一
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。
この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違って無暗に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。
ようやくの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから食物のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ這入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云ったものだ。この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になっている。さて邸へは忍び込んだもののこれから先どうして善いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出来なくなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。今から考えるとその時はすでに家の内に這入っておったのだ。ここで吾輩は彼の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのがおさんである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時におさんと云う者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞が下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家の主人が騒々しい何だといいながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出した。かくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極める事にしたのである。
吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。
吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であった。どこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍にいる事をつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝の上に乗る。彼が昼寝をするときは必ずその背中に乗る。これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は椽側へ寝る事とした。しかし一番心持の好いのは夜に入ってここのうちの小供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。この小供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間に己れを容るべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を醒ますが最後大変な事になる。小供は――ことに小さい方が質がわるい――猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは物指で尻ぺたをひどく叩かれた。
吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾する小供のごときに至っては言語同断である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛り出したり、へっついの中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨いだら細君が非常に怒ってそれから容易に座敷へ入れない。台所の板の間で他が顫えていても一向平気なものである。吾輩の尊敬する筋向の白君などは逢う度毎に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のような子猫を四疋産まれたのである。ところがそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。また隣りの三毛君などは人間が所有権という事を解していないといって大に憤慨している。元来我々同族間では目刺の頭でも鰡の臍でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善いくらいのものだ。しかるに彼等人間は毫もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために掠奪せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正当に吾人が食い得べきものを奪ってすましている。白君は軍人の家におり三毛君は代言の主人を持っている。吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。
我儘で思い出したからちょっと吾輩の家の主人がこの我儘で失敗した話をしよう。元来この主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。この主人がどういう考になったものか吾輩の住み込んでから一月ばかり後のある月の月給日に、大きな包みを提げてあわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。当人もあまり甘くないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。
「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほど詐りのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越に主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人は無暗に感心している。金縁の裏には嘲けるような笑が見えた。
その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっている。ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分寝た。欠伸がしたくてたまらない。しかしせっかく主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒しておった。彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。身内の筋肉はむずむずする。最早一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。どうせ主人の予定は打ち壊わしたのだから、ついでに裏へ行って用を足そうと思ってのそのそ這い出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼わりは失敬だと思う。それも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは酷い。元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。
我儘もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないが瀟洒とした心持ち好く日の当る所だ。うちの小供があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾をして長々と体を横えて眠っている。他の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡られるものかと、吾輩は窃かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して余念もなく眺めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐の枝を軽く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はかっとその真丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸の奥から射るごとき光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて、御めえは一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫しぐべき力が籠っているので吾輩は少なからず恐れを抱いた。しかし挨拶をしないと険呑だと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大に軽蔑せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全てえどこに住んでるんだ」随分傍若無人である。「吾輩はここの教師の家にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠せてるじゃねえか」と大王だけに気焔を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って左の問答をして見た。
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに極っていらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」
「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」
彼は大に肝癪に障った様子で、寒竹をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのはこれからである。
その後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相当の気焔を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。
或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畠の中で寝転びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話しをさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下のごとく質問した。「御めえは今までに鼠を何匹とった事がある」智識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては到底黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかった。けれども事実は事実で詐る訳には行かないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ捕らない」と答えた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張っている長い髭をびりびりと震わせて非常に笑った。元来黒は自慢をする丈にどこか足りないところがあって、彼の気焔を感心したように咽喉をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御しやすい猫である。吾輩は彼と近付になってから直にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい己れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに若くはないと思案を定めた。そこでおとなしく「君などは年が年であるから大分とったろう」とそそのかして見た。果然彼は墻壁の欠所に吶喊して来た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたちってえ奴は手に合わねえ。一度いたちに向って酷い目に逢った」「へえなるほど」と相槌を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云う。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰の袋を持って椽の下へ這い込んだら御めえ大きないたちの野郎が面喰って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。「いたちってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。こん畜生って気で追っかけてとうとう泥溝の中へ追い込んだと思いねえ」「うまくやったね」と喝采してやる。「ところが御めえいざってえ段になると奴め最後っ屁をこきゃがった。臭えの臭くねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を今なお感ずるごとく前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。吾輩も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って「しかし鼠なら君に睨まれては百年目だろう。君はあまり鼠を捕るのが名人で鼠ばかり食うものだからそんなに肥って色つやが善いのだろう」黒の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を呈出した。彼は喟然として大息していう。「考げえるとつまらねえ。いくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が捕ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲けていやがる癖に、碌なものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ体の善い泥棒だぜ」さすが無学の黒もこのくらいの理窟はわかると見えてすこぶる怒った容子で背中の毛を逆立てている。吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を胡魔化して家へ帰った。この時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。しかし黒の子分になって鼠以外の御馳走を猟ってあるく事もしなかった。御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。教師の家にいると猫も教師のような性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
教師といえば吾輩の主人も近頃に至っては到底水彩画において望のない事を悟ったものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。
○○と云う人に今日の会で始めて出逢った。あの人は大分放蕩をした人だと云うがなるほど通人らしい風采をしている。こう云う質の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云うよりも放蕩をするべく余儀なくせられたと云うのが適当であろう。あの人の妻君は芸者だそうだ、羨ましい事である。元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。また放蕩家をもって自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。これらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩の水彩画に於けるがごときもので到底卒業する気づかいはない。しかるにも関せず、自分だけは通人だと思って済している。料理屋の酒を飲んだり待合へ這入るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も一廉の水彩画家になり得る理窟だ。吾輩の水彩画のごときはかかない方がましであると同じように、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遥かに上等だ。
通人論はちょっと首肯しかねる。また芸者の妻君を羨しいなどというところは教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、自己の水彩画における批評眼だけはたしかなものだ。主人はかくのごとく自知の明あるにも関せずその自惚心はなかなか抜けない。中二日置いて十二月四日の日記にこんな事を書いている。
昨夜は僕が水彩画をかいて到底物にならんと思って、そこらに抛って置いたのを誰かが立派な額にして欄間に懸けてくれた夢を見た。さて額になったところを見ると我ながら急に上手になった。非常に嬉しい。これなら立派なものだと独りで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が覚めてやはり元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になってしまった。
主人は夢の裡まで水彩画の未練を背負ってあるいていると見える。これでは水彩画家は無論夫子の所謂通人にもなれない質だ。
主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁眼鏡の美学者が久し振りで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭第一に「画はどうかね」と口を切った。主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を力めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ。西洋では昔しから写生を主張した結果今日のように発達したものと思われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ」と日記の事はおくびにも出さないで、またアンドレア・デル・サルトに感心する。美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだ※(「言+墟のつくち」、第4水準2-88-74)わられた事に気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ。君がそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の体である。吾輩は椽側でこの対話を聞いて彼の今日の日記にはいかなる事が記さるるであろうかと予め想像せざるを得なかった。この美学者はこんな好加減な事を吹き散らして人を担ぐのを唯一の楽にしている男である。彼はアンドレア・デル・サルト事件が主人の情線にいかなる響を伝えたかを毫も顧慮せざるもののごとく得意になって下のような事を饒舌った。「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大に滑稽的美感を挑撥するのは面白い。せんだってある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておった。それからまだ面白い話がある。せんだって或る文学者のいる席でハリソンの歴史小説セオファーノの話しが出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬところは鬼気人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんと云った事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」神経胃弱性の主人は眼を丸くして問いかけた。「そんな出鱈目をいってもし相手が読んでいたらどうするつもりだ」あたかも人を欺くのは差支ない、ただ化の皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。美学者は少しも動じない。「なにその時ゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ」と云ってけらけら笑っている。この美学者は金縁の眼鏡は掛けているがその性質が車屋の黒に似たところがある。主人は黙って日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇気はないと云わんばかりの顔をしている。美学者はそれだから画をかいても駄目だという目付で「しかし冗談は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のしみを写せと教えた事があるそうだ。なるほど雪隠などに這入って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。君注意して写生して見給えきっと面白いものが出来るから」「また欺すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。実際奇警な語じゃないか、ダ・ヴィンチでもいいそうな事だあね」「なるほど奇警には相違ないな」と主人は半分降参をした。しかし彼はまだ雪隠で写生はせぬようだ。
車屋の黒はその後跛になった。彼の光沢ある毛は漸々色が褪めて抜けて来る。吾輩が琥珀よりも美しいと評した彼の眼には眼脂が一杯たまっている。ことに著るしく吾輩の注意を惹いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くなった事である。吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「いたちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ」といった。
赤松の間に二三段の紅を綴った紅葉は昔しの夢のごとく散ってつくばいに近く代る代る花弁をこぼした紅白の山茶花も残りなく落ち尽した。三間半の南向の椽側に冬の日脚が早く傾いて木枯の吹かない日はほとんど稀になってから吾輩の昼寝の時間も狭められたような気がする。
主人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立て籠る。人が来ると、教師が厭だ厭だという。水彩画も滅多にかかない。タカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。小供は感心に休まないで幼稚園へかよう。帰ると唱歌を歌って、毬をついて、時々吾輩を尻尾でぶら下げる。
吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛にもならずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未だに嫌いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。
二
吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。
元朝早々主人の許へ一枚の絵端書が来た。これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部を深緑りで塗って、その真中に一の動物が蹲踞っているところをパステルで書いてある。主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、竪から眺めたりして、うまい色だなという。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。からだを拗じ向けたり、手を延ばして年寄が三世相を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと膝が揺れて険呑でたまらない。ようやくの事で動揺があまり劇しくなくなったと思ったら、小さな声で一体何をかいたのだろうと云う。主人は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見える。そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に半ば開いて、落ちつき払って見ると紛れもない、自分の肖像だ。主人のようにアンドレア・デル・サルトを極め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の中でも他の猫じゃない吾輩である事が判然とわかるように立派に描いてある。このくらい明瞭な事を分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてやりたい。吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。しかし人間というものは到底吾輩猫属の言語を解し得るくらいに天の恵に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。
ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくない。人間の糟から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無智に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありがちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃない。いくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に這入って見るとなかなか複雑なもので十人十色という人間界の語はそのままここにも応用が出来るのである。目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。髯の張り具合から耳の立ち按排、尻尾の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。器量、不器量、好き嫌い、粋無粋の数を悉くして千差万別と云っても差支えないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。同類相求むとは昔しからある語だそうだがその通り、餅屋は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人間が発達したってこればかりは駄目である。いわんや実際をいうと彼等が自ら信じているごとくえらくも何ともないのだからなおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の主人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義であるということすら分らない男なのだから仕方がない。彼は性の悪い牡蠣のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を開いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したような面構をしているのはちょっとおかしい。達観しない証拠には現に吾輩の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様子もなく今年は征露の第二年目だから大方熊の画だろうなどと気の知れぬことをいってすましているのでもわかる。
吾輩が主人の膝の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵端書を持って来た。見ると活版で舶来の猫が四五疋ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを躍っている。その上に日本の墨で「吾輩は猫である」と黒々とかいて、右の側に書を読むや躍るや猫の春一日という俳句さえ認められてある。これは主人の旧門下生より来たので誰が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、迂濶な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を捻って、はてな今年は猫の年かなと独言を言った。吾輩がこれほど有名になったのを未だ気が着かずにいると見える。
ところへ下女がまた第三の端書を持ってくる。今度は絵端書ではない。恭賀新年とかいて、傍らに乍恐縮かの猫へも宜しく御伝声奉願上候とある。いかに迂遠な主人でもこう明らさまに書いてあれば分るものと見えてようやく気が付いたようにフンと言いながら吾輩の顔を見た。その眼付が今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた。今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の新面目を施こしたのも、全く吾輩の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える。
おりから門の格子がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。吾輩は肴屋の梅公がくる時のほかは出ない事に極めているのだから、平気で、もとのごとく主人の膝に坐っておった。すると主人は高利貸にでも飛び込まれたように不安な顔付をして玄関の方を見る。何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが厭らしい。人間もこのくらい偏屈になれば申し分はない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無い。いよいよ牡蠣の根性をあらわしている。しばらくすると下女が来て寒月さんがおいでになりましたという。この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという話しである。この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る。来ると自分を恋っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、凄いような艶っぽいような文句ばかり並べては帰る。主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして合点が行かぬが、あの牡蠣的主人がそんな談話を聞いて時々相槌を打つのはなお面白い。
「しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から大に活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐をひねくりながら謎見たような事をいう。「どっちの方角へ足が向くかね」と主人は真面目な顔をして、黒木綿の紋付羽織の袖口を引張る。この羽織は木綿でゆきが短かい、下からべんべら者が左右へ五分くらいずつはみ出している。「エヘヘヘ少し違った方角で」と寒月君が笑う。見ると今日は前歯が一枚欠けている。「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええ実はある所で椎茸を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く叩く。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大に吾輩を賞める。「近頃大分大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月君はまた話しをもとへ戻す。「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。ヴァイオリンが三挺とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。二人は女で私がその中へまじりましたが、自分でも善く弾けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人は羨ましそうに問いかける。元来主人は平常枯木寒巌のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するという事が諷刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底分らない。或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。しかし寒月君の女連れを羨まし気に尋ねた事だけは事実である。寒月君は面白そうに口取の蒲鉾を箸で挟んで半分前歯で食い切った。吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。「なに二人とも去る所の令嬢ですよ、御存じの方じゃありません」と余所余所しい返事をする。「ナール」と主人は引張ったが「ほど」を略して考えている。寒月君はもう善い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促がして見る。主人は旅順の陥落より女連の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の紀念とかいう二十年来着古るした結城紬の綿入を着たままである。いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。所々が薄くなって日に透かして見ると裏からつぎを当てた針の目が見える。主人の服装には師走も正月もない。ふだん着も余所ゆきもない。出るときは懐手をしてぶらりと出る。ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、吾輩には分らぬ。ただしこれだけは失恋のためとも思われない。
両人が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った蒲鉾の残りを頂戴した。吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。まず桃川如燕以後の猫か、グレーの金魚を偸んだ猫くらいの資格は充分あると思う。車屋の黒などは固より眼中にない。蒲鉾の一切くらい頂戴したって人からかれこれ云われる事もなかろう。それにこの人目を忍んで間食をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。うちの御三などはよく細君の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。御三ばかりじゃない現に上品な仕付を受けつつあると細君から吹聴せられている小児ですらこの傾向がある。四五日前のことであったが、二人の小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ主人夫婦の寝ている間に対い合うて食卓に着いた。彼等は毎朝主人の食う麺麭の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど砂糖壺が卓の上に置かれて匙さえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から一匙の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。少らく両人は睨み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も負けずに一杯を附加した。姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。見ている間に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人の皿には山盛の砂糖が堆くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ眼を擦りながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っているかも知れぬが、智慧はかえって猫より劣っているようだ。そんなに山盛にしないうちに早く甞めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら御櫃の上から黙って見物していた。
寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就いたのは九時頃であった。例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも六切か七切食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸を置いた。他人がそんな我儘をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦げ爛れた餅の死骸を見て平気ですましている。妻君が袋戸の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固に出る。「あなたはほんとに厭きっぽい」と細君が独言のようにいう。「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句のような返事をする。「そんなに飲んだり止めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣いはありません、もう少し辛防がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三を顧みる。「それは本当のところでございます。もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非詰腹を切らせようとする。主人は何にも云わず立って書斎へ這入る。細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。こんなときに後からくっ付いて行って膝の上へ乗ると、大変な目に逢わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上って障子の隙から覗いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を披いて見ておった。もしそれが平常の通りわかるならちょっとえらいところがある。五六分するとその本を叩き付けるように机の上へ抛り出す。大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下のような事を書きつけた。
寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。
何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない。人間はこう自惚れているから困る。
宝丹の角を曲るとまた一人芸者が来た。これは背のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕は――つい忙がしかったもんだから」と云った。ただしその声は旅鴉のごとく皺枯れておったので、せっかくの風采も大に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手のまま御成道へ出た。寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。
人間の心理ほど解し難いものはない。この主人の今の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しているのか、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。
神田の某亭で晩餐を食う。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利かないものは利かないのだ。
無暗にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ。今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう云う辺に存するのかも知れない。
せんだって○○は朝飯を廃すると胃がよくなると云うたから二三日朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香の物を断てと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸を触れなかったが別段の験も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹揉療治に限る。ただし普通のではゆかぬ。皆川流という古流な揉み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒も大変この按摩術を愛していた。坂本竜馬のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速上根岸まで出掛けて揉まして見た。ところが骨を揉まなければ癒らぬとか、臓腑の位置を一度顛倒しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏は横膈膜で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中が不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。美学者の迷亭がこの体を見て、産気のついた男じゃあるまいし止すがいいと冷かしたからこの頃は廃してしまった。C先生は蕎麦を食ったらよかろうと云うから、早速かけともりをかわるがわる食ったが、これは腹が下るばかりで何等の功能もなかった。余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。ただ昨夜寒月と傾けた三杯の正宗はたしかに利目がある。これからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。
これも決して長く続く事はあるまい。主人の心は吾輩の眼球のように間断なく変化している。何をやっても永持のしない男である。その上日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は大に痩我慢をするからおかしい。せんだってその友人で某という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと云う議論をした。大分研究したものと見えて、条理が明晰で秩序が整然として立派な説であった。気の毒ながらうちの主人などは到底これを反駁するほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる際だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極め付けたので主人は黙然としていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝雑煮をあんなにたくさん食ったのも昨夜寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。
吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の黒のように横丁の肴屋まで遠征をする気力はないし、新道の二絃琴の師匠の所の三毛のように贅沢は無論云える身分でない。従って存外嫌は少ない方だ。小供の食いこぼした麺麭も食うし、餅菓子の※(「飲のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)もなめる。香の物はすこぶるまずいが経験のため沢庵を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは嫌だ、これは嫌だと云うのは贅沢な我儘で到底教師の家にいる猫などの口にすべきところでない。主人の話しによると仏蘭西にバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の贅沢屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は固より何も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは兼ねて自分の苦心している名を目付ようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て歩行いている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れて無暗にあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで巴理を探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を拍って「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分のない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意とらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに一日巴理を探険しなくてはならぬようでは随分手数のかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように牡蠣的主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。だから今雑煮が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、主人の食い剰した雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。……台所へ廻って見る。
今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着している。白状するが餅というものは今まで一辺も口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、また少しは気味がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を掻き寄せる。爪を見ると餅の上皮が引き掛ってねばねばする。嗅いで見ると釜の底の飯を御櫃へ移す時のような香がする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰もいない。御三は暮も春も同じような顔をして羽根をついている。小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。吾輩はこの刹那に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は実を云うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否椀底の様子を熟視すればするほど気味が悪くなって、食うのが厭になったのである。この時もし御三でも勝手口を開けたなら、奥の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜気もなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。ところが誰も来ない、いくら※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)躇していても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。吾輩は椀の中を覗き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を一寸ばかり食い込んだ。このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら噛み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一辺噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと疳づいた時はすでに遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦慮るたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけでどうしても始末をつける事が出来ない。美学者迷亭先生がかつて吾輩の主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、なるほどうまい事をいったものだ。この餅も主人と同じようにどうしても割り切れない。噛んでも噛んでも、三で十を割るごとく尽未来際方のつく期はあるまいと思われた。この煩悶の際吾輩は覚えず第二の真理に逢着した。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので毫も愉快を感じない。歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないと御三が来る。小供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ馳け出して来るに相違ない。煩悶の極尻尾をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。考えて見ると耳と尻尾は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。まず右の方をあげて口の周囲を撫で廻す。撫でたくらいで割り切れる訳のものではない。今度は左りの方を伸して口を中心として急劇に円を劃して見る。そんな呪いで魔は落ちない。辛防が肝心だと思って左右交る交るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議な事にこの時だけは後足二本で立つ事が出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻き廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に起っていられたものだと思う。第三の真理が驀地に現前する。「危きに臨めば平常なし能わざるところのものを為し能う。之を天祐という」幸に天祐を享けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような気合である。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ躍起となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう小供に見付けられた。「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのが御三である。羽根も羽子板も打ち遣って勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。細君は縮緬の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いと云うのは小供ばかりである。そうしてみんな申し合せたようにげらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので狂瀾を既倒に何とかするという勢でまた大変笑われた。人間の同情に乏しい実行も大分見聞したが、この時ほど恨めしく感じた事はなかった。ついに天祐もどっかへ消え失せて、在来の通り四つ這になって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と主人が御三に命ずる。御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で細君を見る。細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を顧みる。御三は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。寒月君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を情け容赦もなく引張るのだからたまらない。吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」と云う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人はすでに奥座敷へ這入ってしまっておった。
こんな失敗をした時には内にいて御三なんぞに顔を見られるのも何となくばつが悪い。いっその事気を易えて新道の二絃琴の御師匠さんの所の三毛子でも訪問しようと台所から裏へ出た。三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。うちで主人の苦い顔を見たり、御三の険突を食って気分が勝れん時は必ずこの異性の朋友の許を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に莫大なものだ。杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく椽側に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。曲線の美を尽している。尻尾の曲がり加減、足の折り具合、物憂げに耳をちょいちょい振る景色なども到底形容が出来ん。ことによく日の当る所に暖かそうに、品よく控えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、天鵞毛を欺くほどの滑らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。吾輩はしばらく恍惚として眺めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。三毛子は「あら先生」と椽を下りる。赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいい音だと感心している間に、吾輩の傍に来て「あら先生、おめでとう」と尾を左りへ振る。吾等猫属間で御互に挨拶をするときには尾を棒のごとく立てて、それを左りへぐるりと廻すのである。町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの三毛子ばかりである。吾輩は前回断わった通りまだ名はないのであるが、教師の家にいるものだから三毛子だけは尊敬して先生先生といってくれる。吾輩も先生と云われて満更悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。「やあおめでとう、大層立派に御化粧が出来ましたね」「ええ去年の暮御師匠さんに買って頂いたの、宜いでしょう」とちゃらちゃら鳴らして見せる。「なるほど善い音ですな、吾輩などは生れてから、そんな立派なものは見た事がないですよ」「あらいやだ、みんなぶら下げるのよ」とまたちゃらちゃら鳴らす。「いい音でしょう、あたし嬉しいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃら続け様に鳴らす。「あなたのうちの御師匠さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね」と吾身に引きくらべて暗に欣羨の意を洩らす。三毛子は無邪気なものである「ほんとよ、まるで自分の小供のようよ」とあどけなく笑う。猫だって笑わないとは限らない。人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。吾輩が笑うのは鼻の孔を三角にして咽喉仏を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。「一体あなたの所の御主人は何ですか」「あら御主人だって、妙なのね。御師匠さんだわ。二絃琴の御師匠さんよ」「それは吾輩も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれ昔しは立派な方なんでしょうな」「ええ」
君を待つ間の姫小松……………
障子の内で御師匠さんが二絃琴を弾き出す。「宜い声でしょう」と三毛子は自慢する。「宜いようだが、吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御師匠さんはあれが大好きなの。……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言を吐かねばならぬ事がある。
障子の中で二絃琴の音がぱったりやむと、御師匠さんの声で「三毛や三毛や御飯だよ」と呼ぶ。三毛子は嬉しそうに「あら御師匠さんが呼んでいらっしゃるから、私し帰るわ、よくって?」わるいと云ったって仕方がない。「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急に戻って来て「あなた大変色が悪くってよ。どうかしやしなくって」と心配そうに問いかける。まさか雑煮を食って踊りを踊ったとも云われないから「何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ」「そう。御大事になさいまし。さようなら」少しは名残り惜し気に見えた。これで雑煮の元気もさっぱりと回復した。いい心持になった。帰りに例の茶園を通り抜けようと思って霜柱の融けかかったのを踏みつけながら建仁寺の崩れから顔を出すとまた車屋の黒が枯菊の上に背を山にして欠伸をしている。近頃は黒を見て恐怖するような吾輩ではないが、話しをされると面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。黒の性質として他が己れを軽侮したと認むるや否や決して黙っていない。「おい、名なしの権兵衛、近頃じゃ乙う高く留ってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきな面らあするねえ。人つけ面白くもねえ」黒は吾輩の有名になったのを、まだ知らんと見える。説明してやりたいが到底分る奴ではないから、まず一応の挨拶をして出来得る限り早く御免蒙るに若くはないと決心した。「いや黒君おめでとう。不相変元気がいいね」と尻尾を立てて左へくるりと廻わす。黒は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。「何おめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、御めえなんざあ年が年中おめでてえ方だろう。気をつけろい、この吹い子の向う面め」吹い子の向うづらという句は罵詈の言語であるようだが、吾輩には了解が出来なかった。「ちょっと伺がうが吹い子の向うづらと云うのはどう云う意味かね」「へん、手めえが悪体をつかれてる癖に、その訳を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。参考のためちょっと聞いておきたいが、聞いたって明瞭な答弁は得られぬに極まっているから、面と対ったまま無言で立っておった。いささか手持無沙汰の体である。すると突然黒のうちの神さんが大きな声を張り揚げて「おや棚へ上げて置いた鮭がない。大変だ。またあの黒の畜生が取ったんだよ。ほんとに憎らしい猫だっちゃありゃあしない。今に帰って来たら、どうするか見ていやがれ」と怒鳴る。初春の長閑な空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君が御代を大に俗了してしまう。黒は怒鳴るなら、怒鳴りたいだけ怒鳴っていろと云わぬばかりに横着な顔をして、四角な顋を前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。今までは黒との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになって転がっている。「君不相変やってるな」と今までの行き掛りは忘れて、つい感投詞を奉呈した。黒はそのくらいな事ではなかなか機嫌を直さない。「何がやってるでえ、この野郎。しゃけの一切や二切で相変らずたあ何だ。人を見縊びった事をいうねえ。憚りながら車屋の黒だあ」と腕まくりの代りに右の前足を逆かに肩の辺まで掻き上げた。「君が黒君だと云う事は、始めから知ってるさ」「知ってるのに、相変らずやってるたあ何だ。何だてえ事よ」と熱いのを頻りに吹き懸ける。人間なら胸倉をとられて小突き廻されるところである。少々辟易して内心困った事になったなと思っていると、再び例の神さんの大声が聞える。「ちょいと西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一斤すぐ持って来るんだよ。いいかい、分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」と牛肉注文の声が四隣の寂寞を破る。「へん年に一遍牛肉を誂えると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ阿魔だ」と黒は嘲りながら四つ足を踏張る。吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。「一斤くらいじゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分のために誂えたもののごとくいう。「今度は本当の御馳走だ。結構結構」と吾輩はなるべく彼を帰そうとする。「御めっちの知った事じゃねえ。黙っていろ。うるせえや」と云いながら突然後足で霜柱の崩れた奴を吾輩の頭へばさりと浴びせ掛ける。吾輩が驚ろいて、からだの泥を払っている間に黒は垣根を潜って、どこかへ姿を隠した。大方西川の牛を覘に行ったものであろう。
家へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞える。はてなと明け放した椽側から上って主人の傍へ寄って見ると見馴れぬ客が来ている。頭を奇麗に分けて、木綿の紋付の羽織に小倉の袴を着けて至極真面目そうな書生体の男である。主人の手あぶりの角を見ると春慶塗りの巻煙草入れと並んで越智東風君を紹介致候水島寒月という名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるという事も知れた。主客の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君の事に関しているらしい。
「それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので」と客は落ちついて云う。「何ですか、その西洋料理へ行って午飯を食うのについて趣向があるというのですか」と主人は茶を続ぎ足して客の前へ押しやる。「さあ、その趣向というのが、その時は私にも分らなかったんですが、いずれあの方の事ですから、何か面白い種があるのだろうと思いまして……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」主人はそれ見たかと云わぬばかりに、膝の上に乗った吾輩の頭をぽかと叩く。少し痛い。「また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。あの男はあれが癖でね」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。「へへー。君何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」「何を食いました」「まず献立を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました」「誂らえない前にですか」「ええ」「それから」「それから首を捻ってボイの方を御覧になって、どうも変ったものもないようだなとおっしゃるとボイは負けぬ気で鴨のロースか小牛のチャップなどは如何ですと云うと、先生は、そんな月並を食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」「そうでしょう」「それから私の方を御向きになって、君仏蘭西や英吉利へ行くと随分天明調や万葉調が食えるんだが、日本じゃどこへ行ったって版で圧したようで、どうも西洋料理へ這入る気がしないと云うような大気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)で――全体あの方は洋行なすった事があるのですかな」「何迷亭が洋行なんかするもんですか、そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。大方これから行くつもりのところを、過去に見立てた洒落なんでしょう」と主人は自分ながらうまい事を言ったつもりで誘い出し笑をする。客はさまで感服した様子もない。「そうですか、私はまたいつの間に洋行なさったかと思って、つい真面目に拝聴していました。それに見て来たようになめくじのソップの御話や蛙のシチュの形容をなさるものですから」「そりゃ誰かに聞いたんでしょう、うそをつく事はなかなか名人ですからね」「どうもそうのようで」と花瓶の水仙を眺める。少しく残念の気色にも取られる。「じゃ趣向というのは、それなんですね」と主人が念を押す。「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」「ふーん」と主人は好奇的な感投詞を挟む。「それから、とてもなめくじや蛙は食おうっても食えやしないから、まあトチメンボーくらいなところで負けとく事にしようじゃないか君と御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「へー、とちめんぼうは妙ですな」「ええ全く妙なのですが、先生があまり真面目だものですから、つい気がつきませんでした」とあたかも主人に向って麁忽を詫びているように見える。「それからどうしました」と主人は無頓着に聞く。客の謝罪には一向同情を表しておらん。「それからボイにおいトチメンボーを二人前持って来いというと、ボイがメンチボーですかと聞き直しましたが、先生はますます真面目な貌でメンチボーじゃないトチメンボーだと訂正されました」「なある。そのトチメンボーという料理は一体あるんですか」「さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボーだトチメンボーだとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考えると実に滑稽なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが今日はトチメンボーは御生憎様でメンチボーなら御二人前すぐに出来ますと云うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来た甲斐がない。どうかトチメンボーを都合して食わせてもらう訳には行くまいかと、ボイに二十銭銀貨をやられると、ボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」「大変トチメンボーが食いたかったと見えますね」「しばらくしてボイが出て来て真に御生憎で、御誂ならこしらえますが少々時間がかかります、と云うと迷亭先生は落ちついたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食って行こうじゃないかと云いながらポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始められたので、私しも仕方がないから、懐から日本新聞を出して読み出しました、するとボイはまた奥へ相談に行きましたよ」「いやに手数が掛りますな」と主人は戦争の通信を読むくらいの意気込で席を前める。「するとボイがまた出て来て、近頃はトチメンボーの材料が払底で亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと気の毒そうに云うと、先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも遺憾ですな、遺憾極るですなと調子を合せたのです」「ごもっともで」と主人が賛成する。何がごもっともだか吾輩にはわからん。「するとボイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはへへへへと笑って返事をしないんです。材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんので、まことにお気の毒様と云いましたよ」「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い」と主人はいつになく大きな声で笑う。膝が揺れて吾輩は落ちかかる。主人はそれにも頓着なく笑う。アンドレア・デル・サルトに罹ったのは自分一人でないと云う事を知ったので急に愉快になったものと見える。「それから二人で表へ出ると、どうだ君うまく行ったろう、橡面坊を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。敬服の至りですと云って御別れしたようなものの実は午飯の時刻が延びたので大変空腹になって弱りましたよ」「それは御迷惑でしたろう」と主人は始めて同情を表する。これには吾輩も異存はない。しばらく話しが途切れて吾輩の咽喉を鳴らす音が主客の耳に入る。
東風君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「実は今日参りましたのは、少々先生に御願があって参ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」と主人も負けずに済ます。「御承知の通り、文学美術が好きなものですから……」「結構で」と油を注す。「同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして、毎月一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一回は去年の暮に開いたくらいであります」「ちょっと伺っておきますが、朗読会と云うと何か節奏でも附けて、詩歌文章の類を読むように聞えますが、一体どんな風にやるんです」「まあ初めは古人の作からはじめて、追々は同人の創作なんかもやるつもりです」「古人の作というと白楽天の琵琶行のようなものででもあるんですか」「いいえ」「蕪村の春風馬堤曲の種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだっては近松の心中物をやりました」「近松? あの浄瑠璃の近松ですか」近松に二人はない。近松といえば戯曲家の近松に極っている。それを聞き直す主人はよほど愚だと思っていると、主人は何にも分らずに吾輩の頭を叮嚀に撫でている。藪睨みから惚れられたと自認している人間もある世の中だからこのくらいの誤謬は決して驚くに足らんと撫でらるるがままにすましていた。「ええ」と答えて東風子は主人の顔色を窺う。「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を極めてやるんですか」「役を極めて懸合でやって見ました。その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。白はなるべくその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも丁稚でも、その人物が出てきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ衣装と書割がないくらいなものですな」「失礼ながらうまく行きますか」「まあ第一回としては成功した方だと思います」「それでこの前やったとおっしゃる心中物というと」「その、船頭が御客を乗せて芳原へ行く所なんで」「大変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾ける。鼻から吹き出した日の出の煙りが耳を掠めて顔の横手へ廻る。「なあに、そんなに大変な事もないんです。登場の人物は御客と、船頭と、花魁と仲居と遣手と見番だけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいてちょっと苦い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈出した。「仲居というのは娼家の下婢にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋の助役見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出て来るように仮色を使うと云った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋に隷属するもので、遣手は娼家に起臥する者ですね。次に見番と云うのは人間ですかまたは一定の場所を指すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を司どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には頓珍漢なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。主人は存外真面目である。「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。花魁が法学士のK君でしたが、口髯を生やして、女の甘ったるいせりふを使かうのですからちょっと妙でした。それにその花魁が癪を起すところがあるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。「ええとにかく表情が大事ですから」と東風子はどこまでも文芸家の気でいる。「うまく癪が起りましたか」と主人は警句を吐く。「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。「私しは船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が務まるものなら僕にも見番くらいはやれると云ったような語気を洩らす。やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明ける。東風子は別段癪に障った様子もない。やはり沈着な口調で「その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾に終りました。実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。私しが船頭の仮色を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、極りが悪るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後がつづけられないので、とうとうそれ限りで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えず咽喉仏がごろごろ鳴る。主人はいよいよ柔かに頭を撫でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。「それは飛んだ事で」と主人は正月早々弔詞を述べている。「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。「いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と云いながら紫の風呂敷から大事そうに小菊版の帳面を出す。「これへどうか御署名の上御捺印を願いたいので」と帳面を主人の膝の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく勢揃をしている。「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣先生は掛念の体に見える。「義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表し被下ればそれで結構です」「そんなら這入ります」と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないと云う事が分っておれば謀叛の連判状へでも名を書き入れますと云う顔付をする。加之こう知名の学者が名前を列ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と主人は書斎へ印をとりに這入る。吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。東風子は菓子皿の中のカステラをつまんで一口に頬張る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。吾輩は今朝の雑煮事件をちょっと思い出す。主人が書斎から印形を持って出て来た時は、東風子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。主人は菓子皿のカステラが一切足りなくなった事には気が着かぬらしい。もし気がつくとすれば第一に疑われるものは吾輩であろう。
東風子が帰ってから、主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間にか迷亭先生の手紙が来ている。
「新年の御慶目出度申納候。……」
いつになく出が真面目だと主人が思う。迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどないので、この間などは「其後別に恋着せる婦人も無之、いず方より艶書も参らず、先ず先ず無事に消光罷り在り候間、乍憚御休心可被下候」と云うのが来たくらいである。それに較べるとこの年始状は例外にも世間的である。
「一寸参堂仕り度候えども、大兄の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以て、此千古未曾有の新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察願上候……」
なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭君に同意する。
「昨日は一刻のひまを偸み、東風子にトチメンボーの御馳走を致さんと存じ候処、生憎材料払底の為め其意を果さず、遺憾千万に存候。……」
そろそろ例の通りになって来たと主人は無言で微笑する。
「明日は某男爵の歌留多会、明後日は審美学協会の新年宴会、其明日は鳥部教授歓迎会、其又明日は……」
うるさいなと、主人は読みとばす。
「右の如く謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会等、会の連発にて当分の間は、のべつ幕無しに出勤致し候為め、不得已賀状を以て拝趨の礼に易え候段不悪御宥恕被下度候。……」
別段くるにも及ばんさと、主人は手紙に返事をする。
「今度御光来の節は久し振りにて晩餐でも供し度心得に御座候。寒厨何の珍味も無之候えども、せめてはトチメンボーでもと只今より心掛居候。……」
まだトチメンボーを振り廻している。失敬なと主人はちょっとむっとする。
「然しトチメンボーは近頃材料払底の為め、ことに依ると間に合い兼候も計りがたきにつき、其節は孔雀の舌でも御風味に入れ可申候。……」
両天秤をかけたなと主人は、あとが読みたくなる。
「御承知の通り孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半ばにも足らぬ程故健啖なる大兄の胃嚢を充たす為には……」
うそをつけと主人は打ち遣ったようにいう。
「是非共二三十羽の孔雀を捕獲致さざる可らずと存候。然る所孔雀は動物園、浅草花屋敷等には、ちらほら見受け候えども、普通の鳥屋抔には一向見当り不申、苦心此事に御座候。……」
独りで勝手に苦心しているのじゃないかと主人は毫も感謝の意を表しない。
「此孔雀の舌の料理は往昔羅馬全盛の砌り、一時非常に流行致し候ものにて、豪奢風流の極度と平生よりひそかに食指を動かし居候次第御諒察可被下候。……」
何が御諒察だ、馬鹿なと主人はすこぶる冷淡である。
「降って十六七世紀の頃迄は全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成居候。レスター伯がエリザベス女皇をケニルウォースに招待致し候節も慥か孔雀を使用致し候様記憶致候。有名なるレンブラントが画き候饗宴の図にも孔雀が尾を広げたる儘卓上に横わり居り候……」
孔雀の料理史をかくくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。
「とにかく近頃の如く御馳走の食べ続けにては、さすがの小生も遠からぬうちに大兄の如く胃弱と相成るは必定……」
大兄のごとくは余計だ。何も僕を胃弱の標準にしなくても済むと主人はつぶやいた。
「歴史家の説によれば羅馬人は日に二度三度も宴会を開き候由。日に二度も三度も方丈の食饌に就き候えば如何なる健胃の人にても消化機能に不調を醸すべく、従って自然は大兄の如く……」
また大兄のごとくか、失敬な。
「然るに贅沢と衛生とを両立せしめんと研究を尽したる彼等は不相当に多量の滋味を貪ると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認め、ここに一の秘法を案出致し候……」
はてねと主人は急に熱心になる。
「彼等は食後必ず入浴致候。入浴後一種の方法によりて浴前に嚥下せるものを悉く嘔吐し、胃内を掃除致し候。胃内廓清の功を奏したる後又食卓に就き、飽く迄珍味を風好し、風好し了れば又湯に入りて之を吐出致候。かくの如くすれば好物は貪ぼり次第貪り候も毫も内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とは此等の事を可申かと愚考致候……」
なるほど一挙両得に相違ない。主人は羨ましそうな顔をする。
「廿世紀の今日交通の頻繁、宴会の増加は申す迄もなく、軍国多事征露の第二年とも相成候折柄、吾人戦勝国の国民は、是非共羅馬人に傚って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信致候。左もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃かに心痛罷りあり候……」
また大兄のごとくか、癪に障る男だと主人が思う。
「此際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、既に廃絶せる秘法を発見し、之を明治の社会に応用致し候わば所謂禍を未萌に防ぐの功徳にも相成り平素逸楽を擅に致し候御恩返も相立ち可申と存候……」
何だか妙だなと首を捻る。
「依て此間中よりギボン、モンセン、スミス等諸家の著述を渉猟致し居候えども未だに発見の端緒をも見出し得ざるは残念の至に存候。然し御存じの如く小生は一度思い立ち候事は成功するまでは決して中絶仕らざる性質に候えば嘔吐方を再興致し候も遠からぬうちと信じ居り候次第。右は発見次第御報道可仕候につき、左様御承知可被下候。就てはさきに申上候トチメンボー及び孔雀の舌の御馳走も可相成は右発見後に致し度、左すれば小生の都合は勿論、既に胃弱に悩み居らるる大兄の為にも御便宜かと存候草々不備」
何だとうとう担がれたのか、あまり書き方が真面目だものだからつい仕舞まで本気にして読んでいた。新年匆々こんな悪戯をやる迷亭はよっぽどひま人だなあと主人は笑いながら云った。
それから四五日は別段の事もなく過ぎ去った。白磁の水仙がだんだん凋んで、青軸の梅が瓶ながらだんだん開きかかるのを眺め暮らしてばかりいてもつまらんと思って、一両度三毛子を訪問して見たが逢われない。最初は留守だと思ったが、二返目には病気で寝ているという事が知れた。障子の中で例の御師匠さんと下女が話しをしているのを手水鉢の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。
「三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ何にも食べません、あったかにして御火燵に寝かしておきました」何だか猫らしくない。まるで人間の取扱を受けている。
一方では自分の境遇と比べて見て羨ましくもあるが、一方では己が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。
「どうも困るね、御飯をたべないと、身体が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私共でさえ一日御※(「飲のへん+善」、第4水準2-92-71)をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」
下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。実際この家では下女より猫の方が大切かも知れない。
「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。私が三毛をだいて診察場へ行くと、風邪でも引いたのかって私の脈をとろうとするんでしょう。いえ病人は私ではございません。これですって三毛を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、抛っておいたら今に癒るだろうってんですもの、あんまり苛いじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでも大事の猫なんですって、三毛を懐へ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」
「ほんにねえ」は到底吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはり天璋院様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ雅であると感心した。
「何だかしくしく云うようだが……」「ええきっと風邪を引いて咽喉が痛むんでございますよ。風邪を引くと、どなたでも御咳が出ますからね……」
天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿叮嚀な言葉を使う。
「それに近頃は肺病とか云うものが出来てのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代に無い者に碌な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」
下女は大に感動している。
「風邪を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね」
下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。
「悪い友達?」「ええあの表通りの教師の所にいる薄ぎたない雄猫でございますよ」「教師と云うのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびに鵝鳥が絞め殺されるような声を出す人でござんす」
鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。吾輩の主人は毎朝風呂場で含嗽をやる時、楊枝で咽喉をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。機嫌の悪い時はやけにがあがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなおがあがあやる。つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よくがあがあやる。細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから今日まで一日もやめた事がないという。ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには到底想像もつかん。それもまず善いとして「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。
「あんな声を出して何の呪いになるか知らん。御維新前は中間でも草履取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」
下女は無暗に感服しては、無暗にねえを使用する。
「あんな主人を持っている猫だから、どうせ野良猫さ、今度来たら少し叩いておやり」「叩いてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと讐をとってやります」
飛んだ冤罪を蒙ったものだ。こいつは滅多に近か寄れないと三毛子にはとうとう逢わずに帰った。
帰って見ると主人は書斎の中で何か沈吟の体で筆を執っている。二絃琴の御師匠さんの所で聞いた評判を話したら、さぞ怒るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん云いながら神聖な詩人になりすましている。
ところへ当分多忙で行かれないと云って、わざわざ年始状をよこした迷亭君が飄然とやって来る。「何か新体詩でも作っているのかね。面白いのが出来たら見せたまえ」と云う。「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね」と主人は重たそうに口を開く。「文章? 誰れの文章だい」「誰れのか分らんよ」「無名氏か、無名氏の作にも随分善いのがあるからなかなか馬鹿に出来ない。全体どこにあったのか」と問う。「第二読本」と主人は落ちつきはらって答える。「第二読本? 第二読本がどうしたんだ」「僕の翻訳している名文と云うのは第二読本の中にあると云う事さ」「冗談じゃない。孔雀の舌の讐を際どいところで討とうと云う寸法なんだろう」「僕は君のような法螺吹きとは違うさ」と口髯を捻る。泰然たるものだ。「昔しある人が山陽に、先生近頃名文はござらぬかといったら、山陽が馬子の書いた借金の催促状を示して近来の名文はまずこれでしょうと云ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかも知れん。どれ読んで見給え、僕が批評してやるから」と迷亭先生は審美眼の本家のような事を云う。主人は禅坊主が大燈国師の遺誡を読むような声を出して読み始める。「巨人、引力」「何だいその巨人引力と云うのは」「巨人引力と云う題さ」「妙な題だな、僕には意味がわからんね」「引力と云う名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理なつもりだが表題だからまず負けておくとしよう。それから早々本文を読むさ、君は声が善いからなかなか面白い」「雑ぜかえしてはいかんよ」と予じめ念を押してまた読み始める。
ケートは窓から外面を眺める。小児が球を投げて遊んでいる。彼等は高く球を空中に擲つ。球は上へ上へとのぼる。しばらくすると落ちて来る。彼等はまた球を高く擲つ。再び三度。擲つたびに球は落ちてくる。なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみのぼらぬかとケートが聞く。「巨人が地中に住む故に」と母が答える。「彼は巨人引力である。彼は強い。彼は万物を己れの方へと引く。彼は家屋を地上に引く。引かねば飛んでしまう。小児も飛んでしまう。葉が落ちるのを見たろう。あれは巨人引力が呼ぶのである。本を落す事があろう。巨人引力が来いというからである。球が空にあがる。巨人引力は呼ぶ。呼ぶと落ちてくる」
「それぎりかい」「むむ、甘いじゃないか」「いやこれは恐れ入った。飛んだところでトチメンボーの御返礼に預った」「御返礼でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね」と金縁の眼鏡の奥を見る。「どうも驚ろいたね。君にしてこの伎倆あらんとは、全く此度という今度は担がれたよ、降参降参」と一人で承知して一人で喋舌る。主人には一向通じない。「何も君を降参させる考えはないさ。ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ」「いや実に面白い。そう来なくっちゃ本ものでない。凄いものだ。恐縮だ」「そんなに恐縮するには及ばん。僕も近頃は水彩画をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね」「どうして遠近無差別黒白平等の水彩画の比じゃない。感服の至りだよ」「そうほめてくれると僕も乗り気になる」と主人はあくまでも疳違いをしている。
ところへ寒月君が先日は失礼しましたと這入って来る。「いや失敬。今大変な名文を拝聴してトチメンボーの亡魂を退治られたところで」と迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。「はあ、そうですか」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。主人だけは左のみ浮かれた気色もない。「先日は君の紹介で越智東風と云う人が来たよ」「ああ上りましたか、あの越智東風と云う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから……」「別に迷惑の事もないがね……」「こちらへ上っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。「あの東風と云うのを音で読まれると大変気にするので」「はてね」と迷亭先生は金唐皮の煙草入から煙草をつまみ出す。「私しの名は越智東風ではありません、越智こちですと必ず断りますよ」「妙だね」と雲井を腹の底まで呑み込む。「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと遠近と云う成語になる、のみならずその姓名が韻を踏んでいると云うのが得意なんです。それだから東風を音で読むと僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を云うのです」「こりゃなるほど変ってる」と迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の孔まで吐き返す。途中で煙が戸迷いをして咽喉の出口へ引きかかる。先生は煙管を握ってごほんごほんと咽び返る。「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ」と主人は笑いながら云う。「うむそれそれ」と迷亭先生が煙管で膝頭を叩く。吾輩は険呑になったから少し傍を離れる。「その朗読会さ。せんだってトチメンボーを御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それから僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しい者を撰んで金色夜叉にしましたと云うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は御宮ですといったのさ。東風の御宮は面白かろう。僕は是非出席して喝采しようと思ってるよ」「面白いでしょう」と寒月君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。迷亭などとは大違いだ」と主人はアンドレア・デル・サルトと孔雀の舌とトチメンボーの復讐を一度にとる。迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは行徳の俎と云う格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と主人が云う。実は行徳の俎と云う語を主人は解さないのであるが、さすが永年教師をして胡魔化しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。「行徳の俎というのは何の事ですか」と寒月が真率に聞く。主人は床の方を見て「あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿したのだが、よく持つじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。「暮といえば、去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ」と迷亭が煙管を大神楽のごとく指の尖で廻わす。「どんな経験か、聞かし玉え」と主人は行徳の俎を遠く後に見捨てた気で、ほっと息をつく。迷亭先生の不思議な経験というのを聞くと左のごとくである。
「たしか暮の二十七日と記憶しているがね。例の東風から参堂の上是非文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うと云う先き触れがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーンの滑稽物を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブを焚いて室を煖かにしてやらないと風邪を引くとかいろいろの注意があるのさ。なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、呑気な僕もその時だけは大に感動した。それにつけても、こんなにのらくらしていては勿体ない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいと云う気になった。それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦をして御国のために働らいているのに節季師走でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。――僕はこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね――そのあとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ。一番仕舞にね。私しも取る年に候えば初春の御雑煮を祝い候も今度限りかと……何だか心細い事が書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く東風が来れば好いと思ったが、先生どうしても来ない。そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、いつでも十行内外で御免蒙る事に極めてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風が来たら待たせておけと云う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手三番町の方へ我れ知らず出てしまった。ちょうどその晩は少し曇って、から風が御濠の向うから吹き付ける、非常に寒い。神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変淋しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳け廻る。よく人が首を縊ると云うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下に来ているのさ」
「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。
「首懸の松さ」と迷亭は領を縮める。
「首懸の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。
「鴻の台のは鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返はきっとぶら下がっている。どうしても他の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、四辺を見渡すと生憎誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっては命がない、危ないからよそう。しかし昔の希臘人は宴会の席で首縊りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他のものが台を蹴返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向である。果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓る。撓り按排が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし東風が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風に逢って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」
「それで市が栄えたのかい」と主人が聞く。
「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。
「うちへ帰って見ると東風は来ていない。しかし今日は無拠処差支えがあって出られぬ、いずれ永日御面晤を期すという端書があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と云って主人と寒月の顔を見てすましている。
「見るとどうしたんだい」と主人は少し焦れる。
「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の紐をひねくる。
「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神に取り着かれたんだね。ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。
主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅を頬張って口をもごもご云わしている。
寒月は火鉢の灰を丁寧に掻き馴らして、俯向いてにやにや笑っていたが、やがて口を開く。極めて静かな調子である。
「なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません」
「おや君も首を縊りたくなったのかい」
「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですからなおさら不思議に思われます」
「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。
「その日は向島の知人の家で忘年会兼合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。晩餐もすみ合奏もすんで四方の話しが出て時刻も大分遅くなったから、もう暇乞いをして帰ろうかと思っていますと、某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので、実はその両三日前に逢った時は平常の通りどこも悪いようには見受けませんでしたから、私も驚ろいて精しく様子を聞いて見ますと、私しの逢ったその晩から急に発熱して、いろいろな譫語を絶間なく口走るそうで、それだけなら宜いですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです」
主人は無論、迷亭先生も「御安くないね」などという月並は云わず、静粛に謹聴している。
「医者を呼んで見てもらうと、何だか病名はわからんが、何しろ熱が劇しいので脳を犯しているから、もし睡眠剤が思うように功を奏しないと危険であると云う診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起ったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。帰り道にもその事ばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あの奇麗な、あの快活なあの健康な○○子さんが……」
「ちょっと失敬だが待ってくれ給え。さっきから伺っていると○○子さんと云うのが二返ばかり聞えるようだが、もし差支えがなければ承わりたいね、君」と主人を顧みると、主人も「うむ」と生返事をする。
「いやそれだけは当人の迷惑になるかも知れませんから廃しましょう」
「すべて曖々然として昧々然たるかたで行くつもりかね」
「冷笑なさってはいけません、極真面目な話しなんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になった事を考えると、実に飛花落葉の感慨で胸が一杯になって、総身の活気が一度にストライキを起したように元気がにわかに滅入ってしまいまして、ただ蹌々として踉々という形ちで吾妻橋へきかかったのです。欄干に倚って下を見ると満潮か干潮か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。花川戸の方から人力車が一台馳けて来て橋の上を通りました。その提灯の火を見送っていると、だんだん小くなって札幌ビールの処で消えました。私はまた水を見る。すると遥かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面をすかして見ましたが暗くて何にも分りません。気のせいに違いない早々帰ろうと思って一足二足あるき出すと、また微かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。三度目に呼ばれた時には欄干に捕まっていながら膝頭ががくがく悸え出したのです。その声は遠くの方か、川の底から出るようですが紛れもない○○子の声なんでしょう。私は覚えず「はーい」と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月も何にも見えません。その時に私はこの「夜」の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいと云う気がむらむらと起ったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は「今直に行きます」と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。どうも私を呼ぶ声が浪の下から無理に洩れて来るように思われましてね。この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いて来る。ここだと思って力を込めて一反飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」
「とうとう飛び込んだのかい」と主人が眼をぱちつかせて問う。
「そこまで行こうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。
「飛び込んだ後は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも濡れた所も何もない、水を飲んだような感じもしない。たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛び下りたので、その時は実に残念でした。前と後ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです」寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織の紐を荷厄介にしている。
「ハハハハこれは面白い。僕の経験と善く似ているところが奇だ。やはりゼームス教授の材料になるね。人間の感応と云う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と迷亭先生が追窮する。
「二三日前年始に行きましたら、門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」
主人は最前から沈思の体であったが、この時ようやく口を開いて、「僕にもある」と負けぬ気を出す。
「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などは無論ない。
「僕のも去年の暮の事だ」
「みんな去年の暮は暗合で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のうちに空也餅が着いている。
「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。
「いや日は違うようだ。何でも二十日頃だよ。細君が御歳暮の代りに摂津大掾を聞かしてくれろと云うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君が新聞を参考して鰻谷だと云うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると細君がまた新聞を持って来て今日は堀川だからいいでしょうと云う。堀川は三味線もので賑やかなばかりで実がないからよそうと云うと、細君は不平な顔をして引き下がった。その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、私は是非摂津の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜いでしょうと手詰の談判をする。御前がそんなに行きたいなら行っても宜ろしい、しかし一世一代と云うので大変な大入だから到底突懸けに行ったって這入れる気遣いはない。元来ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在ってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない、残念だが今日はやめようと云うと、細君は凄い眼付をして、私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、大原のお母あさんも、鈴木の君代さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。すると君不思議な事にはその時から急に悪寒がし出してね」
「奥さんがですか」と寒月が聞く。
「なに細君はぴんぴんしていらあね。僕がさ。何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮する感じが起ると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった」
「急病だね」と迷亭が註釈を加える。
「ああ困った事になった。細君が年に一度の願だから是非叶えてやりたい。平生叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水の労に酬いた事はない。今日は幸い時間もある、嚢中には四五枚の堵物もある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱へ降りる事も出来ない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木医学士を迎いにやると生憎昨夜が当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。困ったなあ、今杏仁水でも飲めば四時前にはきっと癒るに極っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外れそうになって来る。細君は恨めしい顔付をして、到底いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますます劇しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知れない。情けない仕儀になって来た。どうしたら善かろう。万一の事を考えると今の内に有為転変の理、生者必滅の道を説き聞かして、もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫の妻に対する義務ではあるまいかと考え出した。僕は速かに細君を書斎へ呼んだよ。呼んで御前は女だけれども many a slip 'twixt the cup and the lip と云う西洋の諺くらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、宜しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そんなに英語が御好きなら、なぜ耶蘇学校の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。全く妻を愛する至情から出たので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒と眩暈で少し脳が乱れていたところへもって来て、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急き込んだものだから、つい細君の英語を知らないと云う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。考えるとこれは僕が悪るい、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。眼はいよいよぐらぐらする。妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌を脱いで御化粧をして、箪笥から着物を出して着換える。もういつでも出掛けられますと云う風情で待ち構えている。僕は気が気でない。早く甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。「そろそろ出掛けましょうか」と妻君が書斎の開き戸を明けて顔を出す。自分の妻を褒めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど細君を美しいと思った事はなかった。もろ肌を脱いで石鹸で磨き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬の羽織と反映している。その顔が石鹸と摂津大掾を聞こうと云う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと云う気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺めて、手を握って、胸を敲いて背を撫でて、目縁を引っ繰り返して、頭蓋骨をさすって、しばらく考え込んでいる。「どうも少し険呑のような気がしまして」と僕が云うと、先生は落ちついて、「いえ格別の事もございますまい」と云う。「あのちょっとくらい外出致しても差支えはございますまいね」と細君が聞く。「さよう」と先生はまた考え込む。「御気分さえ御悪くなければ……」「気分は悪いですよ」と僕がいう。「じゃともかくも頓服と水薬を上げますから」「へえどうか、何だかちと、危ないようになりそうですな」「いや決して御心配になるほどの事じゃございません、神経を御起しになるといけませんよ」と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。細君の厳命で馳け出して行って、馳け出して返ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前頃から、今まで何とも無かったのに、急に嘔気を催おして来た。細君は水薬を茶碗へ注いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取り上げて飲もうとすると、胃の中からげーと云う者が吶喊して出てくる。やむをえず茶碗を下へ置く。細君は「早く御飲みになったら宜いでしょう」と逼る。早く飲んで早く出掛けなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうとまた茶碗を唇へつけるとまたゲーが執念深く妨害をする。飲もうとしては茶碗を置き、飲もうとしては茶碗を置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。さあ四時だ愚図愚図してはおられんと茶碗をまた取り上げると、不思議だねえ君、実に不思議とはこの事だろう、四時の音と共に吐き気がすっかり留まって水薬が何の苦なしに飲めたよ。それから四時十分頃になると、甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、背中がぞくぞくするのも、眼がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気がたちまち全快したのは嬉しかった」
「それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい」と迷亭が要領を得んと云う顔付をして聞く。
「行きたかったが四時を過ぎちゃ、這入れないと云う細君の意見なんだから仕方がない、やめにしたさ。もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたら僕の義理も立つし、妻も満足したろうに、わずか十五分の差でね、実に残念な事をした。考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ」
語り了った主人はようやく自分の義務をすましたような風をする。これで両人に対して顔が立つと云う気かも知れん。
寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と云う。
迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な夫を持った妻君は実に仕合せだな」と独り言のようにいう。障子の蔭でエヘンと云う細君の咳払いが聞える。
吾輩はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間を潰すために強いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。吾輩の主人の我儘で偏狭な事は前から承知していたが、平常は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の半可通のごとく、文切り形の厭味を帯びてないのはいささかの取り得でもあろう。
こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、三毛子の様子でも見て来ようかと二絃琴の御師匠さんの庭口へ廻る。門松注目飾りはすでに取り払われて正月も早や十日となったが、うららかな春日は一流れの雲も見えぬ深き空より四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の面も元日の曙光を受けた時より鮮かな活気を呈している。椽側に座蒲団が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御師匠さんは湯にでも行ったのか知らん。御師匠さんは留守でも構わんが、三毛子は少しは宜い方か、それが気掛りである。ひっそりして人の気合もしないから、泥足のまま椽側へ上って座蒲団の真中へ寝転ろんで見るといい心持ちだ。ついうとうととして、三毛子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。
「御苦労だった。出来たかえ」御師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。
「はい遅くなりまして、仏師屋へ参りましたらちょうど出来上ったところだと申しまして」「どれお見せなさい。ああ奇麗に出来た、これで三毛も浮かばれましょう。金は剥げる事はあるまいね」「ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間の位牌よりも持つと申しておりました。……それから猫誉信女の誉の字は崩した方が恰好がいいから少し劃を易えたと申しました」「どれどれ早速御仏壇へ上げて御線香でもあげましょう」
三毛子は、どうかしたのかな、何だか様子が変だと蒲団の上へ立ち上る。チーン南無猫誉信女、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と御師匠さんの声がする。
「御前も回向をしておやりなさい」
チーン南無猫誉信女南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。吾輩は急に動悸がして来た。座蒲団の上に立ったまま、木彫の猫のように眼も動かさない。
「ほんとに残念な事を致しましたね。始めはちょいと風邪を引いたんでございましょうがねえ」「甘木さんが薬でも下さると、よかったかも知れないよ」「一体あの甘木さんが悪うございますよ、あんまり三毛を馬鹿にし過ぎまさあね」「そう人様の事を悪く云うものではない。これも寿命だから」
三毛子も甘木先生に診察して貰ったものと見える。
「つまるところ表通りの教師のうちの野良猫が無暗に誘い出したからだと、わたしは思うよ」「ええあの畜生が三毛のかたきでございますよ」
少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと唾を呑んで聞いている。話しはしばし途切れる。
「世の中は自由にならん者でのう。三毛のような器量よしは早死をするし。不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし……」「その通りでございますよ。三毛のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって、二人とはおりませんからね」
二匹と云う代りに二たりといった。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そう云えばこの下女の顔は吾等猫属とはなはだ類似している。
「出来るものなら三毛の代りに……」「あの教師の所の野良が死ぬと御誂え通りに参ったんでございますがねえ」
御誂え通りになっては、ちと困る。死ぬと云う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えないが、先日あまり寒いので火消壺の中へもぐり込んでいたら、下女が吾輩がいるのも知らんで上から蓋をした事があった。その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。三毛子の身代りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。
「しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、戒名をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全く果報者でございますよ。ただ慾を云うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね」「少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、月桂寺さんは、ええ利目のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあの野良なんかは……」
吾輩は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。
「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」
吾輩はその後野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、布団をすべり落ちて椽側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて身震いをした。その後二絃琴の御師匠さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向を受けているだろう。
近頃は外出する勇気もない。何だか世間が慵うく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの無性猫となった。主人が書斎にのみ閉じ籠っているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
鼠はまだ取った事がないので、一時は御三から放逐論さえ呈出された事もあったが、主人は吾輩の普通一般の猫でないと云う事を知っているものだから吾輩はやはりのらくらしてこの家に起臥している。この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活眼に対して敬服の意を表するに躊躇しないつもりである。御三が吾輩を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に左甚五郎が出て来て、吾輩の肖像を楼門の柱に刻み、日本のスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの上に描くようになったら、彼等鈍瞎漢は始めて自己の不明を恥ずるであろう。
三
三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞の感はあるが、幸い人間に知己が出来たのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人の許へ吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産吉備団子をわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合して二本足の先生と雌雄を決しようなどと云う量見は昨今のところ毛頭ない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑する次第ではない。ただ性情の近きところに向って一身の安きを置くは勢のしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄して人を罵詈するものに限って融通の利かぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると三毛子や黒の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位で彼等の思想、言行を評隲したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般猫児の毛の生えたものくらいに思って、主人が吾輩に一言の挨拶もなく、吉備団子をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ撮って送らぬ容子だ。これも不平と云えば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然異なるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に上りにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで御免蒙る事に致そう。
今日は上天気の日曜なので、主人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩の傍へ筆硯と原稿用紙を並べて腹這になって、しきりに何か唸っている。大方草稿を書き卸す序開きとして妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太に「香一※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)」とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)とは、主人にしては少し洒落過ぎているがと思う間もなく、彼は香一※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)を書き放しにして、新たに行を改めて「さっきから天然居士の事をかこうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。主人は筆を持って首を捻ったが別段名案もないものと見えて筆の穂を甞めだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想が尽きたと見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。主人はまた行を改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何かになるだろうとただ宛もなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」と言文一致体で一気呵成に書き流した、何となくごたごたした文章である。それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁を垂らすのは、ちと酷だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線を描く、線がほかの行まで食み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭を捻って見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐わる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼を叩くような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭を御食べになったり、ジャムを御舐めになるものですから」「元来ジャムは幾缶舐めたのかい」「今月は八つ入りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体で、ふっと吹いて見る。粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに頑固だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大に不平な気色を両頬に漲らす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入る。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士に取り懸る。
鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦る体であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食うも蛇足だ、割愛しよう」とついにこの句も抹殺する。「香一※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)もあまり唐突だから已めろ」と惜気もなく筆誅する。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫」と意味不明な語を連ねているところへ例のごとく迷亭が這入って来る。迷亭は人の家も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。
「また巨人引力かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。天然居士の墓銘を撰しているところなんだ」と大袈裟な事を云う。「天然居士と云うなあやはり偶然童子のような戒名かね」と迷亭は不相変出鱈目を云う。「偶然童子と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当だろうと思っていらあね」「偶然童子と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎の事だ。卒業して大学院へ這入って空間論と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅な名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘と云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫」と大きな声で読み上る。「なるほどこりゃあ善い、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘を沢庵石へ彫り付けて本堂の裏手へ力石のように抛り出して置くんだね。雅でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然と出て行く。
計らずも迷亭先生の接待掛りを命ぜられて無愛想な顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌を振り蒔いて膝の上へ這い上って見た。すると迷亭は「イヨー大分肥ったな、どれ」と無作法にも吾輩の襟髪を攫んで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては、鼠は取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね」と吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りの室の妻君に話しかける。「鼠どころじゃございません。御雑煮を食べて踊りをおどるんですもの」と妻君は飛んだところで旧悪を暴く。吾輩は宙乗りをしながらも少々極りが悪かった。迷亭はまだ吾輩を卸してくれない。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない相好ですぜ。昔しの草双紙にある猫又に似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに細君に話しかける。細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。
「どうも御退屈様、もう帰りましょう」と茶を注ぎ易えて迷亭の前へ出す。「どこへ行ったんですかね」「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう」「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人に捕まっちゃ災難ですな」「へえ」と細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。迷亭は一向頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減が能いんですか」「能いか悪いか頓と分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり甞めては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻の不平を暗に迷亭に洩らす。「そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか云って大根卸しを無暗に甞めますので……」「驚ろいたな」と迷亭は感嘆する。「何でも大根卸の中にはジヤスターゼが有るとか云う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害を償おうと云う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と迷亭は細君の訴を聞いて大に愉快な気色である。「この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして……」「ジャムをですか」「いいえ大根卸を……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二三日前には中の娘を抱いて箪笥の上へあげましてね……」「どう云う趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと云うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな御転婆な事が出来るはずがないです」「なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」「あの上腹の中に毒があっちゃ、辛防は出来ませんわ」と細君は大に気焔を揚げる。「まあそんなに不平を云わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば上の分ですよ。苦沙弥君などは道楽はせず、服装にも構わず、地味に世帯向きに出来上った人でさあ」と迷亭は柄にない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで……」「何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね」と飄然とふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、無暗に読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜って大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやると云っていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そういつまでも引張る訳にも参りませんから」と妻君は憮然としている。「それじゃ、訳を話して書籍費を削減させるさ」「どうして、そんな言を云ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は学者の妻にも似合わん、毫も書籍の価値を解しておらん、昔し羅馬にこう云う話しがある。後学のため聞いておけと云うんです」「そりゃ面白い、どんな話しですか」迷亭は乗気になる。細君に同情を表しているというよりむしろ好奇心に駆られている。「何んでも昔し羅馬に樽金とか云う王様があって……」「樽金? 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金は振ってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬の七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと云ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を云うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと云うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚いてしまったそうです」「惜しい事をしましたな」「その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しは価も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと云うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと云うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出して焚け余りの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがた味が分ったろう、どうだと力味むのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答を促がす。さすがの迷亭も少々窮したと見えて、袂からハンケチを出して吾輩をじゃらしていたが「しかし奥さん」と急に何か考えついたように大きな声を出す。「あんなに本を買って矢鱈に詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか云われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥君の評が出ていましたよ」「ほんとに?」と細君は向き直る。主人の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「何とかいてあったんです」「なあに二三行ばかりですがね。苦沙弥君の文は行雲流水のごとしとありましたよ」細君は少しにこにこして「それぎりですか」「その次にね――出ずるかと思えば忽ち消え、逝いては長えに帰るを忘るとありましたよ」細君は妙な顔をして「賞めたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と迷亭は済ましてハンケチを吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど偏屈でしてねえ」迷亭はまた別途の方面から来たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離の妙答をする。「せんだってなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套も脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳を火燵櫓の上へ乗せまして――私は御櫃を抱えて坐っておりましたがおかしくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙弥君の苦沙弥君たるところで――とにかく月並でない」と切ない褒め方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると細君は不満な様子で「一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並と云うと――さようちと説明しにくいのですが……」「そんな曖昧なものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか」と細君は女人一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並と云うんでしょう」と細君は我知らず穿った事を云う。迷亭もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並と云うのはね、まず年は二八か二九からぬと言わず語らず物思いの間に寝転んでいて、この日や天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ連中を云うんです」「そんな連中があるでしょうか」と細君は分らんものだから好加減な挨拶をする。「何だかごたごたして私には分りませんわ」とついに我を折る。「それじゃ馬琴の胴へメジョオ・ペンデニスの首をつけて一二年欧州の空気で包んでおくんですね」「そうすると月並が出来るでしょうか」迷亭は返事をしないで笑っている。「何そんな手数のかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります」「そうでしょうか」と細君は首を捻ったまま納得し兼ねたと云う風情に見える。
「君まだいるのか」と主人はいつの間にやら帰って来て迷亭の傍へ坐わる。「まだいるのかはちと酷だな、すぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか」「万事あれなんですもの」と細君は迷亭を顧みる。「今君の留守中に君の逸話を残らず聞いてしまったぜ」「女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな」と主人は吾輩の頭を撫でてくれる。「君は赤ん坊に大根卸しを甞めさしたそうだな」「ふむ」と主人は笑ったが「赤ん坊でも近頃の赤ん坊はなかなか利口だぜ。それ以来、坊や辛いのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ」「まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。時に寒月はもう来そうなものだな」「寒月が来るのかい」と主人は不審な顔をする。「来るんだ。午後一時までに苦沙弥の家へ来いと端書を出しておいたから」「人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。寒月を呼んで何をするんだい」「なあに今日のはこっちの趣向じゃない寒月先生自身の要求さ。先生何でも理学協会で演説をするとか云うのでね。その稽古をやるから僕に聴いてくれと云うから、そりゃちょうどいい苦沙弥にも聞かしてやろうと云うのでね。そこで君の家へ呼ぶ事にしておいたのさ――なあに君はひま人だからちょうどいいやね――差支えなんぞある男じゃない、聞くがいいさ」と迷亭は独りで呑み込んでいる。「物理学の演説なんか僕にゃ分らん」と主人は少々迷亭の専断を憤ったもののごとくに云う。「ところがその問題がマグネ付けられたノッズルについてなどと云う乾燥無味なものじゃないんだ。首縊りの力学と云う脱俗超凡な演題なのだから傾聴する価値があるさ」「君は首を縊り損くなった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ……」「歌舞伎座で悪寒がするくらいの人間だから聞かれないと云う結論は出そうもないぜ」と例のごとく軽口を叩く。妻君はホホと笑って主人を顧みながら次の間へ退く。主人は無言のまま吾輩の頭を撫でる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。
それから約七分くらいすると注文通り寒月君が来る。今日は晩に演舌をするというので例になく立派なフロックを着て、洗濯し立ての白襟を聳やかして、男振りを二割方上げて、「少し後れまして」と落ちつき払って、挨拶をする。「さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君」と主人を見る。主人もやむを得ず「うむ」と生返事をする。寒月君はいそがない。「コップへ水を一杯頂戴しましょう」と云う。「いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と迷亭は独りで騒ぎ立てる。寒月君は内隠しから草稿を取り出して徐ろに「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の御浚いを始める。
「罪人を絞罪の刑に処すると云う事は重にアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代に溯って考えますと首縊りは重に自殺の方法として行われた者であります。猶太人中に在っては罪人を石を抛げつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の餌食とする意義と認められます。ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人はエジプトを去る以前から夜中死骸を曝されることを痛く忌み嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付けにして夜中曝し物にしたそうで御座います。波斯人は……」「寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と迷亭が口を入れる。「これから本論に這入るところですから、少々御辛防を願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には磔を用いたようでございます。但し生きているうちに張付けに致したものか、死んでから釘を打ったものかその辺はちと分りかねます……」「そんな事は分らんでもいいさ」と主人は退屈そうに欠伸をする。「まだいろいろ御話し致したい事もございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ苦沙弥君」とまた迷亭が咎め立をすると主人は「どっちでも同じ事だ」と気のない返事をする。「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「弁じますなんか講釈師の云い草だ。演舌家はもっと上品な詞を使って貰いたいね」と迷亭先生また交ぜ返す。「弁じますが下品なら何と云ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。「迷亭のは聴いているのか、交ぜ返しているのか判然しない。寒月君そんな弥次馬に構わず、さっさとやるが好い」と主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭はあいかわらず飄然たる事を云う。寒月は思わず吹き出す。「真に処刑として絞殺を用いましたのは、私の調べました結果によりますると、オディセーの二十二巻目に出ております。即ち彼のテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するという条りでございます。希臘語で本文を朗読しても宜しゅうございますが、ちと衒うような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります」「希臘語云々はよした方がいい、さも希臘語が出来ますと云わんばかりだ、ねえ苦沙弥君」「それは僕も賛成だ、そんな物欲しそうな事は言わん方が奥床しくて好い」と主人はいつになく直ちに迷亭に加担する。両人は毫も希臘語が読めないのである。「それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ――ええ申し上げます。
この絞殺を今から想像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。第一は、彼のテレマカスがユーミアス及びフ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)リーシャスの援を藉りて縄の一端を柱へ括りつけます。そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の端をぐいと引張って釣し上げたものと見るのです」「つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう」「その通りで、それから第二は縄の一端を前のごとく柱へ括り付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、それに結び目の輪になったのを付けて女の頸を入れておいて、いざと云う時に女の足台を取りはずすと云う趣向なのです」「たとえて云うと縄暖簾の先へ提灯玉を釣したような景色と思えば間違はあるまい」「提灯玉と云う玉は見た事がないから何とも申されませんが、もしあるとすればその辺のところかと思います。――それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと云う事を証拠立てて御覧に入れます」「面白いな」と迷亭が云うと「うん面白い」と主人も一致する。
「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首を繋いでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1α2……α6を縄が地平線と形づくる角度とし、T1T2……T6を縄の各部が受ける力と見做し、T7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論女の体重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか」
迷亭と主人は顔を見合せて「大抵分った」と云う。但しこの大抵と云う度合は両人が勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、下のごとく十二の方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) ……」「方程式はそのくらいで沢山だろう」と主人は乱暴な事を云う。「実はこの式が演説の首脳なんですが」と寒月君ははなはだ残り惜し気に見える。「それじゃ首脳だけは逐って伺う事にしようじゃないか」と迷亭も少々恐縮の体に見受けられる。「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが……」「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と主人は平気で云う。「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と迷亭が妙なところで手をぱちぱちと叩く。
「それから英国へ移って論じますと、ベオウルフの中に絞首架即ちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。ブラクストーンの説によるともし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが、妙な事にはピヤース・プローマンの中には仮令兇漢でも二度絞める法はないと云う句があるのです。まあどっちが本当か知りませんが、悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。千七百八十六年に有名なフ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ツ・ゼラルドと云う悪漢を絞めた事がありました。ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。とうとう三返目に見物人が手伝って往生さしたと云う話しです」「やれやれ」と迷亭はこんなところへくると急に元気が出る。「本当に死に損いだな」と主人まで浮かれ出す。「まだ面白い事があります首を縊ると背が一寸ばかり延びるそうです。これはたしかに医者が計って見たのだから間違はありません」「それは新工夫だね、どうだい苦沙弥などはちと釣って貰っちゃあ、一寸延びたら人間並になるかも知れないぜ」と迷亭が主人の方を向くと、主人は案外真面目で「寒月君、一寸くらい背が延びて生き返る事があるだろうか」と聞く。「それは駄目に極っています。釣られて脊髄が延びるからなんで、早く云うと背が延びると云うより壊れるんですからね」「それじゃ、まあ止めよう」と主人は断念する。
演説の続きは、まだなかなか長くあって寒月君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが、迷亭が無暗に風来坊のような珍語を挟むのと、主人が時々遠慮なく欠伸をするので、ついに中途でやめて帰ってしまった。その晩は寒月君がいかなる態度で、いかなる雄弁を振ったか遠方で起った出来事の事だから吾輩には知れよう訳がない。
二三日は事もなく過ぎたが、或る日の午後二時頃また迷亭先生は例のごとく空々として偶然童子のごとく舞い込んで来た。座に着くと、いきなり「君、越智東風の高輪事件を聞いたかい」と旅順陥落の号外を知らせに来たほどの勢を示す。「知らん、近頃は合わんから」と主人は平生の通り陰気である。「きょうはその東風子の失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところをわざわざ来たんだよ」「またそんな仰山な事を云う、君は全体不埒な男だ」「ハハハハハ不埒と云わんよりむしろ無埒の方だろう。それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな」「おんなし事だ」と主人は嘯いている。純然たる天然居士の再来だ。「この前の日曜に東風子が高輪泉岳寺に行ったんだそうだ。この寒いのによせばいいのに――第一今時泉岳寺などへ参るのはさも東京を知らない、田舎者のようじゃないか」「それは東風の勝手さ。君がそれを留める権利はない」「なるほど権利は正にない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会と云う見世物があるだろう。君知ってるか」「うんにゃ」「知らない? だって泉岳寺へ行った事はあるだろう」「いいや」「ない? こりゃ驚ろいた。道理で大変東風を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を知らないのは情けない」「知らなくても教師は務まるからな」と主人はいよいよ天然居士になる。「そりゃ好いが、その展覧場へ東風が這入って見物していると、そこへ独逸人が夫婦連で来たんだって。それが最初は日本語で東風に何か質問したそうだ。ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。そら二口三口べらべらやって見たとさ。すると存外うまく出来たんだ――あとで考えるとそれが災の本さね」「それからどうした」と主人はついに釣り込まれる。「独逸人が大鷹源吾の蒔絵の印籠を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子ばかりだから到底駄目だと云ったんだとさ。その辺は大分景気がよかったが、それから独逸人の方では恰好な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ」「何を?」「それがさ、何だか分るくらいなら心配はないんだが、早口で無暗に問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまに分るかと思うと鳶口や掛矢の事を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだから弱わらあね」「もっともだ」と主人は教師の身の上に引き較べて同情を表する。「ところへ閑人が物珍しそうにぽつぽつ集ってくる。仕舞には東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。東風は顔を赤くしてへどもどする。初めの勢に引き易えて先生大弱りの体さ」「結局どうなったんだい」「仕舞に東風が我慢出来なくなったと見えてさいならと日本語で云ってぐんぐん帰って来たそうだ、さいならは少し変だ君の国ではさよならをさいならと云うかって聞いて見たら何やっぱりさよならですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいならにしたんだって、東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」「さいならはいいが西洋人はどうした」「西洋人はあっけに取られて茫然と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか」「別段面白い事もないようだ。それをわざわざ報知に来る君の方がよっぽど面白いぜ」と主人は巻煙草の灰を火桶の中へはたき落す。折柄格子戸のベルが飛び上るほど鳴って「御免なさい」と鋭どい女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。
主人のうちへ女客は稀有だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は縮緬の二枚重ねを畳へ擦り付けながら這入って来る。年は四十の上を少し超したくらいだろう。抜け上った生え際から前髪が堤防工事のように高く聳えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな勾配で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。直線とは鯨より細いという形容である。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社の石灯籠を移した時のごとく、独りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる鍵鼻で、ひと度は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を覗き込んでいる。かく著るしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと云わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶつもりである。鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御住居ですこと」と座敷中を睨め廻わす。主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草をふかす。迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨洩りか、板の木目か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促がす。「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして云う。鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で憤る。しばらくは三人鼎坐のまま無言である。
「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻子は、「実は私はつい御近所で――あの向う横丁の角屋敷なんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田と云う標札が出ていますな」と主人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが金田夫人に対する尊敬の度合は前と同様である。「実は宿が出まして、御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから」と今度は少し利いたろうという眼付をする。主人は一向動じない。鼻子の先刻からの言葉遣いが初対面の女としてはあまり存在過ぎるのですでに不平なのである。「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが」これでも恐れ入らぬかと云う顔付をする。元来ここの主人は博士とか大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧を蒙る事は覚束ないと諦らめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて迂濶で、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念は毫も起らんのである。鼻子の方では天が下の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも大分接して見たが、金田の妻ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通して行かれる、いわんやこんな燻り返った老書生においてをやで、私の家は向う横丁の角屋敷ですとさえ云えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
「金田って人を知ってるか」と主人は無雑作に迷亭に聞く。「知ってるとも、金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった」と迷亭は真面目な返事をする。「へえ、君の伯父さんてえな誰だい」「牧山男爵さ」と迷亭はいよいよ真面目である。主人が何か云おうとして云わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大島紬に古渡更紗か何か重ねてすましている。「おや、あなたが牧山様の――何でいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失礼を致しました。牧山様には始終御世話になると、宿で毎々御噂を致しております」と急に叮嚀な言葉使をして、おまけに御辞儀までする、迷亭は「へええ何、ハハハハ」と笑っている。主人はあっ気に取られて無言で二人を見ている。「たしか娘の縁辺の事につきましてもいろいろ牧山さまへ御心配を願いましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちと唐突過ぎたと見えてちょっと魂消たような声を出す。「実は方々からくれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、滅多な所へも片付けられませんので……」「ごもっともで」と迷亭はようやく安心する。「それについて、あなたに伺おうと思って上がったんですがね」と鼻子は主人の方を見て急に存在な言葉に返る。「あなたの所へ水島寒月という男が度々上がるそうですが、あの人は全体どんな風な人でしょう」「寒月の事を聞いて、何にするんです」と主人は苦々しく云う。「やはり御令嬢の御婚儀上の関係で、寒月君の性行の一斑を御承知になりたいという訳でしょう」と迷亭が気転を利かす。「それが伺えれば大変都合が宜しいのでございますが……」「それじゃ、御令嬢を寒月におやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃ無いんです」と鼻子は急に主人を参らせる。「ほかにもだんだん口が有るんですから、無理に貰っていただかないだって困りゃしません」「それじゃ寒月の事なんか聞かんでも好いでしょう」と主人も躍起となる。「しかし御隠しなさる訳もないでしょう」と鼻子も少々喧嘩腰になる。迷亭は双方の間に坐って、銀煙管を軍配団扇のように持って、心の裡で八卦よいやよいやと怒鳴っている。「じゃあ寒月の方で是非貰いたいとでも云ったのですか」と主人が正面から鉄砲を喰わせる。「貰いたいと云ったんじゃないんですけれども……」「貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか」と主人はこの婦人鉄砲に限ると覚ったらしい。「話しはそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月さんだって満更嬉しくない事もないでしょう」と土俵際で持ち直す。「寒月が何かその御令嬢に恋着したというような事でもありますか」あるなら云って見ろと云う権幕で主人は反り返る。「まあ、そんな見当でしょうね」今度は主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで面白気に行司気取りで見物していた迷亭も鼻子の一言に好奇心を挑撥されたものと見えて、煙管を置いて前へ乗り出す。「寒月が御嬢さんに付け文でもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つ殖えて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか」と鼻子は乙にからまって来る。「君知ってるか」と主人は狐付きのような顔をして迷亭に聞く。迷亭も馬鹿気た調子で「僕は知らん、知っていりゃ君だ」とつまらんところで謙遜する。「いえ御両人共御存じの事ですよ」と鼻子だけ大得意である。「へえー」と御両人は一度に感じ入る。「御忘れになったら私しから御話をしましょう。去年の暮向島の阿部さんの御屋敷で演奏会があって寒月さんも出掛けたじゃありませんか、その晩帰りに吾妻橋で何かあったでしょう――詳しい事は言いますまい、当人の御迷惑になるかも知れませんから――あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますが、どんなものでしょう」と金剛石入りの指環の嵌った指を、膝の上へ併べて、つんと居ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放って、迷亭も主人も有れども無きがごとき有様である。
主人は無論、さすがの迷亭もこの不意撃には胆を抜かれたものと見えて、しばらくは呆然として瘧の落ちた病人のように坐っていたが、驚愕の箍がゆるんでだんだん持前の本態に復すると共に、滑稽と云う感じが一度に吶喊してくる。両人は申し合せたごとく「ハハハハハ」と笑い崩れる。鼻子ばかりは少し当てがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人を睨みつける。「あれが御嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる通りだ、ねえ苦沙弥君、全く寒月はお嬢さんを恋ってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか」「ウフン」と主人は云ったままである。「本当に御隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種は上ってるんですからね」と鼻子はまた得意になる。「こうなりゃ仕方がない。何でも寒月君に関する事実は御参考のために陳述するさ、おい苦沙弥君、君が主人だのに、そう、にやにや笑っていては埒があかんじゃないか、実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこからか露見するからな。――しかし不思議と云えば不思議ですねえ、金田の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです、実に驚ろきますな」と迷亭は一人で喋舌る。「私しの方だって、ぬかりはありませんやね」と鼻子はしたり顔をする。「あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。一体誰に御聞きになったんです」「じきこの裏にいる車屋の神さんからです」「あの黒猫のいる車屋ですか」と主人は眼を丸くする。「ええ、寒月さんの事じゃ、よっぽど使いましたよ。寒月さんが、ここへ来る度に、どんな話しをするかと思って車屋の神さんを頼んで一々知らせて貰うんです」「そりゃ苛い」と主人は大きな声を出す。「なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。寒月さんの事だけですよ」「寒月の事だって、誰の事だって――全体あの車屋の神さんは気に食わん奴だ」と主人は一人怒り出す。「しかしあなたの垣根のそとへ来て立っているのは向うの勝手じゃありませんか、話しが聞えてわるけりゃもっと小さい声でなさるか、もっと大きなうちへ御這入んなさるがいいでしょう」と鼻子は少しも赤面した様子がない。「車屋ばかりじゃありません。新道の二絃琴の師匠からも大分いろいろな事を聞いています」「寒月の事をですか」「寒月さんばかりの事じゃありません」と少し凄い事を云う。主人は恐れ入るかと思うと「あの師匠はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です」「憚り様、女ですよ。野郎は御門違いです」と鼻子の言葉使いはますます御里をあらわして来る。これではまるで喧嘩をしに来たようなものであるが、そこへ行くと迷亭はやはり迷亭でこの談判を面白そうに聞いている。鉄枴仙人が軍鶏の蹴合いを見るような顔をして平気で聞いている。
悪口の交換では到底鼻子の敵でないと自覚した主人は、しばらく沈黙を守るのやむを得ざるに至らしめられていたが、ようやく思い付いたか「あなたは寒月の方から御嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが、私の聞いたんじゃ、少し違いますぜ、ねえ迷亭君」と迷亭の救いを求める。「うん、あの時の話しじゃ御嬢さんの方が、始め病気になって――何だか譫語をいったように聞いたね」「なにそんな事はありません」と金田夫人は判然たる直線流の言葉使いをする。「それでも寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと云っていましたぜ」「それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね」「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか」「ええ。引き受けて貰うたって、ただじゃ出来ませんやね、それやこれやでいろいろ物を使っているんですから」「是非寒月君の事を根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと云う決心ですかね」と迷亭も少し気持を悪くしたと見えて、いつになく手障りのあらい言葉を使う。「いいや君、話したって損の行く事じゃなし、話そうじゃないか苦沙弥君――奥さん、私でも苦沙弥でも寒月君に関する事実で差支えのない事は、みんな話しますからね、――そう、順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね」
鼻子はようやく納得してそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉使いも迷亭に対してはまたもとのごとく叮嚀になる。「寒月さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」「大学院では地球の磁気の研究をやっています」と主人が真面目に答える。不幸にしてその意味が鼻子には分らんものだから「へえー」とは云ったが怪訝な顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。「博士にならなければやれないとおっしゃるんですか」と主人は不愉快そうに尋ねる。「ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。主人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。「博士になるかならんかは僕等も保証する事が出来んから、ほかの事を聞いていただく事にしよう」と迷亭もあまり好い機嫌ではない。「近頃でもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか」「二三日前は首縊りの力学と云う研究の結果を理学協会で演説しました」と主人は何の気も付かずに云う。「おやいやだ、首縊りだなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首を縊っちゃあむずかしいですが、首縊りの力学なら成れないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色を窺う。悲しい事に力学と云う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦を立てて見る。主人の顔は渋い。「そのほかになにか、分り易いものを勉強しておりますまいか」「そうですな、せんだって団栗のスタビリチーを論じて併せて天体の運行に及ぶと云う論文を書いた事があります」「団栗なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も素人だからよく分らんが、何しろ、寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭はすまして冷かす。鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。「御話は違いますが――この御正月に椎茸を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか」「ええその欠けたところに空也餅がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ吾縄張内だと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃございませんか、何だって楊子を使わないんでしょう」「今度逢ったら注意しておきましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯の性が悪いと思われますが、如何なものでしょう」「善いとは言われますまいな――ねえ迷亭」「善い事はないがちょっと愛嬌があるよ。あれぎり、まだ填めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める小遣がないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く前歯欠成を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「端書なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのを撰ってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、狸だよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながら云う。鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦の歳の夜、山の狸が園遊会をやって盛に舞踏します。その歌に曰く、来いさ、としの夜で、御山婦美も来まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか」と鼻子は不平の体である。「この天女は御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣を着て琵琶を弾いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「昔しある所に一人の天文学者がありました。ある夜いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁む寒さも忘れて聞き惚れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸に霜が真白に降っていました。これは本当の噺だと、あのうそつきの爺やが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君さんざんにやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの泊りの十六小女郎、親がないとて、荒磯の千鳥、さよの寝覚の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何です」と迷亭は無暗に出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮でないんだと云う事は分りましたから」と一人で合点している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問を卒えたものと見えて、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手な要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないと云う方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人が席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」と云うと主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で細君が怺え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」
主人は不満な口気で「第一気に喰わん顔だ」と悪らしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背だね。猫背の鼻は、ちと奇抜過ぎる」と面白そうに笑う。「夫を剋する顔だ」と主人はなお口惜しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝しに逢うと云う相だ」と迷亭は妙な事ばかり云う。ところへ妻君が奥の間から出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神さんにいつけられますよ」と注意する。「少しいつける方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分引き掻かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧みる。「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑するな。貴様なぞは知るまいが昔しアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶な黒木綿の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な御召はござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎じゃございません」と細君うまく責任を逃がれる。
主人は伯父さんと云う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると云う事は、今日始めて聞いた。今までついに噂をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寝ていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境に入ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜も入ったものじゃないのに当人は全く克己の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差し合のない返事をする。「此年の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会があるからそれまでに間に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候えども少々大きく候間、帽子屋へ御遣わしの上、御縮め被下度候。縮め賃は小為替にて此方より御送可申上候とあるのさ」「なるほど迂濶だな」と主人は己れより迂濶なものの天下にある事を発見して大に満足の体に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被っていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「その方が男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時聖堂で朱子学か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭しくちょん髷を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに顋を撫で廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭は訳もなく笑う。「そりゃ嘘ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺が御上手でいらっしゃる事」と細君は非常に感心する。「僕より、あの女の方が上わ手でさあ」「あなただって御負けなさる気遣いはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧から割り出した術数と、天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目になって「どうだか」と云う。妻君は笑いながら「同じ事ですわ」と云う。
吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。角屋敷の金田とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。主人の家で実業家が話頭に上った事は一返もないので、主人の飯を食う吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻図らずも鼻子の訪問を受けて、余所ながらその談話を拝聴し、その令嬢の艶美を想像し、またその富貴、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として椽側に寝転んでいられなくなった。しかのみならず吾輩は寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の神さんやら、二絃琴の天璋院まで買収して知らぬ間に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ云う偉大な鼻を顔の中に安置している女の事だから、滅多な者では寄り付ける訳の者ではない。こう云う事件に関しては主人はむしろ無頓着でかつあまりに銭がなさ過ぎる。迷亭は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、寒月に援けを与える便宜は尠かろう。して見ると可哀相なのは首縊りの力学を演説する先生ばかりとなる。吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の家に寄寓する猫で、世間一般の痴猫、愚猫とは少しく撰を殊にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心は固より尻尾の先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂の沙汰ではない。大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴な美挙だ。人の許諾を経ずして吾妻橋事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に吹聴する以上は、車夫、馬丁、無頼漢、ごろつき書生、日雇婆、産婆、妖婆、按摩、頓馬に至るまでを使用して国家有用の材に煩を及ぼして顧みざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、霜解は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側へ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ御三の迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日とも云わずこれから出掛けようと勇猛精進の大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌れない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝心の寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石の日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの智識も無用の長物となる。これは愚だ、やめようかしらんと上り口で佇んで見た。
しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、白雨が来るかと待っている時黒雲共隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄死をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を汚すくらいは猫として適当のところである。猫と生れた因果で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭に相互の思想を交換する技倆はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を成就するのはそれ自身において愉快である。吾一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと云う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。
向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面を吾物顔に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢に構えているんだろうと、門を這入ってその建築を眺めて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった大隈伯の勝手にも劣るまいと思うくらい整然とぴかぴかしている。「模範勝手だな」と這入り込む。見ると漆喰で叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋の神さんが立ちながら、御飯焚きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは剣呑だと水桶の裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚が云う。「知らねえ事があるもんか、この界隈で金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪だあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも云えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供の歳さえ知らないんだもの」と神さんが云う。「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木だ。構あ事あねえ、みんなで威嚇かしてやろうじゃねえか」「それが好いよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷い事を云うんだよ。自分の面あ今戸焼の狸見たような癖に――あれで一人前だと思っているんだからやれ切れないじゃないか」「顔ばかりじゃない、手拭を提げて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ」と苦沙弥先生は飯焚にも大に不人望である。「何でも大勢であいつの垣根の傍へ行って悪口をさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」「そりゃ分っているよ」と神さんは悪口の三分の一を引き受けると云う意味を示す。なるほどこの手合が苦沙弥先生を冷やかしに来るなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ這入る。
猫の足はあれども無きがごとし、どこを歩いても不器用な音のした試しがない。空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中に磬を打つがごとく、洞裏に瑟を鼓するがごとく、醍醐の妙味を甞めて言詮のほかに冷暖を自知するがごとし。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の神さんも、権助も、飯焚も、御嬢さまも、仲働きも、鼻子夫人も、夫人の旦那様もない。行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し尻尾を掉って、髭をぴんと立てて悠々と帰るのみである。ことに吾輩はこの道に掛けては日本一の堪能である。草双紙にある猫又の血脈を受けておりはせぬかと自ら疑うくらいである。蟇の額には夜光の明珠があると云うが、吾輩の尻尾には神祇釈教恋無常は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝の妙薬が詰め込んである。金田家の廊下を人の知らぬ間に横行するくらいは、仁王様が心太を踏み潰すよりも容易である。この時吾輩は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。吾輩の尊敬する尻尾大明神を礼拝してニャン運長久を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し見当が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ馳け出す。なるほど天地玄黄を三寸裏に収めるほどの霊物だけあって、到底吾輩の手に合わない、尻尾を環る事七度び半にして草臥れたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。障子の裏で鼻子の声がする。ここだと立ち留まって、左右の耳をはすに切って、息を凝らす。「貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか」と例の金切り声を振り立てる。「うん、生意気な奴だ、ちと懲らしめのためにいじめてやろう。あの学校にゃ国のものもいるからな」「誰がいるの?」「津木ピン助や福地キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」吾輩は金田君の生国は分らんが、妙な名前の人間ばかり揃った所だと少々驚いた。金田君はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって云います」「どうせ碌な教師じゃあるめえ」あるめえにも尠なからず感心した。「この間ピン助に遇ったら、私の学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生番茶は英語で何と云いますと聞かれて、番茶は Savage tea であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと云ったが、大方あいつの事だぜ」「あいつに極っていまさあ、そんな事を云いそうな面構えですよ、いやに髭なんか生やして」「怪しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「それにあの迷亭とか、へべれけとか云う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返りなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、有るはずがないと思ったんですもの」「御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を真に受けるのも悪い」「悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議な事には寒月君の事は一言半句も出ない。吾輩の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事が極って念頭にないものか、その辺は懸念もあるが仕方がない。しばらく佇んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。後れぬ先に、とその方角へ歩を向ける。
来て見ると女が独りで何か大声で話している。その声が鼻子とよく似ているところをもって推すと、これが即ち当家の令嬢寒月君をして未遂入水をあえてせしめたる代物だろう。惜哉障子越しで玉の御姿を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを綜合して考えて見ると、満更人の注意を惹かぬ獅鼻とも思われない。女はしきりに喋舌っているが相手の声が少しも聞えないのは、噂にきく電話というものであろう。「御前は大和かい。明日ね、行くんだからね、鶉の三を取っておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない? おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。――なんだって、――取れない? 取れないはずはない、とるんだよ――へへへへへ御冗談をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかすよ。全体御前は誰だい。長吉だ? 長吉なんぞじゃ訳が分らない。お神さんに電話口へ出ろって御云いな――なに? 私しで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。妾しを誰だか知ってるのかい。金田だよ。――へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――金田だってえばさ。――なに?――毎度御贔屓にあずかりましてありがとうございます?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど愚物だね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御云いなさいな」電話は長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は癇癪を起してやけにベルをジャラジャラと廻す。足元で狆が驚ろいて急に吠え出す。これは迂濶に出来ないと、急に飛び下りて椽の下へもぐり込む。
折柄廊下を近く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使らしい声がする。「知らないよ」と令嬢は剣突を食わせる。「ちょっと用があるから嬢を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気を利かして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜が戸迷いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪に結ったの」小間使はほっと一息ついて「今日」となるべく単簡な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟を掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体ないと思って行李の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚れましたからかけ易えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶へ相撲の番附を染め出したのでございます。妾しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾しにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」剣突は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きな狆が顔の中心に眼と口を引き集めたような面をして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。探険はまず十二分の成績である。
帰って見ると、奇麗な家から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟の中へ入り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖、障子の具合などには眼も留らなかったが、わが住居の下等なるを感ずると同時に彼のいわゆる月並が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣があった。座敷へ這入って見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、大胡坐で何か話し立てている。いつの間にか寒月君さえ来ている。主人は手枕をして天井の雨洩を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。
「寒月君、君の事を譫語にまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら差支えないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと云う約束かね」「ええ」と寒月君は例のごとく羽織の紐をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと天保調だな」と主人が寝ながら云う。主人は金田事件などには無頓着である。「そうさ、到底日露戦争時代のものではないな。陣笠に立葵の紋の付いたぶっ割き羽織でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入をするとき頭の髪を茶筌に結ったと云うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これは爺が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出で立をするのはちと体面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので――」「誰だい、そんな趣味のない事を云うのは」と主人は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る女性なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返御駄仏を極め込んじゃどうだい」と迷亭が横合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。ここから乾の方角にあたる清浄な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠の女性の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻という女が君の事を聞きに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子を窺って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと云う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有主でね……」迷亭が半ば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩を考えているんだがね」と木に竹を接いだような事を云う。隣の室で妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気だなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭りと云うのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供えというのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなりと付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出来る。すると寒月が「奥深く毛も見えずはいけますまいか」と各々出鱈目を並べていると、垣根に近く、往来で「今戸焼の狸今戸焼の狸」と四五人わいわい云う声がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の隙からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振っていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑を披瀝して、御両君の清聴を煩わしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非承りたいものです」と小声で云う。「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様にせり出して参ったか」と自分の鼻を抓んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところを云う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔が併んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予め御注意をしておきます。――で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯りのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入する。「御承知の通り鼻汁をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬くなります。ついに凝って骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔で陳べ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても鼻汁は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴の石を穿つがごとく、賓頭顱の頭が自から光明を放つがごとく、不思議薫不思議臭の喩のごとく、斯様に鼻筋が通って堅くなります」[#「なります」」は底本では「なります。」]「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」寒月君は思わずヒヤヤヤと云う。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく怖しくて近づき難いものであります。あの鼻梁などは素晴しいには違いございませんが、少々峻嶮過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から云うと随分申し分はございましょうがその申し分のあるところに愛嬌がございます。鼻高きが故に貴からず、奇なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適当かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出す。迷亭自身も愉快そうに笑う。「さてただ今まで弁じましたのは――」「先生弁じましたは少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐をやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡に一言論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を鋏でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩えにも猫の額と云うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀として聳えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、正しく英姿颯爽たる隆起に相違ございません。しかしその周囲を囲繞する顔面的条件は如何な者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし癲癇病みの御かめのごとく眉の根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか」迷亭の言葉が少し途切れる途端、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。何てえ剛突く張だろう」と云う声が聞える。「車屋の神さんだ」と主人が迷亭に教えてやる。迷亭はまたやり初める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転たる嬌音をもって、乾燥なる講筵に一点の艶味を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女の眷顧に背かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防を願います」寒月君は力学と云う語を聞いてまたにやにやする。「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律を失していると云う事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹して御覧に入れようと云うのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交叉より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と主人が云う。「寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。苦沙弥はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐がないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と主人が不思議そうに聞く。「当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両君能く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟の間に膨脹するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今の中御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人は無論の事、そこに寝ておらるる猫又殿にも御異存は無かろうと存じます」主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。吾輩もいささか賛成の意を表するためににゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ艶罪と云う訳だ」主人だけは大にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌な者でないに極ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢な奴だ」と独りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と云う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木だ」と云うと一人が「もっと大きな家へ這入りてえだろう」と云う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶だ」と大きな声をする。主人は椽側へ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんな塀の下へ来て」と怒鳴る。「ワハハハハハサヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々に罵しる。主人は大に逆鱗の体で突然起ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を拍って「面白い、やれやれ」と云う。寒月は羽織の紐を撚ってにやにやする。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐に抓まれた体である。
四
例によって金田邸へ忍び込む。
例によってとは今更解釈する必要もない。しばしばを自乗したほどの度合を示す語である。一度やった事は二度やりたいもので、二度試みた事は三度試みたいのは人間にのみ限らるる好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特権を有してこの世界に生れ出でたものと認定していただかねばならぬ。三度以上繰返す時始めて習慣なる語を冠せられて、この行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違はない。何のために、かくまで足繁く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥かし気もなく吐呑して憚からざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。
忍び込むと云うと語弊がある、何だか泥棒か間男のようで聞き苦しい。吾輩が金田邸へ行くのは、招待こそ受けないが、決して鰹の切身をちょろまかしたり、眼鼻が顔の中心に痙攣的に密着している狆君などと密談するためではない。――何探偵?――もってのほかの事である。およそ世の中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている。なるほど寒月君のために猫にあるまじきほどの義侠心を起して、一度は金田家の動静を余所ながら窺った事はあるが、それはただの一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような陋劣な振舞を致した事はない。――そんなら、なぜ忍び込むと云うような胡乱な文字を使用した?――さあ、それがすこぶる意味のある事だて。元来吾輩の考によると大空は万物を覆うため大地は万物を載せるために出来ている――いかに執拗な議論を好む人間でもこの事実を否定する訳には行くまい。さてこの大空大地を製造するために彼等人類はどのくらいの労力を費やしているかと云うと尺寸の手伝もしておらぬではないか。自分が製造しておらぬものを自分の所有と極める法はなかろう。自分の所有と極めても差し支えないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。この茫々たる大地を、小賢しくも垣を囲らし棒杭を立てて某々所有地などと劃し限るのはあたかもかの蒼天に縄張して、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観によりて、如是法を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入って行く。もっとも行きたくない処へは行かぬが、志す方角へは東西南北の差別は入らぬ、平気な顔をして、のそのそと参る。金田ごときものに遠慮をする訳がない。――しかし猫の悲しさは力ずくでは到底人間には叶わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、いかにこっちに道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒のごとく不意に肴屋の天秤棒を喰う恐れがある。理はこっちにあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択ぶのである。天秤棒は避けざるべからざるが故に、忍ばざるべからず。人の邸内へは這入り込んで差支えなき故込まざるを得ず。この故に吾輩は金田邸へ忍び込むのである。
忍び込む度が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然金田君一家の事情が見たくもない吾輩の眼に映じて覚えたくもない吾輩の脳裏に印象を留むるに至るのはやむを得ない。鼻子夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ拭く事や、富子令嬢が阿倍川餅を無暗に召し上がらるる事や、それから金田君自身が――金田君は妻君に似合わず鼻の低い男である。単に鼻のみではない、顔全体が低い。小供の時分喧嘩をして、餓鬼大将のために頸筋を捉まえられて、うんと精一杯に土塀へ圧し付けられた時の顔が四十年後の今日まで、因果をなしておりはせぬかと怪まるるくらい平坦な顔である。至極穏かで危険のない顔には相違ないが、何となく変化に乏しい。いくら怒っても平かな顔である。――その金田君が鮪の刺身を食って自分で自分の禿頭をぴちゃぴちゃ叩く事や、それから顔が低いばかりでなく背が低いので、無暗に高い帽子と高い下駄を穿く事や、それを車夫がおかしがって書生に話す事や、書生がなるほど君の観察は機敏だと感心する事や、――一々数え切れない。
近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、築山の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、徐々上り込む。もし人声が賑かであるか、座敷から見透かさるる恐れがあると思えば池を東へ廻って雪隠の横から知らぬ間に椽の下へ出る。悪い事をした覚はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間と云う無法者に逢っては不運と諦めるより仕方がないので、もし世間が熊坂長範ばかりになったらいかなる盛徳の君子もやはり吾輩のような態度に出ずるであろう。金田君は堂々たる実業家であるから固より熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す気遣はあるまいが、承る処によれば人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ訳である。しかしその油断の出来ぬところが吾輩にはちょっと面白いので、吾輩がかくまでに金田家の門を出入するのも、ただこの危険が冒して見たいばかりかも知れぬ。それは追って篤と考えた上、猫の脳裏を残りなく解剖し得た時改めて御吹聴仕ろう。
今日はどんな模様だなと、例の築山の芝生の上に顎を押しつけて前面を見渡すと十五畳の客間を弥生の春に明け放って、中には金田夫婦と一人の来客との御話最中である。生憎鼻子夫人の鼻がこっちを向いて池越しに吾輩の額の上を正面から睨め付けている。鼻に睨まれたのは生れて今日が始めてである。金田君は幸い横顔を向けて客と相対しているから例の平坦な部分は半分かくれて見えぬが、その代り鼻の在所が判然しない。ただ胡麻塩色の口髯が好い加減な所から乱雑に茂生しているので、あの上に孔が二つあるはずだと結論だけは苦もなく出来る。春風もああ云う滑かな顔ばかり吹いていたら定めて楽だろうと、ついでながら想像を逞しゅうして見た。御客さんは三人の中で一番普通な容貌を有している。ただし普通なだけに、これぞと取り立てて紹介するに足るような雑作は一つもない。普通と云うと結構なようだが、普通の極平凡の堂に上り、庸俗の室に入ったのはむしろ憫然の至りだ。かかる無意味な面構を有すべき宿命を帯びて明治の昭代に生れて来たのは誰だろう。例のごとく椽の下まで行ってその談話を承わらなくては分らぬ。
「……それで妻がわざわざあの男の所まで出掛けて行って容子を聞いたんだがね……」と金田君は例のごとく横風な言葉使である。横風ではあるが毫も峻嶮なところがない。言語も彼の顔面のごとく平板尨大である。
「なるほどあの男が水島さんを教えた事がございますので――なるほど、よい御思い付きで――なるほど」となるほどずくめのは御客さんである。
「ところが何だか要領を得んので」
「ええ苦沙弥じゃ要領を得ない訳で――あの男は私がいっしょに下宿をしている時分から実に煮え切らない――そりゃ御困りでございましたろう」と御客さんは鼻子夫人の方を向く。
「困るの、困らないのってあなた、私しゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな不取扱を受けた事はありゃしません」と鼻子は例によって鼻嵐を吹く。
「何か無礼な事でも申しましたか、昔しから頑固な性分で――何しろ十年一日のごとくリードル専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう」と御客さんは体よく調子を合せている。
「いや御話しにもならんくらいで、妻が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで……」
「それは怪しからん訳で――一体少し学問をしているととかく慢心が萌すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦の体である。
「いや、まことに言語同断で、ああ云うのは必竟世間見ずの我儘から起るのだから、ちっと懲らしめのためにいじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ」
「なるほどそれでは大分答えましたろう、全く本人のためにもなる事ですから」と御客さんはいかなる当り方か承らぬ先からすでに金田君に同意している。
「ところが鈴木さん、まあなんて頑固な男なんでしょう。学校へ出ても福地さんや、津木さんには口も利かないんだそうです。恐れ入って黙っているのかと思ったらこの間は罪もない、宅の書生をステッキを持って追っ懸けたってんです――三十面さげて、よく、まあ、そんな馬鹿な真似が出来たもんじゃありませんか、全くやけで少し気が変になってるんですよ」
「へえどうしてまたそんな乱暴な事をやったんで……」とこれには、さすがの御客さんも少し不審を起したと見える。
「なあに、ただあの男の前を何とか云って通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持って跣足で飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か云ったって小供じゃありませんか、髯面の大僧の癖にしかも教師じゃありませんか」
「さよう教師ですからな」と御客さんが云うと、金田君も「教師だからな」と云う。教師たる以上はいかなる侮辱を受けても木像のようにおとなしくしておらねばならぬとはこの三人の期せずして一致した論点と見える。
「それに、あの迷亭って男はよっぽどな酔興人ですね。役にも立たない嘘八百を並べ立てて。私しゃあんな変梃な人にゃ初めて逢いましたよ」
「ああ迷亭ですか、あいかわらず法螺を吹くと見えますね。やはり苦沙弥の所で御逢いになったんですか。あれに掛っちゃたまりません。あれも昔し自炊の仲間でしたがあんまり人を馬鹿にするものですから能く喧嘩をしましたよ」
「誰だって怒りまさあね、あんなじゃ。そりゃ嘘をつくのも宜うござんしょうさ、ね、義理が悪るいとか、ばつを合せなくっちゃあならないとか――そんな時には誰しも心にない事を云うもんでさあ。しかしあの男のは吐かなくってすむのに矢鱈に吐くんだから始末に了えないじゃありませんか。何が欲しくって、あんな出鱈目を――よくまあ、しらじらしく云えると思いますよ」
「ごもっともで、全く道楽からくる嘘だから困ります」
「せっかくあなた真面目に聞きに行った水島の事も滅茶滅茶になってしまいました。私ゃ剛腹で忌々しくって――それでも義理は義理でさあ、人のうちへ物を聞きに行って知らん顔の半兵衛もあんまりですから、後で車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。ところがあなたどうでしょう。こんなものを受取る理由がない、持って帰れって云うんだそうで。いえ御礼だから、どうか御取り下さいって車夫が云ったら――悪くいじゃあありませんか、俺はジャムは毎日舐めるがビールのような苦い者は飲んだ事がないって、ふいと奥へ這入ってしまったって――言い草に事を欠いて、まあどうでしょう、失礼じゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」と御客さんも今度は本気に苛いと感じたらしい。
「そこで今日わざわざ君を招いたのだがね」としばらく途切れて金田君の声が聞える。「そんな馬鹿者は陰から、からかってさえいればすむようなものの、少々それでも困る事があるじゃて……」と鮪の刺身を食う時のごとく禿頭をぴちゃぴちゃ叩く。もっとも吾輩は椽の下にいるから実際叩いたか叩かないか見えようはずがないが、この禿頭の音は近来大分聞馴れている。比丘尼が木魚の音を聞き分けるごとく、椽の下からでも音さえたしかであればすぐ禿頭だなと出所を鑑定する事が出来る。「そこでちょっと君を煩わしたいと思ってな……」
「私に出来ます事なら何でも御遠慮なくどうか――今度東京勤務と云う事になりましたのも全くいろいろ御心配を掛けた結果にほかならん訳でありますから」と御客さんは快よく金田君の依頼を承諾する。この口調で見るとこの御客さんはやはり金田君の世話になる人と見える。いやだんだん事件が面白く発展してくるな、今日はあまり天気が宜いので、来る気もなしに来たのであるが、こう云う好材料を得ようとは全く思い掛けなんだ。御彼岸にお寺詣りをして偶然方丈で牡丹餅の御馳走になるような者だ。金田君はどんな事を客人に依頼するかなと、椽の下から耳を澄して聞いている。
「あの苦沙弥と云う変物が、どう云う訳か水島に入れ智慧をするので、あの金田の娘を貰っては行かんなどとほのめかすそうだ――なあ鼻子そうだな」
「ほのめかすどころじゃないんです。あんな奴の娘を貰う馬鹿がどこの国にあるものか、寒月君決して貰っちゃいかんよって云うんです」
「あんな奴とは何だ失敬な、そんな乱暴な事を云ったのか」
「云ったどころじゃありません、ちゃんと車屋の神さんが知らせに来てくれたんです」
「鈴木君どうだい、御聞の通りの次第さ、随分厄介だろうが?」
「困りますね、ほかの事と違って、こう云う事には他人が妄りに容喙するべきはずの者ではありませんからな。そのくらいな事はいかな苦沙弥でも心得ているはずですが。一体どうした訳なんでしょう」
「それでの、君は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間柄であったそうだから御依頼するのだが、君当人に逢ってな、よく利害を諭して見てくれんか。何か怒っているかも知れんが、怒るのは向が悪るいからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も充分計ってやるし、気に障わるような事もやめてやる。しかし向が向ならこっちもこっちと云う気になるからな――つまりそんな我を張るのは当人の損だからな」
「ええ全くおっしゃる通り愚な抵抗をするのは本人の損になるばかりで何の益もない事ですから、善く申し聞けましょう」
「それから娘はいろいろと申し込もある事だから、必ず水島にやると極める訳にも行かんが、だんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が勉強して近い内に博士にでもなったらあるいはもらう事が出来るかも知れんくらいはそれとなくほのめかしても構わん」
「そう云ってやったら当人も励みになって勉強する事でしょう。宜しゅうございます」
「それから、あの妙な事だが――水島にも似合わん事だと思うが、あの変物の苦沙弥を先生先生と云って苦沙弥の云う事は大抵聞く様子だから困る。なにそりゃ何も水島に限る訳では無論ないのだから苦沙弥が何と云って邪魔をしようと、わしの方は別に差支えもせんが……」
「水島さんが可哀そうですからね」と鼻子夫人が口を出す。
「水島と云う人には逢った事もございませんが、とにかくこちらと御縁組が出来れば生涯の幸福で、本人は無論異存はないのでしょう」
「ええ水島さんは貰いたがっているんですが、苦沙弥だの迷亭だのって変り者が何だとか、かんだとか云うものですから」
「そりゃ、善くない事で、相当の教育のあるものにも似合わん所作ですな。よく私が苦沙弥の所へ参って談じましょう」
「ああ、どうか、御面倒でも、一つ願いたい。それから実は水島の事も苦沙弥が一番詳しいのだがせんだって妻が行った時は今の始末で碌々聞く事も出来なかった訳だから、君から今一応本人の性行学才等をよく聞いて貰いたいて」
「かしこまりました。今日は土曜ですからこれから廻ったら、もう帰っておりましょう。近頃はどこに住んでおりますか知らん」
「ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと崩れかかった黒塀のあるうちです」と鼻子が教える。
「それじゃ、つい近所ですな。訳はありません。帰りにちょっと寄って見ましょう。なあに、大体分りましょう標札を見れば」
「標札はあるときと、ないときとありますよ。名刺を御饌粒で門へ貼り付けるのでしょう。雨がふると剥がれてしまいましょう。すると御天気の日にまた貼り付けるのです。だから標札は当にゃなりませんよ。あんな面倒臭い事をするよりせめて木札でも懸けたらよさそうなもんですがねえ。ほんとうにどこまでも気の知れない人ですよ」
「どうも驚きますな。しかし崩れた黒塀のうちと聞いたら大概分るでしょう」
「ええあんな汚ないうちは町内に一軒しかないから、すぐ分りますよ。あ、そうそうそれで分らなければ、好い事がある。何でも屋根に草が生えたうちを探して行けば間違っこありませんよ」
「よほど特色のある家ですなアハハハハ」
鈴木君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫沢山である。椽の下を伝わって雪隠を西へ廻って築山の陰から往来へ出て、急ぎ足で屋根に草の生えているうちへ帰って来て何喰わぬ顔をして座敷の椽へ廻る。
主人は椽側へ白毛布を敷いて、腹這になって麗かな春日に甲羅を干している。太陽の光線は存外公平なもので屋根にペンペン草の目標のある陋屋でも、金田君の客間のごとく陽気に暖かそうであるが、気の毒な事には毛布だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、唐物屋でも白の気で売り捌いたのみならず、主人も白と云う注文で買って来たのであるが――何しろ十二三年以前の事だから白の時代はとくに通り越してただ今は濃灰色なる変色の時期に遭遇しつつある。この時期を経過して他の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くかどうだかは、疑問である。今でもすでに万遍なく擦り切れて、竪横の筋は明かに読まれるくらいだから、毛布と称するのはもはや僭上の沙汰であって、毛の字は省いて単にットとでも申すのが適当である。しかし主人の考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は生涯持たねばならぬと思っているらしい。随分呑気な事である。さてその因縁のある毛布の上へ前申す通り腹這になって何をしているかと思うと両手で出張った顋を支えて、右手の指の股に巻煙草を挟んでいる。ただそれだけである。もっとも彼がフケだらけの頭の裏には宇宙の大真理が火の車のごとく廻転しつつあるかも知れないが、外部から拝見したところでは、そんな事とは夢にも思えない。
煙草の火はだんだん吸口の方へ逼って、一寸ばかり燃え尽した灰の棒がぱたりと毛布の上に落つるのも構わず主人は一生懸命に煙草から立ち上る煙の行末を見詰めている。その煙りは春風に浮きつ沈みつ、流れる輪を幾重にも描いて、紫深き細君の洗髪の根本へ吹き寄せつつある。――おや、細君の事を話しておくはずだった。忘れていた。
細君は主人に尻を向けて――なに失礼な細君だ? 別に失礼な事はないさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ。主人は平気で細君の尻のところへ頬杖を突き、細君は平気で主人の顔の先へ荘厳なる尻を据えたまでの事で無礼も糸瓜もないのである。御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。――さてかくのごとく主人に尻を向けた細君はどう云う了見か、今日の天気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、麩海苔と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま小供の袖なしを熱心に縫っている。実はその洗髪を乾かすために唐縮緬の布団と針箱を椽側へ出して、恭しく主人に尻を向けたのである。あるいは主人の方で尻のある見当へ顔を持って来たのかも知れない。そこで先刻御話しをした煙草の煙りが、豊かに靡く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ陽炎の燃えるところを主人は余念もなく眺めている。しかしながら煙は固より一所に停まるものではない、その性質として上へ上へと立ち登るのだから主人の眼もこの煙りの髪毛と縺れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。主人はまず腰の辺から観察を始めて徐々と背中を伝って、肩から頸筋に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚いた。――主人が偕老同穴を契った夫人の脳天の真中には真丸な大きな禿がある。しかもその禿が暖かい日光を反射して、今や時を得顔に輝いている。思わざる辺にこの不思議な大発見をなした時の主人の眼は眩ゆい中に充分の驚きを示して、烈しい光線で瞳孔の開くのも構わず一心不乱に見つめている。主人がこの禿を見た時、第一彼の脳裏に浮んだのはかの家伝来の仏壇に幾世となく飾り付けられたる御灯明皿である。彼の一家は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる金箔厚き厨子があって、その厨子の中にはいつでも真鍮の灯明皿がぶら下って、その灯明皿には昼でもぼんやりした灯がついていた事を記憶している。周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので小供心にこの灯を何遍となく見た時の印象が細君の禿に喚び起されて突然飛び出したものであろう。灯明皿は一分立たぬ間に消えた。この度は観音様の鳩の事を思い出す。観音様の鳩と細君の禿とは何等の関係もないようであるが、主人の頭では二つの間に密接な聯想がある。同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が文久二つで、赤い土器へ這入っていた。その土器が、色と云い大さと云いこの禿によく似ている。
「なるほど似ているな」と主人が、さも感心したらしく云うと「何がです」と細君は見向きもしない。
「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。
「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか」と主人が聞く。もし嫁にくる前から禿げているなら欺されたのであると口へは出さないが心の中で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜いじゃありませんか」と大に悟ったものである。
「どうだって宜いって、自分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。
「自分の頭だから、どうだって宜いんだわ」と云ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を撫でて見る。「おや大分大きくなった事、こんなじゃ無いと思っていた」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまり大き過ぎると云う事をようやく自覚したらしい。
「女は髷に結うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。
「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から薬缶ばかり出来なければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く甘木さんに見て貰え」と主人はしきりに自分の頭を撫で廻して見る。
「そんなに人の事をおっしゃるが、あなただって鼻の孔へ白髪が生えてるじゃありませんか。禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ」と細君少々ぷりぷりする。
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が――ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。不具だ」
「不具なら、なぜ御貰いになったのです。御自分が好きで貰っておいて不具だなんて……」
「知らなかったからさ。全く今日まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「馬鹿な事を! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんて、ものが在るもんですか」
「禿はまあ我慢もするが、御前は背いが人並外れて低い。はなはだ見苦しくていかん」
「背いは見ればすぐ分るじゃありませんか、背の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか」
「それは承知さ、承知には相違ないがまだ延びるかと思ったから貰ったのさ」
「廿にもなって背いが延びるなんて――あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね」と細君は袖なしを抛り出して主人の方に捩じ向く。返答次第ではその分にはすまさんと云う権幕である。
「廿になったって背いが延びてならんと云う法はあるまい。嫁に来てから滋養分でも食わしたら、少しは延びる見込みがあると思ったんだ」と真面目な顔をして妙な理窟を述べていると門口のベルが勢よく鳴り立てて頼むと云う大きな声がする。いよいよ鈴木君がペンペン草を目的に苦沙弥先生の臥竜窟を尋ねあてたと見える。
細君は喧嘩を後日に譲って、倉皇針箱と袖なしを抱えて茶の間へ逃げ込む。主人は鼠色の毛布を丸めて書斎へ投げ込む。やがて下女が持って来た名刺を見て、主人はちょっと驚ろいたような顔付であったが、こちらへ御通し申してと言い棄てて、名刺を握ったまま後架へ這入った。何のために後架へ急に這入ったか一向要領を得ん、何のために鈴木藤十郎君の名刺を後架まで持って行ったのかなおさら説明に苦しむ。とにかく迷惑なのは臭い所へ随行を命ぜられた名刺君である。
下女が更紗の座布団を床の前へ直して、どうぞこれへと引き下がった、跡で、鈴木君は一応室内を見廻わす。床に掛けた花開万国春とある木菴の贋物や、京製の安青磁に活けた彼岸桜などを一々順番に点検したあとで、ふと下女の勧めた布団の上を見るといつの間にか一疋の猫がすまして坐っている。申すまでもなくそれはかく申す吾輩である。この時鈴木君の胸のうちにちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起った。この布団は疑いもなく鈴木君のために敷かれたものである。自分のために敷かれた布団の上に自分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動物が平然と蹲踞している。これが鈴木君の心の平均を破る第一の条件である。もしこの布団が勧められたまま、主なくして春風の吹くに任せてあったなら、鈴木君はわざと謙遜の意を表して、主人がさあどうぞと云うまでは堅い畳の上で我慢していたかも知れない。しかし早晩自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗ったものは誰であろう。人間なら譲る事もあろうが猫とは怪しからん。乗り手が猫であると云うのが一段と不愉快を感ぜしめる。これが鈴木君の心の平均を破る第二の条件である。最後にその猫の態度がもっとも癪に障る。少しは気の毒そうにでもしている事か、乗る権利もない布団の上に、傲然と構えて、丸い無愛嬌な眼をぱちつかせて、御前は誰だいと云わぬばかりに鈴木君の顔を見つめている。これが平均を破壊する第三の条件である。これほど不平があるなら、吾輩の頸根っこを捉えて引きずり卸したら宜さそうなものだが、鈴木君はだまって見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手出しをせぬと云う事は有ろうはずがないのに、なぜ早く吾輩を処分して自分の不平を洩らさないかと云うと、これは全く鈴木君が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の故であると察せらるる。もし腕力に訴えたなら三尺の童子も吾輩を自由に上下し得るであろうが、体面を重んずる点より考えるといかに金田君の股肱たる鈴木藤十郎その人もこの二尺四方の真中に鎮座まします猫大明神を如何ともする事が出来ぬのである。いかに人の見ていぬ場所でも、猫と座席争いをしたとあってはいささか人間の威厳に関する。真面目に猫を相手にして曲直を争うのはいかにも大人気ない。滑稽である。この不名誉を避けるためには多少の不便は忍ばねばならぬ。しかし忍ばねばならぬだけそれだけ猫に対する憎悪の念は増す訳であるから、鈴木君は時々吾輩の顔を見ては苦い顔をする。吾輩は鈴木君の不平な顔を拝見するのが面白いから滑稽の念を抑えてなるべく何喰わぬ顔をしている。
吾輩と鈴木君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある間に主人は衣紋をつくろって後架から出て来て「やあ」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影さえ見えぬところをもって見ると、鈴木藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑に処せられたものと見える。名刺こそ飛んだ厄運に際会したものだと思う間もなく、主人はこの野郎と吾輩の襟がみを攫んでえいとばかりに椽側へ擲きつけた。
「さあ敷きたまえ。珍らしいな。いつ東京へ出て来た」と主人は旧友に向って布団を勧める。鈴木君はちょっとこれを裏返した上で、それへ坐る。
「ついまだ忙がしいものだから報知もしなかったが、実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね……」
「それは結構だ、大分長く逢わなかったな。君が田舎へ行ってから、始めてじゃないか」
「うん、もう十年近くになるね。なにその後時々東京へは出て来る事もあるんだが、つい用事が多いもんだから、いつでも失敬するような訳さ。悪るく思ってくれたもうな。会社の方は君の職業とは違って随分忙がしいんだから」
「十年立つうちには大分違うもんだな」と主人は鈴木君を見上げたり見下ろしたりしている。鈴木君は頭を美麗に分けて、英国仕立のトウィードを着て、派手な襟飾りをして、胸に金鎖りさえピカつかせている体裁、どうしても苦沙弥君の旧友とは思えない。
「うん、こんな物までぶら下げなくちゃ、ならんようになってね」と鈴木君はしきりに金鎖りを気にして見せる。
「そりゃ本ものかい」と主人は無作法な質問をかける。
「十八金だよ」と鈴木君は笑いながら答えたが「君も大分年を取ったね。たしか小供があるはずだったが一人かい」
「いいや」
「二人?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃ三人か」
「うん三人ある。この先幾人出来るか分らん」
「相変らず気楽な事を云ってるぜ。一番大きいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう」
「うん、いくつか能く知らんが大方六つか、七つかだろう」
「ハハハ教師は呑気でいいな。僕も教員にでもなれば善かった」
「なって見ろ、三日で嫌になるから」
「そうかな、何だか上品で、気楽で、閑暇があって、すきな勉強が出来て、よさそうじゃないか。実業家も悪くもないが我々のうちは駄目だ。実業家になるならずっと上にならなくっちゃいかん。下の方になるとやはりつまらん御世辞を振り撒いたり、好かん猪口をいただきに出たり随分愚なもんだよ」
「僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さえ取れれば何でもする、昔で云えば素町人だからな」と実業家を前に控えて太平楽を並べる。
「まさか――そうばかりも云えんがね、少しは下品なところもあるのさ、とにかく金と情死をする覚悟でなければやり通せないから――ところがその金と云う奴が曲者で、――今もある実業家の所へ行って聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさ――義理をかく、人情をかく、恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハ」
「誰だそんな馬鹿は」
「馬鹿じゃない、なかなか利口な男なんだよ、実業界でちょっと有名だがね、君知らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが」
「金田か? 何んだあんな奴」
「大変怒ってるね。なあに、そりゃ、ほんの冗談だろうがね、そのくらいにせんと金は溜らんと云う喩さ。君のようにそう真面目に解釈しちゃ困る」
「三角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。君行ったんなら見て来たろう、あの鼻を」
「細君か、細君はなかなかさばけた人だ」
「鼻だよ、大きな鼻の事を云ってるんだ。せんだって僕はあの鼻について俳体詩を作ったがね」
「何だい俳体詩と云うのは」
「俳体詩を知らないのか、君も随分時勢に暗いな」
「ああ僕のように忙がしいと文学などは到底駄目さ。それに以前からあまり数奇でない方だから」
「君シャーレマンの鼻の恰好を知ってるか」
「アハハハハ随分気楽だな。知らんよ」
「エルリントンは部下のものから鼻々と異名をつけられていた。君知ってるか」
「鼻の事ばかり気にして、どうしたんだい。好いじゃないか鼻なんか丸くても尖んがってても」
「決してそうでない。君パスカルの事を知ってるか」
「また知ってるかか、まるで試験を受けに来たようなものだ。パスカルがどうしたんだい」
「パスカルがこんな事を云っている」
「どんな事を」
「もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に大変化を来したろうと」
「なるほど」
「それだから君のようにそう無雑作に鼻を馬鹿にしてはいかん」
「まあいいさ、これから大事にするから。そりゃそうとして、今日来たのは、少し君に用事があって来たんだがね――あの元君の教えたとか云う、水島――ええ水島ええちょっと思い出せない。――そら君の所へ始終来ると云うじゃないか」
「寒月か」
「そうそう寒月寒月。あの人の事についてちょっと聞きたい事があって来たんだがね」
「結婚事件じゃないか」
「まあ多少それに類似の事さ。今日金田へ行ったら……」
「この間鼻が自分で来た」
「そうか。そうだって、細君もそう云っていたよ。苦沙弥さんに、よく伺おうと思って上ったら、生憎迷亭が来ていて茶々を入れて何が何だか分らなくしてしまったって」
「あんな鼻をつけて来るから悪るいや」
「いえ君の事を云うんじゃないよ。あの迷亭君がおったもんだから、そう立ち入った事を聞く訳にも行かなかったので残念だったから、もう一遍僕に行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はした事はないが、もし当人同士が嫌やでないなら中へ立って纏めるのも、決して悪い事はないからね――それでやって来たのさ」
「御苦労様」と主人は冷淡に答えたが、腹の内では当人同士と云う語を聞いて、どう云う訳か分らんが、ちょっと心を動かしたのである。蒸し熱い夏の夜に一縷の冷風が袖口を潜ったような気分になる。元来この主人はぶっ切ら棒の、頑固光沢消しを旨として製造された男であるが、さればと云って冷酷不人情な文明の産物とは自からその撰を異にしている。彼が何ぞと云うと、むかっ腹をたててぷんぷんするのでも這裏の消息は会得できる。先日鼻と喧嘩をしたのは鼻が気に食わぬからで鼻の娘には何の罪もない話しである。実業家は嫌いだから、実業家の片割れなる金田某も嫌に相違ないがこれも娘その人とは没交渉の沙汰と云わねばならぬ。娘には恩も恨みもなくて、寒月は自分が実の弟よりも愛している門下生である。もし鈴木君の云うごとく、当人同志が好いた仲なら、間接にもこれを妨害するのは君子のなすべき所作でない。――苦沙弥先生はこれでも自分を君子と思っている。――もし当人同志が好いているなら――しかしそれが問題である。この事件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相から確めなければならん。
「君その娘は寒月の所へ来たがってるのか。金田や鼻はどうでも構わんが、娘自身の意向はどうなんだ」
「そりゃ、その――何だね――何でも――え、来たがってるんだろうじゃないか」鈴木君の挨拶は少々曖昧である。実は寒月君の事だけ聞いて復命さえすればいいつもりで、御嬢さんの意向までは確かめて来なかったのである。従って円転滑脱の鈴木君もちょっと狼狽の気味に見える。
「だろうた判然しない言葉だ」と主人は何事によらず、正面から、どやし付けないと気がすまない。
「いや、これゃちょっと僕の云いようがわるかった。令嬢の方でもたしかに意があるんだよ。いえ全くだよ――え?――細君が僕にそう云ったよ。何でも時々は寒月君の悪口を云う事もあるそうだがね」
「あの娘がか」
「ああ」
「怪しからん奴だ、悪口を云うなんて。第一それじゃ寒月に意がないんじゃないか」
「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などは殊更云って見る事もあるからね」
「そんな愚な奴がどこの国にいるものか」と主人は斯様な人情の機微に立ち入った事を云われても頓と感じがない。
「その愚な奴が随分世の中にゃあるから仕方がない。現に金田の妻君もそう解釈しているのさ。戸惑いをした糸瓜のようだなんて、時々寒月さんの悪口を云いますから、よっぽど心の中では思ってるに相違ありませんと」
主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思い掛けないものだから、眼を丸くして、返答もせず、鈴木君の顔を、大道易者のように眤と見つめている。鈴木君はこいつ、この様子では、ことによるとやり損なうなと疳づいたと見えて、主人にも判断の出来そうな方面へと話頭を移す。
「君考えても分るじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の家へやれるだろうじゃないか。寒月だってえらいかも知れんが身分から云や――いや身分と云っちゃ失礼かも知れない。――財産と云う点から云や、まあ、だれが見たって釣り合わんのだからね。それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を揉んでるのは本人が寒月君に意があるからの事じゃあないか」と鈴木君はなかなかうまい理窟をつけて説明を与える。今度は主人にも納得が出来たらしいのでようやく安心したが、こんなところにまごまごしているとまた吶喊を喰う危険があるから、早く話しの歩を進めて、一刻も早く使命を完うする方が万全の策と心付いた。
「それでね。今云う通りの訳であるから、先方で云うには何も金銭や財産はいらんからその代り当人に附属した資格が欲しい――資格と云うと、まあ肩書だね、――博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない――誤解しちゃいかん。せんだって細君の来た時は迷亭君がいて妙な事ばかり云うものだから――いえ君が悪いのじゃない。細君も君の事を御世辞のない正直ないい方だと賞めていたよ。全く迷亭君がわるかったんだろう。――それでさ本人が博士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い、面目があると云うんだがね、どうだろう、近々の内水島君は博士論文でも呈出して、博士の学位を受けるような運びには行くまいか。なあに――金田だけなら博士も学士もいらんのさ、ただ世間と云う者があるとね、そう手軽にも行かんからな」
こう云われて見ると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われて来る。無理ではないように思われて来れば、鈴木君の依頼通りにしてやりたくなる。主人を活かすのも殺すのも鈴木君の意のままである。なるほど主人は単純で正直な男だ。
「それじゃ、今度寒月が来たら、博士論文をかくように僕から勧めて見よう。しかし当人が金田の娘を貰うつもりかどうだか、それからまず問い正して見なくちゃいかんからな」
「問い正すなんて、君そんな角張った事をして物が纏まるものじゃない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ」
「気を引いて見る?」
「うん、気を引くと云うと語弊があるかも知れん。――なに気を引かんでもね。話しをしていると自然分るもんだよ」
「君にゃ分るかも知れんが、僕にゃ判然と聞かん事は分らん」
「分らなけりゃ、まあ好いさ。しかし迷亭君見たように余計な茶々を入れて打ち壊わすのは善くないと思う。仮令勧めないまでも、こんな事は本人の随意にすべきはずのものだからね。今度寒月君が来たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれ給え。――いえ君の事じゃない、あの迷亭君の事さ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから」と主人の代理に迷亭の悪口をきいていると、噂をすれば陰の喩に洩れず迷亭先生例のごとく勝手口から飄然と春風に乗じて舞い込んで来る。
「いやー珍客だね。僕のような狎客になると苦沙弥はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村の羊羹を無雑作に頬張る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさしている。吾輩はこの瞬時の光景を椽側から拝見して無言劇と云うものは優に成立し得ると思った。禅家で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明かに以心伝心の幕である。すこぶる短かいけれどもすこぶる鋭どい幕である。
「君は一生旅烏かと思ってたら、いつの間にか舞い戻ったね。長生はしたいもんだな。どんな僥倖に廻り合わんとも限らんからね」と迷亭は鈴木君に対しても主人に対するごとく毫も遠慮と云う事を知らぬ。いかに自炊の仲間でも十年も逢わなければ、何となく気のおけるものだが迷亭君に限って、そんな素振も見えぬのは、えらいのだか馬鹿なのかちょっと見当がつかぬ。
「可哀そうに、そんなに馬鹿にしたものでもない」と鈴木君は当らず障らずの返事はしたが、何となく落ちつきかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。
「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。
「今日は諸君からひやかされに来たようなものだ。なんぼ田舎者だって――これでも街鉄を六十株持ってるよ」
「そりゃ馬鹿に出来ないな。僕は八百八十八株半持っていたが、惜しい事に大方虫が喰ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の喰わないところを十株ばかりやるところだったが惜しい事をした」
「相変らず口が悪るい。しかし冗談は冗談として、ああ云う株は持ってて損はないよ、年々高くなるばかりだから」
「そうだ仮令半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つくらい建つからな。君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だが、そこへ行くと苦沙弥などは憐れなものだ。株と云えば大根の兄弟分くらいに考えているんだから」とまた羊羹をつまんで主人の方を見ると、主人も迷亭の食い気が伝染して自ずから菓子皿の方へ手が出る。世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している。
「株などはどうでも構わんが、僕は曾呂崎に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった」と主人は喰い欠けた羊羹の歯痕を撫然として眺める。
「曾呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうは、それよりやっぱり天然居士で沢庵石へ彫り付けられてる方が無事でいい」
「曾呂崎と云えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と鈴木君が云うと、迷亭は直ちに引き受けて
「頭は善かったが、飯を焚く事は一番下手だったぜ。曾呂崎の当番の時には、僕あいつでも外出をして蕎麦で凌いでいた」
「ほんとに曾呂崎の焚いた飯は焦げくさくって心があって僕も弱った。御負けに御菜に必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせん」と鈴木君も十年前の不平を記憶の底から喚び起す。
「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉を食いに出たが、その祟りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎[#「曾呂崎」は底本では「曾兄崎」]より先へ死んで宜い訳なんだ」
「そんな論理がどこの国にあるものか。俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩竹刀を持って裏の卵塔婆へ出て、石塔を叩いてるところを坊主に見つかって剣突を食ったじゃないか」と主人も負けぬ気になって迷亭の旧悪を曝く。
「アハハハそうそう坊主が仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかし僕のは竹刀だが、この鈴木将軍のは手暴だぜ。石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだから」
「あの時の坊主の怒り方は実に烈しかった。是非元のように起せと云うから人足を傭うまで待ってくれと云ったら人足じゃいかん懺悔の意を表するためにあなたが自身で起さなくては仏の意に背くと云うんだからね」
「その時の君の風采はなかったぜ、金巾のしゃつに越中褌で雨上りの水溜りの中でうんうん唸って……」
「それを君がすました顔で写生するんだから苛い。僕はあまり腹を立てた事のない男だが、あの時ばかりは失敬だと心から思ったよ。あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか」
「十年前の言草なんか誰が覚えているものか、しかしあの石塔に帰泉院殿黄鶴大居士安永五年辰正月と彫ってあったのだけはいまだに記憶している。あの石塔は古雅に出来ていたよ。引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。実に美学上の原理に叶って、ゴシック趣味な石塔だった」と迷亭はまた好い加減な美学を振り廻す。
「そりゃいいが、君の言草がさ。こうだぜ――吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、可哀相だのと云う私情は学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでないと平気で云うのだろう。僕もあんまりな不人情な男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった」
「僕の有望な画才が頓挫して一向振わなくなったのも全くあの時からだ。君に機鋒を折られたのだね。僕は君に恨がある」
「馬鹿にしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
「迷亭はあの時分から法螺吹だったな」と主人は羊羹を食い了って再び二人の話の中に割り込んで来る。
「約束なんか履行した事がない。それで詰問を受けると決して詫びた事がない何とか蚊とか云う。あの寺の境内に百日紅が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と云う著述をすると云うから、駄目だ、到底出来る気遣はないと云ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢りっこかなにかに極めた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。ところが先生一向稿を起す景色がない。七日立っても二十日立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行を逼ると迷亭すまして取り合わない」
「また何とか理窟をつけたのかね」と鈴木君が相の手を入れる。
「うん、実にずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ」
「一枚も書かんのにか」と今度は迷亭君自身が質問をする。
「無論さ、その時君はこう云ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて何人にも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ」
「なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と鈴木君はなぜだか面白がっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。
「何が面白いものか」と主人は今でも怒っている様子である。
「それは御気の毒様、それだからその埋合せをするために孔雀の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそう怒らずに待っているさ。しかし著書と云えば君、今日は一大珍報を齎らして来たんだよ」
「君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん」
「ところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士の夢でも見ているかも知れない」
鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと顋と眼で主人に合図する。主人には一向意味が通じない。さっき鈴木君に逢って説法を受けた時は金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と云われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々は悪らしくもなる。しかし寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの御見やげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。啻に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木のまま燻っていても遺憾はないが、これは旨く仕上がったと思う彫刻には一日も早く箔を塗ってやりたい。
「本当に論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっち除けにして、熱心に聞く。
「よく人の云う事を疑ぐる男だ。――もっとも問題は団栗だか首縊りの力学だか確と分らんがね。とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない」
さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に云うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。
「その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。鼻名を千載に垂れる資格は充分ありながら、あのままで朽ち果つるとは不憫千万だ。今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう」と相変らず口から出任せに喋舌り立てる。
「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が今鈴木君から聞いた通りを述べると、鈴木君はこれは迷惑だと云う顔付をしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとく一向電気に感染しない。
「ちょっと乙だな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方鼻恋くらいなところだぜ」
「鼻恋でも寒月が貰えばいいが」
「貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。今日はいやに軟化しているぜ」
「軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……」
「しかしどうかしたんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の末席を汚す一人だから参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇め奉るのは、少々提灯と釣鐘と云う次第で、我々朋友たる者が冷々黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい」
「相変らず元気がいいね。結構だ。君は十年前と容子が少しも変っていないからえらい」と鈴木君は柳に受けて、胡麻化そうとする。
「えらいと褒めるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。昔しの希臘人は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに不思議な事には学者の智識に対してのみは何等の褒美も与えたと云う記録がなかったので、今日まで実は大に怪しんでいたところさ」
「なるほど少し妙だね」と鈴木君はどこまでも調子を合せる。
「しかるについ両三日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団は一度に氷解。漆桶を抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地の至境に達したのさ」
あまり迷亭の言葉が仰山なので、さすが御上手者の鈴木君も、こりゃ手に合わないと云う顔付をする。主人はまた始まったなと云わぬばかりに、象牙の箸で菓子皿の縁をかんかん叩いて俯つ向いている。迷亭だけは大得意で弁じつづける。
「そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒の淵から吾人の疑を千載の下に救い出してくれた者は誰だと思う。学問あって以来の学者と称せらるる彼の希臘の哲人、逍遥派の元祖アリストートルその人である。彼の説明に曰くさ――おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。――彼等希臘人が競技において得るところの賞与は彼等が演ずる技芸その物より貴重なものである。それ故に褒美にもなり、奨励の具ともなる。しかし智識その物に至ってはどうである。もし智識に対する報酬として何物をか与えんとするならば智識以上の価値あるものを与えざるべからず。しかし智識以上の珍宝が世の中にあろうか。無論あるはずがない。下手なものをやれば智識の威厳を損する訳になるばかりだ。彼等は智識に対して千両箱をオリムパスの山ほど積み、クリーサスの富を傾け尽しても相当の報酬を与えんとしたのであるが、いかに考えても到底釣り合うはずがないと云う事を観破して、それより以来と云うものは奇麗さっぱり何にもやらない事にしてしまった。黄白青銭が智識の匹敵でない事はこれで十分理解出来るだろう。さてこの原理を服膺した上で時事問題に臨んで見るがいい。金田某は何だい紙幣に眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣に過ぎんのである。活動紙幣の娘なら活動切手くらいなところだろう。翻って寒月君は如何と見ればどうだ。辱けなくも学問最高の府を第一位に卒業して毫も倦怠の念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて、日夜団栗のスタビリチーを研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々の中ロード・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。たまたま吾妻橋を通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるが、これも熱誠なる青年に有りがちの発作的所為で毫も彼が智識の問屋たるに煩いを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流の喩をもって寒月君を評すれば彼は活動図書館である。智識をもって捏ね上げたる二十八珊の弾丸である。この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら、――もし爆発して見給え――爆発するだろう――」迷亭はここに至って迷亭一流と自称する形容詞が思うように出て来ないので俗に云う竜頭蛇尾の感に多少ひるんで見えたがたちまち「活動切手などは何千万枚あったって粉な微塵になってしまうさ。それだから寒月には、あんな釣り合わない女性は駄目だ。僕が不承知だ、百獣の中でもっとも聡明なる大象と、もっとも貪婪なる小豚と結婚するようなものだ。そうだろう苦沙弥君」と云って退けると、主人はまた黙って菓子皿を叩き出す。鈴木君は少し凹んだ気味で
「そんな事も無かろう」と術なげに答える。さっきまで迷亭の悪口を随分ついた揚句ここで無暗な事を云うと、主人のような無法者はどんな事を素っ破抜くか知れない。なるべくここは好加減に迷亭の鋭鋒をあしらって無事に切り抜けるのが上分別なのである。鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は極楽流に達せられるのである。鈴木君は卒業後この極楽主義によって成功し、この極楽主義によって金時計をぶら下げ、この極楽主義で金田夫婦の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく苦沙弥君を説き落して当該事件が十中八九まで成就したところへ、迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人間以外の心理作用を有するかと怪まるる風来坊が飛び込んで来たので少々その突然なるに面喰っているところである。極楽主義を発明したものは明治の紳士で、極楽主義を実行するものは鈴木藤十郎君で、今この極楽主義で困却しつつあるものもまた鈴木藤十郎君である。
「君は何にも知らんからそうでもなかろうなどと澄し返って、例になく言葉寡なに上品に控え込むが、せんだってあの鼻の主が来た時の容子を見たらいかに実業家贔負の尊公でも辟易するに極ってるよ、ねえ苦沙弥君、君大に奮闘したじゃないか」
「それでも君より僕の方が評判がいいそうだ」
「アハハハなかなか自信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられん訳だ。僕も意志は決して人に劣らんつもりだが、そんなに図太くは出来ん敬服の至りだ」
「生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家であるが巴里大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず匕首を袖の下に持って防禦の具となした事がある。ブルヌチェルがやはり巴里の大学でゾラの小説を攻撃した時は……」
「だって君ゃ大学の教師でも何でもないじゃないか。高がリードルの先生でそんな大家を例に引くのは雑魚が鯨をもって自ら喩えるようなもんだ、そんな事を云うとなおからかわれるぜ」
「黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ」
「大変な見識だな。しかし懐剣をもって歩行くだけはあぶないから真似ない方がいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀くらいなところだな。しかしそれにしても刃物は剣呑だから仲見世へ行っておもちゃの空気銃を買って来て背負ってあるくがよかろう。愛嬌があっていい。ねえ鈴木君」と云うと鈴木君はようやく話が金田事件を離れたのでほっと一息つきながら
「相変らず無邪気で愉快だ。十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次から広い野原へ出たような気持がする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。何を云うにも気をおかなくちゃならんから心配で窮屈で実に苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。ああ今日は図らず迷亭君に遇って愉快だった。僕はちと用事があるからこれで失敬する」と鈴木君が立ち懸けると、迷亭も「僕もいこう、僕はこれから日本橋の演芸矯風会に行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう」と両君は手を携えて帰る。
五
二十四時間の出来事を洩れなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう、いくら写生文を鼓吹する吾輩でもこれは到底猫の企て及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。従っていかに吾輩の主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を弄するにも関らず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのははなはだ遺憾である。遺憾ではあるがやむを得ない。休養は猫といえども必要である。鈴木君と迷亭君の帰ったあとは木枯しのはたと吹き息んで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。主人は例のごとく書斎へ引き籠る。小供は六畳の間へ枕をならべて寝る。一間半の襖を隔てて南向の室には細君が数え年三つになる、めん子さんと添乳して横になる。花曇りに暮れを急いだ日は疾く落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町の下宿で明笛を吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底に折々鈍い刺激を与える。外面は大方朧であろう。晩餐に半ぺんの煮汁で鮑貝をからにした腹ではどうしても休養が必要である。
ほのかに承われば世間には猫の恋とか称する俳諧趣味の現象があって、春さきは町内の同族共の夢安からぬまで浮かれ歩るく夜もあるとか云うが、吾輩はまだかかる心的変化に遭逢した事はない。そもそも恋は宇宙的の活力である。上は在天の神ジュピターより下は土中に鳴く蚯蚓、おけらに至るまでこの道にかけて浮身を窶すのが万物の習いであるから、吾輩どもが朧うれしと、物騒な風流気を出すのも無理のない話しである。回顧すればかく云う吾輩も三毛子に思い焦がれた事もある。三角主義の張本金田君の令嬢阿倍川の富子さえ寒月君に恋慕したと云う噂である。それだから千金の春宵を心も空に満天下の雌猫雄猫が狂い廻るのを煩悩の迷のと軽蔑する念は毛頭ないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないから仕方がない。吾輩目下の状態はただ休養を欲するのみである。こう眠くては恋も出来ぬ。のそのそと小供の布団の裾へ廻って心地快く眠る。……
ふと眼を開いて見ると主人はいつの間にか書斎から寝室へ来て細君の隣に延べてある布団の中にいつの間にか潜り込んでいる。主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本を書斎から携えて来る。しかし横になってこの本を二頁と続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざ提げてくる必要もなさそうなものだが、そこが主人の主人たるところでいくら細君が笑っても、止せと云っても、決して承知しない。毎夜読まない本をご苦労千万にも寝室まで運んでくる。ある時は慾張って三四冊も抱えて来る。せんだってじゅうは毎晩ウェブスターの大字典さえ抱えて来たくらいである。思うにこれは主人の病気で贅沢な人が竜文堂に鳴る松風の音を聞かないと寝つかれないごとく、主人も書物を枕元に置かないと眠れないのであろう、して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。
今夜も何か有るだろうと覗いて見ると、赤い薄い本が主人の口髯の先につかえるくらいな地位に半分開かれて転がっている。主人の左の手の拇指が本の間に挟まったままであるところから推すと奇特にも今夜は五六行読んだものらしい。赤い本と並んで例のごとくニッケルの袂時計が春に似合わぬ寒き色を放っている。
細君は乳呑児を一尺ばかり先へ放り出して口を開いていびきをかいて枕を外している。およそ人間において何が見苦しいと云って口を開けて寝るほどの不体裁はあるまいと思う。猫などは生涯こんな恥をかいた事がない。元来口は音を出すため鼻は空気を吐呑するための道具である。もっとも北の方へ行くと人間が無精になってなるべく口をあくまいと倹約をする結果鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻を閉塞して口ばかりで呼吸の用を弁じているのはズーズーよりも見ともないと思う。第一天井から鼠の糞でも落ちた時危険である。
小供の方はと見るとこれも親に劣らぬ体たらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだと云わぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹のすん子はその復讐に姉の腹の上に片足をあげて踏反り返っている。双方共寝た時の姿勢より九十度はたしかに廻転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ両人とも不平も云わずおとなしく熟睡している。
さすがに春の灯火は格別である。天真爛漫ながら無風流極まるこの光景の裏に良夜を惜しめとばかり床しげに輝やいて見える。もう何時だろうと室の中を見廻すと四隣はしんとしてただ聞えるものは柱時計と細君のいびきと遠方で下女の歯軋りをする音のみである。この下女は人から歯軋りをすると云われるといつでもこれを否定する女である。私は生れてから今日に至るまで歯軋りをした覚はございませんと強情を張って決して直しましょうとも御気の毒でございますとも云わず、ただそんな覚はございませんと主張する。なるほど寝ていてする芸だから覚はないに違ない。しかし事実は覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。こう云う紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。――夜は大分更けたようだ。
台所の雨戸にトントンと二返ばかり軽く中った者がある。はてな今頃人の来るはずがない。大方例の鼠だろう、鼠なら捕らん事に極めているから勝手にあばれるが宜しい。――またトントンと中る。どうも鼠らしくない。鼠としても大変用心深い鼠である。主人の内の鼠は、主人の出る学校の生徒のごとく日中でも夜中でも乱暴狼藉の練修に余念なく、憫然なる主人の夢を驚破するのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠慮する訳がない。今のはたしかに鼠ではない。せんだってなどは主人の寝室にまで闖入して高からぬ主人の鼻の頭を囓んで凱歌を奏して引き上げたくらいの鼠にしてはあまり臆病すぎる。決して鼠ではない。今度はギーと雨戸を下から上へ持ち上げる音がする、同時に腰障子を出来るだけ緩やかに、溝に添うて滑らせる。いよいよ鼠ではない。人間だ。この深夜に人間が案内も乞わず戸締を外ずして御光来になるとすれば迷亭先生や鈴木君ではないに極っている。御高名だけはかねて承わっている泥棒陰士ではないか知らん。いよいよ陰士とすれば早く尊顔を拝したいものだ。陰士は今や勝手の上に大いなる泥足を上げて二足ばかり進んだ模様である。三足目と思う頃揚板に蹶いてか、ガタリと夜に響くような音を立てた。吾輩の背中の毛が靴刷毛で逆に擦すられたような心持がする。しばらくは足音もしない。細君を見ると未だ口をあいて太平の空気を夢中に吐呑している。主人は赤い本に拇指を挟まれた夢でも見ているのだろう。やがて台所でマチを擦る音が聞える。陰士でも吾輩ほど夜陰に眼は利かぬと見える。勝手がわるくて定めし不都合だろう。
この時吾輩は蹲踞まりながら考えた。陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。――足音は襖の音と共に椽側へ出た。陰士はいよいよ書斎へ這入った。それぎり音も沙汰もない。
吾輩はこの間に早く主人夫婦を起してやりたいものだとようやく気が付いたが、さてどうしたら起きるやら、一向要領を得ん考のみが頭の中に水車の勢で廻転するのみで、何等の分別も出ない。布団の裾を啣えて振って見たらと思って、二三度やって見たが少しも効用がない。冷たい鼻を頬に擦り付けたらと思って、主人の顔の先へ持って行ったら、主人は眠ったまま、手をうんと延ばして、吾輩の鼻づらを否やと云うほど突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事おびただしい。此度は仕方がないからにゃーにゃーと二返ばかり鳴いて起こそうとしたが、どう云うものかこの時ばかりは咽喉に物が痞えて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。肝心の主人は覚める気色もないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと椽側を伝って近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと諦らめて、襖と柳行李の間にしばしの間身を忍ばせて動静を窺がう。
陰士の足音は寝室の障子の前へ来てぴたりと已む。吾輩は息を凝らして、この次は何をするだろうと一生懸命になる。あとで考えたが鼠を捕る時は、こんな気分になれば訳はないのだ、魂が両方の眼から飛び出しそうな勢である。陰士の御蔭で二度とない悟を開いたのは実にありがたい。たちまち障子の桟の三つ目が雨に濡れたように真中だけ色が変る。それを透して薄紅なものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて、赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間に暗い中に消える。入れ代って何だか恐しく光るものが一つ、破れた孔の向側にあらわれる。疑いもなく陰士の眼である。妙な事にはその眼が、部屋の中にある何物をも見ないで、ただ柳行李の後に隠れていた吾輩のみを見つめているように感ぜられた。一分にも足らぬ間ではあったが、こう睨まれては寿命が縮まると思ったくらいである。もう我慢出来んから行李の影から飛出そうと決心した時、寝室の障子がスーと明いて待ち兼ねた陰士がついに眼前にあらわれた。
吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人をこの際諸君に御紹介するの栄誉を有する訳であるが、その前ちょっと卑見を開陳してご高慮を煩わしたい事がある。古代の神は全智全能と崇められている。ことに耶蘇教の神は二十世紀の今日までもこの全智全能の面を被っている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破した者は天地開闢以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更な猫でもないと云う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間諸君の脳裏に叩き込みたいと考える。天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に聖書とか云うものにはその通りと明記してあるそうだ。さてこの人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、大に玄妙不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それは外でもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論極っている、大さも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の伎倆に感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を消耗して変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもって推せば、人間の製造を一手で受負った神の手際は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる底の伎倆であるから、これを全能的伎倆と云っても差し支えないだろう。人間はこの点において大に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から云えばもっともな恐れ入り方である。しかし猫の立場から云うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと云うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子も同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、とうてい旨く行かなくて出来るのも出来るのも作り損ねてこの乱雑な状態に陥ったものか、分らんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の痕迹とも判ぜらるるではないか。全能とも云えようが、無能と評したって差し支えはない。彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入らんのは気の毒な次第である。立場を換えて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人逆せ上がって、神に呑まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模傚を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅見せろと逼ると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日書いた通りの筆法で空海と願いますと云う方がまるで書体を換えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。人間の用うる国語は全然模傚主義で伝習するものである。彼等人間が母から、乳母から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚の能力がないと云う事を証明している。純粋の模傚はかくのごとく至難なものである。従って神が彼等人間を区別の出来ぬよう、悉皆焼印の御かめのごとく作り得たならばますます神の全能を表明し得るもので、同時に今日のごとく勝手次第な顔を天日に曝らさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。
吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。本を忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見て貰いたい。とにかく吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を瞥見した時、以上の感想が自然と胸中に湧き出でたのである。なぜ湧いた?――なぜと云う質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。――ええと、その訳はこうである。
吾輩の眼前に悠然とあらわれた陰士の顔を見るとその顔が――平常神の製作についてその出来栄をあるいは無能の結果ではあるまいかと疑っていたのに、それを一時に打ち消すに足るほどな特徴を有していたからである。特徴とはほかではない。彼の眉目がわが親愛なる好男子水島寒月君に瓜二つであると云う事実である。吾輩は無論泥棒に多くの知己は持たぬが、その行為の乱暴なところから平常想像して私かに胸中に描いていた顔はないでもない。小鼻の左右に展開した、一銭銅貨くらいの眼をつけた、毬栗頭にきまっていると自分で勝手に極めたのであるが、見ると考えるとは天地の相違、想像は決して逞くするものではない。この陰士は背のすらりとした、色の浅黒い一の字眉の、意気で立派な泥棒である。年は二十六七歳でもあろう、それすら寒月君の写生である。神もこんな似た顔を二個製造し得る手際があるとすれば、決して無能をもって目する訳には行かぬ。いや実際の事を云うと寒月君自身が気が変になって深夜に飛び出して来たのではあるまいかと、はっと思ったくらいよく似ている。ただ鼻の下に薄黒く髯の芽生えが植え付けてないのでさては別人だと気が付いた。寒月君は苦味ばしった好男子で、活動小切手と迷亭から称せられたる、金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの製作物である。しかしこの陰士も人相から観察するとその婦人に対する引力上の作用において決して寒月君に一歩も譲らない。もし金田の令嬢が寒月君の眼付や口先に迷ったのなら、同等の熱度をもってこの泥棒君にも惚れ込まなくては義理が悪い。義理はとにかく、論理に合わない。ああ云う才気のある、何でも早分りのする性質だからこのくらいの事は人から聞かんでもきっと分るであろう。して見ると寒月君の代りにこの泥棒を差し出しても必ず満身の愛を捧げて琴瑟調和の実を挙げらるるに相違ない。万一寒月君が迷亭などの説法に動かされて、この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が健在であるうちは大丈夫である。吾輩は未来の事件の発展をここまで予想して、富子嬢のために、やっと安心した。この泥棒君が天地の間に存在するのは富子嬢の生活を幸福ならしむる一大要件である。
陰士は小脇になにか抱えている。見ると先刻主人が書斎へ放り込んだ古毛布である。唐桟の半纏に、御納戸の博多の帯を尻の上にむすんで、生白い脛は膝から下むき出しのまま今や片足を挙げて畳の上へ入れる。先刻から赤い本に指を噛まれた夢を見ていた、主人はこの時寝返りを堂と打ちながら「寒月だ」と大きな声を出す。陰士は毛布を落して、出した足を急に引き込ます。障子の影に細長い向脛が二本立ったまま微かに動くのが見える。主人はうーん、むにゃむにゃと云いながら例の赤本を突き飛ばして、黒い腕を皮癬病みのようにぼりぼり掻く。そのあとは静まり返って、枕をはずしたなり寝てしまう。寒月だと云ったのは全く我知らずの寝言と見える。陰士はしばらく椽側に立ったまま室内の動静をうかがっていたが、主人夫婦の熟睡しているのを見済してまた片足を畳の上に入れる。今度は寒月だと云う声も聞えぬ。やがて残る片足も踏み込む。一穂の春灯で豊かに照らされていた六畳の間は、陰士の影に鋭どく二分せられて柳行李の辺から吾輩の頭の上を越えて壁の半ばが真黒になる。振り向いて見ると陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二の所に漠然と動いている。好男子も影だけ見ると、八つ頭の化け物のごとくまことに妙な恰好である。陰士は細君の寝顔を上から覗き込んで見たが何のためかにやにやと笑った。笑い方までが寒月君の模写であるには吾輩も驚いた。
細君の枕元には四寸角の一尺五六寸ばかりの釘付けにした箱が大事そうに置いてある。これは肥前の国は唐津の住人多々良三平君が先日帰省した時御土産に持って来た山の芋である。山の芋を枕元へ飾って寝るのはあまり例のない話しではあるがこの細君は煮物に使う三盆を用箪笥へ入れるくらい場所の適不適と云う観念に乏しい女であるから、細君にとれば、山の芋は愚か、沢庵が寝室に在っても平気かも知れん。しかし神ならぬ陰士はそんな女と知ろうはずがない。かくまで鄭重に肌身に近く置いてある以上は大切な品物であろうと鑑定するのも無理はない。陰士はちょっと山の芋の箱を上げて見たがその重さが陰士の予期と合して大分目方が懸りそうなのですこぶる満足の体である。いよいよ山の芋を盗むなと思ったら、しかもこの好男子にして山の芋を盗むなと思ったら急におかしくなった。しかし滅多に声を立てると危険であるからじっと怺えている。
やがて陰士は山の芋の箱を恭しく古毛布にくるみ初めた。なにかからげるものはないかとあたりを見廻す。と、幸い主人が寝る時に解きすてた縮緬の兵古帯がある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかり括って、苦もなく背中へしょう。あまり女が好く体裁ではない。それから小供のちゃんちゃんを二枚、主人のめり安の股引の中へ押し込むと、股のあたりが丸く膨れて青大将が蛙を飲んだような――あるいは青大将の臨月と云う方がよく形容し得るかも知れん。とにかく変な恰好になった。嘘だと思うなら試しにやって見るがよろしい。陰士はめり安をぐるぐる首っ環へ捲きつけた。その次はどうするかと思うと主人の紬の上着を大風呂敷のように拡げてこれに細君の帯と主人の羽織と繻絆とその他あらゆる雑物を奇麗に畳んでくるみ込む。その熟練と器用なやり口にもちょっと感心した。それから細君の帯上げとしごきとを続ぎ合わせてこの包みを括って片手にさげる。まだ頂戴するものは無いかなと、あたりを見廻していたが、主人の頭の先に「朝日」の袋があるのを見付けて、ちょっと袂へ投げ込む。またその袋の中から一本出してランプに翳して火を点ける。旨まそうに深く吸って吐き出した煙りが、乳色のホヤを繞ってまだ消えぬ間に、陰士の足音は椽側を次第に遠のいて聞えなくなった。主人夫婦は依然として熟睡している。人間も存外迂濶なものである。
吾輩はまた暫時の休養を要する。のべつに喋舌っていては身体が続かない。ぐっと寝込んで眼が覚めた時は弥生の空が朗らかに晴れ渡って勝手口に主人夫婦が巡査と対談をしている時であった。
「それでは、ここから這入って寝室の方へ廻ったんですな。あなた方は睡眠中で一向気がつかなかったのですな」
「ええ」と主人は少し極りがわるそうである。
「それで盗難に罹ったのは何時頃ですか」と巡査は無理な事を聞く。時間が分るくらいなら何にも盗まれる必要はないのである。それに気が付かぬ主人夫婦はしきりにこの質問に対して相談をしている。
「何時頃かな」
「そうですね」と細君は考える。考えれば分ると思っているらしい。
「あなたは夕べ何時に御休みになったんですか」
「俺の寝たのは御前よりあとだ」
「ええ私しの伏せったのは、あなたより前です」
「眼が覚めたのは何時だったかな」
「七時半でしたろう」
「すると盗賊の這入ったのは、何時頃になるかな」
「なんでも夜なかでしょう」
「夜中は分りきっているが、何時頃かと云うんだ」
「たしかなところはよく考えて見ないと分りませんわ」と細君はまだ考えるつもりでいる。巡査はただ形式的に聞いたのであるから、いつ這入ったところが一向痛痒を感じないのである。嘘でも何でも、いい加減な事を答えてくれれば宜いと思っているのに主人夫婦が要領を得ない問答をしているものだから少々焦れたくなったと見えて
「それじゃ盗難の時刻は不明なんですな」と云うと、主人は例のごとき調子で
「まあ、そうですな」と答える。巡査は笑いもせずに
「じゃあね、明治三十八年何月何日戸締りをして寝たところが盗賊が、どこそこの雨戸を外してどこそこに忍び込んで品物を何点盗んで行ったから右告訴及候也という書面をお出しなさい。届ではない告訴です。名宛はない方がいい」
「品物は一々かくんですか」
「ええ羽織何点代価いくらと云う風に表にして出すんです。――いや這入って見たって仕方がない。盗られたあとなんだから」と平気な事を云って帰って行く。
主人は筆硯を座敷の真中へ持ち出して、細君を前に呼びつけて「これから盗難告訴をかくから、盗られたものを一々云え。さあ云え」とあたかも喧嘩でもするような口調で云う。
「あら厭だ、さあ云えだなんて、そんな権柄ずくで誰が云うもんですか」と細帯を巻き付けたままどっかと腰を据える。
「その風はなんだ、宿場女郎の出来損い見たようだ。なぜ帯をしめて出て来ん」
「これで悪るければ買って下さい。宿場女郎でも何でも盗られりゃ仕方がないじゃありませんか」
「帯までとって行ったのか、苛い奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか、黒繻子と縮緬の腹合せの帯です」
「黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋――価はいくらくらいだ」
「六円くらいでしょう」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭くらいのにしておけ」
「そんな帯があるものですか。それだからあなたは不人情だと云うんです。女房なんどは、どんな汚ない風をしていても、自分さい宜けりゃ、構わないんでしょう」
「まあいいや、それから何だ」
「糸織の羽織です、あれは河野の叔母さんの形身にもらったんで、同じ糸織でも今の糸織とは、たちが違います」
「そんな講釈は聞かんでもいい。値段はいくらだ」
「十五円」
「十五円の羽織を着るなんて身分不相当だ」
「いいじゃありませんか、あなたに買っていただきゃあしまいし」
「その次は何だ」
「黒足袋が一足」
「御前のか」
「あなたんでさあね。代価が二十七銭」
「それから?」
「山の芋が一箱」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまでは知りません」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
「しかし御前は知らんと云うじゃないか」
「知りませんわ、知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。まるで論理に合わん。それだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと云うんだ」
「何ですって」
「オタンチン・パレオロガスだよ」
「何ですそのオタンチン・パレオロガスって云うのは」
「何でもいい。それからあとは――俺の着物は一向出て来んじゃないか」
「あとは何でも宜うござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かして頂戴」
「意味も何にもあるもんか」
「教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」
「愚な事を言わんで、早くあとを云うが好い。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」
「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン・パレオロガスを教えて頂戴」
「うるさい女だな、意味も何にも無いと云うに」
「そんなら、品物の方もあとはありません」
「頑愚だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから」
「私も品数を教えて上げません。告訴はあなたが御自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません」
「それじゃ廃そう」と主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入る。細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ坐る。両人共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子を睨め付けている。
ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者多々良三平君が上ってくる。多々良三平君はもとこの家の書生であったが今では法科大学を卒業してある会社の鉱山部に雇われている。これも実業家の芽生で、鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は以前の関係から時々旧先生の草廬を訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない間柄である。
「奥さん。よか天気でござります」と唐津訛りか何かで細君の前にズボンのまま立て膝をつく。
「おや多々良さん」
「先生はどこぞ出なすったか」
「いいえ書斎にいます」
「奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた」
「わたしに言っても駄目だから、あなたが先生にそうおっしゃい」
「そればってんが……」と言い掛けた三平君は座敷中を見廻わして「今日は御嬢さんも見えんな」と半分妻君に聞いているや否や次の間からとん子とすん子が馳け出して来る。
「多々良さん、今日は御寿司を持って来て?」と姉のとん子は先日の約束を覚えていて、三平君の顔を見るや否や催促する。多々良君は頭を掻きながら
「よう覚えているのう、この次はきっと持って来ます。今日は忘れた」と白状する。
「いやーだ」と姉が云うと妹もすぐ真似をして「いやーだ」とつける。細君はようやく御機嫌が直って少々笑顔になる。
「寿司は持って来んが、山の芋は上げたろう。御嬢さん喰べなさったか」
「山の芋ってなあに?」と姉がきくと妹が今度もまた真似をして「山の芋ってなあに?」と三平君に尋ねる。
「まだ食いなさらんか、早く御母あさんに煮て御貰い。唐津の山の芋は東京のとは違ってうまかあ」と三平君が国自慢をすると、細君はようやく気が付いて
「多々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう」
「どうです、喰べて見なすったか、折れんように箱を誂らえて堅くつめて来たから、長いままでありましたろう」
「ところがせっかく下すった山の芋を夕べ泥棒に取られてしまって」
「ぬす盗が? 馬鹿な奴ですなあ。そげん山の芋の好きな男がおりますか?」と三平君大に感心している。
「御母あさま、夕べ泥棒が這入ったの?」と姉が尋ねる。
「ええ」と細君は軽く答える。
「泥棒が這入って――そうして――泥棒が這入って――どんな顔をして這入ったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には細君も何と答えてよいか分らんので
「恐い顔をして這入りました」と返事をして多々良君の方を見る。
「恐い顔って多々良さん見たような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。
「何ですね。そんな失礼な事を」
「ハハハハ私の顔はそんなに恐いですか。困ったな」と頭を掻く。多々良君の頭の後部には直径一寸ばかりの禿がある。一カ月前から出来だして医者に見て貰ったが、まだ容易に癒りそうもない。この禿を第一番に見付けたのは姉のとん子である。
「あら多々良さんの頭は御母さまのように光かってよ」
「だまっていらっしゃいと云うのに」
「御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて」とこれは妹の質問である。細君と多々良君とは思わず吹き出したが、あまり煩わしくて話も何も出来ぬので「さあさあ御前さん達は少し御庭へ出て御遊びなさい。今に御母あさまが好い御菓子を上げるから」と細君はようやく子供を追いやって
「多々良さんの頭はどうしたの」と真面目に聞いて見る。
「虫が食いました。なかなか癒りません。奥さんも有んなさるか」
「やだわ、虫が食うなんて、そりゃ髷で釣るところは女だから少しは禿げますさ」
「禿はみんなバクテリヤですばい」
「わたしのはバクテリヤじゃありません」
「そりゃ奥さん意地張りたい」
「何でもバクテリヤじゃありません。しかし英語で禿の事を何とか云うでしょう」
「禿はボールドとか云います」
「いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう」
「先生に聞いたら、すぐわかりましょう」
「先生はどうしても教えて下さらないから、あなたに聞くんです」
「私はボールドより知りませんが。長かって、どげんですか」
「オタンチン・パレオロガスと云うんです。オタンチンと云うのが禿と云う字で、パレオロガスが頭なんでしょう」
「そうかも知れませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べて上げましょう。しかし先生もよほど変っていなさいますな。この天気の好いのに、うちにじっとして――奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」
「あなたが連れ出して下さい。先生は女の云う事は決して聞かない人ですから」
「この頃でもジャムを舐めなさるか」
「ええ相変らずです」
「せんだって、先生こぼしていなさいました。どうも妻が俺のジャムの舐め方が烈しいと云って困るが、俺はそんなに舐めるつもりはない。何か勘定違いだろうと云いなさるから、そりゃ御嬢さんや奥さんがいっしょに舐めなさるに違ない――」
「いやな多々良さんだ、何だってそんな事を云うんです」
「しかし奥さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい」
「顔でそんな事がどうして分ります」
「分らんばってんが――それじゃ奥さん少しも舐めなさらんか」
「そりゃ少しは舐めますさ。舐めたって好いじゃありませんか。うちのものだもの」
「ハハハハそうだろうと思った――しかし本の事、泥棒は飛んだ災難でしたな。山の芋ばかり持って行たのですか」
「山の芋ばかりなら困りゃしませんが、不断着をみんな取って行きました」
「早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬ならよかったに――惜しい事をしたなあ。奥さん犬の大か奴を是非一丁飼いなさい。――猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで――ちっとは鼠でも捕りますか」
「一匹もとった事はありません。本当に横着な図々図々しい猫ですよ」
「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々棄てなさい。私が貰って行って煮て食おうか知らん」
「あら、多々良さんは猫を食べるの」
「食いました。猫は旨うござります」
「随分豪傑ね」
下等な書生のうちには猫を食うような野蛮人がある由はかねて伝聞したが、吾輩が平生眷顧を辱うする多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった。いわんや同君はすでに書生ではない、卒業の日は浅きにも係わらず堂々たる一個の法学士で、六つ井物産会社の役員であるのだから吾輩の驚愕もまた一と通りではない。人を見たら泥棒と思えと云う格言は寒月第二世の行為によってすでに証拠立てられたが、人を見たら猫食いと思えとは吾輩も多々良君の御蔭によって始めて感得した真理である。世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。狡猾になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。老人に碌なものがいないのはこの理だな、吾輩などもあるいは今のうちに多々良君の鍋の中で玉葱と共に成仏する方が得策かも知れんと考えて隅の方に小さくなっていると、最前細君と喧嘩をして一反書斎へ引き上げた主人は、多々良君の声を聞きつけて、のそのそ茶の間へ出てくる。
「先生泥棒に逢いなさったそうですな。なんちゅ愚な事です」と劈頭一番にやり込める。
「這入る奴が愚なんだ」と主人はどこまでも賢人をもって自任している。
「這入る方も愚だばってんが、取られた方もあまり賢こくはなかごたる」
「何にも取られるものの無い多々良さんのようなのが一番賢こいんでしょう」と細君が此度は良人の肩を持つ。
「しかし一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どう云う了見じゃろう。鼠は捕らず泥棒が来ても知らん顔をしている。――先生この猫を私にくんなさらんか。こうしておいたっちゃ何の役にも立ちませんばい」
「やっても好い。何にするんだ」
「煮て喰べます」
主人は猛烈なるこの一言を聞いて、うふと気味の悪い胃弱性の笑を洩らしたが、別段の返事もしないので、多々良君も是非食いたいとも云わなかったのは吾輩にとって望外の幸福である。主人はやがて話頭を転じて、
「猫はどうでも好いが、着物をとられたので寒くていかん」と大に銷沈の体である。なるほど寒いはずである。昨日までは綿入を二枚重ねていたのに今日は袷に半袖のシャツだけで、朝から運動もせず枯坐したぎりであるから、不充分な血液はことごとく胃のために働いて手足の方へは少しも巡回して来ない。
「先生教師などをしておったちゃとうていあかんですばい。ちょっと泥棒に逢っても、すぐ困る――一丁今から考を換えて実業家にでもなんなさらんか」
「先生は実業家は嫌だから、そんな事を言ったって駄目よ」
と細君が傍から多々良君に返事をする。細君は無論実業家になって貰いたいのである。
「先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「今年で九年目でしょう」と細君は主人を顧みる。主人はそうだとも、そうで無いとも云わない。
「九年立っても月給は上がらず。いくら勉強しても人は褒めちゃくれず、郎君独寂寞ですたい」と中学時代で覚えた詩の句を細君のために朗吟すると、細君はちょっと分りかねたものだから返事をしない。
「教師は無論嫌だが、実業家はなお嫌いだ」と主人は何が好きだか心の裏で考えているらしい。
「先生は何でも嫌なんだから……」
「嫌でないのは奥さんだけですか」と多々良君柄に似合わぬ冗談を云う。
「一番嫌だ」主人の返事はもっとも簡明である。細君は横を向いてちょっと澄したが再び主人の方を見て、
「生きていらっしゃるのも御嫌なんでしょう」と充分主人を凹ましたつもりで云う。
「あまり好いてはおらん」と存外呑気な返事をする。これでは手のつけようがない。
「先生ちっと活溌に散歩でもしなさらんと、からだを壊してしまいますばい。――そうして実業家になんなさい。金なんか儲けるのは、ほんに造作もない事でござります」
「少しも儲けもせん癖に」
「まだあなた、去年やっと会社へ這入ったばかりですもの。それでも先生より貯蓄があります」
「どのくらい貯蓄したの?」と細君は熱心に聞く。
「もう五十円になります」
「一体あなたの月給はどのくらいなの」これも細君の質問である。
「三十円ですたい。その内を毎月五円宛会社の方で預って積んでおいて、いざと云う時にやります。――奥さん小遣銭で外濠線の株を少し買いなさらんか、今から三四個月すると倍になります。ほんに少し金さえあれば、すぐ二倍にでも三倍にでもなります」
「そんな御金があれば泥棒に逢ったって困りゃしないわ」
「それだから実業家に限ると云うんです。先生も法科でもやって会社か銀行へでも出なされば、今頃は月に三四百円の収入はありますのに、惜しい事でござんしたな。――先生あの鈴木藤十郎と云う工学士を知ってなさるか」
「うん昨日来た」
「そうでござんすか、せんだってある宴会で逢いました時先生の御話をしたら、そうか君は苦沙弥君のところの書生をしていたのか、僕も苦沙弥君とは昔し小石川の寺でいっしょに自炊をしておった事がある、今度行ったら宜しく云うてくれ、僕もその内尋ねるからと云っていました」
「近頃東京へ来たそうだな」
「ええ今まで九州の炭坑におりましたが、こないだ東京詰になりました。なかなか旨いです。私なぞにでも朋友のように話します。――先生あの男がいくら貰ってると思いなさる」
「知らん」
「月給が二百五十円で盆暮に配当がつきますから、何でも平均四五百円になりますばい。あげな男が、よかしこ取っておるのに、先生はリーダー専門で十年一狐裘じゃ馬鹿気ておりますなあ」
「実際馬鹿気ているな」と主人のような超然主義の人でも金銭の観念は普通の人間と異なるところはない。否困窮するだけに人一倍金が欲しいのかも知れない。多々良君は充分実業家の利益を吹聴してもう云う事が無くなったものだから
「奥さん、先生のところへ水島寒月と云う人が来ますか」
「ええ、善くいらっしゃいます」
「どげんな人物ですか」
「大変学問の出来る方だそうです」
「好男子ですか」
「ホホホホ多々良さんくらいなものでしょう」
「そうですか、私くらいなものですか」と多々良君真面目である。
「どうして寒月の名を知っているのかい」と主人が聞く。
「せんだって或る人から頼まれました。そんな事を聞くだけの価値のある人物でしょうか」多々良君は聞かぬ先からすでに寒月以上に構えている。
「君よりよほどえらい男だ」
「そうでございますか、私よりえらいですか」と笑いもせず怒りもせぬ。これが多々良君の特色である。
「近々博士になりますか」
「今論文を書いてるそうだ」
「やっぱり馬鹿ですな。博士論文をかくなんて、もう少し話せる人物かと思ったら」
「相変らず、えらい見識ですね」と細君が笑いながら云う。
「博士になったら、だれとかの娘をやるとかやらんとか云うていましたから、そんな馬鹿があろうか、娘を貰うために博士になるなんて、そんな人物にくれるより僕にくれる方がよほどましだと云ってやりました」
「だれに」
「私に水島の事を聞いてくれと頼んだ男です」
「鈴木じゃないか」
「いいえ、あの人にゃ、まだそんな事は云い切りません。向うは大頭ですから」
「多々良さんは蔭弁慶ね。うちへなんぞ来ちゃ大変威張っても鈴木さんなどの前へ出ると小さくなってるんでしょう」
「ええ。そうせんと、あぶないです」
「多々良、散歩をしようか」と突然主人が云う。先刻から袷一枚であまり寒いので少し運動でもしたら暖かになるだろうと云う考から主人はこの先例のない動議を呈出したのである。行き当りばったりの多々良君は無論逡巡する訳がない。
「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱へ下りる。
吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行する勇気もないからずっと略してその間休養せんければならん。休養は万物の旻天から要求してしかるべき権利である。この世に生息すべき義務を有して蠢動する者は、生息の義務を果すために休養を得ねばならぬ。もし神ありて汝は働くために生れたり寝るために生れたるに非ずと云わば吾輩はこれに答えて云わん、吾輩は仰せのごとく働くために生れたり故に働くために休養を乞うと。主人のごとく器械に不平を吹き込んだまでの木強漢ですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多感多恨にして日夜心神を労する吾輩ごとき者は仮令猫といえども主人以上に休養を要するは勿論の事である。ただ先刻多々良君が吾輩を目して休養以外に何等の能もない贅物のごとくに罵ったのは少々気掛りである。とかく物象にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である。何でも尻でも端折って、汗でも出さないと働らいていないように考えている。達磨と云う坊さんは足の腐るまで座禅をして澄ましていたと云うが、仮令壁の隙から蔦が這い込んで大師の眼口を塞ぐまで動かないにしろ、寝ているんでも死んでいるんでもない。頭の中は常に活動して、廓然無聖などと乙な理窟を考え込んでいる。儒家にも静坐の工夫と云うのがあるそうだ。これだって一室の中に閉居して安閑と躄の修行をするのではない。脳中の活力は人一倍熾に燃えている。ただ外見上は至極沈静端粛の態であるから、天下の凡眼はこれらの知識巨匠をもって昏睡仮死の庸人と見做して無用の長物とか穀潰しとか入らざる誹謗の声を立てるのである。これらの凡眼は皆形を見て心を見ざる不具なる視覚を有して生れついた者で、――しかも彼の多々良三平君のごときは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから、この三平君が吾輩を目して乾屎※(「木+厥」、第3水準1-86-15)同等に心得るのももっともだが、恨むらくは少しく古今の書籍を読んで、やや事物の真相を解し得たる主人までが、浅薄なる三平君に一も二もなく同意して、猫鍋に故障を挟む景色のない事である。しかし一歩退いて考えて見ると、かくまでに彼等が吾輩を軽蔑するのも、あながち無理ではない。大声は俚耳に入らず、陽春白雪の詩には和するもの少なしの喩も古い昔からある事だ。形体以外の活動を見る能わざる者に向って己霊の光輝を見よと強ゆるは、坊主に髪を結えと逼るがごとく、鮪に演説をして見ろと云うがごとく、電鉄に脱線を要求するがごとく、主人に辞職を勧告するごとく、三平に金の事を考えるなと云うがごときものである。必竟無理な注文に過ぎん。しかしながら猫といえども社会的動物である。社会的動物である以上はいかに高く自ら標置するとも、或る程度までは社会と調和して行かねばならん。主人や細君や乃至御さん、三平連が吾輩を吾輩相当に評価してくれんのは残念ながら致し方がないとして、不明の結果皮を剥いで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良君の膳に上すような無分別をやられては由々しき大事である。吾輩は頭をもって活動すべき天命を受けてこの娑婆に出現したほどの古今来の猫であれば、非常に大事な身体である。千金の子は堂陲に坐せずとの諺もある事なれば、好んで超邁を宗として、徒らに吾身の危険を求むるのは単に自己の災なるのみならず、また大いに天意に背く訳である。猛虎も動物園に入れば糞豚の隣りに居を占め、鴻雁も鳥屋に生擒らるれば雛鶏と俎を同じゅうす。庸人と相互する以上は下って庸猫と化せざるべからず。庸猫たらんとすれば鼠を捕らざるべからず。――吾輩はとうとう鼠をとる事に極めた。
せんだってじゅうから日本は露西亜と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔負である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思うくらいである。かくまでに元気旺盛な吾輩の事であるから鼠の一疋や二疋はとろうとする意志さえあれば、寝ていても訳なく捕れる。昔しある人当時有名な禅師に向って、どうしたら悟れましょうと聞いたら、猫が鼠を覘うようにさしゃれと答えたそうだ。猫が鼠をとるようにとは、かくさえすれば外ずれっこはござらぬと云う意味である。女賢しゅうしてと云う諺はあるが猫賢しゅうして鼠捕り損うと云う格言はまだ無いはずだ。して見ればいかに賢こい吾輩のごときものでも鼠の捕れんはずはあるまい。とれんはずはあるまいどころか捕り損うはずはあるまい。今まで捕らんのは、捕りたくないからの事さ。春の日はきのうのごとく暮れて、折々の風に誘わるる花吹雪が台所の腰障子の破れから飛び込んで手桶の中に浮ぶ影が、薄暗き勝手用のランプの光りに白く見える。今夜こそ大手柄をして、うちじゅう驚かしてやろうと決心した吾輩は、あらかじめ戦場を見廻って地形を飲み込んでおく必要がある。戦闘線は勿論あまり広かろうはずがない。畳数にしたら四畳敷もあろうか、その一畳を仕切って半分は流し、半分は酒屋八百屋の御用を聞く土間である。へっついは貧乏勝手に似合わぬ立派な者で赤の銅壺がぴかぴかして、後ろは羽目板の間を二尺遺して吾輩の鮑貝の所在地である。茶の間に近き六尺は膳椀皿小鉢を入れる戸棚となって狭き台所をいとど狭く仕切って、横に差し出すむき出しの棚とすれすれの高さになっている。その下に摺鉢が仰向けに置かれて、摺鉢の中には小桶の尻が吾輩の方を向いている。大根卸し、摺小木が並んで懸[#ルビの「か」は底本では「け」]けてある傍らに火消壺だけが悄然と控えている。真黒になった樽木の交叉した真中から一本の自在を下ろして、先へは平たい大きな籠をかける。その籠が時々風に揺れて鷹揚に動いている。この籠は何のために釣るすのか、この家へ来たてには一向要領を得なかったが、猫の手の届かぬためわざと食物をここへ入れると云う事を知ってから、人間の意地の悪い事をしみじみ感じた。
これから作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと云えば無論鼠の出る所でなければならぬ。いかにこっちに便宜な地形だからと云って一人で待ち構えていてはてんで戦争にならん。ここにおいてか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真中に立って四方を見廻わす。何だか東郷大将のような心持がする。下女はさっき湯に行って戻って来ん。小供はとくに寝ている。主人は芋坂の団子を喰って帰って来て相変らず書斎に引き籠っている。細君は――細君は何をしているか知らない。大方居眠りをして山芋の夢でも見ているのだろう。時々門前を人力が通るが、通り過ぎた後は一段と淋しい。わが決心と云い、わが意気と云い台所の光景と云い、四辺の寂寞と云い、全体の感じが悉く悲壮である。どうしても猫中の東郷大将としか思われない。こう云う境界に入ると物凄い内に一種の愉快を覚えるのは誰しも同じ事であるが、吾輩はこの愉快の底に一大心配が横わっているのを発見した。鼠と戦争をするのは覚悟の前だから何疋来ても恐くはないが、出てくる方面が明瞭でないのは不都合である。周密なる観察から得た材料を綜合して見ると鼠賊の逸出するのには三つの行路がある。彼れらがもしどぶ鼠であるならば土管を沿うて流しから、へっついの裏手へ廻るに相違ない。その時は火消壺の影に隠れて、帰り道を絶ってやる。あるいは溝へ湯を抜く漆喰の穴より風呂場を迂回して勝手へ不意に飛び出すかも知れない。そうしたら釜の蓋の上に陣取って眼の下に来た時上から飛び下りて一攫みにする。それからとまたあたりを見廻すと戸棚の戸の右の下隅が半月形に喰い破られて、彼等の出入に便なるかの疑がある。鼻を付けて臭いで見ると少々鼠臭い。もしここから吶喊して出たら、柱を楯にやり過ごしておいて、横合からあっと爪をかける。もし天井から来たらと上を仰ぐと真黒な煤がランプの光で輝やいて、地獄を裏返しに釣るしたごとくちょっと吾輩の手際では上る事も、下る事も出来ん。まさかあんな高い処から落ちてくる事もなかろうからとこの方面だけは警戒を解く事にする。それにしても三方から攻撃される懸念がある。一口なら片眼でも退治して見せる。二口ならどうにか、こうにかやってのける自信がある。しかし三口となるといかに本能的に鼠を捕るべく予期せらるる吾輩も手の付けようがない。さればと云って車屋の黒ごときものを助勢に頼んでくるのも吾輩の威厳に関する。どうしたら好かろう。どうしたら好かろうと考えて好い智慧が出ない時は、そんな事は起る気遣はないと決めるのが一番安心を得る近道である。また法のつかない者は起らないと考えたくなるものである。まず世間を見渡して見給え。きのう貰った花嫁も今日死なんとも限らんではないか、しかし聟殿は玉椿千代も八千代もなど、おめでたい事を並べて心配らしい顔もせんではないか。心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法が付かんからである。吾輩の場合でも三面攻撃は必ず起らぬと断言すべき相当の論拠はないのであるが、起らぬとする方が安心を得るに便利である。安心は万物に必要である。吾輩も安心を欲する。よって三面攻撃は起らぬと極める。
それでもまだ心配が取れぬから、どう云うものかとだんだん考えて見るとようやく分った。三個の計略のうちいずれを選んだのがもっとも得策であるかの問題に対して、自ら明瞭なる答弁を得るに苦しむからの煩悶である。戸棚から出るときには吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現われる時はこれに対する計がある、また流しから這い上るときはこれを迎うる成算もあるが、そのうちどれか一つに極めねばならぬとなると大に当惑する。東郷大将はバルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡へ出るか、あるいは遠く宗谷海峡を廻るかについて大に心配されたそうだが、今吾輩が吾輩自身の境遇から想像して見て、ご困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況において東郷閣下に似ているのみならず、この格段なる地位においてもまた東郷閣下とよく苦心を同じゅうする者である。
吾輩がかく夢中になって智謀をめぐらしていると、突然破れた腰障子が開いて御三の顔がぬうと出る。顔だけ出ると云うのは、手足がないと云う訳ではない。ほかの部分は夜目でよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判然眸底に落つるからである。御三はその平常より赤き頬をますます赤くして洗湯から帰ったついでに、昨夜に懲りてか、早くから勝手の戸締をする。書斎で主人が俺のステッキを枕元へ出しておけと云う声が聞える。何のために枕頭にステッキを飾るのか吾輩には分らなかった。まさか易水の壮士を気取って、竜鳴を聞こうと云う酔狂でもあるまい。きのうは山の芋、今日はステッキ、明日は何になるだろう。
夜はまだ浅い鼠はなかなか出そうにない。吾輩は大戦の前に一と休養を要する。
主人の勝手には引窓がない。座敷なら欄間と云うような所が幅一尺ほど切り抜かれて夏冬吹き通しに引窓の代理を勤めている。惜し気もなく散る彼岸桜を誘うて、颯と吹き込む風に驚ろいて眼を覚ますと、朧月さえいつの間に差してか、竈の影は斜めに揚板の上にかかる。寝過ごしはせぬかと二三度耳を振って家内の容子を窺うと、しんとして昨夜のごとく柱時計の音のみ聞える。もう鼠の出る時分だ。どこから出るだろう。
戸棚の中でことことと音がしだす。小皿の縁を足で抑えて、中をあらしているらしい。ここから出るわいと穴の横へすくんで待っている。なかなか出て来る景色はない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かに掛ったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隔ててすぐ向う側でやっている、吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろと穴の口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔を出すものはない。戸一枚向うに現在敵が暴行を逞しくしているのに、吾輩はじっと穴の出口で待っておらねばならん随分気の長い話だ。鼠は旅順椀の中で盛に舞踏会を催うしている。せめて吾輩の這入れるだけ御三がこの戸を開けておけば善いのに、気の利かぬ山出しだ。
今度はへっついの影で吾輩の鮑貝がことりと鳴る。敵はこの方面へも来たなと、そーっと忍び足で近寄ると手桶の間から尻尾がちらと見えたぎり流しの下へ隠れてしまった。しばらくすると風呂場でうがい茶碗が金盥にかちりと当る。今度は後方だと振りむく途端に、五寸近くある大な奴がひらりと歯磨の袋を落して椽の下へ馳け込む。逃がすものかと続いて飛び下りたらもう影も姿も見えぬ。鼠を捕るのは思ったよりむずかしい者である。吾輩は先天的鼠を捕る能力がないのか知らん。
吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から馳け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上り、台所の真中に頑張っていると三方面共少々ずつ騒ぎ立てる。小癪と云おうか、卑怯と云おうかとうてい彼等は君子の敵でない。吾輩は十五六回はあちら、こちらと気を疲らし心を労らして奔走努力して見たがついに一度も成功しない。残念ではあるがかかる小人を敵にしてはいかなる東郷大将も施こすべき策がない。始めは勇気もあり敵愾心もあり悲壮と云う崇高な美感さえあったがついには面倒と馬鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり動かない事になった。しかし動かんでも八方睨みを極め込んでいれば敵は小人だから大した事は出来んのである。目ざす敵と思った奴が、存外けちな野郎だと、戦争が名誉だと云う感じが消えて悪くいと云う念だけ残る。悪くいと云う念を通り過すと張り合が抜けてぼーとする。ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気の利いた事は出来ないのだからと軽蔑の極眠たくなる。吾輩は以上の径路をたどって、ついに眠くなった。吾輩は眠る。休養は敵中に在っても必要である。
横向に庇を向いて開いた引窓から、また花吹雪を一塊りなげ込んで、烈しき風の吾を遶ると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛び出した者が、避くる間もあらばこそ、風を切って吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く黒い影は後ろに廻るかと思う間もなく吾輩の尻尾へぶら下がる。瞬く間の出来事である。吾輩は何の目的もなく器械的に跳上る。満身の力を毛穴に込めてこの怪物を振り落とそうとする。耳に喰い下がったのは中心を失ってだらりと吾が横顔に懸る。護謨管のごとき柔かき尻尾の先が思い掛なく吾輩の口に這入る。屈竟の手懸りに、砕けよとばかり尾を啣えながら左右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は古新聞で張った壁に当って、揚板の上に跳ね返る。起き上がるところを隙間なく乗し掛れば、毬を蹴たるごとく、吾輩の鼻づらを掠めて釣り段の縁に足を縮めて立つ。彼は棚の上から吾輩を見おろす、吾輩は板の間から彼を見上ぐる。距離は五尺。その中に月の光りが、大幅の帯を空に張るごとく横に差し込む。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚の上に飛び上がろうとした。前足だけは首尾よく棚の縁にかかったが後足は宙にもがいている。尻尾には最前の黒いものが、死ぬとも離るまじき勢で喰い下っている。吾輩は危うい。前足を懸け易えて足懸りを深くしようとする。懸け易える度に尻尾の重みで浅くなる。二三分滑れば落ちねばならぬ。吾輩はいよいよ危うい。棚板を爪で掻きむしる音ががりがりと聞える。これではならぬと左の前足を抜き易える拍子に、爪を見事に懸け損じたので吾輩は右の爪一本で棚からぶら下った。自分と尻尾に喰いつくものの重みで吾輩のからだがぎりぎりと廻わる。この時まで身動きもせずに覘いをつけていた棚の上の怪物は、ここぞと吾輩の額を目懸けて棚の上から石を投ぐるがごとく飛び下りる。吾輩の爪は一縷のかかりを失う。三つの塊まりが一つとなって月の光を竪に切って下へ落ちる。次の段に乗せてあった摺鉢と、摺鉢の中の小桶とジャムの空缶が同じく一塊となって、下にある火消壺を誘って、半分は水甕の中、半分は板の間の上へ転がり出す。すべてが深夜にただならぬ物音を立てて死物狂いの吾輩の魂をさえ寒からしめた。
「泥棒!」と主人は胴間声を張り上げて寝室から飛び出して来る。見ると片手にはランプを提げ、片手にはステッキを持って、寝ぼけ眼よりは身分相応の炯々たる光を放っている。吾輩は鮑貝の傍におとなしくして蹲踞る。二疋の怪物は戸棚の中へ姿をかくす。主人は手持無沙汰に「何だ誰だ、大きな音をさせたのは」と怒気を帯びて相手もいないのに聞いている。月が西に傾いたので、白い光りの一帯は半切ほどに細くなった。
六
こう暑くては猫といえどもやり切れない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利のシドニー・スミスとか云う人が苦しがったと云う話があるが、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の斑入の毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中質にでも入れたいような気がする。人間から見たら猫などは年が年中同じ顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って単純な無事な銭のかからない生涯を送っているように思われるかも知れないが、いくら猫だって相応に暑さ寒さの感じはある。たまには行水の一度くらいあびたくない事もないが、何しろこの毛衣の上から湯を使った日には乾かすのが容易な事でないから汗臭いのを我慢してこの年になるまで洗湯の暖簾を潜った事はない。折々は団扇でも使って見ようと云う気も起らんではないが、とにかく握る事が出来ないのだから仕方がない。それを思うと人間は贅沢なものだ。なまで食ってしかるべきものをわざわざ煮て見たり、焼いて見たり、酢に漬けて見たり、味噌をつけて見たり好んで余計な手数を懸けて御互に恐悦している。着物だってそうだ。猫のように一年中同じ物を着通せと云うのは、不完全に生れついた彼等にとって、ちと無理かも知れんが、なにもあんなに雑多なものを皮膚の上へ載せて暮さなくてもの事だ。羊の御厄介になったり、蚕の御世話になったり、綿畠の御情けさえ受けるに至っては贅沢は無能の結果だと断言しても好いくらいだ。衣食はまず大目に見て勘弁するとしたところで、生存上直接の利害もないところまでこの調子で押して行くのは毫も合点が行かぬ。第一頭の毛などと云うものは自然に生えるものだから、放っておく方がもっとも簡便で当人のためになるだろうと思うのに、彼等は入らぬ算段をして種々雑多な恰好をこしらえて得意である。坊主とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。暑いとその上へ日傘をかぶる。寒いと頭巾で包む。これでは何のために青い物を出しているのか主意が立たんではないか。そうかと思うと櫛とか称する無意味な鋸様の道具を用いて頭の毛を左右に等分して嬉しがってるのもある。等分にしないと七分三分の割合で頭蓋骨の上へ人為的の区劃を立てる。中にはこの仕切りがつむじを通り過して後ろまで食み出しているのがある。まるで贋造の芭蕉葉のようだ。その次には脳天を平らに刈って左右は真直に切り落す。丸い頭へ四角な枠をはめているから、植木屋を入れた杉垣根の写生としか受け取れない。このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると云う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと云う新奇な奴が流行するかも知れない。とにかくそんなに憂身を窶してどうするつもりか分らん。第一、足が四本あるのに二本しか使わないと云うのから贅沢だ。四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本ですまして、残る二本は到来の棒鱈のように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。これで見ると人間はよほど猫より閑なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽んでいるものと察せられる。ただおかしいのはこの閑人がよると障わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと云うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと云うようなものだ。猫だって頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こう気楽にしてはおられんさ。気楽になりたければ吾輩のように夏でも毛衣を着て通されるだけの修業をするがよろしい。――とは云うものの少々熱い。毛衣では全く熱つ過ぎる。
これでは一手専売の昼寝も出来ない。何かないかな、永らく人間社会の観察を怠ったから、今日は久し振りで彼等が酔興に齷齪する様子を拝見しようかと考えて見たが、生憎主人はこの点に関してすこぶる猫に近い性分である。昼寝は吾輩に劣らぬくらいやるし、ことに暑中休暇後になってからは何一つ人間らしい仕事をせんので、いくら観察をしても一向観察する張合がない。こんな時に迷亭でも来ると胃弱性の皮膚も幾分か反応を呈して、しばらくでも猫に遠ざかるだろうに、先生もう来ても好い時だと思っていると、誰とも知らず風呂場でざあざあ水を浴びるものがある。水を浴びる音ばかりではない、折々大きな声で相の手を入れている。「いや結構」「どうも良い心持ちだ」「もう一杯」などと家中に響き渡るような声を出す。主人のうちへ来てこんな大きな声と、こんな無作法な真似をやるものはほかにはない。迷亭に極っている。
いよいよ来たな、これで今日半日は潰せると思っていると、先生汗を拭いて肩を入れて例のごとく座敷までずかずか上って来て「奥さん、苦沙弥君はどうしました」と呼ばわりながら帽子を畳の上へ抛り出す。細君は隣座敷で針箱の側へ突っ伏して好い心持ちに寝ている最中にワンワンと何だか鼓膜へ答えるほどの響がしたのではっと驚ろいて、醒めぬ眼をわざと※(「目+爭」、第3水準1-88-85)って座敷へ出て来ると迷亭が薩摩上布を着て勝手な所へ陣取ってしきりに扇使いをしている。
「おやいらしゃいまし」と云ったが少々狼狽の気味で「ちっとも存じませんでした」と鼻の頭へ汗をかいたまま御辞儀をする。「いえ、今来たばかりなんですよ。今風呂場で御三に水を掛けて貰ってね。ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんか」「この両三日は、ただじっとしておりましても汗が出るくらいで、大変御暑うございます。――でも御変りもございませんで」と細君は依然として鼻の汗をとらない。「ええありがとう。なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。しかしこの暑さは別物ですよ。どうも体がだるくってね」「私しなども、ついに昼寝などを致した事がないんでございますが、こう暑いとつい――」「やりますかね。好いですよ。昼寝られて、夜寝られりゃ、こんな結構な事はないでさあ」とあいかわらず呑気な事を並べて見たがそれだけでは不足と見えて「私なんざ、寝たくない、質でね。苦沙弥君などのように来るたんびに寝ている人を見ると羨しいですよ。もっとも胃弱にこの暑さは答えるからね。丈夫な人でも今日なんかは首を肩の上に載せてるのが退儀でさあ。さればと云って載ってる以上はもぎとる訳にも行かずね」と迷亭君いつになく首の処置に窮している。「奥さんなんざ首の上へまだ載っけておくものがあるんだから、坐っちゃいられないはずだ。髷の重みだけでも横になりたくなりますよ」と云うと細君は今まで寝ていたのが髷の恰好から露見したと思って「ホホホ口の悪い」と云いながら頭をいじって見る。
迷亭はそんな事には頓着なく「奥さん、昨日はね、屋根の上で玉子のフライをして見ましたよ」と妙な事を云う。「フライをどうなさったんでございます」「屋根の瓦があまり見事に焼けていましたから、ただ置くのも勿体ないと思ってね。バタを溶かして玉子を落したんでさあ」「あらまあ」「ところがやっぱり天日は思うように行きませんや。なかなか半熟にならないから、下へおりて新聞を読んでいると客が来たもんだからつい忘れてしまって、今朝になって急に思い出して、もう大丈夫だろうと上って見たらね」「どうなっておりました」「半熟どころか、すっかり流れてしまいました」「おやおや」と細君は八の字を寄せながら感嘆した。
「しかし土用中あんなに涼しくって、今頃から暑くなるのは不思議ですね」「ほんとでございますよ。せんだってじゅうは単衣では寒いくらいでございましたのに、一昨日から急に暑くなりましてね」「蟹なら横に這うところだが今年の気候はあとびさりをするんですよ。倒行して逆施すまた可ならずやと云うような事を言っているかも知れない」「なんでござんす、それは」「いえ、何でもないのです。どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの牛ですよ」と図に乗っていよいよ変ちきりんな事を言うと、果せるかな細君は分らない。しかし最前の倒行して逆施すで少々懲りているから、今度はただ「へえー」と云ったのみで問い返さなかった。これを問い返されないと迷亭はせっかく持ち出した甲斐がない。「奥さん、ハーキュリスの牛を御存じですか」「そんな牛は存じませんわ」「御存じないですか、ちょっと講釈をしましょうか」と云うと細君もそれには及びませんとも言い兼ねたものだから「ええ」と云った。「昔しハーキュリスが牛を引っ張って来たんです」「そのハーキュリスと云うのは牛飼ででもござんすか」「牛飼じゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃありません。その節は希臘にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね」「あら希臘のお話しなの? そんなら、そうおっしゃればいいのに」と細君は希臘と云う国名だけは心得ている。「だってハーキュリスじゃありませんか」「ハーキュリスなら希臘なんですか」「ええハーキュリスは希臘の英雄でさあ」「どうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんで――」「その男がね奥さん見たように眠くなってぐうぐう寝ている――」「あらいやだ」「寝ている間に、ヴァルカンの子が来ましてね」「ヴァルカンて何です」「ヴァルカンは鍛冶屋ですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。ところがね。牛の尻尾を持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼を覚まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの、後ろへ後ろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出来ですよ」と迷亭先生はすでに天気の話は忘れている。
「時に御主人はどうしました。相変らず午睡ですかね。午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数だがちょっと起していらっしゃい」と催促すると細君は同感と見えて「ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると迷亭先生は「奥さん、御飯と云やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を吹聴する。「おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも」「いえ御茶漬なんか頂戴しなくっても好いですよ」「それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものはございませんが」と細君少々厭味を並べる。迷亭は悟ったもので「いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。今途中で御馳走を誂らえて来ましたから、そいつを一つここでいただきますよ」ととうてい素人には出来そうもない事を述べる。細君はたった一言「まあ!」と云ったがそのまあの中には驚ろいたまあと、気を悪るくしたまあと、手数が省けてありがたいと云うまあが合併している。
ところへ主人が、いつになくあまりやかましいので、寝つき掛った眠をさかに扱かれたような心持で、ふらふらと書斎から出て来る。「相変らずやかましい男だ。せっかく好い心持に寝ようとしたところを」と欠伸交りに仏頂面をする。「いや御目覚かね。鳳眠を驚かし奉ってはなはだ相済まん。しかしたまには好かろう。さあ坐りたまえ」とどっちが客だか分らぬ挨拶をする。主人は無言のまま座に着いて寄木細工の巻煙草入から「朝日」を一本出してすぱすぱ吸い始めたが、ふと向の隅に転がっている迷亭の帽子に眼をつけて「君帽子を買ったね」と云った。迷亭はすぐさま「どうだい」と自慢らしく主人と細君の前に差し出す。「まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですね」と細君はしきりに撫で廻わす。「奥さんこの帽子は重宝ですよ、どうでも言う事を聞きますからね」と拳骨をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意のごとく拳ほどな穴があいた。細君が「へえ」と驚く間もなく、この度は拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張ると釜の頭がぽかりと尖んがる。次には帽子を取って鍔と鍔とを両側から圧し潰して見せる。潰れた帽子は麺棒で延した蕎麦のように平たくなる。それを片端から蓆でも巻くごとくぐるぐる畳む。「どうですこの通り」と丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。「不思議です事ねえ」と細君は帰天斎正一の手品でも見物しているように感嘆すると、迷亭もその気になったものと見えて、右から懐中に収めた帽子をわざと左の袖口から引っ張り出して「どこにも傷はありません」と元のごとくに直して、人さし指の先へ釜の底を載せてくるくると廻す。もう休めるかと思ったら最後にぽんと後ろへ放げてその上へ堂っさりと尻餅を突いた。「君大丈夫かい」と主人さえ懸念らしい顔をする。細君は無論の事心配そうに「せっかく見事な帽子をもし壊わしでもしちゃあ大変ですから、もう好い加減になすったら宜うござんしょう」と注意をする。得意なのは持主だけで「ところが壊われないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになったのを尻の下から取り出してそのまま頭へ載せると、不思議な事には、頭の恰好にたちまち回復する。「実に丈夫な帽子です事ねえ、どうしたんでしょう」と細君がいよいよ感心すると「なにどうもしたんじゃありません、元からこう云う帽子なんです」と迷亭は帽子を被ったまま細君に返事をしている。
「あなたも、あんな帽子を御買になったら、いいでしょう」としばらくして細君は主人に勧めかけた。「だって苦沙弥君は立派な麦藁の奴を持ってるじゃありませんか」「ところがあなた、せんだって小供があれを踏み潰してしまいまして」「おやおやそりゃ惜しい[#「惜しい」は底本では「措しい」]事をしましたね」「だから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善かろうと思いますんで」と細君はパナマの価段を知らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」としきりに主人に勧告している。
迷亭君は今度は右の袂の中から赤いケース入りの鋏を取り出して細君に見せる。「奥さん、帽子はそのくらいにしてこの鋏を御覧なさい。これがまたすこぶる重宝な奴で、これで十四通りに使えるんです」この鋏が出ないと主人は細君のためにパナマ責めになるところであったが、幸に細君が女として持って生れた好奇心のために、この厄運を免かれたのは迷亭の機転と云わんよりむしろ僥倖の仕合せだと吾輩は看破した。「その鋏がどうして十四通りに使えます」と聞くや否や迷亭君は大得意な調子で「今一々説明しますから聞いていらっしゃい。いいですか。ここに三日月形の欠け目がありましょう、ここへ葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。それからこの根にちょと細工がありましょう、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平たくして紙の上へ横に置くと定規の用をする。また刃の裏には度盛がしてあるから物指の代用も出来る。こちらの表にはヤスリが付いているこれで爪を磨りまさあ。ようがすか。この先きを螺旋鋲の頭へ刺し込んでぎりぎり廻すと金槌にも使える。うんと突き込んでこじ開けると大抵の釘付の箱なんざあ苦もなく蓋がとれる。まった、こちらの刃の先は錐に出来ている。ここん所は書き損いの字を削る場所で、ばらばらに離すと、ナイフとなる。一番しまいに――さあ奥さん、この一番しまいが大変面白いんです、ここに蠅の眼玉くらいな大きさの球がありましょう、ちょっと、覗いて御覧なさい」「いやですわまたきっと馬鹿になさるんだから」「そう信用がなくっちゃ困ったね。だが欺されたと思って、ちょいと覗いて御覧なさいな。え? 厭ですか、ちょっとでいいから」と鋏を細君に渡す。細君は覚束なげに鋏を取りあげて、例の蠅の眼玉の所へ自分の眼玉を付けてしきりに覘をつけている。「どうです」「何だか真黒ですわ」「真黒じゃいけませんね。も少し障子の方へ向いて、そう鋏を寝かさずに――そうそうそれなら見えるでしょう」「おやまあ写真ですねえ。どうしてこんな小さな写真を張り付けたんでしょう」「そこが面白いところでさあ」と細君と迷亭はしきりに問答をしている。最前から黙っていた主人はこの時急に写真が見たくなったものと見えて「おい俺にもちょっと覧せろ」と云うと細君は鋏を顔へ押し付けたまま「実に奇麗です事、裸体の美人ですね」と云ってなかなか離さない。「おいちょっと御見せと云うのに」「まあ待っていらっしゃいよ。美くしい髪ですね。腰までありますよ。少し仰向いて恐ろしい背の高い女だ事、しかし美人ですね」「おい御見せと云ったら、大抵にして見せるがいい」と主人は大に急き込んで細君に食って掛る。「へえ御待遠さま、たんと御覧遊ばせ」と細君が鋏を主人に渡す時に、勝手から御三が御客さまの御誂が参りましたと、二個の笊蕎麦を座敷へ持って来る。
「奥さんこれが僕の自弁の御馳走ですよ。ちょっと御免蒙って、ここでぱくつく事に致しますから」と叮嚀に御辞儀をする。真面目なような巫山戯たような動作だから細君も応対に窮したと見えて「さあどうぞ」と軽く返事をしたぎり拝見している。主人はようやく写真から眼を放して「君この暑いのに蕎麦は毒だぜ」と云った。「なあに大丈夫、好きなものは滅多に中るもんじゃない」と蒸籠の蓋をとる。「打ち立てはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来たのもしくないもんだよ」と薬味をツユの中へ入れて無茶苦茶に掻き廻わす。「君そんなに山葵を入れると辛らいぜ」と主人は心配そうに注意した。「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「僕は饂飩が好きだ」「饂飩は馬子が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」と云いながら杉箸をむざと突き込んで出来るだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい上げた。「奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。初心の者に限って、無暗にツユを着けて、そうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一としゃくいに引っ掛けてね」と云いつつ箸を上げると、長い奴が勢揃いをして一尺ばかり空中に釣るし上げられる。迷亭先生もう善かろうと思って下を見ると、まだ十二三本の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂れの上に纏綿している。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」とまた奥さんに相の手を要求する。奥さんは「長いものでございますね」とさも感心したらしい返事をする。「この長い奴へツユを三分一つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込むところがねうちだよ」と思い切って箸を高く上げると蕎麦はようやくの事で地を離れた。左手に受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落して、尻尾の先からだんだんに浸すと、アーキミジスの理論によって、蕎麦の浸った分量だけツユの嵩が増してくる。ところが茶碗の中には元からツユが八分目這入っているから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分も浸らない先に茶碗はツユで一杯になってしまった。迷亭の箸は茶碗を去る五寸の上に至ってぴたりと留まったきりしばらく動かない。動かないのも無理はない。少しでも卸せばツユが溢れるばかりである。迷亭もここに至って少し※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)躇の体であったが、たちまち脱兎の勢を以て、口を箸の方へ持って行ったなと思う間もなく、つるつるちゅうと音がして咽喉笛が一二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭君の両眼から涙のようなものが一二滴眼尻から頬へ流れ出した。山葵が利いたものか、飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判然しない。「感心だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」と主人が敬服すると「御見事です事ねえ」と細君も迷亭の手際を激賞した。迷亭は何にも云わないで箸を置いて胸を二三度敲いたが「奥さん笊は大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数を掛けちゃ旨く食えませんよ」とハンケチで口を拭いてちょっと一息入れている。
ところへ寒月君が、どう云う了見かこの暑いのに御苦労にも冬帽を被って両足を埃だらけにしてやってくる。「いや好男子の御入来だが、喰い掛けたものだからちょっと失敬しますよ」と迷亭君は衆人環座の裏にあって臆面もなく残った蒸籠を平げる。今度は先刻のように目覚しい食方もしなかった代りに、ハンケチを使って、中途で息を入れると云う不体裁もなく、蒸籠二つを安々とやってのけたのは結構だった。
「寒月君博士論文はもう脱稿するのかね」と主人が聞くと迷亭もその後から「金田令嬢がお待ちかねだから早々呈出したまえ」と云う。寒月君は例のごとく薄気味の悪い笑を洩らして「罪ですからなるべく早く出して安心させてやりたいのですが、何しろ問題が問題で、よほど労力の入る研究を要するのですから」と本気の沙汰とも思われない事を本気の沙汰らしく云う。「そうさ問題が問題だから、そう鼻の言う通りにもならないね。もっともあの鼻なら充分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね」と迷亭も寒月流な挨拶をする。比較的に真面目なのは主人である。「君の論文の問題は何とか云ったっけな」「蛙の眼球の電動作用に対する紫外光線の影響と云うのです」「そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、蛙の眼球は振ってるよ。どうだろう苦沙弥君、論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報知しておいては」主人は迷亭の云う事には取り合わないで「君そんな事が骨の折れる研究かね」と寒月君に聞く。「ええ、なかなか複雑な問題です、第一蛙の眼球のレンズの構造がそんな単簡なものでありませんからね。それでいろいろ実験もしなくちゃなりませんがまず丸い硝子の球をこしらえてそれからやろうと思っています」「硝子の球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか」「どうして――どうして」と寒月先生少々反身になる。「元来円とか直線とか云うのは幾何学的のもので、あの定義に合ったような理想的な円や直線は現実世界にはないもんです」「ないもんなら、廃したらよかろう」と迷亭が口を出す。「それでまず実験上差し支えないくらいな球を作って見ようと思いましてね。せんだってからやり始めたのです」「出来たかい」と主人が訳のないようにきく。「出来るものですか」と寒月君が云ったが、これでは少々矛盾だと気が付いたと見えて「どうもむずかしいです。だんだん磨って少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持落すと、さあ大変今度は向側が長くなる。そいつを骨を折ってようやく磨り潰したかと思うと全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを取るとまた直径に狂いが出来ます。始めは林檎ほどな大きさのものがだんだん小さくなって苺ほどになります。それでも根気よくやっていると大豆ほどになります。大豆ほどになってもまだ完全な円は出来ませんよ。私も随分熱心に磨りましたが――この正月からガラス玉を大小六個磨り潰しましたよ」と嘘だか本当だか見当のつかぬところを喋々と述べる。「どこでそんなに磨っているんだい」「やっぱり学校の実験室です、朝磨り始めて、昼飯のときちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃありません」「それじゃ君が近頃忙がしい忙がしいと云って毎日日曜でも学校へ行くのはその珠を磨りに行くんだね」「全く目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています」「珠作りの博士となって入り込みしは――と云うところだね。しかしその熱心を聞かせたら、いかな鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日僕がある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら偶然老梅君に出逢ったのさ。あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って感心に勉強するねと云ったら先生妙な顔をして、なに本を読みに来たんじゃない、今門前を通り掛ったらちょっと小用がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだと云ったんで大笑をしたが、老梅君と君とは反対の好例として新撰蒙求に是非入れたいよ」と迷亭君例のごとく長たらしい註釈をつける。主人は少し真面目になって「君そう毎日毎日珠ばかり磨ってるのもよかろうが、元来いつ頃出来上るつもりかね」と聞く。「まあこの容子じゃ十年くらいかかりそうです」と寒月君は主人より呑気に見受けられる。「十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう」「十年じゃ早い方です、事によると廿年くらいかかります」「そいつは大変だ、それじゃ容易に博士にゃなれないじゃないか」「ええ一日も早くなって安心さしてやりたいのですがとにかく珠を磨り上げなくっちゃ肝心の実験が出来ませんから……」
寒月君はちょっと句を切って「何、そんなにご心配には及びませんよ。金田でも私の珠ばかり磨ってる事はよく承知しています。実は二三日前行った時にもよく事情を話して来ました」としたり顔に述べ立てる。すると今まで三人の談話を分らぬながら傾聴していた細君が「それでも金田さんは家族中残らず、先月から大磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか」と不審そうに尋ねる。寒月君もこれには少し辟易の体であったが「そりゃ妙ですな、どうしたんだろう」ととぼけている。こう云う時に重宝なのは迷亭君で、話の途切れた時、極りの悪い時、眠くなった時、困った時、どんな時でも必ず横合から飛び出してくる。「先月大磯へ行ったものに両三日前東京で逢うなどは神秘的でいい。いわゆる霊の交換だね。相思の情の切な時にはよくそう云う現象が起るものだ。ちょっと聞くと夢のようだが、夢にしても現実よりたしかな夢だ。奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯恋の何物たるを御解しにならん方には、御不審ももっともだが……」「あら何を証拠にそんな事をおっしゃるの。随分軽蔑なさるのね」と細君は中途から不意に迷亭に切り付ける。「君だって恋煩いなんかした事はなさそうじゃないか」と主人も正面から細君に助太刀をする。「そりゃ僕の艶聞などは、いくら有ってもみんな七十五日以上経過しているから、君方の記憶には残っていないかも知れないが――実はこれでも失恋の結果、この歳になるまで独身で暮らしているんだよ」と一順列座の顔を公平に見廻わす。「ホホホホ面白い事」と云ったのは細君で、「馬鹿にしていらあ」と庭の方を向いたのは主人である。ただ寒月君だけは「どうかその懐旧談を後学のために伺いたいもので」と相変らずにやにやする。
「僕のも大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから、実のところ話す張合もないんだが、せっかくだから打ち開けるよ。その代りしまいまで謹聴しなくっちゃいけないよ」と念を押していよいよ本文に取り掛る。「回顧すると今を去る事――ええと――何年前だったかな――面倒だからほぼ十五六年前としておこう」「冗談じゃない」と主人は鼻からフンと息をした。「大変物覚えが御悪いのね」と細君がひやかした。寒月君だけは約束を守って一言も云わずに、早くあとが聴きたいと云う風をする。「何でもある年の冬の事だが、僕が越後の国は蒲原郡筍谷を通って、蛸壺峠へかかって、これからいよいよ会津領[#ルビの「あいづりょう」は底本では「あいずりょう」]へ出ようとするところだ」「妙なところだな」と主人がまた邪魔をする。「だまって聴いていらっしゃいよ。面白いから」と細君が制する。「ところが日は暮れる、路は分らず、腹は減る、仕方がないから峠の真中にある一軒屋を敲いて、これこれかようかようしかじかの次第だから、どうか留めてくれと云うと、御安い御用です、さあ御上がんなさいと裸蝋燭を僕の顔に差しつけた娘の顔を見て僕はぶるぶると悸えたがね。僕はその時から恋と云う曲者の魔力を切実に自覚したね」「おやいやだ。そんな山の中にも美しい人があるんでしょうか」「山だって海だって、奥さん、その娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ、文金の高島田に髪を結いましてね」「へえー」と細君はあっけに取られている。「這入って見ると八畳の真中に大きな囲炉裏が切ってあって、その周りに娘と娘の爺さんと婆さんと僕と四人坐ったんですがね。さぞ御腹が御減りでしょうと云いますから、何でも善いから早く食わせ給えと請求したんです。すると爺さんがせっかくの御客さまだから蛇飯でも炊いて上げようと云うんです。さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだからしっかりして聴きたまえ」「先生しっかりして聴く事は聴きますが、なんぼ越後の国だって冬、蛇がいやしますまい」「うん、そりゃ一応もっともな質問だよ。しかしこんな詩的な話しになるとそう理窟にばかり拘泥してはいられないからね。鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか」と云ったら寒月君は「なるほど」と云ったきりまた謹聴の態度に復した。
「その時分の僕は随分悪もの食いの隊長で、蝗、なめくじ、赤蛙などは食い厭きていたくらいなところだから、蛇飯は乙だ。早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。そこで爺さん囲炉裏の上へ鍋をかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。不思議な事にはその鍋の蓋を見ると大小十個ばかりの穴があいている。その穴から湯気がぷうぷう吹くから、旨い工夫をしたものだ、田舎にしては感心だと見ていると、爺さんふと立って、どこかへ出て行ったがしばらくすると、大きな笊を小脇に抱い込んで帰って来た。何気なくこれを囲炉裏の傍へ置いたから、その中を覗いて見ると――いたね。長い奴が、寒いもんだから御互にとぐろの捲きくらをやって塊まっていましたね」「もうそんな御話しは廃しになさいよ。厭らしい」と細君は眉に八の字を寄せる。「どうしてこれが失恋の大源因になるんだからなかなか廃せませんや。爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって、右手に例の塊まった長い奴を無雑作につかまえて、いきなり鍋の中へ放り込んで、すぐ上から蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息の穴が塞ったかと思ったよ」「もう御やめになさいよ。気味の悪るい」と細君しきりに怖がっている。「もう少しで失恋になるからしばらく辛抱していらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首がひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよと云ううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中蛇の面だらけになってしまった」「なんで、そんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とか云うと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々に蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くと共に長いのが面白いように抜け出してくる」「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと「全くの事骨抜だ、器用な事をやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子でもって飯と肉を矢鱈に掻き交ぜて、さあ召し上がれと来た」「食ったのかい」と主人が冷淡に尋ねると、細君は苦い顔をして「もう廃しになさいよ、胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。「奥さんは蛇飯を召し上がらんから、そんな事をおっしゃるが、まあ一遍たべてご覧なさい、あの味ばかりは生涯忘れられませんぜ」「おお、いやだ、誰が食べるもんですか」「そこで充分御饌も頂戴し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、もう思いおく事はないと考えていると、御休みなさいましと云うので、旅の労れもある事だから、仰に従って、ごろりと横になると、すまん訳だが前後を忘却して寝てしまった」「それからどうなさいました」と今度は細君の方から催促する。「それから明朝になって眼を覚してからが失恋でさあ」「どうかなさったんですか」「いえ別にどうもしやしませんがね。朝起きて巻煙草をふかしながら裏の窓から見ていると、向うの筧の傍で、薬缶頭が顔を洗っているんでさあ」「爺さんか婆さんか」と主人が聞く。「それがさ、僕にも識別しにくかったから、しばらく拝見していて、その薬缶がこちらを向く段になって驚ろいたね。それが僕の初恋をした昨夜の娘なんだもの」「だって娘は島田に結っているとさっき云ったじゃないか」「前夜は島田さ、しかも見事な島田さ。ところが翌朝は丸薬缶さ」「人を馬鹿にしていらあ」と主人は例によって天井の方へ視線をそらす。「僕も不思議の極内心少々怖くなったから、なお余所ながら容子を窺っていると、薬缶はようやく顔を洗い了って、傍えの石の上に置いてあった高島田の鬘を無雑作に被って、すましてうちへ這入ったんでなるほどと思った。なるほどとは思ったようなもののその時から、とうとう失恋の果敢なき運命をかこつ身となってしまった」「くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と主人が寒月君に向って迷亭君の失恋を評すると、寒月君は「しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかくせっかくの娘が禿であったのは千秋の恨事ですねえ。それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でございましたね」「僕は禿にはならずにすんだが、その代りにこの通りその時から近眼になりました」と金縁の眼鏡をとってハンケチで叮嚀に拭いている。しばらくして主人は思い出したように「全体どこが神秘的なんだい」と念のために聞いて見る。「あの鬘はどこで買ったのか、拾ったのかどう考えても未だに分らないからそこが神秘さ」と迷亭君はまた眼鏡を元のごとく鼻の上へかける。「まるで噺し家の話を聞くようでござんすね」とは細君の批評であった。
迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いのほか、先生は猿轡でも嵌められないうちはとうてい黙っている事が出来ぬ性と見えて、また次のような事をしゃべり出した。
「僕の失恋も苦い経験だが、あの時あの薬缶を知らずに貰ったが最後生涯の目障りになるんだから、よく考えないと険呑だよ。結婚なんかは、いざと云う間際になって、飛んだところに傷口が隠れているのを見出す事がある者だから。寒月君などもそんなに憧憬したり※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)したり独りでむずかしがらないで、篤と気を落ちつけて珠を磨るがいいよ」といやに異見めいた事を述べると、寒月君は「ええなるべく珠ばかり磨っていたいんですが、向うでそうさせないんだから弱り切ります」とわざと辟易したような顔付をする。「そうさ、君などは先方が騒ぎ立てるんだが、中には滑稽なのがあるよ。あの図書館へ小便をしに来た老梅君などになるとすこぶる奇だからね」「どんな事をしたんだい」と主人が調子づいて承わる。「なあに、こう云う訳さ。先生その昔静岡の東西館へ泊った事があるのさ。――たった一と晩だぜ――それでその晩すぐにそこの下女に結婚を申し込んだのさ。僕も随分呑気だが、まだあれほどには進化しない。もっともその時分には、あの宿屋に御夏さんと云う有名な別嬪がいて老梅君の座敷へ出たのがちょうどその御夏さんなのだから無理はないがね」「無理がないどころか君の何とか峠とまるで同じじゃないか」「少し似ているね、実を云うと僕と老梅とはそんなに差異はないからな。とにかく、その御夏さんに結婚を申し込んで、まだ返事を聞かないうちに水瓜が食いたくなったんだがね」「何だって?」と主人が不思議な顔をする。主人ばかりではない、細君も寒月も申し合せたように首をひねってちょっと考えて見る。迷亭は構わずどんどん話を進行させる。「御夏さんを呼んで静岡に水瓜はあるまいかと聞くと、御夏さんが、なんぼ静岡だって水瓜くらいはありますよと、御盆に水瓜を山盛りにして持ってくる。そこで老梅君食ったそうだ。山盛りの水瓜をことごとく平らげて、御夏さんの返事を待っていると、返事の来ないうちに腹が痛み出してね、うーんうーんと唸ったが少しも利目がないからまた御夏さんを呼んで今度は静岡に医者はあるまいかと聞いたら、御夏さんがまた、なんぼ静岡だって医者くらいはありますよと云って、天地玄黄とかいう千字文を盗んだような名前のドクトルを連れて来た。翌朝になって、腹の痛みも御蔭でとれてありがたいと、出立する十五分前に御夏さんを呼んで、昨日申し込んだ結婚事件の諾否を尋ねると、御夏さんは笑いながら静岡には水瓜もあります、御医者もありますが一夜作りの御嫁はありませんよと出て行ったきり顔を見せなかったそうだ。それから老梅君も僕同様失恋になって、図書館へは小便をするほか来なくなったんだって、考えると女は罪な者だよ」と云うと主人がいつになく引き受けて「本当にそうだ。せんだってミュッセの脚本を読んだらそのうちの人物が羅馬の詩人を引用してこんな事を云っていた。――羽より軽い者は塵である。塵より軽いものは風である。風より軽い者は女である。女より軽いものは無である。――よく穿ってるだろう。女なんか仕方がない」と妙なところで力味んで見せる。これを承った細君は承知しない。「女の軽いのがいけないとおっしゃるけれども、男の重いんだって好い事はないでしょう」「重いた、どんな事だ」「重いと云うな重い事ですわ、あなたのようなのです」「俺がなんで重い」「重いじゃありませんか」と妙な議論が始まる。迷亭は面白そうに聞いていたが、やがて口を開いて「そう赤くなって互に弁難攻撃をするところが夫婦の真相と云うものかな。どうも昔の夫婦なんてものはまるで無意味なものだったに違いない」とひやかすのだか賞めるのだか曖昧な事を言ったが、それでやめておいても好い事をまた例の調子で布衍して、下のごとく述べられた。
「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかったんだって云うが、それなら唖を女房にしていると同じ事で僕などは一向ありがたくない。やっぱり奥さんのようにあなたは重いじゃありませんかとか何とか云われて見たいね。同じ女房を持つくらいなら、たまには喧嘩の一つ二つしなくっちゃ退屈でしようがないからな。僕の母などと来たら、おやじの前へ出てはいとへいで持ち切っていたものだ。そうして二十年もいっしょになっているうちに寺参りよりほかに外へ出た事がないと云うんだから情けないじゃないか。もっとも御蔭で先祖代々の戒名はことごとく暗記している。男女間の交際だってそうさ、僕の小供の時分などは寒月君のように意中の人と合奏をしたり、霊の交換をやって朦朧体で出合って見たりする事はとうてい出来なかった」「御気の毒様で」と寒月君が頭を下げる。「実に御気の毒さ。しかもその時分の女が必ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとやかましく云いますがね。なに昔はこれより烈しかったんですよ」「そうでしょうか」と細君は真面目である。「そうですとも、出鱈目じゃない、ちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も覚えているかも知れんが僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」「僕はそんな事は覚えておらん」「君の国じゃどうだか知らないが、静岡じゃたしかにそうだった」「まさか」と細君が小さい声を出すと、「本当ですか」と寒月君が本当らしからぬ様子で聞く。
「本当さ。現に僕のおやじが価を付けた事がある。その時僕は何でも六つくらいだったろう。おやじといっしょに油町から通町へ散歩に出ると、向うから大きな声をして女の子はよしかな、女の子はよしかなと怒鳴ってくる。僕等がちょうど二丁目の角へ来ると、伊勢源と云う呉服屋の前でその男に出っ食わした。伊勢源と云うのは間口が十間で蔵が五つ戸前あって静岡第一の呉服屋だ。今度行ったら見て来給え。今でも歴然と残っている。立派なうちだ。その番頭が甚兵衛と云ってね。いつでも御袋が三日前に亡くなりましたと云うような顔をして帳場の所へ控えている。甚兵衛君の隣りには初さんという二十四五の若い衆が坐っているが、この初さんがまた雲照律師に帰依して三七二十一日の間蕎麦湯だけで通したと云うような青い顔をしている。初さんの隣りが長どんでこれは昨日火事で焚き出されたかのごとく愁然と算盤に身を凭している。長どんと併んで……」「君は呉服屋の話をするのか、人売りの話をするのか」「そうそう人売りの話しをやっていたんだっけ。実はこの伊勢源についてもすこぶる奇譚があるんだが、それは割愛して今日は人売りだけにしておこう」「人売りもついでにやめるがいい」「どうしてこれが二十世紀の今日と明治初年頃の女子の品性の比較について大なる参考になる材料だから、そんなに容易くやめられるものか――それで僕がおやじと伊勢源の前までくると、例の人売りがおやじを見て旦那女の子の仕舞物はどうです、安く負けておくから買っておくんなさいと云いながら天秤棒をおろして汗を拭いているのさ。見ると籠の中には前に一人後ろに一人両方とも二歳ばかりの女の子が入れてある。おやじはこの男に向って安ければ買ってもいいが、もうこれぎりかいと聞くと、へえ生憎今日はみんな売り尽してたった二つになっちまいました。どっちでも好いから取っとくんなさいなと女の子を両手で持って唐茄子か何ぞのようにおやじの鼻の先へ出すと、おやじはぽんぽんと頭を叩いて見て、ははあかなりな音だと云った。それからいよいよ談判が始まって散々価切った末おやじが、買っても好いが品はたしかだろうなと聞くと、ええ前の奴は始終見ているから間違はありませんがね後ろに担いでる方は、何しろ眼がないんですから、ことによるとひびが入ってるかも知れません。こいつの方なら受け合えない代りに価段を引いておきますと云った。僕はこの問答を未だに記憶しているんだがその時小供心に女と云うものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。――しかし明治三十八年の今日こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、眼を放して後ろへ担いだ方は険呑だなどと云う事も聞かないようだ。だから、僕の考ではやはり泰西文明の御蔭で女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう寒月君」
寒月君は返事をする前にまず鷹揚な咳払を一つして見せたが、それからわざと落ちついた低い声で、こんな観察を述べられた。「この頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買って頂戴な、あらおいや? などと自分で自分を売りにあるいていますから、そんな八百屋のお余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依托販売をやる必要はないですよ。人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。老人なんぞはいらぬ取越苦労をして何とかかとか云いますが、実際を云うとこれが文明の趨勢ですから、私などは大に喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表しているのです。買う方だって頭を敲いて品物は確かかなんて聞くような野暮は一人もいないんですからその辺は安心なものでさあ。またこの複雑な世の中に、そんな手数をする日にゃあ、際限がありませんからね。五十になったって六十になったって亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」寒月君は二十世紀の青年だけあって、大に当世流の考を開陳しておいて、敷島の煙をふうーと迷亭先生の顔の方へ吹き付けた。迷亭は敷島の煙くらいで辟易する男ではない。「仰せの通り方今の女生徒、令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来ていて、何でも男子に負けないところが敬服の至りだ。僕の近所の女学校の生徒などと来たらえらいものだぜ。筒袖を穿いて鉄棒へぶら下がるから感心だ。僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんびに古代希臘の婦人を追懐するよ」「また希臘か」と主人が冷笑するように云い放つと「どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発しているから仕方がない。美学者と希臘とはとうてい離れられないやね。――ことにあの色の黒い女学生が一心不乱に体操をしているところを拝見すると、僕はいつでも Agnodice の逸話を思い出すのさ」と物知り顔にしゃべり立てる。「またむずかしい名前が出て来ましたね」と寒月君は依然としてにやにやする。「Agnodice はえらい女だよ、僕は実に感心したね。当時亜典の法律で女が産婆を営業する事を禁じてあった。不便な事さ。Agnodice だってその不便を感ずるだろうじゃないか」「何だい、その――何とか云うのは」「女さ、女の名前だよ。この女がつらつら考えるには、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便極まる。どうかして産婆になりたいもんだ、産婆になる工夫はあるまいかと三日三晩手を拱いて考え込んだね。ちょうど三日目の暁方に、隣の家で赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いて、うんそうだと豁然大悟して、それから早速長い髪を切って男の着物をきて Hierophilus の講義をききに行った。首尾よく講義をきき終せて、もう大丈夫と云うところでもって、いよいよ産婆を開業した。ところが、奥さん流行りましたね。あちらでもおぎゃあと生れるこちらでもおぎゃあと生れる。それがみんな Agnodice の世話なんだから大変儲かった。ところが人間万事塞翁の馬、七転び八起き、弱り目に祟り目で、ついこの秘密が露見に及んでついに御上の御法度を破ったと云うところで、重き御仕置に仰せつけられそうになりました」「まるで講釈見たようです事」「なかなか旨いでしょう。ところが亜典の女連が一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行もそう木で鼻を括ったような挨拶も出来ず、ついに当人は無罪放免、これからはたとい女たりとも産婆営業勝手たるべき事と云う御布令さえ出てめでたく落着を告げました」「よくいろいろな事を知っていらっしゃるのね、感心ねえ」「ええ大概の事は知っていますよ。知らないのは自分の馬鹿な事くらいなものです。しかしそれも薄々は知ってます」「ホホホホ面白い事ばかり……」と細君相形を崩して笑っていると、格子戸のベルが相変らず着けた時と同じような音を出して鳴る。「おやまた御客様だ」と細君は茶の間へ引き下がる。細君と入れ違いに座敷へ這入って来たものは誰かと思ったらご存じの越智東風君であった。
ここへ東風君さえくれば、主人の家へ出入する変人はことごとく網羅し尽したとまで行かずとも、少なくとも吾輩の無聊を慰むるに足るほどの頭数は御揃になったと云わねばならぬ。これで不足を云っては勿体ない。運悪るくほかの家へ飼われたが最後、生涯人間中にかかる先生方が一人でもあろうとさえ気が付かずに死んでしまうかも知れない。幸にして苦沙弥先生門下の猫児となって朝夕虎皮の前に侍べるので先生は無論の事迷亭、寒月乃至東風などと云う広い東京にさえあまり例のない一騎当千の豪傑連の挙止動作を寝ながら拝見するのは吾輩にとって千載一遇の光栄である。御蔭様でこの暑いのに毛袋でつつまれていると云う難儀も忘れて、面白く半日を消光する事が出来るのは感謝の至りである。どうせこれだけ集まれば只事ではすまない。何か持ち上がるだろうと襖の陰から謹んで拝見する。
「どうもご無沙汰を致しました。しばらく」と御辞儀をする東風君の顔を見ると、先日のごとくやはり奇麗に光っている。頭だけで評すると何か緞帳役者のようにも見えるが、白い小倉の袴のゴワゴワするのを御苦労にも鹿爪らしく穿いているところは榊原健吉の内弟子としか思えない。従って東風君の身体で普通の人間らしいところは肩から腰までの間だけである。「いや暑いのに、よく御出掛だね。さあずっと、こっちへ通りたまえ」と迷亭先生は自分の家らしい挨拶をする。「先生には大分久しく御目にかかりません」「そうさ、たしかこの春の朗読会ぎりだったね。朗読会と云えば近頃はやはり御盛かね。その後御宮にゃなりませんか。あれは旨かったよ。僕は大に拍手したぜ、君気が付いてたかい」「ええ御蔭で大きに勇気が出まして、とうとうしまいまで漕ぎつけました」「今度はいつ御催しがありますか」と主人が口を出す。「七八両月は休んで九月には何か賑やかにやりたいと思っております。何か面白い趣向はございますまいか」「さよう」と主人が気のない返事をする。「東風君僕の創作を一つやらないか」と今度は寒月君が相手になる。「君の創作なら面白いものだろうが、一体何かね」「脚本さ」と寒月君がなるべく押しを強く出ると、案のごとく、三人はちょっと毒気をぬかれて、申し合せたように本人の顔を見る。「脚本はえらい。喜劇かい悲劇かい」と東風君が歩を進めると、寒月先生なお澄し返って「なに喜劇でも悲劇でもないさ。近頃は旧劇とか新劇とか大部やかましいから、僕も一つ新機軸を出して俳劇と云うのを作って見たのさ」「俳劇たどんなものだい」「俳句趣味の劇と云うのを詰めて俳劇の二字にしたのさ」と云うと主人も迷亭も多少煙に捲かれて控えている。「それでその趣向と云うのは?」と聞き出したのはやはり東風君である。「根が俳句趣味からくるのだから、あまり長たらしくって、毒悪なのはよくないと思って一幕物にしておいた」「なるほど」「まず道具立てから話すが、これも極簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏を一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人が独り言のように心配した。「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛り付けておくんです。でその下へ行水盥を出しましてね。美人が横向きになって手拭を使っているんです」「そいつは少しデカダンだね。第一誰がその女になるんだい」と迷亭が聞く。「何これもすぐ出来ます。美術学校のモデルを雇ってくるんです」「そりゃ警視庁がやかましく云いそうだな」と主人はまた心配している。「だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。そんな事をとやかく云った日にゃ学校で裸体画の写生なんざ出来っこありません」「しかしあれは稽古のためだから、ただ見ているのとは少し違うよ」「先生方がそんな事を云った日には日本もまだ駄目です。絵画だって、演劇だって、おんなじ芸術です」と寒月君大いに気焔を吹く。「まあ議論はいいが、それからどうするのだい」と東風君、ことによると、やる了見と見えて筋を聞きたがる。「ところへ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い灯心入りの帽子を被って、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴と云うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達見たようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうだろう、こう云う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方がよほどいいぜ」東風君は何だか物足らぬと云う顔付で「あんまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」と真面目に答える。今まで比較的おとなしくしていた迷亭はそういつまでもだまっているような男ではない。「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。上田敏君の説によると俳味とか滑稽とか云うものは消極的で亡国の音だそうだが、敏君だけあってうまい事を云ったよ。そんなつまらない物をやって見給え。それこそ上田君から笑われるばかりだ。第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。失礼だが寒月君はやはり実験室で珠を磨いてる方がいい。俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって、亡国の音じゃ駄目だ」寒月君は少々憤として、「そんなに消極的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」どっちでも構わん事を弁解しかける。「虚子がですね。虚子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕えて女に惚れさしたところが大に積極的だろうと思います」「こりゃ新説だね。是非御講釈を伺がいましょう」「理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと云うのは不合理でしょう」「ごもっとも」「その不合理な事を無雑作に言い放って少しも無理に聞えません」「そうかしら」と主人が疑った調子で割り込んだが寒月は一向頓着しない。「なぜ無理に聞えないかと云うと、これは心理的に説明するとよく分ります。実を云うと惚れるとか惚れないとか云うのは俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと云う訳じゃない、必竟自分が惚れているんでさあ。虚子自身が美しい女の行水しているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく参ってるなと癇違いをしたのです。癇違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積極的なところなんです。自分だけ感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極主義じゃありませんか。どうです先生」「なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違いない。説明だけは積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人はたしかに消極になるよ。ねえ東風君」「へえどうも消極過ぎるように思います」と真面目な顔をして答えた。
主人は少々談話の局面を展開して見たくなったと見えて、「どうです、東風さん、近頃は傑作もありませんか」と聞くと東風君は「いえ、別段これと云って御目にかけるほどのものも出来ませんが、近日詩集を出して見ようと思いまして――稿本を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」と懐から紫の袱紗包を出して、その中から五六十枚ほどの原稿紙の帳面を取り出して、主人の前に置く。主人はもっともらしい顔をして拝見と云って見ると第一頁に
世の人に似ずあえかに見え給う
富子嬢に捧ぐ
と二行にかいてある。主人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一頁を無言のまま眺めているので、迷亭は横合から「何だい新体詩かね」と云いながら覗き込んで「やあ、捧げたね。東風君、思い切って富子嬢に捧げたのはえらい」としきりに賞める。主人はなお不思議そうに「東風さん、この富子と云うのは本当に存在している婦人なのですか」と聞く。「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ招待した婦人の一人です。ついこの御近所に住んでおります。実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが、生憎先月から大磯へ避暑に行って留守でした」と真面目くさって述べる。「苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。そんな顔をしないで、早く傑作でも朗読するさ。しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。このあえかにと云う雅言は全体何と言う意味だと思ってるかね」「蚊弱いとかたよわくと云う字だと思います」「なるほどそうも取れん事はないが本来の字義を云うと危う気にと云う事だぜ。だから僕ならこうは書かないね」「どう書いたらもっと詩的になりましょう」「僕ならこうさ。世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下に捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだが鼻の下があるのとないのとでは大変感じに相違があるよ」「なるほど」と東風君は解しかねたところを無理に納得した体にもてなす。
主人は無言のままようやく一頁をはぐっていよいよ巻頭第一章を読み出す。
倦んじて薫ずる香裏に君の
霊か相思の煙のたなびき
おお我、ああ我、辛きこの世に
あまく得てしか熱き口づけ
「これは少々僕には解しかねる」と主人は嘆息しながら迷亭に渡す。「これは少々振い過ぎてる」と迷亭は寒月に渡す。寒月は「なああるほど」と云って東風君に返す。
「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた。東風君はこれだけではまだ弁じ足りない。「送籍は吾々仲間のうちでも取除けですが、私の詩もどうか心持ちその気で読んでいただきたいので。ことに御注意を願いたいのはからきこの世と、あまき口づけと対をとったところが私の苦心です」「よほど苦心をなすった痕迹が見えます」「あまいとからいと反照するところなんか十七味調唐辛子調で面白い。全く東風君独特の伎倆で敬々服々の至りだ」としきりに正直な人をまぜ返して喜んでいる。
主人は何と思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出てくる。「東風君の御作も拝見したから、今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。「天然居士の墓碑銘ならもう二三遍拝聴したよ」「まあ、だまっていなさい。東風さん、これは決して得意のものではありませんが、ほんの座興ですから聴いて下さい」「是非伺がいましょう」「寒月君もついでに聞き給え」「ついででなくても聴きますよ。長い物じゃないでしょう」「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。
「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」
「起し得て突兀ですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」
主人は一結杳然と云うつもりで読み終ったが、さすがの名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのか分りかねるので、三人はまだあとがある事と思って待っている。いくら待っていても、うんとも、すんとも、云わないので、最後に寒月が「それぎりですか」と聞くと主人は軽く「うん」と答えた。うんは少し気楽過ぎる。
不思議な事に迷亭はこの名文に対して、いつものようにあまり駄弁を振わなかったが、やがて向き直って、「君も短篇を集めて一巻として、そうして誰かに捧げてはどうだ」と聞いた。主人は事もなげに「君に捧げてやろうか」と聴くと迷亭は「真平だ」と答えたぎり、先刻細君に見せびらかした鋏をちょきちょき云わして爪をとっている。寒月君は東風君に向って「君はあの金田の令嬢を知ってるのかい」と尋ねる。「この春朗読会へ招待してから、懇意になってそれからは始終交際をしている。僕はあの令嬢の前へ出ると、何となく一種の感に打たれて、当分のうちは詩を作っても歌を詠んでも愉快に興が乗って出て来る。この集中にも恋の詩が多いのは全くああ云う異性の朋友からインスピレーションを受けるからだろうと思う。それで僕はあの令嬢に対しては切実に感謝の意を表しなければならんからこの機を利用して、わが集を捧げる事にしたのさ。昔しから婦人に親友のないもので立派な詩をかいたものはないそうだ」「そうかなあ」と寒月君は顔の奥で笑いながら答えた。いくら駄弁家の寄合でもそう長くは続かんものと見えて、談話の火の手は大分下火になった。吾輩も彼等の変化なき雑談を終日聞かねばならぬ義務もないから、失敬して庭へ蟷螂を探しに出た。梧桐の緑を綴る間から西に傾く日が斑らに洩れて、幹にはつくつく法師が懸命にないている。晩はことによると一雨かかるかも知れない。
七
吾輩は近頃運動を始めた。猫の癖に運動なんて利いた風だと一概に冷罵し去る手合にちょっと申し聞けるが、そう云う人間だってつい近年までは運動の何者たるを解せずに、食って寝るのを天職のように心得ていたではないか。無事是貴人とか称えて、懐手をして座布団から腐れかかった尻を離さざるをもって旦那の名誉と脂下って暮したのは覚えているはずだ。運動をしろの、牛乳を飲めの冷水を浴びろの、海の中へ飛び込めの、夏になったら山の中へ籠って当分霞を食えのとくだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染しした輓近の病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ。もっとも吾輩は去年生れたばかりで、当年とって一歳だから人間がこんな病気に罹り出した当時の有様は記憶に存しておらん、のみならずその砌りは浮世の風中にふわついておらなかったに相違ないが、猫の一年は人間の十年に懸け合うと云ってもよろしい。吾等の寿命は人間より二倍も三倍も短いに係らず、その短日月の間に猫一疋の発達は十分仕るところをもって推論すると、人間の年月と猫の星霜を同じ割合に打算するのははなはだしき誤謬である。第一、一歳何ヵ月に足らぬ吾輩がこのくらいの見識を有しているのでも分るだろう。主人の第三女などは数え年で三つだそうだが、智識の発達から云うと、いやはや鈍いものだ。泣く事と、寝小便をする事と、おっぱいを飲む事よりほかに何にも知らない。世を憂い時を憤る吾輩などに較べると、からたわいのない者だ。それだから吾輩が運動、海水浴、転地療養の歴史を方寸のうちに畳み込んでいたって毫も驚くに足りない。これしきの事をもし驚ろく者があったなら、それは人間と云う足の二本足りない野呂間に極っている。人間は昔から野呂間である。であるから近頃に至って漸々運動の功能を吹聴したり、海水浴の利益を喋々して大発明のように考えるのである。吾輩などは生れない前からそのくらいな事はちゃんと心得ている。第一海水がなぜ薬になるかと云えばちょっと海岸へ行けばすぐ分る事じゃないか。あんな広い所に魚が何疋おるか分らないが、あの魚が一疋も病気をして医者にかかった試しがない。みんな健全に泳いでいる。病気をすれば、からだが利かなくなる。死ねば必ず浮く。それだから魚の往生をあがると云って、鳥の薨去を、落ちると唱え、人間の寂滅をごねると号している。洋行をして印度洋を横断した人に君、魚の死ぬところを見た事がありますかと聞いて見るがいい、誰でもいいえと答えるに極っている。それはそう答える訳だ。いくら往復したって一匹も波の上に今呼吸を引き取った――呼吸ではいかん、魚の事だから潮を引き取ったと云わなければならん――潮を引き取って浮いているのを見た者はないからだ。あの渺々たる、あの漫々たる、大海を日となく夜となく続けざまに石炭を焚いて探がしてあるいても古往今来一匹も魚が上がっておらんところをもって推論すれば、魚はよほど丈夫なものに違ないと云う断案はすぐに下す事が出来る。それならなぜ魚がそんなに丈夫なのかと云えばこれまた人間を待ってしかる後に知らざるなりで、訳はない。すぐ分る。全く潮水を呑んで始終海水浴をやっているからだ。海水浴の功能はしかく魚に取って顕著である。魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病即席全快と大袈裟な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛けるつもりでいる。但し今はいけない。物には時機がある。御維新前の日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだごとく、今日の猫はいまだ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に遭遇しておらん。せいては事を仕損んずる、今日のように築地へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間は無暗に飛び込む訳には行かん。進化の法則で吾等猫輩の機能が狂瀾怒濤に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が死んだと云う代りに猫が上がったと云う語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。
海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極めた。どうも二十世紀の今日運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做されている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲とくると真逆かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差し支えはない。物には両面がある、両端がある。両端を叩いて黒白の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸を逆かさまにして見ると寸方となるところに愛嬌がある。天の橋立を股倉から覗いて見るとまた格別な趣が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく云った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向不思議はない。ただ猫が運動するのを利いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う訳に行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは鮪の切身を啣えて馳け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力に順って、大地を横行するのは、あまり単簡で興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖を汚がす者だろうと思う。勿論ただの運動でもある刺激の下にはやらんとは限らん。鰹節競争、鮭探しなどは結構だがこれは肝心の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然として没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。吾輩はいろいろ考えた。台所の廂から家根に飛び上がる方、家根の天辺にある梅花形の瓦の上に四本足で立つ術、物干竿を渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつる滑べって爪が立たない。後ろから不意に小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動の一だが滅多にやるとひどい目に逢うから、高々月に三度くらいしか試みない。紙袋を頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりではなはだ興味の乏しい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。次には書物の表紙を爪で引き掻く事、――これは主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる旧式運動なる者である。新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。第一に蟷螂狩り。――蟷螂狩りは鼠狩りほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。夏の半から秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。その方法を云うとまず庭へ出て、一匹の蟷螂をさがし出す。時候がいいと一匹や二匹見付け出すのは雑作もない。さて見付け出した蟷螂君の傍へはっと風を切って馳けて行く。するとすわこそと云う身構をして鎌首をふり上げる。蟷螂でもなかなか健気なもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるから面白い。振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。振り上げた首は軟かいからぐにゃり横へ曲る。この時の蟷螂君の表情がすこぶる興味を添える。おやと云う思い入れが充分ある。ところを一足飛びに君の後ろへ廻って今度は背面から君の羽根を軽く引き掻く。あの羽根は平生大事に畳んであるが、引き掻き方が烈しいと、ぱっと乱れて中から吉野紙のような薄色の下着があらわれる。君は夏でも御苦労千万に二枚重ねで乙に極まっている。この時君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向ってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本参る。これだけ参ると眼識のある蟷螂なら必ず逃げ出す。それを我無洒落に向ってくるのはよほど無教育な野蛮的蟷螂である。もし相手がこの野蛮な振舞をやると、向って来たところを覘いすまして、いやと云うほど張り付けてやる。大概は二三尺飛ばされる者である。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二三度飛鳥のごとく廻ってくる。蟷螂君はまだ五六寸しか逃げ延びておらん。もう吾輩の力量を知ったから手向いをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げ惑うのみである。しかし吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根を振って一大活躍を試みる事がある。元来蟷螂の羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長く出来上がったものだが、聞いて見ると全く装飾用だそうで、人間の英語、仏語、独逸語のごとく毫も実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところが吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。名前は活躍だが事実は地面の上を引きずってあるくと云うに過ぎん。こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだから仕方がない。御免蒙ってたちまち前面へ馳け抜ける。君は惰性で急廻転が出来ないからやはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時蟷螂君は必ず羽根を広げたまま仆れる。その上をうんと前足で抑えて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまた抑える。七擒七縦孔明の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へ啣えて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまり旨い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。蟷螂狩りに次いで蝉取りと云う運動をやる。単に蝉と云ったところが同じ物ばかりではない。人間にも油野郎、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくて行かん。みんみんは横風で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。八つ口の綻びから秋風が断わりなしに膚を撫でてはっくしょ風邪を引いたと云う頃熾に尾を掉り立ててなく。善く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と云う。ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上に転がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず蟻がついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捕えるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫に優るところはこんなところに存するので、人間の自ら誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り運動上はどっちにしても差し支えはない。ただ声をしるべに木を上って行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的智識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては大分吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の末孫たる人間にもなかなか侮るべからざる手合がいる。元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の恥辱とは思わんけれども、蝉取り運動上には少なからざる不便を与える。幸に爪と云う利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。蟷螂君と違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何の択むところなしと云う悲運に際会する事がないとも限らん。最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼を覘ってしょぐってくるようだ。逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。飛ぶ間際に溺りを仕るのは一体どう云う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると烏賊の墨を吐き、ベランメーの刺物を見せ、主人が羅甸語を弄する類と同じ綱目に入るべき事項となる。これも蝉学上忽かせにすべからざる問題である。充分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐である。漢名を梧桐と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆団扇くらいな大さであるから、彼等が生い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずと云う俗謡はとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉になっているから、ここで一休息して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。漸々二叉に到着する時分には満樹寂として片声をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見廻わしても、耳をどう振っても蝉気がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、叉の上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間にか眠くなって、つい黒甜郷裡に遊んだ。おやと思って眼が醒めたら、二叉の黒甜郷裡から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に啣えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方死んでいる。いくらじゃらしても引っ掻いても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい君が一生懸命に尻尾を延ばしたり縮ましたりしているところを、わっと前足で抑える時にある。この時つくつく君は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑える度にいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免を蒙って口の内へ頬張ってしまう。蝉によると口の内へ這入ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる運動は松滑りである。これは長くかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと云うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐にて最明寺の御馳走をしてから以来今日に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば爪懸りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成に馳け上る。馳け上っておいて馳け下がる。馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一は上ったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな了見では、どうせ降りるのだから下向に馳け下りる方が楽だと思うだろう。それが間違ってる。君等は義経が鵯越を落としたことだけを心得て、義経でさえ下を向いて下りるのだから猫なんぞは無論下た向きでたくさんだと思うのだろう。そう軽蔑するものではない。猫の爪はどっちへ向いて生えていると思う。みんな後ろへ折れている。それだから鳶口のように物をかけて引き寄せる事は出来るが、逆に押し出す力はない。今吾輩が松の木を勢よく馳け登ったとする。すると吾輩は元来地上の者であるから、自然の傾向から云えば吾輩が長く松樹の巓に留まるを許さんに相違ない、ただおけば必ず落ちる。しかし手放しで落ちては、あまり早過ぎる。だから何等かの手段をもってこの自然の傾向を幾分かゆるめなければならん。これ即ち降りるのである。落ちるのと降りるのは大変な違のようだが、その実思ったほどの事ではない。落ちるのを遅くすると降りるので、降りるのを早くすると落ちる事になる。落ちると降りるのは、ちとりの差である。吾輩は松の木の上から落ちるのはいやだから、落ちるのを緩めて降りなければならない。即ちあるものをもって落ちる速度に抵抗しなければならん。吾輩の爪は前申す通り皆後ろ向きであるから、もし頭を上にして爪を立てればこの爪の力は悉く、落ちる勢に逆って利用出来る訳である。従って落ちるが変じて降りるになる。実に見易き道理である。しかるにまた身を逆にして義経流に松の木越をやって見給え。爪はあっても役には立たん。ずるずる滑って、どこにも自分の体量を持ち答える事は出来なくなる。ここにおいてかせっかく降りようと企てた者が変化して落ちる事になる。この通り鵯越はむずかしい。猫のうちでこの芸が出来る者は恐らく吾輩のみであろう。それだから吾輩はこの運動を称して松滑りと云うのである。最後に垣巡りについて一言する。主人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。椽側と平行している一片は八九間もあろう。左右は双方共四間に過ぎん。今吾輩の云った垣巡りと云う運動はこの垣の上を落ちないように一周するのである。これはやり損う事もままあるが、首尾よく行くとお慰になる。ことに所々に根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休息に便宜がある。今日は出来がよかったので朝から昼までに三返やって見たが、やるたびにうまくなる。うまくなる度に面白くなる。とうとう四返繰り返したが、四返目に半分ほど巡りかけたら、隣の屋根から烏が三羽飛んで来て、一間ばかり向うに列を正してとまった。これは推参な奴だ。人の運動の妨をする、ことにどこの烏だか籍もない分在で、人の塀へとまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおい除きたまえと声をかけた。真先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは主人の庭を眺めている。三羽目は嘴を垣根の竹で拭いている。何か食って来たに違ない。吾輩は返答を待つために、彼等に三分間の猶予を与えて、垣の上に立っていた。烏は通称を勘左衛門と云うそうだが、なるほど勘左衛門だ。吾輩がいくら待ってても挨拶もしなければ、飛びもしない。吾輩は仕方がないから、そろそろ歩き出した。すると真先の勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。この野郎! 地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち退くのを待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。従って気に入ればいつまでも逗留するだろう。こっちはこれで四返目だたださえ大分労れている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こんな黒装束が、三個も前途を遮っては容易ならざる不都合だ。いよいよとなれば自ら運動を中止して垣根を下りるより仕方がない。面倒だから、いっそさよう仕ろうか、敵は大勢の事ではあるし、ことにはあまりこの辺には見馴れぬ人体である。口嘴が乙に尖がって何だか天狗の啓し子のようだ。どうせ質のいい奴でないには極っている。退却が安全だろう、あまり深入りをして万一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると左向をした烏が阿呆と云った。次のも真似をして阿呆と云った。最後の奴は御鄭寧にも阿呆阿呆と二声叫んだ。いかに温厚なる吾輩でもこれは看過出来ない。第一自己の邸内で烏輩に侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかかわる。名前はまだないから係わりようがなかろうと云うなら体面に係わる。決して退却は出来ない。諺にも烏合の衆と云うから三羽だって存外弱いかも知れない。進めるだけ進めと度胸を据えて、のそのそ歩き出す。烏は知らん顔をして何か御互に話をしている様子だ。いよいよ肝癪に障る。垣根の幅がもう五六寸もあったらひどい目に合せてやるんだが、残念な事にはいくら怒っても、のそのそとしかあるかれない。ようやくの事先鋒を去る事約五六寸の距離まで来てもう一息だと思うと、勘左衛門は申し合せたように、いきなり羽搏をして一二尺飛び上がった。その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踏み外ずして、すとんと落ちた。これはしくじったと垣根の下から見上げると、三羽共元の所にとまって上から嘴を揃えて吾輩の顔を見下している。図太い奴だ。睨めつけてやったが一向利かない。背を丸くして、少々唸ったが、ますます駄目だ。俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、吾輩が彼等に向って示す怒りの記号も何等の反応を呈出しない。考えて見ると無理のないところだ。吾輩は今まで彼等を猫として取り扱っていた。それが悪るい。猫ならこのくらいやればたしかに応えるのだが生憎相手は烏だ。烏の勘公とあって見れば致し方がない。実業家が主人苦沙弥先生を圧倒しようとあせるごとく、西行に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公が糞をひるようなものである。機を見るに敏なる吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと椽側へ引き上げた。もう晩飯の時刻だ。運動もいいが度を過ごすと行かぬ者で、からだ全体が何となく緊りがない、ぐたぐたの感がある。のみならずまだ秋の取り付きで運動中に照り付けられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。毛穴から染み出す汗が、流れればと思うのに毛の根に膏のようにねばり付く。背中がむずむずする。汗でむずむずするのと蚤が這ってむずむずするのは判然と区別が出来る。口の届く所なら噛む事も出来る、足の達する領分は引き掻く事も心得にあるが、脊髄の縦に通う真中と来たら自分の及ぶ限でない。こう云う時には人間を見懸けて矢鱈にこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一を択ばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。人間は愚なものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の吾輩に対して出す声だ。吾輩を目安にして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるから撫でられ声で膝の傍へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが為すままに任せるのみか折々は頭さえ撫でてくれるものだ。しかるに近来吾輩の毛中にのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので滅多に寄り添うと、必ず頸筋を持って向うへ抛り出される。わずかに眼に入るか入らぬか、取るにも足らぬ虫のために愛想をつかしたと見える。手を翻せば雨、手を覆せば雲とはこの事だ。高がのみの千疋や二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が俄然豹変したので、いくら痒ゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって松皮摩擦法をやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろうかとまた椽側から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心付いた。と云うのはほかでもない。松には脂がある。この脂たるすこぶる執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付けようものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。しかのみならず五本の毛へこびりつくが早いか、十本に蔓延する。十本やられたなと気が付くと、もう三十本引っ懸っている。吾輩は淡泊を愛する茶人的猫である。こんな、しつこい、毒悪な、ねちねちした、執念深い奴は大嫌だ。たとい天下の美猫といえどもご免蒙る。いわんや松脂においてをやだ。車屋の黒の両眼から北風に乗じて流れる目糞と択ぶところなき身分をもって、この淡灰色の毛衣を大なしにするとは怪しからん。少しは考えて見るがいい。といったところできゃつなかなか考える気遣はない。あの皮のあたりへ行って背中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるに極っている。こんな無分別な頓痴奇を相手にしては吾輩の顔に係わるのみならず、引いて吾輩の毛並に関する訳だ。いくら、むずむずしたって我慢するよりほかに致し方はあるまい。しかしこの二方法共実行出来んとなるとはなはだ心細い。今において一工夫しておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気に罹るかも知れない。何か分別はあるまいかなと、後と足を折って思案したが、ふと思い出した事がある。うちの主人は時々手拭と石鹸をもって飄然といずれへか出て行く事がある、三四十分して帰ったところを見ると彼の朦朧たる顔色が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。主人のような汚苦しい男にこのくらいな影響を与えるなら吾輩にはもう少し利目があるに相違ない。吾輩はただでさえこのくらいな器量だから、これより色男になる必要はないようなものの、万一病気に罹って一歳何が月で夭折するような事があっては天下の蒼生に対して申し訳がない。聞いて見るとこれも人間のひま潰しに案出した洗湯なるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだから碌なものでないには極っているがこの際の事だから試しに這入って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの洪量があるだろうか。これが疑問である。主人がすまして這入るくらいのところだから、よもや吾輩を断わる事もなかろうけれども万一お気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは一先ず容子を見に行くに越した事はない。見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭を啣えて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。
横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立して先から薄い煙を吐いている。これ即ち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯とか未練とか云うが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが嫉妬半分に囃し立てる繰り言である。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。紳士養成方の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の猫だからこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴を食ったり、獣を食ったりいろいろの悪もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは不憫である。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓があって、そのそとに丸い小桶が三角形即ちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒とした。小桶の南側は四五尺の間板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂えの上等である。よろしいと云いながらひらりと身を躍らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いと云って、未だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分乃至四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂と云うものを見た事がないなら、早く見るがいい。親の死目に逢わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観はまたとあるまい。
何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚かるほどの奇観だ。この硝子窓の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。台湾の生蕃である。二十世紀のアダムである。そもそも衣装の歴史を繙けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。十八世紀の頃大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女共肩から足まで着物でかくしたくらいである。今を去る事六十年前これも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。皮を着た猿の子分ではないと思っていた。人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体を失している。いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。仮令模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから妾等は出席御断わり申すと云われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。米舂にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具である。と云うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布を三十五反八分七買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにしてようやくの事滞りなく式をすましたと云う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから今日に至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体は希臘、羅馬の遺風が文芸復興時代の淫靡の風に誘われてから流行りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常から裸体を見做れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは毫も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかと云うくらいだから独逸や英吉利で裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまらないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。一たび服装の動物となった後に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、獣と思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。猫に劣る獣と認定していいのである。美しい? 美しくても構わんから、美しい獣と見做せばいいのである。こう云うと西洋婦人の礼服を見たかと云うものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。怪しからん事だ。十四世紀頃までは彼等の出で立ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それがなぜこんな下等な軽術師流に転化してきたかは面倒だから述べない。知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは得々たるにも係わらず内心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的作用によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。それが口惜しければ日中でも肩と胸と腕を出していて見るがいい。裸体信者だってその通りだ。それほど裸体がいいものなら娘を裸体にして、ついでに自分も裸になって上野公園を散歩でもするがいい、できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出懸けるではないか。その因縁を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると云うまでの事だろう。西洋人は強いから無理でも馬鹿気ていても真似なければやり切れないのだろう。長いものには捲かれろ、強いものには折れろ、重いものには圧されろと、そうれろ尽しでは気が利かんではないか。気が利かんでも仕方がないと云うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。学問といえどもその通りだがこれは服装に関係がない事だから以下略とする。
衣服はかくのごとく人間にも大事なものである。人間が衣服か、衣服が人間かと云うくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物に邂逅したようだ。化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身が大に困却する事になるばかりだ。その昔し自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸である。もし人間の本性が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰も彼も同じでは勉強する甲斐がない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっと魂消る物をからだにつけて見たい。何か工夫はあるまいかと十年間考えてようやく猿股を発明してすぐさまこれを穿いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが今日の車夫の先祖である。単簡なる猿股を発明するのに十年の長日月を費やしたのはいささか異な感もあるが、それは今日から古代に溯って身を蒙昧の世界に置いて断定した結論と云うもので、その当時にこれくらいな大発明はなかったのである。デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子にでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたって車夫の智慧には出来過ぎると云わねばなるまい。さあ猿股が出来ると世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天下の大道を我物顔に横行濶歩するのを憎らしいと思って負けん気の化物が六年間工夫して羽織と云う無用の長物を発明した。すると猿股の勢力は頓に衰えて、羽織全盛の時代となった。八百屋、生薬屋、呉服屋は皆この大発明家の末流である。猿股期、羽織期の後に来るのが袴期である。これは、何だ羽織の癖にと癇癪を起した化物の考案になったもので、昔の武士今の官員などは皆この種属である。かように化物共がわれもわれもと異を衒い新を競って、ついには燕の尾にかたどった畸形まで出現したが、退いてその由来を案ずると、何も無理矢理に、出鱈目に、偶然に、漫然に持ち上がった事実では決してない。皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の凝ってさまざまの新形となったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りに被っているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。自然は真空を忌むごとく、人間は平等を嫌うと云う事だ。すでに平等を嫌ってやむを得ず衣服を骨肉のごとくかようにつけ纏う今日において、この本質の一部分たる、これ等を打ちやって、元の杢阿弥の公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじても帰る事は到底出来ない。帰った連中を開明人の目から見れば化物である。仮令世界何億万の人口を挙げて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はないと安心してもやっぱり駄目である。世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。赤裸は赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。
しかるに今吾輩が眼下に見下した人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織も乃至袴もことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を衆目環視の裡に露出して平々然と談笑を縦まにしている。吾輩が先刻一大奇観と云ったのはこの事である。吾輩は文明の諸君子のためにここに謹んでその一般を紹介するの栄を有する。
何だかごちゃごちゃしていて何にから記述していいか分らない。化物のやる事には規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず湯槽から述べよう。湯槽だか何だか分らないが、大方湯槽というものだろうと思うばかりである。幅が三尺くらい、長は一間半もあるか、それを二つに仕切って一つには白い湯が這入っている。何でも薬湯とか号するのだそうで、石灰を溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁っているのではない。膏ぎって、重た気に濁っている。よく聞くと腐って見えるのも不思議はない、一週間に一度しか水を易えないのだそうだ。その隣りは普通一般の湯の由だがこれまたもって透明、瑩徹などとは誓って申されない。天水桶を攪き混ぜたくらいの価値はその色の上において充分あらわれている。これからが化物の記述だ。大分骨が折れる。天水桶の方に、突っ立っている若造が二人いる。立ったまま、向い合って湯をざぶざぶ腹の上へかけている。いい慰みだ。双方共色の黒い点において間然するところなきまでに発達している。この化物は大分逞ましいなと見ていると、やがて一人が手拭で胸のあたりを撫で廻しながら「金さん、どうも、ここが痛んでいけねえが何だろう」と聞くと金さんは「そりゃ胃さ、胃て云う奴は命をとるからね。用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。「だってこの左の方だぜ」た左肺の方を指す。「そこが胃だあな。左が胃で、右が肺だよ」「そうかな、おらあまた胃はここいらかと思った」と今度は腰の辺を叩いて見せると、金さんは「そりゃ疝気だあね」と云った。ところへ二十五六の薄い髯を生やした男がどぶんと飛び込んだ。すると、からだに付いていた石鹸が垢と共に浮きあがる。鉄気のある水を透かして見た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭の禿げた爺さんが五分刈を捕えて何か弁じている。双方共頭だけ浮かしているのみだ。「いやこう年をとっては駄目さね。人間もやきが廻っちゃ若い者には叶わないよ。しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね」「旦那なんか丈夫なものですぜ。そのくらい元気がありゃ結構だ」「元気もないのさ。ただ病気をしないだけさ。人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね」「へえ、そんなに生きるもんですか」「生きるとも百二十までは受け合う。御維新前牛込に曲淵と云う旗本があって、そこにいた下男は百三十だったよ」「そいつは、よく生きたもんですね」「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと云ってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。事によるとまだ生きてるかも知れない」と云いながら槽から上る。髯を生やしている男は雲母のようなものを自分の廻りに蒔き散らしながら独りでにやにや笑っていた。入れ代って飛び込んで来たのは普通一般の化物とは違って背中に模様画をほり付けている。岩見重太郎が大刀を振り翳して蟒を退治るところのようだが、惜しい事に未だ竣功の期に達せんので、蟒はどこにも見えない。従って重太郎先生いささか拍子抜けの気味に見える。飛び込みながら「箆棒に温るいや」と云った。するとまた一人続いて乗り込んだのが「こりゃどうも……もう少し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢する気色とも見えたが、重太郎先生と顔を見合せて「やあ親方」と挨拶をする。重太郎は「やあ」と云ったが、やがて「民さんはどうしたね」と聞く。「どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」「じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「そうかい、あの男も腹のよくねえ男だからね。――どう云うもんか人に好かれねえ、――どう云うものだか、――どうも人が信用しねえ。職人てえものは、あんなもんじゃねえが」「そうよ。民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ、頭が高けえんだ。それだからどうも信用されねえんだね」「本当によ。あれで一っぱし腕があるつもりだから、――つまり自分の損だあな」「白銀町にも古い人が亡くなってね、今じゃ桶屋の元さんと煉瓦屋の大将と親方ぐれえな者だあな。こちとらあこうしてここで生れたもんだが、民さんなんざあ、どこから来たんだか分りゃしねえ」「そうよ。しかしよくあれだけになったよ」「うん。どう云うもんか人に好かれねえ。人が交際わねえからね」と徹頭徹尾民さんを攻撃する。
天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な大入で、湯の中に人が這入ってると云わんより人の中に湯が這入ってると云う方が適当である。しかも彼等はすこぶる悠々閑々たる物で、先刻から這入るものはあるが出る物は一人もない。こう這入った上に、一週間もとめておいたら湯もよごれるはずだと感心してなおよく槽の中を見渡すと、左の隅に圧しつけられて苦沙弥先生が真赤になってすくんでいる。可哀そうに誰か路をあけて出してやればいいのにと思うのに誰も動きそうにもしなければ、主人も出ようとする気色も見せない。ただじっとして赤くなっているばかりである。これはご苦労な事だ。なるべく二銭五厘の湯銭を活用しようと云う精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く上がらんと湯気にあがるがと主思いの吾輩は窓の棚から少なからず心配した。すると主人の一軒置いて隣りに浮いてる男が八の字を寄せながら「これはちと利き過ぎるようだ、どうも背中の方から熱い奴がじりじり湧いてくる」と暗に列席の化物に同情を求めた。「なあにこれがちょうどいい加減です。薬湯はこのくらいでないと利きません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ這入ります」と自慢らしく説き立てるものがある。「一体この湯は何に利くんでしょう」と手拭を畳んで凸凹頭をかくした男が一同に聞いて見る。「いろいろなものに利きますよ。何でもいいてえんだからね。豪気だあね」と云ったのは瘠せた黄瓜のような色と形とを兼ね得たる顔の所有者である。そんなに利く湯なら、もう少しは丈夫そうになれそうなものだ。「薬を入れ立てより、三日目か四日目がちょうどいいようです。今日等は這入り頃ですよ」と物知り顔に述べたのを見ると、膨れ返った男である。これは多分垢肥りだろう。「飲んでも利きましょうか」とどこからか知らないが黄色い声を出す者がある。「冷えた後などは一杯飲んで寝ると、奇体に小便に起きないから、まあやって御覧なさい」と答えたのは、どの顔から出た声か分らない。
湯槽の方はこれぐらいにして板間を見渡すと、いるわいるわ絵にもならないアダムがずらりと並んで各勝手次第な姿勢で、勝手次第なところを洗っている。その中にもっとも驚ろくべきのは仰向けに寝て、高い明かり取を眺めているのと、腹這いになって、溝の中を覗き込んでいる両アダムである。これはよほど閑なアダムと見える。坊主が石壁を向いてしゃがんでいると後ろから、小坊主がしきりに肩を叩いている。これは師弟の関係上三介の代理を務めるのであろう。本当の三介もいる。風邪を引いたと見えて、このあついのにちゃんちゃんを着て、小判形の桶からざあと旦那の肩へ湯をあびせる。右の足を見ると親指の股に呉絽の垢擦りを挟んでいる。こちらの方では小桶を慾張って三つ抱え込んだ男が、隣りの人に石鹸を使え使えと云いながらしきりに長談議をしている。何だろうと聞いて見るとこんな事を言っていた。「鉄砲は外国から渡ったもんだね。昔は斬り合いばかりさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。和唐内の時にゃ無かったね。和唐内はやはり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変学のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それでその義経のむすこが大明を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借してくれろと云うと、三代様がそいつを留めておいて帰さねえ。――何とか云ったっけ。――何でも何とか云う使だ。――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎を見せたんだがね。その女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。……」何を云うのかさっぱり分らない。その後ろに二十五六の陰気な顔をした男が、ぼんやりして股の所を白い湯でしきりにたでている。腫物か何かで苦しんでいると見える。その横に年の頃は十七八で君とか僕とか生意気な事をべらべら喋舌ってるのはこの近所の書生だろう。そのまた次に妙な背中が見える。尻の中から寒竹を押し込んだように背骨の節が歴々と出ている。そうしてその左右に十六むさしに似たる形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤く爛れて周囲に膿をもっているのもある。こう順々に書いてくると、書く事が多過ぎて到底吾輩の手際にはその一斑さえ形容する事が出来ん。これは厄介な事をやり始めた者だと少々辟易していると入口の方に浅黄木綿の着物をきた七十ばかりの坊主がぬっと見われた。坊主は恭しくこれらの裸体の化物に一礼して「へい、どなた様も、毎日相変らずありがとう存じます。今日は少々御寒うございますから、どうぞ御緩くり――どうぞ白い湯へ出たり這入ったりして、ゆるりと御あったまり下さい。――番頭さんや、どうか湯加減をよく見て上げてな」とよどみなく述べ立てた。番頭さんは「おーい」と答えた。和唐内は「愛嬌ものだね。あれでなくては商買は出来ないよ」と大に爺さんを激賞した。吾輩は突然この異な爺さんに逢ってちょっと驚ろいたからこっちの記述はそのままにして、しばらく爺さんを専門に観察する事にした。爺さんはやがて今上り立ての四つばかりの男の子を見て「坊ちゃん、こちらへおいで」と手を出す。小供は大福を踏み付けたような爺さんを見て大変だと思ったか、わーっと悲鳴を揚げてなき出す。爺さんは少しく不本意の気味で「いや、御泣きか、なに? 爺さんが恐い? いや、これはこれは」と感嘆した。仕方がないものだからたちまち機鋒を転じて、小供の親に向った。「や、これは源さん。今日は少し寒いな。ゆうべ、近江屋へ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸の潜りの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずに行んだげな。御巡りさんか夜番でも見えたものであろう」と大に泥棒の無謀を憫笑したがまた一人を捉らまえて「はいはい御寒う。あなた方は、御若いから、あまりお感じにならんかの」と老人だけにただ一人寒がっている。
しばらくは爺さんの方へ気を取られて他の化物の事は全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた主人さえ記憶の中から消え去った時突然流しと板の間の中間で大きな声を出すものがある。見ると紛れもなき苦沙弥先生である。主人の声の図抜けて大いなるのと、その濁って聴き苦しいのは今日に始まった事ではないが場所が場所だけに吾輩は少からず驚ろいた。これは正しく熱湯の中に長時間のあいだ我慢をして浸っておったため逆上したに相違ないと咄嗟の際に吾輩は鑑定をつけた。それも単に病気の所為なら咎むる事もないが、彼は逆上しながらも充分本心を有しているに相違ない事は、何のためにこの法外の胴間声を出したかを話せばすぐわかる。彼は取るにも足らぬ生意気書生を相手に大人気もない喧嘩を始めたのである。「もっと下がれ、おれの小桶に湯が這入っていかん」と怒鳴るのは無論主人である。物は見ようでどうでもなるものだから、この怒号をただ逆上の結果とばかり判断する必要はない。万人のうちに一人くらいは高山彦九郎が山賊を叱したようだくらいに解釈してくれるかも知れん。当人自身もそのつもりでやった芝居かも分らんが、相手が山賊をもって自らおらん以上は予期する結果は出て来ないに極っている。書生は後ろを振り返って「僕はもとからここにいたのです」とおとなしく答えた。これは尋常の答で、ただその地を去らぬ事を示しただけが主人の思い通りにならんので、その態度と云い言語と云い、山賊として罵り返すべきほどの事でもないのは、いかに逆上の気味の主人でも分っているはずだ。しかし主人の怒号は書生の席そのものが不平なのではない、先刻からこの両人は少年に似合わず、いやに高慢ちきな、利いた風の事ばかり併べていたので、始終それを聞かされた主人は、全くこの点に立腹したものと見える。だから先方でおとなしい挨拶をしても黙って板の間へ上がりはせん。今度は「何だ馬鹿野郎、人の桶へ汚ない水をぴちゃぴちゃ跳ねかす奴があるか」と喝し去った。吾輩もこの小僧を少々心憎く思っていたから、この時心中にはちょっと快哉を呼んだが、学校教員たる主人の言動としては穏かならぬ事と思うた。元来主人はあまり堅過ぎていかん。石炭のたき殻見たようにかさかさしてしかもいやに硬い。むかしハンニバルがアルプス山を超える時に、路の真中に当って大きな岩があって、どうしても軍隊が通行上の不便邪魔をする。そこでハンニバルはこの大きな岩へ醋をかけて火を焚いて、柔かにしておいて、それから鋸でこの大岩を蒲鉾のように切って滞りなく通行をしたそうだ。主人のごとくこんな利目のある薬湯へ煮だるほど這入っても少しも功能のない男はやはり醋をかけて火炙りにするに限ると思う。しからずんば、こんな書生が何百人出て来て、何十年かかったって主人の頑固は癒りっこない。この湯槽に浮いているもの、この流しにごろごろしているものは文明の人間に必要な服装を脱ぎ棄てる化物の団体であるから、無論常規常道をもって律する訳にはいかん。何をしたって構わない。肺の所に胃が陣取って、和唐内が清和源氏になって、民さんが不信用でもよかろう。しかし一たび流しを出て板の間に上がれば、もう化物ではない。普通の人類の生息する娑婆へ出たのだ、文明に必要なる着物をきるのだ。従って人間らしい行動をとらなければならんはずである。今主人が踏んでいるところは敷居である。流しと板の間の境にある敷居の上であって、当人はこれから歓言愉色、円転滑脱の世界に逆戻りをしようと云う間際である。その間際ですらかくのごとく頑固であるなら、この頑固は本人にとって牢として抜くべからざる病気に相違ない。病気なら容易に矯正する事は出来まい。この病気を癒す方法は愚考によるとただ一つある。校長に依頼して免職して貰う事即ちこれなり。免職になれば融通の利かぬ主人の事だからきっと路頭に迷うに極ってる。路頭に迷う結果はのたれ死にをしなければならない。換言すると免職は主人にとって死の遠因になるのである。主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは大嫌である。死なない程度において病気と云う一種の贅沢がしていたいのである。それだからそんなに病気をしていると殺すぞと嚇かせば臆病なる主人の事だからびりびりと悸え上がるに相違ない。この悸え上がる時に病気は奇麗に落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでの事さ。
いかに馬鹿でも病気でも主人に変りはない。一飯君恩を重んずと云う詩人もある事だから猫だって主人の身の上を思わない事はあるまい。気の毒だと云う念が胸一杯になったため、ついそちらに気が取られて、流しの方の観察を怠たっていると、突然白い湯槽の方面に向って口々に罵る声が聞える。ここにも喧嘩が起ったのかと振り向くと、狭い柘榴口に一寸の余地もないくらいに化物が取りついて、毛のある脛と、毛のない股と入り乱れて動いている。折から初秋の日は暮るるになんなんとして流しの上は天井まで一面の湯気が立て籠める。かの化物の犇く様がその間から朦朧と見える。熱い熱いと云う声が吾輩の耳を貫ぬいて左右へ抜けるように頭の中で乱れ合う。その声には黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いのもあるが互に畳なりかかって一種名状すべからざる音響を浴場内に漲らす。ただ混雑と迷乱とを形容するに適した声と云うのみで、ほかには何の役にも立たない声である。吾輩は茫然としてこの光景に魅入られたばかり立ちすくんでいた。やがてわーわーと云う声が混乱の極度に達して、これよりはもう一歩も進めぬと云う点まで張り詰められた時、突然無茶苦茶に押し寄せ押し返している群の中から一大長漢がぬっと立ち上がった。彼の身の丈を見ると他の先生方よりはたしかに三寸くらいは高い。のみならず顔から髯が生えているのか髯の中に顔が同居しているのか分らない赤つらを反り返して、日盛りに破れ鐘をつくような声を出して「うめろうめろ、熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの紛々と縺れ合う群衆の上に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの男一人になったと思わるるほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁だ。と思って見ていると湯槽の後ろでおーいと答えたものがある。おやとまたもそちらに眸をそらすと、暗憺として物色も出来ぬ中に、例のちゃんちゃん姿の三介が砕けよと一塊りの石炭を竈の中に投げ入れるのが見えた。竈の蓋をくぐって、この塊りがぱちぱちと鳴るときに、三介の半面がぱっと明るくなる。同時に三介の後ろにある煉瓦の壁が暗を通して燃えるごとく光った。吾輩は少々物凄くなったから早々窓から飛び下りて家に帰る。帰りながらも考えた。羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、袴を脱いで平等になろうと力める赤裸々の中には、また赤裸々の豪傑が出て来て他の群小を圧倒してしまう。平等はいくらはだかになったって得られるものではない。
帰って見ると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして晩餐を食っている。吾輩が椽側から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今頃どこをあるいているんだろうと云った。膳の上を見ると、銭のない癖に二三品御菜をならべている。そのうちに肴の焼いたのが一疋ある。これは何と称する肴か知らんが、何でも昨日あたり御台場近辺でやられたに相違ない。肴は丈夫なものだと説明しておいたが、いくら丈夫でもこう焼かれたり煮られたりしてはたまらん。多病にして残喘を保つ方がよほど結構だ。こう考えて膳の傍に坐って、隙があったら何か頂戴しようと、見るごとく見ざるごとく装っていた。こんな装い方を知らないものはとうていうまい肴は食えないと諦めなければいけない。主人は肴をちょっと突っついたが、うまくないと云う顔付をして箸を置いた。正面に控えたる妻君はこれまた無言のまま箸の上下に運動する様子、主人の両顎の離合開闔の具合を熱心に研究している。
「おい、その猫の頭をちょっと撲って見ろ」と主人は突然細君に請求した。
「撲てば、どうするんですか」
「どうしてもいいからちょっと撲って見ろ」
こうですかと細君は平手で吾輩の頭をちょっと敲く。痛くも何ともない。
「鳴かんじゃないか」
「ええ」
「もう一返やって見ろ」
「何返やったって同じ事じゃありませんか」と細君また平手でぽかと参る。やはり何ともないから、じっとしていた。しかしその何のためたるやは智慮深き吾輩には頓と了解し難い。これが了解出来れば、どうかこうか方法もあろうがただ撲って見ろだから、撲つ細君も困るし、撲たれる吾輩も困る。主人は二度まで思い通りにならんので、少々焦れ気味で「おい、ちょっと鳴くようにぶって見ろ」と云った。
細君は面倒な顔付で「鳴かして何になさるんですか」と問いながら、またぴしゃりとおいでになった。こう先方の目的がわかれば訳はない、鳴いてさえやれば主人を満足させる事は出来るのだ。主人はかくのごとく愚物だから厭になる。鳴かせるためなら、ためと早く云えば二返も三返も余計な手数はしなくてもすむし、吾輩も一度で放免になる事を二度も三度も繰り返えされる必要はないのだ。ただ打って見ろと云う命令は、打つ事それ自身を目的とする場合のほかに用うべきものでない。打つのは向うの事、鳴くのはこっちの事だ。鳴く事を始めから予期して懸って、ただ打つと云う命令のうちに、こっちの随意たるべき鳴く事さえ含まってるように考えるのは失敬千万だ。他人の人格を重んぜんと云うものだ。猫を馬鹿にしている。主人の蛇蝎のごとく嫌う金田君ならやりそうな事だが、赤裸々をもって誇る主人としてはすこぶる卑劣である。しかし実のところ主人はこれほどけちな男ではないのである。だから主人のこの命令は狡猾の極に出でたのではない。つまり智慧の足りないところから湧いた孑孑のようなものと思惟する。飯を食えば腹が張るに極まっている。切れば血が出るに極っている。殺せば死ぬに極まっている。それだから打てば鳴くに極っていると速断をやったんだろう。しかしそれはお気の毒だが少し論理に合わない。その格で行くと川へ落ちれば必ず死ぬ事になる。天麩羅を食えば必ず下痢する事になる。月給をもらえば必ず出勤する事になる。書物を読めば必ずえらくなる事になる。必ずそうなっては少し困る人が出来てくる。打てば必ずなかなければならんとなると吾輩は迷惑である。目白の時の鐘と同一に見傚されては猫と生れた甲斐がない。まず腹の中でこれだけ主人を凹ましておいて、しかる後にゃーと注文通り鳴いてやった。
すると主人は細君に向って「今鳴いた、にゃあと云う声は感投詞か、副詞か何だか知ってるか」と聞いた。
細君はあまり突然な問なので、何にも云わない。実を云うと吾輩もこれは洗湯の逆上がまださめないためだろうと思ったくらいだ。元来この主人は近所合壁有名な変人で現にある人はたしかに神経病だとまで断言したくらいである。ところが主人の自信はえらいもので、おれが神経病じゃない、世の中の奴が神経病だと頑張っている。近辺のものが主人を犬々と呼ぶと、主人は公平を維持するため必要だとか号して彼等を豚々と呼ぶ。実際主人はどこまでも公平を維持するつもりらしい。困ったものだ。こう云う男だからこんな奇問を細君に対って呈出するのも、主人に取っては朝食前の小事件かも知れないが、聞く方から云わせるとちょっと神経病に近い人の云いそうな事だ。だから細君は煙に捲かれた気味で何とも云わない。吾輩は無論何とも答えようがない。すると主人はたちまち大きな声で
「おい」と呼びかけた。
細君は吃驚して「はい」と答えた。
「そのはいは感投詞か副詞か、どっちだ」
「どっちですか、そんな馬鹿気た事はどうでもいいじゃありませんか」
「いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ」
「あらまあ、猫の鳴き声がですか、いやな事ねえ。だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか」
「それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究と云うんだ」
「そう」と細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。「それで、どっちだか分ったんですか」
「重要な問題だからそう急には分らんさ」と例の肴をむしゃむしゃ食う。ついでにその隣にある豚と芋のにころばしを食う。「これは豚だな」「ええ豚でござんす」「ふん」と大軽蔑の調子をもって飲み込んだ。「酒をもう一杯飲もう」と杯を出す。
「今夜はなかなかあがるのね。もう大分赤くなっていらっしゃいますよ」
「飲むとも――御前世界で一番長い字を知ってるか」
「ええ、前の関白太政大臣でしょう」
「それは名前だ。長い字を知ってるか」
「字って横文字ですか」
「うん」
「知らないわ、――御酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」
「いや、まだ飲む。一番長い字を教えてやろうか」
「ええ。そうしたら御飯ですよ」
「Archaiomelesidonophrunicherata と云う字だ」
「出鱈目でしょう」
「出鱈目なものか、希臘語だ」
「何という字なの、日本語にすれば」
「意味はしらん。ただ綴りだけ知ってるんだ。長く書くと六寸三分くらいにかける」
他人なら酒の上で云うべき事を、正気で云っているところがすこぶる奇観である。もっとも今夜に限って酒を無暗にのむ。平生なら猪口に二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でも随分赤くなるところを倍飲んだのだから顔が焼火箸のようにほてって、さも苦しそうだ。それでもまだやめない。「もう一杯」と出す。細君はあまりの事に
「もう御よしになったら、いいでしょう。苦しいばかりですわ」と苦々しい顔をする。
「なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。大町桂月が飲めと云った」
「桂月って何です」さすがの桂月も細君に逢っては一文の価値もない。
「桂月は現今一流の批評家だ。それが飲めと云うのだからいいに極っているさ」
「馬鹿をおっしゃい。桂月だって、梅月だって、苦しい思をして酒を飲めなんて、余計な事ですわ」
「酒ばかりじゃない。交際をして、道楽をして、旅行をしろといった」
「なおわるいじゃありませんか。そんな人が第一流の批評家なの。まああきれた。妻子のあるものに道楽をすすめるなんて……」
「道楽もいいさ。桂月が勧めなくっても金さえあればやるかも知れない」
「なくって仕合せだわ。今から道楽なんぞ始められちゃあ大変ですよ」
「大変だと云うならよしてやるから、その代りもう少し夫を大事にして、そうして晩に、もっと御馳走を食わせろ」
「これが精一杯のところですよ」
「そうかしらん。それじゃ道楽は追って金が這入り次第やる事にして、今夜はこれでやめよう」と飯茶椀を出す。何でも茶漬を三ぜん食ったようだ。吾輩はその夜豚肉三片と塩焼の頭を頂戴した。
八
垣巡りと云う運動を説明した時に、主人の庭を結い繞らしてある竹垣の事をちょっと述べたつもりであるが、この竹垣の外がすぐ隣家、即ち南隣の次郎ちゃんとこと思っては誤解である。家賃は安いがそこは苦沙弥先生である。与っちゃんや次郎ちゃんなどと号する、いわゆるちゃん付きの連中と、薄っ片な垣一重を隔てて御隣り同志の親密なる交際は結んでおらぬ。この垣の外は五六間の空地であって、その尽くるところに檜が蓊然と五六本併んでいる。椽側から拝見すると、向うは茂った森で、ここに往む先生は野中の一軒家に、無名の猫を友にして日月を送る江湖の処士であるかのごとき感がある。但し檜の枝は吹聴するごとく密生しておらんので、その間から群鶴館という、名前だけ立派な安下宿の安屋根が遠慮なく見えるから、しかく先生を想像するのにはよほど骨の折れるのは無論である。しかしこの下宿が群鶴館なら先生の居はたしかに臥竜窟くらいな価値はある。名前に税はかからんから御互にえらそうな奴を勝手次第に付ける事として、この幅五六間の空地が竹垣を添うて東西に走る事約十間、それから、たちまち鉤の手に屈曲して、臥竜窟の北面を取り囲んでいる。この北面が騒動の種である。本来なら空地を行き尽してまたあき地、とか何とか威張ってもいいくらいに家の二側を包んでいるのだが、臥竜窟の主人は無論窟内の霊猫たる吾輩すらこのあき地には手こずっている。南側に檜が幅を利かしているごとく、北側には桐の木が七八本行列している。もう周囲一尺くらいにのびているから下駄屋さえ連れてくればいい価になるんだが、借家の悲しさには、いくら気が付いても実行は出来ん。主人に対しても気の毒である。せんだって学校の小使が来て枝を一本切って行ったが、そのつぎに来た時は新らしい桐の俎下駄を穿いて、この間の枝でこしらえましたと、聞きもせんのに吹聴していた。ずるい奴だ。桐はあるが吾輩及び主人家族にとっては一文にもならない桐である。玉を抱いて罪ありと云う古語があるそうだが、これは桐を生やして銭なしと云ってもしかるべきもので、いわゆる宝の持ち腐れである。愚なるものは主人にあらず、吾輩にあらず、家主の伝兵衛である。いないかな、いないかな、下駄屋はいないかなと桐の方で催促しているのに知らん面をして屋賃ばかり取り立てにくる。吾輩は別に伝兵衛に恨もないから彼の悪口をこのくらいにして、本題に戻ってこの空地が騒動の種であると云う珍譚を紹介仕るが、決して主人にいってはいけない。これぎりの話しである。そもそもこの空地に関して第一の不都合なる事は垣根のない事である。吹き払い、吹き通し、抜け裏、通行御免天下晴れての空地である。あると云うと嘘をつくようでよろしくない。実を云うとあったのである。しかし話しは過去へ溯らんと源因が分からない。源因が分からないと、医者でも処方に迷惑する。だからここへ引き越して来た当時からゆっくりと話し始める。吹き通しも夏はせいせいして心持ちがいいものだ、不用心だって金のないところに盗難のあるはずはない。だから主人の家に、あらゆる塀、垣、乃至は乱杭、逆茂木の類は全く不要である。しかしながらこれは空地の向うに住居する人間もしくは動物の種類如何によって決せらるる問題であろうと思う。従ってこの問題を決するためには勢い向う側に陣取っている君子の性質を明かにせんければならん。人間だか動物だか分らない先に君子と称するのははなはだ早計のようではあるが大抵君子で間違はない。梁上の君子などと云って泥棒さえ君子と云う世の中である。但しこの場合における君子は決して警察の厄介になるような君子ではない。警察の厄介にならない代りに、数でこなした者と見えて沢山いる。うじゃうじゃいる。落雲館と称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成するために毎月二円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。その信用すべからざる事は群鶴館に鶴の下りざるごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。学士とか教師とか号するものに主人苦沙弥君のごとき気違のある事を知った以上は落雲館の君子が風流漢ばかりでないと云う事がわかる訳だ。それがわからんと主張するならまず三日ばかり主人のうちへ宿りに来て見るがいい。
前申すごとく、ここへ引き越しの当時は、例の空地に垣がないので、落雲館の君子は車屋の黒のごとく、のそのそと桐畠に這入り込んできて、話をする、弁当を食う、笹の上に寝転ぶ――いろいろの事をやったものだ。それからは弁当の死骸即ち竹の皮、古新聞、あるいは古草履、古下駄、ふると云う名のつくものを大概ここへ棄てたようだ。無頓着なる主人は存外平気に構えて、別段抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、知らなかったのか、知っても咎めんつもりであったのか分らない。ところが彼等諸君子は学校で教育を受くるに従って、だんだん君子らしくなったものと見えて、次第に北側から南側の方面へ向けて蚕食を企だてて来た。蚕食と云う語が君子に不似合ならやめてもよろしい。但しほかに言葉がないのである。彼等は水草を追うて居を変ずる沙漠の住民のごとく、桐の木を去って檜の方に進んで来た。檜のある所は座敷の正面である。よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずである。一両日の後彼等の大胆はさらに一層の大を加えて大々胆となった。教育の結果ほど恐しいものはない。彼等は単に座敷の正面に逼るのみならず、この正面において歌をうたいだした。何と云う歌か忘れてしまったが、決して三十一文字の類ではない、もっと活溌で、もっと俗耳に入り易い歌であった。驚ろいたのは主人ばかりではない、吾輩までも彼等君子の才芸に嘆服して覚えず耳を傾けたくらいである。しかし読者もご案内であろうが、嘆服と云う事と邪魔と云う事は時として両立する場合がある。この両者がこの際図らずも合して一となったのは、今から考えて見ても返す返す残念である。主人も残念であったろうが、やむを得ず書斎から飛び出して行って、ここは君等の這入る所ではない、出給えと云って、二三度追い出したようだ。ところが教育のある君子の事だから、こんな事でおとなしく聞く訳がない。追い出されればすぐ這入る。這入れば活溌なる歌をうたう。高声に談話をする。しかも君子の談話だから一風違って、おめえだの知らねえのと云う。そんな言葉は御維新前は折助と雲助と三助の専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。一般から軽蔑せられたる運動が、かくのごとく今日歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。主人はまた書斎から飛び出してこの君子流の言葉にもっとも堪能なる一人を捉まえて、なぜここへ這入るかと詰問したら、君子はたちまち「おめえ、知らねえ」の上品な言葉を忘れて「ここは学校の植物園かと思いました」とすこぶる下品な言葉で答えた。主人は将来を戒めて放してやった。放してやるのは亀の子のようでおかしいが、実際彼は君子の袖を捉えて談判したのである。このくらいやかましく云ったらもうよかろうと主人は思っていたそうだ。ところが実際は女※(「女+咼」、第3水準1-15-89)氏の時代から予期と違うもので、主人はまた失敗した。今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるから御客かと思うと桐畠の方で笑う声がする。形勢はますます不穏である。教育の功果はいよいよ顕著になってくる。気の毒な主人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立て籠って、恭しく一書を落雲館校長に奉って、少々御取締をと哀願した。校長も鄭重なる返書を主人に送って、垣をするから待ってくれと云った。しばらくすると二三人の職人が来て半日ばかりの間に主人の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四つ目垣が出来上がった。これでようよう安心だと主人は喜こんだ。主人は愚物である。このくらいの事で君子の挙動の変化する訳がない。
全体人にからかうのは面白いものである。吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気の利かない苦沙弥先生にからかうのは至極もっともなところで、これに不平なのは恐らく、からかわれる当人だけであろう。からかうと云う心理を解剖して見ると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。第二からかう者が勢力において人数において相手より強くなくてはいかん。この間主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。聞いて見ると駱駝と小犬の喧嘩を見たのだそうだ。小犬が駱駝の周囲を疾風のごとく廻転して吠え立てると、駱駝は何の気もつかずに、依然として背中へ瘤をこしらえて突っ立ったままであるそうだ。いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想をつかしてやめる、実に駱駝は無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらからかうものが上手でも相手が駱駝と来ては成立しない。さればと云って獅子や虎のように先方が強過ぎても者にならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出して怒る、怒る事は怒るが、こっちをどうする事も出来ないと云う安心のある時に愉快は非常に多いものである。なぜこんな事が面白いと云うとその理由はいろいろある。まずひまつぶしに適している。退屈な時には髯の数さえ勘定して見たくなる者だ。昔し獄に投ぜられた囚人の一人は無聊のあまり、房の壁に三角形を重ねて画いてその日をくらしたと云う話がある。世の中に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。からかうと云うのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。但し多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しからからかうと云う娯楽に耽るものは人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに暇なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。次には自己の優勢な事を実地に証明するものにはもっとも簡便な方法である。人を殺したり、人を傷けたり、または人を陥れたりしても自己の優勢な事は証明出来る訳であるが、これらはむしろ殺したり、傷けたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、自己の優勢なる事はこの手段を遂行した後に必然の結果として起る現象に過ぎん。だから一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないと云う場合には、からかうのが一番御恰好である。多少人を傷けなければ自己のえらい事は事実の上に証拠だてられない。事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。人間は自己を恃むものである。否恃み難い場合でも恃みたいものである。それだから自己はこれだけ恃める者だ、これなら安心だと云う事を、人に対して実地に応用して見ないと気がすまない。しかも理窟のわからない俗物や、あまり自己が恃みになりそうもなくて落ちつきのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使が時々人を投げて見たくなるのと同じ事である。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴に、ただの一返でいいから出逢って見たい、素人でも構わないから抛げて見たいと至極危険な了見を抱いて町内をあるくのもこれがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節の一折も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。以上に説くところを参考して推論して見ると、吾輩の考では奥山の猿と、学校の教師がからかうには一番手頃である。学校の教師をもって、奥山の猿に比較しては勿体ない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は鎖で繋がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き掻かれる気遣はない。教師は鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の御守りは勤めないはずである。主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかうには至極適当で、至極安直で、至極無事な男である。落雲館の生徒は少年である。からかう事は自己の鼻を高くする所以で、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならずからかいでもしなければ、活気に充ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分の休暇中持てあまして困っている連中である。これらの条件が備われば主人は自からからかわれ、生徒は自からからかう、誰から云わしても毫も無理のないところである。それを怒る主人は野暮の極、間抜の骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに主人にからかったか、これに対して主人がいかに野暮を極めたかを逐一かいてご覧に入れる。
諸君は四つ目垣とはいかなる者であるか御承知であろう。風通しのいい、簡便な垣である。吾輩などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。然し落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子が潜られんために、わざわざ職人を入れて結い繞らせたのである。なるほどいくら風通しがよく出来ていても、人間には潜れそうにない。この竹をもって組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、清国の奇術師張世尊その人といえどもむずかしい。だから人間に対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。主人がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし主人の論理には大なる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。呑舟の魚をも洩らすべき大穴がある。彼は垣は踰ゆべきものにあらずとの仮定から出立している。いやしくも学校の生徒たる以上はいかに粗末の垣でも、垣と云う名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのである。次に彼はその仮定をしばらく打ち崩して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。四つ目垣の穴を潜り得る事は、いかなる小僧といえどもとうてい出来る気遣はないから乱入の虞は決してないと速定してしまったのである。なるほど彼等が猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗り踰える事、飛び越える事は何の事もない。かえって運動になって面白いくらいである。
垣の出来た翌日から、垣の出来ぬ前と同様に彼等は北側の空地へぽかりぽかりと飛び込む。但し座敷の正面までは深入りをしない。もし追い懸けられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、予め逃げる時間を勘定に入れて、捕えらるる危険のない所で遊弋をしている。彼等が何をしているか東の離れにいる主人には無論目に入らない。北側の空地に彼等が遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角から鉤の手に曲って見るか、または後架の窓から垣根越しに眺めるよりほかに仕方がない。窓から眺める時はどこに何がいるか、一目明瞭に見渡す事が出来るが、よしや敵を幾人見出したからと云って捕える訳には行かぬ。ただ窓の格子の中から叱りつけるばかりである。もし木戸から迂回して敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけて、ぽかりぽかりと捉まる前に向う側へ下りてしまう。膃肭臍がひなたぼっこをしているところへ密猟船が向ったような者だ。主人は無論後架で張り番をしている訳ではない。と云って木戸を開いて、音がしたら直ぐ飛び出す用意もない。もしそんな事をやる日には教師を辞職して、その方専門にならなければ追っつかない。主人方の不利を云うと書斎からは敵の声だけ聞えて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけで手が出せない事である。この不利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。主人が書斎に立て籠っていると探偵した時には、なるべく大きな声を出してわあわあ云う。その中には主人をひやかすような事を聞こえよがしに述べる。しかもその声の出所を極めて不分明にする。ちょっと聞くと垣の内で騒いでいるのか、あるいは向う側であばれているのか判定しにくいようにする。もし主人が出懸けて来たら、逃げ出すか、または始めから向う側にいて知らん顔をする。また主人が後架へ――吾輩は最前からしきりに後架後架ときたない字を使用するのを別段の光栄とも思っておらん、実は迷惑千万であるが、この戦争を記述する上において必要であるからやむを得ない。――即ち主人が後架へまかり越したと見て取るときは、必ず桐の木の附近を徘徊してわざと主人の眼につくようにする。主人がもし後架から四隣に響く大音を揚げて怒鳴りつければ敵は周章てる気色もなく悠然と根拠地へ引きあげる。この軍略を用いられると主人ははなはだ困却する。たしかに這入っているなと思ってステッキを持って出懸けると寂然として誰もいない。いないかと思って窓からのぞくと必ず一二人這入っている。主人は裏へ廻って見たり、後架から覗いて見たり、後架から覗いて見たり、裏へ廻って見たり、何度言っても同じ事だが、何度云っても同じ事を繰り返している。奔命に疲れるとはこの事である。教師が職業であるか、戦争が本務であるかちょっと分らないくらい逆上して来た。この逆上の頂点に達した時に下の事件が起ったのである。
事件は大概逆上から出る者だ。逆上とは読んで字のごとく逆かさに上るのである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる扁鵲も異議を唱うる者は一人もない。ただどこへ逆かさに上るかが問題である。また何が逆かさに上るかが議論のあるところである。古来欧洲人の伝説によると、吾人の体内には四種の液が循環しておったそうだ。第一に怒液と云う奴がある。これが逆かさに上ると怒り出す。第二に鈍液と名づくるのがある。これが逆かさに上ると神経が鈍くなる。次には憂液、これは人間を陰気にする。最後が血液、これは四肢を壮んにする。その後人文が進むに従って鈍液、怒液、憂液はいつの間にかなくなって、現今に至っては血液だけが昔のように循環していると云う話しだ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量は個人によってちゃんと極まっている。性分によって多少の増減はあるが、まず大抵一人前に付五升五合の割合である。だによって、この五升五合が逆かさに上ると、上ったところだけは熾んに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をすると警察の逆上と云う者である。でこの逆上を癒やすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするには逆かさに上った奴を下へ降さなくてはならん。その方にはいろいろある。今は故人となられたが主人の先君などは濡れ手拭を頭にあてて炬燵にあたっておられたそうだ。頭寒足熱は延命息災の徴と傷寒論にも出ている通り、濡れ手拭は長寿法において一日も欠くべからざる者である。それでなければ坊主の慣用する手段を試みるがよい。一所不住の沙門雲水行脚の衲僧は必ず樹下石上を宿とすとある。樹下石上とは難行苦行のためではない。全くのぼせを下げるために六祖が米を舂きながら考え出した秘法である。試みに石の上に坐ってご覧、尻が冷えるのは当り前だろう。尻が冷える、のぼせが下がる、これまた自然の順序にして毫も疑を挟むべき余地はない。かようにいろいろな方法を用いてのぼせを下げる工夫は大分発明されたが、まだのぼせを引き起す良方が案出されないのは残念である。一概に考えるとのぼせは損あって益なき現象であるが、そうばかり速断してならん場合がある。職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中でもっとも逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を拱いて飯を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違の異名で、気違にならないと家業が立ち行かんとあっては世間体が悪いから、彼等の仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。申し合せてインスピレーション、インスピレーションとさも勿体そうに称えている。これは彼等が世間を瞞着するために製造した名でその実は正に逆上である。プレートーは彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと云う新発明の売薬のような名を付けておく方が彼等のためによかろうと思う。しかし蒲鉾の種が山芋であるごとく、観音の像が一寸八分の朽木であるごとく、鴨南蛮の材料が烏であるごとく、下宿屋の牛鍋が馬肉であるごとくインスピレーションも実は逆上である。逆上であって見れば臨時の気違である。巣鴨へ入院せずに済むのは単に臨時気違であるからだ。ところがこの臨時の気違を製造する事が困難なのである。一生涯の狂人はかえって出来安いが、筆を執って紙に向う間だけ気違にするのは、いかに巧者な神様でもよほど骨が折れると見えて、なかなか拵えて見せない。神が作ってくれん以上は自力で拵えなければならん。そこで昔から今日まで逆上術もまた逆上とりのけ術と同じく大に学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレーションを得るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起るという理論から来たものだ。またある人はかん徳利を持って鉄砲風呂へ飛び込んだ。湯の中で酒を飲んだら逆上するに極っていると考えたのである。その人の説によるとこれで成功しなければ葡萄酒の湯をわかして這入れば一返で功能があると信じ切っている。しかし金がないのでついに実行する事が出来なくて死んでしまったのは気の毒である。最後に古人の真似をしたらインスピレーションが起るだろうと思いついた者がある。これはある人の態度動作を真似ると心的状態もその人に似てくると云う学説を応用したのである。酔っぱらいのように管を捲いていると、いつの間にか酒飲みのような心持になる、坐禅をして線香一本の間我慢しているとどことなく坊主らしい気分になれる。だから昔からインスピレーションを受けた有名の大家の所作を真似れば必ず逆上するに相違ない。聞くところによればユーゴーは快走船の上へ寝転んで文章の趣向を考えたそうだから、船へ乗って青空を見つめていれば必ず逆上受合である。スチーヴンソンは腹這に寝て小説を書いたそうだから、打つ伏しになって筆を持てばきっと血が逆かさに上ってくる。かようにいろいろな人がいろいろの事を考え出したが、まだ誰も成功しない。まず今日のところでは人為的逆上は不可能の事となっている。残念だが致し方がない。早晩随意にインスピレーションを起し得る時機の到来するは疑もない事で、吾輩は人文のためにこの時機の一日も早く来らん事を切望するのである。
逆上の説明はこのくらいで充分だろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥る弊竇である。主人の逆上も小事件に逢う度に一層の劇甚を加えて、ついに大事件を引き起したのであるからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと主人がいかに逆上しているか分りにくい。分りにくいと主人の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。せっかく逆上しても人から天晴な逆上と謡われなくては張り合がないだろう。これから述べる事件は大小に係らず主人に取って名誉な者ではない。事件その物が不名誉であるならば、責めて逆上なりとも、正銘の逆上であって、決して人に劣るものでないと云う事を明かにしておきたい。主人は他に対して別にこれと云って誇るに足る性質を有しておらん。逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。
落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分の休暇、もしくは放課後に至って熾に北側の空地に向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと称えて、擂粉木の大きな奴をもって任意これを敵中に発射する仕掛である。いくらダムダムだって落雲館の運動場から発射するのだから、書斎に立て籠ってる主人に中る気遣はない。敵といえども弾道のあまり遠過ぎるのを自覚せん事はないのだけれど、そこが軍略である。旅順の戦争にも海軍から間接射撃を行って偉大な功を奏したと云う話であれば、空地へころがり落つるボールといえども相当の功果を収め得ぬ事はない。いわんや一発を送る度に総軍力を合せてわーと威嚇性大音声を出すにおいてをやである。主人は恐縮の結果として手足に通う血管が収縮せざるを得ない。煩悶の極そこいらを迷付いている血が逆さに上るはずである。敵の計はなかなか巧妙と云うてよろしい。昔し希臘にイスキラスと云う作家があったそうだ。この男は学者作家に共通なる頭を有していたと云う。吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とは禿と云う意味である。なぜ頭が禿げるかと云えば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。学者作家はもっとも多く頭を使うものであって大概は貧乏に極っている。だから学者作家の頭はみんな営養不足でみんな禿げている。さてイスキラスも作家であるから自然の勢禿げなくてはならん。彼はつるつる然たる金柑頭を有しておった。ところがある日の事、先生例の頭――頭に外行も普段着もないから例の頭に極ってるが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来をあるいていた。これが間違いのもとである。禿げ頭を日にあてて遠方から見ると、大変よく光るものだ。高い木には風があたる、光かる頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽の鷲が舞っていたが、見るとどこかで生捕った一疋の亀を爪の先に攫んだままである。亀、スッポンなどは美味に相違ないが、希臘時代から堅い甲羅をつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうする事も出来ん。海老の鬼殻焼はあるが亀の子の甲羅煮は今でさえないくらいだから、当時は無論なかったに極っている。さすがの鷲も少々持て余した折柄、遥かの下界にぴかと光った者がある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落したなら、甲羅は正しく砕けるに極わまった。砕けたあとから舞い下りて中味を頂戴すれば訳はない。そうだそうだと覗を定めて、かの亀の子を高い所から挨拶も無く頭の上へ落した。生憎作家の頭の方が亀の甲より軟らかであったものだから、禿はめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここに無惨の最後を遂げた。それはそうと、解しかねるのは鷲の了見である。例の頭を、作家の頭と知って落したのか、または禿岩と間違えて落したものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこの鷲とを比較する事も出来るし、また出来なくもなる。主人の頭はイスキラスのそれのごとく、また御歴々の学者のごとくぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷にせよいやしくも書斎と号する一室を控えて、居眠りをしながらも、むずかしい書物の上へ顔を翳す以上は、学者作家の同類と見傚さなければならん。そうすると主人の頭の禿げておらんのは、まだ禿げるべき資格がないからで、その内に禿げるだろうとは近々この頭の上に落ちかかるべき運命であろう。して見れば落雲館の生徒がこの頭を目懸けて例のダムダム丸を集注するのは策のもっとも時宜に適したものと云わねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、主人の頭は畏怖と煩悶のため必ず営養の不足を訴えて、金柑とも薬缶とも銅壺とも変化するだろう。なお二週間の砲撃を食えば金柑は潰れるに相違ない。薬缶は洩るに相違ない。銅壺ならひびが入るにきまっている。この睹易き結果を予想せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ本人たる苦沙弥先生のみである。
ある日の午後、吾輩は例のごとく椽側へ出て午睡をして虎になった夢を見ていた。主人に鶏肉を持って来いと云うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。迷亭が来たから、迷亭に雁が食いたい、雁鍋へ行って誂らえて来いと云うと、蕪の香の物と、塩煎餅といっしょに召し上がりますと雁の味が致しますと例のごとく茶羅ッ鉾を云うから、大きな口をあいて、うーと唸って嚇してやったら、迷亭は蒼くなって山下の雁鍋は廃業致しましたがいかが取り計いましょうかと云った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと云ったら、迷亭は尻を端折って馳け出した。吾輩は急にからだが大きくなったので、椽側一杯に寝そべって、迷亭の帰るのを待ち受けていると、たちまち家中に響く大きな声がしてせっかくの牛も食わぬ間に夢がさめて吾に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏していたと思いのほかの主人が、いきなり後架から飛び出して来て、吾輩の横腹をいやと云うほど蹴たから、おやと思ううち、たちまち庭下駄をつっかけて木戸から廻って、落雲館の方へかけて行く。吾輩は虎から急に猫と収縮したのだから何となく極りが悪くもあり、おかしくもあったが、主人のこの権幕と横腹を蹴られた痛さとで、虎の事はすぐ忘れてしまった。同時に主人がいよいよ出馬して敵と交戦するな面白いわいと、痛いのを我慢して、後を慕って裏口へ出た。同時に主人がぬすっとうと怒鳴る声が聞える、見ると制帽をつけた十八九になる倔強な奴が一人、四ツ目垣を向うへ乗り越えつつある。やあ遅かったと思ううち、彼の制帽は馳け足の姿勢をとって根拠地の方へ韋駄天のごとく逃げて行く。主人はぬすっとうが大に成功したので、またもぬすっとうと高く叫びながら追いかけて行く。しかしかの敵に追いつくためには主人の方で垣を越さなければならん。深入りをすれば主人自らが泥棒になるはずである。前申す通り主人は立派なる逆上家である。こう勢に乗じてぬすっとうを追い懸ける以上は、夫子自身がぬすっとうに成っても追い懸けるつもりと見えて、引き返す気色もなく垣の根元まで進んだ。今一歩で彼はぬすっとうの領分に入らなければならんと云う間際に、敵軍の中から、薄い髯を勢なく生やした将官がのこのこと出馬して来た。両人は垣を境に何か談判している。聞いて見るとこんなつまらない議論である。
「あれは本校の生徒です」
「生徒たるべきものが、何で他の邸内へ侵入するのですか」
「いやボールがつい飛んだものですから」
「なぜ断って、取りに来ないのですか」
「これから善く注意します」
「そんなら、よろしい」
竜騰虎闘の壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。主人の壮んなるはただ意気込みだけである。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも吾輩が虎の夢から急に猫に返ったような観がある。吾輩の小事件と云うのは即ちこれである。小事件を記述したあとには、順序として是非大事件を話さなければならん。
主人は座敷の障子を開いて腹這になって、何か思案している。恐らく敵に対して防禦策を講じているのだろう。落雲館は授業中と見えて、運動場は存外静かである。ただ校舎の一室で、倫理の講義をしているのが手に取るように聞える。朗々たる音声でなかなかうまく述べ立てているのを聴くと、全く昨日敵中から出馬して談判の衝に当った将軍である。
「……で公徳と云うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西でも独逸でも英吉利でも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、我が日本に在っては、未だこの点において外国と拮抗する事が出来んのである。で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのは大なる誤りで、昔人も夫子の道一以て之を貫く、忠恕のみ矣と云われた事がある。この恕と申すのが取りも直さず公徳の出所である。私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選でも高声に吟じたら気分が晴々してよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう云う時はいつでも控えるのである。こう云う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。……」
主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。ちょっとこのにやりの意味を説明する必要がある。皮肉家がこれをよんだらこのにやりの裏には冷評的分子が交っていると思うだろう。しかし主人は決して、そんな人の悪い男ではない。悪いと云うよりそんなに智慧の発達した男ではない。主人はなぜ笑ったかと云うと全く嬉しくって笑ったのである。倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を与えるからはこの後は永久ダムダム弾の乱射を免がれるに相違ない。当分のうち頭も禿げずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次回復するだろう、濡れ手拭を頂いて、炬燵にあたらなくとも、樹下石上を宿としなくとも大丈夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。借金は必ず返す者と二十世紀の今日にもやはり正直に考えるほどの主人がこの講話を真面目に聞くのは当然であろう。
やがて時間が来たと見えて、講話はぱたりとやんだ。他の教室の課業も皆一度に終った。すると今まで室内に密封された八百の同勢は鬨の声をあげて、建物を飛び出した。その勢と云うものは、一尺ほどな蜂の巣を敲き落したごとくである。ぶんぶん、わんわん云うて窓から、戸口から、開きから、いやしくも穴の開いている所なら何の容赦もなく我勝ちに飛び出した。これが大事件の発端である。
まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかと云うのは間違っている。普通の人は戦争とさえ云えば沙河とか奉天とかまた旅順とかそのほかに戦争はないもののごとくに考えている。少し詩がかった野蛮人になると、アキリスがヘクトーの死骸を引きずって、トロイの城壁を三匝したとか、燕ぴと張飛が長坂橋に丈八の蛇矛を横えて、曹操の軍百万人を睨め返したとか大袈裟な事ばかり連想する。連想は当人の随意だがそれ以外の戦争はないものと心得るのは不都合だ。太古蒙昧の時代に在ってこそ、そんな馬鹿気た戦争も行われたかも知れん、しかし太平の今日、大日本国帝都の中心においてかくのごとき野蛮的行動はあり得べからざる奇蹟に属している。いかに騒動が持ち上がっても交番の焼打以上に出る気遣はない。して見ると臥竜窟主人の苦沙弥先生と落雲館裏八百の健児との戦争は、まず東京市あって以来の大戦争の一として数えてもしかるべきものだ。左氏が※(「焉+おおざと」、第3水準1-92-78)陵の戦を記するに当ってもまず敵の陣勢から述べている。古来から叙述に巧みなるものは皆この筆法を用いるのが通則になっている。だによって吾輩が蜂の陣立てを話すのも仔細なかろう。それでまず蜂の陣立ていかんと見てあると、四つ目垣の外側に縦列を形ちづくった一隊がある。これは主人を戦闘線内に誘致する職務を帯びた者と見える。「降参しねえか」「しねえしねえ」「駄目だ駄目だ」「出てこねえ」「落ちねえかな」「落ちねえはずはねえ」「吠えて見ろ」「わんわん」「わんわん」「わんわんわんわん」これから先は縦隊総がかりとなって吶喊の声を揚げる。縦隊を少し右へ離れて運動場の方面には砲隊が形勝の地を占めて陣地を布いている。臥竜窟に面して一人の将官が擂粉木の大きな奴を持って控える。これと相対して五六間の間隔をとってまた一人立つ、擂粉木のあとにまた一人、これは臥竜窟に顔をむけて突っ立っている。かくのごとく一直線にならんで向い合っているのが砲手である。ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、決して戦闘準備ではないそうだ。吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ文盲漢である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日中学程度以上の学校に行わるる運動のうちでもっとも流行するものだそうだ。米国は突飛な事ばかり考え出す国柄であるから、砲隊と間違えてもしかるべき、近所迷惑の遊戯を日本人に教うべくだけそれだけ親切であったかも知れない。また米国人はこれをもって真に一種の運動遊戯と心得ているのだろう。しかし純粋の遊戯でもかように四隣を驚かすに足る能力を有している以上は使いようで砲撃の用には充分立つ。吾輩の眼をもって観察したところでは、彼等はこの運動術を利用して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。物は云いようでどうでもなるものだ。慈善の名を借りて詐偽を働らき、インスピレーションと号して逆上をうれしがる者がある以上はベースボールなる遊戯の下に戦争をなさんとも限らない。或る人の説明は世間一般のベースボールの事であろう。今吾輩が記述するベースボールはこの特別の場合に限らるるベースボール即ち攻城的砲術である。これからダムダム弾を発射する方法を紹介する。直線に布かれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握って擂粉木の所有者に抛りつける。ダムダム弾は何で製造したか局外者には分らない。堅い丸い石の団子のようなものを御鄭寧に皮でくるんで縫い合せたものである。前申す通りこの弾丸が砲手の一人の手中を離れて、風を切って飛んで行くと、向うに立った一人が例の擂粉木をやっと振り上げて、これを敲き返す。たまには敲き損なった弾丸が流れてしまう事もあるが、大概はポカンと大きな音を立てて弾ね返る。その勢は非常に猛烈なものである。神経性胃弱なる主人の頭を潰すくらいは容易に出来る。砲手はこれだけで事足るのだが、その周囲附近には弥次馬兼援兵が雲霞のごとく付き添うている。ポカーンと擂粉木が団子に中るや否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手を拍つ、やれやれと云う。中ったろうと云う。これでも利かねえかと云う。恐れ入らねえかと云う。降参かと云う。これだけならまだしもであるが、敲き返された弾丸は三度に一度必ず臥竜窟邸内へころがり込む。これがころがり込まなければ攻撃の目的は達せられんのである。ダムダム弾は近来諸所で製造するが随分高価なものであるから、いかに戦争でもそう充分な供給を仰ぐ訳に行かん。大抵一隊の砲手に一つもしくは二つの割である。ポンと鳴る度にこの貴重な弾丸を消費する訳には行かん。そこで彼等はたま拾と称する一部隊を設けて落弾を拾ってくる。落ち場所がよければ拾うのに骨も折れないが、草原とか人の邸内へ飛び込むとそう容易くは戻って来ない。だから平生ならなるべく労力を避けるため、拾い易い所へ打ち落すはずであるが、この際は反対に出る。目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざとダムダム弾を主人の邸内に降らせる。邸内に降らせる以上は、邸内へ這入って拾わなければならん。邸内に這入るもっとも簡便な方法は四つ目垣を越えるにある。四つ目垣のうちで騒動すれば主人が怒り出さなければならん。しからずんば兜を脱いで降参しなければならん。苦心のあまり頭がだんだん禿げて来なければならん。
今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準誤たず、四つ目垣を通り越して桐の下葉を振い落して、第二の城壁即ち竹垣に命中した。随分大きな音である。ニュートンの運動律第一に曰くもし他の力を加うるにあらざれば、一度び動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば主人の頭はこの時にイスキラスと運命を同じくしたであろう。幸にしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので主人の頭は危うきうちに一命を取りとめた。運動の第二則に曰く運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起るものとす。これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障子を裂き破って主人の頭を破壊しなかったところをもって見ると、ニュートンの御蔭に相違ない。しばらくすると案のごとく敵は邸内に乗り込んで来たものと覚しく、「ここか」「もっと左の方か」などと棒でもって笹の葉を敲き廻わる音がする。すべて敵が主人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拾う場合には必ず特別な大きな声を出す。こっそり這入って、こっそり拾っては肝心の目的が達せられん。ダムダム弾は貴重かも知れないが、主人にからかうのはダムダム弾以上に大事である。この時のごときは遠くから弾の所在地は判然している。竹垣に中った音も知っている。中った場所も分っている、しかしてその落ちた地面も心得ている。だからおとなしくして拾えば、いくらでもおとなしく拾える。ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。柳の下には必ず鰌がいる。蝙蝠に夕月はつきものである。垣根にボールは不似合かも知れぬ。しかし毎日毎日ボールを人の邸内に抛り込む者の眼に映ずる空間はたしかにこの排列に慣れている。一眼見ればすぐ分る訳だ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのは必竟ずるに主人に戦争を挑む策略である。
こうなってはいかに消極的なる主人といえども応戦しなければならん。さっき座敷のうちから倫理の講義をきいてにやにやしていた主人は奮然として立ち上がった。猛然として馳け出した。驀然として敵の一人を生捕った。主人にしては大出来である。大出来には相違ないが、見ると十四五の小供である。髯の生えている主人の敵として少し不似合だ。けれども主人はこれで沢山だと思ったのだろう。詫び入るのを無理に引っ張って椽側の前まで連れて来た。ここにちょっと敵の策略について一言する必要がある、敵は主人が昨日の権幕を見てこの様子では今日も必ず自身で出馬するに相違ないと察した。その時万一逃げ損じて大僧がつらまっては事面倒になる。ここは一年生か二年生くらいな小供を玉拾いにやって危険を避けるに越した事はない。よし主人が小供をつらまえて愚図愚図理窟を捏ね廻したって、落雲館の名誉には関係しない、こんなものを大人気もなく相手にする主人の恥辱になるばかりだ。敵の考はこうであった。これが普通の人間の考で至極もっともなところである。ただ敵は相手が普通の人間でないと云う事を勘定のうちに入れるのを忘れたばかりである。主人にこれくらいの常識があれば昨日だって飛び出しはしない。逆上は普通の人間を、普通の人間の程度以上に釣るし上げて、常識のあるものに、非常識を与える者である。女だの、小供だの、車引きだの、馬子だのと、そんな見境いのあるうちは、まだ逆上を以て人に誇るに足らん。主人のごとく相手にならぬ中学一年生を生捕って戦争の人質とするほどの了見でなくては逆上家の仲間入りは出来ないのである。可哀そうなのは捕虜である。単に上級生の命令によって玉拾いなる雑兵の役を勤めたるところ、運わるく非常識の敵将、逆上の天才に追い詰められて、垣越える間もあらばこそ、庭前に引き据えられた。こうなると敵軍は安閑と味方の恥辱を見ている訳に行かない。我も我もと四つ目垣を乗りこして木戸口から庭中に乱れ入る。その数は約一ダースばかり、ずらりと主人の前に並んだ。大抵は上衣もちょっ着もつけておらん。白シャツの腕をまくって、腕組をしたのがある。綿ネルの洗いざらしを申し訳に背中だけへ乗せているのがある。そうかと思うと白の帆木綿に黒い縁をとって胸の真中に花文字を、同じ色に縫いつけた洒落者もある。いずれも一騎当千の猛将と見えて、丹波の国は笹山から昨夜着し立てでござると云わぬばかりに、黒く逞しく筋肉が発達している。中学などへ入れて学問をさせるのは惜しいものだ。漁師か船頭にしたら定めし国家のためになるだろうと思われるくらいである。彼等は申し合せたごとく、素足に股引を高くまくって、近火の手伝にでも行きそうな風体に見える。彼等は主人の前にならんだぎり黙然として一言も発しない。主人も口を開かない。しばらくの間双方共睨めくらをしているなかにちょっと殺気がある。
「貴様等はぬすっとうか」と主人は尋問した。大気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)である。奥歯で囓み潰した癇癪玉が炎となって鼻の穴から抜けるので、小鼻が、いちじるしく怒って見える。越後獅子の鼻は人間が怒った時の恰好を形どって作ったものであろう。それでなくてはあんなに恐しく出来るものではない。
「いえ泥棒ではありません。落雲館の生徒です」
「うそをつけ。落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入する奴があるか」
「しかしこの通りちゃんと学校の徽章のついている帽子を被っています」
「にせものだろう。落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」
「ボールが飛び込んだものですから」
「なぜボールを飛び込ました」
「つい飛び込んだんです」
「怪しからん奴だ」
「以後注意しますから、今度だけ許して下さい」
「どこの何者かわからん奴が垣を越えて邸内に闖入するのを、そう容易く許されると思うか」
「それでも落雲館の生徒に違ないんですから」
「落雲館の生徒なら何年生だ」
「三年生です」
「きっとそうか」
「ええ」
主人は奥の方を顧みながら、おいこらこらと云う。
埼玉生れの御三が襖をあけて、へえと顔を出す。
「落雲館へ行って誰か連れてこい」
「誰を連れて参ります」
「誰でもいいから連れてこい」
下女は「へえ」と答えが、あまり庭前の光景が妙なのと、使の趣が判然しないのと、さっきからの事件の発展が馬鹿馬鹿しいので、立ちもせず、坐りもせずにやにや笑っている。主人はこれでも大戦争をしているつもりである。逆上的敏腕を大に振っているつもりである。しかるところ自分の召し使たる当然こっちの肩を持つべきものが、真面目な態度をもって事に臨まんのみか、用を言いつけるのを聞きながらにやにや笑っている。ますます逆上せざるを得ない。
「誰でも構わんから呼んで来いと云うのに、わからんか。校長でも幹事でも教頭でも……」
「あの校長さんを……」下女は校長と云う言葉だけしか知らないのである。
「校長でも、幹事でも教頭でもと云っているのにわからんか」
「誰もおりませんでしたら小使でもよろしゅうございますか」
「馬鹿を云え。小使などに何が分かるものか」
ここに至って下女もやむを得んと心得たものか、「へえ」と云って出て行った。使の主意はやはり飲み込めんのである。小使でも引張って来はせんかと心配していると、あに計らんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで来た。平然と座に就くを待ち受けた主人は直ちに談判にとりかかる。
「ただ今邸内にこの者共が乱入致して……」と忠臣蔵のような古風な言葉を使ったが「本当に御校の生徒でしょうか」と少々皮肉に語尾を切った。
倫理の先生は別段驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士を一通り見廻わした上、もとのごとく瞳を主人の方にかえして、下のごとく答えた。
「さようみんな学校の生徒であります。こんな事のないように始終訓戒を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ君等は垣などを乗り越すのか」
さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向っては一言もないと見えて何とも云うものはない。おとなしく庭の隅にかたまって羊の群が雪に逢ったように控えている。
「丸が這入るのも仕方がないでしょう。こうして学校の隣りに住んでいる以上は、時々はボールも飛んで来ましょう。しかし……あまり乱暴ですからな。仮令垣を乗り越えるにしても知れないないように、そっと拾って行くなら、まだ勘弁のしようもありますが……」
「ごもっともで、よく注意は致しますが何分多人数の事で……よくこれから注意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から廻って、御断りをして取らなければいかん。いいか。――広い学校の事ですからどうも世話ばかりやけて仕方がないです。で運動は教育上必要なものでありますから、どうもこれを禁ずる訳には参りかねるので。これを許すとつい御迷惑になるような事が出来ますが、これは是非御容赦を願いたいと思います。その代り向後はきっと表門から廻って御断りを致した上で取らせますから」
「いや、そう事が分かればよろしいです。球はいくら御投げになっても差支えはないです。表からきてちょっと断わって下されば構いません。ではこの生徒はあなたに御引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。いやわざわざ御呼び立て申して恐縮です」と主人は例によって例のごとく竜頭蛇尾の挨拶をする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引き上げる。吾輩のいわゆる大事件はこれで一とまず落着を告げた。何のそれが大事件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には大事件でないまでだ。吾輩は主人の大事件を写したので、そんな人の大事件を記したのではない。尻が切れて強弩の末勢だなどと悪口するものがあるなら、これが主人の特色である事を記憶して貰いたい。主人が滑稽文の材料になるのもまたこの特色に存する事を記憶して貰いたい。十四五の小供を相手にするのは馬鹿だと云うなら吾輩も馬鹿に相違ないと同意する。だから大町桂月は主人をつらまえて未だ稚気を免がれずと云うている。
吾輩はすでに小事件を叙し了り、今また大事件を述べ了ったから、これより大事件の後に起る余瀾を描き出だして、全篇の結びを付けるつもりである。すべて吾輩のかく事は、口から出任せのいい加減と思う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率な猫ではない。一字一句の裏に宇宙の一大哲理を包含するは無論の事、その一字一句が層々連続すると首尾相応じ前後相照らして、瑣談繊話と思ってうっかりと読んでいたものが忽然豹変して容易ならざる法語となるんだから、決して寝ころんだり、足を出して五行ごとに一度に読むのだなどと云う無礼を演じてはいけない。柳宗元は韓退之の文を読むごとに薔薇の水で手を清めたと云うくらいだから、吾輩の文に対してもせめて自腹で雑誌を買って来て、友人の御余りを借りて間に合わすと云う不始末だけはない事に致したい。これから述べるのは、吾輩自ら余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんに極っている、読まんでもよかろうなどと思うと飛んだ後悔をする。是非しまいまで精読しなくてはいかん。
大事件のあった翌日、吾輩はちょっと散歩がしたくなったから表へ出た。すると向う横町へ曲がろうと云う角で金田の旦那と鈴木の藤さんがしきりに立ちながら話をしている。金田君は車で自宅へ帰るところ、鈴木君は金田君の留守を訪問して引き返す途中で両人がばったりと出逢ったのである。近来は金田の邸内も珍らしくなくなったから、滅多にあちらの方角へは足が向かなかったが、こう御目に懸って見ると、何となく御懐かしい。鈴木にも久々だから余所ながら拝顔の栄を得ておこう。こう決心してのそのそ御両君の佇立しておらるる傍近く歩み寄って見ると、自然両君の談話が耳に入る。これは吾輩の罪ではない。先方が話しているのがわるいのだ。金田君は探偵さえ付けて主人の動静を窺がうくらいの程度の良心を有している男だから、吾輩が偶然君の談話を拝聴したって怒らるる気遣はあるまい。もし怒られたら君は公平と云う意味を御承知ないのである。とにかく吾輩は両君の談話を聞いたのである。聞きたくて聴いたのではない。聞きたくもないのに談話の方で吾輩の耳の中へ飛び込んで来たのである。
「只今御宅へ伺いましたところで、ちょうどよい所で御目にかかりました」と藤さんは鄭寧に頭をぴょこつかせる。
「うむ、そうかえ。実はこないだから、君にちょっと逢いたいと思っていたがね。それはよかった」
「へえ、それは好都合でございました。何かご用で」
「いや何、大した事でもないのさ。どうでもいいんだが、君でないと出来ない事なんだ」
「私に出来る事なら何でもやりましょう。どんな事で」
「ええ、そう……」と考えている。
「何なら、御都合のとき出直して伺いましょう。いつが宜しゅう、ございますか」
「なあに、そんな大した事じゃ無いのさ。――それじゃせっかくだから頼もうか」
「どうか御遠慮なく……」
「あの変人ね。そら君の旧友さ。苦沙弥とか何とか云うじゃないか」
「ええ苦沙弥がどうかしましたか」
「いえ、どうもせんがね。あの事件以来胸糞がわるくってね」
「ごもっともで、全く苦沙弥は剛慢ですから……少しは自分の社会上の地位を考えているといいのですけれども、まるで一人天下ですから」
「そこさ。金に頭はさげん、実業家なんぞ――とか何とか、いろいろ小生意気な事を云うから、そんなら実業家の腕前を見せてやろう、と思ってね。こないだから大分弱らしているんだが、やっぱり頑張っているんだ。どうも剛情な奴だ。驚ろいたよ」
「どうも損得と云う観念の乏しい奴ですから無暗に痩我慢を張るんでしょう。昔からああ云う癖のある男で、つまり自分の損になる事に気が付かないんですから度し難いです」
「あはははほんとに度し難い。いろいろ手を易え品を易えてやって見るんだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした」
「そいつは妙案ですな。利目がございましたか」
「これにゃあ、奴も大分困ったようだ。もう遠からず落城するに極っている」
「そりゃ結構です。いくら威張っても多勢に無勢ですからな」
「そうさ、一人じゃあ仕方がねえ。それで大分弱ったようだが、まあどんな様子か君に行って見て来てもらおうと云うのさ」
「はあ、そうですか。なに訳はありません。すぐ行って見ましょう。容子は帰りがけに御報知を致す事にして。面白いでしょう、あの頑固なのが意気銷沈しているところは、きっと見物ですよ」
「ああ、それじゃ帰りに御寄り、待っているから」
「それでは御免蒙ります」
おや今度もまた魂胆だ、なるほど実業家の勢力はえらいものだ、石炭の燃殻のような主人を逆上させるのも、苦悶の結果主人の頭が蠅滑りの難所となるのも、その頭がイスキラスと同様の運命に陥るのも皆実業家の勢力である。地球が地軸を廻転するのは何の作用かわからないが、世の中を動かすものはたしかに金である。この金の功力を心得て、この金の威光を自由に発揮するものは実業家諸君をおいてほかに一人もない。太陽が無事に東から出て、無事に西へ入るのも全く実業家の御蔭である。今まではわからずやの窮措大の家に養なわれて実業家の御利益を知らなかったのは、我ながら不覚である。それにしても冥頑不霊の主人も今度は少し悟らずばなるまい。これでも冥頑不霊で押し通す了見だと危ない。主人のもっとも貴重する命があぶない。彼は鈴木君に逢ってどんな挨拶をするのか知らん。その模様で彼の悟り具合も自から分明になる。愚図愚図してはおられん、猫だって主人の事だから大に心配になる。早々鈴木君をすり抜けて御先へ帰宅する。
鈴木君はあいかわらず調子のいい男である。今日は金田の事などはおくびにも出さない、しきりに当り障りのない世間話を面白そうにしている。
「君少し顔色が悪いようだぜ、どうかしやせんか」
「別にどこも何ともないさ」
「でも蒼いぜ、用心せんといかんよ。時候がわるいからね。よるは安眠が出来るかね」
「うん」
「何か心配でもありゃしないか、僕に出来る事なら何でもするぜ。遠慮なく云い給え」
「心配って、何を?」
「いえ、なければいいが、もしあればと云う事さ。心配が一番毒だからな。世の中は笑って面白く暮すのが得だよ。どうも君はあまり陰気過ぎるようだ」
「笑うのも毒だからな。無暗に笑うと死ぬ事があるぜ」
「冗談云っちゃいけない。笑う門には福来るさ」
「昔し希臘にクリシッパスと云う哲学者があったが、君は知るまい」
「知らない。それがどうしたのさ」
「その男が笑い過ぎて死んだんだ」
「へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから……」
「昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬が銀の丼から無花果を食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗に笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」
「はははしかしそんなに留め度もなく笑わなくってもいいさ。少し笑う――適宜に、――そうするといい心持ちだ」
鈴木君がしきりに主人の動静を研究していると、表の門ががらがらとあく、客来かと思うとそうでない。
「ちょっとボールが這入りましたから、取らして下さい」
下女は台所から「はい」と答える。書生は裏手へ廻る。鈴木は妙な顔をして何だいと聞く。
「裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ」
「裏の書生? 裏に書生がいるのかい」
「落雲館と云う学校さ」
「ああそうか、学校か。随分騒々しいだろうね」
「騒々しいの何のって。碌々勉強も出来やしない。僕が文部大臣なら早速閉鎖を命じてやる」
「ハハハ大分怒ったね。何か癪に障る事でも有るのかい」
「あるのないのって、朝から晩まで癪に障り続けだ」
「そんなに癪に障るなら越せばいいじゃないか」
「誰が越すもんか、失敬千万な」
「僕に怒ったって仕方がない。なあに小供だあね、打ちゃっておけばいいさ」
「君はよかろうが僕はよくない。昨日は教師を呼びつけて談判してやった」
「それは面白かったね。恐れ入ったろう」
「うん」
この時また門口をあけて「ちょっとボールが這入りましたから取らして下さい」と云う声がする。
「いや大分来るじゃないか、またボールだぜ君」
「うん、表から来るように契約したんだ」
「なるほどそれであんなにくるんだね。そうーか、分った」
「何が分ったんだい」
「なに、ボールを取りにくる源因がさ」
「今日はこれで十六返目だ」
「君うるさくないか。来ないようにしたらいいじゃないか」
「来ないようにするったって、来るから仕方がないさ」
「仕方がないと云えばそれまでだが、そう頑固にしていないでもよかろう。人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあ何だね。どうしても金のあるものに、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痛めて、からだは悪くなる、人は褒めてくれず。向うは平気なものさ。坐って人を使いさえすればすむんだから。多勢に無勢どうせ、叶わないのは知れているさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強に障ったり、毎日の業務に煩を及ぼしたり、とどのつまりが骨折り損の草臥儲けだからね」
「ご免なさい。今ちょっとボールが飛びましたから、裏口へ廻って、取ってもいいですか」
「そらまた来たぜ」と鈴木君は笑っている。
「失敬な」と主人は真赤になっている。
鈴木君はもう大概訪問の意を果したと思ったから、それじゃ失敬ちと来たまえと帰って行く。
入れ代ってやって来たのが甘木先生である。逆上家が自分で逆上家だと名乗る者は昔しから例が少ない、これは少々変だなと覚った時は逆上の峠はもう越している。主人の逆上は昨日の大事件の際に最高度に達したのであるが、談判も竜頭蛇尾たるに係らず、どうかこうか始末がついたのでその晩書斎でつくづく考えて見ると少し変だと気が付いた。もっとも落雲館が変なのか、自分が変なのか疑を存する余地は充分あるが、何しろ変に違ない。いくら中学校の隣に居を構えたって、かくのごとく年が年中肝癪を起しつづけはちと変だと気が付いた。変であって見ればどうかしなければならん。どうするったって仕方がない、やはり医者の薬でも飲んで肝癪の源に賄賂でも使って慰撫するよりほかに道はない。こう覚ったから平生かかりつけの甘木先生を迎えて診察を受けて見ようと云う量見を起したのである。賢か愚か、その辺は別問題として、とにかく自分の逆上に気が付いただけは殊勝の志、奇特の心得と云わなければならん。甘木先生は例のごとくにこにこと落ちつき払って、「どうです」と云う。医者は大抵どうですと云うに極まってる。吾輩は「どうです」と云わない医者はどうも信用をおく気にならん。
「先生どうも駄目ですよ」
「え、何そんな事があるものですか」
「一体医者の薬は利くものでしょうか」
甘木先生も驚ろいたが、そこは温厚の長者だから、別段激した様子もなく、
「利かん事もないです」と穏かに答えた。
「私の胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じ事ですぜ」
「決して、そんな事はない」
「ないですかな。少しは善くなりますかな」と自分の胃の事を人に聞いて見る。
「そう急には、癒りません、だんだん利きます。今でももとより大分よくなっています」
「そうですかな」
「やはり肝癪が起りますか」
「起りますとも、夢にまで肝癪を起します」
「運動でも、少しなさったらいいでしょう」
「運動すると、なお肝癪が起ります」
甘木先生もあきれ返ったものと見えて、
「どれ一つ拝見しましょうか」と診察を始める。診察を終るのを待ちかねた主人は、突然大きな声を出して、
「先生、せんだって催眠術のかいてある本を読んだら、催眠術を応用して手癖のわるいんだの、いろいろな病気だのを直す事が出来ると書いてあったですが、本当でしょうか」と聞く。
「ええ、そう云う療法もあります」
「今でもやるんですか」
「ええ」
「催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか」
「なに訳はありません、私などもよく懸けます」
「先生もやるんですか」
「ええ、一つやって見ましょうか。誰でも懸らなければならん理窟のものです。あなたさえ善ければ懸けて見ましょう」
「そいつは面白い、一つ懸けて下さい。私もとうから懸かって見たいと思ったんです。しかし懸かりきりで眼が覚めないと困るな」
「なに大丈夫です。それじゃやりましょう」
相談はたちまち一決して、主人はいよいよ催眠術を懸けらるる事となった。吾輩は今までこんな事を見た事がないから心ひそかに喜んでその結果を座敷の隅から拝見する。先生はまず、主人の眼からかけ始めた。その方法を見ていると、両眼の上瞼を上から下へと撫でて、主人がすでに眼を眠っているにも係らず、しきりに同じ方向へくせを付けたがっている。しばらくすると先生は主人に向って「こうやって、瞼を撫でていると、だんだん眼が重たくなるでしょう」と聞いた。主人は「なるほど重くなりますな」と答える。先生はなお同じように撫でおろし、撫でおろし「だんだん重くなりますよ、ようござんすか」と云う。主人もその気になったものか、何とも云わずに黙っている。同じ摩擦法はまた三四分繰り返される。最後に甘木先生は「さあもう開きませんぜ」と云われた。可哀想に主人の眼はとうとう潰れてしまった。「もう開かんのですか」「ええもうあきません」主人は黙然として目を眠っている。吾輩は主人がもう盲目になったものと思い込んでしまった。しばらくして先生は「あけるなら開いて御覧なさい。とうていあけないから」と云われる。「そうですか」と云うが早いか主人は普通の通り両眼を開いていた。主人はにやにや笑いながら「懸かりませんな」と云うと甘木先生も同じく笑いながら「ええ、懸りません」と云う。催眠術はついに不成功に了る。甘木先生も帰る。
その次に来たのが――主人のうちへこのくらい客の来た事はない。交際の少ない主人の家にしてはまるで嘘のようである。しかし来たに相違ない。しかも珍客が来た。吾輩がこの珍客の事を一言でも記述するのは単に珍客であるがためではない。吾輩は先刻申す通り大事件の余瀾を描きつつある。しかしてこの珍客はこの余瀾を描くに方って逸すべからざる材料である。何と云う名前か知らん、ただ顔の長い上に、山羊のような髯を生やしている四十前後の男と云えばよかろう。迷亭の美学者たるに対して、吾輩はこの男を哲学者と呼ぶつもりである。なぜ哲学者と云うと、何も迷亭のように自分で振り散らすからではない、ただ主人と対話する時の様子を拝見しているといかにも哲学者らしく思われるからである。これも昔しの同窓と見えて両人共応対振りは至極打ち解けた有様だ。
「うん迷亭か、あれは池に浮いてる金魚麩のようにふわふわしているね。せんだって友人を連れて一面識もない華族の門前を通行した時、ちょっと寄って茶でも飲んで行こうと云って引っ張り込んだそうだが随分呑気だね」
「それでどうしたい」
「どうしたか聞いても見なかったが、――そうさ、まあ天稟の奇人だろう、その代り考も何もない全く金魚麩だ。鈴木か、――あれがくるのかい、へえー、あれは理窟はわからんが世間的には利口な男だ。金時計は下げられるたちだ。しかし奥行きがないから落ちつきがなくって駄目だ。円滑円滑と云うが、円滑の意味も何もわかりはせんよ。迷亭が金魚麩ならあれは藁で括った蒟蒻だね。ただわるく滑かでぶるぶる振えているばかりだ」
主人はこの奇警な比喩を聞いて、大に感心したものらしく、久し振りでハハハと笑った。
「そんなら君は何だい」
「僕か、そうさな僕なんかは――まあ自然薯くらいなところだろう。長くなって泥の中に埋ってるさ」
「君は始終泰然として気楽なようだが、羨ましいな」
「なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。別に羨まれるに足るほどの事もない。ただありがたい事に人を羨む気も起らんから、それだけいいね」
「会計は近頃豊かかね」
「なに同じ事さ。足るや足らずさ。しかし食うているから大丈夫。驚かないよ」
「僕は不愉快で、肝癪が起ってたまらん。どっちを向いても不平ばかりだ」
「不平もいいさ。不平が起ったら起してしまえば当分はいい心持ちになれる。人間はいろいろだから、そう自分のように人にもなれと勧めたって、なれるものではない。箸は人と同じように持たんと飯が食いにくいが、自分の麺麭は自分の勝手に切るのが一番都合がいいようだ。上手な仕立屋で着物をこしらえれば、着たてから、からだに合ったのを持ってくるが、下手の裁縫屋に誂えたら当分は我慢しないと駄目さ。しかし世の中はうまくしたもので、着ているうちには洋服の方で、こちらの骨格に合わしてくれるから。今の世に合うように上等な両親が手際よく生んでくれれば、それが幸福なのさ。しかし出来損こなったら世の中に合わないで我慢するか、または世の中で合わせるまで辛抱するよりほかに道はなかろう」
「しかし僕なんか、いつまで立っても合いそうにないぜ、心細いね」
「あまり合わない背広を無理にきると綻びる。喧嘩をしたり、自殺をしたり騒動が起るんだね。しかし君なんかただ面白くないと云うだけで自殺は無論しやせず、喧嘩だってやった事はあるまい。まあまあいい方だよ」
「ところが毎日喧嘩ばかりしているさ。相手が出て来なくっても怒っておれば喧嘩だろう」
「なるほど一人喧嘩だ。面白いや、いくらでもやるがいい」
「それがいやになった」
「そんならよすさ」
「君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない」
「まあ全体何がそんなに不平なんだい」
主人はここにおいて落雲館事件を始めとして、今戸焼の狸から、ぴん助、きしゃごそのほかあらゆる不平を挙げて滔々と哲学者の前に述べ立てた。哲学者先生はだまって聞いていたが、ようやく口を開いて、かように主人に説き出した。
「ぴん助やきしゃごが何を云ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう云う点になると西洋人より昔しの日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。向に檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣り口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付く事があるものか。寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道を堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観るのもその通り。――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日を回らす事も、加茂川を逆に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬り付けられた時電光影裏に春風を斬るとか、何とか洒落れた事を云ったと云う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢に無勢の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。衆を恃む小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」
主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へ這入って書物も読まずに何か考えていた。
鈴木の藤さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。主人がいずれを択ぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないに極まっている。
九
主人は痘痕面である。御維新前はあばたも大分流行ったものだそうだが日英同盟の今日から見ると、こんな顔はいささか時候後れの感がある。あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くその迹を絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって、吾輩のごとき猫といえども毫も疑を挟む余地のないほどの名論である。現今地球上にあばたっ面を有して生息している人間は何人くらいあるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。人間にはたった一人ある。しかしてその一人が即ち主人である。はなはだ気の毒である。
吾輩は主人の顔を見る度に考える。まあ何の因果でこんな妙な顔をして臆面なく二十世紀の空気を呼吸しているのだろう。昔なら少しは幅も利いたか知らんが、あらゆるあばたが二の腕へ立ち退きを命ぜられた昨今、依然として鼻の頭や頬の上へ陣取って頑として動かないのは自慢にならんのみか、かえってあばたの体面に関する訳だ。出来る事なら今のうち取り払ったらよさそうなものだ。あばた自身だって心細いに違いない。それとも党勢不振の際、誓って落日を中天に挽回せずんばやまずと云う意気込みで、あんなに横風に顔一面を占領しているのか知らん。そうするとこのあばたは決して軽蔑の意をもって視るべきものでない。滔々たる流俗に抗する万古不磨の穴の集合体であって、大に吾人の尊敬に値する凸凹と云って宜しい。ただきたならしいのが欠点である。
主人の小供のときに牛込の山伏町に浅田宗伯と云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、かごがたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡を続いだら葛根湯がアンチピリンに化けるかも知れない。かごに乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をして澄していたものは旧弊な亡者と、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
主人のあばたもその振わざる事においては宗伯老のかごと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固な主人は依然として孤城落日のあばたを天下に曝露しつつ毎日登校してリードルを教えている。
かくのごとき前世紀の紀念を満面に刻して教壇に立つ彼は、その生徒に対して授業以外に大なる訓戒を垂れつつあるに相違ない。彼は「猿が手を持つ」を反覆するよりも「あばたの顔面に及ぼす影響」と云う大問題を造作もなく解釈して、不言の間にその答案を生徒に与えつつある。もし主人のような人間が教師として存在しなくなった暁には彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人を髣髴すると同程度の労力を費やさねばならぬ。この点から見ると主人の痘痕も冥々の裡に妙な功徳を施こしている。
もっとも主人はこの功徳を施こすために顔一面に疱瘡を種え付けたのではない。これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである。その頃は小供の事で今のように色気もなにもなかったものだから、痒い痒いと云いながら無暗に顔中引き掻いたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の上を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。主人は折々細君に向って疱瘡をせぬうちは玉のような男子であったと云っている。浅草の観音様で西洋人が振り反って見たくらい奇麗だったなどと自慢する事さえある。なるほどそうかも知れない。ただ誰も保証人のいないのが残念である。
いくら功徳になっても訓戒になっても、きたない者はやっぱりきたないものだから、物心がついて以来と云うもの主人は大にあばたについて心配し出して、あらゆる手段を尽してこの醜態を揉み潰そうとした。ところが宗伯老のかごと違って、いやになったからと云うてそう急に打ちやられるものではない。今だに歴然と残っている。この歴然が多少気にかかると見えて、主人は往来をあるく度毎にあばた面を勘定してあるくそうだ。今日何人あばたに出逢って、その主は男か女か、その場所は小川町の勧工場であるか、上野の公園であるか、ことごとく彼の日記につけ込んである。彼はあばたに関する智識においては決して誰にも譲るまいと確信している。せんだってある洋行帰りの友人が来た折なぞは、「君西洋人にはあばたがあるかな」と聞いたくらいだ。するとその友人が「そうだな」と首を曲げながらよほど考えたあとで「まあ滅多にないね」と云ったら、主人は「滅多になくっても、少しはあるかい」と念を入れて聞き返えした。友人は気のない顔で「あっても乞食か立ん坊だよ。教育のある人にはないようだ」と答えたら、主人は「そうかなあ、日本とは少し違うね」と云った。
哲学者の意見によって落雲館との喧嘩を思い留った主人はその後書斎に立て籠ってしきりに何か考えている。彼の忠告を容れて静坐の裡に霊活なる精神を消極的に修養するつもりかも知れないが、元来が気の小さな人間の癖に、ああ陰気な懐手ばかりしていては碌な結果の出ようはずがない。それより英書でも質に入れて芸者から喇叭節でも習った方が遥かにましだとまでは気が付いたが、あんな偏屈な男はとうてい猫の忠告などを聴く気遣はないから、まあ勝手にさせたらよかろうと五六日は近寄りもせずに暮した。
今日はあれからちょうど七日目である。禅家などでは一七日を限って大悟して見せるなどと凄じい勢で結跏する連中もある事だから、うちの主人もどうかなったろう、死ぬか生きるか何とか片付いたろうと、のそのそ椽側から書斎の入口まで来て室内の動静を偵察に及んだ。
書斎は南向きの六畳で、日当りのいい所に大きな机が据えてある。ただ大きな机ではわかるまい。長さ六尺、幅三尺八寸高さこれにかなうと云う大きな机である。無論出来合のものではない。近所の建具屋に談判して寝台兼机として製造せしめたる稀代の品物である。何の故にこんな大きな机を新調して、また何の故にその上に寝て見ようなどという了見を起したものか、本人に聞いて見ない事だから頓とわからない。ほんの一時の出来心で、かかる難物を担ぎ込んだのかも知れず、あるいはことによると一種の精神病者において吾人がしばしば見出すごとく、縁もゆかりもない二個の観念を連想して、机と寝台を勝手に結び付けたものかも知れない。とにかく奇抜な考えである。ただ奇抜だけで役に立たないのが欠点である。吾輩はかつて主人がこの机の上へ昼寝をして寝返りをする拍子に椽側へ転げ落ちたのを見た事がある。それ以来この机は決して寝台に転用されないようである。
机の前には薄っぺらなメリンスの座布団があって、煙草の火で焼けた穴が三つほどかたまってる。中から見える綿は薄黒い。この座布団の上に後ろ向きにかしこまっているのが主人である。鼠色によごれた兵児帯をこま結びにむすんだ左右がだらりと足の裏へ垂れかかっている。この帯へじゃれ付いて、いきなり頭を張られたのはこないだの事である。滅多に寄り付くべき帯ではない。
まだ考えているのか下手の考と云う喩もあるのにと後ろから覗き込んで見ると、机の上でいやにぴかぴかと光ったものがある。吾輩は思わず、続け様に二三度瞬をしたが、こいつは変だとまぶしいのを我慢してじっと光るものを見つめてやった。するとこの光りは机の上で動いている鏡から出るものだと云う事が分った。しかし主人は何のために書斎で鏡などを振り舞わしているのであろう。鏡と云えば風呂場にあるに極まっている。現に吾輩は今朝風呂場でこの鏡を見たのだ。この鏡ととくに云うのは主人のうちにはこれよりほかに鏡はないからである。主人が毎朝顔を洗ったあとで髪を分けるときにもこの鏡を用いる。――主人のような男が髪を分けるのかと聞く人もあるかも知れぬが、実際彼は他の事に無精なるだけそれだけ頭を叮嚀にする。吾輩が当家に参ってから今に至るまで主人はいかなる炎熱の日といえども五分刈に刈り込んだ事はない。必ず二寸くらいの長さにして、それを御大そうに左の方で分けるのみか、右の端をちょっと跳ね返して澄している。これも精神病の徴候かも知れない。こんな気取った分け方はこの机と一向調和しないと思うが、あえて他人に害を及ぼすほどの事でないから、誰も何とも云わない。本人も得意である。分け方のハイカラなのはさておいて、なぜあんなに髪を長くするのかと思ったら実はこう云う訳である。彼のあばたは単に彼の顔を侵蝕せるのみならず、とくの昔しに脳天まで食い込んでいるのだそうだ。だからもし普通の人のように五分刈や三分刈にすると、短かい毛の根本から何十となくあばたがあらわれてくる。いくら撫でても、さすってもぽつぽつがとれない。枯野に蛍を放ったようなもので風流かも知れないが、細君の御意に入らんのは勿論の事である。髪さえ長くしておけば露見しないですむところを、好んで自己の非を曝くにも当らぬ訳だ。なろう事なら顔まで毛を生やして、こっちのあばたも内済にしたいくらいなところだから、ただで生える毛を銭を出して刈り込ませて、私は頭蓋骨の上まで天然痘にやられましたよと吹聴する必要はあるまい。――これが主人の髪を長くする理由で、髪を長くするのが、彼の髪をわける原因で、その原因が鏡を見る訳で、その鏡が風呂場にある所以で、しこうしてその鏡が一つしかないと云う事実である。
風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡が書斎に来ている以上は鏡が離魂病に罹ったのかまたは主人が風呂場から持って来たに相違ない。持って来たとすれば何のために持って来たのだろう。あるいは例の消極的修養に必要な道具かも知れない。昔し或る学者が何とかいう智識を訪うたら、和尚両肌を抜いで甎を磨しておられた。何をこしらえなさると質問をしたら、なにさ今鏡を造ろうと思うて一生懸命にやっておるところじゃと答えた。そこで学者は驚ろいて、なんぼ名僧でも甎を磨して鏡とする事は出来まいと云うたら、和尚からからと笑いながらそうか、それじゃやめよ、いくら書物を読んでも道はわからぬのもそんなものじゃろと罵ったと云うから、主人もそんな事を聞き噛って風呂場から鏡でも持って来て、したり顔に振り廻しているのかも知れない。大分物騒になって来たなと、そっと窺っている。
かくとも知らぬ主人ははなはだ熱心なる容子をもって一張来の鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜蝋燭を立てて、広い部屋のなかで一人鏡を覗き込むにはよほどの勇気がいるそうだ。吾輩などは始めて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと仰天して屋敷のまわりを三度馳け回ったくらいである。いかに白昼といえども、主人のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔が怖くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」と独り言を云った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己れの醜悪な事が怖くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱は出来ない。主人もここまで来たらついでに「おお怖い」とでも云いそうなものであるがなかなか云わない。「なるほどきたない顔だ」と云ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと頬っぺたを膨らました。そうしてふくれた頬っぺたを平手で二三度叩いて見る。何のまじないだか分らない。この時吾輩は何だかこの顔に似たものがあるらしいと云う感じがした。よくよく考えて見るとそれは御三の顔である。ついでだから御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれはふくれたものである。この間さる人が穴守稲荷から河豚の提灯をみやげに持って来てくれたが、ちょうどあの河豚提灯のようにふくれている。あまりふくれ方が残酷なので眼は両方共紛失している。もっとも河豚のふくれるのは万遍なく真丸にふくれるのだが、お三とくると、元来の骨格が多角性であって、その骨格通りにふくれ上がるのだから、まるで水気になやんでいる六角時計のようなものだ。御三が聞いたらさぞ怒るだろうから、御三はこのくらいにしてまた主人の方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもって頬っぺたをふくらませたる彼は前申す通り手のひらで頬ぺたを叩きながら「このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん」とまた独り語をいった。
こんどは顔を横に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方が平に見える。奇体な物だなあ」と大分感心した様子であった。それから右の手をうんと伸して、出来るだけ鏡を遠距離に持って行って静かに熟視している。「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。――顔ばかりじゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを云う。次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額や眉を一度にこの中心に向ってくしゃくしゃとあつめた。見るからに不愉快な容貌が出来上ったと思ったら「いやこれは駄目だ」と当人も気がついたと見えて早々やめてしまった。「なぜこんなに毒々しい顔だろう」と少々不審の体で鏡を眼を去る三寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人指しゆびで小鼻を撫でて、撫でた指の頭を机の上にあった吸取り紙の上へ、うんと押しつける。吸い取られた鼻の膏が丸るく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それから主人は鼻の膏を塗抹した指頭を転じてぐいと右眼の下瞼を裏返して、俗に云うべっかんこうを見事にやって退けた。あばたを研究しているのか、鏡と睨め競をしているのかその辺は少々不明である。気の多い主人の事だから見ているうちにいろいろになると見える。それどころではない。もし善意をもって蒟蒻問答的に解釈してやれば主人は見性自覚の方便としてかように鏡を相手にいろいろな仕草を演じているのかも知れない。すべて人間の研究と云うものは自己を研究するのである。天地と云い山川と云い日月と云い星辰と云うも皆自己の異名に過ぎぬ。自己を措いて他に研究すべき事項は誰人にも見出し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。朝に法を聴き、夕に道を聴き、梧前灯下に書巻を手にするのは皆この自証を挑撥するの方便の具に過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、乃至は五車にあまる蠧紙堆裏に自己が存在する所以がない。あれば自己の幽霊である。もっともある場合において幽霊は無霊より優るかも知れない。影を追えば本体に逢着する時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。この意味で主人が鏡をひねくっているなら大分話せる男だ。エピクテタスなどを鵜呑にして学者ぶるよりも遥かにましだと思う。
鏡は己惚の醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動する道具はない。昔から増上慢をもって己を害し他を※(「爿+戈」、第4水準2-12-83)うた事蹟の三分の二はたしかに鏡の所作である。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚のわるい事だろう。しかし自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然だ。こんな顔でよくまあ人で候と反りかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど尊とく見える事はない。この自覚性馬鹿の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然として吾を軽侮嘲笑しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見て己れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕の銘くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の賤しきを会得する楷梯にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。
かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも知らぬ主人は思う存分あかんべえをしたあとで「大分充血しているようだ。やっぱり慢性結膜炎だ」と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血した瞼をこすり始めた。大方痒いのだろうけれども、たださえあんなに赤くなっているものを、こう擦ってはたまるまい。遠からぬうちに塩鯛の眼玉のごとく腐爛するにきまってる。やがて眼を開いて鏡に向ったところを見ると、果せるかなどんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっとも平常からあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容詞を用いると混沌として黒眼と白眼が剖判しないくらい漠然としている。彼の精神が朦朧として不得要領底に一貫しているごとく、彼の眼も曖々然昧々然として長えに眼窩の奥に漂うている。これは胎毒のためだとも云うし、あるいは疱瘡の余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙の厄介になった事もあるそうだが、せっかく母親の丹精も、あるにその甲斐あらばこそ、今日まで生れた当時のままでぼんやりしている。吾輩ひそかに思うにこの状態は決して胎毒や疱瘡のためではない。彼の眼玉がかように晦渋溷濁の悲境に彷徨しているのは、とりも直さず彼の頭脳が不透不明の実質から構成されていて、その作用が暗憺溟濛の極に達しているから、自然とこれが形体の上にあらわれて、知らぬ母親にいらぬ心配を掛けたんだろう。煙たって火あるを知り、まなこ濁って愚なるを証す。して見ると彼の眼は彼の心の象徴で、彼の心は天保銭のごとく穴があいているから、彼の眼もまた天保銭と同じく、大きな割合に通用しないに違ない。
今度は髯をねじり始めた。元来から行儀のよくない髯でみんな思い思いの姿勢をとって生えている。いくら個人主義が流行る世の中だって、こう町々に我儘を尽くされては持主の迷惑はさこそと思いやられる、主人もここに鑑みるところあって近頃は大に訓練を与えて、出来る限り系統的に按排するように尽力している。その熱心の功果は空しからずして昨今ようやく歩調が少しととのうようになって来た。今までは髯が生えておったのであるが、この頃は髯を生やしているのだと自慢するくらいになった。熱心は成効の度に応じて鼓舞せられるものであるから、吾が髯の前途有望なりと見てとって主人は朝な夕な、手がすいておれば必ず髯に向って鞭撻を加える。彼のアムビションは独逸皇帝陛下のように、向上の念の熾な髯を蓄えるにある。それだから毛孔が横向であろうとも、下向であろうとも聊か頓着なく十把一とからげに握っては、上の方へ引っ張り上げる。髯もさぞかし難儀であろう、所有主たる主人すら時々は痛い事もある。がそこが訓練である。否でも応でもさかに扱き上げる。門外漢から見ると気の知れない道楽のようであるが、当局者だけは至当の事と心得ている。教育者がいたずらに生徒の本性を撓めて、僕の手柄を見給えと誇るようなもので毫も非難すべき理由はない。
主人が満腔の熱誠をもって髯を調練していると、台所から多角性の御三が郵便が参りましたと、例のごとく赤い手をぬっと書斎の中へ出した。右手に髯をつかみ、左手に鏡を持った主人は、そのまま入口の方を振りかえる。八の字の尾に逆か立ちを命じたような髯を見るや否や御多角はいきなり台所へ引き戻して、ハハハハと御釜の蓋へ身をもたして笑った。主人は平気なものである。悠々と鏡をおろして郵便を取り上げた。第一信は活版ずりで何だかいかめしい文字が並べてある。読んで見ると
拝啓愈御多祥奉賀候回顧すれば日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて平和克復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳声裡に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか之に若かん曩に宣戦の大詔煥発せらるるや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異境に在りて克く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なり而して軍隊の凱旋は本月を以て殆んど終了を告げんとす依って本会は来る二十五日を期し本区内一千有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺族を慰藉せんが為め熱誠之を迎え聊感謝の微衷を表し度就ては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するの幸を得ば本会の面目不過之と存候間何卒御賛成奮って義捐あらんことを只管希望の至に堪えず候敬具
とあって差し出し人は華族様である。主人は黙読一過の後直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義捐金を二円とか三円とか出してから、逢う人毎に義捐をとられた、とられたと吹聴しているくらいである。義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには極っている。泥棒にあったのではあるまいし、とられたとは不穏当である。しかるにも関せず、盗難にでも罹ったかのごとくに思ってるらしい主人がいかに軍隊の歓迎だと云って、いかに華族様の勧誘だと云って、強談で持ちかけたらいざ知らず、活版の手紙くらいで金銭を出すような人間とは思われない。主人から云えば軍隊を歓迎する前にまず自分を歓迎したいのである。自分を歓迎した後なら大抵のものは歓迎しそうであるが、自分が朝夕に差し支える間は、歓迎は華族様に任せておく了見らしい。主人は第二信を取り上げたが「ヤ、これも活版だ」と云った。
時下秋冷の候に候処貴家益々御隆盛の段奉賀上候陳れば本校儀も御承知の通り一昨々年以来二三野心家の為めに妨げられ一時其極に達し候得共是れ皆不肖針作が足らざる所に起因すと存じ深く自ら警むる所あり臥薪甞胆其の苦辛の結果漸く茲に独力以て我が理想に適するだけの校舎新築費を得るの途を講じ候其は別義にも御座なく別冊裁縫秘術綱要と命名せる書冊出版の義に御座候本書は不肖針作が多年苦心研究せる工芸上の原理原則に法とり真に肉を裂き血を絞るの思を為して著述せるものに御座候因って本書を普く一般の家庭へ製本実費に些少の利潤を附して御購求を願い一面斯道発達の一助となすと同時に又一面には僅少の利潤を蓄積して校舎建築費に当つる心算に御座候依っては近頃何共恐縮の至りに存じ候えども本校建築費中へ御寄附被成下と御思召し茲に呈供仕候秘術綱要一部を御購求の上御侍女の方へなりとも御分与被成下候て御賛同の意を御表章被成下度伏して懇願仕候※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々敬具
大日本女子裁縫最高等大学院校長 縫田針作 九拝とある。主人はこの鄭重なる書面を、冷淡に丸めてぽんと屑籠の中へ抛り込んだ。せっかくの針作君の九拝も臥薪甞胆も何の役にも立たなかったのは気の毒である。第三信にかかる。第三信はすこぶる風変りの光彩を放っている。状袋が紅白のだんだらで、飴ん棒の看板のごとくはなやかなる真中に珍野苦沙弥先生虎皮下と八分体で肉太に認めてある。中からお太さんが出るかどうだか受け合わないが表だけはすこぶる立派なものだ。
若し我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、若し天地を以て我を律すれば我は則ち陌上の塵のみ。すべからく道え、天地と我と什麼の交渉かある。……始めて海鼠を食い出せる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢は其勇気に於て重んずべし。海鼠を食えるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至っては只干瓢の酢味噌を知るのみ。干瓢の酢味噌を食って天下の士たるものは、われ未だ之を見ず。……
親友も汝を売るべし。父母も汝に私あるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴は固より頼みがたかるべし。爵禄は一朝にして失うべし。汝の頭中に秘蔵する学問には黴が生えるべし。汝何を恃まんとするか。天地の裡に何をたのまんとするか。神? 神は人間の苦しまぎれに捏造せる土偶のみ。人間のせつな糞の凝結せる臭骸のみ。恃むまじきを恃んで安しと云う。咄々、酔漢漫りに胡乱の言辞を弄して、蹣跚として墓に向う。油尽きて灯自ら滅す。業尽きて何物をか遺す。苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。……
人を人と思わざれば畏るる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世を憤るは如何。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於て得たるが如し。只他の吾を吾と思わぬ時に於て怫然として色を作す。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。……
吾の人を人と思うとき、他の吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的に天降る。此発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参多し先生何が故に服せざる。
在巣鴨 天道公平 再拝 針作君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄附金の依頼でないだけに七拝ほど横風に構えている。寄附金の依頼ではないがその代りすこぶる分りにくいものだ。どこの雑誌へ出しても没書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明をもって鳴る主人は必ず寸断寸断に引き裂いてしまうだろうと思のほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味を究めようという決心かも知れない。およそ天地の間にわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容易に解釈の出来るものだ。人間は馬鹿であると云おうが、人間は利口であると云おうが手もなくわかる事だ。それどころではない。人間は犬であると云っても豚であると云っても別に苦しむほどの命題ではない。山は低いと云っても構わん、宇宙は狭いと云っても差し支えはない。烏が白くて小町が醜婦で苦沙弥先生が君子でも通らん事はない。だからこんな無意味な手紙でも何とか蚊とか理窟さえつければどうとも意味はとれる。ことに主人のように知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて説明し通して来た男はなおさら意味をつけたがるのである。天気の悪るいのになぜグード・モーニングですかと生徒に問われて七日間考えたり、コロンバスと云う名は日本語で何と云いますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫するくらいな男には、干瓢の酢味噌が天下の士であろうと、朝鮮の仁参を食って革命を起そうと随意な意味は随処に湧き出る訳である。主人はしばらくしてグード・モーニング流にこの難解な言句を呑み込んだと見えて「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴な見識だ」と大変賞賛した。この一言でも主人の愚なところはよく分るが、翻って考えて見るといささかもっともな点もある。主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴するにも係らず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌る人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が那辺に存するかほとんど捕え難いからである。急に海鼠が出て来たり、せつな糞が出てくるからである。だから主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、道家で道徳経を尊敬し、儒家で易経を尊敬し、禅家で臨済録を尊敬すると一般で全く分らんからである。但し全然分らんでは気がすまんから勝手な註釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。――主人は恭しく八分体の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま懐手をして冥想に沈んでいる。
ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある。声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま毫も動こうとしない。取次に出るのは主人の役目でないという主義か、この主人は決して書斎から挨拶をした事がない。下女は先刻洗濯石鹸を買いに出た。細君は憚りである。すると取次に出べきものは吾輩だけになる。吾輩だって出るのはいやだ。すると客人は沓脱から敷台へ飛び上がって障子を開け放ってつかつか上り込んで来た。主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うと襖を二三度あけたり閉てたりして、今度は書斎の方へやってくる。
「おい冗談じゃない。何をしているんだ、御客さんだよ」
「おや君か」
「おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか云えばいいのに、まるで空家のようじゃないか」
「うん、ちと考え事があるもんだから」
「考えていたって通れくらいは云えるだろう」
「云えん事もないさ」
「相変らず度胸がいいね」
「せんだってから精神の修養を力めているんだもの」
「物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」
「誰を連れて来たんだい」
「誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと云うんだから」
「誰だい」
「誰でもいいから立ちたまえ」
主人は懐手のままぬっと立ちながら「また人を担ぐつもりだろう」と椽側へ出て何の気もつかずに客間へ這入り込んだ。すると六尺の床を正面に一個の老人が粛然と端坐して控えている。主人は思わず懐から両手を出してぺたりと唐紙の傍へ尻を片づけてしまった。これでは老人と同じく西向きであるから双方共挨拶のしようがない。昔堅気の人は礼義はやかましいものだ。
「さあどうぞあれへ」と床の間の方を指して主人を促がす。主人は両三年前までは座敷はどこへ坐っても構わんものと心得ていたのだが、その後ある人から床の間の講釈を聞いて、あれは上段の間の変化したもので、上使が坐わる所だと悟って以来決して床の間へは寄りつかない男である。ことに見ず知らずの年長者が頑と構えているのだから上座どころではない。挨拶さえ碌には出来ない。一応頭をさげて
「さあどうぞあれへ」と向うの云う通りを繰り返した。
「いやそれでは御挨拶が出来かねますから、どうぞあれへ」
「いえ、それでは……どうぞあれへ」と主人はいい加減に先方の口上を真似ている。
「どうもそう、御謙遜では恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ」
「御謙遜では……恐れますから……どうか」主人は真赤になって口をもごもご云わせている。精神修養もあまり効果がないようである。迷亭君は襖の影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、後ろから主人の尻を押しやりながら
「まあ出たまえ。そう唐紙へくっついては僕が坐る所がない。遠慮せずに前へ出たまえ」と無理に割り込んでくる。主人はやむを得ず前の方へすり出る。
「苦沙弥君これが毎々君に噂をする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが苦沙弥君です」
「いや始めて御目にかかります、毎度迷亭が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日は御近所を通行致したもので、御礼旁伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共宜しく」と昔し風な口上を淀みなく述べたてる。主人は交際の狭い、無口な人間である上に、こんな古風な爺さんとはほとんど出会った事がないのだから、最初から多少場うての気味で辟易していたところへ、滔々と浴びせかけられたのだから、朝鮮仁参も飴ん棒の状袋もすっかり忘れてしまってただ苦しまぎれに妙な返事をする。
「私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく」と云い終って頭を少々畳から上げて見ると老人は未だに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。
老人は呼吸を計って首をあげながら「私ももとはこちらに屋敷も在って、永らく御膝元でくらしたものでがすが、瓦解の折にあちらへ参ってからとんと出てこんのでな。今来て見るとまるで方角も分らんくらいで、――迷亭にでも伴れてあるいてもらわんと、とても用達も出来ません。滄桑の変とは申しながら、御入国以来三百年も、あの通り将軍家の……」と云いかけると迷亭先生面倒だと心得て
「伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが、明治の代も結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょう」
「それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと云う事は明治の御代でなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日の総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいい」
「まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。袖が長過ぎて、襟がおっ開いて、背中へ池が出来て、腋の下が釣るし上がっている。いくら不恰好に作ろうと云ったって、こうまで念を入れて形を崩す訳にはゆかないだろう。その上白シャツと白襟が離れ離れになって、仰むくと間から咽喉仏が見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判然しない。フロックはまだ我慢が出来るが白髪のチョン髷ははなはだ奇観である。評判の鉄扇はどうかと目を注けると膝の横にちゃんと引きつけている。主人はこの時ようやく本心に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の服装に応用して少々驚いた。まさか迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上である。もし自分のあばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョン髷や鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。主人はどうかしてこの鉄扇の由来を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と云って話を途切らすのも礼に欠けると思って
「だいぶ人が出ましたろう」と極めて尋常な問をかけた。
「いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近来は人間が物見高くなったようでがすな。昔しはあんなではなかったが」
「ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしい事を云う。これはあながち主人が知っ高振りをした訳ではない。ただ朦朧たる頭脳から好い加減に流れ出す言語と見れば差し支えない。
「それにな。皆この甲割りへ目を着けるので」
「その鉄扇は大分重いものでございましょう」
「苦沙弥君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」
老人は重たそうに取り上げて「失礼でがすが」と主人に渡す。京都の黒谷で参詣人が蓮生坊の太刀を戴くようなかたで、苦沙弥先生しばらく持っていたが「なるほど」と云ったまま老人に返却した。
「みんながこれを鉄扇鉄扇と云うが、これは甲割と称えて鉄扇とはまるで別物で……」
「へえ、何にしたものでございましょう」
「兜を割るので、――敵の目がくらむ所を撃ちとったものでがす。楠正成時代から用いたようで……」
「伯父さん、そりゃ正成の甲割ですかね」
「いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代の作かも知れない」
「建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ。苦沙弥君、今日帰りにちょうどいい機会だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
「いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、性のいい鉄だから決してそんな虞れはない」
「いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう云ったから仕方がないです」
「寒月というのは、あのガラス球を磨っている男かい。今の若さに気の毒な事だ。もう少し何かやる事がありそうなものだ」
「可愛想に、あれだって研究でさあ。あの球を磨り上げると立派な学者になれるんですからね」
「玉を磨りあげて立派な学者になれるなら、誰にでも出来る。わしにでも出来る。ビードロやの主人にでも出来る。ああ云う事をする者を漢土では玉人と称したもので至って身分の軽いものだ」と云いながら主人の方を向いて暗に賛成を求める。
「なるほど」と主人はかしこまっている。
「すべて今の世の学問は皆形而下の学でちょっと結構なようだが、いざとなるとすこしも役には立ちませんてな。昔はそれと違って侍は皆命懸けの商買だから、いざと云う時に狼狽せぬように心の修業を致したもので、御承知でもあらっしゃろうがなかなか玉を磨ったり針金を綯ったりするような容易いものではなかったのでがすよ」
「なるほど」とやはりかしこまっている。
「伯父さん心の修業と云うものは玉を磨る代りに懐手をして坐り込んでるんでしょう」
「それだから困る。決してそんな造作のないものではない。孟子は求放心と云われたくらいだ。邵康節は心要放と説いた事もある。また仏家では中峯和尚と云うのが具不退転と云う事を教えている。なかなか容易には分らん」
「とうてい分りっこありませんね。全体どうすればいいんです」
「御前は沢菴禅師の不動智神妙録というものを読んだ事があるかい」
「いいえ、聞いた事もありません」
「心をどこに置こうぞ。敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人の構に心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころはないとある」
「よく忘れずに暗誦したものですね。伯父さんもなかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙弥君分ったかい」
「なるほど」と今度もなるほどですましてしまった。
「なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば……」
「伯父さん苦沙弥君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ」
「や、それは御奇特な事で――御前などもちとごいっしょにやったらよかろう」
「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだだもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」
「実際遊んでるじゃないかの」
「ところが閑中自から忙ありでね」
「そう、粗忽だから修業をせんといかないと云うのよ、忙中自ら閑ありと云う成句はあるが、閑中自ら忙ありと云うのは聞いた事がない。なあ苦沙弥さん」
「ええ、どうも聞きませんようで」
「ハハハハそうなっちゃあ敵わない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻でも食っちゃあ。竹葉でも奢りましょう。これから電車で行くとすぐです」
「鰻も結構だが、今日はこれからすい原へ行く約束があるから、わしはこれで御免を蒙ろう」
「ああ杉原ですか、あの爺さんも達者ですね」
「杉原ではない、すい原さ。御前はよく間違ばかり云って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気をつけんといけない」
「だって杉原とかいてあるじゃありませんか」
「杉原と書いてすい原と読むのさ」
「妙ですね」
「なに妙な事があるものか。名目読みと云って昔からある事さ。蚯蚓を和名でみみずと云う。あれは目見ずの名目よみで。蝦蟆の事をかいると云うのと同じ事さ」
「へえ、驚ろいたな」
「蝦蟆を打ち殺すと仰向きにかえる。それを名目読みにかいると云う。透垣をすい垣、茎立をくく立、皆同じ事だ。杉原をすぎ原などと云うのは田舎ものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」
「じゃ、その、すい原へこれから行くんですか。困ったな」
「なに厭なら御前は行かんでもいい。わし一人で行くから」
「一人で行けますかい」
「あるいてはむずかしい。車を雇って頂いて、ここから乗って行こう」
主人は畏まって直ちに御三を車屋へ走らせる。老人は長々と挨拶をしてチョン髷頭へ山高帽をいただいて帰って行く。迷亭はあとへ残る。
「あれが君の伯父さんか」
「あれが僕の伯父さんさ」
「なるほど」と再び座蒲団の上に坐ったなり懐手をして考え込んでいる。
「ハハハ豪傑だろう。僕もああ云う伯父さんを持って仕合せなものさ。どこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。君驚ろいたろう」と迷亭君は主人を驚ろかしたつもりで大に喜んでいる。
「なにそんなに驚きゃしない」
「あれで驚かなけりゃ、胆力の据ったもんだ」
「しかしあの伯父さんはなかなかえらいところがあるようだ。精神の修養を主張するところなぞは大に敬服していい」
「敬服していいかね。君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように、時候おくれになるかも知れないぜ。しっかりしてくれたまえ。時候おくれの廻り持ちなんか気が利かないよ」
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一今の学問と云うものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味がある。心そのものの修業をするのだから」とせんだって哲学者から承わった通りを自説のように述べ立てる。
「えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙君のような事を云ってるね」
八木独仙と云う名を聞いて主人ははっと驚ろいた。実はせんだって臥竜窟を訪問して主人を説服に及んで悠然と立ち帰った哲学者と云うのが取も直さずこの八木独仙君であって、今主人が鹿爪らしく述べ立てている議論は全くこの八木独仙君の受売なのであるから、知らんと思った迷亭がこの先生の名を間不容髪の際に持ち出したのは暗に主人の一夜作りの仮鼻を挫いた訳になる。
「君独仙の説を聞いた事があるのかい」と主人は剣呑だから念を推して見る。
「聞いたの、聞かないのって、あの男の説ときたら、十年前学校にいた時分と今日と少しも変りゃしない」
「真理はそう変るものじゃないから、変らないところがたのもしいかも知れない」
「まあそんな贔負があるから独仙もあれで立ち行くんだね。第一八木と云う名からして、よく出来てるよ。あの髯が君全く山羊だからね。そうしてあれも寄宿舎時代からあの通りの恰好で生えていたんだ。名前の独仙なども振ったものさ。昔し僕のところへ泊りがけに来て例の通り消極的の修養と云う議論をしてね。いつまで立っても同じ事を繰り返してやめないから、僕が君もう寝ようじゃないかと云うと、先生気楽なものさ、いや僕は眠くないとすまし切って、やっぱり消極論をやるには迷惑したね。仕方がないから君は眠くなかろうけれども、僕の方は大変眠いのだから、どうか寝てくれたまえと頼むようにして寝かしたまではよかったが――その晩鼠が出て独仙君の鼻のあたまを噛ってね。夜なかに大騒ぎさ。先生悟ったような事を云うけれども命は依然として惜しかったと見えて、非常に心配するのさ。鼠の毒が総身にまわると大変だ、君どうかしてくれと責めるには閉口したね。それから仕方がないから台所へ行って紙片へ飯粒を貼ってごまかしてやったあね」
「どうして」
「これは舶来の膏薬で、近来独逸の名医が発明したので、印度人などの毒蛇に噛まれた時に用いると即効があるんだから、これさえ貼っておけば大丈夫だと云ってね」
「君はその時分からごまかす事に妙を得ていたんだね」
「……すると独仙君はああ云う好人物だから、全くだと思って安心してぐうぐう寝てしまったのさ。あくる日起きて見ると膏薬の下から糸屑がぶらさがって例の山羊髯に引っかかっていたのは滑稽だったよ」
「しかしあの時分より大分えらくなったようだよ」
「君近頃逢ったのかい」
「一週間ばかり前に来て、長い間話しをして行った」
「どうりで独仙流の消極説を振り舞わすと思った」
「実はその時大に感心してしまったから、僕も大に奮発して修養をやろうと思ってるところなんだ」
「奮発は結構だがね。あんまり人の云う事を真に受けると馬鹿を見るぜ。一体君は人の言う事を何でもかでも正直に受けるからいけない。独仙も口だけは立派なものだがね、いざとなると御互と同じものだよ。君九年前の大地震を知ってるだろう。あの時寄宿の二階から飛び降りて怪我をしたものは独仙君だけなんだからな」
「あれには当人大分説があるようじゃないか」
「そうさ、当人に云わせるとすこぶるありがたいものさ。禅の機鋒は峻峭なもので、いわゆる石火の機となると怖いくらい早く物に応ずる事が出来る。ほかのものが地震だと云って狼狽えているところを自分だけは二階の窓から飛び下りたところに修業の効があらわれて嬉しいと云って、跛を引きながらうれしがっていた。負惜みの強い男だ。一体禅とか仏とか云って騒ぎ立てる連中ほどあやしいのはないぜ」
「そうかな」と苦沙弥先生少々腰が弱くなる。
「この間来た時禅宗坊主の寝言見たような事を何か云ってったろう」
「うん電光影裏に春風をきるとか云う句を教えて行ったよ」
「その電光さ。あれが十年前からの御箱なんだからおかしいよ。無覚禅師の電光ときたら寄宿舎中誰も知らないものはないくらいだった。それに先生時々せき込むと間違えて電光影裏を逆さまに春風影裏に電光をきると云うから面白い。今度ためして見たまえ。向で落ちつき払って述べたてているところを、こっちでいろいろ反対するんだね。するとすぐ顛倒して妙な事を云うよ」
「君のようないたずらものに逢っちゃ叶わない」
「どっちがいたずら者だか分りゃしない。僕は禅坊主だの、悟ったのは大嫌だ。僕の近所に南蔵院と云う寺があるが、あすこに八十ばかりの隠居がいる。それでこの間の白雨の時寺内へ雷が落ちて隠居のいる庭先の松の木を割いてしまった。ところが和尚泰然として平気だと云うから、よく聞き合わせて見るとから聾なんだね。それじゃ泰然たる訳さ。大概そんなものさ。独仙も一人で悟っていればいいのだが、ややともすると人を誘い出すから悪い。現に独仙の御蔭で二人ばかり気狂にされているからな」
「誰が」
「誰がって。一人は理野陶然さ。独仙の御蔭で大に禅学に凝り固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になってしまった。円覚寺の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると云う大気焔さ。もっとも汽車の方で留ってくれたから一命だけはとりとめたが、その代り今度は火に入って焼けず、水に入って溺れぬ金剛不壊のからだだと号して寺内の蓮池へ這入ってぶくぶくあるき廻ったもんだ」
「死んだかい」
「その時も幸、道場の坊主が通りかかって助けてくれたが、その後東京へ帰ってから、とうとう腹膜炎で死んでしまった。死んだのは腹膜炎だが、腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬を食ったせいだから、つまるところは間接に独仙が殺したようなものさ」
「むやみに熱中するのも善し悪ししだね」と主人はちょっと気味のわるいという顔付をする。
「本当にさ。独仙にやられたものがもう一人同窓中にある」
「あぶないね。誰だい」
「立町老梅君さ。あの男も全く独仙にそそのかされて鰻が天上するような事ばかり言っていたが、とうとう君本物になってしまった」
「本物たあ何だい」
「とうとう鰻が天上して、豚が仙人になったのさ」
「何の事だい、それは」
「八木が独仙なら、立町は豚仙さ、あのくらい食い意地のきたない男はなかったが、あの食意地と禅坊主のわる意地が併発したのだから助からない。始めは僕らも気がつかなかったが今から考えると妙な事ばかり並べていたよ。僕のうちなどへ来て君あの松の木へカツレツが飛んできやしませんかの、僕の国では蒲鉾が板へ乗って泳いでいますのって、しきりに警句を吐いたものさ。ただ吐いているうちはよかったが君表のどぶへ金とんを掘りに行きましょうと促がすに至っては僕も降参したね。それから二三日するとついに豚仙になって巣鴨へ収容されてしまった。元来豚なんぞが気狂になる資格はないんだが、全く独仙の御蔭であすこまで漕ぎ付けたんだね。独仙の勢力もなかなかえらいよ」
「へえ、今でも巣鴨にいるのかい」
「いるだんじゃない。自大狂で大気焔を吐いている。近頃は立町老梅なんて名はつまらないと云うので、自ら天道公平と号して、天道の権化をもって任じている。すさまじいものだよ。まあちょっと行って見たまえ」
「天道公平?」
「天道公平だよ。気狂の癖にうまい名をつけたものだね。時々は孔平とも書く事がある。それで何でも世人が迷ってるからぜひ救ってやりたいと云うので、むやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。僕も四五通貰ったが、中にはなかなか長い奴があって不足税を二度ばかりとられたよ」
「それじゃ僕の所へ来たのも老梅から来たんだ」
「君の所へも来たかい。そいつは妙だ。やっぱり赤い状袋だろう」
「うん、真中が赤くて左右が白い。一風変った状袋だ」
「あれはね、わざわざ支那から取り寄せるのだそうだよ。天の道は白なり、地の道は白なり、人は中間に在って赤しと云う豚仙の格言を示したんだって……」
「なかなか因縁のある状袋だね」
「気狂だけに大に凝ったものさ。そうして気狂になっても食意地だけは依然として存しているものと見えて、毎回必ず食物の事がかいてあるから奇妙だ。君の所へも何とか云って来たろう」
「うん、海鼠の事がかいてある」
「老梅は海鼠が好きだったからね。もっともだ。それから?」
「それから河豚と朝鮮仁参か何か書いてある」
「河豚と朝鮮仁参の取り合せは旨いね。おおかた河豚を食って中ったら朝鮮仁参を煎じて飲めとでも云うつもりなんだろう」
「そうでもないようだ」
「そうでなくても構わないさ。どうせ気狂だもの。それっきりかい」
「まだある。苦沙弥先生御茶でも上がれと云う句がある」
「アハハハ御茶でも上がれはきびし過ぎる。それで大に君をやり込めたつもりに違ない。大出来だ。天道公平君万歳だ」と迷亭先生は面白がって、大に笑い出す。主人は少からざる尊敬をもって反覆読誦した書翰の差出人が金箔つきの狂人であると知ってから、最前の熱心と苦心が何だか無駄骨のような気がして腹立たしくもあり、また瘋癲病者の文章をさほど心労して翫味したかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人の作にこれほど感服する以上は自分も多少神経に異状がありはせぬかとの疑念もあるので、立腹と、慚愧と、心配の合併した状態で何だか落ちつかない顔付をして控えている。
折から表格子をあららかに開けて、重い靴の音が二た足ほど沓脱に響いたと思ったら「ちょっと頼みます、ちょっと頼みます」と大きな声がする。主人の尻の重いに反して迷亭はまたすこぶる気軽な男であるから、御三の取次に出るのも待たず、通れと云いながら隔ての中の間を二た足ばかりに飛び越えて玄関に躍り出した。人のうちへ案内も乞わずにつかつか這入り込むところは迷惑のようだが、人のうちへ這入った以上は書生同様取次を務めるからはなはだ便利である。いくら迷亭でも御客さんには相違ない、その御客さんが玄関へ出張するのに主人たる苦沙弥先生が座敷へ構え込んで動かん法はない。普通の男ならあとから引き続いて出陣すべきはずであるが、そこが苦沙弥先生である。平気に座布団の上へ尻を落ちつけている。但し落ちつけているのと、落ちついているのとは、その趣は大分似ているが、その実質はよほど違う。
玄関へ飛び出した迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「おい御主人ちょっと御足労だが出てくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない」と大きな声を出す。主人はやむを得ず懐手のままのそりのそりと出てくる。見ると迷亭君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶をしている。すこぶる威厳のない腰つきである。その名刺には警視庁刑事巡査吉田虎蔵とある。虎蔵君と並んで立っているのは二十五六の背の高い、いなせな唐桟ずくめの男である。妙な事にこの男は主人と同じく懐手をしたまま、無言で突立っている。何だか見たような顔だと思ってよくよく観察すると、見たようなどころじゃない。この間深夜御来訪になって山の芋を持って行かれた泥棒君である。おや今度は白昼公然と玄関からおいでになったな。
「おいこの方は刑事巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから、君に出頭しろと云うんで、わざわざおいでになったんだよ」
主人はようやく刑事が踏み込んだ理由が分ったと見えて、頭をさげて泥棒の方を向いて鄭寧に御辞儀をした。泥棒の方が虎蔵君より男振りがいいので、こっちが刑事だと早合点をしたのだろう。泥棒も驚ろいたに相違ないが、まさか私が泥棒ですよと断わる訳にも行かなかったと見えて、すまして立っている。やはり懐手のままである。もっとも手錠をはめているのだから、出そうと云っても出る気遣はない。通例のものならこの様子でたいていはわかるはずだが、この主人は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。御上の御威光となると非常に恐しいものと心得ている。もっとも理論上から云うと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいの事は心得ているのだが、実際に臨むといやにへえへえする。主人のおやじはその昔場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となってかように子に酬ったのかも知れない。まことに気の毒な至りである。
巡査はおかしかったと見えて、にやにや笑いながら「あしたね、午前九時までに日本堤の分署まで来て下さい。――盗難品は何と何でしたかね」
「盗難品は……」と云いかけたが、あいにく先生たいがい忘れている。ただ覚えているのは多々良三平の山の芋だけである。山の芋などはどうでも構わんと思ったが、盗難品は……と云いかけてあとが出ないのはいかにも与太郎のようで体裁がわるい。人が盗まれたのならいざ知らず、自分が盗まれておきながら、明瞭の答が出来んのは一人前ではない証拠だと、思い切って「盗難品は……山の芋一箱」とつけた。
泥棒はこの時よほどおかしかったと見えて、下を向いて着物の襟へあごを入れた。迷亭はアハハハと笑いながら「山の芋がよほど惜しかったと見えるね」と云った。巡査だけは存外真面目である。
「山の芋は出ないようだがほかの物件はたいがい戻ったようです。――まあ来て見たら分るでしょう。それでね、下げ渡したら請書が入るから、印形を忘れずに持っておいでなさい。――九時までに来なくってはいかん。日本堤分署です。――浅草警察署の管轄内の日本堤分署です。――それじゃ、さようなら」と独りで弁じて帰って行く。泥棒君も続いて門を出る。手が出せないので、門をしめる事が出来ないから開け放しのまま行ってしまった。恐れ入りながらも不平と見えて、主人は頬をふくらして、ぴしゃりと立て切った。
「アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ云う恭謙な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧なんだから困る」
「だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか」
「知らせに来るったって、先は商売だよ。当り前にあしらってりゃ沢山だ」
「しかしただの商売じゃない」
「無論ただの商売じゃない。探偵と云ういけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね」
「君そんな事を云うと、ひどい目に逢うぜ」
「ハハハそれじゃ刑事の悪口はやめにしよう。しかし刑事を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至っては、驚かざるを得んよ」
「誰が泥棒を尊敬したい」
「君がしたのさ」
「僕が泥棒に近付きがあるもんか」
「あるもんかって君は泥棒にお辞儀をしたじゃないか」
「いつ?」
「たった今平身低頭したじゃないか」
「馬鹿あ云ってら、あれは刑事だね」
「刑事があんななりをするものか」
「刑事だからあんななりをするんじゃないか」
「頑固だな」
「君こそ頑固だ」
「まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなに懐手なんかして、突立っているものかね」
「刑事だって懐手をしないとは限るまい」
「そう猛烈にやって来ては恐れ入るがね。君がお辞儀をする間あいつは始終あのままで立っていたのだぜ」
「刑事だからそのくらいの事はあるかも知れんさ」
「どうも自信家だな。いくら云っても聞かないね」
「聞かないさ。君は口先ばかりで泥棒だ泥棒だと云ってるだけで、その泥棒がはいるところを見届けた訳じゃないんだから。ただそう思って独りで強情を張ってるんだ」
迷亭もここにおいてとうてい済度すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭を凹ましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
「ともかくもあした行くつもりかい」
「行くとも、九時までに来いと云うから、八時から出て行く」
「学校はどうする」
「休むさ。学校なんか」と擲きつけるように云ったのは壮なものだった。
「えらい勢だね。休んでもいいのかい」
「いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣はない、大丈夫だ」と真直に白状してしまった。ずるい事もずるいが、単純なことも単純なものだ。
「君、行くのはいいが路を知ってるかい」
「知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう」とぷんぷんしている。
「静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る」
「いくらでも恐れ入るがいい」
「ハハハ日本堤分署と云うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原だよ」
「何だ?」
「吉原だよ」
「あの遊廓のある吉原か?」
「そうさ、吉原と云やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」と迷亭君またからかいかける。
主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡の体であったが、たちまち思い返して「吉原だろうが、遊廓だろうが、いったん行くと云った以上はきっと行く」と入らざるところに力味で見せた。愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
迷亭君は「まあ面白かろう、見て来たまえ」と云ったのみである。一波瀾を生じた刑事事件はこれで一先ず落着を告げた。迷亭はそれから相変らず駄弁を弄して日暮れ方、あまり遅くなると伯父に怒られると云って帰って行った。
迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた主人は再び拱手して下のように考え始めた。
「自分が感服して、大に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、迷亭の云う通り多少瘋癲的系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎とした二人の気狂の子分を有している。はなはだ危険である。滅多に近寄ると同系統内に引き摺り込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の余、これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平事実名立町老梅は純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。迷亭の記述が棒大のざれ言にもせよ、彼が瘋癲院中に盛名を擅ままにして天道の主宰をもって自ら任ずるは恐らく事実であろう。こう云う自分もことによると少々ござっているかも知れない。同気相求め、同類相集まると云うから、気狂の説に感服する以上は――少なくともその文章言辞に同情を表する以上は――自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化せられんでも軒を比べて狂人と隣り合せに居を卜するとすれば、境の壁を一重打ち抜いていつの間にか同室内に膝を突き合せて談笑する事がないとも限らん。こいつは大変だ。なるほど考えて見るとこのほどじゅうから自分の脳の作用は我ながら驚くくらい奇上に妙を点じ変傍に珍を添えている。脳漿一勺の化学的変化はとにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞と化する辺には不思議にも中庸を失した点が多い。舌上に竜泉なく、腋下に清風を生ぜざるも、歯根に狂臭あり、筋頭に瘋味あるをいかんせん。いよいよ大変だ。ことによるともうすでに立派な患者になっているのではないかしらん。まだ幸に人を傷けたり、世間の邪魔になる事をし出かさんからやはり町内を追払われずに、東京市民として存在しているのではなかろうか。こいつは消極の積極のと云う段じゃない。まず脈搏からして検査しなくてはならん。しかし脈には変りはないようだ。頭は熱いかしらん。これも別に逆上の気味でもない。しかしどうも心配だ。」
「こう自分と気狂ばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、どうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない。これは方法がわるかった。気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にしてその傍へ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない。それにはまず手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置こうぞ……あれも少々怪しいようだ。第二に寒月はどうだ。朝から晩まで弁当持参で球ばかり磨いている。これも棒組だ。第三にと……迷亭? あれはふざけ廻るのを天職のように心得ている。全く陽性の気狂に相違ない。第四はと……金田の妻君。あの毒悪な根性は全く常識をはずれている。純然たる気じるしに極ってる。第五は金田君の番だ。金田君には御目に懸った事はないが、まずあの細君を恭しくおっ立てて、琴瑟調和しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支えあるまい。非凡は気狂の異名であるから、まずこれも同類にしておいて構わない。それからと、――まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から云うとまだ芽生えだが、躁狂の点においては一世を空しゅうするに足る天晴な豪のものである。こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。案外心丈夫になって来た。ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のように崩れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多少理窟がわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院というものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」
以上は主人が当夜煢々たる孤灯の下で沈思熟慮した時の心的作用をありのままに描き出したものである。彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている。彼はカイゼルに似た八字髯を蓄うるにもかかわらず狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの凡倉である。のみならず彼はせっかくこの問題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついに何等の結論に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない男である。彼の結論の茫漠として、彼の鼻孔から迸出する朝日の煙のごとく、捕捉しがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事実である。
吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の膝の上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣をそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭を撫で廻しながら、突然この猫の皮を剥いでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない了見をむらむらと起したのを即座に気取って覚えずひやっとした事さえある。怖い事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合で幸にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩の大に栄誉とするところである。但し主人は「何が何だか分らなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。向後もし主人が気狂について考える事があるとすれば、もう一返出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路を取って、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、何条の径路をとって進もうとも、ついに「何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。
十
「あなた、もう七時ですよ」と襖越しに細君が声を掛けた。主人は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければならない時はうんと云う。このうんも容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい無精になると、どことなく趣があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う細君ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他は推して知るべしと云っても大した間違はなかろう。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。何も異性間に不人望な主人をこの際ことさらに暴露する必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年廻りのせいで細君に好かれないのだなどと理窟をつけていると、迷の種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。
言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、向をむいてうんさえ発せざる以上は、その曲は夫にあって、妻にあらずと論定したる細君は、遅くなっても知りませんよと云う姿勢で箒とはたきを担いで書斎の方へ行ってしまった。やがてぱたぱた書斎中を叩き散らす音がするのは例によって例のごとき掃除を始めたのである。一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていれば差し支えないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと云わざるを得ない。何が無意義であるかと云うと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。はたきを一通り障子へかけて、箒を一応畳の上へ滑らせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵の責任だに背負っておらん。かるが故に奇麗な所は毎日奇麗だが、ごみのある所、ほこりの積っている所はいつでもごみが溜ってほこりが積っている。告朔の※(「飲のへん+氣」、第4水準2-92-67)羊と云う故事もある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実に至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたきと箒が発明せられざる昔のごとく、毫も挙っておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。
吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ膳に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の香が鮑貝の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望を自ら事実の上に受取るまでは承知出来んものである。吾輩はたまらなくなって台所へ這出した。まずへっついの影にある鮑貝の中を覗いて見ると案に違わず、夕べ舐め尽したまま、闃然として、怪しき光が引窓を洩る初秋の日影にかがやいている。御三はすでに炊き立の飯を、御櫃に移して、今や七輪にかけた鍋の中をかきまぜつつある。釜の周囲には沸き上がって流れだした米の汁が、かさかさに幾条となくこびりついて、あるものは吉野紙を貼りつけたごとくに見える。もう飯も汁も出来ているのだから食わせてもよさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望通りにならなくったって元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら居候の身分だってひもじいに変りはない。と考え定めた吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた怨ずるがごとく泣いて見た。御三はいっこう顧みる景色がない。生れついてのお多角だから人情に疎いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの手際である。今度はにゃごにゃごとやって見た。その泣き声は吾ながら悲壮の音を帯びて天涯の遊子をして断腸の思あらしむるに足ると信ずる。御三は恬として顧みない。この女は聾なのかも知れない。聾では下女が勤まる訳がないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には色盲というのがあって、当人は完全な視力を具えているつもりでも、医者から云わせると片輪だそうだが、この御三は声盲なのだろう。声盲だって片輪に違いない。片輪のくせにいやに横風なものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから開けてくれろと云っても決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんや霜においてをやで、軒下に立ち明かして、日の出を待つのは、どんなに辛いかとうてい想像が出来るものではない。この間しめ出しを食った時なぞは野良犬の襲撃を蒙って、すでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の家根へかけ上って、終夜顫えつづけた事さえある。これ等は皆御三の不人情から胚胎した不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、感応のあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音と確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。御三は突然膝をついて、揚げ板を一枚はね除けて、中から堅炭の四寸ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を七輪の角でぽんぽんと敲いたら、長いのが三つほどに砕けて近所は炭の粉で真黒くなった。少々は汁の中へも這入ったらしい。御三はそんな事に頓着する女ではない。直ちにくだけたる三個の炭を鍋の尻から七輪の中へ押し込んだ。とうてい吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから悄然と茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか繁昌している。
顔を洗うと云ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来るはずがない。一番小さいのがバケツの中から濡れ雑巾を引きずり出してしきりに顔中撫で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびにおもちろいわと云う子だからこのくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木独仙君より悟っているかも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもって自ら任じているから、うがい茶碗をからからかんと抛出して「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に姉の云う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と云いながら雑巾を引っ張り返した。このばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが癇癪を起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時姉の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽた雫が垂れて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりがしたたか濡れる。坊やはこれでも元禄を着ているのである。元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、中形の模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が洒落れた事を云う。その癖この姉はついこの間まで元禄と双六とを間違えていた物識りである。
元禄で思い出したからついでに喋舌ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事で茸が飛んで来たり、御茶の味噌の女学校へ行ったり、恵比寿、台所と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺して見ると裏店と藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
坊やは――当人は坊やとは云わない。いつでも坊ばと云う――元禄が濡れたのを見て「元どこがべたい」と云って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を拭いてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉の瓶をあけて、しきりに御化粧を施している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと撫でたから竪に一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか分明になって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。すん子は少々不満の体に見えた。
吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。その代り十文半の甲の高い足が、夜具の裾から一本食み出している。頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまた箒とはたきを担いでやってくる。最前のように襖の入口から
「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入口から二歩ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時主人はすでに目が覚めている。覚めているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て籠ったのである。首さえ出さなければ、見逃してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺くらいの距離に追っていたにはちょっと驚ろいた。のみならず第二の「まだなんですか、あなた」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声でうんと返事をした。
「九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ」
「そんなに言わなくても今起きる」と夜着の袖口から答えたのは奇観である。妻君はいつでもこの手を食って、起きるかと思って安心していると、また寝込まれつけているから、油断は出来ないと「さあお起きなさい」とせめ立てる。起きると云うのに、なお起きろと責めるのは気に食わんものだ。主人のごとき我儘者にはなお気に食わん。ここにおいてか主人は今まで頭から被っていた夜着を一度に跳ねのけた。見ると大きな眼を二つとも開いている。
「何だ騒々しい。起きると云えば起きるのだ」
「起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか」
「誰がいつ、そんな嘘をついた」
「いつでもですわ」
「馬鹿を云え」
「どっちが馬鹿だか分りゃしない」と妻君ぷんとして箒を突いて枕元に立っているところは勇ましかった。この時裏の車屋の子供、八っちゃんが急に大きな声をしてワーと泣き出す。八っちゃんは主人が怒り出しさえすれば必ず泣き出すべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。かみさんは主人が怒るたんびに八っちゃんを泣かして小遣になるかも知れんが、八っちゃんこそいい迷惑だ。こんな御袋を持ったが最後朝から晩まで泣き通しに泣いていなくてはならない。少しはこの辺の事情を察して主人も少々怒るのを差し控えてやったら、八っちゃんの寿命が少しは延びるだろうに、いくら金田君から頼まれたって、こんな愚な事をするのは、天道公平君よりもはげしくおいでになっている方だと鑑定してもよかろう。怒るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、金田君が近所のゴロツキを傭って今戸焼をきめ込むたびに、八っちゃんは泣かねばならんのである。主人が怒るか怒らぬか、まだ判然しないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手廻しに八っちゃんは泣いているのである。こうなると主人が八っちゃんだか、八っちゃんが主人だか判然しなくなる。主人にあてつけるに手数は掛らない、ちょっと八っちゃんに剣突を食わせれば何の苦もなく、主人の横っ面を張った訳になる。昔し西洋で犯罪者を所刑にする時に、本人が国境外に逃亡して、捕えられん時は、偶像をつくって人間の代りに火あぶりにしたと云うが、彼等のうちにも西洋の故事に通暁する軍師があると見えて、うまい計略を授けたものである。落雲館と云い、八っちゃんの御袋と云い、腕のきかぬ主人にとっては定めし苦手であろう。そのほか苦手はいろいろある。あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。
八っちゃんの泣き声を聞いた主人は、朝っぱらからよほど癇癪が起ったと見えて、たちまちがばと布団の上に起き直った。こうなると精神修養も八木独仙も何もあったものじゃない。起き直りながら両方の手でゴシゴシゴシと表皮のむけるほど、頭中引き掻き廻す。一ヵ月も溜っているフケは遠慮なく、頸筋やら、寝巻の襟へ飛んでくる。非常な壮観である。髯はどうだと見るとこれはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。持主が怒っているのに髯だけ落ちついていてはすまないとでも心得たものか、一本一本に癇癪を起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。これとてもなかなかの見物である。昨日は鏡の手前もある事だから、おとなしく独乙皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目に帰って思い思いの出で立に戻るのである。あたかも主人の一夜作りの精神修養が、あくる日になると拭うがごとく奇麗に消え去って、生れついての野猪的本領が直ちに全面を暴露し来るのと一般である。こんな乱暴な髯をもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。広ければこそ金田君や金田君の犬が人間として通用しているのでもあろう。彼等が人間として通用する間は主人も免職になる理由がないと確信しているらしい。いざとなれば巣鴨へ端書を飛ばして天道公平君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。
この時主人は、昨日紹介した混沌たる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間を横に仕切って上下共各二枚の袋戸をはめたものである。下の方の戸棚は、布団の裾とすれすれの距離にあるから、起き直った主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙な腸があからさまに見える。腸にはいろいろなのがある。あるものは活版摺で、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。主人はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでも捕えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまで怒っていた主人が、突然この反古紙を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう云う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに最中の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。主人が昔し去る所の御寺に下宿していた時、襖一と重を隔てて尼が五六人いた。尼などと云うものは元来意地のわるい女のうちでもっとも意地のわるいものであるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊の鍋をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと云うが、尼は嫌にせよ全くそれに違ない。主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。よく云えば執着がなくて、心機がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、薄っ片の、鼻っ張だけ強いだだっ子である。すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくと刎ね起きた主人が急に気をかえて袋戸の腸を読みにかかるのももっともと云わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文の逆か立ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。韓国統監もこの時代から御布令の尻尾を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣はない。下の方に大きな木板で汝はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂である。次に眼を転じて真中を見ると真中には大分県が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へ握り拳をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。
このあくびがまた鯨の遠吠のようにすこぶる変調を極めた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団をまくって夜着を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終って、西洋手拭を肩へかけて、茶の間へ出御になると、超然として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と云うと欅の如輪木か、銅の総落しで、洗髪の姉御が立膝で、長煙管を黒柿の縁へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙弥先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人には見当のつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが身上なのだが、この代物は欅か桜か桐か元来不明瞭な上に、ほとんど布巾をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事夥しい。こんなものをどこから買って来たかと云うと、決して買った覚はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと糺して見ると、何だかその辺が曖昧である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙を容るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
長火鉢の傍に陣取って、食卓を前に控えたる主人の三面には、先刻雑巾で顔を洗った坊ばと御茶の味噌の学校へ行くとん子と、お白粉罎に指を突き込んだすん子が、すでに勢揃をして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄の刀の鍔のような輪廓を有している。すん子も妹だけに多少姉の面影を存して琉球塗の朱盆くらいな資格はある。ただ坊ばに至っては独り異彩を放って、面長に出来上っている。但し竪に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。いかに流行が変化し易くったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の速かなる事は禅寺の筍が若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、後ろから追手にせまられるような気がしてひやひやする。いかに空漠なる主人でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を云うとほかに何にもない。ただ入らざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。
さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気を利かして、食事のときには、三歳然たる小形の箸と茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい悪い奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽しているのである。その因って来るところはかくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶で癒せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。
坊ばは隣りから分捕った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を擅にしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、勢暴威を逞しくせざるを得ない。坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったままうんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に漲っている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいな事で辟易する訳がない。坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から刎ね上げた。同時に小さな口を縁まで持って行って、刎ね上げられた米粒を這入るだけ口の中へ受納した。打ち洩らされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまと頬っぺたと顋とへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算の限りでない。随分無分別な飯の食い方である。吾輩は謹んで有名なる金田君及び天下の勢力家に忠告する。公等の他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、公等の口へ飛び込む米粒は極めて僅少のものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、戸迷をして飛び込むのである。どうか御再考を煩わしたい。世故にたけた敏腕家にも似合しからぬ事だ。
姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ばに掠奪されて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁に御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちの蓋をあけて大きなしゃもじを取り上げて、しばらく眺めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、焦げのなさそうなところを見計って一掬いしゃもじの上へ乗せたまでは無難であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入りきらん飯は塊まったまま畳の上へ転がり出した。とん子は驚ろく景色もなく、こぼれた飯を鄭寧に拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。
坊ばが一大活躍を試みて箸を刎ね上げた時は、ちょうどとん子が飯をよそい了った時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、大変よ、顔が御ぜん粒だらけよ」と云いながら、早速坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓していたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。それから頬っぺたにかかる。ここには大分群をなして数にしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく沢庵をかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋のくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へ抛り込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中にこたえる者はない。大人ですら注意しないと火傷をしたような心持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験の乏しい者は無論狼狽する訳である。すん子はワッと云いながら口中の芋を食卓の上へ吐き出した。その二三片がどう云う拍子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばは固より薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸を抛り出して、手攫みにしてむしゃむしゃ食ってしまった。
先刻からこの体たらくを目撃していた主人は、一言も云わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに楊枝を使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶体的放任主義を執るつもりと見える。今に三人が海老茶式部か鼠式部かになって、三人とも申し合せたように情夫をこしらえて出奔しても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに撲ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情ない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。
かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に朝食を済ましたる主人は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。格子をあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊廓のある吉原の近辺の日本堤だぜと念を押したのは少々滑稽であった。
主人が珍らしく車で玄関から出掛けたあとで、妻君は例のごとく食事を済ませて「さあ学校へおいで。遅くなりますよ」と催促すると、小供は平気なもので「あら、でも今日は御休みよ」と支度をする景色がない。「御休みなもんですか、早くなさい」と叱るように言って聞かせると「それでも昨日、先生が御休だって、おっしゃってよ」と姉はなかなか動じない。妻君もここに至って多少変に思ったものか、戸棚から暦を出して繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。主人は祭日とも知らずに学校へ欠勤届を出したのだろう。細君も知らずに郵便箱へ抛り込んだのだろう。ただし迷亭に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明におやと驚ろいた妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと平生の通り針箱を出して仕事に取りかかる。
その後三十分間は家内平穏、別段吾輩の材料になるような事件も起らなかったが、突然妙な人が御客に来た。十七八の女学生である。踵のまがった靴を履いて、紫色の袴を引きずって、髪を算盤珠のようにふくらまして勝手口から案内も乞わずに上って来た。これは主人の姪である。学校の生徒だそうだが、折々日曜にやって来て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江とか云う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である。
「叔母さん今日は」と茶の間へつかつか這入って来て、針箱の横へ尻をおろした。
「おや、よく早くから……」
「今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃から家を出て急いで来たの」
「そう、何か用があるの?」
「いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっと上がったの」
「ちょっとでなくっていいから、緩くり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って来ますから」
「叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね」
「ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」
「あら、何で?」
「この春這入った泥棒がつらまったんだって」
「それで引き合に出されるの? いい迷惑ね」
「なあに品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに来いって、昨日巡査がわざわざ来たもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
「叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷん怒るのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと云うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へ潜って返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまたおこすと、夜着の袖から何か云うのよ。本当にあきれ返ってしまうの」
「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「何ですか」
「本当にむやみに怒る方ね。あれでよく学校が勤まるのね」
「なに学校じゃおとなしいんですって」
「じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔ね」
「なぜ?」
「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか」
「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と云えば左、左と云えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ」
「天探女でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを云うと、こっちの思い通りになるのよ。こないだ蝙蝠傘を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと云ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」
「ホホホホ旨いのね。わたしもこれからそうしよう」
「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」
「こないだ保険会社の人が来て、是非御這入んなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろ訳を言って、こう云う利益があるの、ああ云う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」
「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん世帯染みたことを云う。
「その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」
「叔父さんが?」
「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が逼っているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を云うんですよ」
「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」
「保険社員もそう云うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長が生きが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」
「保険会社の方が至当ですわ」
「至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」
「妙ね」
「妙ですとも、大妙ですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥かにましだってすまし切っているんですよ」
「貯金があるの?」
「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」
「本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃる方だって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」
「いるものですか。無類ですよ」
「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ云う穏やかな人だとよっぽど楽ですがねえ」
「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判がわるいのよ」
「みんな逆なのね。それじゃ、あの方がいいでしょう――ほらあの落ちついてる――」
「八木さん?」
「ええ」
「八木さんには大分閉口しているんですがね。昨日迷亭さんが来て悪口をいったものだから、思ったほど利かないかも知れない」
「だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚に落ちついていれば、――こないだ学校で演説をなすったわ」
「八木さんが?」
「ええ」
「八木さんは雪江さんの学校の先生なの」
「いいえ、先生じゃないけども、淑徳婦人会のときに招待して、演説をして頂いたの」
「面白かって?」
「そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のような髯を生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ」
「御話しって、どんな御話なの?」と妻君が聞きかけていると椽側の方から、雪江さんの話し声をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは竹垣の外の空地へ出て遊んでいたものであろう。
「あら雪江さんが来た」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな声を出す。妻君は「そんなに騒がないで、みんな静かにして御坐わりなさい。雪江さんが今面白い話をなさるところだから」と仕事を隅へ片付ける。
「雪江さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と云ったのはとん子で「やっぱりかちかち山の御話し?」と聞いたのはすん子である。「坊ばも御はなち」と云い出した三女は姉と姉の間から膝を前の方に出す。ただしこれは御話を承わると云うのではない、坊ばもまた御話を仕ると云う意味である。「あら、また坊ばちゃんの話だ」と姉さんが笑うと、妻君は「坊ばはあとでなさい。雪江さんの御話がすんでから」と賺かして見る。坊ばはなかなか聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と云うの?」と雪江さんは謙遜した。
「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」
「面白いのね。それから?」
「わたちは田圃へ稲刈いに」
「そう、よく知ってる事」
「御前がくうと邪魔になる」
「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変らず「ばぶ」と一喝して直ちに姉を辟易させる。しかし中途で口を出されたものだから、続きを忘れてしまって、あとが出て来ない。「坊ばちゃん、それぎりなの?」と雪江さんが聞く。
「あのね。あとでおならは御免だよ。ぷう、ぷうぷうって」
「ホホホホ、いやだ事、誰にそんな事を、教わったの?」
「御三に」
「わるい御三ね、そんな事を教えて」と妻君は苦笑をしていたが「さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と云うと、さすがの暴君も納得したと見えて、それぎり当分の間は沈黙した。
「八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとう口を切った。「昔ある辻の真中に大きな石地蔵があったんですってね。ところがそこがあいにく馬や車が通る大変賑やかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね、町内のものが大勢寄って、相談をして、どうしてこの石地蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」
「そりゃ本当にあった話なの?」
「どうですか、そんな事は何ともおっしゃらなくってよ。――でみんながいろいろ相談をしたら、その町内で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌を抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって」
「よっぽど重い石地蔵なのね」
「ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町内で一番利口な男が、私に任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅を一杯入れて、地蔵の前へ来て、『ここまでおいで』と云いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食意地が張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢箪へお酒を入れて、その瓢箪を片手へぶら下げて、片手へ猪口を持ってまた地蔵さんの前へ来て、さあ飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たがやはり動かないんですって」
「雪江さん、地蔵様は御腹が減らないの」ととん子がきくと「牡丹餅が食べたいな」とすん子が云った。
「利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札を沢山こしらえて、さあ欲しいだろう、欲しければ取りにおいでと札を出したり引っ込ましたりしたがこれもまるで益に立たないんですって。よっぽど頑固な地蔵様なのよ」
「そうね。すこし叔父さんに似ているわ」
「ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛想をつかしてやめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺を吹く人が出て、私ならきっと片づけて見せますからご安心なさいとさも容易い事のように受合ったそうです」
「その法螺を吹く人は何をしたんです」
「それが面白いのよ。最初にはね巡査の服をきて、付け髯をして、地蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮声なんか使ったって誰も聞きゃしないわね」
「本当ね、それで地蔵様は動いたの?」
「動くもんですか、叔父さんですもの」
「でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ」
「あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなに怖い事はないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は大変怒って、巡査の服を脱いで、付け髯を紙屑籠へ抛り込んで、今度は大金持ちの服装をして出て来たそうです。今の世で云うと岩崎男爵のような顔をするんですとさ。おかしいわね」
「岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も云わないで地蔵の周りを、大きな巻煙草をふかしながら歩行いているんですとさ」
「それが何になるの?」
「地蔵様を煙に捲くんです」
「まるで噺し家の洒落のようね。首尾よく煙に捲いたの?」
「駄目ですわ、相手が石ですもの。ごまかしもたいていにすればいいのに、今度は殿下さまに化けて来たんだって。馬鹿ね」
「へえ、その時分にも殿下さまがあるの?」
「有るんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多い事だが化けて来たって――第一不敬じゃありませんか、法螺吹きの分際で」
「殿下って、どの殿下さまなの」
「どの殿下さまですか、どの殿下さまだって不敬ですわ」
「そうね」
「殿下さまでも利かないでしょう。法螺吹きもしようがないから、とても私の手際では、あの地蔵はどうする事も出来ませんと降参をしたそうです」
「いい気味ね」
「ええ、ついでに懲役にやればいいのに。――でも町内のものは大層気を揉んで、また相談を開いたんですが、もう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです」
「それでおしまい?」
「まだあるのよ。一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って、地蔵様の周りをわいわい騒いであるいたんです。ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないようにすればいいと云って、夜昼交替で騒ぐんだって」
「御苦労様ですこと」
「それでも取り合わないんですとさ。地蔵様の方も随分強情ね」
「それから、どうして?」ととん子が熱心に聞く。
「それからね、いくら毎日毎日騒いでも験が見えないので、大分みんなが厭になって来たんですが、車夫やゴロツキは幾日でも日当になる事だから喜んで騒いでいましたとさ」
「雪江さん、日当ってなに?」とすん子が質問をする。
「日当と云うのはね、御金の事なの」
「御金をもらって何にするの?」
「御金を貰ってね。……ホホホホいやなすん子さんだ。――それで叔母さん、毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。その時町内に馬鹿竹と云って、何も知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方は何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かす事が出来ないのか、可哀想なものだ、と云ったそうですって――」
「馬鹿の癖にえらいのね」
「なかなかえらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹の云う事を聞いて、物はためしだ、どうせ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかとそれから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないでまあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして飄然と地蔵様の前へ出て来ました」
「雪江さん飄然て、馬鹿竹のお友達?」ととん子が肝心なところで奇問を放ったので、細君と雪江さんはどっと笑い出した。
「いいえお友達じゃないのよ」
「じゃ、なに?」
「飄然と云うのはね。――云いようがないわ」
「飄然て、云いようがないの?」
「そうじゃないのよ、飄然と云うのはね――」
「ええ」
「そら多々良三平さんを知ってるでしょう」
「ええ、山の芋をくれてよ」
「あの多々良さん見たようなを云うのよ」
「多々良さんは飄然なの?」
「ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手をして、地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと云うから動いてやんなさいと云ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう云えばいいのに、とのこのこ動き出したそうです」
「妙な地蔵様ね」
「それからが演説よ」
「まだあるの?」
「ええ、それから八木先生がね、今日は御婦人の会でありますが、私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊がある。もっともこれは御婦人に限った事でない。明治の代は男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数と労力を費やして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された畸形児である。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人に在ってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になって、いざと云う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑の間に起る忌わしき葛藤の三分一はたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆があればあるほど、その魂胆が祟って不幸の源をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と云う演説なの」
「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」
「やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変怒ってよ」
「金田の富子さんて、あの向横町の?」
「ええ、あのハイカラさんよ」
「あの人も雪江さんの学校へ行くの?」
「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ」
「でも大変いい器量だって云うじゃありませんか」
「並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすればたいていの人はよく見えるわ」
「それじゃ雪江さんなんぞはそのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう」
「あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あの方は全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって――」
「つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか」
「それもそうだけれども――あの方こそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗に威張るんですもの。この間もなんとか云う詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴しているんですもの」
「東風さんでしょう」
「あら、あの方が捧げたの、よっぽど物数奇ね」
「でも東風さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが当前だとまで思ってるんですもの」
「そんな人があるから、いけないんですよ。――それからまだ面白い事があるの。此間だれか、あの方の所へ艶書を送ったものがあるんだって」
「おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは」
「誰だかわからないんだって」
「名前はないの?」
「名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。私があなたを恋っているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠られるのが無上の名誉であるの、心臓の形ちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当りであるの……」
「そりゃ真面目なの?」
「真面目なんですとさ。現にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの」
「いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね」
「困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが来たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月さんはまるで御存じないんでしょう」
「どうですか、あの方は学校へ行って球ばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう」
「寒月さんは本当にあの方を御貰になる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」
「なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」
「叔母さんは、じきに金、金って品がわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」
「そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ御嫁に行くの?」
「そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの」
雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論を逞しくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴しているとん子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、大に同情を寄すべき雪江さんもちょっと毒気を抜かれた体であったが、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。
「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。
ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと云う声がした。主人は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、主人は悠然と茶の間へ這入って来る。「やあ、来たね」と雪江さんに挨拶しながら、例の有名なる長火鉢の傍へ、ぽかりと手に携えた徳利様のものを抛り出した。徳利様と云うのは純然たる徳利では無論ない、と云って花活けとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらくかように申したのである。
「妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの」と雪江さんが、倒れた奴を起しながら叔父さんに聞いて見る。叔父さんは、雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい恰好だろう」と自慢する。
「いい恰好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺なんか何で持っていらっしったの?」
「油壺なものか。そんな趣味のない事を云うから困る」
「じゃ、なあに?」
「花活さ」
「花活にしちゃ、口が小いさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」
「そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんと択ぶところなしだ。困ったものだな」と独りで油壺を取り上げて、障子の方へ向けて眺めている。
「どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。ねえ叔母さん」叔母さんはそれどころではない、風呂敷包を解いて皿眼になって、盗難品を検べている。「おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張をしてあるわ。ねえちょいと、あなた」
「誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ」
「珍品過ぎるわ。一体叔父さんはどこを散歩したの」
「どこって日本堤界隈さ。吉原へも這入って見た。なかなか盛な所だ。あの鉄の門を観た事があるかい。ないだろう」
「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦のいる所へ行く因縁がありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」
「ええ、そうね。どうも品数が足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか」
「戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと云いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」
「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」
「ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側がないんです。何だか足りないと思ったら」
「帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日潰してしまった」と日本服に着代えて平気に火鉢へもたれて油壺を眺めている。細君も仕方がないと諦めて、戻った品をそのまま戸棚へしまい込んで座に帰る。
「叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」
「それを吉原で買っていらしったの? まあ」
「何がまあだ。分りもしない癖に」
「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」
「ところがないんだよ。滅多に有る品ではないんだよ」
「叔父さんは随分石地蔵ね」
「また小供の癖に生意気を云う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学でも読むがいい」
「叔父さんは保険が嫌でしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」
「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも這入る。女学生は無用の長物だ」
「無用の長物でもいい事よ。保険へ這入ってもいない癖に」
「来月から這入るつもりだ」
「きっと?」
「きっとだとも」
「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金で何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」叔母さんはにやにや笑っている。主人は真面目になって
「お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気な事を云うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前だ。ぜひ来月から這入るんだ」
「そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠傘を買って下さる御金があるなら、保険に這入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと云うのを無理に買って下さるんですもの」
「そんなにいらなかったのか?」
「ええ、蝙蝠傘なんか欲しかないわ」
「そんなら還すがいい。ちょうどとん子が欲しがってるから、あれをこっちへ廻してやろう。今日持って来たか」
「あら、そりゃ、あんまりだわ。だって苛いじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて」
「いらないと云うから、還せと云うのさ。ちっとも苛くはない」
「いらない事はいらないんですけれども、苛いわ」
「分らん事を言う奴だな。いらないと云うから還せと云うのに苛い事があるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だって苛いわ」
「愚だな、同じ事ばかり繰り返している」
「叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」
「御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと云ったじゃないか」
「そりゃ云いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのは厭ですもの」
「驚ろいたな。没分暁で強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は云やしない。ちっと馬鹿竹の真似でもなさい」
「何の真似をしろ?」
「ちと正直に淡泊になさいと云うんです」
「お前は愚物の癖にやに強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ」
雪江さんは言ここに至って感に堪えざるもののごとく、潸然として一掬の涙を紫の袴の上に落した。主人は茫乎として、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、俯つ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三が台所から赤い手を敷居越に揃えて「お客さまがいらっしゃいました」と云う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣顔を横目に睨めながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も種取り兼人間研究のため、主人に尾して忍びやかに椽へ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を択ばないと一向結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、異なもの、一と口に云えば吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに横風にあらわれてくる。雪江さんの紅涙のごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測の心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺を抛り出すやいなや、たちまち死竜に蒸汽喞筒を注ぎかけたるごとく、勃然としてその深奥にして窺知すべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質を、惜気もなく発揚し了った。しかしてその麗質は天下の女性に共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて来ない。否あらわれる事は二六時中間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然炳乎として遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして主人のように吾輩の毛をややともすると逆さに撫でたがる旋毛曲りの奇特家がおったから、かかる狂言も拝見が出来たのであろう。主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様に戴いて、短かい猫の命のうちにも、大分多くの経験が出来る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。
見ると年頃は十七八、雪江さんと追っつ、返っつの書生である。大きな頭を地の隙いて見えるほど刈り込んで団子っ鼻を顔の真中にかためて、座敷の隅の方に控えている。別にこれと云う特徴もないが頭蓋骨だけはすこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら定めし人目を惹く事だろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。着物は通例の書生のごとく、薩摩絣か、久留米がすりかまた伊予絣か分らないが、ともかくも絣と名づけられたる袷を袖短かに着こなして、下には襯衣も襦袢もないようだ。素袷や素足は意気なものだそうだが、この男のはなはだむさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまで印しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに畏しこまっている。一体かしこまるべきものがおとなしく控えるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭のつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙の君子、盛徳の長者であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらず傍から見ると大分おかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束する力を具えているかと思うと、憐れにもあるが滑稽でもある。こうやって一人ずつ相対になると、いかに愚※(「馬+矣」、第3水準1-94-13)なる主人といえども生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も定めし得意であろう。塵積って山をなすと云うから、微々たる一生徒も多勢が聚合すると侮るべからざる団体となって、排斥運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支えあるまい。それでなければかように恐れ入ると云わんよりむしろ悄然として、自ら襖に押し付けられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だと云って、苟めにも先生と名のつく主人を軽蔑しようがない。馬鹿に出来る訳がない。
主人は座布団を押しやりながら、「さあお敷き」と云ったが毬栗先生はかたくなったまま「へえ」と云って動かない。鼻の先に剥げかかった更紗の座布団が「御乗んなさい」とも何とも云わずに着席している後ろに、生きた大頭がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために細君が勧工場から仕入れて来たのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名誉を毀損せられたるもので、これを勧めたる主人もまた幾分か顔が立たない事になる。主人の顔を潰してまで、布団と睨めくらをしている毬栗君は決して布団その物が嫌なのではない。実を云うと、正式に坐った事は祖父さんの法事の時のほかは生れてから滅多にないので、先っきからすでにしびれが切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に控えているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きと云うのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら多人数集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気兼をして、すべき時には謙遜しない、否大に狼藉を働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。
ところへ後ろの襖をすうと開けて、雪江さんが一碗の茶を恭しく坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ・チーが出たと冷やかすのだが、主人一人に対してすら痛み入っている上へ、妙齢の女性が学校で覚え立ての小笠原流で、乙に気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、坊主は大に苦悶の体に見える。雪江さんは襖をしめる時に後ろからにやにやと笑った。して見ると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。坊主に比すれば遥かに度胸が据わっている。ことに先刻の無念にはらはらと流した一滴の紅涙のあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。
雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は辛防していたが、これでは業をするようなものだと気がついた主人はようやく口を開いた。
「君は何とか云ったけな」
「古井……」
「古井? 古井何とかだね。名は」
「古井武右衛門」
「古井武右衛門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」
「いいえ」
「三年生か?」
「いいえ、二年生です」
「甲の組かね」
「乙です」
「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と主人は感心している。実はこの大頭は入学の当時から、主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし呑気な主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結する事が出来なかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が自分の監督組の生徒であると聞いて、思わずそうかと心の裏で手を拍ったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監督する生徒が何のために今頃やって来たのか頓と推諒出来ない。元来不人望な主人の事だから、学校の生徒などは正月だろうが暮だろうがほとんど寄りついた事がない。寄りついたのは古井武右衛門君をもって嚆矢とするくらいな珍客であるが、その来訪の主意がわからんには主人も大に閉口しているらしい。こんな面白くない人の家へただ遊びにくる訳もなかろうし、また辞職勧告ならもう少し昂然と構え込みそうだし、と云って武右衛門君などが一身上の用事相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても主人には分らない。武右衛門君の様子を見るとあるいは本人自身にすら何で、ここまで参ったのか判然しないかも知れない。仕方がないから主人からとうとう表向に聞き出した。
「君遊びに来たのか」
「そうじゃないんです」
「それじゃ用事かね」
「ええ」
「学校の事かい」
「ええ、少し御話ししようと思って……」
「うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と云うと武右衛門君下を向いたぎり何にも言わない。元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌る事においては乙組中鏘々たるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと云って大に主人を困らしたはまさにこの武右衛門君である。その鏘々たる先生が、最前から吃の御姫様のようにもじもじしているのは、何か云わくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとはとうてい受け取られない。主人も少々不審に思った。
「話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」
「少し話しにくい事で……」
「話しにくい?」と云いながら主人は武右衛門君の顔を見たが、先方は依然として俯向になってるから、何事とも鑑定が出来ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言はしないから」と穏やかにつけ加えた。
「話してもいいでしょうか?」と武右衛門君はまだ迷っている。
「いいだろう」と主人は勝手な判断をする。
「では話しますが」といいかけて、毬栗頭をむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。主人は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと横を向いた。
「実はその……困った事になっちまって……」
「何が?」
「何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「だからさ、何が困るんだよ」
「そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田が借せ借せと云うもんですから……」
「浜田と云うのは浜田平助かい」
「ええ」
「浜田に下宿料でも借したのかい」
「何そんなものを借したんじゃありません」
「じゃ何を借したんだい」
「名前を借したんです」
「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」
「艶書を送ったんです」
「何を送った?」
「だから、名前は廃して、投函役になると云ったんです」
「何だか要領を得んじゃないか。一体誰が何をしたんだい」
「艶書を送ったんです」
「艶書を送った? 誰に?」
「だから、話しにくいと云うんです」
「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「いいえ、僕じゃないんです」
「浜田が送ったのかい」
「浜田でもないんです」
「じゃ誰が送ったんだい」
「誰だか分らないんです」
「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」
「名前だけは僕の名なんです」
「名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか」
「金田って向横丁にいる女です」
「あの金田という実業家か」
「ええ」
「で、名前だけ借したとは何の事だい」
「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって云いますから、君の名前をかけって云ったら、僕のじゃつまらない。古井武右衛門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」
「乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう云う了見で、そんな事をしたんだい」
「ただみんながあいつは生意気で威張ってるて云うから、からかってやったんです」
「ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」
「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が夜あすこのうちまで行って投函して来たんです」
「じゃ三人で共同してやったんだね」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日は寝られないんで、何だか茫やりしてしまいました」
「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門とでもかいたのかい」
「いいえ、学校の名なんか書きゃしません」
「学校の名を書かないだけまあよかった。これで学校の名が出て見るがいい。それこそ文明中学の名誉に関する」
「どうでしょう退校になるでしょうか」
「そうさな」
「先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにお母さんが継母ですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本当に退校になるでしょうか」
「だから滅多な真似をしないがいい」
「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出来ないでしょうか」と武右衛門君は泣き出しそうな声をしてしきりに哀願に及んでいる。襖の蔭では最前から細君と雪江さんがくすくす笑っている。主人は飽くまでももったいぶって「そうさな」を繰り返している。なかなか面白い。
吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かはなかなか見当がつき悪くいと見えて、平生から軽蔑している猫に向ってさえかような質問をかけるのであろう。人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。万物の霊だなどとどこへでも万物の霊を担いであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかも恬として平然たるに至ってはちと一※(「口+據のつくり」、第3水準1-15-24)を催したくなる。彼は万物の霊を背中へ担いで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌になる。愛嬌になる代りには馬鹿をもって甘じなくてはならん。
吾輩がこの際武右衛門君と、主人と、細君及雪江嬢を面白がるのは、単に外部の事件が鉢合せをして、その鉢合せが波動を乙なところに伝えるからではない。実はその鉢合の反響が人間の心に個々別々の音色を起すからである。第一主人はこの事件に対してむしろ冷淡である。武右衛門君のおやじさんがいかにやかましくって、おっかさんがいかに君を継子あつかいにしようとも、あんまり驚ろかない。驚ろくはずがない。武右衛門君が退校になるのは、自分が免職になるのとは大に趣が違う。千人近くの生徒がみんな退校になったら、教師も衣食の途に窮するかも知れないが、古井武右衛門君一人の運命がどう変化しようと、主人の朝夕にはほとんど関係がない。関係の薄いところには同情も自から薄い訳である。見ず知らずの人のために眉をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深い、思いやりのある動物であるとははなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た賦税として、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。云わばごまかし性表情で、実を云うと大分骨が折れる芸術である。このごまかしをうまくやるものを芸術的良心の強い人と云って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この点において主人はむしろ拙な部類に属すると云ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。彼が武右衛門君に対して「そうさな」を繰り返しているのでも這裏の消息はよく分る。諸君は冷淡だからと云って、けっして主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうと力めないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い被ったと云わなければならない。正直ですら払底な世にそれ以上を予期するのは、馬琴の小説から志乃や小文吾が抜けだして、向う三軒両隣へ八犬伝が引き越した時でなくては、あてにならない無理な注文である。主人はまずこのくらいにして、次には茶の間で笑ってる女連に取りかかるが、これは主人の冷淡を一歩向へ跨いで、滑稽の領分に躍り込んで嬉しがっている。この女連には武右衛門君が頭痛に病んでいる艶書事件が、仏陀の福音のごとくありがたく思われる。理由はないただありがたい。強いて解剖すれば武右衛門君が困るのがありがたいのである。諸君女に向って聞いて御覧、「あなたは人が困るのを面白がって笑いますか」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と云うだろう、馬鹿と云わなければ、わざとこんな問をかけて淑女の品性を侮辱したと云うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これから私の品性を侮辱するような事を自分でしてお目にかけますから、何とか云っちゃいやよと断わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と云ってはならん。もし不道徳だなどと云えば僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女はなかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、蹴たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくてはかように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。武右衛門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をして大に恐れ入ってはいるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない稚気というもので、人が失礼をした時に怒るのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう云われるのがいやならおとなしくするがよろしい。最後に武右衛門君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の権化である。かの偉大なる頭脳はナポレオンのそれが功名心をもって充満せるがごとく、まさに心配をもってはちきれんとしている。時々その団子っ鼻がぴくぴく動くのは心配が顔面神経に伝って、反射作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな鉄砲丸を飲み下したごとく、腹の中にいかんともすべからざる塊まりを抱いて、この両三日処置に窮している。その切なさの余り、別に分別の出所もないから監督と名のつく先生のところへ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、いやな人の家へ大きな頭を下げにまかり越したのである。彼は平生学校で主人にからかったり、同級生を煽動して、主人を困らしたりした事はまるで忘れている。いかにからかおうとも困らせようとも監督と名のつく以上は心配してくれるに相違ないと信じているらしい。随分単純なものだ。監督は主人が好んでなった役ではない。校長の命によってやむを得ずいただいている、云わば迷亭の叔父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ名前だけではどうする事も出来ない。名前がいざと云う場合に役に立つなら雪江さんは名前だけで見合が出来る訳だ。武右衛門君はただに我儘なるのみならず、他人は己れに向って必ず親切でなくてはならんと云う、人間を買い被った仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。武右衛門君は監督の家へ来て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために将来ますます本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな声で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未来の武右衛門君をもって充たされるであろう。金田君及び金田令夫人をもって充たされるであろう。吾輩は切に武右衛門君のために瞬時も早く自覚して真人間になられん事を希望するのである。しからずんばいかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい金田君のごとき成功は得られんのである。いな社会は遠からずして君を人間の居住地以外に放逐するであろう。文明中学の退校どころではない。
かように考えて面白いなと思っていると、格子ががらがらとあいて、玄関の障子の蔭から顔が半分ぬうと出た。
「先生」
主人は武右衛門君に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど筋違に障子から食み出している顔はまさしく寒月君である。「おい、御這入り」と云ったぎり坐っている。
「御客ですか」と寒月君はやはり顔半分で聞き返している。
「なに構わん、まあ御上がり」
「実はちょっと先生を誘いに来たんですがね」
「どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇にあるかせられて、足が棒のようになった」
「今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか」
「どこへ出るんだい。まあ御上がり」
「上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」
「つまらんじゃないか、それよりちょっと御上り」
寒月君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴を脱いでのそのそ上がって来た。例のごとく鼠色の、尻につぎの中ったずぼんを穿いているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると近頃自転車の稽古を始めて局部に比較的多くの摩擦を与えるからである。未来の細君をもって矚目された本人へ文をつけた恋の仇とは夢にも知らず、「やあ」と云って武右衛門君に軽く会釈をして椽側へ近い所へ座をしめた。
「虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか」
「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです」
「へえ」
「すると公園内の老木は森々として物凄いでしょう」
「そうさな、昼間より少しは淋しいだろう」
「それで何でもなるべく樹の茂った、昼でも人の通らない所を択ってあるいていると、いつの間にか紅塵万丈の都会に住んでる気はなくなって、山の中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです」
「そんな心持ちになってどうするんだい」
「そんな心持ちになって、しばらく佇んでいるとたちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」
「そう旨く鳴くかい」
「大丈夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂として、四望人なく、鬼気肌に逼って、魑魅鼻を衝く際に……」
「魑魅鼻を衝くとは何の事だい」
「そんな事を云うじゃありませんか、怖い時に」
「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」
「それで虎が上野の老杉の葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」
「そりゃ物凄いだろう」
「どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです」
「そうさな」と主人は武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。
この時まで黙然として虎の話を羨ましそうに聞いていた武右衛門君は主人の「そうさな」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。吾輩は思う仔細あってちょっと失敬して茶の間へ廻る。
茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を浪々と注いで、アンチモニーの茶托の上へ載せて、
「雪江さん、憚りさま、これを出して来て下さい」
「わたし、いやよ」
「どうして」と細君は少々驚ろいた体で笑いをはたと留める。
「どうしてでも」と雪江さんはやにすました顔を即席にこしらえて、傍にあった読売新聞の上にのしかかるように眼を落した。細君はもう一応協商を始める。
「あら妙な人ね。寒月さんですよ。構やしないわ」
「でも、わたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどとあばかれたらまた泣き出すだろう。
「ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか」と今度は細君笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪るい」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に茶托に引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と細君が云うと、雪江さんは「あら大変だ」と台所へ馳け出して行った。雑巾でも持ってくる了見だろう。吾輩にはこの狂言がちょっと面白かった。
寒月君はそれとも知らず座敷で妙な事を話している。
「先生障子を張り易えましたね。誰が張ったんです」
「女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「ええなかなかうまい。あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか」
「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると云って威張ってるぜ」
「へえ、なるほど」と云いながら寒月君障子を見つめている。
「こっちの方は平ですが、右の端は紙が余って波が出来ていますね」
「あすこが張りたてのところで、もっとも経験の乏しい時に出来上ったところさ」
「なるほど、少し御手際が落ちますね。あの表面は超絶的曲線でとうてい普通のファンクションではあらわせないです」と、理学者だけにむずかしい事を云うと、主人は
「そうさね」と好い加減な挨拶をした。
この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った武右衛門君は突然かの偉大なる頭蓋骨を畳の上に圧しつけて、無言の裡に暗に訣別の意を表した。主人は「帰るかい」と云った。武右衛門君は悄然として薩摩下駄を引きずって門を出た。可愛想に。打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。元を糺せば金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ。もし武右衛門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。寒月君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。
「先生ありゃ生徒ですか」
「うん」
「大変大きな頭ですね。学問は出来ますか」
「頭の割には出来ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳して下さいって大に弱った」
「全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました」
「ええ? なあに好い加減な事を云って訳してやった」
「それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい」
「小供は何でも訳してやらないと信用せんからね」
「先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」
「今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ」
「どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想になりました。全体どうしたんです」
「なに愚な事さ。金田の娘に艶書を送ったんだ」
「え? あの大頭がですか。近頃の書生はなかなかえらいもんですね。どうも驚ろいた」
「君も心配だろうが……」
「何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です」
「そう君が安心していれば構わないが……」
「構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭が艶書をかいたと云うには、少し驚ろきますね」
「それがさ。冗談にしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して……」
「三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか」
「ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函する、一人が名前を借す。で今来たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番愚だね。しかも金田の娘の顔も見た事がないって云うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう」
「そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女に文をやるなんて面白いじゃありませんか」
「飛んだ間違にならあね」
「なになったって構やしません、相手が金田ですもの」
「だって君が貰うかも知れない人だぜ」
「貰うかも知れないから構わないんです。なあに、金田なんか、構やしません」
「君は構わなくっても……」
「なに金田だって構やしません、大丈夫です」
「それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大に恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ」
「へえ、それであんなに悄々としているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか云っておやんなすったんでしょう」
「本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ」
「何で退校になるんです」
「そんな悪るい、不道徳な事をしたから」
「何、不道徳と云うほどでもありませんやね。構やしません。金田じゃ名誉に思ってきっと吹聴していますよ」
「まさか」
「とにかく可愛想ですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」
「君も大分迷亭見たように呑気な事を云うね」
「何、これが時代思潮です、先生はあまり昔し風だから、何でもむずかしく解釈なさるんです」
「しかし愚じゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書を送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」
「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳になりますよ。あの容子じゃ華厳の滝へ出掛けますよ」
「そうだな」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らん面をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片っ端から放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」
「それもそうだね」
「それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは」
「虎かい」
「ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴は出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです」
「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「ええちょっと用事が出来たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか」
「そう。それじゃ出ようか」
「さあ行きましょう。今日は私が晩餐を奢りますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です」としきりに促がすものだから、主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは細君と雪江さんが遠慮のない声でげらげらけらけらからからと笑っていた。
十一
床の間の前に碁盤を中に据えて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何か奢るんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯を引っ張りながら、こう云った。
「そんな事をすると、せっかくの清戯を俗了してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗を度外において、白雲の自然に岫を出でて冉々たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中の味はわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然たる列仙伝中の人物だね」
「無絃の素琴を弾じさ」
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでも構わない」
「さすがに仙人だけあって鷹揚だ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば謙遜して、定石にここいらから行こう」
「定石にそんなのはないよ」
「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩むほどごたごたと黒白の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で掻き散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の庵にて、解くればもとの野原なりけり。入らざるいたずらだ。懐手をして盤を眺めている方が遥かに気楽である。それも最初の三四十目は、石の並べ方では別段目障りにもならないが、いざ天下わけ目と云う間際に覗いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支えない。人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶の世界を、我からと縮めて、己れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう。
呑気なる迷亭君と、禅機ある独仙君とは、どう云う了見か、今日に限って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しいいたずらを始めたのである。さすがに御両人御揃いの事だから、最初のうちは各自任意の行動をとって、盤の上を白石と黒石が自由自在に飛び交わしていたが、盤の広さには限りがあって、横竪の目盛りは一手ごとに埋って行くのだから、いかに呑気でも、いかに禅機があっても、苦しくなるのは当り前である。
「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんや※(「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1-84-28)肩をやと、一つ、こう行くかな」
「そうおいでになったと、よろしい。薫風南より来って、殿閣微涼を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚って寒し――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」
「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じゃない。ちょっと待った」
「それだから、さっきから云わん事じゃない。こうなってるところへは這入れるものじゃないんだ」
「這入って失敬仕り候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって花道から馳け出してくるところだよ」
「そんな事は僕は知らんよ」
「知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「君さっきから、六返待ったをしたじゃないか」
「記憶のいい男だな。向後は旧に倍し待ったを仕り候。だからちょっとどけたまえと云うのだあね。君もよッぽど強情だね。座禅なんかしたら、もう少し捌けそうなものだ」
「しかしこの石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから……」
「君は最初から負けても構わない流じゃないか」
「僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない」
「飛んだ悟道だ。相変らず春風影裏に電光をきってるね」
「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは逆だ」
「ハハハハもうたいてい逆かになっていい時分だと思ったら、やはりたしかなところがあるね。それじゃ仕方がないあきらめるかな」
「生死事大、無常迅速、あきらめるさ」
「アーメン」と迷亭先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと一石を下した。
床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に輸贏を争っていると、座敷の入口には、寒月君と東風君が相ならんでその傍に主人が黄色い顔をして坐っている。寒月君の前に鰹節が三本、裸のまま畳の上に行儀よく排列してあるのは奇観である。
この鰹節の出処は寒月君の懐で、取り出した時は暖たかく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。主人と東風君は妙な眼をして視線を鰹節の上に注いでいると、寒月君はやがて口を開いた。
「実は四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々馳けあるいていたものですから、つい上がられなかったのです」
「そう急いでくるには及ばないさ」と主人は例のごとく無愛嬌な事を云う。
「急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く献上しないと心配ですから」
「鰹節じゃないか」
「ええ、国の名産です」
「名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ」と主人は一番大きな奴を一本取り上げて、鼻の先へ持って行って臭いをかいで見る。
「かいだって、鰹節の善悪はわかりませんよ」
「少し大きいのが名産たる所以かね」
「まあ食べて御覧なさい」
「食べる事はどうせ食べるが、こいつは何だか先が欠けてるじゃないか」
「それだから早く持って来ないと心配だと云うのです」
「なぜ?」
「なぜって、そりゃ鼠が食ったのです」
「そいつは危険だ。滅多に食うとペストになるぜ」
「なに大丈夫、そのくらいかじったって害はありません」
「全体どこで噛ったんだい」
「船の中でです」
「船の中? どうして」
「入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節だけなら、いいのですけれども、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり少々噛りました」
「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見境がなくなるものかな」と主人は誰にも分らん事を云って依然として鰹節を眺めている。
「なに鼠だから、どこに住んでてもそそっかしいのでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。剣呑だから夜るは寝床の中へ入れて寝ました」
「少しきたないようだぜ」
「だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」
「ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない」
「それじゃ灰汁でもつけて、ごしごし磨いたらいいでしょう」
「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」
「ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝る訳には行かないんですが……」と云いかけると
「なんだって? ヴァイオリンを抱いて寝たって? それは風流だ。行く春や重たき琵琶のだき心と云う句もあるが、それは遠きその上の事だ。明治の秀才はヴァイオリンを抱いて寝なくっちゃ古人を凌ぐ訳には行かないよ。かい巻に長き夜守るやヴァイオリンはどうだい。東風君、新体詩でそんな事が云えるかい」と向うの方から迷亭先生大きな声でこっちの談話にも関係をつける。
東風君は真面目で「新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。しかし出来た暁にはもう少し生霊の機微に触れた妙音が出ます」
「そうかね、生霊はおがらを焚いて迎え奉るものと思ってたが、やっぱり新体詩の力でも御来臨になるかい」と迷亭はまだ碁をそっちのけにして調戯ている。
「そんな無駄口を叩くとまた負けるぜ」と主人は迷亭に注意する。迷亭は平気なもので
「勝ちたくても、負けたくても、相手が釜中の章魚同然手も足も出せないのだから、僕も無聊でやむを得ずヴァイオリンの御仲間を仕るのさ」と云うと、相手の独仙君はいささか激した調子で
「今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ」と云い放った。
「え? もう打ったのかい」
「打ったとも、とうに打ったさ」
「どこへ」
「この白をはすに延ばした」
「なあるほど。この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一返打たしてやるから勝手なところへ一目打ちたまえ」
「そんな碁があるものか」
「そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。――寒月君、君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にして噛るんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、僕が以太利亜から三百年前の古物を取り寄せてやろうか」
「どうか願います。ついでにお払いの方も願いたいもので」
「そんな古いものが役に立つものか」と何にも知らない主人は一喝にして迷亭君を極めつけた。
「君は人間の古物とヴァイオリンの古物と同一視しているんだろう。人間の古物でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。――さあ、独仙君どうか御早く願おう。けいまさのせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね」
「君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ一目入れて目にしておこう」
「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しい事をしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁を振って肝胆を砕いていたが、やッぱり駄目か」
「当り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」
「それが本因坊流、金田流、当世紳士流さ。――おい苦沙弥先生、さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食っただけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸は据ってる」
「だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい」と主人が後ろ向のままで答えるやいなや、迷亭君は大きな赤い舌をぺろりと出した。独仙君は毫も関せざるもののごとく、「さあ君の番だ」とまた相手を促した。
「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風君が寒月君に聞いている。
「うむ、一と通りなら誰にでも出来るさ」
「同じ芸術だから詩歌の趣味のあるものはやはり音楽の方でも上達が早いだろうと、ひそかに恃むところがあるんだが、どうだろう」
「いいだろう。君ならきっと上手になるよ」
「君はいつ頃から始めたのかね」
「高等学校時代さ。――先生私しのヴァイオリンを習い出した顛末をお話しした事がありましたかね」
「いいえ、まだ聞かない」
「高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい」
「なあに先生も何もありゃしない。独習さ」
「全く天才だね」
「独習なら天才と限った事もなかろう」と寒月君はつんとする。天才と云われてつんとするのは寒月君だけだろう。
「そりゃ、どうでもいいが、どう云う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから」
「話してもいい。先生話しましょうかね」
「ああ話したまえ」
「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などをあるいておりますが、その時分は高等学校生で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。ことに私のおった学校は田舎の田舎で麻裏草履さえないと云うくらいな質朴な所でしたから、学校の生徒でヴァイオリンなどを弾くものはもちろん一人もありません。……」
「何だか面白い話が向うで始まったようだ。独仙君いい加減に切り上げようじゃないか」
「まだ片づかない所が二三箇所ある」
「あってもいい。大概な所なら、君に進上する」
「そう云ったって、貰う訳にも行かない」
「禅学者にも似合わん几帳面な男だ。それじゃ一気呵成にやっちまおう。――寒月君何だかよっぽど面白そうだね。――あの高等学校だろう、生徒が裸足で登校するのは……」
「そんな事はありません」
「でも、皆なはだしで兵式体操をして、廻れ右をやるんで足の皮が大変厚くなってると云う話だぜ」
「まさか。だれがそんな事を云いました」
「だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる握り飯を一個、夏蜜柑のように腰へぶら下げて来て、それを食うんだって云うじゃないか。食うと云うよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干が一個出て来るそうだ。この梅干が出るのを楽しみに塩気のない周囲を一心不乱に食い欠いて突進するんだと云うが、なるほど元気旺盛なものだね。独仙君、君の気に入りそうな話だぜ」
「質朴剛健でたのもしい気風だ」
「まだたのもしい事がある。あすこには灰吹きがないそうだ。僕の友人があすこへ奉職をしている頃吐月峰の印のある灰吹きを買いに出たところが、吐月峰どころか、灰吹と名づくべきものが一個もない。不思議に思って、聞いて見たら、灰吹きなどは裏の藪へ行って切って来れば誰にでも出来るから、売る必要はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風をあらわす美譚だろう、ねえ独仙君」
「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」
「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。※(「りっしんべん+(旬/子)」、第3水準1-84-55)独にして不羣なりと楚辞にあるが寒月君は全く明治の屈原だよ」
「屈原はいやですよ」
「それじゃ今世紀のウェルテルさ。――なに石を上げて勘定をしろ? やに物堅い性質だね。勘定しなくっても僕は負けてるからたしかだ」
「しかし極りがつかないから……」
「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、寒月君の方へすり出して来た。独仙君は丹念に白石を取っては白の穴を埋め、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の内で計算をしている。寒月君は話をつづける。
「土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に頑固なので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと云って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」
「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、紺の無地の袴なんぞ穿くんだい。第一あれからして乙だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人這入ると肝心の話はどっかへ飛んで行ってしまう。
「女もあの通り黒いのです」
「それでよく貰い手があるね」
「だって一国中ことごとく黒いのだから仕方がありません」
「因果だね。ねえ苦沙弥君」
「黒い方がいいだろう。生じ白いと鏡を見るたんびに己惚が出ていけない。女と云うものは始末におえない物件だからなあ」と主人は喟然として大息を洩らした。
「だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚れはしませんか」と東風君がもっともな質問をかけた。
「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が云うと、
「そんな事を云うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。
「なに大丈夫だ」
「いないのかい」
「小供を連れて、さっき出掛けた」
「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」
「どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」
「そうして勝手に帰ってくるのかい」
「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と云うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君はにやにやと笑う。迷亭君は
「妻を持つとみんなそう云う気になるのさ。ねえ独仙君、君なども妻君難の方だろう」
「ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六目あるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。――何だって?」
「君も妻君難だろうと云うのさ」
「アハハハハ別段難でもないさ。僕の妻は元来僕を愛しているのだから」
「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」
「独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。
「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域に入るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完うしなければ天意に背く訳だと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東風君は相変らず真面目で迷亭君の方へ向き直った。
「御名論だ。僕などはとうてい絶対の境に這入れそうもない」
「妻を貰えばなお這入れやしない」と主人はむずかしい顔をして云った。
「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚をきいているのです」
「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく鋒鋩を収めると、
「向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧で宇宙の真理が知れては大変だ。這裡の消息を知ろうと思えばやはり懸崖に手を撒して、絶後に再び蘇える底の気魄がなければ駄目だ」と独仙君はもったい振って、東風君に訓戒じみた説教をしたのはよかったが、東風君は禅宗のぜの字も知らない男だから頓と感心したようすもなく
「へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の渇仰の極致を表わしたものだと思いますから、どうしてもこれを捨てる訳には参りません」
「捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」
「そうだろう麻裏草履がない土地にヴァイオリンがあるはずがない」
「いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支えないのですが、どうも買えないのです」
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと云うので制裁を加えられます」
「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と東風君は大に同情を表した。
「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免蒙りたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたら好かろう、あれを手に抱えた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日もなかったのです」
「もっともだ」と評したのは迷亭で、「妙に凝ったものだね」と解しかねたのが主人で、「やはり君、天才だよ」と敬服したのは東風君である。ただ独仙君ばかりは超然として髯を撚している。
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと云うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですから、あるはずです。無論いいのはありません。ただヴァイオリンと云う名が辛うじてつくくらいのものであります。だから店でもあまり重きをおいていないので、二三梃いっしょに店頭へ吊るしておくのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手が障ったりして、そら音を出す事があります。その音を聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、いても立ってもいられなくなるんです」
「危険だね。水癲癇、人癲癇と癲癇にもいろいろ種類があるが君のはウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と迷亭君が冷やかすと、
「いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ」と東風君はいよいよ感心する。
「ええ実際癲癇かも知れませんが、しかしあの音色だけは奇体ですよ。その後今日まで随分ひきましたがあのくらい美しい音が出た事がありません。そうさ何と形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないです」
「琳琅※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘として鳴るじゃないか」とむずかしい事を持ち出したのは独仙君であったが、誰も取り合わなかったのは気の毒である。
「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音を三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令国のものから譴責されても、他県のものから軽蔑されても――よし鉄拳制裁のために絶息しても――まかり間違って退校の処分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました」
「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨しい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興が乗らない」と東風君はしきりに羨やましがっている。
「乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「偽病をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠って待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子へ一面にあたって、かんかんするには癇癪が起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」
「何だい、その細長い影と云うのは」
「渋柿の皮を剥いて、軒へ吊るしておいたのです」
「ふん、それから」
「仕方がないから、床を出て障子をあけて椽側へ出て、渋柿の甘干しを一つ取って食いました」
「うまかったかい」と主人は小供みたような事を聞く。
「うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」
「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風君がきく。
「それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」
「そりゃ、聞いたよ」
「何返もあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ這入って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」
「やっぱりもとのところじゃないか」
「まあ先生そう焦かずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱して、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている」
「いつまで行っても同じ事じゃないか」
「それから床を出て障子を開けて、椽側へ出て甘干しの柿を一つ食って……」
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」
「私もじれったくてね」
「君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」
「先生はどうも性急だから、話がしにくくって困ります」
「聞く方も少しは困るよ」と東風君も暗に不平を洩らした。
「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端に吊るした奴をみんな食ってしまいました」
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」
「僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果てしがない」
「話す私も飽き飽きします」
「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就するよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭君も少し辛抱し切れなくなったと見える。ただ独仙君のみは泰然として、あしたの朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずる気色はさらにない。寒月君も落ちつき払ったもので
「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから――いえその時の私しの苦しみと云ったら、とうてい今あなた方の御じれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食っても、まだ日が暮れないのを見て、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)然として思わず泣きました。東風君、僕は実に情けなくって泣いたよ」
「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と東風君は人がいいから、どこまでも真面目で滑稽な挨拶をしている。
「進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」
「そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう」と主人がとうとう我慢がし切れなくなったと見えて云い出した。
「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入るところですから」
「それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう」
「では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、枉げて、ここは日が暮れた事に致しましょう」
「それは好都合だ」と独仙君が澄まして述べられたので一同は思わずどっと噴き出した。
「いよいよ夜に入ったので、まず安心とほっと一息ついて鞍懸村の下宿を出ました。私は性来騒々しい所が嫌ですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀な寒村の百姓家にしばらく蝸牛の庵を結んでいたのです……」
「人迹の稀なはあんまり大袈裟だね」と主人が抗議を申し込むと「蝸牛の庵も仰山だよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い」と迷亭君も苦情を持ち出した。東風君だけは「事実はどうでも言語が詩的で感じがいい」と褒めた。独仙君は真面目な顔で「そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか」と聞いた。
「学校まではたった四五丁です。元来学校からして寒村にあるんですから……」
「それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙君はなかなか承知しない。
「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」
「それで人迹稀なんですか」と正面攻撃を喰わせる。
「ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と云うと、手織木綿の綿入の上へ金釦の制服外套を着て、外套の頭巾をすぽりと被ってなるべく人の目につかないような注意をしました。折柄柿落葉の時節で宿から南郷街道へ出るまでは木の葉で路が一杯です。一歩運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺の森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と云うのは松平家の菩提所で、庚申山の麓にあって、私の宿とは一丁くらいしか隔っていない、すこぶる幽邃な梵刹です。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違に横切って末は――末は、そうですね、まず布哇の方へ流れています……」
「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。
「南郷街道をついに二丁来て、鷹台町から市内に這入って、古城町を通って、仙石町を曲って、喰代町を横に見て、通町を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町、名古屋町、鯱鉾町、蒲鉾町……」
「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。
「楽器のある店は金善即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」
「なかなかでもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって……」
「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋するよ」と今度は迷亭が予防線を張った。
「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影にすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線の一部だけがきらきらと白く眼に映ります。……」
「なかなか叙述がうまいや」と東風君がほめた。
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸がして足がふらふらします……」
「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。
「思わず馳け込んで、隠袋から蝦蟇口を出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して……」
「とうとう買ったかい」と主人がきく。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心のところだ。滅多な事をしては失敗する。まあよそうと、際どいところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」
「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ宵の口で人が大勢通るんですもの」
「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。
「ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊しているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈澱党などと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾いて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」
「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように埒があくもんじゃありませんよ」と云いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけてふかし出した。
主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ這入ったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと腹這になって読み始めた。独仙君はいつの間にやら、床の間の前へ退去して、独りで碁石を並べて一人相撲をとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる東風君と、長い事にかつて辟易した事のない迷亭先生のみとなる。
長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて前同様の速度をもって談話をつづける。
「東風君、僕はその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口は駄目だ、と云って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」
「なるほどこりゃむずかしかろう」
「で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎めるようで面白くなし、仕方がないから相当の時間がくるまで市中を散歩する事にした。ところが平生ならば二時間や三時間はぶらぶらあるいているうちに、いつの間にか経ってしまうのだがその夜に限って、時間のたつのが遅いの何のって、――千秋の思とはあんな事を云うのだろうと、しみじみ感じました」とさも感じたらしい風をしてわざと迷亭先生の方を向く。
「古人を待つ身につらき置炬燵と云われた事があるからね、また待たるる身より待つ身はつらいともあって軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君はなおさらつらいだろう。累々として喪家の犬のごとし。いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ」
「犬は残酷ですね。犬に比較された事はこれでもまだありませんよ」
「僕は何だか君の話をきくと、昔しの芸術家の伝を読むような気持がして同情の念に堪えない。犬に比較したのは先生の冗談だから気に掛けずに話を進行したまえ」と東風君は慰藉した。慰藉されなくても寒月君は無論話をつづけるつもりである。
「それから徒町から百騎町を通って、両替町から鷹匠町へ出て、県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓の灯を計算して、紺屋橋の上で巻煙草を二本ふかして、そうして時計を見た。……」
「十時になったかい」
「惜しい事にならないね。――紺屋橋を渡り切って川添に東へ上って行くと、按摩に三人あった。そうして犬がしきりに吠えましたよ先生……」
「秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのはちょっと芝居がかりだね。君は落人と云う格だ」
「何かわるい事でもしたんですか」
「これからしようと云うところさ」
「可哀相にヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」
「人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。耶蘇もあんな世に生れれば罪人さ。好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」
「それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」
「もう一返、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。それでもおっつかなければまた甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」
寒月先生はにやにやと笑った。
「そう先を越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善の前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫の両替町もほとんど人通りが絶えて、向からくる下駄の音さえ淋しい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて、わずかに潜り戸だけを障子にしています。私は何となく犬に尾けられたような心持で、障子をあけて這入るのに少々薄気味がわるかったです……」
この時主人はきたならしい本からちょっと眼をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、実に永いな」と独り言のように云ってまた本を読み出した。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半埋めてしまった。
「思い切って飛び込んで、頭巾を被ったままヴァイオリンをくれと云いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に云うと、一番前にいて、私の顔を覗き込むようにしていた小僧がへえと覚束ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊るしてあったのを三四梃一度に卸して来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと云います……」
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
「みんな同価かと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。みんな丈夫に念を入れて拵らえてございますと云いますから、蝦蟇口のなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。この間、店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪りません。ようやくの事風呂敷包を外套の下へ入れて、店を出たら、番頭が声を揃えてありがとうと大きな声を出したのにはひやっとしました。往来へ出てちょっと見廻して見ると、幸誰もいないようですが、一丁ばかり向から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端を薬王師道へ出て、はんの木村から庚申山の裾へ出てようやく下宿へ帰りました。下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」
「夜通しあるいていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに云うと「やっと上がった。やれやれ長い道中双六だ」と迷亭君はほっと一と息ついた。
「これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」
「まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」
「根気はとにかく、ここでやめちゃ仏作って魂入れずと一般ですから、もう少し話します」
「話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ」
「どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」
「こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」
「まだ売るどこじゃありません」
「そんならなお聞かなくてもいい」
「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」
「ざっとでなくてもいいから緩くり話したまえ。大変面白い」
「ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは大分人が遊びにくるから滅多な所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう」
「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽な事を云う。
「天井はないさ。百姓家だもの」
「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」
「どこへ入れたと思う」
「わからないね。戸袋のなかか」
「いいえ」
「夜具にくるんで戸棚へしまったか」
「いいえ」
東風君と寒月君はヴァイオリンの隠れ家についてかくのごとく問答をしているうちに、主人と迷亭君も何かしきりに話している。
「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amiciti※(リガチャAE小文字)[#「amiciti※(リガチャAE小文字)」は底本では「amiticiae」] inimica……こりゃ君羅甸語じゃないか」
「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」
「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」
「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」
「従卒でもいいから何だ」
「まあ羅甸語などはあとにして、ちょっと寒月君のご高話を拝聴仕ろうじゃないか。今大変なところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と云う安宅の関へかかってるんだ。――ねえ寒月君それからどうしたい」と急に乗気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。主人は情けなくも取り残された。寒月君はこれに勢を得て隠し所を説明する。
「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時御祖母さんが餞別にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁にくる時持って来たものだそうです」
「そいつは古物だね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ東風君」
「ええ、ちと調和せんです」
「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。
「調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。秋淋しつづらにかくすヴァイオリンはどうだい、両君」
「先生今日は大分俳句が出来ますね」
「今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における造詣と云ったら、故子規子も舌を捲いて驚ろいたくらいのものさ」
「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は真率な質問をかける。
「なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と無茶苦茶を云うので、東風先生あきれて黙ってしまった。寒月君は笑いながらまた進行する。
「それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目を掠めて眺めるくらいはやれん事はないが、眺めたばかりじゃ何にもならない。弾かなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣を一重隔てて南隣りは沈澱組の頭領が下宿しているんだから剣呑だあね」
「困るね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。
「なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、小督の局も全くこれでしくじったんだからね。これがぬすみ食をするとか、贋札を造るとか云うなら、まだ始末がいいが、音曲は人に隠しちゃ出来ないものだからね」
「音さえ出なければどうでも出来るんですが……」
「ちょっと待った。音さえ出なけりゃと云うが、音が出なくても隠し了せないのがあるよ。昔し僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木の藤さんと云う人がいてね、この藤さんが大変味淋がすきで、ビールの徳利へ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日藤さんが散歩に出たあとで、よせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが……」
「おれが鈴木の味淋などをのむものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。
「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君の事だ。なるほど云われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。――両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真赤にはれ上ってね。いやもう二目とは見られないありさまさ……」
「黙っていろ。羅甸語も読めない癖に」
「ハハハハ、それで藤さんが帰って来てビールの徳利をふって見ると、半分以上足りない。何でも誰か飲んだに相違ないと云うので見廻して見ると、大将隅の方に朱泥を練りかためた人形のようにかたくなっていらあね……」
三人は思わず哄然と笑い出した。主人も本をよみながら、くすくすと笑った。独り独仙君に至っては機外の機を弄し過ぎて、少々疲労したと見えて、碁盤の上へのしかかって、いつの間にやら、ぐうぐう寝ている。
「まだ音がしないもので露見した事がある。僕が昔し姥子の温泉に行って、一人のじじいと相宿になった事がある。何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったがね。まあ相宿だから呉服屋だろうが、古着屋だろうが構う事はないが、ただ困った事が一つ出来てしまった。と云うのは僕は姥子へ着いてから三日目に煙草を切らしてしまったのさ。諸君も知ってるだろうが、あの姥子と云うのは山の中の一軒屋でただ温泉に這入って飯を食うよりほかにどうもこうも仕様のない不便の所さ。そこで煙草を切らしたのだから御難だね。物はないとなるとなお欲しくなるもので、煙草がないなと思うやいなや、いつもそんなでないのが急に呑みたくなり出してね。意地のわるい事に、そのじじいが風呂敷に一杯煙草を用意して登山しているのさ。それを少しずつ出しては、人の前で胡坐をかいて呑みたいだろうと云わないばかりに、すぱすぱふかすのだね。ただふかすだけなら勘弁のしようもあるが、しまいには煙を輪に吹いて見たり、竪に吹いたり、横に吹いたり、乃至は邯鄲夢の枕と逆に吹いたり、または鼻から獅子の洞入り、洞返りに吹いたり。つまり呑みびらかすんだね……」
「何です、呑みびらかすと云うのは」
「衣装道具なら見せびらかすのだが、煙草だから呑みびらかすのさ」
「へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう」
「ところが貰わないね。僕も男子だ」
「へえ、貰っちゃいけないんですか」
「いけるかも知れないが、貰わないね」
「それでどうしました」
「貰わないで偸んだ」
「おやおや」
「奴さん手拭をぶらさげて湯に出掛けたから、呑むならここだと思って一心不乱立てつづけに呑んで、ああ愉快だと思う間もなく、障子がからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ」
「湯には這入らなかったのですか」
「這入ろうと思ったら巾着を忘れたのに気がついて、廊下から引き返したんだ。人が巾着でもとりゃしまいし第一それからが失敬さ」
「何とも云えませんね。煙草の御手際じゃ」
「ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど室のなかに籠ってるじゃないか、悪事千里とはよく云ったものだね。たちまち露見してしまった」
「じいさん何とかいいましたか」
「さすが年の功だね、何にも言わずに巻煙草を五六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな粗葉でよろしければどうぞお呑み下さいましと云って、また湯壺へ下りて行ったよ」
「そんなのが江戸趣味と云うのでしょうか」
「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと大に肝胆相照らして、二週間の間面白く逗留して帰って来たよ」
「煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか」
「まあそんなところだね」
「もうヴァイオリンは片ついたかい」と主人はようやく本を伏せて、起き上りながらついに降参を申し込んだ。
「まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いて下さい。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか云いましたね、え、独仙先生、――独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起してもいいでしょう」
「おい、独仙君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ」
「え」と云いながら顔を上げた独仙君の山羊髯を伝わって垂涎が一筋長々と流れて、蝸牛の這った迹のように歴然と光っている。
「ああ、眠かった。山上の白雲わが懶きに似たりか。ああ、いい心持ちに寝たよ」
「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」
「もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい」
「これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥君」
「どうするのかな、とんと見当がつかない」
「これからいよいよ弾くところです」
「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」
「まだヴァイオリンかい。困ったな」
「君は無絃の素琴を弾ずる連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所合壁へ聞えるのだから大に困ってるところだ」
「そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方を知らんですか」
「知りませんね、あるなら伺いたいもので」
「伺わなくても露地の白牛を見ればすぐ分るはずだが」と、何だか通じない事を云う。寒月君はねぼけてあんな珍語を弄するのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。
「ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋をとって見たり、かぶせて見たり一日そわそわして暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れて、つづらの底で※(「虫+車」、第3水準1-91-55)が鳴き出した時思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました」
「いよいよ出たね」と東風君が云うと「滅多に弾くとあぶないよ」と迷亭君が注意した。
「まず弓を取って、切先から鍔元までしらべて見る……」
「下手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭君が冷評した。
「実際これが自分の魂だと思うと、侍が研ぎ澄した名刀を、長夜の灯影で鞘払をする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったままぶるぶるとふるえました」
「全く天才だ」と云う東風君について「全く癲癇だ」と迷亭君がつけた。主人は「早く弾いたらよかろう」と云う。独仙君は困ったものだと云う顔付をする。
「ありがたい事に弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプの傍へ引き付けて、裏表共よくしらべて見る。この間約五分間、つづらの底では始終※(「虫+車」、第3水準1-91-55)が鳴いていると思って下さい。……」
「何とでも思ってやるから安心して弾くがいい」
「まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも疵がない。これなら大丈夫とぬっくと立ち上がる……」
「どっかへ行くのかい」
「まあ少し黙って聞いて下さい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。……」
「おい諸君、だまるんだとさ。シーシー」
「しゃべるのは君だけだぜ」
「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」
「ヴァイオリンを小脇に抱い込んで、草履を突かけたまま二三歩草の戸を出たが、まてしばし……」
「そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った」
「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」
「そう諸先生が御まぜ返しになってははなはだ遺憾の至りだが、東風君一人を相手にするより致し方がない。――いいかね東風君、二三歩出たがまた引き返して、国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布を頭から被ってね、ふっとランプを消すと君真暗闇になって今度は草履の所在地が判然しなくなった」
「一体どこへ行くんだい」
「まあ聞いてたまい。ようやくの事草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。右へ右へと爪先上りに庚申山へ差しかかってくると、東嶺寺の鐘がボーンと毛布を通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時だと思う、君」
「知らないね」
「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を大平と云う所まで登るのだが、平生なら臆病な僕の事だから、恐しくってたまらないところだけれども、一心不乱となると不思議なもので、怖いにも怖くないにも、毛頭そんな念はてんで心の中に起らないよ。ただヴァイオリンが弾きたいばかりで胸が一杯になってるんだから妙なものさ。この大平と云う所は庚申山の南側で天気のいい日に登って見ると赤松の間から城下が一目に見下せる眺望佳絶の平地で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、真中に八畳敷ほどな一枚岩があって、北側は鵜の沼と云う池つづきで、池のまわりは三抱えもあろうと云う樟ばかりだ。山のなかだから、人の住んでる所は樟脳を採る小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。ようやく一枚岩の上へ来て、毛布を敷いて、ともかくもその上へ坐った。こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから、岩の上へ坐って少し落ち着くと、あたりの淋しさが次第次第に腹の底へ沁み渡る。こう云う場合に人の心を乱すものはただ怖いと云う感じばかりだから、この感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々たる空霊の気だけになる。二十分ほど茫然としているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでるような気になった。しかもその一人住んでる僕のからだが――いやからだばかりじゃない、心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごとく、不思議に透き徹ってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのだか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなって来た……」
「飛んだ事になって来たね」と迷亭君が真面目にからかうあとに付いて、独仙君が「面白い境界だ」と少しく感心したようすに見えた。
「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、茫やり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです……」
「狐でもいる所かい」と東風君がきいた。
「こう云う具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然後ろの古沼の奥でギャーと云う声がした。……」
「いよいよ出たね」
「その声が遠く反響を起して満山の秋の梢を、野分と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った……」
「やっと安心した」と迷亭君が胸を撫でおろす真似をする。
「大死一番乾坤新なり」と独仙君は目くばせをする。寒月君にはちっとも通じない。
「それから、我に帰ってあたりを見廻わすと、庚申山一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと云う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと云うので今まで静まり返っていたやからが、紛然雑然糅然としてあたかもコンノート殿下歓迎の当時における都人士狂乱の態度を以て脳裏をかけ廻る。そのうちに総身の毛穴が急にあいて、焼酎を吹きかけた毛脛のように、勇気、胆力、分別、沈着などと号するお客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す。両足が紙鳶のうなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布を頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に掻い込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁を麓の方へかけ下りて、宿へ帰って布団へくるまって寝てしまった。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風君」
「それから」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンは弾かないのかい」
「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」
「何だか君の話は物足りないような気がする」
「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見廻わして大得意のようすである。
「ハハハハこれは上出来。そこまで持って行くにはだいぶ苦心惨憺たるものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニが東方君子の邦に出現するところかと思って、今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と云った迷亭君は誰かサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思のほか、何にも質問が出ないので「サンドラ・ベロニが月下に竪琴を弾いて、以太利亜風の歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山へヴァイオリンをかかえて上るところと同曲にして異巧なるものだね。惜しい事に向うは月中の嫦娥を驚ろかし、君は古沼の怪狸におどろかされたので、際どいところで滑稽と崇高の大差を来たした。さぞ遺憾だろう」と一人で説明すると、
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は存外平気である。
「全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、
「好漢この鬼窟裏に向って生計を営む。惜しい事だ」と独仙君は嘆息した。すべて独仙君の云う事は決して寒月君にわかったためしがない。寒月君ばかりではない、おそらく誰にでもわからないだろう。
「そりゃ、そうと寒月君、近頃でも矢張り学校へ行って珠ばかり磨いてるのかね」と迷亭先生はしばらくして話頭を転じた。
「いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、暫時中止の姿です。珠ももうあきましたから、実はよそうかと思ってるんです」
「だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ」と主人は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、
「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくってもいいんです」
「でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「結婚って誰の結婚です」
「君のさ」
「私が誰と結婚するんです」
「金田の令嬢さ」
「へええ」
「へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「約束なんかありゃしません、そんな事を言い触らすなあ、向うの勝手です」
「こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」
「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に万朝なぞでは花聟花嫁と云う表題で両君の写真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろう、いつだろうって、うるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。東風君なぞはすでに鴛鴦歌と云う一大長篇を作って、三箇月前から待ってるんだが、寒月君が博士にならないばかりで、せっかくの傑作も宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらないそうだ。ねえ、東風君そうだろう」
「まだ心配するほど持ちあつかってはいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を公けにするつもりです」
「それ見たまえ、君が博士になるかならないかで、四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、珠を磨いてくれたまえ」
「へへへへいろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士にはならないでもいいのです」
「なぜ」
「なぜって、私にはもう歴然とした女房があるんです」
「いや、こりゃえらい。いつの間に秘密結婚をやったのかね。油断のならない世の中だ。苦沙弥さんただ今御聞き及びの通り寒月君はすでに妻子があるんだとさ」
「子供はまだですよ。そう結婚して一と月もたたないうちに子供が生れちゃ事でさあ」
「元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事見たような質問をかける。
「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、この鰹節は結婚祝に親類から貰ったんです」
「たった三本祝うのはけちだな」
「なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです」
「じゃ御国の女だね、やっぱり色が黒いんだね」
「ええ、真黒です。ちょうど私には相当です」
「それで金田の方はどうする気だい」
「どうする気でもありません」
「そりゃ少し義理がわるかろう。ねえ迷亭」
「わるくもないさ。ほかへやりゃ同じ事だ。どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合せをするようなものだ。要するに鉢合せをしないでもすむところをわざわざ鉢合せるんだから余計な事さ。すでに余計な事なら誰と誰の鉢が合ったって構いっこないよ。ただ気の毒なのは鴛鴦歌を作った東風君くらいなものさ」
「なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向け易えてもよろしゅうございます。金田家の結婚式にはまた別に作りますから」
「さすが詩人だけあって自由自在なものだね」
「金田の方へ断わったかい」と主人はまだ金田を気にしている。
「いいえ。断わる訳がありません。私の方でくれとも、貰いたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙っていれば沢山です。――なあに黙ってても沢山ですよ。今時分は探偵が十人も二十人もかかって一部始終残らず知れていますよ」
探偵と云う言語を聞いた、主人は、急に苦い顔をして
「ふん、そんなら黙っていろ」と申し渡したが、それでも飽き足らなかったと見えて、なお探偵について下のような事をさも大議論のように述べられた。
「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな」
「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって怖くはありません。珠磨りの名人理学士水島寒月でさあ」
「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気旺盛なものだね。しかし苦沙弥さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田君のごときものは何の同類だろう」
「熊坂長範くらいなものだろう」
「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ失せにけりと云うが、あんな烏金で身代をつくった向横丁の長範なんかは業つく張りの、慾張り屋だから、いくつになっても失せる気遣はないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯たたるよ、寒月君用心したまえ」
「なあに、いいですよ。ああら物々し盗人よ。手並はさきにも知りつらん。それにも懲りず打ち入るかって、ひどい目に合せてやりまさあ」と寒月君は自若として宝生流に気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を吐いて見せる。
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。
「人間に文明の角が生えて、金米糖のようにいらいらするからさ」と迷亭君が答える。
今度は主人の番である。主人はもったい振った口調で、こんな議論を始めた。
「それは僕が大分考えた事だ。僕の解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で云う、見性成仏とか、自己は天地と同一体だとか云う悟道の類ではない。……」
「おや大分むずかしくなって来たようだ。苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上は、かく申す迷亭も憚りながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と云うよ」
「勝手に云うがいい、云う事もない癖に」
「ところがある。大にある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪だが、僕などは終始一貫父母未生以前からただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ」
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚は移らずと云うのは君の事だ。……」
「これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある」
「おれが探偵」
「探偵でないから、正直でいいと云うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」
「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎていると云う事だ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと云う商売だから、勢自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕まるか、見つかるかと云う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛だ。馬鹿馬鹿しい」
「なるほど面白い解釈だ」と独仙君が云い出した。こんな問題になると独仙君はなかなか引込んでいない男である。「苦沙弥君の説明はよく我意を得ている。昔しの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中己れと云う意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が薬だと云って己れを忘れるより薬な事はない。三更月下入無我とはこの至境を咏じたものさ。今の人は親切をしても自然をかいている。英吉利のナイスなどと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになっている。英国の天子が印度へ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出して馬鈴薯を手攫みで皿へとって、あとから真赤になって愧じ入ったら、天子は知らん顔をしてやはり二本指で馬鈴薯を皿へとったそうだ……」
「それが英吉利趣味ですか」これは寒月君の質問であった。
「僕はこんな話を聞いた」と主人が後をつける。「やはり英国のある兵営で聯隊の士官が大勢して一人の下士官を御馳走した事がある。御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢へ入れて出したら、この下士官は宴会になれんと見えて、硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると聯隊長が突然下士官の健康を祝すと云いながら、やはりフ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこで並みいる士官も我劣らじと水盃を挙げて下士官の健康を祝したと云うぜ」
「こんな噺もあるよ」とだまってる事の嫌な迷亭君が云った。「カーライルが始めて女皇に謁した時、宮廷の礼に嫻わぬ変物の事だから、先生突然どうですと云いながら、どさりと椅子へ腰をおろした。ところが女皇の後ろに立っていた大勢の侍従や官女がみんなくすくす笑い出した――出したのではない、出そうとしたのさ、すると女皇が後ろを向いて、ちょっと何か相図をしたら、多勢の侍従官女がいつの間にかみんな椅子へ腰をかけて、カーライルは面目を失わなかったと云うんだが随分御念の入った親切もあったもんだ」
「カーライルの事なら、みんなが立ってても平気だったかも知れませんよ」と寒月君が短評を試みた。
「親切の方の自覚心はまあいいがね」と独仙君は進行する。「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四つに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか」
「喧嘩も昔しの喧嘩は暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、近頃じゃなかなか巧妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだね」と番が迷亭先生の頭の上に廻って来る。「ベーコンの言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩は正にベーコンの格言通りに出来上ってるから不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵を斃す事を考える……」
「または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月君が言いかけると、独仙君がすぐそのあとを引き取った。「だから貧時には貧に縛せられ、富時には富に縛せられ、憂時には憂に縛せられ、喜時には喜に縛せられるのさ。才人は才に斃れ、智者は智に敗れ、苦沙弥君のような癇癪持ちは癇癪を利用さえすればすぐに飛び出して敵のぺてんに罹る……」
「ひやひや」と迷亭君が手をたたくと、苦沙弥君はにやにや笑いながら「これでなかなかそう甘くは行かないのだよ」と答えたら、みんな一度に笑い出した。
「時に金田のようなのは何で斃れるだろう」
「女房は鼻で斃れ、主人は因業で斃れ、子分は探偵で斃れか」
「娘は?」
「娘は――娘は見た事がないから何とも云えないが――まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれの類だろう。よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると卒塔婆小町のように行き倒れになるかも知れない」
「それは少しひどい」と新体詩を捧げただけに東風君が異議を申し立てた。
「だから応無所住而生其心と云うのは大事な言葉だ、そう云う境界に至らんと人間は苦しくてならん」と独仙君しきりに独り悟ったような事を云う。
「そう威張るもんじゃないよ。君などはことによると電光影裏にさか倒れをやるかも知れないぜ」
「とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ」と主人がいい出した。
「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭が言下に道破する。
「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。
「生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは迷亭君である。
「借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然として出世間的である。
「君のように云うとつまり図太いのが悟ったのだね」
「そうさ、禅語に鉄牛面の鉄牛心、牛鉄面の牛鉄心と云うのがある」
「そうして君はその標本と云う訳かね」
「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と云う病気が発明されてから以後の事だよ」
「なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
迷亭と独仙が妙な掛合をのべつにやっていると、主人は寒月東風二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。
「どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である」
「そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「まあさ。議論だから、だまって聞くがいい。どうして借りた金を返さずに済ますかが問題であるごとく、どうしたら死なずに済むかが問題である。いな問題であった。錬金術はこれである。すべての錬金術は失敗した。人間はどうしても死ななければならん事が分明になった」
「錬金術以前から分明ですよ」
「まあさ、議論だから、だまって聞いていろ。いいかい。どうしても死ななければならん事が分明になった時に第二の問題が起る」
「へえ」
「どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブはこの第二の問題と共に起るべき運命を有している」
「なるほど」
「死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただたいていのものは智慧が足りないから自然のままに放擲しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必ずや死に方に付いて種々考究の結果、嶄新な名案を呈出するに違ない。だからして世界向後の趨勢は自殺者が増加して、その自殺者が皆独創的な方法をもってこの世を去るに違ない」
「大分物騒な事になりますね」
「なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンスと云う人のかいた脚本のなかにしきりに自殺を主張する哲学者があって……」
「自殺するんですか」
「ところが惜しい事にしないのだがね。しかし今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ。万年の後には死と云えば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる」
「大変な事になりますね」
「なるよきっとなる。そうなると自殺も大分研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる」
「妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭先生御聞きになりましたか。苦沙弥先生の御名論を」
「聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう云うね。諸君公徳などと云う野蛮の遺風を墨守してはなりません。世界の青年として諸君が第一に注意すべき義務は自殺である。しかして己れの好むところはこれを人に施こして可なる訳だから、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。ことに表の窮措大珍野苦沙弥氏のごときものは生きてござるのが大分苦痛のように見受けらるるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である。もっとも昔と違って今日は開明の時節であるから槍、薙刀もしくは飛道具の類を用いるような卑怯な振舞をしてはなりません。ただあてこすりの高尚なる技術によって、からかい殺すのが本人のため功徳にもなり、また諸君の名誉にもなるのであります。……」
「なるほど面白い講義をしますね」
「まだ面白い事があるよ。現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような棍棒をもって天下の公民を撲殺してあるく。……」
「なぜです」
「なぜって今の人間は生命が大事だから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから、巡査が慈悲のために打ち殺してくれるのさ。もっとも少し気の利いたものは大概自殺してしまうから、巡査に打殺されるような奴はよくよく意気地なしか、自殺の能力のない白痴もしくは不具者に限るのさ。それで殺されたい人間は門口へ張札をしておくのだね。なにただ、殺されたい男ありとか女ありとか、はりつけておけば巡査が都合のいい時に巡ってきて、すぐ志望通り取計ってくれるのさ。死骸かね。死骸はやっぱり巡査が車を引いて拾ってあるくのさ。まだ面白い事が出来てくる。……」
「どうも先生の冗談は際限がありませんね」と東風君は大に感心している。すると独仙君は例の通り山羊髯を気にしながら、のそのそ弁じ出した。
「冗談と云えば冗談だが、予言と云えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」
「燕雀焉んぞ大鵬の志を知らんやですね」と寒月君が恐れ入ると、独仙君はそうさと云わぬばかりの顔付で話を進める。
「昔しスペインにコルドヴァと云う所があった……」
「今でもありゃしないか」
「あるかも知れない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て河へ這入って水泳をやる……」
「冬もやるんですか」
「その辺はたしかに知らんが、とにかく貴賤老若の別なく河へ飛び込む。但し男子は一人も交らない。ただ遠くから見ている。遠くから見ていると暮色蒼然たる波の上に、白い肌が模糊として動いている……」
「詩的ですね。新体詩になりますね。なんと云う所ですか」と東風君は裸体が出さえすれば前へ乗り出してくる。
「コルドヴァさ。そこで地方の若いものが、女といっしょに泳ぐ事も出来ず、さればと云って遠くから判然その姿を見る事も許されないのを残念に思って、ちょっといたずらをした……」
「へえ、どんな趣向だい」といたずらと聞いた迷亭君は大に嬉しがる。
「お寺の鐘つき番に賄賂を使って、日没を合図に撞く鐘を一時間前に鳴らした。すると女などは浅墓なものだから、そら鐘が鳴ったと云うので、めいめい河岸へあつまって半襦袢、半股引の服装でざぶりざぶりと水の中へ飛び込んだ。飛び込みはしたものの、いつもと違って日が暮れない」
「烈しい秋の日がかんかんしやしないか」
「橋の上を見ると男が大勢立って眺めている。恥ずかしいがどうする事も出来ない。大に赤面したそうだ」
「それで」
「それでさ、人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だと云う事さ」
「なるほどありがたい御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の幅や、名人の道具類を並べておく。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」
「そう云うときまってるかい」と主人は相変らず芝居気のない事を云う。迷亭君はぬからぬ顔で、
「まあさ、小説だよ。云うとしておくんだ。そこで僕がなに代は構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと云う。客はそうも行かないからと躊躇する。それじゃ月賦でいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓になるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。何なら月に五円でも構いませんと僕が極きさくに云うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼元信の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す」
「タイムスの百科全書見たようですね」
「タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる不慥だよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済になると思う、寒月君」
「無論五年でしょう」
「無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
「一念万年、万年一念。短かくもあり、短かくもなしだ」
「何だそりゃ道歌か、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると云う大弱点がある。その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ」
「ハハハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしょう」と寒月君が笑うと、主人はいささか真面目で、
「いやそう云う事は全くあるよ。僕は大学の貸費を毎月毎月勘定せずに返して、しまいに向から断わられた事がある」と自分の恥を人間一般の恥のように公言した。
「そら、そう云う人が現にここにいるからたしかなものだ。だから僕の先刻述べた文明の未来記を聞いて冗談だなどと笑うものは、六十回でいい月賦を生涯払って正当だと考える連中だ。ことに寒月君や、東風君のような経験の乏しい青年諸君は、よく僕らの云う事を聞いてだまされないようにしなくっちゃいけない」
「かしこまりました。月賦は必ず六十回限りの事に致します」
「いや冗談のようだが、実際参考になる話ですよ、寒月君」と独仙君は寒月君に向いだした。「たとえばですね。今苦沙弥君か迷亭君が、君が無断で結婚したのが穏当でないから、金田とか云う人に謝罪しろと忠告したら君どうです。謝罪する了見ですか」
「謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向うがあやまるなら特別、私の方ではそんな慾はありません」
「警察が君にあやまれと命じたらどうです」
「なおなお御免蒙ります」
「大臣とか華族ならどうです」
「いよいよもって御免蒙ります」
「それ見たまえ。昔と今とは人間がそれだけ変ってる。昔は御上の御威光なら何でも出来た時代です。その次には御上の御威光でも出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかる事が出来ない世の中です。はげしく云えば先方に権力があればあるほど、のしかかられるものの方では不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世は昔しと違って、御上の御威光だから出来ないのだと云う新現象のあらわれる時代です、昔しのものから考えると、ほとんど考えられないくらいな事柄が道理で通る世の中です。世態人情の変遷と云うものは実に不思議なもので、迷亭君の未来記も冗談だと云えば冗談に過ぎないのだが、その辺の消息を説明したものとすれば、なかなか味があるじゃないですか」
「そう云う知己が出てくると是非未来記の続きが述べたくなるね。独仙君の御説のごとく今の世に御上の御威光を笠にきたり、竹槍の二三百本を恃にして無理を押し通そうとするのは、ちょうどカゴへ乗って何でも蚊でも汽車と競争しようとあせる、時代後れの頑物――まあわからずやの張本、烏金の長範先生くらいのものだから、黙って御手際を拝見していればいいが――僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢を卜すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫も犯されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛でも人を侵してやろうと、弱いところは無理にも拡げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ這入って見給え。一家一門ことごとく一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘を張れるだけ張らなければ損になるから勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日に離れて、やっと我慢しているようなものの個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考ではいっしょにいるから夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。いっしょにいるためにはいっしょにいるに充分なるだけ個性が合わなければならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか云って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前なんだからね。それだから偕老同穴とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蛮なものさ。今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴を穿いて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方共苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。……」
「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月君が云った。
「わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲しているものは夫婦の資格がないように世間から目されてくる」
「すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね」と寒月君は際どいところでのろけを云った。
「明治の御代に生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者の視るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。その時一人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。その説に曰くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。いやしくも人間の意義を完からしめんためには、いかなる価を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習に縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧の時代はいざ知らず、文明の今日なおこの弊竇に陥って恬として顧みないのははなはだしき謬見である。開化の高潮度に達せる今代において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫に合※(「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54)の式を挙ぐるは悖徳没倫のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず……」
「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと平手で膝頭を叩いた。「私の考では世の中に何が尊いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘れることが出来ないです。この二つの者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と云う関係になります。美は詩歌、音楽の形式に分れます。それだからいやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」
「なければ結構だが、今哲学者が云った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩家だって踏張っても、君の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌をいく篇作ったって始まらないやね。幸いに明治の今日に生れたから、天下が挙って愛読するのだろうが……」
「いえそれほどでもありません」
「今でさえそれほどでなければ、人文の発達した未来即ち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。人々個々おのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向面白くないのさ。現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」
「そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです」
「君が直覚的にそう思われなければ、僕は曲覚的にそう思うまでさ」
「曲覚的かも知れないが」と今度は独仙君が口を出す。「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多に寝返りも打てないから、大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね。あれを読むと壮快と云うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進の声じゃない、どうしても怨恨痛憤の音だ。それもそのはずさ昔は一人えらい人があれば天下翕然としてその旗下にあつまるのだから、愉快なものさ。こんな愉快が事実に出てくれば何もニーチェ見たように筆と紙の力でこれを書物の上にあらわす必要がない。だからホーマーでもチェヴィ・チェーズでも同じく超人的な性格を写しても感じがまるで違うからね。陽気ださ。愉快にかいてある。愉快な事実があって、この愉快な事実を紙に写しかえたのだから、苦味はないはずだ。ニーチェの時代はそうは行かないよ。英雄なんか一人も出やしない。出たって誰も英雄と立てやしない。昔は孔子がたった一人だったから、孔子も幅を利かしたのだが、今は孔子が幾人もいる。ことによると天下がことごとく孔子かも知れない。だからおれは孔子だよと威張っても圧が利かない。利かないから不平だ。不平だから超人などを書物の上だけで振り廻すのさ。吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などはちょっといいようでもつまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たりと云う句の価値を始めて発見するから。無為にして化すと云う語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもうしようがない。アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」
「先生方は大分厭世的な御説のようだが、私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません。どう云うものでしょう」と寒月君が云う。
「そりゃ妻君を持ち立てだからさ」と迷亭君がすぐ解釈した。すると主人が突然こんな事を云い出した。
「妻を持って、女はいいものだなどと思うと飛んだ間違になる。参考のためだから、おれが面白い物を読んで聞かせる。よく聴くがいい」と最前書斎から持って来た古い本を取り上げて「この本は古い本だが、この時代から女のわるい事は歴然と分ってる」と云うと、寒月君が
「少し驚きましたな。元来いつ頃の本ですか」と聞く。「タマス・ナッシと云って十六世紀の著書だ」
「いよいよ驚ろいた。その時分すでに私の妻の悪口を云ったものがあるんですか」
「いろいろ女の悪口があるが、その内には是非君の妻も這入る訳だから聞くがいい」
「ええ聞きますよ。ありがたい事になりましたね」
「まず古来の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね」
「みんな聞いてるよ。独身の僕まで聞いてるよ」
「アリストートル曰く女はどうせ碌でなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしより、小さな碌でなしの方が災少なし……」
「寒月君の妻君は大きいかい、小さいかい」
「大きな碌でなしの部ですよ」
「ハハハハ、こりゃ面白い本だ。さああとを読んだ」
「或る人問う、いかなるかこれ最大奇蹟。賢者答えて曰く、貞婦……」
「賢者ってだれですか」
「名前は書いてない」
「どうせ振られた賢者に相違ないね」
「次にはダイオジニスが出ている。或る人問う、妻を娶るいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く青年は未だし、老年はすでに遅し。とある」
「先生樽の中で考えたね」
「ピサゴラス曰く天下に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女」
「希臘の哲学者などは存外迂濶な事を云うものだね。僕に云わせると天下に恐るべきものなし。火に入って焼けず、水に入って溺れず……」だけで独仙君ちょっと行き詰る。
「女に逢ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。主人はさっさとあとを読む。
「ソクラチスは婦女子を御するは人間の最大難事と云えり。デモスセニス曰く人もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に与うるより策の得たるはあらず。家庭の風波に日となく夜となく彼を困憊起つあたわざるに至らしむるを得ればなりと。セネカは婦女と無学をもって世界における二大厄とし、マーカス・オーレリアスは女子は制御し難き点において船舶に似たりと云い、プロータスは女子が綺羅を飾るの性癖をもってその天稟の醜を蔽うの陋策にもとづくものとせり。ヴァレリアスかつて書をその友某におくって告げて曰く天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず。願わくは皇天憐を垂れて、君をして彼等の術中に陥らしむるなかれと。彼また曰く女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや。避くべからざる苦しみにあらずや、必然の害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜に似たる毒にあらずや。もし女子を棄つるが不徳ならば、彼等を棄てざるは一層の呵責と云わざるべからず。……」
「もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば申し分はありません」
「まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「もうたいていにするがいい。もう奥方の御帰りの刻限だろう」と迷亭先生がからかい掛けると、茶の間の方で
「清や、清や」と細君が下女を呼ぶ声がする。
「こいつは大変だ。奥方はちゃんといるぜ、君」
「ウフフフフ」と主人は笑いながら「構うものか」と云った。
「奥さん、奥さん。いつの間に御帰りですか」
茶の間ではしんとして答がない。
「奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
答はまだない。
「今のはね、御主人の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい」
「存じません」と妻君は遠くで簡単な返事をした。寒月君はくすくすと笑った。
「私も存じませんで失礼しましたアハハハハ」と迷亭君は遠慮なく笑ってると、門口をあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも云わず、大きな足音がしたと思ったら、座敷の唐紙が乱暴にあいて、多々良三平君の顔がその間からあらわれた。
三平君今日はいつに似ず、真白なシャツに卸立てのフロックを着て、すでに幾分か相場を狂わせてる上へ、右の手へ重そうに下げた四本の麦酒を縄ぐるみ、鰹節の傍へ置くと同時に挨拶もせず、どっかと腰を下ろして、かつ膝を崩したのは目覚しい武者振である。
「先生胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「まだ悪いとも何ともいやしない」
「いわんばってんが、顔色はよかなかごたる。先生顔色が黄ですばい。近頃は釣がいいです。品川から舟を一艘雇うて――私はこの前の日曜に行きました」
「何か釣れたかい」
「何も釣れません」
「釣れなくっても面白いのかい」
「浩然の気を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣に行った事がありますか。面白いですよ釣は。大きな海の上を小舟で乗り廻わしてあるくのですからね」と誰彼の容赦なく話しかける。
「僕は小さな海の上を大船で乗り廻してあるきたいんだ」と迷亭君が相手になる。
「どうせ釣るなら、鯨か人魚でも釣らなくっちゃ、詰らないです」と寒月君が答えた。
「そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「僕は文学者じゃありません」
「そうですか、何ですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、傍が傍だから、おのずから、そうなってしまうです」
「どうなってしまうのだ」
「煙草でもですね、朝日や、敷島をふかしていては幅が利かんです」と云いながら、吸口に金箔のついた埃及煙草を出して、すぱすぱ吸い出した、
「そんな贅沢をする金があるのかい」
「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います」
「寒月君が珠を磨くよりも楽な信用でいい、手数がかからない。軽便信用だね」と迷亭が寒月にいうと、寒月が何とも答えない間に、三平君は
「あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、私が貰う事にしました」
「博士をですか」
「いいえ、金田家の令嬢をです。実は御気の毒と思うたですたい。しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと云うから、とうとう貰う事に極めました、先生。しかし寒月さんに義理がわるいと思って心配しています」
「どうか御遠慮なく」と寒月君が云うと、主人は
「貰いたければ貰ったら、いいだろう」と曖昧な返事をする。
「そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても心配するがものはないんだよ。だれか貰うと、さっき僕が云った通り、ちゃんとこんな立派な紳士の御聟さんが出来たじゃないか。東風君新体詩の種が出来た。早速とりかかりたまえ」と迷亭君が例のごとく調子づくと三平君は
「あなたが東風君ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます」
「ええ何か作りましょう、いつ頃御入用ですか」
「いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。その代りです。披露のとき呼んで御馳走するです。シャンパンを飲ませるです。君シャンパンを飲んだ事がありますか。シャンパンは旨いです。――先生披露会のときに楽隊を呼ぶつもりですが、東風君の作を譜にして奏したらどうでしょう」
「勝手にするがいい」
「先生、譜にして下さらんか」
「馬鹿云え」
「だれか、このうちに音楽の出来るものはおらんですか」
「落第の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んで見たまえ。しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ」
「シャンパンもですね。一瓶四円や五円のじゃよくないです。私の御馳走するのはそんな安いのじゃないですが、君一つ譜を作ってくれませんか」
「ええ作りますとも、一瓶二十銭のシャンパンでも作ります。なんならただでも作ります」
「ただは頼みません、御礼はするです。シャンパンがいやなら、こう云う御礼はどうです」と云いながら上着の隠袋のなかから七八枚の写真を出してばらばらと畳の上へ落す。半身がある。全身がある。立ってるのがある。坐ってるのがある。袴を穿いてるがある。振袖がある。高島田がある。ことごとく妙齢の女子ばかりである。
「先生候補者がこれだけあるです。寒月君と東風君にこのうちどれか御礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚寒月君につき付ける。
「いいですね。是非周旋を願いましょう」
「これでもいいですか」とまた一枚つきつける。
「それもいいですね。是非周旋して下さい」
「どれをです」
「どれでもいいです」
「君なかなか多情ですね。先生、これは博士の姪です」
「そうか」
「この方は性質が極いいです。年も若いです。これで十七です。――これなら持参金が千円あります。――こっちのは知事の娘です」と一人で弁じ立てる。
「それをみんな貰う訳にゃいかないでしょうか」
「みんなですか、それはあまり慾張りたい。君一夫多妻主義ですか」
「多妻主義じゃないですが、肉食論者です」
「何でもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう」と主人は叱りつけるように言い放ったので、三平君は
「それじゃ、どれも貰わんですね」と念を押しながら、写真を一枚一枚にポッケットへ収めた。
「何だいそのビールは」
「お見やげでござります。前祝に角の酒屋で買うて来ました。一つ飲んで下さい」
主人は手を拍って下女を呼んで栓を抜かせる。主人、迷亭、独仙、寒月、東風の五君は恭しくコップを捧げて、三平君の艶福を祝した。三平君は大に愉快な様子で
「ここにいる諸君を披露会に招待しますが、みんな出てくれますか、出てくれるでしょうね」と云う。
「おれはいやだ」と主人はすぐ答える。
「なぜですか。私の一生に一度の大礼ですばい。出てくんなさらんか。少し不人情のごたるな」
「不人情じゃないが、おれは出ないよ」
「着物がないですか。羽織と袴くらいどうでもしますたい。ちと人中へも出るがよかたい先生。有名な人に紹介して上げます」
「真平ご免だ」
「胃病が癒りますばい」
「癒らんでも差支えない」
「そげん頑固張りなさるならやむを得ません。あなたはどうです来てくれますか」
「僕かね、是非行くよ。出来るなら媒酌人たるの栄を得たいくらいのものだ。シャンパンの三々九度や春の宵。――なに仲人は鈴木の藤さんだって? なるほどそこいらだろうと思った。これは残念だが仕方がない。仲人が二人出来ても多過ぎるだろう、ただの人間としてまさに出席するよ」
「あなたはどうです」
「僕ですか、一竿風月閑生計、人釣白蘋紅蓼間」
「何ですかそれは、唐詩選ですか」
「何だかわからんです」
「わからんですか、困りますな。寒月君は出てくれるでしょうね。今までの関係もあるから」
「きっと出る事にします、僕の作った曲を楽隊が奏するのを、きき落すのは残念ですからね」
「そうですとも。君はどうです東風君」
「そうですね。出て御両人の前で新体詩を朗読したいです」
「そりゃ愉快だ。先生私は生れてから、こんな愉快な事はないです。だからもう一杯ビールを飲みます」と自分で買って来たビールを一人でぐいぐい飲んで真赤になった。
短かい秋の日はようやく暮れて、巻煙草の死骸が算を乱す火鉢のなかを見れば火はとくの昔に消えている。さすが呑気の連中も少しく興が尽きたと見えて、「大分遅くなった。もう帰ろうか」とまず独仙君が立ち上がる。つづいて「僕も帰る」と口々に玄関に出る。寄席がはねたあとのように座敷は淋しくなった。
主人は夕飯をすまして書斎に入る。妻君は肌寒の襦袢の襟をかき合せて、洗い晒しの不断着を縫う。小供は枕を並べて寝る。下女は湯に行った。
呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。気楽かも知れないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない。寒月君は珠磨りをやめてとうとうお国から奥さんを連れて来た。これが順当だ。しかし順当が永く続くと定めし退屈だろう。東風君も今十年したら、無暗に新体詩を捧げる事の非を悟るだろう。三平君に至っては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。生涯三鞭酒を御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ。鈴木の藤さんはどこまでも転がって行く。転がれば泥がつく。泥がついても転がれぬものよりも幅が利く。猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。自分ではこれほどの見識家はまたとあるまいと思うていたが、先達てカーテル・ムルと云う見ず知らずの同族が突然大気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を揚げたので、ちょっと吃驚した。よくよく聞いて見たら、実は百年前に死んだのだが、ふとした好奇心からわざと幽霊になって吾輩を驚かせるために、遠い冥土から出張したのだそうだ。この猫は母と対面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の肴を啣えて出掛けたところ、途中でとうとう我慢がし切れなくなって、自分で食ってしまったと云うほどの不孝ものだけあって、才気もなかなか人間に負けぬほどで、ある時などは詩を作って主人を驚かした事もあるそうだ。こんな豪傑がすでに一世紀も前に出現しているなら、吾輩のような碌でなしはとうに御暇を頂戴して無何有郷に帰臥してもいいはずであった。
主人は早晩胃病で死ぬ。金田のじいさんは慾でもう死んでいる。秋の木の葉は大概落ち尽した。死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢こいかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる。恐るべき事だ。何だか気がくさくさして来た。三平君のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう。
勝手へ廻る。秋風にがたつく戸が細目にあいてる間から吹き込んだと見えてランプはいつの間にか消えているが、月夜と思われて窓から影がさす。コップが盆の上に三つ並んで、その二つに茶色の水が半分ほどたまっている。硝子の中のものは湯でも冷たい気がする。まして夜寒の月影に照らされて、静かに火消壺とならんでいるこの液体の事だから、唇をつけぬ先からすでに寒くて飲みたくもない。しかしものは試しだ。三平などはあれを飲んでから、真赤になって、熱苦しい息遣いをした。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにしておく事だ。死んでからああ残念だと墓場の影から悔やんでもおっつかない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。どうしても猫とビールは性が合わない。これは大変だと一度は出した舌を引込めて見たが、また考え直した。人間は口癖のように良薬口に苦しと言って風邪などをひくと、顔をしかめて変なものを飲む。飲むから癒るのか、癒るのに飲むのか、今まで疑問であったがちょうどいい幸だ。この問題をビールで解決してやろう。飲んで腹の中までにがくなったらそれまでの事、もし三平のように前後を忘れるほど愉快になれば空前の儲け者で、近所の猫へ教えてやってもいい。まあどうなるか、運を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。眼をあいていると飲みにくいから、しっかり眠って、またぴちゃぴちゃ始めた。
吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのも拭うがごとく腹内に収めた。
それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。主人も迷亭も独仙も糞を食えと云う気になる。金田のじいさんを引掻いてやりたくなる。妻君の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくなる。起ったらよたよたあるきたくなる。こいつは面白いとそとへ出たくなる。出ると御月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。
陶然とはこんな事を云うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事夥しい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚ろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと云ううち、――やられた。どうやられたのか考える間がない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった。
我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって矢鱈に掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。仕方がないから後足で飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに手応があった。ようやく頭だけ浮くからどこだろうと見廻わすと、吾輩は大きな甕の中に落ちている。この甕は夏まで水葵と称する水草が茂っていたがその後烏の勘公が来て葵を食い尽した上に行水を使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来は大分減って烏が見えないなと先刻思ったが、吾輩自身が烏の代りにこんな所で行水を使おうなどとは思いも寄らなかった。
水から縁までは四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。呑気にしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気は焦るが、足はさほど利かなくなる。ついにはもぐるために甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻いても、あせっても、百年の間身を粉にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。