい淫仙いんせんの名を得たりとある。淫仙というのはつまり西洋の青髯ブルーベヤードという意味らしいね」
「ヘエ……しかし淫仙は可哀相ですね」
「ところがこの淫仙先生はチットモ驚かない。今度は方針を変えて婦女子の新葬を求め、夜陰に乗じて墓をあばき、屍体を引きずり出して山の中に持って行こうとした。ところが俗にも死人かつぎは三人力という位で、強直の取れたグタグタの屍体は、重量の中心がないから、ナカナカ担ぎ上げにくいものだそうな。それを一所懸命とはいいながら、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、出来るだけ傷をつけないように、山の中まで担いで行こうというのだから、並大抵の苦労ではない。あっちに取り落し、こっちへ担ぎ直して、あえぎ喘ぎ抱きかかえて行くうちに、早くも夜が明けて百姓たちの眼に触れた。かねてから淫仙先生の噂を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまい事か、テッキリ屍姦だ。極重悪人だというので、ワイワイ追いかけて来たから淫仙先生も止むを得ず屍体を抛棄ほうきして、山の中に姿を隠したが、もう時候は春先になっていたのに、二三日は、その背中に担いだ屍体の冷たさが忘れられなくていくら火をいても歯の根が合わなかったという」
「よく病気にならなかったものですね」
「ウン。風邪ぐらい引いていたかも知れないがね。思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力をあらわすもんだよ。いわんや呉青秀の忠志は氷雪よりもはげしとある。四五日も画房の中にジッとして、気分を取り直した呉青秀は、又も第二回の冒険をこころみるべく、コッソリと山を降って、前とは全然方角を違えた村里に下り、一ちょうくわを盗み、ある森蔭の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光りに照らされた一基の土饅頭の前に、花を手向たむけているのが見える。この夜更けに不思議な事と思って、ひそかに近づいてみると、くだんの女性は、遠い処の妓楼ぎろうから脱け出して来た妓女おんならしく、春装を取り乱したまま土盛りの上にヒレ伏して『あなたは何故なにゆえわたしを振り棄てて死んだのですか』と口説くどく様子を見ると、いかさま、相思の男の死をうらむ風情である。忠義に凝った呉青秀は、この切々の情を見聞して流石さすが惻※そくいん[#「隱」の「こざとへん」に代えて「りっしんべん」、U+61DA、487-14]の情に動かされたが、強いて心を鬼にして、その女の背後うしろに忍び寄り、持っていた鍬で一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意して来た縄で手足を縛って背中に背負い上げ、鍬を棄てて逃げ去ろうとした。するとたちま背後うしろの森の中に人音が聞えて、女の追手とおぼしき荒くれ男の数名が口々に『素破すわこそ淫仙よ』『殺人魔よ』『奪屍鬼だっしきよ』とののしりつつ立ち現われ、前後左右を取り巻いて、取り押えようとした。呉青秀は、これを見ていかり心頭に発し、屍体を投げ棄てて大喝一番『吾が天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二三人、墓原はかばらにタタキ付け、鍬を拾い上げて残る人数をタタキ伏せ追い散らしてしまった。そのひまに、又も妓女おんなの屍体を肩にかけてドンドン山の方へ逃げ出したが、エライもので、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると、担いで来た屍体をきよめて黛夫人の残骸の代りに床上に安置し、香華こうげを供え、屍鬼をはらいつつ、悠々と火を焚いて腐爛するのを待つ事になった。ところがそのうちに又、二三日経つと、思いもかけぬ画房の八方から火烟ひけむりが迫って来て、鯨波ときのこえがドッと湧き起ったので、何事かと驚いて窓から首をさし出してみると、画房の周囲は薪が山の如く、その外を百姓や役人たちが雲霞うんかの如く取り巻いて気勢を揚げている様子だ。つまり何者かが、コッソリ呉青秀の跡をけて来て、画房を発見した結果、こんなに人数をり催して、火攻めにして追い出しにかかった訳だね。その時に呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、黛夫人の髪毛かみのけの中から出て来た貴妃の賜物たまもの夜光珠やこうじゅ……ダイヤだね……それから青琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)せいろうかんの玉、水晶のくだなぞの数点を身に付けて、生命いのちからがら山林に紛れ込んだが、それから追捕を避けつつ千辛万苦する事数箇月、やっと一ヶ年振りの十一月の何日かに都に着くと蹌踉そうろうとして吾家わがやの門を潜った。既に死生を超越した夢心地で、恍惚求むるところなし。何のために帰って来たのか、自分でも解らなかったという」
「……ハア。ホントに可哀相ですね。そこいらは……」
「ウム。ちょうど生きた人魂ひとだまだね。て門を這入ってみると北風ほくふう枯梢こしょう悲断ひだんして寒庭かんていなげうち、柱傾き瓦落ちて流※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)りゅうけいいたむという、散々な有様だ。呉青秀はその中を踏みわけて、自分のへやに来て見るには見たものの、サテどうしていいかわからない。妻の姿はおろかからすの影さえ動かず。錦繍きんしゅう帳裡ちょうり枯葉こようさんず。珊瑚さんご枕頭ちんとう呼べども応えずだ。涙滂沱ぼうだとして万感初めて到った呉青秀は、長恨悲泣ちょうこんひきゅうついに及ばず。几帳きちょうの紐を取って欄間らんまにかけ、妻の遺物をふところにしたまま首を引っかけようとしたが、その時遅くの時早く、思いもかけぬ次のへやから、真赤な服を着けた綽約しゃくやくたる別嬪べっぴんさんが馳け出して来て……マア……アナタッと叫ぶなり抱き付いた」
「ヘエ――。それは誰なんですか一体……」
「よく見ると、それは、自分が手ずから絞め殺して白骨にしてけた筈の黛夫人で、しかも新婚匆々時代の濃艶を極めた装おいだ」
「……オヤオヤ……黛夫人を殺したんじゃなかったんですか」
「まあ黙って聞け。ここいらが一番面白いところだから……そこで呉青秀はスッカリ面喰めんくらったね。ウ――ンと云うなり眼をわしてしまったが、その黛夫人の幽霊に介抱をされてヤット息を吹き返したので、今一度、気を落ち付けてよく見ると、又驚いた。タッタ今まで新婚匆々時代の紅い服を着ていた黛子さんが、今度は今一つ昔の、可憐な宮女時代の姿に若返って、白いもすそを長々と引きはえている。鬢鬟びんかん雲の如く、清楚せいそ新花しんかに似たり。年の頃もやっと十六か七位の、無垢むくの少女としか見えないのだ」
「……不思議ですね。そんな事が在り得るものでしょうか」
「ウン。呉青秀も君と同感だったらしいんだ。危くまた引っくり返るところであったが、そのうちに、ようようの思いで気を取り直して、どうしてここに……と抱き上げながら、その少女を頭のテッペンから、爪の先までヨクヨク見上げ見下してみると、何の事だ……それは黛夫人の妹で、双生児ふたごの片われの芬子ふんこ嬢であった」
「ナアンダ。やっぱりそうか。しかし面白いですね。芝居のようで……」
「どこまでも支那式だよ。そこでヤット仔細わけがわかりかけた呉青秀は、芬子さんを取り落したまま、いた口がふさがらずにいると、その膝に両手を支えた芬子さん、真赤になっての物語にいわく……ほんとに済まない事を致しました。さぞかしビックリなすった事で御座んしょう。何をお隠し申しましょう。あたしはズット前からタッタ一人でこのうちに住んでいて、姉さんが置いて行った着物を身に着けて、スッカリ姉さんに化け込みながら、毎日毎日お義兄にいさまに仕える真似事をしていたんです。……妾の主人の呉青秀はこの頃毎日へやに閉じ籠って、大作を描いておりますと云い触らして、食料も毎日二人前ずつ見計みはからって買い入れるし、時折りは顔料えのぐや筆なぞを仕入れに行ったりして誤魔化ごまかしていましたので、近所の人々はみんな……この天下大乱のサナカに、そんなに落ち付いて絵をくとは、何というえらい人だろうと……眼を丸くして感心していた位です。……妾はそんなにまでして苦心しいしい、お二人のお留守番をして、お帰りになるのを今か今かと待ちながら、この一年を過したのですが、今日も今日とてツイ今しがた、買物に行って帰って来ますと、このへやに物音がします。その上に誰か大きな声でオイオイ泣いているようなので、怪しんで覗いて見たら、お義兄にいさまが死のうとしていらっしゃるのでビックリして、そのままの姿で抱き止めたのです。それから気絶なすった貴方を介抱しておりますと、ゆるんだ貴方の懐中ふところから、固く封じた巻物らしい包みと、姉さんが大切にしていた宝石や髪飾りが転がり出して来ました。それと一緒に貴方が夢うつつのまま、どこかを拝む真似をしながら……黛よ。許してくれ。お前一人は殺さない……と泣きながら譫言うわごと仰言おっしゃったので、サテは姉さんはモウお義兄にいさまの手にかかって、お亡くなりになったのだ……そうしてお義兄にい様は妾を姉さんの幽霊と間違えていらっしゃるのだ……という事がヤット解りましたから、お義兄にいさまの惑いを晴らすために、急いで自分の一帳羅いっちょうら服に着かえてしまったのです。……ですが一体お義兄にいさまは、どうして黛子姉さんをお殺しになったのですか。そうして今日が日まで一年もの長い間、どこで何をしていらっしたんですか……と涙ながらに詰め寄った」
「ハア……しかし何ですね。……その前にその芬子という妹は、何だってソンナ奇怪おかしな真似をしたんでしょうか。姉さんの着物を着て、その夫に仕える真似事をしたりなんか」
「ウンウン……その疑問ももっともだ。呉青秀もやっぱり同感だったろうと思われるね。それともまだいた口がふさがらずにいたのかも知れないが、何の答えもあらばこそだ。依然として芬子嬢の顔を見下したまま唖然あぜん放神のていでいると、やがて涙を拭いた芬子嬢は、幾度もうなずきながら又いわく……御もっともで御座います。これだけ申上げたばかりではまだ御不審が晴れますまいから、順序を立ててお話しましょうが……お話はずっと前にさかのぼって丁度去年の暮の事です。……姉さんが宮中を去ってからというものは、ほかに身寄り便たよりのない妾の淋しさ心細さが、日に増しつのって行くばかりでした。そのうちに又、ちょうど去年の今月の、しかも今日の事……大切な大切なお義兄にいさま達御夫婦が、ほかならぬ妾にまでも音沙汰おとさたなしで、不意に行衛ゆくえくらましておしまいになったと聞いた時の妾の驚きと悲しみはどんなでしたろう。一晩中寝ずに考えては泣き、泣いては考え明かしましたが、思いに余ったその翌る日の事、楊貴妃様から暫時しばしのお暇を頂いた妾は、お二人の行衛を探し出すつもりで、とりあえずこの家に来て見ました。そうして妾を見送って来た二人の宦官かんがんと、うちの番をしていた掃除人をかえしてから、唯一人で家内の様子を隈なく調べてみますと、姉さんは死ぬ覚悟をして家を出られたらしく、結婚式の時に使った大切な飾り櫛を、真二つに折って白紙に包んだまま、化粧台の奥に仕舞ってあります。けれども義兄にいさんの方は、そんな模様がないばかりか、絵をく道具をスッカリ持ち出していらっしゃる様子……これには何か深い仔細わけがある事と思いながら、そのままこの家に落ち付く事にきめましたが、それからというものは今も申しました通り、スッカリ姉さんに化けてしまって、義兄にいさんと一緒に帰って来ているような風に出来るだけ見せかけておりました。仕合しあわせと義兄にいさんは子供の時から絵をき初められると、何日も何日もへやに閉じ籠って、決して人にお会いにならない。御飯もろくに召し上らない事が多かったと聞いていましたから、近所の人や、お客様をだますのには、ホントに都合がよかったのです。……しかし何故なにゆえ妾がこんな奇怪おかしな事をしていたのかと申しますと、これはジッとしていながら、お二人の行衛を探すのに一番都合の良い工夫だと思ったからです。つまりこうしておりますと、お二人とも世にも名高い御夫婦ですから、万一ほかでお姿を見た者があるとしたら、すぐに妾が怪しまれます。そうしたらそれと一緒に、お二人の行衛もわかる事になるのですから、その時にあとを追うて行けばよい。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見付かるものではない……と思い付いたからの事です」
「……ヘエ……その妹はなかなかの名探偵ですね」
「ウン……この妹の方は姉と違ってチョットおきゃんなところがあるようだが、なおも言葉を続けていわくだ……しかし妾のこうした計劃は余り利き目がありませんでした。……というのは妾がこの家に来てから十日も経たぬうちに天下はたちまち麻と乱れて兵馬へいば都巷とこうに満ち、迂濶うかつに外へも出られないようになった。……のみならず、お金はなくなる。家は荒廃する。仕方なしに妾は此家ここの台所に寝起きをして、自分の身に附いたものは勿論のこと、義兄にいさん夫婦の家具家財や衣類なんぞを売り喰いにしていましたが、そのうちでも一番最後に残しておいたのが姉の新婚匆々時代の紅い服一着と、自分が着ていた宮女の服一着でした。その中でも又、この紅い服は、あく迄も妾を姉さんと認めさせるために外出着としていたものです。又、宮女の服というのは、妾の忘れられない思い出と一緒に取っといたのですが、楊貴妃時代のスタイルで、ウッカリ持ち出すと反逆者の下役人に見咎みとがめられるおそれもありますので、ソックリそのまま寝間着ねまきに使っていたのでした。妾はこの一年の長い間、こんなにまで苦心してお帰りを待っていたのです。……それだのに、あなたはイッタイ何のために、姉さんを殺しておしまいになったんですか。そうして此家ここへ何しに帰って見えたんですか。そのお姿はどうなすったんです。姉さんを殺されたくらいなら、妾もついでに殺してちょうだい……といううちに、ワッとばかりに泣出した」
「ずいぶん姉思いの妹ですね」
「ナアニ。前から呉青秀にモーションをかけていたんだよ」
「……ヘエ……どうして解ります」
「……どうしてって素振そぶりが第一おかしいじゃないか。生娘きむすめの癖に、亭主持ちの真似をして、一年近くも物凄い廃屋あばらやに納まっているなんてナカナカ義理や物好きでは出来るものじゃないよ。その間に人知れぬ希望と楽しみがなくちゃ……しかも姉の新婚匆々時代の紅い服を着て歩きまわるところなんぞは、ドウ見ても支那一流の、思い切った変態性慾じゃないか。あるいは玄宗皇帝時代に、空閨くうけいに泣いていたおびただしい宮女たちから受けた感化かも知れないが」
「……ですけども、自分はそう思っていないじゃないですか」
「無論、そんな自省力を持ち得る年頃じゃないさ。ことに女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気儘な自己陶酔に陥って行ける訳さ。気持ちの純な、頭のいい人間の変態心理は、ナカナカ見分けが付きにくいんだよ。……その代りこっちの眼さえ利いて来れば、そこいらの無邪気な赤ん坊や、釈迦、孔子、基督キリストにでも色んな変態心理を見出すことが出来る」
「……驚いたなあ。……そんなもんですかナア……」
「まだまだ驚く話が、今までの話の裏面に隠れているんだが、それは、あとから説明するとして、サテ、少々話が長くなったから端折はしおって話すと、その時に呉青秀に迫って、根掘り葉掘り、これまでの事情を聞いた上に、現実の証拠として、自分とソックリの姉の死像を描いた絵巻物を開いて見せられた芬子嬢は、実に断腸だんちょう股栗こりつ驚駭きょうがいこれを久しうした。けれども結局、義兄夫婦の忠勇義烈ぶりにスッカリ感激して号泣慟哭どうこくして云うには、蒼天蒼天、何ぞかくの如く無情なる。あなたは御存知あるまいが、あなたが姉さんの亡骸なきがらを写生し初めた昨年の十一月というのが安禄山が謀反むほんを起した月で、天宝の年号は去年限り、今は安禄山の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬嵬ばかいで殺されておしまいになった。折角の忠義も水の泡です。それよりも妾と一緒に、どこかへ逃げて下さらない……とキワドイところで口説くどき立てた」
「無鉄砲な女ですね。又殺されようと思って……」
「イヤ。今度は大丈夫なんだ。……というのは呉青秀先生、自分の全部を投げ出してかかった仕事がテンからペケだった事が、芬子の説明で初めて解ったのだ。そこでアメリカをなくしたコロンブスみたいにドッカリとそこへ座ると、茫然自失のアンポンタン状態に陥ったまま、永久に口が利けなくなってしまったのだ。旧式の術語で云うと心理の急変から来る自家障害という奴だね。……そいつを見ると芬子さんイヨイヨ気の毒になって、天を白眼にらんで安禄山のかんにくんだね。同時にこの忠臣のお守りをして、玄宗皇帝や楊貴妃の冥福を祈りつつ一生を終ろうという清冽せいれつ晶玉しょうぎょくの如き決心を固めた……と告白しているが、実は大馬力をかけたお惚気のろけだね」
「……まさか……」
「イヤ。それに違いないんだ。後で説明するがね……そこで呉青秀がふところにしていた姉の遺品かたみの宝玉類を売り払って、画像だけを懐に入れて、妖怪ばけもの然たる呉青秀の手を引きながら、方々を流浪したあげく、その年の暮つかた、どこへ行くつもりであったか忘れたが舟に乗ってこうを下り、海に浮んだ。すると暴風雨数日ののち、たった二人だけ生き残って絶海に漂流する事又十数日、ついに或る天気晴朗な払暁あけがたに到って、遥か東の方の水平線上に美々しく艤装ぎそうした大船が、旗差物はたさしものあさひに輝やかしつつ南下して行くのを発見した。そこで息も絶え絶えのまま、手招きをして救われると、その美しい船の中で、手厚い介抱を受ける事になったが、この船こそは日本の唐津を経て、難波なにわの津に向う勃海使ぼっかいしの乗船であった。勃海国というのはその時分、今の満洲の吉林キーリン辺にあった独立国で、時々こうして日本に貢物みつぎものを持って来た事が正史にも載っているがね」
「何だかお伽話とぎばなしみたいになりましたね」
「ウム。何となく夢幻的なところがやはり支那式だよ。それから芬子さんの涙ながらの物語りで詳しい事情を聞いた船中の者は、勃海使を初め皆、満腔の同情を寄せた。一様に呉氏の生き甲斐のない姿を憐れみ、つ芬夫人の身の上に同情して、手厚い世話をしながら日本に連れて行く事になったが、その途中のこと、船中が皆眠って、月が氷のように冴え返った真夜半まよなかに、呉青秀は海に落ちたか、天に昇ったか、二十八歳を一期いちごとして船の中から消え失せてしまった。……芬夫人は時に十九歳、共に後をおうとして狂い悶えたが、この時、既に呉青秀のたねを宿して最早もはや臨月になっていたので、人々に押し止められながらかろうじて思いとどまると、やがて船の中で玉のような男のを生んだ」
「やっと芽出度めでたくなって来たようですね」
「ウン、船中でも死人が出来て気を悪くしているところへ、お産があったと聞いたので喜ぶまい事か、に色々なお祝いの物をれて盛に芽出度がった上に、勃海使の何とかいう学者が名付け親となって、呉忠雄ごちゅうゆうと命名し、大袈裟おおげさな命名式を挙げて前途を祝福しつつ、唐津に上陸させて、土地の豪族、松浦某に托した。そこで芬夫人はその由来をこの絵巻物に手記して子孫に伝えた……めでたしめでたしというわけだ」
「じゃその名文は芬夫人が書いたんですね」
「イヤ。文字はたしかに女の筆附きだが、文章の方はとてもシッカリしたもので、どうしても女とは思えない。処々にいんんであったり、熟字の使い方や何かが日本人離れをしているところなぞを見ると、やっぱりその名付親の勃海使が芬夫人のものがたりに感激して、船中の徒然つれづれに文案を作ってやったのを、芬夫人が浄書したものではあるまいかと思う。若林はその字体が、弥勒みろく像の底に刻んである字と似ているから勝空しょうくうという坊主が自分で聴いた話と、昔の文書とを照し合わせて文を舞わしたのじゃないかと云っているが、しかし肉筆と彫刻とは非常に字体が違う事があるから当てにはならない」
「何にしても唐津の港では大評判だったでしょうね……芬夫人の身の上が……」
「無論、大いに一般の同情をいたろうと思われる。何しろ日本人の大好きな忠勇義烈譚と来ているからね」
「そうですねえ。……それから今ヒョット思い出したんですが、その勝空という坊さんは、その絵巻物を弥勒像に納めてから、男は一切近づいてはいけないと云ったそうですが、それはどうした理由わけでしょう」
「……ソ……そこだて……そこがトテモ面白いこの話の眼目になるところで、いては大正の今日に於けるめいはま事件の根本問題にまで触れて来るところなんだ。手っ取り早く云えばその勝空というお坊様は、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝チウものがある事をチャンと知って御座ったのだ」
「ヘエ――ッ……そんなに大昔から心理遺伝の学問が……」
「あったどころの騒ぎじゃない。あり過ぎて困る位あった。……すなわち宇宙間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間と進化して来たもので、コイツにとらわれている奴ほど自由の利かない下等な存在という事になる。だから思い切って今のうちにキレイサッパリと心理遺伝から超越しちまえ。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という宣言プロパガンダを、新生アラキのまま民衆にタタキ付けたのが基督キリストで、オブラートに包んでほうり出したのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓ではやし立てて売り出したのがお釈迦様という事になるんだ。そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞいう当世向きの名前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値をむさぼろうと企てているのが、ここにいる吾輩という事になるがね……ハッハッハッ……まあ、そんな事はドウでもいいとして、勝空という坊さんの名前はどうやら天台宗らしいから、多分法華経あたりを読んでこの理屈を悟ったんだろう……。
 この絵巻物を見るとタッタ一眼で過去、現在、未来の三世の因果因縁がナアール程とわかった。呉青秀ごせいしゅうの子孫がこれを見ると同時に遺伝心理を刺戟されて、先祖の真似を初めるのは無理もない。ケンノンケンノン……不憫ふびん至極な事と思ったのであろう。世界の一番おしまいに出て来るという弥勒菩薩みろくぼさつの像をきざんで、その中に封じ込めて『男見るべからず』と固く禁制しておいた。……ところが見てはいけないと云われるとイヨイヨ見たくてたまらなくなるのが『安達あだちはら』以来の人情だもんだから、呉青秀の子孫のうちにコッソリと、弥勒様の首を引き抜いて、絵巻物を取り出して見る奴が出て来た。そいつがみんなキチガイになって暴れ出した訳なんだが、そこへやって来たのが呉虹汀くれこうてい美登利屋坪太郎みどりやつぼたろうだ……こいつが又、禅学か何かの力で、この心理遺伝の作用を看破して、一思いに絵巻物を焼いてしまおうとした。……か、どうか知らないが、おおかたおしかったんだろう……表面は焼いたふりをして、実は焼かずに元の穴へ納めて、巻物の供養を大々的にやったりしてお茶を濁しておいた。その絵巻物が又、現代の物質万能の世界に大見得おおみえを切って出現して、恐るべき悲劇を捲き起した……というのが大体の筋道だがね……」
「ハア……やっと解ったようですが……しかしその絵巻物を見てキチガイになるのが男に限っているのは何故なにゆえでしょうか」
「ウムッ……えらい。豪いぞ君は……ステキな質問だぞ、それは……」
 と云ううちに正木博士は突然にテーブルを平手でタタイたので、私はビックリして座り直した。何だか解らないままに胸をドキンとさせながら……。しかし正木博士は委細構わずに言葉を続けた。
「イヤ感心感心。この事件の興味のクライマックスは実にそこに在るんだ。スッカリ心理遺伝学の大家になっちゃったナ。君は……」
「……ドウしてですか……」
「ドウシテじゃない。まあこの絵巻物を開いて見給え。今の疑問は一ペンに解けてしまうから……もっとも、それと同時に君がホントウの呉一郎ならば、呉青秀の子孫としての心理遺伝的夢遊をフラフラと初めるか初めないか……又は自分はどこそこの何のそれがしという者で、ドンナ来歴でこの事件に関係して来たかという過去の記憶を一ペンにズラリと回復するかしないか……それとも又『この絵巻物はこの前に、いつどこで、どんな奴から見せられた事がある』という、この事件の黒星のまん中をピカリと思い出すか出さないか……若林と吾輩のドッチが勝つか負けるか……そうして最後に君の将来は如何なる因果因縁の下に、イヤでもあの美しい令嬢とスイートホームを作らなければならぬのか……というようなアラユル息苦しい重大問題がこの絵巻物を見ると同時に、一ペンに解決される事になるかも知れないのだからね。ハッハッハッハッ」
 正木博士は一息にこう云ってしまうと口一パイの白い義歯をあらわしつつ高らかに笑って見せた。その片手に眼の前の新聞の包みを引き寄せて、無雑作にガサガサ引きひらくと、中から長方形の白木の箱が出た。その蓋を今度は叮嚀な手付きで開いて、直径三寸、長さ六寸位の鬱紺木綿うこんもめんの包みを取り出すと箱のふちに一端を載せて、その上からソッと蓋を置きながら、私の前に押し進めた。

 今までゆるみ加減になっていた私の全神経は、正木博士の高やかな笑いの波動のうちに、見る見る一パイに緊張して来たのであった。
 ……ひやかしているのか……威嚇いかくしているのか……又は何等かの暗示を与えているのか、それともまた……心安立てに冗談を云っているのか……全く見当のつかないその笑い顔を見ているうちに、私は又もその笑い顔の持ち主が、世にも恐るべく、戦慄すべき魔法使いその者のように見えて来て仕様がなかった。しかし又それと同時に……
……何を糞ッ……高の知れた絵巻物の一巻に、男一匹が発狂するまで飜弄されるような事が、あり得よう筈はない……ドンナ名人の手に成った如何にモノスゴイ絵であるにしろ、要するに色と線との配合以外の何者でもないだろう。いわんやこっちで覚悟をしている以上、何の恐ろしい事があろう……ヨシッ……
 というような反抗心が見る見る高まって来るのを押え付ける事が出来なかった。
 ……だから私はできるだけ冷静な態度で箱を引き寄せた。そうして木の蓋と、鬱紺木綿を開くと、又も、どことなく緊張しかけて来た感情を押え付けようとつとめつつ、まず絵巻物の外側から見まわした。
 巻物の軸は美しい緑色の石で八角形に磨いてあるが、あまり美しいので思わず指を触れて撫で廻してみた位であった。表装の布地きれはチョット見たところ織物のようであるが、眼を近づけて見るとそれは見えるか見えぬ位の細かい彩糸いろいとや金銀の糸で、極く薄い絹地の目を拾いつつ、一寸大の唐獅子の群れを一匹ごとに色を変えて隙間すきまなく刺した物で、貴いものである事がシミジミとわかって来る。千年も昔のものだというのにピカピカと新しく見えるのは、叮嚀にしまってあったせいであろう。その一隅には小さな短冊型の金紙が貼りつけてあるが、何も書いたあとはない。
「それが問題のつぶしという刺繍なんだよ。呉一郎の母の千世子は、それを手本にして勉強したに違いないのだ」
 と正木博士は投げ遣るように説明しつつ、クルリと横を向いて葉巻を吹かし初めた。しかし私も丁度そんなような聯想を頭に浮かめていたところだったので、格別驚きもせずにうなずいた。
 象牙のへらを結び付けた暗褐色の紐を解いて巻物をすこしばかり開くと、紫黒色の紙に金絵具きんえのぐで、右上から左下へ波紋を作って流れて行く水が描いてあるが、非常に優雅な筆致ふでつきに見えた。私はその青暗い平面に浮き出している夢のような、又は細い煙のような柔らかい金線の美しい渦巻きに魅せられながら、何の気もなくズルズルと右から左へ巻物を拡げて行ったのであったが……やがて眼の前に白い紙が五寸ばかりズイとあらわれると、私は思わず……
「……アッ……」
 と叫びかけた。けれどもその声は、まだ声にならない次の瞬間に咽喉のどの奥へ引返してしまった。……巻物を両手に引き拡げたまま動けなくなってしまった。息苦しい程胸の動悸が高まって……。
 そこに横たわっている裸体婦人の寝顔……細い眉……長い睫毛まつげ……品のいい白い鼻……小さな朱唇……清らかなあご……それはあの六号室の狂美少女の寝顔に生き写しではないか……黒い、大きな花弁はなびらの形にい上げられた夥しい髪毛かみのけが、雲のように濛々もうもうと重なり合っている……そのびんの恰好から、生え際のホツレ具合までも、ソックリそのままあの六号室の少女の寝姿を写生したものとしか思われないではないか…………。
 しかしこの時の私には「何故」というような疑問を起す余裕がなかった。その寝顔……否、眠っているかのように見える表情の下から、微妙な彩色や線の働らきによって見え透いて来る死人の相好そうごうの美くしさ……一種たとえようのない魅力の深さに、全霊を吸い寄せられ吸い奪われてしまって、今にもその眼がパッチリと開きはしまいか。そうして最前のように「アッ……お兄様ッ……」と叫んで飛び付いて来はしまいか……というような、あり得べからざる予感に全神経を襲われつづけていたのであった。まばたき一つ出来ず、唾液一つ呑み込み得ないままに、その臙脂えんじ色の薄ぼけた頬から、青光りする珊瑚さんご色の唇のあたりを凝視していたのであった。
「ハッハッハッ。馬鹿に固くなっているじゃないか。エー……オイ。どうだい。大したものだろう。呉青秀ごせいしゅうの筆力は……」
 絵巻物の向うから正木博士がこんな風に気軽く声をかけた。しかし私は依然として身動きが出来なかった。唯やっと切れ切れに口を利く事が出来ただけであった。今までと丸で違った妙なカスレた声で……。
「……この顔は……さっきの……呉モヨ子と……」
「生き写しだろう……」
 と正木博士はすぐに引き取って云った。その途端に私は、やっと絵巻物から眼をらして、正木博士のこっちに振り向いた顔を見る事が出来たが、その顔には一種の同情とも、誇りとも、皮肉とも何ともつかぬ笑いが一面に浮き出していた。
「……どうだい面白いだろう。心理遺伝が恐ろしいように肉体の遺伝も恐ろしいものなんだ。姪の浜の一農家の娘、呉モヨ子の眼鼻立ちが、今から一千百余年ぜん、唐の玄宗皇帝の御代みよに大評判であった花清宮裡かせいきゅうり双※(「虫+夾」、第3水準1-91-54)姉妹そうきょうきょうだいに生き写しなんていう事は、造化の神でも忘れているだろうじゃないか」
「……………」
「歴史は繰り返すというが、人間の肉体や精神もこうして繰り返しつつ進歩して行くものなんだよ。もっともコンナのはその中でも特別あつらえの一例だがね……呉モヨ子は、ふん夫人の心理を夢中遊行で繰り返すと同時に、その姉のたい夫人が、喜んで夫の呉青秀に絞め殺された心理も一緒に繰り返しているらしい形跡があるのを見ると、二人の先祖にソンナ徹底したマゾヒスムスの女がいて、その血脈を二人が表面にあらわしたものかも知れぬ。又は呉青秀を慕う芬女の熱情が、思う男の手にかかって死んだ姉の身の上を羨ましがる位にまで高潮していたと認められるふしもある。しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、呉青秀と、黛芬姉妹の夫婦愛の極致をあらわしていることはたやすく解るだろう……とにかくズット先まで開いて見たまえ。呉一郎の心理遺伝の正体が、ドン底まで曝露して来るから……」
 私はこの言葉に追い立てられるように、半ば無意識に絵巻物を左の方へ開いて行った。
 それから順々に白紙の上に現われて来た極彩色の密画を、ただ、真に迫っているという以外に何等の誇張も加えないで説明すると、それは右を頭にして、両手を左右に伏せて並べて、ななめにこっち向きに寝かされた死美人の全長一尺二三寸と思われる裸体像で、周囲が白紙になっているために空間に浮いているように見える。それが間隔三四寸を隔てて次から次へと合わせて六体在るのであるが、皆殆ど同じ姿勢の寝姿で、只違うのは、初めから終りへかけて姿が変って行っている事である。
 すなわち巻頭の第一番に現われて私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白せっぱくの肌で、頬や耳には臙脂えんじの色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃い睫毛まつげを伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔おとなしそうなみめかたちを凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。
 しかるに第二番目の絵になると、皮膚はだの色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらかれぼったく見える上に、眼のふちのまわりに暗い色がうかただよい、唇もやや黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
 その次の第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の背後うしろと、腹部の皮膚の処々が赤く、又は白くただれはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のようにふくらんで光っている。
 第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、爛れた処は茶褐色、又は卵白色が入りまじり、乳がすべり流れて肋骨が青白くあらわれ、腹は下側の腰骨の近くから破れほころびて、臓腑の一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトに濡れて脱け落ちた髪毛かみのけの中からは、美しい櫛や珠玉の類がバラバラと落ち散っている。
 第五になると、今一歩進んで、眼球がついえ縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑は腹の皮と一緒に襤褸切ぼろきれを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになってしまい、肋骨あばらぼねや、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた恥骨ちこつのみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている。
 最終の第六図になると、唯、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。
 ……私は嘘を記録する事は出来ない。あとから考えても恥かしい限りであるが、私はおしまいの方ほど急いで見た。
 勿論、この絵巻物を開いた最初のうちこそ、一種の反抗心と共に落ち付いた態度を保っていたが、死美人の絵が出て来ると間もなくそんな気持ちはどこへやら消えうせて、巻物を開き進める手がだんだんと早くなるのを自覚しながら、どうしてもそれを押し止める事が出来なくなった。それでも眼の前の正木博士に笑われてはいけないと思って一所懸命に息を詰めて、出来るだけ念を入れて見たつもりであったが、それでもとうとうしまいには我慢出来なくなって、第六番目の絵なぞは殆ど眼の前を通過させただけと云ってよかった。画面から湧き出して来る底知れぬ鬼気と、神経から匂って来るえ難い悪臭に包まれて、殆ど窒息しそうな思いをしながら、やっと、おしまいの由来記の頭が見える処まで来ると、思わずホッとして吾に返った。それから四五尺の長さにメッキリと書き詰めた漢文の上を形式ばかり眼を通して、その結末にある、

大倭朝やまとちょう天平宝字てんぴょうほうじねん癸亥きがいがつおいて西海さいかい火国ひのくに末羅潟まつらがた法麻殺几駅はまさきえきに
大唐だいとう翰林学士かんりんがくし芳九連ほうきゅうれんじょふん しるす
 という文字を二三度繰り返して読んで、いくらか気を落付けてから、もとの通りに巻き返して箱の横に置いた。それから神経をしずめるべく椅子に背をたせて、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。
「……どうだ。驚いたろう。ハハハハハ。これだけ描いてもまだ足りないと思った、呉青秀の心理がわかるかね」
「……………」
「常識から考えれば天子を驚かすには、そこに描いてある六ツの死美人像だけで沢山なんだ。大抵の奴はその半分を見ただけでも参ってしまうんだ。それに呉青秀が、なおも新しい女の屍体を求めたというのは、彼が病的の心理に堕落していた証拠だ。自分の描いた死美人の腐敗像にのろわれて精神に異状を来たしたんだ。その心理がわかるかね君には……」
 こうした言葉を鼓膜にピンピンと受け付けながら、眼をシッカリと閉じて、両手でグッと押え付けている、まぶたの内側の薄赤いやみの中に、たった今見たばかりの死美人の第一番目の絵像が、白い光りを帯びてウッスリと現われた。……と思う間もなく第二図、第三図と左から右へ順々にすべり初めたが、ちょうど第五番目の死後五十日目にあらわしている、白茶気た笑い顔のところまで来ると、ピタリと眼の前に静止してしまった。
 私は思わず身ぶるいをした。パッと眼を開くと、いつの間にか椅子を廻転さして、こっちを正面に腕を組んでいる正木博士と視線がカチ合った……途端に博士は黒ずんだ唇の間から義歯いればを光らしてニッと笑いつつ、その顔の両脇に在る赤い薄っペラな耳朶みみたぶをズッと上の方へ動かしたので、私は又、思わずゾッとして眼を伏せた。
「ウフフフフフフ。ぞっとしたろう。ウフフフフフフ……ゾッとする筈だ。……あの呉一郎も初めてこれを見た時には、君と同じようにふるえ上がったに違いないのだ。……あたかも太古の生物の遺骸が、石油となって地層の底に残っているように、あの呉一郎の心理の底に隠れ伝わっていた祖先の一念は、この絵巻物を見てゾッとすると同時に点火されたんだ。……そうしてみるみるうちに一切の現実の意識を打ち消すほどの大光明となって燃え上って来た。過去も、現在も、未来も、日月星辰じつげつせいしんの光りもことごとくその大光明に掻き消されてしまって、自分自身が呉青秀と同じ心理……すなわち呉青秀自身になり切ってしまうまでゾッとし続けたのだ……姪の浜の石切場の赤い夕日の中に立ち上って、この絵巻物を捲き納めながら、ホッと溜め息をして西の空を凝視していた呉一郎は、最早もはや、今までの呉一郎ではなかったのだ。呉青秀の熱烈な慾求そのものを全身の細胞に喚び起した、或る青年の記憶力、判断力、習慣性なぞの残骸に過ぎなかったのだ……呉一郎が発狂以後今日まで、呉青秀と同じ心理で暮して来たことは、この由来記に現われている呉青秀の心理の推移と、呉一郎の今日までに於ける精神病状態の経過が、全然同一であるところを見ても遺憾なく推察される。否、二人の行動に現われた心理の推移を精神病理的に観察してみると、呉一郎は、一千年後の呉青秀に相違ないのだ」
 私は又、別の気持ちでゾッとして腰をかけ直した。
「この驚くべき奇怪な現象を理解するには、まず、呉一郎と呉青秀とがどんな順序で入れかわって行ったかという、その精神病理的の階梯かいていから明かにして行かねばならぬ。平たく云えば、如何に秀才とはいえ、中学卒業以来漢文を勉強しなかったという呉一郎が、純粋の漢文の白文で、四五尺近くも細かに書き続けてあるこの由来記を、発狂するほど深刻な程度にまでドウして読みこなし得たか……という事から疑ってかからねばならぬ。……どうだ……わかるかね。その理由が」
 私は正木博士の底光りする眼を凝視みつめたまま、乾燥した咽喉のどに唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。
「……わかるまいナ……わからない筈だ。呉一郎が自分の学力でこの由来記を読んだと思うと誰でも理屈がわからなくなる」
「……じゃ誰か……読んで聞かせた……」
 と云いも終らぬうちに私は愕然としてふるえ上がった。
……誰か……何者かが傍に附いていたんだ……今しがた私が聞いたような説明をして聞かせた奴が居たんだ……居たんだ……そいつが……そいつが……そいつは……そいつは……
 こう思ううちに一しきり高まっていた心臓の鼓動が又ピッタリと静まった。そうして、それと同時に正木博士の厳粛な眼の光りが次第次第に柔らいで行くのを見た。一文字に結ばれた唇が見る見るゆるんで、私をあわれむような微笑ほほえみにかわって行くのを見た……と思うと、無雑作に投げ出すような言葉が葉巻の煙と一緒に飛び出した。
「……『狐憑きつねつき、落つればもとの無筆むひつなり』……という川柳を知っているかね君は……」
 私は面喰った。不意に横頬に何か見えないものをタタキ付けられたような気持ちがして、暫く眼をパチパチさせていた。
「……そ……そんな川柳は知りません」
「……フ――ン……この句を知らなけあ川柳を知っているたあ云えないぜ。柳樽やなぎだるの中でもパリパリの名吟なんだ」
 こう云うと正木博士は得意の色を鼻の先にほのめかしながら、片膝をぐっと椅子の上に抱え上げた。
「……ソ……それが……どうしたんです」
「ドウしたんじゃない。この川柳があらわしている心理遺伝の原則を呑み込んでいない以上、シャイロック・ホルムスとアルセーヌ・ルパンのエキスみたいな名探偵が出て来ても、この疑問は解けっこない」
 冷やかにこう云い放った正木博士の口から、小さな煙の輪が一ツクルクルと湧き出して、私の頭の上の方へ消えて行った。私は又、眼をパチパチさした。
 ……狐憑き……落つれば……落つれば……もとの無筆……もとの無筆……
 と心の中で繰り返したが、わからないものはいくら考えても解らなかった。
「若林先生は知っているんですか……その理屈を……」
「吾輩が説明してやった。感謝していたよ」
「……ヘエ……どういう訳なんで……」
「どういう訳ったって……こうだ。いいかい……」
 正木博士はユッタリと椅子の背に身をたせて足を長々と踏み伸ばした。
「……この川柳は狐憑きが、心理遺伝の発作である事を遺憾なく説明しているのだ……すなわち狐憑きはその発作の最中に妙なけものじみた身振りをしたり飯櫃めしびつつらを突込んだり、床下に這い込んで寝たがったりして、眼の玉を釣り上がらせつつ、遠い遠い大昔の先祖の動物心理を発揮するから、狐憑きという名前を頂戴しているんだが、同時にこの狐憑きはソンナ性質と一緒に、何代か前の祖先の人間の記憶や学力なぞいうものまでも発揮する場合が多いのだ。一字も知らなかった奴が狐憑きになるとスラスラと読んだり書いたり、祖先のいろんな才能や知識を発揮したりして人を驚かす例がイクラでもあるから、こんな川柳にまで読まれているんだ」
「ヘエ――。そんなに細かいところまで先祖の記憶が……」
「……出て来るから心理遺伝と名付けるんだ。無学文盲の土百姓が狐にかれると歌をんだり、詩を作ったり、医者の真似をして不治の難病を治したりする。一寸ちょっと不思議に思えるが心理遺伝の原則に照せば何でもない。当り前の事なんだ……殊にこの絵巻物は、絵の方が先になっているんだから、それを見ているうちに呉一郎はスッカリ昂奮して、あらかた呉青秀の気持ちになってしまっている。そうしているうちに自分の先祖代々が、何度も何度も発狂する程深く読んで来た由来記の内容に対する記憶までも一緒に呼び起しているんだから訳はない。范陽はんようの進士呉青秀の学力が、自分の経歴を暗記した奴を、又読み返すようなもんだ。白紙を突きつけても間違わずに読める訳だ」
「……驚いた……成る程……」
「こいつが第一段の暗示になった訳だが、次に、第二段の暗示となって呉一郎を昏迷させたものは、その六個の死美人像のうちに盛り込まれている思想である」
「思想というと……やはり呉青秀の……」
「そうだ。この心理遺伝のそもそもというものは、呉青秀の忠君愛国から初まって、その自殺に終る事になっているが、それはその由来記の表面だけの事実で、その事実の裡面に今一歩深く首を突込んでみると豈計あにはからんや。呉青秀の忠勇義烈がいつの間にか変化して、純然たる変態性慾ばかりになって行く過程が遺憾なく窺われるのだ。ちょうど材木が乾溜かんりゅうされて、アルコールに変って行くようにね」
「……………」
「……ところでこの経過を説明すると、とても一年や二年ぐらいの講座では片付かないのだが、吾輩が昨夜ゆんべ焼いてしまった心理遺伝論のおしまいに、附録にして載せようと思っていた腹案の骨組みだけをつまんで話すと、こうだ。……呉青秀がこの仕事を思い立ったソモソモの動機というのは今も云った通り、天下万生のためという神聖無比な、純誠純忠なもののように思えるが、これは皮相の観察で、その後の経過から推測して研究すると、その神聖無比、純誠純忠の裏面に、芸術家らしい変態心理の深刻なものの色々が異分子として含まれているのを、御本人の呉青秀も気付かずにいた。……と考えなければ、その絵巻物の存在の意義に就いて、いろんな不合理があるのを、どうしても説明出来なくなって来るのだ」
「この絵巻物の存在の意義……」
「そうだよ。その絵巻物の絵と、由来記に書いてある事実とを、よくよく比較研究してみると、この絵巻物はその根本義に於て、存在の意義が怪しくなって来るのだ。……すなわち……この絵巻物は、この六体の画像をき並べただけで、天子をいさめるだけの目的は充分に達し得るのだ。女の肉体美が如何に果敢はかないものか……無常迅速なものかという事を悟らせるにはこの六個の腐敗美人像だけで沢山なのだ。……論より証拠だ。現在、たった今、君がひとわたり眼を通しただけでもゾッとさせられた位だからね……」
「……それは……そう……ですねえ……」
「そうだろう。その第六番目の乾物みたような姿のあとに、今一つ白骨の絵か何かをき添えたら、それでモウ充分にその絵巻物は完成していると云っていい。そうして残った白い処へ諫言かんげんの文だの、苦心談だのを書いて献上しておいて、自分はあとで自殺でもすれば、気の弱い文化天子のきもたまをデングリ返らせる効果は十分、十二分であったろうものを、そうしないで、なおも飽く事を知らずに、必要もない新しい犠牲を求めて歩いたのは何故か……黛夫人の遺骸が白骨になり終るのを、温和おとなしく待っておりさえすれば、何の苦もなく完成するであろうその絵巻物を、未完成のままに後代に伝えて、呉家くれけを呪いつくす程の恐ろしい心理遺伝の暗示材料としたのは何故か……一千百年後の今日、吾々の学術研究の材料として珍重さるべき因果因縁を作ったのは何故か……」
 私は思わず溜息をさせられた。正木博士の話から湧出わきだして来る一種の異妖な気分に魅せられて、何となく狂人きちがいじみた不可思議な疑いが、だんだんこうじて来るのを感じながら……。
「どうだ……不思議だろう。小さな問題のようで仲々重大な問題だろう。しかもこの問題は、考えれば考える程、わからなくなって来る筈だからね。ハハハハハ。だから吾輩は云うのだ。この問題を解くには、やはり呉青秀がこの絵巻物の作製を思い立った最初の心理的要素にまで立返って観察して見なければならぬ。その時の呉青秀の心理状態を解剖して、こうした矛盾のって起ったそのそもそもを探って見なければならぬ……しかもそれは決して難かしい問題ではないのだ」
「……………」
「すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っいで見ると、その下から第一番に現われて来るのは燃え立つような名誉慾だ。その次にはげ付くような芸術慾……その又ドン底には沸騰点を突破した愛慾、兼、性慾と、この四つの慾望の徹底したものが一つに固まり合って、超人間的な高熱を発していた。つまるところ、呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻な、変態性慾の固まりに過ぎなかった事が、ザラリと判明して来るのだ」
 私は思わずハンカチで鼻を撫でた。自分の心理を解剖されているような気がしたので……。
「こいつを具体的に説明するとこうであったろうと思う。すなわち……李太白が玄宗皇帝の淫蕩いんとうと、栄耀栄華えいようえいがへつらった詩を作って、御寵愛をこうむったお蔭で、天下の大詩人となったのを見た呉青秀は、よろしい。それならば俺は一つその正反対の行き方でもって名を丹青たんせい竹帛ちくはくに垂れてやろう。自分の筆力で前代未聞の怪画を描いて、天下後世を震駭しんがいさせてくれようと思った……これがこうした若い、天才肌な芸術家にあり勝ちの、最も高潮した名誉慾だ。又、呉青秀自身の男ぶりと、天才に相応した名声に惚れ込んで、ゾッコンくびたけになっている新夫人から、身も心も捧げられた、新婚早々の幸福さに有頂天になった呉青秀は、僅か数箇月の間にあらゆる愛し方と、愛され方をあじわいつくしてしまった。この上はその美しい愛人を、極度に残忍な方法で虐待するかどうかしなければ、この上の感激は求められられられられないといった程度にまで高潮した慾求を、夜毎日毎よごとひごとに感じ初めて来た。これがやはり天才肌の青年……ことに頭の優れた芸術家なぞに在り勝ちの超自然的な愛慾、兼、性慾だ。……それから今一つ……嘆美の極はこれを破壊するにあり。そうしてその醜怪な内容をドン底までも曝露さして冷やかに観察するに在り……という芸術慾のドン詰まりと、この四ツの慾望が白熱的の焦点を作ってこの計画の中に集中されていた。しかもその強烈な慾求を呉青秀はやはり純忠純誠の慾求として錯覚していたものと考えられるのだが、そうした呉青秀の心理状態の裏面を、端的に解り易く説明しているものは、矢張やはりこの絵巻物の絵だ。腐敗して行く美人の姿だ」
 私の眼の前に又しても最前の死美人の幻覚が現われ出て来そうになった。思わず両手で眼をこすると、鼻の先の絵巻物に視線を落して、表装の中に光っている黄金こがね色の唐獅子の一匹を睨み付けた。出て来る事はならぬ……というように……。
「……その死美人の腐敗して行く姿を、次から次へと丹念に写して行くうちに呉青秀は、何ともいえない快感を受け初めたのだ。画像の初めから終りへかけて、次から次へと細かく冴えて行っているその筆致ふでつきを見てもわかる。人体という最高の自然美……色と形との、透きとおる程に洗練された純美な調和を表現している美人のが、少しずつ少しずつ明るみを失って、仄暗ほのくらく、気味わるく変化して、ついには浅ましくただれ破れて、見る見る乱脈な凄惨むごたらしい姿に陥って行く、そのかん表現あらわれて来る色と、形との無量無辺の変化と、推移は、殆ど形容に絶した驚異的な観物みものであったろうと思われる。そのかんに千万無量にあじわわれる『美の滅亡』の交響楽を眼の前に眺めつつ、静かに紙の上に写して行く心持は、とても一国の衰亡史を記録する歴史家の感想なぞとは比較にならなかったろうと思われる。呉青秀はの忠義も、この名誉も、愛慾も、性慾も、その芸術慾も、何もかもを打ち込んだ無我夢中の気持の中に、この快感と美感とを、どこまでも細かく筆にかけつつ、飽くところを知らず惜しみ味わったに違いない。そうしてその残骸が、最早もはやこの上には白骨になるよりほかに変化の仕様がないところまで腐ってしまったのを見ると、決然筆をなげうってった。今一度、この快美感を味いたい白熱的な願望に、全霊をわななかしつつさ迷い出た。しかも……呉青秀のこうした心理の裡面には、その永い間の禁慾生活によって鬱積、圧搾された性慾が、疼痛うずく程の強烈な刺戟を続けていたに違いないのだ。その刺戟が疲労し切った、冴え切った神経によって盛んに屈折分析され、変形、遊離させられつつ、辛辣、鋭敏を極めた変態的の興奮を、呉青秀の全身に渦巻かせていたに相違ないのだ。そうしてそのじれ狂うた性慾の変態的習性と、その形容を絶した痛烈な記憶とを、その全身の細胞の一粒ひとつぶ一粒ごとに、張り裂けるほど充実感銘させていた事と思う」
 び沈んだ、一種の凄味すごみを帯びた正木博士の声は、ここで一寸ちょっと中絶した。
 私は眼の前に在る獅子の刺繍が、視力の疲労のためにボーッとなるのを、なおも飽かず飽かず見詰めていた。そのボーッとした色の中に、たった一つ浮出している草色の一つに何故ともなく心をかれながら耳を傾けていた。
「……こうして忠君も、愛国も、名誉も、芸術も、夫婦愛も、何もかも超越してしまって、ただ極度に異常な変態性慾の刺戟だけで、生きて、さ迷うていた呉青秀は、一年振りに帰って来た我家の中でこれも同じく一種の変態性慾にとらわれている処女……義妹いもうと芬氏ふんしに引っかけられて美事な背負しょい投げを一本喰わされると、その強烈深刻な刺戟から一ペンに切り離されてしまった。最後の最後まで自分の意識を突張り支えていた烈火のような変態性慾が、その燃料と共に消え失せて、伽藍洞がらんどうの痴呆状態に成り果てた。そうしてその変態的にじれ曲るべく長い間、習慣づけられて来た性慾と、これに絡み付いている、あらゆるモノスゴイ記憶の数々を一パイに含んだ自分のたねを後世に残して死んだ……するとこの胤が又、生き代り死に代り明かし暮して来て、呉一郎に到って又も、愕然として覚醒する機会を掴んだ。呉一郎の全身の細胞の意識のドン底に潜み伝わっていた心理遺伝……先祖の呉青秀以下の代々によって繰返し繰返し味い直されて来た変態性慾と、これに関する記憶とは、その六個の死美人像によって鮮やかに眼ざめさせられた……すなわち、この絵巻物を見たのちの呉一郎は、呉一郎の形をした呉青秀であった。一千年前の呉青秀の慾求と記憶が、現在の呉一郎の現実の意識と重なり合って活躍する……それが夢中遊行以後の呉一郎の存在であった。『取憑とりつく』とか『乗移る』とかいう精神病理的な事実を、科学的に説明し得る状態はこの以外にないのだ」
「……………」
「……この深刻、痛烈を極めた変態性慾の刺戟の前には、呉一郎自身に属する一切の記憶や意識が、何の価値もない影法師同然なものになってしまった。今まで呉一郎を支配して来た現代的な理智や良心の代りに、一千年月の天才青年の超無軌道的な、強烈奔放な慾求が入れ代ったのだ。そうしてその記憶のうちにタッタ一つ美しいモヨ子……一千年前の犠牲であったたい夫人に生写いきうつしの姿がアリアリと浮出した」
「……………」
「……一千年後に現われた呉青秀の変態性慾の幽霊はかくして現代青年の判断力や、記憶や、習慣を使って無軌道的な活躍を初めた。姪の浜の石切場を出ると飛ぶように急いで家に帰って、モヨ子と何かしら打合わせた。多分、母屋おもやの雨戸の掛金を内側からはずしておく事や、土蔵くらの鍵だの、蝋燭だのいうものを用意しておく事であったろうと思われるが……それから呉一郎は家中が寝鎮ねしずまるのを待って母屋へ忍び込んで、そっとモヨ子を呼び起した。……ところで無論モヨ子はこの時まで、こうした新郎の要求の真実ほんとうの意味を知らなかったようである。云う迄もなく呉一郎も、イザというドタン場までは故意わざと真実の事を話さずに、高圧的な命令の形で、熱心に迫ったものらしいので、モヨ子も真逆まさかにそれ程の恐ろしい計劃とは知らずに、ただ当り前の意味に解釈して、非常に恥かしい事に思い思い躊躇していたらしい事が、戸倉仙五郎の話に出ている前後の状況で察せられる。……けれどもモヨ子は気質きだて温柔おとなしいままに結局、唯々いいとして新郎の命令に従う事になった。そいつを呉一郎の呉青秀は蝋燭の光りを便たよりにして土蔵の二階に誘い上げた……という順序になるんだ。そこでその現場に関する調査記録を開いてみたまえ」
「……………」
「……それそれ。そこん処だ。階下より蝋燭の滴下起り……云々と書いて在るだろう。その百蝋燭の光りの前で、新郎と差向いになったモヨ子は、初めてその絵巻物を突き付けられながら……この絵巻物を完成するために死んでくれ……という意味の熱烈な要求を受けたに相違ない。しかもその絵を見ると、眼鼻立から年頃まで自分に生写しの裸体少女の腐敗像の、真に迫った名画と来ているのだからタマラない。はらわたのドン底まで震え上ると同時に卒倒して、そのまま仮死の状態に陥ってしまったものと考えられる……という事実を、その調査記録は『抵抗、苦悶の形跡なし』とか『意識喪失後に於て絞首』云々の文句で明かに想像させているではないか」
「……のみならずモヨ子がその後に於て、程度は余り深くないながらに自分と同姓の祖先に当る花清宮裡かせいきゅうり双※(「虫+夾」、第3水準1-91-54)姉妹そうきょうしまいの心理遺伝を、あの六号室でき現わしている事実に照してみると、その仮死に陥った瞬間というのは、の土蔵の二階で、呉一郎がサナガラに描き現わした一千年前の呉青秀の心理遺伝の身ぶり素振りによって、モヨ子が先祖のたいふん姉妹きょうだいから受け伝えていたマゾヒスムス的変態心理の慾望と記憶とを、ソックリそのままに喚起よびおこされた刹那せつなであったろうという事も、併せて想像されて来るではないか」
「……………」
「……ただし。こういうと不思議に思うかも知れないが心理遺伝の発作と消滅の前後に、仮死状態や無意識、昏睡状態なぞいうものが伴う例は古来、幾多の記録や伝説に残されているので、この方面の専門的研究眼から見ると、少しも不思議な事ではないのだ。……すなわち昔はこれを『神憑かみうつり』とか『神気かみげ』とか『神上かみあがり』とか称していたもので、はなはだしいのになるとその期間が余り長いために、真実ほんとうに死んだものと思って土葬した奴が、墓の下で蘇った……なぞいう記録さえ珍らしくない。能楽『歌占うたうら』の曲の主人公になっている伊勢の神官、渡会わたらえなにがしは三日も土の中で苦しんだために白髪しらがとなってい出して来た……なぞいうのは、そんな伝説の中でも最も有名な一つで、これを精神科学的に説明すると電気のスイッチを一方から一方へ切り換える刹那せつなに生ずる暗黒状態みたようなものだ。勿論その気持の変化の強弱、又はその人間の体質、性格等によって時間の長短の差はあるが、普通の場合、突然の驚きに似た卒倒と、それに引続く身神しんしんの全機能の停止があってのちに、やがて息を吹き返すと、挙動が全く別人のようになる……すなわち心理遺伝の夢遊発作を初める……又はそうした発作を続けて来た人間が同じ暗黒状態の経過ののちに、正気に立帰ったりするので、前に述べた狐憑きなどの場合は、夢中遊行発作の程度が割合に浅いだけに、無意識状態に陥る時間も短かいのが通例になっているのだ。……なおこの仮死の間に於ける栄養作用や、新陳代謝の具合なぞの研究は、この呉モヨ子のモデルに依って、若林が充分な研究をげている事と思うし、吾輩も他人の受売りなら多少出来るが、この話には直接の必要がないから略する。いずれにしても呉モヨ子が仮死状態に陥った直接の原因が、呉一郎の夢中遊行から来た暗示であったろうという事は、この若林の手に成った調査書類の文句が云わず語らずのうちに表明している推論で、吾輩も双手を挙げて賛成せざるを得ないところだ」
「……………」
「なお又、これは吾輩一個人としての想像であるが、従来の呉家くれけにはモヨ子のように、女性としての祖先である黛、芬、両夫人から来た心理遺伝をあらわした婦人の話が一つも残っていないようである。又、この絵巻物を警戒して、人に見せないようにした勝空しょうくうという坊さんも、呉家の中興の祖である虹汀こうていも、この点には全然注意を払っていないようであるが、しかしこれはこの絵巻物が現わしている変態心理の暗示が、男性にだけ有効な事がわかり切っていると同時に、これに刺戟された男性たちの心理遺伝の発作が、相手の女性の心理遺伝に影響するような場合が全く想像され得なかったからだ。……ところが今度は場合が全く違う。違うにも何にもお互に他人同志ではない。千載の一遇と云おうか、奇蹟中の奇蹟とでも考えられようか、相手のモヨ子の姿が、その絵巻物の主人公と寸分違わなかったために、呉一郎の心理遺伝も、今までに類例の無い、殆ど完全に近い暗示に支配される事になった。従ってその一言一句、一挙一動の極く細かいところまでも、その当時の呉青秀の動作と寸分違わぬ感じを現わし続けたために、ゆくりなくもモヨ子の心理遺伝を誘発する事になったのではあるまいかと考えられる。これは余りにも奇怪に過ぎる事実の暗合を想像したものだが、しかし満更の想像ばかりではない。相当の根拠を持って云う事なのだ。……というのは外でもない。すなわちその調査書が証明している通り、呉一郎が死人同様になって倒れているモヨ子の頸部くびを、わざわざ西洋手拭で絞め上げたものとすると、この変態性慾は女を殺すばかりが目的でなかった事がわかる。死んでいても構わないから、女の首を絞め付けるという特異な快感をあじわいたい……という願望のために、コンナ余計な事をしたものと考える事が出来る。……どうだい。一千年ぜんにいた或る一人の男の変態性慾の心理遺伝が、こんなに細かいところまでも正確に伝わっているとしたら実に面白い研究材料ではないか」
「……………」
「……ところでサテ。こうしてこの発作が済むと、呉一郎は、その屍体をモデルにするつもりで腐るのを待った。それを土蔵の窓から伯母の八代子が覗いた時に、呉一郎は平気で振り返って『モウじき腐ります』云々と云った。この言葉には吾々が聞くと実に一千年間……一千里に亘る時間と空間の矛盾が含まれているんだが、彼、呉一郎自身にとっては、どちらも現在の、眼の前の事であった。彼がモヨ子を絞殺した目的が、そうした大昔の遠方の先祖である呉青秀の、超自然的な心理の満足以外になかった事は、モヨ子の屍体解剖の結果が、情交の形跡なしとあるのを見てもわかる……」
 一気に続いて来たモノスゴイ説明が、やっとここで中絶すると、私は長い、ふるえた深呼吸をしいしい顔を上げた。正木博士はやはり偉大な精神科学者であった。……というような最初の尊敬を取返すと同時に、何となく安心したような気持になって……それに連れて全身がどことなく冷え冷えと汗を掻いているのに気が附いた。
 私はそのまま今一度ホッとして問うた。
「しかし……あの呉一郎の頭は……治りましょうか」
「呉一郎の頭かね。それあ回復するとも……吾輩には自信がある」
 こう云い放った正木博士は、皮肉な表情でニヤニヤと笑って見せた。私の顔をかして見るような暗い眼付を真正面から浴びせかけた。
「あの呉一郎の頭が回復するのは、ちょうど君の頭が回復するのと同時だろうと思うがね」
 私は又しても呉一郎と同一人という暗示を与えられたような気がしてドキンとした。……のみならず二人の頭の病気が、全然おなじ経過をって回復して行きつつあるような正木博士の口吻くちぶりに、云い知れぬ気味わるさを感じたのであった。……が……しかし、さりげなくハンカチで顔を拭いて又問うた。
「ハア……でも仲々困難でしょうね」
「ナニ訳はない。発病の原因と経過とが、今まで述べて来たように、精神病理学的に判然しておれば治療なおす方法もチャントわかって来る。殊にこの呉一郎みたように、原因のハッキリした精神異状が、治癒なおらなければ、吾輩の精神病理学は机上の空論だ」
「……ヘエ。それで……ドンナ方法で治療するんですか」
「ウン。適当な暗示という薬を臨機応変に用いて治療するのだ。それも禁厭まじないとか御祈祷とかいうような非科学的なものじゃない。……つまり今まで話して来たように呉一郎は、黴毒ばいどくとか、結核とかいう肉体的の疾患に影響されて神経を狂わしたのじゃない。純粋な精神的な暗示だけで発狂したんだ。すなわちこの絵巻物を見たのちの呉一郎は、時間も、空間も、呉一郎も、呉青秀も、支那も、日本もわからなくなって、ただ濃厚、深刻を極めた支那一流の変態性慾の刺戟と、これを渦巻きめぐる錯覚、幻覚、倒錯観念ばかりで生きる事になったんだ。そうしてその変態性慾もまた、呉青秀が一千年前に経過して来た通りの順序で変化して来て、ついにはただ『女の屍体が見たい』というような単純な、且つ、率直な慾望だけになっている事が、その解放治療場内に於ける夢中遊行の状態で察せられるようになった。……呉一郎の遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾……すなわち一千年前の呉青秀の怨霊の眼で見ると、世界中、到る処の土の下には、女の死体がベタ一面にかくされているように思われて来たのだ。だから土さえ見れば鍬が欲しくなったのだ。そうして鍬を貰うと毎日毎日死物狂いに土を掘返す事になったのだ。
 ……こうしてその、時間も空間も超越した変態性慾の幽霊が、先刻も話した通り毎日毎日、当てなしの労働を続けて行くうちに、迫々おいおい屁古垂へこたれて来た。人間の性慾の刺戟を高める燃料ホルモン……俗に精力と称する内分泌の刺戟液は、激しい労働を続行すると、その方の精力に消耗されてしまうのだからね。そんな性慾の刺戟をダンダン感じなくなって、唯、疲れ切った神経の端々に、一種の惰力みたように浮出して来る女の屍体の幻覚に釣られながら、あえぎ喘ぎ鍬を動かすというミジメな状態に陥っている。今まで一切の精神作用を圧倒していた変態性慾の怨霊が、消え消えになって来たお蔭で、その下から……ああ苦しい。遣り切れない。いったい俺は、どうしてコンナに非道ひどい労働を続けなければならないのだろう……といったような、正気に近い意識が次第次第に浮上りはじめた。時々鍬を休めてボンヤリとそこいらを見まわしては又、思い出したように仕事にかかるらしい気振けぶりが見えて来た。その潮合しおあいを見て、吾輩が出て行って、その眼の底に在る疲れ切った意識の力と、吾輩の眼の底に在る理智的の意識力とをピッタリと合わせながら『その女の屍体が、土の底に埋まったのはいつの事だ』と問いかけたものだから、サアわからなくなった。つまり今まで、全く忘れていた『時間』という観念が『いつ』という言葉の暗示力で反射的に復活しかけて来たのだ。それに連れて『ハテ。ここは一体、どこなんだろう』といったような空間的の観念も動き出して来たので、不思議そうにそこいらを見まわし初めた。同時に『ハテ。おかしいぞ。自分は今まで何をしていたのだろう』といったような自己意識も、それにつれて頭をもたげて来たので、何となく不可思議な淋しい気持になった。悲し気に頸低うなだれると、今まで大切に抱えていた鍬を力なく取落して、自分の部屋へ引込んで行った……というのが、この遺言書に出ている呉一郎の治療順序の説明だ。狂人の解放治療というのは、そういう風に患者の自由行動にあらわれた心理状態を観察して、病気の経過を察しながら、適当な暗示を与えつつ治療して行く意味から付けた名前に外ならないのだ。
 ……勿論こうした治療法をこころみるには、相当の頭が要る。すくなくとも今までのように当てズッポーの病名を付けて、浅薄な外科や内科の療法を応用したり、そいつが巧く当らなかった時には縛り上げたり、監禁したりなぞ、原始時代をそのままの手当を試みたりするような低級な頭では駄目の皮だ。今後の世界に於て行わるべき、正しい精神病の治療法というものは、そんな曖昧あやふやなもんじゃない。即ち精神というものの解剖、生理、病理の原則を、心理遺伝の学理に照してドン底まで理解すると同時に、解放されている患者の自由奔放な一挙一動によって、その心理遺伝の夢中遊行発作が、如何に推移し変化しつつ在るかを隅から隅まで看破しつつ、適当な時機に、適当な暗示を与えて、一歩一歩と正しい時間と空間の観念……正気に導いて行くだけの鋭敏さを持った頭でなくちゃならぬ。アハハハハ。思わず手前味噌に脱線してしまったが……ところでだ……。
 ……ところで、話を前に戻すと、それから後一個月の間、呉一郎が一回も解放治療場に出て来ないで、例の七号室に閉じ籠もってばかりいたのは、そのかんに色んな意識を回復していたものと考えられるのだ。すなわち時間の意識、空間の意識、自己の存在を認める意識なぞが、吾輩の暗示をキッカケにして次第次第に夜が明けるようによみがえりはじめた。『ハテナ……ここはどこで、今はいつで、俺は何という名前の人間なんだろう』とか『おれは一体、何のためにこんな処に閉籠とじこめられているんだろう』といった風にネ……それに連れて又、それに伴う色んな疑問や不可解が、雲の如く渦巻き起って、迷っては考え、考えては迷いしていたものだ。これは呉一郎の毎日の言動を、特に医員に命じて、細大洩らさず病床日誌に記録させてあるから、それに就いて観察して見れば、その迷い具合が手に取る如くわかる。君が最前若林博士に読まされたアンポンタン・ポカン博士の街頭演説なぞも、その時分の出来事を吾輩が実例に取って、新聞記者に説明しただけのものなんだが、それでも最近になったら、そんなような観念が呉一郎の頭の中で、次第に一つの焦点に統一されて、余程、正気に近付いて来たらしい。つまり『考えても解らないが、いずれそのうちに解るだろう』というような、一種の諦らめに似た安心が付いて来たらしく見える。……というのは一箇月前に鍬を棄てて、自分の部屋に引込んだ当時は、かなり非道い憂鬱状態に陥っていた。食慾が非常に減退して排泄の具合が悪くなり、体量なぞもかなり減少していたが、その後だんだんと回復して来て、今では涼しくなったせいでもあろうが、旧来もと以上になっている事が、病床日誌にチャンと出ている。だから目下はあのとおり、ステキにい栄養状態で、精神状態もすこぶる明朗になったらしく、アンナにニコニコしている訳なのだ。
 ……そうして昨日きのうまで部屋に閉じ籠もっていた奴が、思い出したようにヒョッコリとあそこへ出て来たのは、そうした意識の秩序の回復が、一段落のところまで落付いたか、それとも栄養が良くなったために再び頭をもたげて来た性慾の刺戟が、以前の変態にまで高潮して来たので、又もあの鍬を振廻しに出て来たのか……という事は、もう暫く模様を見ていないと、わからないがね……いずれにしても呉一郎の精神状態の回復はここいらで、又、一転機を描くらしい予感が、先刻からシキリに吾輩の頭を襲って来るようだがね。ハッハッハッ」
 私はこんな言葉や笑い声を、耳にはたしかに聞いていた。……窓の下で又も、何やら唄い出している舞踏狂の少女の声と一緒に……けれども眼は一心に大卓子テーブルの燃え上るような緑色を見詰めていた。
……如何なる名探偵が出て来ても探り得ない精神科学応用の犯罪……お前自身に名探偵となって、この事件の真相を探って見よ……
 と云った正木博士の言葉を頭の中で繰返しつつ……。その時に正木博士の言葉が途絶とだえて、何やらカチッという音がした。ビクリとして頭を上げてみると、それは正木博士の頭の上に掛っている電気時計の針が、十時五十六分から七分へ移った音であった。
「……どうだ。愉快な話だろう。この一例を見ても、今までの精神病学者の治療法が、全然、見当違いをやっていた事が解るだろう。同時に、吾輩のこの解放治療の実験が、如何に素晴らしい、学界空前の……」
「ちょっと待って下さい」
 私は右手を揚げて、滝のようにほとばしり出て来る正木博士の言葉をさえぎり止めた。得意に輝く骸骨ソックリの顔を仰ぎつつ、廻転椅子の上に座り直して問うた。
「……ちょっと……待って下さい。……しかし……先生の、そうした治療の実験は、純粋な学術研究の目的でなさるのですか、それとも……」
「……無論……むろん純粋の学術研究を目的としているんだよ。精神病の治療というものはこうするものだ……という事を、あまねく全世界のヘゲタレ学者たちに……」
「マ……待って下さい。そうじゃありません。僕がお尋ねしているのは……」
「……何だ……」
 正木博士は不満そうに眼の球をへこました。肩を一つ揺り上げて椅子の背にり返った。
「僕がお尋ねしようと思っている事は、こうなんです。呉一郎を発狂さした暗示が、この絵巻物だって事は、まだ誰も知らないでいるんですね」
「……ア。その話はまだ、しなかったっけね。無論、誰も知ってやしないよ。司法当局の奴等だって知らないも同然だよ。テンデ問題にしていないんだからね」
 正木博士は又、ツルリと顔を撫でまわして、鼻眼鏡をかけ直した。
「最前からも話した通り、この絵巻物は、呉一郎の伯母の八代子が、土蔵の二階から取って来て隠していたのを、若林が睨んで捲上げて、そのまんま吾輩に引渡したものだから、若林と吾輩以外にこの絵を見た者は君だけだ。裁判所や警察の連中は、八代子が現場の机の上の、この絵巻物が置いてあった所に、自分の鼻紙を拡げておいたので、見事に一パイ喰わされている上に『迷宮破りの若林博士が、事件の真相の説明に窮して迷信をかつぎ出した』と云って笑っているそうだ。たしかその当時の新聞の編輯余録といったような欄の中に、素破抜すっぱぬいてあったと思うが……かえって仙五郎爺から巻物の話を聞いた村の者が、色んな事を云っているそうだ。一郎が夢のおつげを受けて石切場に行ったら、巻物が高岩の蔭に置いてあったんだとか、その時がちょうど日暮狭暗ひぐれさぐれ逢魔おうまときだったとか云ってね……又、そんな迷信を担がない連中は、誰かモヨ子に惚れ込んでいた奴が、かなわぬ恋の意趣晴らしに、古い云い伝えから思い付いて、一郎にコンナ悪戯いたずらをしかけたのが、マンマと首尾よく図に当ったんだとか何とか……」
「アッ……」
 と私は突然に叫んで立上りかけた。大卓子テーブルの端に両手を突張って、穴の明くほど正木博士の顔を見た。正木博士も私の叫び声に驚いたらしく、吐きかけた煙を頬張ったまま、眼を丸くした。
 私の呼吸と胸の動悸が、見る見る息苦しく高まって来た。
……わかった。わかった……正木博士が、何気もなく云ったらしい一言が、事件の真相らしいものをチラリと私の頭にひらめかしてくれた……。
……私という人間は、一件記録の上には出ていないけれども、やはり呉青秀の血を引いた、呉一郎と瓜二つの青年に違いないのだ。
……二人の博士は、千世子が一人しか子を生んでいないという屍体解剖の結果によって、そんな事実の存在を否認しているようだけれども、事によると、それは私をこの実験にかけるための一つのトリックに過ぎないかも知れない。真実の私の過去は、やはり呉一郎と双生児ふたごで、幼い時に何かの理由で別れ別れになっていたその片割かたわれかも知れないのだ。
……それが人知れず故郷に帰って来て、人知れずモヨ子を恋していた。あるいは呉一郎と瓜二つなのを利用して、真物ほんものの呉一郎に覚られないように絡み合って、奇抜巧妙な二人一役を演じながら所在ありかくらましていたものかも知れない。そうしてそのうちに、呉家にまつわる不思議な因縁話を聞き知って、呉一郎の結婚式の前日に、こんな残虐を試みた。……それがこの私であったのだ。
……けれども、そうした私自身も、呉青秀の心理遺伝を受け継いでいたために呉一郎と同時にか、又は相前後して、同じような発狂をしたために、真物ほんものの呉一郎と入れ違ってしまったのだ。ドッチがドウなのか本人同志にも解らなくなってしまったのだ。
……正木、若林の両博士は、それを見別けようとしているのだ。被害者と加害者を鑑別しようとして苦心しているのだ。
……そうだ。そう考えれば疑問の根本が立派に解ける。そうだ。それに違いない。それに違いない。それ以外に一切の不思議の解決方法がないではないか。
……ああ。私はやはりこの事件の神秘の正体であったか。……ああこの私が……。
 一瞬間にコンナ事を考え廻らしつつおびえ、わなないている私の顔を、椅子の上にり返った正木博士は依然として微笑を含みつつ眺めていた。そうして私の呼吸いきしずまりかけると間もなく、わざとらしい驚いた顔付きで問うた。
「……どうしたんだい。急に立上ったりして……」
 私はあえぎながら答えた。
「……もし僕が……呉一郎に……この絵巻物を……見せた本人……」
「アッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッハッ……」
 正木博士は、私の云う事を半分聞かぬうちに大袈裟おおげさに吹き出してりかえった。
「ハッハッハッハッ。君が加害者で、呉一郎が被害者か。これあいい。探偵小説なら古今の名トリックだが、多分そんな事になるだろうと思っていた。アッハッハッハッハッ。しかしだね。事実はその正反対だったら、どうなるかね、この事件は……」
「……エッ……正反対?……」
「ハッハッハッ。何も君が、そんなに遠慮して、加害者の憎まれ役を引受けなくとも、いいじゃないか。どうせ君と呉一郎とは瓜二つなんだから、御都合によっては吾輩の小手先一つで、加害者側へでも、被害者側へでも、どちらへでも廻せるんだがどうだい。どうせ同じ事なら、被害者側へまわった方が、この事件では得になるんだがドウダイ。アハアハアハアハ……」
 私はドシンと椅子に腰をおろした。又しても何が何やらわからなくなったまま……。
「……どうも、そう一々泡を喰っちゃ困るぜ。……だから最初っから注意しておいたじゃないか。この事件は、よほど頭をしっかりさせて研究しないと、途中で飛んでもない錯覚に陥るおそれがあると云って警告しといたじゃないか……吾輩は姪の浜、浦山の祭神、うず権現ごんげん御前おんまえにかけて誓う。君はそんな浅薄な意味で、この事件に関係しているのじゃない。もっと重大深刻な意味で……」
「……でも……でも……それ以上に重大深刻な意味で関係が……」
「……出来ないと云うんだろう。ところが出来るから奇妙なんだ。クドイようだがモウ一度断っておく。吾々が住んでいる、この世界は現代の所謂いわゆる、唯物科学の原則ばかりで支配されているんじゃないんだよ。同時に唯心科学……即ち精神科学の原則によって何から何まで支配されている事を肝に銘じて記憶していないと、この事件の真相はわからないよ。……早い話が純客観式唯物科学の眼で見るとこの世界は長さと、幅と、高さの三つを掛け合わせた三次元の世界に過ぎないんだが、純主観式精神科学の感ずる世界は、その上に更に『認識』もしくは『時間』を掛け合わせた四次元もしくは五次元の世界が現在吾々の住んでいる世界なんだ。その高次元の精神科学の世界で行われている法則は、唯物世界の法則とは全然正反対と云ってもいい位違うのだ。その不可思議な法則の活躍状態は、既に今まで君がこの部屋で見たり聞いたりして来た話だけでも、十分に察しられるだろう。……その中からこの事件の解決の鍵を探し出せばいいのだ。……否……この事件の鍵は、もうトックの昔に、君のポケットに落ち込んでいる筈だがね。ツイ今しがたたしかにその鍵を君の手に渡した事を、吾輩はハッキリと記憶しているのだがね」
「……そ……それはドンナ鍵……」
「離魂病の話さ」
「離魂病……離魂病がどうしたんですか」
「ハハハハ。まだわからないと見えるね」
「……わ……わかりません」
「……いいかい……この事件で差当り一番不思議に思えるところは、君とソックリの人間がモウ一人居る事であろう。そのモウ一人の君自身のお蔭で、スッカリ事件がコグラカッてしまっている訳だろう。しかも、それは君の離魂病のせいだっていう事をツイ今しがた、説明して聞かせたばかりのところじゃないか」
「だって……だって……そんな不思議な……馬鹿馬鹿しい事が……」
「ハッハッハッ。まだ離魂病が信じられないと見えるね。まあまあ無理もないさ。誰でも自分の頭が一番、確実たしかだと信じているんだからね。その方が結局、無事でいいし、お蔭で話の筋道もステキに面白くなって来る訳だから、そう慌てて結論を付ける必要もないだろうよ。呉一郎を発狂さした犯人はあらゆる人間の中の一人か、又は呉一郎自身か、それとも又、絵巻物が独り手に弥勒みろく様のお像から脱け出して活躍したものか……というこの三つを前提にしてユックリと考えた方がいい。そうして冷静な気持で君の過去を思い出した方が早道だ」
「……しかし……そんな神秘的な……不思議な事実が……」
 ここまで云いかけると私は、自分自身の考えにえられなくなって言葉を切った。
「だから慌てるなと云うんだよ。今に神秘でも何でもなくなるから……」
「……でも……今っていつです」
「いつだか解らないが、きょうは駄目だよ。吾輩は君の記憶力を回復すべく、先刻さっきからの話のうちに、かなり強烈な精神科学の実験を君に対して、かけ通しにして来たんだけれども、君はどうしても過去の記憶を思い出さないのだから仕方がない。きょうの実験はこれで中止だ。つまり君の頭が、そこまで回復していないのだから、この上、実験を続けても無駄だと吾輩は……」
「しかし……それじゃ最前のお約束に……」
「約束はしたが仕方がない。お互いに無駄骨を折るよりも、今すこし君に休養してもらってから、今一度実験をやり直す事に……」
「待って下さい……チョット……それじゃ先生は、その神秘の正体をスッカリ御存じなんですね」
「そうさ。知っているからこそ、君と関係があると云うんじゃないか」
「……じゃ……それをスッカリ僕に話して下さい」
「……イケナイ……」
 正木博士は、こうキッパリと云い切ると、葉巻を横ッチョにくわえ直した。腕を組んでり返りつつ冷やかに笑った。すこしムッとしている私の顔を見ながら……。
「……何故って考えて見給え。この事件の神秘の正体を明かにするためには、是非とも呉一郎を発狂させた犯人の名前を明かにする必要があるだろう。ところがその犯人の名前は、君自身か、呉一郎か、どちらかが過去の記憶を回復すると同時に思い出したのでなければ、真実ほんものとは云えないだろう。たとい法医学者の若林博士が、如何に動かすべからざる確証を掴んでいるにしても、又は吾輩自身がその犯人と、犯行の現状を確認しているにしても、君か、もしくは呉一郎が万一過去の記憶を回復した際に、その犯人を否定してしまえば何にもならないじゃないか。姪の浜の石切場で、私に絵巻物を見せてくれた人はこの人じゃありませんと云い張れば、それっ切りの千秋楽じゃないか。そこがこの事件の普通の犯罪事件と違うところだからね。……だから吾輩は、そんな無価値な事を饒舌しゃべるのは御免だ」
 私は、われ知らず長大息させられた。自分の判断力が見る見る迷妄に陥って行くのを自覚しながら……。
「……まだ解らないかい。……それじゃ、もう一つ深刻な事実を説明してやろう。いいかね。……この事件で、是非ともその不可思議な犯人の正体を突止めなくちゃならぬ当面の責任者は、誰が何といっても法医学者たる若林だろう。仮令たとい、警察当局の方では、単なる呉一郎の発狂から起った事件として放棄しているにしても、精神科学応用の犯罪を研究する学者として、ここまで深入りして来た以上カンジンカナメの点をったらかしたまま、後へ退く事は、学者としての良心が第一、許さないだろう。つまり若林の立場としては、いやでもおうでも、この事件の真犯人を有耶無耶うやむやに葬り去る事が、どうしても出来ない立場におるのだ。……しかるにだ。……一方に吾輩の立場はどうかというと、必ずしもそうでない。そうした若林の探偵的な努力、苦心に対しては助手ほどの責任もない。単なる私的の相談役の仕事をして来たに過ぎないのだ。……いいかい……それよりも吾輩の専門上、当然の責任として、全力を挙げて来たのは君自身、もしくは呉一郎の『頭の回復』であったんだが、併しそれにしてもその犯人の名前とか、顔とかを是非とも思い出させなければならぬ責任とか、必要とかいうものは全然こっちにはないのだ。……というのは精神病学者としての吾輩の立場から見ると、発病の原因と経過さえ判明すれば、発狂さした犯人の名前は、目下不明と書いておいても、研究発表上、何等の差支さしつかえがないのだからね。……呉一郎の発病の状態と、この絵巻物との関係は、心理遺伝学的な立場から立派に説明が付く事だし、学術上の発表としての価値は、もう十分、十二分に備わっている訳だからね。それを若林が躍気やっきになって、是非とも犯人を探し出してもらいたいと云ってヤイヤイ騒ぎ立てるために、ツイこんな事になってしまったんだが……とにかく吾輩は、そんな訳で、犯人なぞに用はないんだ……ハハン……」
 こう云い放った正木博士は、悠然と椅子の上に両肱を張った。呆れている私を眼下に見下しながら葉巻の煙を輪に吹いた。
 私は、その如何にも学者然たる冷やかな風付ふうつきに、云い知れぬ反感をそそられない訳に行かなかった。そればかりでなく、その人を愚弄しておいて突放すような態度に対して、たまらない不愉快を感じ初めたので、私は思わず座り直して咳払いをした。
「……そ……それあしからんじゃないですか先生。……いくら学者だってアンマリ冷淡過ぎはしませんか」
「冷淡過ぎたって仕方がない。よしんば吾輩が大負けに負けて、若林の加勢をして、その犯人を探し出したにしたところが、そいつをフン縛る法律が在るか無いか……」
 私は眼の中が何となく熱くなって来るのを感じた。云いたい事を一ペンに云ってしまおうとして、云えなくなったような気がして……。
「……法律……法律なんてものは、どうでもいいんです。……その犯人を突止めて八裂やつざきにでもしなければ、浮かばれない人間がイクラでもいるじゃないですか。八代子だって、モヨ子だって、又あの呉一郎だって……僕も連累まきぞえを喰っているんなら僕もです。……何の罪もとがも無いのに、殺される以上の残虐を受けているじゃないですか」
「……フン……それで……」
 と色も味もなく云い棄てたまま正木博士は、自分の吹いた煙の行衛ゆくえをウットリと見送った。私は自分の魂を吐き出すような気持で云った。
「……それで、僕の魂がもし、この身体からだを脱け出せるものなら、僕は今でも、或る一人に乗り移ってその人間の記憶に残っている犯人の名前を怒鳴ってやります。白昼の大道で、公表してやります。死ぬが死ぬまでその犯人に跟随くっついて行って、殺す以上の復讐をしてやります」
「……フーン。左様さよう願えたら面白いがね。しかし誰に乗り移ろうと云うんだい」
「誰って……わかり切ってるじゃありませんか。犯人の顔を直接に見知っている呉一郎がいるじゃありませんか」
「ハッハッハッ。こいつは面白いな、遠慮なく乗り移るがいい。しかしマンマと首尾よく乗り移れたらお手拍子喝采どころじゃない。吾輩の精神科学の研究は全部遣り直しだよ。魂が『乗り移る』とか『取りく』とか『生れ変る』とかいう事実は、その本人の『心理遺伝』の作用以外の何ものでもないというのが、吾輩の学説の中でも、最重要な一箇条になっているんだからね。……フン……」
「それは解っています。しかし仮令たとい、先生の方で犯人に用がなくとも、若林先生の方では用があるでしょう。若林先生が、貴方にこの調査書類を引渡されたのは、その最後の一点を、呉一郎の過去の記憶の中から取出して頂きたいばっかりが目的じゃなかったですか」
「それはそうだ。百も承知だ。今朝けさから吾輩と若林が、君をこの部屋に引張り込んで、色々と試みた実験も、帰するところ、同じ目的一つのためにほかならなかったんだが……しかし吾輩は最早もう、これ以上にこの事件の真相を突込んで行きたくないのだ。その理由は、犯人の名前が判明わかると同時にわかるんだがね」
 正木博士は又も長々と煙を吹き上げて空嘯そらうそぶいた。私はその顎を睨みつつ腕を組んだ。
「それじゃ、僕が勝手にこの犯人を探し出すのは、お差支えありませんね」
「それは無論、君の自由だ。御随意に遊ばせだが……」
「ありがとう御座います。それじゃ済みませんが、僕を此病院ここから解放して下さい。ちょっと出かけて来たいのですから……」
 と云ううちに私は立上って、卓子テーブルの端に両手をいてお辞儀をした。しかし正木博士は平気でいた。お辞儀を返そうともしないまま悠々と椅子に踏反ふんぞり返って、葉巻の煙を思い切り高々と吹上げた。
「出かけるって、どこへ出かけるんだい」
「どこだか、まだ考えていませんけど……帰って来る迄には事件の真相を根こそげえぐり付けてお眼にかけます」
「フフン。抉り付けて胆をつぶすなよ」
「……エッ……」
「この絵巻物の神秘は、お互いに破らない方がよかろうぜ」
「……………」

 私は思わず立竦たちすくんだ。そういう正木博士の態度の中には、私を押え付けて動かさない或る力が満ち満ちていた。……曠古こうこの大事業……空前の強敵……絶後の怪事件……そんなものに取巻かれて、嘘か本当か自殺の決心までさせられながら、それをかたぱしから茶化ちゃかしてしまっている。その物凄い度胸の力……その力に押え付けられるように私は又、ソロソロと椅子に腰をかけた。そうして改めてその力に反抗するように居住居いずまいを正した。
「……よござんす……それじゃ僕は出かけますまい。その代りこの犯人を発見するまで、僕はここを動きません。僕の頭が回復して、この絵巻物の神秘を見破り得るまで、この椅子を離れませんが……いいですか先生……」
 正木博士は返事をしなかった。そうして何と思ったか、急に腰を落して、グズグズと椅子の中にかがまり込み初めた。短かくなった葉巻を灰落しの達磨だるまの口へ突込んで、背中を丸めて、卓子テーブルに頬杖を突いたが、その時にジロリと私を見た狡猾ずるそうな眼付と、鼻の横に浮かんだ小さな冷笑と、一文字に結んだ唇の奥に、何かしら重大な秘密を隠しているらしい気振けぶりを見せた。
 私は思わず身体からだを乗り出した。身体中の皮膚が火照ほてるほどの異状な昂奮に包まれてしまった。
「いいですか先生……その代りに、万一、僕がこの犯人を発見し得たら、僕が勝手な時に、勝手な処でその名前を発表しますよ。そうして呉一郎を初め、モヨ子、八代子、千世子の仇敵かたきを取りますよ。そのためには、僕がドンな眼に会おうとも、又、犯人が如何なる人間であろうとも驚きませんが……いいですか、先生……。その残忍非道な人間のために、こんな狂人きちがい地獄に陥れられて、一生涯、飼い殺しにされているなんて……僕にはトテモ我慢が出来ないのですから……」
「ウン……まあやって見るさ」
 正木博士は如何にも気のなさそうにこう云った。そうしてアヤツリ人形のようにピッタリと眼を閉じた、一種異様な冷笑を鼻の横に残して……。
 私は今一度座り直した。自分の無力を眼の前に自覚させられたような気がして、思わずカーッとなった。
「……いいですか先生。僕が自分で考えてみますよ。……まず仮りにこの犯人が僕でないとすればですね。まさか村の者の云うように、この絵巻物がひとり手に弥勒様の仏像から抜け出して、呉一郎の手に落ちるような事は、有り得る筈がないでしょう」
「……ウフン……」
「……又……伯母の八代子と、母の千世子も、呉一郎をこの上もなく愛して、便たよすがりにしている女ですから、こんな恐ろしい云い伝えのある絵巻物を呉一郎に見せる筈はありますまい。雇人やといにんの仙五郎というじじいも、そんな事をする人間ではないようです。……お寺の坊さんは又、呉家の幸福を祈るために呉家に仕えているようなものですから、巻物があると判ったらかえって隠す位でしょう。そうとすれば、他にまだ誰にも気付かれていない、意外な人間の中に、嫌疑者がある筈です」
「……ウフン。自然、そういう事になる訳だね」
 正木博士は変なねばっこい口調で、不承不承にこう云った。それからチョット眼をいて私を見た。その眼の色は、鼻の横の微笑とは無関係に、いかにも青白く残忍であった……と思う間もなく又、もとの通りにピッタリと閉じた。
 私は一層き込んだ。
「若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者について色々と心当りが、調べてあるんですね」
「……ないようだ」
「……エッ……一つも……」
「……ウ……ウン……」
「……じゃ……その他の事は、みんな念入りに調べてあるんですか」
「……ウ……ウン……」
「……何故ですか……それは……」
「……ウ……ウン……」
 正木博士は微笑を含んだまま、ウトウトと眠りかけているようである。その顔を見詰めたまま私は唖然となった。
「……そ……そ……それは怪訝おかしいじゃないですか先生……犯人の事をお留守にして、他の事ばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃないですか。ねえ先生……」
「……………」
「……ねえ先生……たとい悪戯いたずらにしろ何にしろ、これ程に残忍な……そうしてコンナにまで非人道的に巧妙な犯罪が、ほかに在り得ましょうか。……本人が発狂しなければ無論、罪にはならないし、万一発狂すれば何もかも解らなくなる。又、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもとより、道徳上の罪までも胡魔化ごまかせるかも知れないというのですから、これ位アクドイ、残酷な悪戯いたずらは又と在るまいと思われるじゃないですか先生……」
「……ウ……フン……」
「その根本問題にちっとも触れないで調査した書類を、先生に引渡すのは、どう考えても怪訝おかしいじゃないですか」
「……ウ……フン。……おかしいね……」
「……この事件の真犯人を明かにするには、是非とも呉一郎か、僕かの頭を回復さして、犯人を指示ゆびささせるより他に方法はないのでしょうか……先生みたような偉い方が二人も掛り切っておられながら……」
「……ないよ……」
 正木博士は乞食を断るように、面倒臭そうな口ぶりで答えた。サモサモ眠たそうに眼を閉じたまま……。私はグイと唾液つば嚥込のみこんだ。
「……一体、この絵巻物を呉一郎に見せた目的というのは何でしょうか」
「……ウ……ウン……」
「ほんとうの心から出た親切か……又は悪戯いたずらか……恋の遺恨か……何かののろいか……それとも……それとも……」
 私はギョッとした。呼吸が絞め上げられるように苦しくなった。胸を波打たせつつ正木博士の顔を凝視した。
 博士の鼻の横の微笑がスッと消えた。……と同時に、眼をパッチリと開いて私を見た。心持ち蒼い顔に、黒い瞳を凝然じっと据えたまま静かに部屋の入口を振返った……が、やがて又おもむろに私の方へ向き直ると、やおら椅子の上に居住居いずまいを正した。
 その黒いは博士独特の鋭い光りを失って、何ともいえない柔らかい静けさを帯びていた。その態度にも今までの横着な、図々しい感じが全くなくなっていた。見る見る一種の神々しい気品を帯びて来ると同時に、何ともいえず淋しい、悲しい心持を肩のあたりに見せている。その態度を見ているうちに私の呼吸がだんだんと静まって来た。そうして吾にもあらず眼を伏せて、頭をれてしまったのであった。
「……犯人は俺だよ……」
 と博士は空洞ほらあなの中でつぶやくような声で云った。
 私は思わずビクリとして顔を上げた。弱々しい、物悲しい微笑をただよわしている博士の顔を仰いだが又、ハッと眼を伏せた。
 ……私の眼の前が灰色に暗くなって来た。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ初めたような……。
 私はヒッソリと眼を閉じた。わななく指を額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍りまわっているのに、額は冷めたく濡れている。その耳元に正木博士の悄然しょうぜんたる声が響く。
「……君がそこまで判断力を回復しているならば止むを得ない。一切を打明けよう」
「……………」
「何を隠そう。吾輩はうから覚悟を決めていたのだ。この調査書類の内容の全部が、吾輩をこの事件の犯人として指していることを、最初から明かに認めていながら、知らぬ顔をし通して来たのだ」
「……………」
「この調査書類の内容は一字一句、吾輩を指して『お前だお前だ。お前以外にこの犯人はない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方のうがたで起った惨劇は、高等な常識を持っている思慮周密な人間が、あらゆる犯跡を掻き消しつつ、事件が迷宮に這入るように、故意に呉一郎が帰省した時を選んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎の夢中遊行では断じてない……と……」
 正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。私は又もビクリとさせられたが、それでも顔を上げる事が出来なかった。正木博士が吐き出す一句一句の重大さに、しかかられたようになって……。
「……その犯行の目的というのは外でもない。呉一郎を母親の千世子から切離して、モヨ子と接近させるべく、伯母の手によって姪の浜へ連れて来させるにある……モヨ子は姪の浜小町と唄われている程の美人だから、とやかく思っている者が、その界隈かいわいに多いにきまっているし、同時に、絵巻物の本来の所在地で、大部分の住民は多小に拘わらず、それに関する伝説を知っている。一方に呉一郎とモヨ子の縁組は、九十九パーセントまではずれる気遣いがないのだから、この実験を試みるにも、又は、その跡をくらますにも、この姪の浜以上に適当な処はない訳である」
「……………」
「……だから第二回の姪の浜事件というのも、決して神秘的な出来事ではない。直方事件以来の計劃通り、或る人間が、石切場附近で呉一郎の帰りを待伏せて、絵巻物を渡したにきまっている……すなわちこの直方と、姪の浜の二つの事件は、或る一つの目的のために、同一の人間の頭脳によって計劃されたものである。その人間は、この絵巻物に関する伝説に対して、非常に高等な理解と、興味とをあわせ持っている者で、これを実地に試験すべく最適当した時機……すなわち被害者、呉一郎が或る大きな幸福に対する期待に充たされている最高潮のところを狙って、その完全な発狂を予期しつつ、この曠古こうこの学術実験を行った……と云えば、吾輩より以外ほかに誰があるか……」
「ありますッ……」
 私は突然に椅子を蹴って立上った。顔が火のようにカ――ッと充血した。全身の骨と筋肉が、力に満ち満ちておののいた。愕然としている正木博士の鼻眼鏡を睨み付けた。
「……ワ……ワ……若林……」
「馬鹿ッ……」
 という大喝が木魂こだま返しに正木博士の口からほとばしり出た。同時に黒い、くぼんだ眼でジリジリと私を睨み据えた。……がその真黒い眼の光りの強烈さ……罪人を見下す神様のような厳粛さ……怒った猛獣かと思われる凄じさ……。怒髪天をくばかりのいきおいであった私は一たまりもなくふるえ上った。ヨロヨロと背後うしろによろめく間もなくドタリと椅子に尻餅を突いた。その恐ろしい瞳に、自分の眼を吸い付けられたまま……。
「……馬鹿ッ……」
 私は左右の耳朶みみたぼに火が附いたように感じつつ、ガックリと低頭うなだれた。
「……無考むかんがえにも程がある……」
 その声は私の頭の上から大磐石だいばんじゃくのようにしかかって来た。しかも今までのタヨリない、淋しい態度とは打って変って、父親の言葉かと思われるほどの威厳と慈悲とが、その底にこもっていた。
 私は又、何故ともなく胸が一パイになりかけて来た。正木博士の筋ばった両手の指が机の端を押え付けて、一句一句に力を入れて行くのを見詰めながら……。
「……これ程の恐ろしい実験を、ここまで突込んでり得る者が、吾輩でなければ、外には今一人しかいないであろうという事は誰でも考え得る事じゃないか。又それがわかればその人間の名前が、ウッカリ歯から外へ出されない事も、直ぐに考え付く筈じゃないか。……何という軽率さだ」
「……………」
いわんや本人は既に……一切を自白している」
「……エッ……エッ……」
 私は愕然として顔を上げた。
 見ると正木博士は、青いメリンスの風呂敷に包まれた調査書類を、右手でシッカリと押え付けながら、冷然として唇を噛んでいた。それは何の意味か知らず、或る神聖な言葉を発する前提と思われる。その緊張した態度に打たれて、私は又も頭を垂れてしまった。
「その自白の記録が、この調査書類である。これは本人が、自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したものだ」
 ……スラリ……と冷めたいものが一筋、私の背中を走り降りて行った。
「……君はまだ犯罪の隠蔽心理とか、自白心理とかいうものが、ドンナものだか詳しくは知るまいが……よく聞いておき給え。人間の智慧が進むに連れて……又は社会機構が、複雑過敏になって来るに連れて、こんな恐ろしい犯罪心理が、有触ありふれたものと成って来るに、きまっているんだから……よろしいか……」
「……………」
「……この調査書が如何に恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠蔽心理と自白心理の二つが、如何に深刻な、眩惑的な、水も洩らさぬ魔力をもって吾輩に、この罪を引受るべく迫って来たか……という理由を、これから説明するから……」
 私は、私の全身の筋肉が、みるみる冷え固って行くのを感じた。両眼の視線は又も、眼の前に横たわる緑色の羅紗らしゃに吸い寄せられて、動かす事が出来なくなった。
 その時に正木博士は軽い咳払いを一つした。
「……仮りに或る人間が一つの、罪を犯したとすると、その罪は、如何に完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残っている。罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消す事が出来ないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、止むを得ないので、誰でも軽蔑する位よく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照してみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは、常に、五分もすきのない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れみちのない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際まぎわまで、人知れず犯人に附纏つきまとって来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道は唯二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言ってもい位、その恐ろしさが徹底している。世俗に所謂いわゆる、『良心の苛責』なるものは、畢竟ひっきょうするところこうした自分の記憶から受ける脅迫観念にほかならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺してしまうより外に方法はない……という事になるのだ。
 ……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいい程、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段が又、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の『罪の姿』を『記憶の鏡』と一緒に密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、生憎あいにくな事に、この『記憶の鏡』という代物しろものは、周囲を暗くすればする程、アリアリと輝き出して来るもので、見まいとすればする程、見たくてたまらないという奇怪極まる反逆的な作用と、これに伴う底知れぬ魅力とを持っているものなのだ。しかもそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなって来るので、死物狂いに我慢をした揚句あげく、やり切れなくなってチラリとその記憶の鏡を振返る。そうするとその鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれる事になる……こんな事が度重なるうちに、とうとう遣り切れなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。『犯人は俺だ。この罪の姿を見ろ』……と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。
 ……又は、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この苛責を免れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振返ると、鏡の中の『自分の罪の姿』も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと『自分の罪の姿』も自分を見て、あわれむように微苦笑している。それを見ると又、いくらか気が落付いて来る……これが吾輩の所謂いわゆる自白心理だ……いいかい……。
 ……それから今一つ、やはり極く頭のいい……地位とか信用とかを持っている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯に置きたいと考えたとする。その方法のうちでも最も理想的なものの一つとして今云った自白心理を応用したものがある。即ち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠をことごとく自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬ事が、云わず語らずの中にわかる……という紙一枚のところまで切詰きりつめる。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破し得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手の心理に、人情の自然と、論理の焦点の見損ないから生ずる極めて微細な……実は『無限大』と『れい』ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どうしても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、殆ど絶対の安全地帯に立つことが出来る。そうなったら最早もうめたものである。一旦、この錯覚が成立すると、容易に旧態もとに戻すことが出来ない。事実を明らかにすればする程、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人である事を主張すればする程、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚に引っかかる度合いは、相手の頭が明晰であればある程、深いのだ……いいかい……。
 ……この『犯罪自白心理』の最も深刻なものと『犯罪隠蔽心理』の最も高等なものとが、一緒になって現出したのが、この調査書類なのだ。正に、これこそ、吾輩の遺言以上の、前代未聞の犯罪学研究資料であろうと思われるのだ……いいかい……そうして更に……」
 ここまで云って言葉を切ったと思うと、正木博士は不意に身軽く、如何にも自由そうに廻転椅子から飛降りた。自分の考えを踏み締めるように両手を背後うしろに組んで、一足一足に力を入れて、大卓子テーブルと大暖炉ストーブの間の狭いリノリウムの上を往復し初めた。
 私は矢張やっぱもとの通りに、廻転椅子の中に小さくなって、眼の前の緑色の羅紗らしゃの平面を凝視していた。そのまぶしい緑色の中に、ツイ今しがた発見した黒い、留針ピンの頭ほどの焼けげが、だんだんと小さな黒ん坊の顔に見えて来る……大きな口をいてゲラゲラ笑っているような……それを一心に凝視していた。
「そうして更に恐るべき事には、この書類に現われている自白と、犯罪の隠蔽手段は、一分一厘の隙間すきまもなく吾輩をシッカリと押え付けておるのだ。……即ち、もしもこの書類が公表されるか、又は司直の手に渡るかした暁には、如何にぼんクラな司法官でも、直ぐに吾輩を嫌疑者として挙げずにはおられないように出来ているのだ。……のみならず……万一そうして吾輩が法廷に立つような事があった場合には、仮令たとい文殊もんじゅの智慧、富楼那フルナの弁が吾輩に在りといえども、一言も弁解が出来ないように、この調査書は仕掛けてあるのだ。そのカラクリ仕掛の恐ろしい内容を今から説明する……いいかい……吾輩がこの戦慄すべき学術実験の張本人として名乗りを上げずにおられなくなった、その理由を説明するんだよ」
 こう云ううちに正木博士は大卓子テーブルの北の端にピタリと立止まった。両腕を縛られているかのようにシッカリと背後うしろに組んだまま、私の方を振返ってニヤニヤと冷笑した。その瞬間に、その鼻眼鏡の二つの硝子ガラス玉が、南側の窓から射込む青空の光線をマトモに受けて、真白くき出された義歯いればと共に、気味悪くギラギラピカピカと光った。それを見ると私は思わず視線をらして、眼の前の小さな焼焦やけこげを見たが、その中から覗いていた黒ん坊の顔はもうアトカタもなく消え失せていた……と同時に私の頬や、首筋や、横腹あたりが、ザワザワザワと粟立あわだって来るのを感じた。

 正木博士はそのまま、黙って北側の窓の処まで歩いて行った。そこでチョイト外を覗くと直ぐに大卓子テーブルの前の方へ引返して来たが、その態度は、今までよりも又ズットくだけた調子になっていた。これ程の大事件を依然として馬鹿にし切って、もてあそんでいるような、なめらかな、若々しい声で言葉を続けた。
「……そこでだ。いいかい。まず君が裁判長の頭になって、この前代未聞の精神科学応用の犯罪事件を、厳正、公平に審理してみたまえ。吾輩が検事、兼、被告人という一人二役を兼ねた立場になってこの事件の最後の嫌疑者、即ち『W』と『M』の行動に関する一切の秘密を、知っている限り摘発すると同時に、告白するから……君は結局、双方の弁護士であると同時に裁判長だ。同時に精神科学の原理原則に精通した名探偵の立場に立ってもいい……いいかい……」
 私の直ぐ傍に立佇たちどまった正木博士は、リノリウムの床の上を、北側から南側へコツリコツリと往復しながら咳一咳がいいちがいした。
「……まず……呉一郎が、その絵巻物を見せられて、精神病的の発作に陥れられた当時の事から話すと……その大正十五年の四月の二十五日……呉一郎とモヨ子との結婚式の前日には『W』も『M』も姪の浜から程遠からぬこの福岡市内に確かに居た。……Mはまだ九州大学に着任匆々で、下宿が見付からなかったために、博多駅前の蓬莱館ほうらいかんという汽車待合兼業の旅宿はたごに泊っていたが、この蓬莱館というのはかなりの大きなうちで、部屋の数が多い上に、客の出入りがナカナカ烈しい。おまけに博多一流で客待遇あしらいが乱暴と来ているから、金払いをキチンキチンとして飯をチャンチャンと喰ってさえおれば、半日や一晩いなくたって、気にも止めてくれないという、現場不在証明アリバイ胡魔化ごまかしには持って来いの場所だ。……ところでこれに対するWはと見ると、いつも九大医学部の法医学教授室に立てこもって勉強ばかりしている。仕事の忙がしい時は内側から鍵をかけていて、一切の用事は電話で弁ずる。鍵穴がふさがっている時は、決して外からノックしないのが、法医学部関係者の規則みたような習慣になっている。こうしたWの神経質は、小使や友人は勿論の事、新聞記者仲間でも評判になっている位だから、これも現場不在証明アリバイの製造には最も便利な習慣だ。
 ……サア又、一方に……呉一郎が、結婚式の前日に出席する筈になっていたという、福岡高等学校の英語演説会の日取や、時刻は、新聞に気を付けておればキットわかる。呉一郎が軌道に乗らずに歩いて帰るという習慣も、著しい習慣だから、前以て調査しておれば直ぐに気が付く……そこで石切場に働いている石切男いしやの一家族に、何かしら検出の困難な毒物を喰わせて、その日を中心にした二三日か一週間も休ませて、そのすきに仕事をするという段取りになるのだ。もっともこの姪の浜という処は半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よく虎列剌コレラとか、赤痢せきりとかいう流行病の病源地と認められる事があるので、その手の病原菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時その時の健康の状態によって利かない事があるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛だから、その方の手筈にはすこぶる便利な訳だと思う。とにかく微塵みじんも狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。
 ……次に当日、呉一郎が福岡市の出外ではずれの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田圃たんぼに挟まれた国道を通らなければならぬ事は、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見ても直ぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かない事にしておれば、顔形や背恰好までもかなり違った人間に見せかける事が出来たであろう。……そこで帰って来る呉一郎を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実は私は貴方あなたの亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだ貴方がお幼少ちいさいうちに、貴方の事に就いて極く秘密のお頼みを受けている事がありました。そのお約束を果すために、斯様かような処でお待ち受けしていたのです……テナ事を云えばイクラ呉一郎が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けられずにはいられないだろう。そこでその絵巻物を勿体らしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家中うちに置いておくと教育上悪いからというので、私に預けておかれたものですが、最早もう明日あしたからは貴方が一軒の御家庭の主人公になられるとうけたまわりましたから、御返却おかえしに参りました。つまり貴方が、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかれなければならぬ品物で、貴方の遠い御先祖に当る或る御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致をこの中に描きあらわして在るのです。これに就ては色々な恐ろしい噂や伝説がまつわり付いている程の御宝物なのですが、それはウッカリした者が見ないように云いらしたのが一種の迷信みたようになってしまったので、実はトテモ素晴らしい名画と名文章なのです。嘘だと思われるならば今、ここで御覧になっても宜しい。その上で御不用だったら今一度、私が御預りしても構いません。あすこの高い岩の蔭なら、誰も来はしないでしょう……と云ったかどうか知らないが、吾輩だったら、そんな風に云いまわして好奇心をそそるのが一番だと思うね。果せるかな、呉一郎は美事に蹄係わなに引っかかった。岩の蔭で夢中になって絵巻物を繰り展げているうちに、スラリと姿を消してしまうくらい何でもない芸当であったろう……いいかね……。
 ……それから次にその二年前のこと……すなわち大正十三年の三月二十六日に起った直方のうがた事件に移ると、あの当夜も、WとMは、たしかに福岡市に居たことになっている。……というのはその三月二十六日の前日の二十五日には、久方振りでこの大学の門を潜って、当時、精神病学教授として存命中であった斎藤博士初め、同窓や旧知の先輩、後輩に面会したのち、総長に会って論文を提出して、卒業以来預けておいた銀時計を受取っている。宿はやはり蓬莱館に泊る事にした。またWもその当時から今の春吉はるよし六番町の広い家に、飯爨婆めしたきばあさん一人を相手の独身生活をやっているんだから、日が暮れてからソッと脱け出して、朝方帰って来る位、何でもない仕事だ。つまり二人とも現場不在証明アリバイ胡魔化ごまかすには持って来いの処に居た訳だ。……それかあらぬかその晩の九時頃に一台の新しい箱自動車セダンが、曇り空の暗黒を東にいて福岡を出た。乗っている人物は炭坑成金らしい風采で「ちょうど直方へ連絡する汽車が無くなったところへ、急用が出来たものだから止むを得ない。一つ全速力で直方までってくれ」と云って……」
「……エッ……そ……それじゃあの呉一郎の夢遊病は……」
 正木博士は私の前を通り抜けつつ振り返って冷笑した。
「……ウソさ……真赤な嘘だよ」
「……………」
 私の脳髄の全部が忽ち煽風機せんぷうきのような廻転を初めた。身体からだ自然おのずと傾いて一方に倒れそうになったのを、かろうじて椅子の肘掛けで支え止めた。
「……あんな夢中遊行があったら二度とお眼にかからないよ。……第一、台所の入口の竹の心張棒が落ちた説明からして甚だ明瞭を欠いているじゃないか。いずれ手袋を穿めた手を、戸の間から差し入れて指の股で掴もうと試みたものだろうが、その時に誤って取落した……とでも考えれば説明が付くが……又は難なく無事にはずしておいて、あとで自然に落ちたように見せかけておいた……と考える事も出来るが……しかし、まあいい。イクラ際どいところが抜きにしてあっても、吾輩の説明を聞いておれば一ペンに解るから……。それを吾輩が何故なにゆえに夢中遊行病と断定してしまったかという理由も、同時に判明するんだから……」
 私の脳味噌の中の廻転が次第に静まって、やがてヒッソリと停止した。同時に頭の毛がザワザワザワとし初めたのを奥歯でギュッと噛み締めながら眼を閉じた。
「……裁判長……シッカリしないと駄目だぞ。これから先がいよいよ解らない、恐ろしい事ずくめになって来るんだから……ハハ……」
「……………」
「……そこでだ……次にこの調査書類を、よくよく読み味わって見ると、異様に感ぜられる点が二つある。その一ツはツイ今しがた君が疑ったところで、犯人の捜索方法を、ただ呉一郎の記憶回復後の陳述のみに期待して、その他の捜索方法を全然放棄している事である。……それから今一つは呉一郎の生年月日に就いて特別の注意が払ってある点と……この二つだ。いいかい……」
「……ところでその呉一郎の年齢に就いて、この調査書には一つの新聞記事の切抜を参考として挿入してあるのであるが、その記事に依ると、呉一郎の母親の千世子は、明治三十八年頃に家出をしてから一年ばかりの間、福岡市外水茶屋みずぢゃやの何とかいう、気取った名前の裁縫女塾に通っていたが、その間には子供を生まなかったように見える。……で……もしその頃に生まなかったものとすれば呉一郎が生まれたのは、明治三十九年の後半から、四十年一パイぐらいの間だ……という推測が出来る。……ただし、こんな年齢の推定材料の切抜記事は、常識的に考えると、呉一郎が私生児だから、特に念のために挿入したものと考えられるかも知れぬ。又はその当時の話題になっていたこの『美人後家ごけ殺しの迷宮事件』の真相を、古い色情関係と睨んでいた新聞記者が、そんなネタを探し出した。ところが又その記事の中に、虹野にじのミギワなぞいう呉虹汀くれこうていちなんだ名前が出て来たりしたので、傍々かたがた以てこの調査書の中に取入れたものとも考えられるようでもある。……が……しかし吾輩の眼から見るとそこにモットモット意味深長な、別個の暗示が含まれているように思える。……というのは外でもない。その呉一郎が生まれた年らしく推定される明治四十年の十二月は、この九州帝大の前身たる福岡医科大学が、第一回の卒業生……即ち吾々を生んだ年に当るのだ。……いいかい……」
「……………」
「……ところでこれが又、局外者の眼から見るとチョット根拠の薄弱な、余計な疑いのように見えるかも知れないが実はそうでない。当時の大学生の中に怪しい奴がいた。そいつがこの事件のソモソモの発頭人で、直方事件の下手人も其奴そやつに相違ないという事を、この調査書は云いたくて云い得ずにおるように見える。……これが吾輩の所謂いわゆる、自白心理だ。問うに落ちずして語るに落ちるという千古不磨せんこふまの格言のあらわれだ。呉一郎が生まれた真実の時日と場所を知っているのは、母親の千世子を除いてはWとMの二人きりだからね」
 私は強く肩をユスリ上げた、自分でも意味がわからないままに……。正木博士もその時にチョット沈黙したが、その沈黙は私を無限の谷底に陥れるように深く、私の胸を打った……と思うと正木博士は又、言葉を続けた。
「……そうと気が付いた時に吾輩はゾッとしたよ。おのれと思ったが弁解の余地がない。しかも呉一郎の血液を検査して誰の子かを決定する法医式鑑定法の世界的権威はWの手中に在る」
 正木博士は南側の窓の所で向うむきにハタと立止まった。悄然とうつむいて唾液つばみ込んでいるように見えた。
 私は又もわななき出した片手を額に当てた。湧き起り湧き起りして来る胴ぶるえを押え付け押え付けしながら片手でシッカリと膝頭を掴んでいた。

 正木博士はやがて太い溜息を一つした。あたかも窓の外を見るのを恐れるかのようにクルリとこっちを向いた。……黙って……うつむいて……心の動揺を落付けるかのように、大卓子テーブルを隔ててコトリコトリと私の前を横切って行った。そうして北側の窓の処で今度は直角にむきを換えて、窓側とスレスレに往復し初めたのであったが、その心持ちうつむいた姿は、眩しい窓の前を通り過ぎる度ごとに、チラリチラリとした投影を、私の眼の前の大卓子テーブルの縁にひらめかすのであった。
 正木博士は又も念入りに咳一咳がいいちがいした。
「……今から二十余年前……福岡の県立病院が医科大学に改造されてこの松原に建直たてなおされた当時の事、その大学の第一回の入学生として這入って来た青年の中に、WとMという二人がいた。その中でもWは法医学、Mは精神病学という…いずれもその当時の医学界で発達の十分でない方向を志しつつ、互いに首席を争い続けていたが、Wは元来の結核系統のうちに生れたせいか、その当時の学生のうちでも一二を争う好男子の偉丈夫で、性質は念に念を入れる神経質の実際家……Mはまたその頃から矮躯チビ醜男ぶおとこで、空想家の早飲込みのドチラかといえば天才肌という風に、各自正反対の特徴を持っていた……それが互いにしのぎけずって学業のを争っていたのであった。
 ……しかるに今も云う通りWは法医学、Mは精神病学と、その志す最後の目標は違っていたが、唯一の、その頃はまだソンナ名前すら人が知らなかった精神科学方面の研究に対する二人の興味は、一種の宿命であるかのように一致していた。あるいは二人の頭脳の正反対の特徴の極端と極端とが偶然に一致していたせいかも知れないが……とにかくそのために、特に当時のその方面の権威者、斎藤博士に就いて指導を仰ぐ事になった訳であるが、その中でも又、特に専門の医学と縁の薄い、迷信とか、暗示とかいう問題に対する二人の研究熱は、殆ど沸騰点を突破しているかの観があった。もっともこれは東洋哲学に造詣ぞうけいの深い斎藤先生の指導に影響されたせいでもあるが、その結果、福岡から程遠からぬ所に在るこの有名な、恐ろしい伝説に、二人とも相前後して惹付ひきつけられて行くようになったのは、寧ろ当然の帰結と云うべきであったろう。
 ……今まで一種の敵愾心てきがいしんをもって、どことなく折合いかねていた二人は、この伝説に着眼すると同時に、何もかも忘れて握手してしまった。そうして互いに意見を交換して、この問題に対する研究手段の一般方略をきめた結果、Wは『迷信、伝説の起原と精神異状』といったような比較的質実じみな方面から……又、これに対するMの方は『Wの研究の結果から見た、仏教の因果応報論』もしくは『印度インドおよび埃及エジプトの各宗教に含まれたる輪廻転生りんねてんしょう説の科学的研究』といったような途方もない派手な題目で……いずれにしても相関聯した裏と表の二方面から狙いを付けて、どこまでも突貫して見ようという事になった……が……何しろまだその伝説の正体も突止めないうちから、こんな恐ろしい研究主題テーマを決めて掛った位だから、その当時の二人の意気組みが、如何に素晴らしいものであったかが想像出来るであろう。事実二人とも、この研究を完成するためには、あらゆる人情も良心も、神も仏も踏み潰し蹴散けちらして行く決心であった。毛唐人の中でも科学の新境地を開拓した連中の中には、随分思い切った研究手段をった者がある。特に医学方面の大家の中には学術のために良心を殺して極度に残忍な犠牲を取った例が無数に在って、社会の非難を受けた連中も相当あるが皆、学術のためとか人類文化のためとかいう名の下に敢然として非人道的な研究を断行して来たものらしい。その通りにWもMも、あらゆる犠牲をかえりみずに、この実験を徹底して行こうではないか……と固く約束した事であった。
 ……二人はコンナ訳で、互いに首席を争う以上の熱度を上げて、協力一致、この伝説の調査を開始したものであったが、ちょうど都合のいい事に、呉家の長女でY子というのが最早もう、妙齢になっていて、婿を探しているところであったけれども、田舎の癖として呉家の精神病系統きちがいすじの噂がどこまでも附き纏って行くので、婿に来てくれる者がない。そこで色々と手を尽して探しているうちにヤットの事で、当時、福岡の簀子町すのこまちという処に京染悉皆屋きょうぞめしっかいやの小店を開いていた渡り者のGという三十男を引っ張って来て間に合わせる事になったが、そんな経緯いきさつのために、一時絶えかけていた呉家の血統ちすじに絡まる伝説が、八釜やかましく復活していたところだったので研究上、非常に便宜であった。
 ……WとMは、そこでそのような噂や伝説をグングンと突込んで行った。古蹟調査に名をりたWが如月寺にょげつじの和尚に取り入って縁起文を盗み写している間に、同じようにして和尚の信用を得たMは、問題の御本尊の弥勒みろく様の首を引抜いて見るといった調子で、グングンと求心的に肉迫して行くと実に意外千万な事実を発見した。すなわち如月寺の縁起文の中では、呉虹汀くれこうていの手で焼棄てられた事になっている絵巻物が、実は焼棄てられていなかった……ツイこの間まで御本尊の胴体の中に厳存していたのみならず、それを最近になって何者かが発見して、どこかへスッパ抜きに持って行ってしまっているに相違ない事実が発見されたのだ。
 ……これは呉家の系図と、これに絡まる伝説の史実的調査だけで満足するつもりであった二人にとって実に思い設けぬ発見であると同時に、非常な失望をもたらしたものであった。けれども、その失望は一時の事であった。若い二人は間もなく前に倍した勇気を盛り返しつつ、今までよりも一層、申合わせを厳重にして、あらゆる方面から手を廻して絵巻物の行衛ゆくえを探索した。そうしてその結果を綜合してみると、その泥亀すっぽん抜きの犯人というのは又、意外千万にもY子の妹のT子という美しい女学生に違いないという目星が付いたので、サア事がややこしくなった。少々てられるかも知れないが、裁判長だから仕方があるまい……ハハハ……」
「……………」
「……ところでWとMの二人の提携はここまで来ると又、キレイに断絶する事になった。……アノT子に絵巻物を握られていては事が面倒だ。お寺の御本尊の中に在るのと違って、生きた人間が保管しているのだから盗み出すにしても容易な事ではない。ここいらでこの研究は一時中止しようじゃないか。ウン。そうしよう。いずれ又……とか何とかいうので最初の意気組にも似合わない、恐ろしくアッサリとした別れ方であったが……しかし内実は決してアッサリでない事を、お互いにチャンと見透みすかし合っていた。アッサリどころか、前に何層倍した熱烈な決心をもってこの実験を突きいてくれよう、どうするか見ろ……と思っている事を、互いに感付き過ぎる程、感付いていた。もっとも二人のそうした決心にはT子の美貌が反映していた事を否定出来ない。……が併しながら呉青秀の忠志と違ってこの実験に対するWとMの誠意ばかりは、今日までも断々乎だんだんことして一貫している筈だ。むろん二人ともだよ。いいかい……」
「……………」
「……ところでその頃の福岡附近は所謂いわゆる、角帽の草分け時代で『末は博士か院長さんか』と芸者連が唄うくらい大学生大持ての時代であった。一般家庭でも『学士様なら娘を遣るか』といった調子で、紅葉山人の金色夜叉こんじきやしゃや、小杉天外の魔風恋風まかぜこいかぜが到る処にウロウロしていた。WもMもこれに紛れてT子嬢を張合った訳だが、その結果がどうなったかというと、矢張やはり遺憾なく二人の特徴を発揮している。
 ……まず最初のうちはWが勝利を占めた。何しろWはその当時の角帽連の中でも、特別あつらえの好男子、兼秀才で、おまけに物腰が応揚おうようで、叮嚀で、透きとおる程親切……だという、この方面に対する絶好の条件ばかり、倶有ぐゆうしていたんだからかなわない。手もなくタタキ付けられた揚句あげく、到底二人の仲には歯が立たぬものと諦らめさせられたMは、学業も何も放り出して、野山を馳けめぐって、化石なぞを探しながら、かろうじて或る気持を慰めていた。
 ……しかも一方にWは、決して成功の美酒に酔い痴れるような単純な男ではなかった。T子を手馴付てなづけてしまうと間もなく、兼ねての計劃どおりに『貴女あなた家系いえすじまつわる、悪い因縁の絵巻物があるそうですが、それは今のうちに、よく調査してみようではありませんか。そうして一番新らしい科学の知識で研究して、その悪因縁を断ち切っておこうではありませんか。そうしないと、もし二人の間に男のが生まれるような事があった時に、剣呑けんのんな思いをしなければなりませんから』といったような塩梅あんばい式に、言葉を巧みにして絵巻物を手に入れようとした。……けれども流石さすがのT子さんも、こればかりは手離しかねたと見えて『そんなものは知りません』と云うのでナカナカ出さない。第一その絵巻物を隠している場所が判らないので、今度は手段を変えてT子を福岡へ連れ出しにかかった。連れ出しさえすればキット、その絵巻物を持って来るに違いない……というのがWの見込みであったろう事は云う迄もない。
 ……すると又都合のいい事には、T子の姉婿のGという京染悉皆屋しっかいやが、仕様のないニヤケ男の好色すけべい野郎で、婿入りをすると間もなく、義妹いもうとのT子に云い寄りはじめて、恐ろしく執拗しつこいので困っている矢先だったから、Wに誘いをかけられたT子は二つ返事でうちを飛出して、福岡でWとコッソリ同棲する事になった。一方に姉のY子もハッキリかウスウスかそんな事情を心得ていたらしく、あまり追求しなかったのでイヨイヨ好都合であったが、しかし肝腎カナメの絵巻物の所在は依然として不明であった。彼Wの眼力を以てしても、果してT子が絵巻物を持っているか、いないかすら看破し得ない有様であったらしい。
 ……しかしWは失望しなかった。なおもT子の身のまわりを探ると同時に、時折は学校の仕事をったらかしてまでもT子の行動を附けまわしていたのであったが、これはWとしては無理もない事であった。T子が、如月寺の和尚様と、自分の姉のY子以外には誰も気付まいと思って使っていた『虹野ミギワ』の変名や、品評会に出した支那古代の刺繍なぞが、絵巻物の故事来歴を知り抜いている彼Wの眼を逃れ得よう筈はないので、どうしてもT子がどこかに隠し持っているに違いないという推測は、当然過ぎるくらい当然な推測であった。
 ……しかし一方に、怜悧そのもののようなT子自身も、そうしたWの態度の中から、ひそかに或る事を察していた。
 ……つまりハッキリとはわからないが、Wが自分に近付いて来た目的が単純ではないらしい。事によるとその目的は絵巻物かも知れない。そうしてその絵巻物を欲しがる目的は……といったような漠然たる疑いを抱くようになったものらしいが、しかし、そんな疑いを抱いている気ぶりも見せないように気を付けていたので、流石さすがのWも歯が立たなくなった。全く立往生の姿にされてしまったらしい。……のみならずそのうちにWは又、それ以上の手厳しい打撃を受けて、涙を呑んで退却しなければならぬ破目はめに陥った。すなわち絵巻物探索の唯一無上の手がかりとして、手を換え、品を変えて機嫌を取っていたT子から、抵抗不可能ともいうべき自分の急所に、思いもかけぬ肘鉄砲を一発ズドンと喰わされたのであった。
 ……というのは別の事でもない。T子が相手の恋を敵本主義の裏打ちものとウスウス感付いていた事は、今話した通りであるが、今一つにはそのWが、甚しい肺病の家筋で、本人の体質がその事実を遺憾なく証明している事を、その頃になって初めて聞き知ったからで、この点についてWはT子に対して全然、事実を偽っていた事が、同時に判明したからであった。……しかも、これは余談ではあるが、こうした事実に照してみると、T子のこうしたふしだらが、決して尋常一様の浮気から出たものでない事がわかると同時に、その薄情な態度もあながちにとがめられなくなる。その浮気の裡面には呉家の血統の継続という痛々しい、悲しい観念が有力に動いていた。それが魔風恋風まかぜこいかぜ以来の自由恋愛の風潮に乗って具体化されたものにほかならない。かよわい女の判断ながら、出来るだけ人格の正しい、健康な血統ちすじの子孫を設けたいものと、一心に憧憬あこがれ願っていた心情がハッキリと首肯うなずかれる訳で、T子が家出をした当時に、その界隈の人々が『どうせい自宅うちに居て婿どんを探しても、旅烏たびがらすのGぐらいの男が関の山じゃろうけに』というような冷評的な噂をしていた事実も、やはり、こうしたT子の心情を裏書きしていたと云うべきであろう。同時にT子が如何に純情と、理智とを兼ね備えた、怜悧そのものともいうべき性格の持主であったかという事実も首肯うなずかれる訳で、斯様かような点から見るとT子は生れながらにして不幸薄命な女性であったとも考えられるようである。
 ……それから、なおここに今一つ、是非とも告白しておかなければならぬ事がある。というのはほかでもない。最早もはや察しているかも知れないがWの血統ちすじと、現在の健康状態に関する秘密を、手紙でT子に密告したのは外ならぬ恋敵のMであった……という事である。これは依然としてT子に対する愛着と、この研究に関する未練を棄て得なかったMが、Wと別行動をって、T子以外に絵巻物を隠している者がいはしまいかと、色々探索しているうちに、今云ったような村人の噂からT子の心中を推測して、もしやと思って試みた、反間苦肉はんかんくにくの密告が図星に当ったものであるが、むろん、これは卑怯とも何とも云いようのない所業しわざで、Wに対して弁解の余地は毛頭もうとうない。いわんやその手紙をチャンスとして又もT子に接近し初めたに於てをやである。……が……しかし……この時のMの所業しわざの卑怯さが、それからのち、今日までのMの生涯に、どれ程の恐ろしい代償を要求しつつたたり続けて来たか……という事実を回顧すると、実に身の毛も竦立よだつばかりである。『因果応報』の研究に志して来た者が、その因果応報の実物に悩まされて、自殺まで決心させられている。その運命の皮肉さ……笑う力もない事を併せてここに告白しておく。
 ……とはいうものの……その時のMが、どうしてそんな将来を予知し得よう。この伝説が含んでいる精神科学的の魅力と、T子の美貌に引かされつつ、学術のためならば後事あとはドウなっても構わないという、最初の意気組をそのままに盲進した。そうして半年足らずの間T子と同棲していると、そのうちにT子の姙娠の徴候がだんだんと著しくなって来た。そうしてその年の暑中休暇に入ると間もなく、明らかに胎動が感じられるようになったのであるが……しかも……この胎動こそは、それからのち二十年の長日月に亘って、WとMの二人の運命を徹底的に掌握しようと藻掻もがいている或るもの……運命の魔神とでも形容すべきものの胎動であった。WとMの二人の心臓をガッシリと掴んで手玉に取ろうと焦燥あせっている胎児のワインド・アップであった。……精神科学の研究を中心とする血も涙も、義理も人情も超越した邪妖劇……長い長い息苦しい、毒悪不倫劇の中心的な主役を引受けて、登場俳優を片端かたっぱしから生死のドタン場にまで飜弄しようとしている運命の魔神の、お目見得めみえの所作に外ならなかったのだ。……ところでその無言の所作が、開幕の皮切りに、大衆に投げかけた疑問というのは『私は誰のか』という質問であった。……しかもその当時から今日までの間に、この質問に対して与えられた回答は、有形的にも無形的にも絶無ノンという事になっているのである。
 ……無論、この質問に対する回答はWも、Mも持合せている筈である。しかしその回答が、果して確実、動かすべからざる事実に立脚したものかどうかという事は、それからのちに『血液型による親子の鑑別法』の大家となったWも、調査が出来ないでいる筈だ。自分の血液もMの血液もウッカリ取る訳に行かないからね……のみならず一方には、この事実を、何人なんぴとよりも明白に証言し得るであろう胎児の母親のT子も、そんな調査が出来ないでいるうちに所謂いわゆる『死人に口なし』となってしまって、あとには何等の証拠も残っていない。せめてT子が生前に、その児の父親と認めた人間の苗字を、その児に附けて、何かに書き残してでもいるならば文句もなく面倒もない筈であるが、遺憾ながらソンナものが一つも残っていない。戸籍面にも簡単に『父不詳――呉一郎』としか書いてない今日となっては、WとMとが、そのT子との関係を、肯定するのも否定するのも自由自在の勝手次第となっている。いわんやT子が、WとM以外の男には一人も関係していなかったか、どうかという事は、死んだT子の良心以外に何者が記憶していよう。これを要するにT子の腹に宿った胎児の父親は、T子がこの世に蘇生して来て、明白に証言するか、又は何かに動かすべからざる記録として書き止めていない限り、永久に、絶対にわからず仕舞じまいになる外はないのだ。
 ……その運命の魔神……胎児が出生してみると、それこそ文字通りに玉のような男の児であった。明治四十年十一月の二十二日に、それまで二人が隠れ住んでいた福岡市外の松園まつぞのという処の皮革商かわや離座敷はなれで生れたのであったが、その生声うぶごえを聞くと間もなく、今まで隠忍自重していたMは、初めてT子に謎をかけてみた。『呉家の男の児を呪う絵巻物があるそうだが』と持ちかけてみたが、ここのところはチョットWがMにお株を取られた形であった。すると流石さすがのT子も初めて知った母親の情でたまらなくなったと見えてスッカリ白状する事になった。その告白にいわく……。

 ……私は小さい時から本を読んだり、絵をいたりする事が三度の御飯よりも好きでしたので、物心が付く頃からショッチュウ、たった一人でお寺へ行って、虹汀こうてい様が自分でおきになったという襖の絵や、自分でお彫りになった欄間らんまの天人なぞを眺めたり、写したりしていたのですが、そのうちに参詣しに来た村の人や何かが私の居る事を知らないで、御寺の縁起について色々とお話をしているのを聞いて、子供心に非常に感動しました。そうしてソンナお話の中に、この御寺の縁起の事を詳しく書いたものが残っているゲナ。和尚さんが大切にしまって御座ござるゲナ。……というような話を聞きますと、それが見たくて見たくてたまらなくなりましたので、人の居ない頃を見計みはからって、絵や何かを見まわる振りをしながら方々を探しておりますと、案の定和尚様のお部屋の本箱の抽出ひきだしから縁起の書附けを見付け出しました。
 ……それを見ると又、その焼棄てられたという絵巻物が惜しくて惜しくてたまらないような気がしましたので、何心なく本堂に来て、御本尊様をゆすぶって見ますと、どうでしょう。確かに巻物らしいものが這入っているのがコトコトと手にこたえて来ましたので、余りの事にビックリして胸がドキドキしました。
 ……けれどもこの事を和尚様に話したら一ペンに叱られてしまいましたので、それから一週間ばかり経ってのちに、学校の帰りがけにお線香を上げに行く振りをして、御本尊様の首を抜いて、絵巻物を取出して来ました。
 ……ところがその絵巻物を持って帰って、人の居ない倉庫おくらの二階で開いてみますと、思いもかけない怖ろしい、胸がムカムカするような絵ばかりでしたので、私は二度ビックリしまして、直ぐにも御寺に返しに行こうと思いましたが、その時にフト気が付いて絵巻物の表装を見ますと、何ともいえない見事なものなので、返すのが惜しくなりました。そうして、それからのちは一人で留守番をするたんびに、少しずつ裏面うらの紙を引きいで壊れた幻燈の眼鏡めがねで糸の配りを覗いては、絳絹もみ布片きれに写しておりましたが、見付かると大変ですから、作ったものはみんな焼き棄てたり、室見川むろみがわへ流したりしてしまいました。
 ……そうしてイヨイヨその刺繍の作り方を自分の手に覚え込んでしまいますと、引剥ひきはがした紙をもとの通りに修繕つくろって、絵巻物を御本尊様の胎内に返してしまいましたが、盗む時よりも返す時の方が、よっぽど怖う御座いました……そうして、それから間もなく福岡へ出て来たのですから、絵巻物はやっぱりあの、如月寺にょげつじ弥勒みろく様の胎内に在る筈です。
 ……けれどもこうして吾児わがこというものが出来て見ますと、つくづくあの絵巻物の恐ろしさがわかって来ました。姉のY子でも私のように男の児を生んで、あの絵巻物の在る事を知っているとしましたならば、同じ思いをするにきまっております。虹汀様が、あの絵巻物を焼かれなかった未練なお心を怨むにきまっております。
 ……とはいえあの絵巻物が在るという事を知っている者は誰もいないのです。たった私一人だけなのです。ですから私の一存で、あの絵巻物を貴方の御学問の研究材料に差上げますから、私の家の血統ちすじを引いた男の児にだけたたるという、その恐ろしい、不思議な絵巻物の力を、科学の力で打ち破って、その呪咀のろいがこの児にかからないようにして下さい。是非是非お頼みしますから……。

 ……という涙ながらの話だ。
 ……Mは呆れた。つ喜んだ。なる程それではイクラ探しても判明わからない筈だ。吾々の捜索方針と絵巻物の隠れ処が、ちょうどいたちゴッコ式に入り違いになって行ったので、二人とも絵巻物の無い方へ無い方へと捜索して行った訳だ。偶然の作用を推理の力で追っかけたんだから見付からないのも無理はない。……なぞと独りで北叟笑ほくそえみながら、T子にも内証でコッソリ姪の浜へ来て、如月寺の本堂へ忍び込んで、御本尊の首を抜いてみると……。
 ……あとは説明しない……しても説明にならないから……」
「……………」
「裁判長の判断に任せる」
「……………」
「……WとMのその後の行動によって……否、今日只今、この仮法廷に於て……吾輩という検事の論告と、Mという被告の陳述を憑拠ひょうきょとして、絵巻物の行衛を推断してもらうよりほかに方法はない」
「……………」

「……Mは黙々として寒風に吹かれながら姪の浜から帰って来た。いつかはその絵巻物の魔力……六体の腐敗美人像に呪咀のろわれて……学術の名に於てする実験の十字架に架けられて、うつつない姿に成果なりはてるであろう、その可愛らしい男の児の顔を眼の前に彷彿させつつ……同時にその母子おやこの将来に、必然的に落ちかかって来るであろう大悲劇に直面した場合に、ビクともしない覚悟と方針とを考えまわしつつ……」
「……………」
「……彼は松園の隠れ家に何喰わぬ顔をして帰って来ると、何も知らずに添乳そえぢちをしているT子に向って誠しやかな出鱈目でたらめを並べた。……絵巻物は和尚か誰かが、取出してどこかに隠したものと見えて、弥勒様の胎内にはモウ見当らなかった。しかしこっちから請求して貰って来る訳にも行かない品物なので、そのまま諦らめて帰って来た。いずれ自分が学士になって大学に奉職する事にでもなったならば、その時に大学の権威で、学術研究の材料として提供させても遅くはないであろう。ところで絵巻物の問題はそれでいいとして、実は自分の故郷の財産の整理がこの歳暮に押し迫っているので、困っている。にもかくにも大急ぎで帰って来なければならないのだ。そのついでに、お前達の戸籍の事も都合よく片付けて来たいと思うから、用事が出来たらコレコレ斯様斯様かようかようの処へ通信をするがいい……といったような事で話の辻褄つじつまを合わせて、渋々ながら納得をさせると、その翌々日の福岡大学最初の卒業式をスッポカシて上京してしまった。しかもそのまま故郷へは帰らずに東京へ転籍の手続をして、全速力で旅行免状を手に入れて海外に飛び出した。これがこの時、既にMの心中に出来上っていた、来るべき悲劇に対する戦闘準備の第一着手であった。Wにだけわかる宣戦の布告であったのだ」
「……………」
「然るに、これに対するWの応戦態度はというと、すこぶる落付き払ったものであった。殊勝気しゅしょうげに白い服を着込んで、母校の研究室に居据ってしまった。そうして一切を洞察していながら、何喰わぬ顔で顕微鏡を覗いていたのであった」
「……………」
「WとMの性格の相違は、その後も引続いて発揮された。すなわちMは、欧米各地の大学校を流れ渡って、心理学や遺伝学、又はその頃から勃興しかけていた精神分析学なぞを研究しつつ、一方に内地の官報や新聞を通じて、Wの動静に注意を払いつつ時季を待っていた。これはその男の児に、Mの苗字をかぶせるのを嫌ったのと、モウ一つは、T子の追求を避けるためであった。……というのは女としては珍らしい冴えた頭脳あたまを持っているT子がもし、Mの行衛不明と、如月寺の絵巻物の紛失事件を綜合して考えた場合には、遅かれ早かれ或る恐ろしい、一つの疑いに直面ぶつかるにきまっている。WとMが何故にあの絵巻物を欲しがったかという理由を色々と考えまわすにきまっている。そうして万に一つも女の頭の敏感さと、母性愛の一所懸命さとで、二人が絵巻物を欲しがっている、そのホントウの下心を想像し得るような事があったならば、何はともあれMに疑いをかけて、眼の色を変えて追いかけて来るであろう。場合によっては国境だろうが何だろうが乗越えて追求しかねない女である事が、Mには解り過ぎるくらい解っていたからである。
 ……然るにこれに対するWは、それと知ってか知らずにか、相も変らず悠々と落付き払っていた。自分の名前や行動を公々然と曝露していたのは無論のこと、『犯罪心理』だの『二重人格』だの『心理的証跡と物的証跡』なぞいう有名な研究を次から次に発表して、これ見よがしに海外にまで名をげていた……が……これが又、Wの最も得意とする常套手段で、こうしてこの方面に大家の名を売り広めておけば将来、この恐るべき精神科学の実験が行われた暁でも、かえって世間から疑われない、一種の『精神的現場不在証明アリバイ』になるばかりでなく、事件が発生した時にすかさず飛び込んで行ける口実が出来るという、W一流の両天秤をかけた思い付であったろうと考えられる。いずれにしてもその思切って大胆な、同時に透き通るほど細心な行き方は、後年のちになって、その恐るべき実験の経過報告を、当の相手の面前に投出した手口によっても察しられるではないか。
 ……こうして十年の歳月が飛んだ大正の六年になると、その二三年前から英国に留学していたWが帰朝する。それと知ったMも亦、すぐに後を追うて帰って来たのであるが、このWの留学と、帰朝の時季というのが、Mにとっては仲々の重大問題であった。何故かと云うと外でもない。T子母子おやこはMに振棄てられたのちの十中八九は松園の隠れ家を引払って、どこかへ姿を隠している筈であるが、たとい天に隠れ、地に潜んでも、その行衛を見逃がすようなWでは絶対にない筈である。……と同時に、もしそのWが、海外に留学するような事があれば、それは取りも直さずWが、T子母子おやこを確実に掌握し得た証拠になる。換言すればT子母子おやこがどこかに定住して、当分、動く気遣きづかいはないという見込みがハッキリと付けばこそ、安心して留学出来る訳で、そうとすれば又、そのWが帰朝するという事は疑いの眼を以て見れば何かしら、その点に関するWの或る種類の心配か、又は或る種の計劃を発動させる時季が来た事を意味していないとは断言出来ないであろう。今一つ言葉を換えて云えば、MはWのそうした行動によって、T子母子おやこの行衛を割合に楽に探り出す事が出来る訳で、海外留学中のMが絶えず内地の新聞や官報に気を附けていたというのは、そうした注意が必要だからであった。
 ……が……しかし、Wがそんな気振けぶりでも見せるような男でない事は無論であった。帰朝後はチョットした出張以外には福岡を離れる模様もなく、毎日毎日大学に腰弁をきめ込んでいるうちに、間もなく助教授から教授に進む。引続いて色々な難事件を解決する。名声はいよいよあがる。その合間合間には喘息ぜんそくが起る……といった調子でなかなか忙がしかったのであるが、しかしその態度は依然として悠々たるもので、れもこれと昔の夢という風に、明暮れ試験管と血液に親しんでいた。
 ……が……しかし又一方にMも困らなかった。そうしたWの帰朝後の態度から、T子母子おやこが福岡市を中心とする一日旅程以内の処に住んでいるに違いない事をアラカタ読んでしまっていた。……のみならずT子はまだ三十になるかならずで、相変らず美しいとすれば、どこに居るにしたところが、多少の噂の種にはなっているに相違ない。又その子のIも、父親は誰だかわからないまま無事に母親の膝下しっかで育っているとすれば、格別の事情がない限り、Mの計劃通りに母方の姓を名乗っている筈である。年齢は私生児の事だから届出がおくれているかも知れないが、多分、尋常校の三四年程度であろうという事が帰朝当時から見当が附いていた。あとは足まかせの根気任せというので、福岡を中心としたWの出張先を第一の目標として、虱殺しらみつぶしに調べて行くと、果せるかな、帰朝後半年も経たぬうちに、直方小学校の七夕会の陳列室で、五年生の成績品のうちにIの名前を発見した。もっともその時までMはウッカリしていて、Iの成績が抜群の結果、年齢としはまだ十一歳のままに、一級飛んだ五年生になっている事に気付かずにいたので、もしかすると別人ではないかと疑ってみた事であった。
 ……が……そこに如何なる天意が動いたのであろう。間もなくその陳列室へ這入って来た一人の生徒が、偶然にも背後うしろを振り返った視線がピッタリとMの視線と行き合ったのであったが、その時にMは、吾ともなく視線を背向そむけずにはおられなかった。逃げるようにして校門を出ると、思わず眼を蔽うて、科学者としての自分の生涯を呪わずにはおられなかった。その生徒が全くの母親似で、眼鼻立ちから風付ふうつきのどこにも、Wの子らしい面影がないと同時に、Mに似たところさえもなかった事を思い確かめて、ホウと安心の溜息をきながらも、直ぐに後から、その溜息を呪咀のろわずにはおられなかった。……遠からず学術実験の十字架に架けられて、無残な姿に変るであろうその児の顔立ちの、抜ける程可愛らしくて綺麗であったこと……その発育の円満であったこと……そうしてその風付きのタマラない程温柔おとなしくて、無邪気であったこと……菩提心ぼだいしんとはこれを云うのであろうか……その児の清らかな澄み切った眼付きが、自分の眼の前にチラ付くのを、払っても払っても払い切れなくなったMは、その児が将来、間違いなく投込まれるであろう『キチガイ地獄』の歌を唄って、われと我が恥を大道にさらしつつ、罪亡ぼしをしてまわった。木魚をたたきたたきその児の後生ごしょうとむらってまわった。……それ程にその児は美しく清らかに育っていたのであった。
 ……Wは、こうしたMの行動を、九州帝国大学、法医学教室の硝子ガラス窓越しに見透かして、あの蒼白な顔に人知れず、彼一流の冷笑を浮かめていた事と思う。彼はMが海外に逃げ出した心理を通じて、Mは遅かれ早かれ、必ず日本に帰って来る。Iが思春期に達する以前に、しかもこの九州に帰って来るであろう事を確信していたに違いないのだ。そうしてこの実験に関聯するあらゆる研究をげ、一切の準備を整えつつ待っていたに違いないのだ。
 ……というのはMも実際のところ、頭から爪の先まで学術の奴隷であった。Mがその生涯の研究目標としている『因果応報』もしくは『輪廻転生』の科学的原理……すなわち『心理遺伝』の結論として、是非ともこの実験の成績を取入れねばならぬと、あくがれ望んでいるその熱度は、当の相手のWが心血を傾注している名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』の実例として、この絵巻物の魔力を取入れたがっているその熱度に、優るとも劣る気遣いはなかった。それ程の研究価値と魅力とをこの絵巻物が持っている事を、Wはどこまでも信じて疑わなかったのだ。
 ……けれども……けれども……Mはそれでもなお、どれくらい深刻な煩悶をその以後に重ねた事か。学術のために良心を犠牲にして、罪もむくいもない可憐の一少年が、生きながら魂を引き抜かれて行くのを正視する……その生きた死骸を自分の手にかけて検査する……そうしてその結果を手柄顔に公表する……という決心がドレ位つきにくい事を思い知ったか。彼が大学卒業後の十数年間に於ける死物狂いの研究は、こうした良心の苛責を忘れたいという一念からではなかったか……自分が死刑立会人である苦痛を忘れるために、一心不乱に断頭刃ギロチンみがくのと同じ悲惨な心理のあらわれではなかったか。そうしての学術研究……断頭刃ギロチンぎを断然打切るべく、彼が母校に提出した学位論文の根本主張は、何であったか……いわく……『脳髄は物を考える処に非ず……』」
「……………」
「……かくしてMの個人としての煩悶はついに、学術の研究慾に負けた。全世界に亘る『狂人の暗黒時代』と、そのうちに蔓延する『キチガイ地獄』を、自分の学説の力で打ち破るべく、何もかも打ち忘れて盲進する当初の意気組を回復した。恐らくWに負けないであろう程の冷静、残忍さをもってIの年齢を指折り数え得るようになった」
「……………」
「T子の運命は風前の灯火ともしびである。……T子はもうその頃までには、嘗て自分を中心として描かれたWとMとの恋のローマンスが何を意味しておったかを、底の底まで考え抜いている筈であった。その頃の二人の自分に対する情熱が、揃いも揃って絵巻物の魔力と、自分の肉体の魅力との両道ふたみちかけたもので、しかも、それ以外の何ものでもなかった事を露ほども疑わなくなっている頃であった。そうして絵巻物を奪い去ったものは、自分から絵巻物の所在ありかを聞いたMかもしくは失恋のうらみを呑んでいるであろうWのどちらか、一人に相違ない事を、余りにも深く確信していた。……同時にその二人が揃いも揃って、繊弱かよわい女の手で刃向はむかうべく、余りに恐ろしい相手である事を、知って知り抜きながらも必死と吾児を抱き締めつつ、ふるおののいていた筈である。
 ……だから彼女、T子の想像の奥の奥に、よもやと思いつつもおののき描かれていたであろう絵巻物の魔力の実地試験が、万に一つもIに対して行われたとなれば、T子はすぐに二ツの名前を思い出すにきまっている。WかMか……。
 ……だから……T子の死は、この空前の学術実験の準備として是非とも必要な第一条件……」
「……あアッ……先生ッ……待って下さいッ……もう止して下さい……ソ……そんな怖ろしい……事が……」
 私は思わず悲鳴をあげた。ピッタリと大卓子テーブルの上に突伏つっぷした。頭の中は煮えるように……額は氷のように……てのひらは火のように感じつつ、あえぎに喘ぎかかる息を殺した。
「……何だ……何を云うのだ……そっちから突込んで質問して来たから説明しているのじゃないか」
 こうした正木博士の、不可抗的な弾力を含んだ声が、私の頭の上から落ちかかって来た。……が、直ぐに調子を変えて、さとすような口ぶりになった。
「そんな気の弱い事でどうする。他人の生涯の浮沈に関する重大な秘密を、一旦、聞くと約束して話させておきながら、途中で理由もなしに、モウいいという奴があるか。実際にこの事件と闘っている俺の立場にもなって見ろ……あらゆる不利な立場を切抜けて来た、俺の苦しみを察してみろ……まだまだ恐ろしい事が出て来るんだぞ……これから……」
「……………」
「……いいか……T子もこの事件の第一条件の存在を或る程度までは察していたに違いないのだ。その子のIに『お前が大学校を卒業する迄、私が無事でいたら、何もかも話して上げる』と云ったのは、T子が吾子わがこ可愛さの余りに、色々と考えまわした揚句あげくに、とうとうそこまで気をまわしていた何よりの証拠だ。つまるところそのかんのT子の生活というのは全くの生命いのちがけであったに違いないので、一方にはこの呪いから極力Iを遠ざけて、I自身がこの呪いの正体を理解し、且つ警戒し得る頭が出来るまで、何事も話さずに……そんな絵巻物や、物語から来る誘惑を感じさせないようにしてジッと待っていなくてはならないし、一方には、人知れずMの行衛を探し求めて、絵巻物の有無うむを突止めなければならなかった。さもなければ自分の力と工夫で、WとMを突合わせて、何もかも泥を吐かせてしまいたい。この恐ろしい学術の研究慾と、愛慾の葛藤を解消さしてしまいたい。そうして出来る事ならば絵巻物を、自分の手で消滅させておきたい……なぞいうアラユル惨憺たる母性愛を、頭の中に渦巻かせていたに違いないのだ。
 ……しかし、そのT子の昔の情人は、二人とも二十年来の……否、宿命的の仇讐あだがたき同志であった。人情世界の怨敵おんてき、学界の怨敵同志であった。そうしてT子母子おやこを仲に挟んで、お互いにお互いを呪咀のろい合って来た結果、その時はもう二人とも救うべからざる学術の鬼となってしまっていた。……お互いに精神的に噛み殺し合うより外に、生きる道をなくしてしまっている二人であった。……しかもその怨敵を呪咀のろい合う心の、積極と消極の力の限りを合わせて、二人のうちのドチラかの子供であるべきIに、絵巻物の魔力を試みるべく……そうしてその結果を学界に公表する名誉を自分のものにすると同時に、そうした非人道に関する罪責の一切合財を、相手の頸部くびに捲き付けるべく、一心不乱に爪牙つめぎ澄ましている二人であったのだ。その犠牲が誰の児か……なぞいう事は、モウとっくの昔に問題でなくなっていたのだ。ただその児が、確実に呉家の血統を引いた男の児でさえあれば、学術研究上、申分もうしぶんないと思っていただけなのだ」
 今度こそは最早もはや、とても我慢出来ない戦慄が、私の全身に湧き起った。頭をシッカリと抱えて、緑色の羅紗らしゃの上に突伏した。悽愴たる正木博士の声……解剖刀メスのように鋭い言葉の一句一句に全神経を脅やかされつつ……。
「……結果はついに来た。二十年前にMが予想していたところに落ちて来た。Mが恐れ、おののき、藻掻もがき狂いつつ、逃げよう逃げようとしていたその恐ろしいスタートの決勝点に、悪魔的な不可抗力をもって立還たちかえるべく余儀なくされて来た。二十年前にの……Mをい走らしたの卒業論文『胎児の夢』が、眼に見えぬ宿命の力をもって確実に彼をモトのところへグングンと引戻して来たのだ」
 私は椅子から飛上って部屋の外へ逃出にげだしたかった。けれども私の身体からだは不思議な力で椅子に密着して、ひたすらに戦慄を続けているばかりであった。耳をふさぐ事すら出来なかった。その私の耳の穴へ正木博士のカスレた声が、一句一句明瞭に飛込んで来た。
「……かくしてこの実験の進行に関する第一の障害……T子の生命いのちは、完全に取除とりのぞかれた。WとMとIとの過去を結び付け得る唯一人の証人……Iが誰の児かという事を的確に証言し得ると同時に、この恐ろしい科学実験の遂行者を一言の下に立証し得るであろう『生き証拠』のT子は、予定通り完全な迷宮のうちに葬り去られた。続いて起る問題は、この実験に必要な第二の条件……即ち……Mがこの九州帝国大学、医学部、精神病科教室の教授の椅子に座ることであった。これは換言すればこの実験の結果として、万一追求されるかも知れないであろうその事件の下手人の所在をくらますためにも……お互いの秘密を完全に保護して、絶対の安全を保つためにも……又は、そうして適当な時機を見計らってその犯行を相手にナスリ付けるためにも、極めて完全無欠な、用心に用心を重ねた、必要欠くべからざる条件であった」
 今までコツコツと床の上を歩きまわっていた正木博士は、こう云い切ると同時に、ピタリと立止まった。そこはちょうど東側の壁にかかっている斎藤博士の肖像と「大正十五年十月十九日」の日附を表わしているカレンダーの前である事が、突伏している私によくわかった。そこで正木博士の足音が急に止まると同時に、言葉もプッツリと絶えて、部屋の中が思いがけない静寂にとざされたために、その足音と声ばかりに耳を澄ましていた私は、正木博士が突然にどこかへ消え失せたように感じられた。
 ……が……そう思ったままジッと耳を澄ましていたのは、ほんの二三秒の間であったろう。間もなくヒシヒシと解り初めたその静寂の意味の恐ろしかったこと……。
 ……さては……さては……と気付く間もなく、私の頭の中に又も、今朝けさからのアラユル疑問が一時に新しくひらめき出て来た。思わず両手で頭の毛を掴み締めつつ、次に出て来る正木博士の言葉を、針の尖端のようにおびえつつ待っていた。
 ……十月十九日の秘密……。
 ……その日に発見された斎藤博士の変死体の秘密……。
 ……その斎藤博士の変死に因果された正木博士の精神科教授就任に関する裏面のカラクリの秘密……。
 ……それから一週年目の同月同日に当る昨日きのうという日に、正木博士を自殺の決心にまで追い詰めた運命の魔手の秘密……。
 ……その正木博士を奇怪にも、既に一箇月前に自殺していると明言した若林博士の意識溷濁こんだく的、心理状態の秘密……。
 ……そうして……それ等の秘密の裏面に隠れて、それらの秘密の全部を支配しているに違いないであろうモウ一つの大きな秘密……。
 ……すべては唯一人の所業……。
 ……Wか……Mか……。
 ……それが次に発せられるであろう正木博士のタッタ一言によって、電光の如く闡明せんめいされはしまいかと思われる……その云い知れぬ恐怖の前の暗黒的な沈黙……静寂……。
 ……けれども正木博士は間もなく、そこから何気もない足取りでコトリコトリと歩き出した。そうして僅かの沈黙の間に、私の恐れていた説明の箇所を飛越とびこして説明を続けた。
「……かくしてMが、この斎藤博士の後任となって九大に着任すると間もなく、この学界空前の実験は決行された。そうしてその結果の全部が、この通り吾輩の前に投出なげだされた」
「……………」
「……だから……目下のところWとMの二人は同罪である。同罪でないと云っても、云い免れるだけの証拠がない」
「……………」
「……だから吾輩は覚悟を決めた。そうして君が先刻さっきから読んだその心理遺伝の附録の草案によって直方のうがた事件の真相までも、すっかり蔽い隠してしまった。ロクロ首や、屍体鬼しびとつかみまでも引合いに出して、苦辛惨憺を重ねた結果、学術研究の参考材料として公表しても、無罪と云える程度にまで辻褄つじつまを合わせておいた」
「……………」
「……そんな裏面の消息を、唯二人の間の絶対の秘密として葬り去るべく……怨みも、そねみも忘れて……学術のために……人類のために……」
「……………」
「……これも矢張やは菩提心ぼだいしんと云えば云えるであろう。……あの呉一郎の狂うた姿を見て、たまらなくなったからであろう……」
 正木博士の声は、ここまで来ると急に涙に曇りつつ、机の上に突伏したままの私の真正面に近付いて来た。……ドッカリと廻転椅子に腰を卸す音がした。……と……間もなくカラリと鼻眼鏡を大卓子テーブルの縁に置いて、ポケットからハンカチを取出して、涙を拭う気はいである。
 ……けれどもこの時……何故だか解らないけれども、私の全身を伝わっていた戦慄が、一時にピッタリと止まってしまった。その代りに、今までとは丸で違った、何ともいえない不愉快な感情が、正木博士の涙声にそそられて、はらわたのドン底からムラムラと湧き起って来るのを、どうする事も出来なかった。そうしてただ、今までの通りの姿勢で、殆ど形式的に机の上に突伏しているような……正木博士に対して「何とでも饒舌しゃべるなり、泣くなり勝手になさい。私とは全然無関係の事ですけれども、聞くだけはイクラでも聞いて上げますよ」と云ってやりたいような、どこまでも冷淡な、赤の他人じみた気持になってしまった。これは後から考えても不思議千万な心理状態の変化であった。自分自身にも、どうしてソンな気持に変ったか解らなかったが、しかし私はそのまんま、身動き一つしないで突伏していたので、自分の話に夢中になっている正木博士には、私のそんな気持の変化を気取けどられよう筈がなかった。
 正木博士は、そうしている私の前で、軽い咳払いみたようなものを一つして声をつくろった……と思うと今度は調子を改めて、極めて荘重な語気になった。私の頭の上から圧付おしつけるように、一句一句を切って云った。
「……唯……ここに一人……君という人間が居る……」
「……………」
「君は吾輩と若林とに選まれた、この事業の後継者である。……否……吾輩や若林は実を云うと、この事業の最後の成績を社会に公表し得べき資格を持った人間でない。ただそこに居る君だけが、その神聖なる使命をになうべく選まれて、吾々の前に差遣さしつかわされた唯一、無上の天使である。自分でその天命の何たるかを知らない……徹底的に何も知らない……ホントウの意味の純真無垢の青年である」
「……………」
「……というのは、ほかでもない。吾輩も若林も、正直正銘のところを告白すると、この事件の真相をコンナ風に偽った形にして、自分達の手で発表したくない。出来得べくは自分達の死後に、しかるべき第三者の手で、真実の形に直して発表してもらいたい……というのが吾々二人の畢生ひっせいの願である。純誠無二の学者としての良心から出た二人の希望である。……だから吾輩と若林とは、云わず語らずのうちに協力一致して、この事件に重大な関係を持っている君の頭脳あたまを回復すべく、全力を挙げているのだ。……今にも君が君自身の過去の記憶を回復して、以前の意識状態に立帰り得たならば、必ずやこの仕事の後継者が、君以外に一人もいない事を、明白に自覚してくれるであろう。そうして君が死ぬ程の驚愕と感激のうちに、この空前絶後の大研究の発表を引受けて、全人類を驚倒、震駭しんがいさせてくれるであろう……その発表によって太古以来の狂人の闇黒あんこく時代を一時に照し破り、全世界のキチガイ地獄をドン底から顛覆、絶滅させて、この唯物科学万能の闇黒世界を、一斉に、精神文化の光明世界にまで引っくり返してくれるであろう。……と同時に、それに引続いて来るべき精神科学応用の犯罪の横行時代を未然に喰い止めて、の可憐の一少年呉一郎その他の犠牲を、無用の犠牲として葬り去らないのみならず、全人類の感謝と弔慰とを彼等に捧げさしてくれるであろう……そうして最後に……永劫えいごう消ゆる事のない極地の氷のような『冷笑』を、吾々二人の死後の唇に含ませてくれるであろう事を確信しつつ、幾何いくばくもない余命を一刹那せつなに縮めつつ、努力しているのだ」
「……………」
「……とはいえ……これは現在の君の頭から考えると、実に不可解と不合理とを極めた註文と思われるかも知れない。吾輩と若林とが、あの呉一郎と瓜二つによく似ている君を換え玉か何かに使って、虚偽の学術研究を完成して、それを又、虚偽の方法で発表しようと試みているかのように誤解されるかも知れない。しかし……しかし……吾輩は天地の霊に誓って云う。それは吾々二人の間の私的の駆引にこそ凡百あらゆる虚偽が含まれておれ、その行っている学術の実験と、それによって証明さるべき学理、原則の中には、一点、微塵みじんの虚偽も含まれていないのだ。ただ、その内容とは全然無関係な発表の形式方法にだけ、やむを得ない虚偽が混っていた訳であるが、それもタッタ今、真実の形に訂正して、君に報告してしまったばかりのところである。
 ……だから……これだけは、どこまでも吾々を信じてもらいたい。……君は疑いもなくこの実験の経過を、真実の形に直して発表すべき、唯一の責任者なのだ。すなわち若林の調査書類と、吾輩の遺言書とを、一まとめにしてこれに一つの結論をつけて、学界に発表すべく、神様の思召おぼしめしによって選まれた無二の資格者である事が、君の過去の記憶の回復と共に判明するであろうことを、吾輩も若林も信じて疑わないのだ……否、吾輩と若林ばかりでない。一般社会の人々とても、万一君の姓名を知り得るような事があったならば……君の名前は既に、今までの話の中に幾度となく出て来た名前で、世間にも相当記憶されている筈であるが……単にその名前を聞いただけでも、すぐに君より以外に、この仕事の適任者が絶対にいない事を確認するであろう事が、火をるよりも明らかに解り切っているのだ。……だから吾輩は、君が精神状態を回復しかけている事がわかると同時に、いよいよ安心してこの遺言書を書く事が出来たのだ。
 ……しかし吾輩が自殺の決心をしたのは全く別の理由からである。それは昨日の正午を期して、あの解放治療場内に勃発した大悲惨事が、吾輩の責任感を刺戟したからでもなければ、又は、この日が偶然に、斎藤先生の祥月しょうつき命日に当っていたために、一種の天意とか、無常とかを観じたからでもない。正直なところを云うと吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界の浅薄、低級さに、たまらない程うんざりさせられてしまったのだ。
 ……それもこの出来そこないの世界を、新発明の火薬で爆発させるとか、蛙の卵から人間を孵化させるといったような、一端いっぱし、気の利いた研究ならまだしもの事、心理遺伝なんていう三つ児にでもわかる位、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になる程の苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く附纏われて、それこそ地獄の苦しみにちながら、やっと真理の証明が出来たにしても、その報酬として何が残るか。妻子眷族けんぞくに取捲かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の時だ。飛んでもない野郎だというので、踏んで蹴られて、唾液つばを吐きかけられる時だ。……ザマア見やがれとはこの事だ」
「……………」
「……こんな見っともない、ダラシのない結論になって来る事を、今日がきょうまで気付かずに来た吾輩は、つくづく自分の馬鹿さ加減に愛想あいそが尽きたのだ。人間も学者も同時に御免こうむって、モトのアトムに帰りたくなったのだ。当の相手の前に一切をタタキ付けて……」
「……………」
「……こうした吾輩の現在の気持は、無論、若林の目下のソレとは全然正反対でなければならぬ。若林はあくまでもこの実験を固執して徹底的に吾輩と闘うべく腰を据えているに違いないのだ。……殊に若林は自分自身が結核に取付かれて、余命幾何いくばくもない事を知っている。……だからこの事件の最後の結論の発表を引受るべき君の精神状態が、今朝けさから回復しかけている事を見て取るや否や、頭を刈ってやったり、大学生の服を着せたり、彼女に引会わせたりなぞ、いろんな事をして、出来るだけ早く君自身を呉一郎と認めさして、自分の味方に取付けて、都合のいい発表をしてもらおうと焦燥あせっていたのだ。……否……現在でも君と吾輩の上下左右に、眼に見えぬ網を張詰めて、グングンと自分の方へ手繰たぐり寄せつつあるのだ」
「……………」
「……しかし吾輩は元来そんな面倒な闘いにお相手になる必要はなかったのだ。どうせ自分自身は電子か何かになって、箒星ほうきぼしのお先走りでもうけたまわるつもりでいたし、一切の財産は軽少ながら、この真相の発表に対するお礼の印として、書類と一緒に一旦若林に預けて、君の頭が回復したのちに改めて引渡してもらう考えでいたし、又、発表の内容だって同様に、心理遺伝そのものの大体の要領さえ得ておれば、附録の実例に出て来る事件の犯人の名前なんぞは、どうでもいい……勝手にしやがれという了簡りょうけんで、つい今さっきまでいたんだが……。
 ……しかし、これが前世のごうとでもいうんだろう……先刻さっきから若林が、彼奴きゃつ一流の御叮嚀な遣り口で、そろりそろりと催眠術みたような暗示を君に与えながら、自分の勝手のいい方向に、君の頭を引っぱり込もうとしている態度を見ているうちに、吾輩の持って生れたかんの虫がジリジリして来た。その若林の見え透いた手のうちがゾクゾクする程イヤ味になって来たので、一つ逆襲してやれという気になって、ここへ出て来た訳なんだが……。
 ……ところが又……こうやって君と話しているうちに……つい今しがたから、何だか又気が変って来たようだ。理屈はかくとして、何もかもがヤタラに面倒臭くなって来たようだ。どうせ破れカブレの罰当り仕事だ。後は野となれ山となれだ。何もかも一思いにブチこわしてやれという気になって来たようだ……。
 ……こうなれあ訳はない……。
 ……吾輩は今日只今即刻に、君とあのモヨ子とを、この病室から解放してやろう。そうしてコンナ書類を残らず焼棄て、玉無たまなしにしてくれよう。
 ……吾輩は断言しておく……。
 ……あの六号室の少女モヨ子は、あの解放治療場の一角に突立っている美青年の、妻となるべき少女では断然ないのだ。法律上から云っても道徳上から見ても確かに、そこにいる君の未来の妻たるべく運命付けられている女性なんだ。君のベターハーフたるべく、明暮あけくれ、身をもだえて、恋いこがれている可憐の少女に相違ない事が、科学的立場から見ても寸分間違いのない事を、若林と吾輩の専門の名誉にかけて誓言しておく。
 ……同時に吾輩は、吾輩の専門の立場から今一つ、断言しておく……。
 ……君はそうしない限り……君自身が進んでモヨ子さんとの結婚生活に入ってみない限り、若林と吾輩がイクラ他所はたから苦心努力しても、現在の自己障害……『自我忘失症』から離脱出来ないであろう事が、やっと今になって判ったのだ。それがモヨ子さんと君自身とを救い得るタッタ一つの最後の手段である事が、最前からの色々な実験の結果やっと判明して来たのだ。……むろん、これは決して君を無理に押付るために云うのではない。君自身の堅固な童貞生活から来ている現在の自家障害――『自我忘失症』を回復させるためには、これが最有効な、最後の最後の取っときの精神科学的療法である。この療法の原理原則に関しては、精神分析屋のフロイドでも、性科学専門のスタイナハでも全然吾輩と説を同じくしているのだから……。
 ……こうした最後的な治療手段の効果が、二と二を加えて四になる以上に的確なことは、直ぐにわかる。論より証拠だ。吾輩の言葉の全部が虚構でない証拠は、彼女と君とが幸福な結婚生活に入ると同時に、回復して来る君の記憶力の中に、無量無辺に思い出されて来るであろう。今までの神秘と怪奇とを極めた出来事の数々が、決しての解放治療場の片隅で微笑している、君とソックリの美青年に関係した事でない事が、君自身にはっきりと自覚されることによって証明されるであろう。それ等の驚くべき出来事のすべてが、直接に君自身と関係を持った話であることが、殆ど電燈でんきのスイッチをひねるのと同様な鮮やかさで、一時に判明して来るであろう。……何故なにゆえかと云うと、君はの令嬢との新婚生活に入ると同時に、現在、君の頭の中に鬱積、緊張して、そうした自家障害を与えているその生理的の原因から解放される事になるのだから……今まで、どうしても思い出し得なかった過去の記憶の全部を、一時にズラリと思い出すにきまっているのだから。同時に現在、君が疑い、迷い、苦しんでいる事件の真相を裏の裏まで看破し、思い出して……成る程……そうであったかと長大息するに違いないのだから……そうして物質的にも精神的にも恵まれた、真実に幸福な家庭生活に入ると同時に、他人に頼まれる迄もなく、君自身の理智に立脚した公平な立場から観察した、この事件の真実の記録を学界に発表して、吾輩と若林の苦心努力の実情を正義の審判にかけると同時に、その発表によって、現代の脱線的な邪悪文化に一大転期を劃さずにはおられないであろうことを、吾輩は今一度、吾輩の専門の名にかけて……君とモヨ子さんとの名誉と幸福のために……」
「……いけませんッ……」
 私は突然に非常な力で跳ね起きた。火のような憤激に、全身をわななかせつつ廻転椅子から立上った。正木博士の口をアングリと開いて、呆気あっけに取られている顔を見下しつつ、ギリギリと歯切はぎしりをして、唇を震わした。
「……イ……イ……嫌です。……ま……真平まっぴら御免です。……ゼゼ……絶対にお断りします」
「……………」
 私は先刻さっきから一所懸命に我慢していた、あらゆる不愉快な思いが、口をいてほとばしり出るのを止める事が出来なくなった。
「……ボ……僕は精神病者キチガイかも知れません。……痴呆バカかも知れません。けれども自尊心だけは持っています。良心だけは持っているつもりです。……たとい、それが、どんなに美しい人でありましょうとも、僕自身にまだ、誰の恋人だか認める事が出来ないような女と、たかが治療のために一緒になるような事は断じて出来ません。法律上、道徳上、学術上、間違いない事がわかっていても、僕の良心が承知しません。……たといその女の人が、僕を正当の夫と認めて、恋いこがれているにしてもです。僕自身に、そんな記憶がない限り……そんな記憶を回復しない限り、どうしてそんな浅ましい、恥知らずな事が出来ましょう。……して……まして……こんなけがらわしい研究の発表なんぞ……ダ……誰が……エエッ……」
「……マ……待て……」
 正木博士が座ったまま、真青になって両手を上げた。
「……が……学術のために……」
「……ダ……駄目です……駄目です……絶対に駄目です」
 私の眼から、涙が止め度もなく溢れ流れはじめた。そのために正木博士の顔も、部屋の中の光景もボンヤリして見えなくなったが、それを拭いもあえずに私は叫び続けた。
「学術が何です。……研究が何です。毛唐の科学者がどうしたんです。……僕はキチガイかも知れませんが日本人です。日本民族の血をけているという自覚だけは持っています。そんな残忍な……恥知らずな……毛唐式の学術の研究や、実験の御厄介になるのは死んでも嫌です。……学術の研究というものが、どうしてもコンナ穢らわしい、恥知らずな事をしなければならないものならば……そうして僕が是非ともコンナ研究に関係しなければならない人間ならば、僕はそんな過去の記憶と一緒に、この頭をブッ潰してしまいます……今……直ぐに……」
「……ソ……ソ……そんな訳じゃない……実はお前は……君は呉一郎の……呉一郎が……」
 こう云ううちに正木博士の態度が、シドロモドロに崩れて来た。天地が引っくり返っても平気の平左へいざと思われたその大胆不敵な、浅黒い顔色が、みるみる真赤になり、又たちまち真青に変化した。中腰になって両手を伸ばしつつ、私の言葉をさえざり止めようとして狼狽ろうばいしている態度が、新しく新しく湧き出る私の涙越なみだごしにユラユラと揺らめき泳いだ。しかし私は皆まで聞かなかった。
「嫌です嫌です。僕が呉一郎の何に当ろうが……どんな身の上だろうが同じ事です。誰が聞いたって罪悪は罪悪です」
「……………」
「先生方は、そんな学術研究でも何でも好き勝手な真似をして、御随意に死んだり生きたりなすったらいいでしょう……しかし先生方が、その学術研究のオモチャにしておしまいになった呉家の人達はドウなるのですか……呉家の人達は先生方に対して何一つわるい事をしなかったじゃありませんか。そればかりじゃありません。先生方を信じて、尊敬して、慕ったり、便たよすがったりしているうちに、その先生方に欺瞞だまされたり、キチガイにされたりしているじゃないですか。この世に又とないくらい恐ろしい学術実験用の子供を生まされたりしているじゃないですか。そんな人々の数えても数え切れない怨みの数々を、先生方は一体どうして下さるのですか。……死ぬ程、愛し合っている親子同志や恋人同志が、先生方の手で無理やりに引離されて、地獄よりも、非道ひどい責苦を見せられているのを、先生方はどうして旧態もとに返して下さるのです。唯、学術の研究さえ出来れば、ほかの事はドウなっても構わないと仰言おっしゃるのですか」
「……………」
「御自分で手を下しておいでにならなくとも、おんなじ事ですよ。その罪の告白を、他人に発表させておけば、それで何もかも帳消しになると思っておいでになるのですか……良心に責められているだけで、罪はきよめられると思っておいでになるのですか」
「……………」
「……あんまり……あんまり……非道ひどいじゃありませんか」
「……………」
「……セ……先生ッ……」
 と叫ぶと眼がくらみそうになった私は、思わず大卓子テーブルの上に両手を支えた。新しく湧き出す熱い涙で何もかも見えなくなったまま、呼吸いきはずませた。
「……後生ですから……後生ですから……その罰を受けて下さいませんか……そうして……そんな気の毒な人達の犠牲を無駄にしないようにして下さいませんか……喜んで……心から感謝してその研究の発表を、僕に引受けさして下さいませんか」
「……………」
「その罰の手初めには、若林博士を僕が引張って来て、先生の前で謝罪させます。恋の怨みだったかドウか……どうしてコンナ恐ろしい……非道い事をしたか……白状させます……」
「……………」
「……それから先生と、若林博士とお二人で、被害者の人達に謝罪して下さい。その斎藤先生の肖像と、直方のうがたで殺された千世子の墓と、それからあの狂人きちがいの呉一郎と、モヨ子と、お八代さんの前に行って、一人一人になすった事を懺悔ざんげして下さい。学術研究のためだった……と云って、心からお二人であやまって下さい……」
「……………」
「お願いというのはそれだけです。……ドウゾ……ドウゾ……後生ですから……僕が……こうして……お願いしますから……」
「……………」
「……ソ……そうすれば……僕はドウなっても構いません。手でも足でも、生命いのちでも何でも差上げます。……この研究を引継げと仰言おっしゃれば……一生涯かかっても……一切の罪を引き受けても……」
 私はタマラなくなって両手で顔をおおうた。その指の間を涙がほとばしり流れた。
「……コ……コンナ非道い……冷血な罪悪……ああ……ああ……僕はモウ頭が……」
 私は大卓子テーブルの上に崩折くずおれ伏した。声を立てまいとしても押え切れない声が両手の下からむせび出た。
「……ス……済みませんが……僕に……みんなの……か……かたきを取らして下さい……」
「……………」
「……この研究を……シ……神聖にして下さい……」
「……………」
「……………」
 ……コツコツ……コツコツ……と入口のドアをたたく音……。
 ……私はハッと気が付いた。慌ててポケットからハンカチを取り出して、涙に濡れた顔を拭いまわしながら、正木博士の顔を見上げると……ギョッとして息が詰った……。
 それは昂奮の絶頂まで昇りつめていた私の感情を、一時に縮み込ませてしまった程恐ろしい、鬼のような形相であった。……瀬戸物のように血の気をうしなった顔面かお一パイに、蒼白い汗が輝やき流れて……ひたいの皺を逆さに釣り上げて……乱脈な青筋をウネウネと走らせて……眼をシッカリと閉じて……義歯いればをガッチリと喰い締めて……両手でシッカリと椅子の肱に掴まりながら、首と、肱と、膝を、それぞれ別々の方向にワナワナとわななかせて……。
 ……コトコトコトコトコトコトとドアをたたく音…………。
 ……私はドタリと廻転椅子に落ち込んだ。
 何かの宣告のような……地獄のおとづれのような……この世のおわりのような……自分の心臓に直接に触れるようなそのノックの音を睨みつめ聾唖者おしのように藻掻もがおののいた。……ドアの向うに突立っている者の姿を透視しようとして透視出来ないまま……救援を叫ぼうにも叫びようがないまま……。
 コツコツコツコツコツ……。
 ……と……やがて正木博士が、全身の戦慄を押し鎮めるべく、一層烈しく戦慄しながら、物凄い努力を初めた。……すこしばかり身体からだをゆるぎ起して、桃色に充血した眼を力なく見開いた。灰色の唇をふるわして返事をすべく振り返ったが、その声は、たんに絡まれたようになって二三度上ったり下ったりしたまま、咽喉のどの奥の方へ落ち込んで行った。……と思ううちに見る見る椅子の中にかがまり込んで死人のようにグッタリと首を垂れてしまった。
 コツコツコツ……コトコトコトコト……コツンコツンコツンコツン……。
 私はこの時、自分で返事をしたような気がしない。何だか鳥ともつかず、けものともつかぬ奇妙な声が、どこからか飛び出して、へや中に響き渡ったように思った。それと同時に頭の毛が一本一本にザワザワと走り出したように感じたが、そのザワザワが消えないうちに、入口の扉が半分ばかり開かれると、ガタガタと動く真鍮しんちゅうのノッブの横合いから、赤茶色のマン丸いものがテカテカと光って現われた。それは最前カステラを持って来た老小使の禿頭はげあたまであった。
「……ヘイヘイ……御免なさいまっせい。お茶が冷えましつろう。遅うなりまして……ヘイヘイ……ヘイ……」
 と云い云いまだ湯気を吹いている新らしい土瓶を大卓子テーブルの上に置いた。そうして只さえ弓なりに曲った腰を一層低くして、白く霞んだ眼をショボショボとしばたたきながら、皺だらけの首をさし伸べて恐る恐る正木博士の顔を覗き込んだ。
「……ヘヘ……ヘイヘイ。ちっと遅うなりまして……ヘイ……。昨晩ゆうべからほかの小使がみんな休みまして、今朝から私一人で御座いますもんじゃけん。ヘイ。まことに……」
 老小使の言葉がまだ終らないうちに、正木博士は最後の努力かと思われる弱々しい力で、椅子からヒョロヒョロと立ち上った。死人のように力無い表情で私を振り返って、何か云いたそうに唇を引き釣らせつつ、かすかに頭を左右に振ったようであったが、たちまち涙をハラハラと両頬に流すと、私に目礼をするように眼を伏せて、又も頭をグッタリとうなだれた。そうして小使が明け放しておいたドアの縁に捉まりながらフラフラと室を出て行ったが、今にも倒れそうによろめきつつ、入口の柱に手をかけて、ようやっと、廊下の板張りの上に立ち止まった。するとその後から追いかけるようにギイギイと閉まって行ったドアが、忽ちバラバラに壊れたかと思うほど烈しい音を立てると、室中の硝子ガラス窓が向うの隅まで一斉に共鳴して、ドット大笑いをするかのように震動し、鳴動し、戦慄した。
 そのあとを振り返って見送っていた小使は、やがてオズオズとこちらに向き直りながら、呆れたように私を見上げた。
「……先生は……どこか、お加減が、お悪いので……」
 私も最後の努力ともいうべき勇気を振い起して、無理に、泣くような笑い声を絞り出した。
「ハハハハハ。何でもないんだよ。今チョット喧嘩をしたんだ。……ツイ先生をおこらしちゃったんだ。心配しなくともいいよ。じきに仲直りが出来るんだから……」
 と云ううちに両方の腋の下から、冷たい水滴がバラバラと落ちた。嘘を云うのがこんなにタマラないものとは知らなかった。
「……ヘエイ……左様さようで御座いましたか。それならば安堵あんど致しました。はじめてあのようなお顔をばお見上げ申しましたもんじゃけん……ヘイヘイどうぞ御ゆるりと、なさいまっせえ。私一人で誠に行き届きまっせんで……ヘイ。先生はホンニよいお方で御座います。ようお叱りになりますが、まことに御親切なお方で……それに昨日からは又、あの解放治療場で大層もない御心配ごとが出来まして、そのために今一人しかおりませぬ小使が、足を踏み挫きまして休んでおりますようなことで……先生様もお気の毒で御座います……ヘイヘイ……ヘイ……どうぞ御ゆるりと……」
 禿頭はげあたまの小使は冷めた方の茶瓶をげて、曲った腰を一つヤットコサと伸ばしつつ、ヨチヨチと出て行った。私は、私の魂を喰いに来た鬼が出て行くかのように、その後姿を見送った。

 小使が出て行ったあとのドアがガチャガチャと閉まると、私は又、思い出したようにグッタリとなった。長い長いふるえた呼吸いきを腹の底から吐き出しながら、大卓子テーブルに両肱を突いた。両掌りょうてでシッカリと顔をおおうて、指先で強く二つの眼のたまを押えた。頭のしん乾燥ひからびたような、一種名状の出来ない疲労を覚えると共に、強く押えた眼の球の前にいろいろな幻像があらわれるのを見た。その中を縦横無尽に、電光のように馳けめぐる…… インタロゲーションマーク ……を見た。そうしてその…… インタロゲーションマーク ……を頭の中で押え付けよう押え付けようと焦燥あせった。
 ……解放治療場の白い砂の光り……?……
 ……そのまん中の枯れ葉を一パイに着けた桐の木……?……
 ……その向うに突立っている呉一郎の姿……?……
 ……その向うの煉瓦塀の上の、屋根の上の、巨大な二本の煙突……?……
 ……その上から吐き出されて行く黒い煤烟ばいえんのうねりと、青い青い空の色……?……
 ……白いベッドの上に泣き伏した、白い患者服の少女の姿……?……
 ……緑の平面の上に開いたまま置き忘れられている若林博士の調査書類……?……
 ……紫色に渦巻く葉巻の煙……?……
 ……若林博士の奇妙な微笑……?……
 ……正木博士の鼻眼鏡の反射……?……
 ……?……?……?……?……?……???????……………………
 ……?…………
 私は頭を一つ強く振った。……そんなものをつなぎ合わせて、飽く迄も私を学術の餌食にしようとしている、眼にも見えず、手にも取られぬ因果の網を掻き払うかのように、眼を閉じたまま両手を動かした。
 ……狂人の暗黒時代を背景にして、私を捉えるべく糸を操っているその網の主というのは、学術界に棲息している二匹の大きな毒蜘蛛どくぐもである。曠古こうこの精神科学者Mと、無双の名法医学者Wである。……その中でもMが私に投げかけた網の恐ろしかった事……私は今の今まで全力を挙げて抵抗して来た。全身の血を逆行させて、冷たい汗と、熱い涙のあらん限りを絞って闘って来た。そうして何かしらその相手に非常な打撃を与えて追い払ったようであるが、しかし、それと同時に私も力が尽きた。自分の行為の善悪を判断する力はおろか、この大テーブルから離れる元気さえなくなった。精神的にも肉体的にも、再び起つ勇気があるかないかすら解らない位疲れてしまっている。
 ……けれども……けれども私の背後には今一つの強敵が控えている。その強敵Wは、或はこの場の光景までも見透かして、冷笑しているかも知れぬ。それ程に抜け目のない、堅実な網を張って、私が落ち込んで来るのを待ち構えているに違いない。私自身は勿論のこと、あの正木博士すら気付かぬ位巧妙な、行き届いた、偉大な智慧の力でシッカリと私を押え付けて、血も涙も、骨も抜き取って、虚偽とけがれによって作り上げられた学術の犠牲に供すべく、刻一刻に私の背後から迫りつつある事がヒシヒシと全神経に感じられる。
 ……あの蒼白い、大きな、毛ムクジャラな手に掴まれる位なら、私は正木博士に反抗するのじゃなかった。私は何故かわからぬけれども、若林博士よりも正木博士の方が好きだ。二人とも私を餌食にしようとしている学界の毒蜘蛛であるにしても、私は正木博士の方が何となく懐かしくて親しみ易い気がする。今でも正木博士が引返して来て唯一言……
「吾輩が悪かった……」
 と云ってくれさえすれば、私は一も二もなく喜んで、何もかも忘れて正木博士の奴隷になるかも知れぬ。若林博士の卑怯さをあばいて、正木博士に同情した記録を発表するかも知れぬ。……若林博士のあの蒼白い手で、私の心臓を握られたくないために……。
 しかし……四囲あたりはシンとしている。正木博士が引返して来るような音も聞えぬ。……運命を待つよりほかはない。その運命と闘う力をなくしたまま……。
 ああ……どうしよう……。
 私の呼吸が又一しきり胸を圧迫して来た。
 そうして、やがて又、ふるえ、わななきつつ、力無く静まって来た。……身体からだ中が空虚になったような……耳の穴の奥だけがシイ――ンと鳴るような……。
「…………………………
 …………………………
 ウろいウろいまっ黒い
 トットの眼玉を喰べたらば
 イろいイろい真白い
 ホントの眼玉が飛び出した
    ポンチキポンチキポンチキチ……

 イろい眼玉は可愛いよ
 お口の中から飛び出して
 おはしの先から逃げ出して
 コロコロコロコロ転がって
 どこかへ見えなくなっちゃったア
    ラアラアラアラアポンチキチ……

 イろい眼玉は可愛いよ
 トットの眼玉は可愛いよ
 ホントの眼玉は可愛いよ
 可愛い可愛い可愛いよオ――
    ラアラアラアラアポンチキチ……
    ポンチキポンチキポンチキチ……

 可愛いヨオ――可愛いヨオ――
 …………………………」
 という最前の舞踏狂の少女の澄み切った声が、南側の硝子ガラス窓越しに洩れて来る……。
……突然……一つの素晴らしい考えが頭の中にひらめいた。私の頭の中心にコビリ付いていた千万無数の…… インタロゲーションマーク ……が一時にパッと光って消え失せたような気がした。器械人形のように顔から手を離して、廻転椅子の上に腰かけ直した。正木博士が出て行った入口のドアを見た。正面の壁にかかった黄金と黒の二つの額ぶちを見た。眼の前に散らばっている様々の書類を見まわした。秋の正午に近い光りが、へや中一パイにこもった葉巻の煙を青白く透かして、色々な品物の一つ一つにハッキリした反射を作っているのを見た。
「……ナア――ンダ……ナア――ンのコッタイ。……これあ……アッハッハッハッハッハッハッハッハッ……」
 私は両方の横腹から、たまらない可笑おかしさがコミ上げて来るのを両手で押え付け押え付けして笑い続けた。
……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったんだぞ俺……アッハッハッハッハッ……
……若林博士も、正木博士もそうなんだ。イヤ、俺よりもモットモット念入りの大馬鹿なんだ。俺たちは三人共、飛んでもない誤解をし合っているのだ。何という馬鹿馬鹿しい間違いだ、……これは……。
……誰が千世子を殺したか。誰が呉一郎に絵巻物を渡したか。……誰が呉一郎の本当の親なのか。WかMか……それとも外にモウ一人チャンと控えているのか……そんな謎はまだ、丸っきり一つも解かれていないのだ。みんないい加減な第三者の仕事かも知れないのだ……
……否々、この事件には初めっから一人も犯人がいないのに違いない。この事件の内容というのは偶然に離れ離れに起った、原因不明の出来事の色々を、一つに重ね合わせで覗いたものに過ぎないのだ。千世子の縊死いしだって……斎藤博士の溺死だって……呉一郎の発狂だって……みんな自分勝手にし出かした事かも知れないのだ……でなければ、こんなに神秘的な、不可解な、底の知れない事件があり得る筈はないじゃないか。
……それを二人の博士が感違いをして、無理に一枚に重ね合わせて、一つの焦点を作ろうとしているのだ。お互いに相手を恐れて……自分の大切な研究材料を相手に取られまいとして、色眼鏡をかけて睨み合ったために、何もかも相手がタッタ一人でして来た事のように見えたに過ぎないのだ。
……可哀相に……めいめい自分で覚えがあり過ぎるために……否……否……今まで手応えのある相手を発見し得なかった古今無双の二つの脳髄同志が、ここで互いに好敵手を発見し合って、本能的に戦闘慾を発揮し初めたんだ。力一パイ四ツに取組んで、動く事が出来なくなっているのだ。
……アハ……アハ……こんな馬鹿馬鹿しい……間の抜けた……トンチンカンな争いが又とこの世にあり得ようか。事件そのものの内容よりも、二人の博士の研究と争闘の方が、ズット真剣で、深刻で恐ろしいのだもの。もしかすると学者なんてものは皆、こんな詰らない事ばかりを本気になって争い合っているものじゃないかしら……。
……しかし考えて見れば無理もないだろう。あの呉一郎と、この俺とはドウしても双生児ふたごとしか思えないくらい肖通にかよっているんだもの。おまけにあの呉モヨ子と、この絵巻物の死美人像とが、瓜二つどころじゃない。ソックリそのままなんだもの……こんなに在りそうにもない二重の偶然同志がこの地方で、しかも同じ血統ちすじの中に固まり合っているのを発見したら、誰だってビックリするに違いないだろう。そうしてこれには何か深い原因わけがあるに違いないと思って、最初から色眼鏡をかけて研究を初めるだろう。……本人はそんなつもりでなくても、研究を初める気持が既に色眼鏡をかけたのと同じ気持だから仕方がない。その証拠には、この事件を組み立てている色々な出来事を一つ一つに離してみると、別に二人の博士が手伝わなくても、それぞれ勝手次第に、自由自在に起り得る事件ばかりではないか。それを二人の博士がお互いに相手の所業しわざと思って疑い合っているお蔭で、一つに重なり合って見えているだけの事で、二人の博士の八釜やかましい説明が付いていなければ、単純な二つの変死事件と、一つの発狂事件の寄り集まりに過ぎないじゃないか……。
……そうだそうだ。それに違いない。ソレに違いない。みんな根のない事件のブツカリ合いに過ぎないのだ。それを俺が気付かずにいたんだ。そうしてウンウン云っていじめ付けられていたんだ……馬鹿馬鹿馬鹿。馬鹿の、馬鹿の、大馬鹿揃いだったんだ……三人が三人とも……。
……ウッカリするとこの事件の犯人は、ヤッパリ俺になるのかも知れないぞ……。
「……アハハハハハハハハ……」
 私はへやじゅうに反響する自分の笑い声を聞くと、フイと口をつぐんだ。そうしていつの間にか頬杖を突いていた私の眼は、鼻の先の緑色の平面に転がっている絵巻物に、ピッタリと吸い寄せられているのに気が付いた。
 ……これが霊感というものであろうか……。
 ……私は不意にドキンとして、今一度回転椅子の上に座り直した。今までにない……何とも云えない神聖な気持に満たされつつ、うやうやしく絵巻物を取り上げると、ジッと見詰めて考えた。
 ……最後に残るものはこの絵巻物の魔力である。……すべては否定出来る。……しかしこの絵巻物の魔力ばかりは最後の最後まで否定出来ない……と……
 ……この事件は表面から見ると、すべてがノンセンスに出来上っていると云える。実に詰まらない小事件の寄せ集めに過ぎないと考えられるので、唯、その間に正木、若林の両博士が引っかかり合ってこの絵巻物の魔力を中心にして或る怪事業を成しげようと試みているために、全体が非常に有意義な、戦慄すべき緊張味を示しているかのように見えるのであるが、しかし一歩退いて、この事件を裏から覗いてみると、実は二人の博士が二人とも、この絵巻物にコキ使われているのだ。自分たちが持っているだけの智慧も、度胸も、学問も、地位も、名誉も、生命いのちまでも投げ出して、この絵巻物の魔力の前に三拝九拝しているのだ。その以外の人間の生死も、流転も、煩悶も、万一もし正木博士の話が真実とすれば、やはりこの絵巻物から引き起された事件に相違ないので、結局するところ、一切の摩訶まか不思議を支配する中心的の魔力は、この絵巻物一つから現われている事になる。すべての現実的事実と一切の科学的説明はノンセンス化し得るとも、この絵巻物の魔力ばかりは絶対に、何人なんぴともノンセンス化する事が出来ない事になるであろう。
 ……だから……この絵巻物にしてもし霊があるならば、すべてを知っているに違いない。同時に自分自身の経歴を、何者よりもよく知っている筈である。……この事件にドンナ風に関係して来たか。どんな手順で呉一郎の手に落ち込んで来たかを一分一厘、間違いなく知っている筈である。そうして又、如何にして両博士を悩まし、且つ、私までも苦めているかという、その裏面の消息をも残らず心得ている筈である。
 ……この絵巻物の一巻は、今までの間に多くの人々を狂乱させ、迷動させ、互いにあい殺傷させ合いつつ知らん顔をして来た。同様に現在の今日只今も、何一つ知らぬかの如くよそおうて、私のてのひらに乗っかっている……が……しかし……。
 ……今から一千百余年前、大唐の玄宗皇帝の淫蕩は、青年紳士、呉青秀の忠志に反映して、六体の美人の腐敗像をこの一巻の中に顕現あらわした。……然るにその怪画像に籠った、怪芸術家の一念は、はるばる日本に渡って来てのちまでも、呉家の血統に絡み付いて、恐るべき因果の姿を現実に描きあらわすこと幾十代。しかも十数世紀を隔てた今日に到って、何等の血縁もない正木、若林両博士の手に移って、科学知識の無上の大光明に照らされる時節にうても、ついにその魔力をうしなわないどころか、かえってその怪作用を数層倍してその両博士の全生涯をアラユル方向に蹂躙じゅうりんし嘲弄している。のみならず今日只今、処もあろうに現代文化の淵叢えんそうであり権威である九州帝国大学のまん中の、まひるの真只中まっただなかに、ほとんど仮初かりそめに私の指先に触れたと思う間もなく、早くもその眼に見えぬ魔手をさし伸ばして、私の心臓をギューギューと握り締めて、生血なまち生汗なまあせを絞りつくす程の苦しみを投げかけている……不可解の因縁を以て私に絡み付いて、不可思議の運命の渦に私を吸い込みつつある。……事実の真相に白い曇りを吹きかけつつ、その白い曇りの魅力にかけて私を散々にもてあそんでいるではないか……思い出されない事を思い出させ、考えられない事を考えさせ、見えないものを見させようとしているではないか……消え失せた過去の記憶を求めさせ、自分でない自分の身の上を考えさせ、ありもしない事件の真相を無理やりに探させつつ、迷わせ、狂わせ、泣かせ、笑わせているではないか……。キチガイ地獄以上のキチガイ地獄の中にノタ打ち廻らせているではないか……。
 ……おお……何という恐ろしい魔力……。
 ……眼の前の空間を凝視して、ここまで考えて来た私の、大きく見開いた眼の底の大虚空に、あの死後五十日目のたい夫人の冷笑のまぼろしが、又もアリアリと現われて来た。
 それを私は消え失せるまで白眼にらみ付けた。
 ……畜生……どうするか見ろ……。
 こう思うと私は、何かしらこの絵巻物の中から、一切の神秘と不可解とを、一挙に打ち破るに足る或る恐るべき秘密の鍵を発見しそうな予感に打たれつつ、唇を強く噛み締めた。二人の博士と私を苦しめている魔力の正体を一撃の下に曝露するに足るあるもの……まだ何んにも気付かれずに残っている意外千万なあるものがこの絵巻物のどこかに潜んでいそうな一種の霊感に満たされつつ手早く絵巻物のひもを解いた。そのついでに腕時計を見ると、ちょうど十二時に十分前である。正面の電気時計は十一分前であるが、これはもう長い針がXの字の処へ飛ぼうとしている間際かも知れない。

 絵巻物の軸になっている緑色の石の処に息を吐きかけてみると、誰のともわからぬ指紋が重なり合って見えるようであるが、これは先刻さっき私がイジクリまわした跡だと気が付いたので苦笑しいしい巻物を取り直した。こんな迂濶うかつな事では駄目だぞ……と自分で自分を冷罵しながら……。
 表装の刺繍と内部の紺色の紙の上に、細く光る繊維みたようなものが、数限りなく粘り付いているが、これは嘗てこの絵巻物を真綿か何かで包んでいた遺跡であろう。鼻に当てて嗅いでみると、黴臭かびくさいにおいと、軽い樟脳しょうのうみたような香気が一緒になった中から、どこともなく奥床おくゆかしい別の匂いがして来るようであるが、なおよく気を落ち付けて嗅ぎ直して見ると、それは私が初めて嗅ぎ出したものではないかと思われる程の淡い、上品な香水の匂いに違いない事が解った。
……面白いナ。この調子で行くと、まだ色んな物が発見出来そうだぞ。この黴臭い匂いと樟脳に似た木のが弥勒様の木像の中でみ込んだものである事は、誰でも考え付く事であろうが、併し、この香水の匂いにはチョット気の付く者がいなかったであろう。そうしてこのゆかしい芳香は、この絵巻物の前の持主を暗示するものでなくて何であろう。
……占めた。もしもこの上に、まだ誰にも気付かれていない何物かが在ったら最後……それは一本の髪の毛でも煙草の屑でもいい……犯人を決定する有力な材料になるのだぞ……
 ……とさながらに自分自身が名探偵にでもなったように考えつつ、一層勢付いきおいづいて来た私は、絵巻物を頭の方から、逆に捲き込みながら、絵の処から由来記の文章の終っているところまで、裏表とも叮嚀に見て行ったが、先刻さっきは意地にも我慢にも正視出来なかった死美人の腐敗像が、今度は愛想あいそもこそもない只の顔料の配列としか見えなくなっているのにはすくなからず驚かされた。しかも、それは決して光線の具合でも何でもなかった。黛夫人の腐れ破れた唇から見え透く歯並の美しいところ、臓腑が瓦斯ガスを包んで滑らかに膨れ光っているところまで、細かに注意して見たが、何ともないものは、いくら見ても何ともない。私は人間の神経作用の馬鹿馬鹿しさにスッカリ張り合いが抜けてしまった。
 ……しかし……と思ってなおよく注意してみると、初めの方は紙の地が幾分ボヤケているが、由来記のおしまいの方に近づけば近づく程、紙の表面がスベスベして上光りがしている。これは無理もない話で、最初に筆を執った呉青秀からして、初めの方ほど余計に開いたり捲いたりしたに決っている。又、そののちこの絵巻物を開いて見た呉家の先祖代々の者も同様で、最初私がした通りに、初めの完全な姿に近い所ほど念を入れて見たわけで、これは人情からいっても止むを得ないであろう……巻物の裏一面に何かキラキラ光る淡褐色の液体を塗ってある上に指の跡みたような白い丸いものが処々附いているようであるが、あまり滑らかでない紙の下から、粗い布目が不規則に浮き出しているのだから、何の痕跡あとだかハッキリと見分けがたい。……結局、私がこの絵巻物から発見したものは、今の上品な香水の匂いだけであった。
 私は今一度、絵巻物に顔を近付けて、ほのかにほのかに何事かを私に話しかけるような香気を繰返し繰返し、腹の底まで吸い込んでみた……が……それは何という香水か知らないが、ホントウに上品な、清浄そのもののような香気と思えるばかりでなく、私の記憶の底の底から何かしらなつかしいような又はのない夢のような……正直に云えば吸い付きたいような思い出をび起すらしい気持のする匂いであった。云うまでもなくそれは女性のソレらしく思われるが、併しそれが私の昔の恋人か、それとも母か姉か……というような見当がつく程まざまざとした感じではない。……私は念のために立ち上って、入口のドアの横から自分の角帽を取って来て、その内側のにおいと、絵巻物の香気とを嗅ぎ較べて見た。けれども私の帽子の内側は、いくら嗅いでも新しい羅紗らしゃと、エナメル皮と、薄いかびの匂いしかしなかった。私が絵巻物のソレと同じ香水を使っていたという証拠にも参考にもならなかった。
 私は帽子を横に置きながら軽い嘆息をして、絵巻物を捲き返そうとしたが、又……ビクリ……とすると手を止めた。思わず空間を凝視しながら……。
 ……実に意外千万な暗示が頭の中にひらめき込んで来たからであった……。
 ……姪の浜の石切場で、呉家の常雇じょうやといの老農夫戸倉仙五郎が呉一郎を発見した時には、絵巻物の白い処ばかりを呉一郎が凝視していたという……その不可思議な事実のホントの意味が、チラリと判りかけて来たからであった……。

 ……というのは外でもない……。
 この絵巻物の中でも、おしまいの漢文の由来記が書いてある処までは、度々人間の手によって拡げられたり、捲かれたりしたものに違いない事がわかり切っている。従って、その一丈近い長さの間には、何かしらこの絵巻物を覗いた人間の身に附いたものが落ち込んでいるべき可能性のある処である……がしかし、それと同時に、万人の中に一人でも、これから先の白い紙ばかりの処を、ズット先の方まで開いて見る人間があったとすれば、その人間の頭は、余程普通と違った頭でなければならぬ訳で、どちらかといえば、そんな人間は絶無に近い事が、常識で考えても直ぐに判るであろう。……とはいえ又、万一にもソンナ常識で想像出来ない或る場合とか、又はその余程アタマの構造の違った人間とかが実際に出現して、由来記の後の白紙ばかりの処をズット先の方まで開いて見た事があったとしたらドウであろうか。早い話が、この絵巻物の筆者呉青秀は、黛夫人の白骨になった姿だけを、悠々と落ち付いて、一番おしまいの処に描いているような事がありはしまいか。……それを黛夫人の妹のふん女を初め、呉家の代々の人々から正木博士に到るまで、唯、常識で考えて、この中に描いてある死像を六体限りとアッサリきめているような事がありはしまいか。……そうして更に、その中でも、この絵巻物が人を発狂させる程の魔力を持っていることを看破するような頭を持った人間だけが、そこまで気を廻して開いて見ているとしたら、どんなものであろう……もしそんな事が在り得るとしたら、そこに何かしら落ち込んでいないとはドウして云えよう。……しかもその落ち込でいる何かしらは、たといそれがドンナに微細なものであろうとも、スバラシク重大な意味をあらわす事になるではないか。この絵巻物を使って、この事件を捲き起した犯人の正体をズバリと指す事になるかも知れないではないか。否。もしかするとこの絵巻物の神秘力を一挙に打ち破って、一切の迷いを真実にかえす程の力を持った者であるかも知れない。……少く共そこまで調べて見た上でなければ、この絵巻物の中から何も発見出来なかったとはどうして云えよう。
……呉一郎は姪の浜の石切場でこの絵巻物の白い処を一心に凝視していたという。しかもその時は既に半分呉青秀、半分は呉一郎の気持ちでいたものと推定されているから果して、どちらの気持ちでそうしていたものか判然しないのであるが、しかしいずれにしても、この絵巻物の白い処をズットおしまいの処まで見て行った……そうしてそこに落ち込んでいる何ものかを発見したに違いない事は容易に推定出来ると思う。
……その証拠に呉一郎は「この絵巻物の預り主の正体を知っている」と仙五郎爺さんに話しているではないか……。
……どうして……どうして私は今の今までこの事実に気付かなかったのだろう……。
 こうしたかんがえを一瞬間のうちに頭にひらめかした私は、又も、何者かに追駈おいかけられているような予感がして、チョット腕時計と電気時計を見較べた。どちらも十二時に四分前である。
 私の手は再び反射的に絵巻物を持ち直して白い処を捲き拡げ始めた。そうして最初の一分間かそこらは、できるだけ冷静に調べて行くつもりであったが、どこまで行っても唯真白いばかりの唐紙の上を一心に見つめて行かなければならぬ事が、判り切っているように思えるので、私は間もなく、はてしもない白い砂漠を、あてもないのにタッタ一人で旅行させられているような苛立たしさと、馬鹿らしさを感じ初めた。自分一人で名探偵を気取っているような自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。
 それにつれて……かどうか知らないが、呉青秀が一番おしまいに白骨の絵を書いているかも知れない……という推量も怪しくなって来た。
 呉青秀が痴呆状態に陥ったものとすれば、自分が古今無類の馬鹿者であった、当もない忠義立てのために最愛の妻を犬死にさせた……という事を、義妹の芬女の説明でハッキリ思い当った刹那せつなに、茫然自失してからの事であろう。そうすればその数分間前、もしくはその数秒前までは正気でいた筈だから、もし云い忘れたのでなければ、一番おしまいに白骨の絵を描いたか如何どうかを説明していない筈はない。又、芬女にしてからが同じ事で、自分の恋い慕っている男が、大事な大事な姉を犠牲にして企てた事業の成績品をひらいて見ながら、千年も経った今日になって赤の他人の私が思い付く位の事を気付かずにいるような事は万に一つもありそうにない……こう思うと私は一遍に気が抜けてゲンナリとしてしまった。
 ……しかし……それでも私は、つまらない一種の惰力みたような、気の抜けた義務心に義務附けられたような気持と、今までの気疲れが一時に出初めてウトウト睡くなって行くような気持とを一緒に感じながら、あと一丈ばかりもあろうかと思われる白い処を両手で一気に繰り拡げながら、ほんの申訳もうしわけ同様に追いかけ追いかけ見て行った。そうしてやっと二丈か三丈位ありそうに思われる長い巻物の白いところを、最終の処まで追い詰めて来ると意外にも、黒い汚染しみのようなものがチラリと見えたので、思わずドキンとして眼をみはった。
 よく見ると、それは一番おしまいの紺色の紙に、金絵具で波紋を描いたところから一寸ちょっとばかり離れた個所に、五行に書かれた肉細い、品のいい女文字であった。これが小野鵞堂流おのがどうりゅうというのであろうか……

子を思ふ心のやみも照しませ
   ひらけ行く世の智慧のみ光り

  明治四十年十一月二十六日
福岡にて 正木一郎母 千世子  正木敬之様 みもとに
 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………私の頭髪は皆、逆立さかだった……。
 ……慌てて絵巻物を捲き返そうとしたが……手がふるえて取り落した……。
 ……と、その絵巻物がさながら生きているもののように、ひとりでに捲き拡がって、大卓子テーブルの上から床の上に這い落ちて、リノリウムの上をクルクルクルと伸びて行くのを見ているうちに、ゾーッとして来て夢中になった私は、どうしてドアを開いたか、いつ廊下を走ったか判らぬまま階段を一散に駆け降りて、玄関から外へ飛び出した。
 トタンに非常な大音響が、私を追い散らすかのように、九大構内の松原に轟き渡った。
 それは午砲ドンであった。

 それは一つの奇蹟であったとしか思えない……或る目に見えぬ偉大な力が、空中から手を差し伸ばして、私を自由自在に引きずり廻していたとしか思えない。それほどに、不思議な出来事であった。
 私は九大医学部の正門を飛び出してのち、どこをどう歩き廻ったかまるっきり記憶しない。そうして何を目標にして、又もとの九大精神病科の教授室に帰って来たものか全くわからない。
 ……背後から絶叫して来る自動車の警笛を聞いた。眼の前に急停車する電車の唸りに脅かされた。自転車のベルに追い散らされた。叱咤しったする人の声や吠えつく犬の声をきいた。グルグル廻る太陽と、前後左右に吹きめぐる風と、戦争のように追いつ追われつする砂ほこりを見た。雲の中からブラ下っている電柱を見た。軒の下まで鮮血をしたたらしている絵看板を見た。地平線の向うが透明な山に続く広い広い平野を眺めた。何千、何万、何億あるか判らぬおびただしい赤煉瓦の堆積の中へ迷い込んだ。その紫色の陰影の中に、手足をうごめかして藻掻もがいている孩児あかんぼ幻影まぼろしを見た。青澄んだ空の只中を黄色く光って行く飛行機を仰いだ……そのあとから白い輪廓ばかりの死美人の裸体像が六個むっつほど、行儀よく並んですべって行くのを見た。
 人の頭のように……又は眼の形……鼻の恰好……唇の姿なぞ取り取り様々の形に尾を引いて流るる白い雲……黒い雲……黄色い雲……その切れ目切れ目に薬液のように苦々しく澄み渡っている青い青い空……そんなものの下に冴えに冴え返る神経と、入り乱れて火花を散らす感情を包んだ頭の毛を、掻き※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり、掻き乱しつつ……時々飛び上る程の痛みを前額部に感じつつ……まぶしさと砂ほこりとでチクチク痛み出した眼をコスリコスリ、どこへ行くのか自分でも判らないまま、無茶苦茶によろめいて行った。
 ……川……橋……鉄道……赤い鳥居……その赤い鳥居の左右に、青白い顔をして立っている正木博士と若林博士の姿……ついには駆け出したくなるのを押え付け押え付けして歩いて行った。
…………何もかも真実であった……虚偽の学術研究でも、捏造ねつぞうの告白でもなかった。しかも、それは初めから終りまで正木博士がタッタ一人で計画して、実行して来た事ばかりであった。
……若林博士は何でもなかったのだ……。
……若林博士は初めから何も知らずに、正木博士の研究の手先に使われていたのだ。
……正木博士が行った巧妙奇怪を極めた犯罪に魅惑されて、自分から進んで調査をしているうちにいつの間にか正木博士の研究発表の材料を集める役廻りを引受けさせられていたのだ。正木博士が仕掛けておいた蹄係わなに美事に引っかかって、スッカリ馬鹿廻ばかまわしにされていたのだ……。
……けれども若林博士はその結論として、あの絵巻物の最終に残されている千世子の筆蹟を発見した。あらゆる疑問を重ね合わせた最後の疑問の焦点となるべき、ただ一点を発見して私と同じようにビックリしたに違いない。そうして私と同じように一瞬間のうちに一切を解決したに違いない。すべてが正木博士の所業しわざである事を発見したに違いないのだ。
……しかしそこで若林博士がった態度の如何に立派であった事よ……若林博士は、かくして事件の真相を奥の奥の核心まで看破すると同時に、その同窓同郷の友人として、又は学者としての有らん限りの同情と敬意とを正木博士に払うべく決心をしたのであった。そうしてその事件の内容の、要点だけを解らなくした。正しい調査記録を当の本人の正木博士に引き渡して、焼くも棄てるも、その自由にまかした。……又は態々わざわざ茶菓子を持たして寄越して、「私は遠くに離れ退いておりますから、どうか御心配なく御自由にお話し下さい」という心持ちを、云わず語らずのうちに知らせたりした。
……「正木博士は一箇月前に自殺した」なぞいうような口から出任せな嘘をいたのも、やっぱりそんな意味の親切気から、立ち聞きをしている正木博士が、あの場面に出て来ないように……そうしてアンナ苦しい破目はめに陥らないように……もしくは回復しかけている私の頭を、又も取り返しのつかぬ混乱に陥らせないように警戒するつもりで云った事であろう……あとで嘘だと判ってもいいつもりで……。
……実に男らしい尊い、申分もうしぶんのない紳士的態度を、若林博士はって来たのであった。
……しかるにこれに反して正木博士は、この実験のために、その全生涯と、全霊魂とを犠牲に供して来たのであった。最初から自分一人でこの伝説に興味を持って、千世子を欺して、子供を生まして、絵巻物を提供させたのであった。そうして一切をかえりみずにこの計画を遂行したのであった。
……けれども千世子が、あの絵巻物を提供する時に、あの和歌と、年月日と、子供の名前と生れた処とを、その父親の名前と一緒に奥付の処に書込んで、意味深長な釘を刺している事を正木博士は夢にも気付かずにいたのだ。世にもミジメに深刻な母性愛と、ステキな才智の結晶とも見るべき彼女の悲しい頭の働らきが、そこまで行き届いていようとは露程つゆほども想像し得なかったのだ。大胆な、眩惑的な、そうして飽く迄も天才的なその事業計画の中心に、ただ一点、致命的な疎漏そろうがある事を考え得なかったのだ。……そうして学術のため、人類のためと思って、神も仏も、血も涙も冷笑しにじって行きながらも、尚も、あとから追いかけて来る良心の苛責と人情の切なさに、寝ても醒めても悩まされ抜いて来たのだ……死人に心臓を掴まれたまま、跳ね廻って来たのだ。
……これが正木博士の全生涯なのだ。極度にけがされると同時に、極度にきよめられている……飽く迄も悲しく、飽く迄も痛快な……。
……しかもその正木博士は、その呪われた研究がいよいよ最後の場面に這入ると同時に、若林博士から投げ与えられたの調査書類を見ると流石さすがに胆を冷してしまった。その相手の恐るべき透徹した脳髄が、極めて遠廻しに……一分一厘の隙間すきまもなく自分を取り囲んでいる事を知った。そうしてその恐るべき明察の重囲に陥った苦しさにえ得ないままに、極めて卑怯な、且つ徹底的に皮肉巧妙な手段を以て逆襲を試みようとした。お手のものの患者の中から選み出した第三者の私を使って極めて冒険的な発表を決行させるべく、一切を私の前に告白した。
……が……その告白は初めから終りまで自分一人で計画して、タッタ一人で実行した事を二人に分割したものであった。その独特の機智を以て、相手の性質や行動を巧みに描写しつつ取り入れた、空前の巧妙精緻を極めた……そうして、それと同じ程度に浅薄幼稚を極めた思い付きであった。……その自縄自縛を切り抜けている一人二役式の思い付きの非凡さ……MとWの使い分けの大胆さ、巧妙さ……そうして、やはりもとの自縄自縛に陥ってしまっているそのミジメさ……愚昧おろかさ……。
「……アブナイッ……」
「馬鹿ッ……」
「アターッ……」
 という怒号と悲鳴が、私の直ぐ背後うしろから重なり合って飛びかかって来た。と同時に、
 ……ガラガラガラガラ……ガチャンガチャン……パーン……パチーン……
 という激しい物音が、引き続いて私の足の下に起った。……ハッとして振り返ると、其処辺そこいらに立っている人が皆、私の顔を睨みつけている。……私の直ぐ背後うしろには青塗の巨大おおきな貨物自動車が向うむきに停車している……くの字形になった自転車と、無残に壊れた空瓶の群が私の足下に散らばって、茶褐色の醤油がダラダラとただようている。……浅黄色あさぎいろ事業服しごとふくを着た大男が自動車の上から飛び降りて、タイヤの蔭に手を突込みながら、紙のように血の気を失くした印絆纏しるしばんてんの小僧を、まぶしい日陽ひなたに引きずり出している……人々がその方へ駆け寄って行く……。
 私はスタスタと歩き出しながら又も考え続けた。
……トテモ恐ろしい……考え切れないくらい恐ろしい秘密だ。一千年前に死んだ呉青秀の悪霊と、現代に生きている正木博士の科学知識との闘争たたかいは今たけなわなんだ。
……しかも正木博士は、この研究に志した当初の一瞬間から、その良心の急所を呉青秀の悪霊に掴まれてしまっている。人間愛のうちでも最大最高の親子の情と、夫婦の愛とを握り殺されてしまっている。そうして自分自身にはそれを気付かないで、どんな事があっても自分だけは決して呉青秀の悪霊に呪われまいと頑張り通して来ている……その呪われた心理状態を、色々な論文や、談話やチョンガレ歌なぞの形に現わして、次から次に公表して来ている……その一方には千世子を初めとして呉一郎、モヨ子、八代子と次から次に痛ましい犠牲を作り出しつつ、勇敢にもそれを踏み越え踏み越えして、科学の勝利を確信しつつ……呉青秀の悪霊を向うに廻しつつ、一心不乱に斬って斬って切り結んでいる。……ああ何という凄惨な、冷血な、あくどい執念深い闘争たたかいであろう。……魂からしたたり落ちる血と汗の臭気においがわかるような……。
……けれども……。
……けれども……。
 ここまで考えて来ると、私はパッタリと立ち止った。……賑やかな往来を見た。……不思議そうな目付きや顔付きで私を振り返って行く人々を見まわした。高い高い広告塔の絶頂でグルグルグルグルまわり出した光の渦巻を見上げた。その上に横たわる鮮肉のような夕映ゆうばえの雲を凝視した。
……けれども……。
……けれども……。
……よく考えてみると、私はまだその中から、私の過去の記憶の一片だも、思い出していないのであった――私は何者――という解答を自分自身に与える事が出来ない。憐れな健忘症の状態にとどまっているのであった。私は今朝けさあの七号室で眼を開いた時と少しも変らない……依然としてタッタ一人で宇宙間を浮游ふゆうする、悲しい、淋しい、無名の一微塵みじんに過ぎないのであった。
……私は何者?……。
……ああ……これを思い出したら私はすぐにも呉青秀の呪いから醒めそうに思われるのに……あの絵巻物の魔力から切離されてしまいそうに思われるのに……どうしてもそれが思い出せない。いくら考えてもコレダケが最後の、唯一の疑問として残って行く……。
……私は誰だろう……誰だろう……私の過去とこの事件の間にはドンナ因果関係が結ばれているのだろう……。
 ……とこう考えては今日の記憶を繰返し、くり返しては又考え直しつつ、暗雲やみくもに足を早めたり、ゆるめたりして歩いて行った。……遠く近くで打出す半鐘はんしょうの音……自動車ポンプのうなり……子供の泣き声、はたを織るひびき……どこかの工場で吹出す汽笛の音……と次から次へ無意識のうちに耳にしながら、右に曲り、左に折れしていたが、そのうちに私は又、突然に土を蹴って立ち止った。気絶する程ドキンとして首を縮めながら立ちすくんだ。
 ……大変だ。あの絵巻物を、あのままにして来た。
 ……あの絵巻物のおしまいの処にある千世子の筆蹟は誰にも見せてはならぬ……。
 ……正木博士が見たら発狂するか……本当に自殺するかも知れぬ……。
 ……タタ大変だッ……。
 私は思わず飛び上った。そうしてその次の瞬間にはクルリとうしろを向いて、どこか判らぬ真暗まっくらになった田舎道を一直線に駆け出していた。
 やがて明るい、美しい街筋に走り込んだ……。
 間もなく暗いゴミゴミした横町を突き抜けた……。
 三味線や太鼓の音の聞えるまぶしい通りを飛んで行った……。
 電燈の並んだ防波堤を三方海原うなばらの行き止まりまで来てビックリして引き返した……。
 いろんな店の品物や、電車や、自動車や人ゴミが走馬燈まわりどうろうのようにうしろへ後へとすべった……。
 汗と涙で見えなくなる眼をコスリコスリ元来た方へ元来た方へと急いだ……。
 ……眼がくらんで、息が切れて、そこいらが明るくなったり暗くなったりしたように思う。
 ……眼の前に灰色の鳥が無数に乱れ飛んでは消えて行ったように思う。
 ……いつの間にか往来に倒れているのを誰かたすけ起してくれたように思う。そうしてそれを振り離して、又駆け出したようにも思う。
 そんな事を繰り返して行くうちに私はとうとう何もかも判らなくなってしまった。何のために走って行くのか。どっちの方向へ行こうとしているのか考えようともしないようになった。時々見えたり聞えたりするものを夢うつつのように感じたが、しまいにはその夢うつつさえ感じられなくなるまで恍惚として蹌踉よろめいて行った……ように思う。

 それから何時間経ったか、何日経ったか判らない……。
 フト身体からだ中がゾクゾクと寒気立さむけだって来たようなので気がついて見ると、私はいつの間にか最前さっきの九州帝国大学精神病科の教授室に帰っていて、最前腰をかけていた回転椅子に、最前のように腰をかけて、大卓子テーブルの緑色の羅紗らしゃの上に両手を投げ出したまま突伏つっぷしているのであった。
 私はチョットの間、夢を見ているのではないかと疑った。先刻さっき……正午ひる頃にこの室を飛び出してから、方々を歩きまわって、見たり聞いたりした色々の出来事や、考えまわしたいろんな不思議な事……又はその間に感じたタマラナイ恐ろしさや息苦しさは、みんなここにこうして気絶している間に見た夢ではなかったかと疑ってみた。そうして気味わる気味わると自分の身のまわりを見まわして見たのであった。
 私の服もシャツも、穿いている靴も、汗と塵埃ほこりにまみれて真白になっている。両方の肱や膝は大きく破れたり泥まみれになったりして、ボタンが二つ程ちぎれて、カラーが右の肩にブラ下っている姿は恰度ちょうど酔漢よいどれと乞食との混血児あいのこを見るようである。左の手の甲に真黒く血が固まり附いているのはどこを怪我したのであろう。別段に痛い処もかゆい処もないが……併し眼と口の中が砂ホコリで一パイになっているらしく、まぶたがヒリヒリして歯の間がガリガリするその不愉快さ……。
 私はその眼と口を今一度、机の上に突伏せながら、ジット後先あとさきを考えて見たが、一体何しにここへ帰って来たのか、どうしても思い出せなかった。机の端に置き忘れて行った新しい角帽を凝視みつめながらその時の気持を思い出そう思い出そうと努力したが、この時に限って不思議な程、私の聯想力が弱っていた……何かしら非常に重大な品物か何かをこの室に忘れて、それを取りに帰って来たようにも思うのだが……と思い思いソロソロと頭を上げて前後左右を見まわして見ると、私の頭の上には大きな白熱電球が煌々こうこうと輝いている。
 入口のドアは半分いたままになっている。
 しかし、大卓子テーブルの上の書類は誰が片附けたものか、もとの通りにキチンと置き並べてあった。今朝けさ若林博士と一緒に這入って来て、初めて見た時の並び具合と一分一厘違わず……いじり散らした形跡なぞは微塵みじんもないように見えた。その横に座っている赤い達磨だるまの灰落しも、今朝最初に見た時の通りの方向を向いて、永遠の欠伸あくびを続けているのであった。
 もっともそのうちでもカンバス張りの厚紙に挟まった「狂人の暗黒時代」のチョンガレ歌や「胎児の夢」の論文なぞいう書類の綴込つづりこみだけは、よく見ると確かに誰かが、ツイこの頃手を触れているらしく、少し横すじかいのX形に重なり合ったまま、投出されているようであるが、もう一つの方の、今日の午前中に正木博士が私の眼の前で塵を払ったに相違ない、青いメリンスの風呂敷包みの上には、やはり初めて見た時の通りに、灰色の細かい埃が一面にかぶさっていて、久しく人間の手が触れていない事を証拠立てている。そのほか大卓子テーブルの上には、茶を飲んだ形跡あともなければ、物を喰べた痕跡なごりもない。念のために、赤い達磨の灰落しを覗いてみると、中には葉巻の灰の一片すらなく、相も変らぬ大欠伸を続けたまま、黄金色きんいろと黒の瞳でグリグリと私を睨み上げている。
……不思議だ……きょうの午前中の出来事の大部分は夢だったのか知ら。……私は確かにあの風呂敷包みの内容なかみを見たのだが……僅かの間に、あんなに埃がたかる筈はないわけだが……。
 私はやおら立上った。膝頭が気味悪くブラブラして脱け落ちそうになるのを、大卓子テーブルの縁に突いた両手でかろうじて支えながら、綿のような身体からだを無理矢理に引立てた。ヒクヒクとわななく指でメリンスの風呂敷包みを掴んで引寄せると、あとに四角い埃のアトカタがクッキリと残った。その結び目に落込んでいる埃のしまを今一度よく見たが、どう考えても最近に人の手が触れた形跡はない。そうして、その結び目を解いているうちに、白い埃の縞は跡型もなく消え飛んでしまったのであった。
 私は唖然となった。
 眼の前の空間を凝視みつめたまま、今朝けさからの記憶を今一度頭の中で繰り返して見た。けれども、この風呂敷の中のものを正木博士から見せられて、あの恐ろしい説明を聞いた記憶と、この結び目の白い埃は永久に両立しない二つの事実に相違なかった。正確に矛盾した二つの出来事であった。
 私は全身に伝わる悪感おかんを奥歯で噛み締めながら、なおもワイワイと痙攣する両手の指で、青い風呂敷包みを引き拡げた。するとその中から最前見た通りの新聞紙包みと、若林博士の調査書類の原本とがやはり最近見た通りの形にキチンと重なり合って出て来た。そればかりでなくメリンスの目から洩れ込んだ細かい埃は、調査書類の原本の表紙になっている黒いボール紙の上にもウッスリとかぶさっていて、絵巻物の新聞包みを取除とりのけると、又も長方型のアトカタがクッキリと残った。
 私は又も唖然となった。余りの不思議さに狐につままれたようになりつつ、自分が正気でいるか如何どうかを確かめるような気持ちで、まず絵巻物の新聞包みをソロソロと開いた。その新聞紙の折れ具合、箱の蓋の合い加減、巻物のよう、紐の止め方まで細かに調べてみたが、余程几帳面な人間の手でしまい込んであったものらしく、どこもここもキチンとしていて、二重に折れ曲った処や、折目のゆがんだ処は一個所もないのみならず、巻物を繰り拡げて見ると、防虫剤らしい、強い香気を放つ白い粉が、サラサラと光って机の上に散り落ちた。次に開いた調査書類も同様で防虫剤こそほどこしてないが、パラパラとページを繰って行くうちに、埃臭いかおりがウッスリと鼻に迫って来る。いずれにしても最近に人の手が触れなかった事は確かである。
 私はそれからなお念のために、フールスカップを綴じ合せた正木博士の遺言書を開いて見た。そうして最後の二三頁を繰り返して見たが、今朝けさまではインキが乾いて間もない、青々としたペンの痕跡あとに見えたのが、今はスッカリ真黒くなって、行と行との間には黄色いかびさえ付いているようである。どう見ても二日や三日前に書いたものとは思えないのであった。
 私は不思議から不思議へ釣り込まれつつ、最前正木博士がした通りにその調査書類を風呂敷の外へ抱え出してみた。すると意外にもその下に、一枚の古ぼけた新聞の号外が下敷になっているのを発見した。これは最前、正木博士がこの風呂敷をハタイタ時には、確かに存在していなかったものであった。
 私はキョロキョロとそこいらを見廻した。
 私はこのへやの中のどこかに、眼に見えぬ奇術師が居て、手品を使っているとしか思えなかった。それとも私の精神が又も変調を起して、何かの幻覚に陥っているのではないか知らんと思い思い、こわごわその号外を取上げて見たが、八ツに折られた新聞紙一頁大の右肩にトテツもない大きな活字で印刷してある標題を読むと思わず「アッ」と叫び声を挙げた。背後の廻転椅子に引っかかってヨロメキ倒れそうになった。
 それは大正十五年の十月二十日……正面の壁のカレンダーが示す斎藤博士の命日の翌日……正木博士が自殺したと若林博士が言ったその日に、福岡市の西海新聞から発行されたもので、頁の左肩には鼻眼鏡を光らして、義歯をクワット剥出むきだした正木博士の笑い顔が、五寸四方位の大きさに目の荒いあらい写真版で刷り出してあった。


   九大精神病学教授
    正木博士投身自殺す
      同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有けうの惨殺事件曝露す


こん二十日午後五時頃、九州帝国大学精神病学教授、従六位医学博士正木敬之氏が溺死体となって、同大学医学部裏手、馬出浜まえだしはま、水族館附近の海岸に漂着している事が発見されたので、同大学部内は目下非常な混雑を極めている。しかるにその混雑に依って、その以前の昨十九日正午頃、同精神病学教室に於ける同博士独特の創設に係る「狂人の解放治療場」内に於て、一狂少年が一狂少女を惨殺し、引続いて場内にありし数名の狂人に即死、もしくは瀕死の重傷又は軽傷を負わしめ、これを制止せむとした看視人までも重傷せしめた事件がはしなくも曝露したので、大学当局は勿論、司法当事者に於ても狼狽ろうばいくところをらず、目下極秘密裡に厳重なる調査を進めている。


   狂少年鍬をふるって
     五名の男女を殺傷
          治療場内一面の流血※[#感嘆符三つ、626-10]


昨十九日(火曜日)正午頃、事件勃発当時、同科担任教授正木博士は同科教授室に於て午睡しおり、同解放治療場内には平常の通り十名の患者が散在して各自思い思いの狂態を演じつつあったが、その時一隅に畠を耕していた足立儀作(仮名六〇)が午砲と同時に看護婦が昼食を報ずる声を聞いて、使用していた鍬を投げ棄てて病室に去るや、以前から儀作の動静ようすうかがっていたらしい狂少年、福岡県早良さわらめいはま町一五八六番地農業、呉八代の養子にして同女の甥に当る一郎(二〇)は突然、その鍬を拾い上げて、かたわらに草を植えていた狂少女、浅田シノ(仮名一七)の後頭部を乱打し、血飛沫ちしぶきの中に声も立て得ず絶息せしめた。かくと見た同治療場の監視人で柔道四段の力量を有する甘粕藤太あまかすとうた氏は、直ちに急を呼びつつ場内に駆け入ったが、時既に遅く、場内に居った政治狂の某、および、敬神狂の某の二名は、少女シノを救うべく呉一郎に肉迫すると見る間に、前者は横頬を、後者は前額部を呉一郎の鍬の刃先にかけられ、あけに染まって砂の上に昏倒した。この時、隙間すきまを発見した甘粕氏は一郎の背後から組み付いて、一気に締め落そうと試みたが、一郎の抵抗力意想外に強く、鍬を投げ棄てて甘粕氏の両腕を掴み、体量二十貫の同氏の全身を縦横上下に水車みずぐるまの如く振り廻しつつ引き離そうとするので、流石さすがの甘粕氏も必死となり、振り離されまいとのみ努力するうち、呉一郎があやまって狂女の作った落し穴に片足を踏み込んだ拍子に肩をかされて同体に倒れると、身をかわす暇もなく本館軒下の敷石に肋骨を打ち付けて人事不省に陥った。この時同治療場の入口には甘粕氏の声を聞き付けた数名の男看護人、及小使、医員等が駆け付けおり、中には柔道の心得のある者も在ったが、再び治療場の中央に進み出で、落した鍬を拾い上げた呉一郎が、返り血を浴びたまま顔色蒼白となって四辺あたり睥睨へいげいしつつ「俺の事業しごとを邪魔するかッ」と叫んだ剣幕に呑まれて一人も入場し得なくなった。そのかんに場内の一隅に眼を転じた一郎は顔色たちまもとに帰り、ニコニコ然と微笑し初め、血に染まった鍬を取り直しつつそこに佇立していた二名の女に迫り、まず舞踏狂の少女某を畑の隅に追い詰めて眉間を打ち砕き、続いて最前から女王の姿に扮装しつつ平然として場内を逍遥し続けていた年増としま女に近づいて行ったが、同女が※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)声れいせい一番、「無礼者。わらわを知らぬか」と一睨いちげいすると、呉一郎は愕然たるおももちで鍬を控えて立止ったが、「アッ。貴女あなたは楊貴妃様」と叫びつつ砂の上に跪座きざした。その時にかろうじて意識を回復した甘粕氏は苦痛を忍びつつ起き上り、じょうの入口を開いて逃げ迷うていた狂人たちを外へ出すと、又も安心のためか気が遠くなって打ち倒れた。そのあとから呉一郎も鍬を片手に、片脇には最初の犠牲、浅田シノの死骸を軽々と引き抱えつつ、女王姿の狂女に一礼して流血淋漓りんりたる場内を出で、悠々と自分の病室、七号室に帰って行ったが、皆手をつかねて戦慄しつつ遠くから傍観するばかりであったという。


   狂少年の自殺
     平然たる正木博士


この時急を聞いて駆け付けた正木博士は、極めて平然たる態度で医員を指揮しつつ暴れ狂う一郎の手からシノの死骸と鍬を奪い取り、一郎に狂人制御せいぎょ用袖無しシャツを着せ、足枷あしかせを加えて七号室に監禁する一方、被害者シノ以下四名の男女患者に応急の手当をほどこしたが、その中二名の男子患者はいずれも致命傷ではないが生死の程はまだ見込み立たず、又、二名の少女は共に頭蓋骨を粉砕されているので手の下しようなく、このむねそれぞれの近親に急報した。同時に正木博士は単身七号室に引返し、前に監禁した一郎の様子を見に行ったところ、同人は病室の壁に頭を打ち付けて絶息しているのを発見し、急遽きゅうきょ医員を呼んだので又も大騒ぎとなった。しかしてその騒ぎが一先ひとまず落着し、それぞれの処置を終ると間もなく、正木博士は同教室を出たものらしく、午後二時半頃、医員山田学士が「呉一郎は回復の見込あり」という報告をすべく、同教授を探しまわった時には、最早もはや、同科教室及病院内のどこにも正木博士の姿を発見し得なかったという。


   解放治療は
     予想通りの大成功
       と正木博士放言す!


しかるにそのかんに於て正木博士は同大学本部に到り、松原総長に面会して声高に議論していた事実がある。その議論の内容の詳細は判明しないが「狂人の解放治療の実験は今回の出来事にって予想通りの大成功に終りました」と繰り返して放言し「同解放治療場は今日限り閉鎖を命じておきました。永々御厄介をかけましたが御蔭おかげで都合よく実験を終りまして感謝に堪えませぬ。(註=同治療場は正木博士が総長の許可を得て、私費を以て開設していたもので、これに附属する雇員等も同博士から直接に給与されていたものである)なお私の辞表は明日提出致します。あとの事は若林学部長に委託してありますから」云々と云い棄てて、呵然かぜん大笑しつつドアを押し開き、どこへか立ち去ったとの事で、総長室の隣室で聞いていた事務員連は皆、同教授の発狂を疑いつつ顔を見合わせつつ震え上ったという。


   鼾声かんせいらいの如く
     酔臥すいがしてのち行衛をくらます


正木博士は総長室を出ると無責任にも死傷せる患者を医員連の看護に一任したまま帰途に就いた模様であるが、その途中どこかで飲酒泥酔したらしく、その夕方、福岡市湊町みなとまちの下宿に帰って二三時間のあいだらいの如き鼾声かんせいを放って熟睡していた。それから同夜九時頃になると「飯喰いに行って来る」と称して飄然ひょうぜんとして下宿を出でそのまま行衛ゆくえくらましたとの事であるが、仄聞そくぶんするところに依ればひそかに九大精神病科の自室に引返し徹宵てっしょう書類を整理していたともいう。


   狂人を模倣した
     気味悪い屍体


然るに本日午後五時頃、大学裏海岸を通りかかった沙魚はぜ釣り帰りの二名の男が、海岸に漂着している一個の奇妙な溺死体を発見し、このむね箱崎署に届出たので万田まんだ部長、光川みつかわ巡査が出張して取調べたところ、懐中の名刺により正木博士である事が判明したので又々大騒ぎとなり、福岡地方裁判所から熱海判事、松岡書記、福岡警察署より津川警部、長谷川警察医外一名、又、大学側からは若林学部長を初め川路かわじ安楽あんらく、太田、西久保の諸教授、田中書記等が現場に駆け付けたが、検案の結果同博士は、同海岸水族館裏手の石垣の上に帽子と葉巻きの吸いさしを置き、診察服を着けたまま手足を狂人用鉄製の手枷足枷てかせあしかせを以て緊縛し、折柄の満潮に身を投じたものらしく、死後約三時間を経過しているので救急の法もほどこしようがなかった。しかして右に就いては若林学部長その他関係者一同口をかんして一語をも洩らさず、前記の大惨事と共に極力秘密裡に葬り去ろうとした模様であるが、本社の機敏なる調査に依って、かく真相が曝露したものである。ちなみに正木博士の自殺原因に就ては遺書等も見当らぬらしく、下宿の書庫机上等も平生の通りに整頓してあって何等の異状をも認めなかったそうである。又飲酒泥酔して下宿に帰り、あるいは散歩と称して外出して帰宅しない事も、従来毎月一二回ずつあった事とて下宿の者も何等怪しまなかったという。


   奇怪な謎
     狂少年の一語

右に就て同解放治療場の監視人であった甘粕藤太氏は、負傷した胸部に繃帯を施したまま市内鳥飼とりかい村自宅に於てかく語った。
 全く不意の出来事で、こんな事なら初めからあのような役目を引き受けなければよかったと後悔しています。しかし責任は無論私にあるでしょうし、殊に狂人の解放治療場は昨日限り閉鎖されているそうですから、取りあえず正木先生の手許へ辞表を出して謹んでおります。あれが気違い力というものでしょうか、意想外の強力ごうりきで力を入れ切っておりますところへ不意に肩をすかされましたために思わぬ不覚を取りまして二度も気絶して面目次第も御座いません。しかし二度目の気絶からはすぐに覚醒しましたので、私は三名の医員と共に七号病室に駆け付けまして、一郎を取り押えようとしましたが、血に狂った一郎は手にせるくわ竹片たけぎれの如くブンブンと振りまわして「見に来てはいけない見に来てはいけない」と叫びますので、非常に危険で近寄れません。そこへあとから駆け付けられた正木先生の顔を見ると、呉一郎はたちまち鎮静しまして、嬉し気に一礼しつつ血にまみれて床の上に横たわっている少女シノの半裸体の屍体を指して「お父さん、この間あの石切場で、僕に貸して下すった絵巻物を、も一ペン貸して下さいませんか。こんないいモデルが見つかりましたから……」という奇怪な一語を発しました。これを聞かされた正木先生は何故か非常に昂奮された模様で、今思い出しても物凄いほど真青な顔になって私たちを見まわされましたが、そのまま「何をタワケた事を云うかッ」と大喝されますと、単身呉一郎に組み付いて取押えられたのであります。それから暫くはお顔の色が悪いようでしたが、呉一郎が壁に頭を打付けて絶息しましたのちは気力を回復されたらしく、あれ程の大事件のさなかにも拘わらず、快濶かいかつにキビキビと種々いろいろの指図をしておられました。(記者が一郎の蘇生せる旨を告ぐれば)ヘエ。それは本当ですか。私が見ました時は顔中血だらけになっておりましたし、正木先生も急激な脳震盪のうしんとうで呼吸も止まっているからとても助からぬと云うておられましたが、やはり、手足が不自由なまま、壁に頭を打ち付けたのですから、そう強くなかったのでしょう。(次いで正木博士の自殺を告げ死因に就ての心当りを問えば甘粕氏は愕然蒼白となり流涕りゅうていして唇を震わしつつ)それは本当ですか。本当ならば私はこうしておられません。正木先生には大恩があります。私が先年亜米利加アメリカで流浪しておりますうちに市俄古シカゴ附近で肺炎にかかり誰も構ってくれ手がなくなりましたところを正木先生に拾われまして入院さして頂きました。その時に正木先生はもしこの恩が報じたければ福岡へ住んで俺が帰るのを待っておれと云われまして沢山の旅費まで頂きましたので、帰国匆々そうそう当地の英和学院の柔道師範を奉職していたのですが、正木先生が大学に来られるとすぐに辞職して治療場の監視をお引き受けした位です。正木先生は何でも楽観される方で私も私淑しておりましたが人格の高い方でしたから責任観念も強かったのでしょう。云々。


   姪の浜の大火
     名刹めいさつ如月寺にょげつじに延焼
            放火女無残の焼死を


 本日午後六時頃福岡県早良郡姪の浜一五八六呉ヤヨ方母屋奥座敷より発火し、人々驚きて駆け付ける間もなく打ち続く晴天と折柄おりからの烈風にあおられて火勢たちまち猛烈となり、数棟の借家を含みたる同家は見る見る一団の大火焔に包まれると見るうちに程近き如月寺にょげつじ本堂裏手に飛火とびひし目下盛んに延焼中であるが、遠距離の事とて市中の消防は間に合わず、附近の消防のみにては手に余る模様である。しかして右放火者と認めらるる呉ヤヨ(前記呉一郎伯母四〇)は寺院本堂の猛火に飛び入り衆人環視のうちに無残の焼死をげたが、同女は今春、ただ一人の娘をうしないたる際より多少精神に異状を呈しおりたるところ、本日又最愛の甥一郎が変死した噂が同地方に伝わっていたのを耳にしたために一層錯乱昂奮してこの始末に及んだものであろうと。

       ――――――――――――――――――――

 この号外から顔を上げた私は、頭を押え付けられたようになったまま、オズオズとそこいらを見まわした。
 すると間もなく、すぐ鼻の先に拡げられた青い風呂敷のまん中に、今まで号外の下になっていたらしい一枚のカードみたようなものが見つかった。……オヤ……まだこんなものが残っていたのか……と思い思い立ち上って覗き込んでみると、それは一枚の官製端書はがきの裏面で見覚えのある右肩上りのペン字が、五六行ほど書きなぐってあった。
 面目無い

 S先生と酒を飲んだのも僕だ
 生れかわって遣り直す
 せがれと嫁の将来を頼む
    二十日午後一時    Mより
 W兄 足下

 私の手から号外が力なくヒラヒラとすべり落ちた。それと同時にへや全体が、私の身体からだと一緒にだんだんと地の底へ沈んで行くように感じた。
 私はヨロヨロとよろめきながら立ち上った。われともなくヨチヨチと南側の窓に近付いた。
 向うの屋根から突き出た二本の大煙突の上に満月がギラギラと冴え返っている。その下に照し出された狂人の解放治療場は闃寂げきせきとして人影もなく、今朝けさまでは一面の白砂ばかりの平地に見えていたのが、今は処々に高く低く、枯れ草を生やした空地となって、そのまん中に、いつの間にか一枚も残らず葉を振い落した五六本の桐の木が、星の光りを仰ぎつつ妙な枝ぶりを躍らしている。
「……不思議だ……」
 と独語ひとりごとを洩らしつつ頭に手をって見ると……又も不思議……今朝から私が感じていた奇怪な頭の痛みは、どこを探しても撫でまわしてもない。拭いて取ったように消え失せていた。
 私はその痛みの行衛ゆくえを探すかのように、片手で頭を押えたまま、黄色い光線と、黒い陰影かげ沈黙しじまを作っている部屋の中を見まわした。そうして又、白金色プラチナに冴え返っている窓の外の月光を見た……………………………………………………………………………。
 ……その時であった……。
 ……一切の真相が、氷のように透きとおって、私の前に立ち並んで見えて来たのは…………………………………………………………………………………………………。
……不思議ではない。
……チットモ不思議ではない。
……私は今朝けさから二重の幻覚に陥っていたのだ。正木博士の所謂いわゆる離魂病にかかっていたのだ。
……私は今から一箇月前の十月二十日にも、やはり、きょうとソックリの夢遊を行ったに違いないのであった。
……その一箇月前の十月二十日の早朝の、やはりまだ真暗まっくらいうちのこと……私はの七号室のタタキの上に、今朝の通りの姿で寝ていて、今朝の通りの状態で眼を見開いたのであった。自分の名前を探すべくウロタエまわったのであった。
それから……若林博士に会って、私の過去の記憶を回復すべく、今朝の通りの実験を色々と受けた揚句あげくに、このへやに連れ込まれて、やはり今朝と同じ順序で、いろんな物を見たり聞いたりしたのであった。
……それから遺言書を読み終った私は間もなく、その遺言書を書いた当の本人の正木博士に会って、きょうの通りに肝を潰した。そうしてその正木博士の案内で、南側の窓の外を覗くと、その前日限りに閉鎖されたまんまの解放治療場内の光景を見ると同時に私は、自分の過去の記憶の中でも、一番最近の記憶に支配された夢中遊行に陥って、やはりその前日のちょうど、その時刻に、そこで、そうしていた通りに、爺さんの畠打はたうちを見物している自分の姿を窓の外に幻覚した。そうして、それと同時に、やはり、その前の晩に、頭を壁に打ち付けた際に出来た頭の痛みを、無意識に手に触れて飛び上ったのであった。
……その時に正木博士は、やはり、今日と同じように離魂病の説明を聴かしてくれたのであるが、その説明は矢張やはり真実であったのだ。
……とはいえ……その時に、あまりに深い幻覚にとらわれていたために、それを信ずる事が出来なかった私は、それから正木博士と対座して、あの通りの議論をした揚句に、正木博士をメチャクチャに遣っ付けてしまった。トウトウ本当に自殺の決心をさせてしまったのであった。
……けれども私は、そんな事とは気付かないままこの室に居残って、この絵巻物の一番おしまいに書いてある千世子の和歌を発見した。そうして今日の通りに驚いて外に飛び出して、福岡の町々を歩きまわっているうちにこの室に拡げたままにして来た絵巻物の事を思い出して、又も、きょうの通りに無我夢中で飛んで帰ったのであった。……もしかすると正木博士は、後で今一度この室に引返して来て、拡げたままの絵巻物のおしまいに書いてある千世子の和歌を発見したのかも知れない。そうして、そこでイヨイヨの覚悟を決めたのかも知れないけれども…………。
……そうした出来事を一箇月後の今日になって、私は又、その通りの暗示の下に、寸分たがわず正確に繰り返しつつ夢遊して来たに過ぎないのだ。……否……事によると、今朝あんなに早く、時計の音に眼を醒ました事からして一種の暗示に支配されていたのかも知れない……若林博士がホンノ思い付きで云った「一箇月後」という言葉をその通りに記憶していた私の潜在意識が、その一箇月後の今朝になってキッカリと私を呼び醒ましてくれたのかも知れない……が……いずれにしても今日の午前中、私が色んな書類を夢中になって読んでいるうちに、若林博士がコッソリと立ち去った後にはこの室の中に誰も居なかったのだ。正木博士も、禿頭はげあたまの小使も、カステラも、お茶も、絵巻物も、調査書類も、葉巻の煙も何もかも、みんな私の一箇月前の記憶の再現に過ぎないのだ。たった一人で夢遊中の夢遊を繰返していたに過ぎなかったのだ。
……私の頭は、そこまで回復して来たまま、同じ処ばかりをグルグルまわっているのだ。
……そうでないと思おうとしても、そうした不思議な事実の証拠の数々が、現在、生き生きと私の眼の前に展開して、私に迫って来るのをどうしよう。ほかに解決のし方がないのをどうしよう……。
……若林博士は、そうした私の頭を実験するために、一箇月前と同じ手順を繰り返しつつ、私をこの室に連れ込んだものに違いない。そうして多分一箇月ぜんもそうしたであろう通りに、どこからか私を監視していて、私の夢遊状態の一挙一動を細大洩らさず記録しているに違いない……否々……否々……きょうは、大正十五年の十一月二十日、と云った若林博士の言葉までも嘘だとすれば、私はもっともっと前から……ホントウの「大正十五年の十月二十日」以来、何度も何度も数限りなく、同じ夢遊状態を繰り返させられている事になるではないか……そうしてその一挙一動を記録に残されている事になるではないか………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
……オオ……若林博士こそ世にも恐ろしい学術の権化ごんげなのだ。……精神科学の実験と、法医学の研究とを同時に行っている……。
……極悪人と名探偵とを兼ねている……。
……正木博士と、呉家の運命と、福岡県司法当局と、九大の名誉と……この事件に関する出来事の一切合財をタッタ一人で人知れず支配し、飜弄している……。
……そうして知らん顔をしている怪魔人…………。
 私は云い知れぬ戦慄が、全身の皮膚を暴風のように這いまわり、駆けめぐるのを感じ初めた。歯の一枚一枚がカチカチと打ち合うのを止める事が出来なくなった。……部屋の中の全体がどことなく、大きく開いた若林博士の口腔の恰好に似て来たように思いつつ……そのまん中に突立って、煽風機せんぷうきのように廻転する自分の頭の中を、眼の奥底に凝視しつつ…………。
……けれども……。
……けれども、もしそうとすれば、私は是非とも呉一郎でなければならぬ…………。
……お……オオ……私が……アノ呉一郎…………。
……あの正木博士が私の父親……。
……あの千世子が私の母親……。
……そうしてアノ狂える美少女……モヨ子…………モヨ子は…………。
……おお……おお…………。
……私は親を呪い、恋人を呪い、最後に見ずらずの男女数名の生命いのちまでも奪うべく運命づけられた、稀有けうの狂青年であったのか…………。
……死んだ父親の罪悪を、白昼公然とあばき立てている、冷酷無残な精神病者であったのか……。
「アアッ……お父オさア――ン……お母アさ――ン……」
 と叫んだが、その声は自分の耳には這入らなかった。ただあざけるような反響を室の隅々に聞いただけであった。
 私はそのまま下顎を固張こわばらせつつ、森閑しんかんとゆらめく電燈の光りを振り返った。大きな歎息をした後のように静まり返っている室の中を見まわした。
 ……意識の力はどこまでもハッキリしたまま……うつつともなく、夢ともなく、私の眼の前の床が向うの方に傾くにつれて、半分なかば開いた入口の方向を眼指めざしつつ蹌踉ひょろひょろと歩み出した。
「出入厳禁」と書かれた白紙をドアの外から振り返った。
 ……しっかりせねばならぬ……どこまでも理性を働かせねばならぬ……と思いつつ白い月の光りがさし込んでいる窓付きの廊下を、右に左に傾き歩いた。
 玄関の左右に並んだ真暗な階段の左側を、棒のように強直ごうちょくしつつ……ゴト――ン……ゴト――ン……という自分の足音を聞きつつ……一段一段と降りて行った。そのおしまいがけに、もう床に行き着いたと思うと、私の足は空を踏んで、全身が軽々とモンドリを打った……ように思う。
 それから私はどうして起き上ったか、どこをどう歩いて行ったかわからない。いつの間にか自然と七号室のドアの前に来て、石像のように突立っている私自身を発見した。
 私は何かしら思い出せない事を、一所懸命に考え詰めた揚句あげくに、思い切ってその扉を開いて中に這入った。今朝けさのままになっている寝台の上に、靴穿きのまま這い上って、仰向けにドタリと寝た。その頭の処で、扉がひとりでに閉まって来て重々しい陰鬱な反響を部屋の内外に轟かした。
 ……すると、それと殆ど同時に、混凝土コンクリートの厚い壁を隔てた隣りの六号室から、魂切たまぎるような甲高かんだかい女の声が起った。
「兄さん兄さん……兄さんに会わして下さい。今お帰りになったようです。あのドアの音がそうです。兄さんに会わして下さい……イイエイイエ……あたし狂女きちがいじゃありません……兄さんの妹です。妹です妹です……兄さん兄さん。返事して頂戴……妾です妾です妾です妾です」
………………………………………………………………………………………………………………これが胎児の夢なんだ………………………………………………………………。
……と私は眼を一パイに見開いたまま寝台の上に仰臥して考えた。
……何もかもが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声も……この暗い天井も……あの窓の日の光も……否々……今日中の出来事はみんなそうなんだ……。
……俺はまだ母親の胎内に居るのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見て藻掻もがき苦しんでいるのだ……。
……そうしてこれから生れ出ると同時に大勢の人をかたぱしから呪い殺そうとしているのだ……。
……しかしまだ誰も、そんな事は知らないのだ……ただ俺のモノスゴイ胎動を、母親が感じているだけなのだ。
 私の寝ている横のコンクリートの壁を向側からたたく音がし初めた。
「……兄さん兄さん。一郎兄さん。あなたはまだあたしを思い出さないのですか。あたしですあたしです……モヨ子ですよ……モヨ子ですよ。返事して下さい……返事して……」
 と二三度連続して叩いたと思うと、痛々しい泣声にかわって、何かの上にひれ伏した気はいである。
 私は寝台の上に長々と仰臥したまま、死人のように息を詰めていた。眼ばかりを大きく見開いて…………………………………。
 ……ブ…………ンンンンン……
 という時計の音が、廊下の行き当りから聞えて来た。
 隣室となりの泣声がピッタリと止んだ。それにつれて又一つ……
 ……ブ――――ン……
 という音が聞えて来た。前よりもこころもち長いような……私は一層大きく眼を見開いた。
 ……ブ――――ン……
 ……という音につれて私の眼の前に、正木博士の骸骨みたような顔が、生汗なまあせをポタポタとらしながら鼻眼鏡をかけて出て来た……と思うと、目礼をするように眼を伏せて、力なくニッと笑いつつ消え失せた。
 ……ブ――――ン……
 夥しい髪毛かみのけを振り乱しつつ、下唇を血だらけにした千世子の苦悶の表情が、ツイ鼻の先に現われたが、細紐で首を締め上げられたまま、血走った眼を一パイに見開いて、私の顔をよくよく見定めると、一所懸命で何か云おうとして唇をわななかす間もなく、悲し気に眼を閉じて涙をハラハラと流した。下唇をギリギリと噛んだまま見る見るうちに青褪あおざめて行くうちに、白い眼をすこしばかり見開いたと思うと、ガックリとあおむいた。
 ……ブ――――ン……
 少女浅田シノのグザグザになった後頭部が、黒い液体をドクドクと吐き出しながらうつむいて……。
 ……ブ――――ン……
 八代子の血まみれになった顔が、眼を引き釣らして……。
 ……ブ――ンブ――ンブ――ンブ――ンブ――ン……
 頬を破られたイガ栗頭が……眉間を砕かれたお垂髪さげの娘が……前額部の皮を引き剥がれたひげだらけの顔が……。
 私は両手で顔をおおうた。そのまま寝台から飛び降りた。……一直線に駆け出した。
 すると私の前額部が、何かしら固いものに衝突ぶっつかって眼の前がパッと明るくなった。……と思うと又たちまち真暗になった。
 その瞬間に私とソックリの顔が、頭髪かみのけと鬚を蓬々ぼうぼうとさしてくぼんだをギラギラと輝やかしながら眼の前のやみの中に浮き出した。そうして私と顔を合わせると、たちまあかい大きな口を開いて、カラカラと笑った……が……
「……アッ……呉青秀……」
 と私が叫ぶ間もなく、掻き消すように見えなくなってしまった。
 ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。







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