一
医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕の隆起があったので、ついそこが行きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通を好くするために、そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
津田の顔には苦笑の裡に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言を吐く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
津田は無言のまま帯を締め直して、椅子の背に投げ掛けられた袴を取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒りっこないんですか」
「そんな事はありません」
医者は活溌にまた無雑作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経っても肉の上りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
津田は黙って点頭いた。彼の傍には南側の窓下に据えられた洋卓の上に一台の顕微鏡が載っていた。医者と懇意な彼は先刻診察所へ這入った時、物珍らしさに、それを覗かせて貰ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったように鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であった。
津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
津田は思わず眉を寄せた。
「私のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察た様子で分ります」
その時看護婦が津田の後に廻った患者の名前を室の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。
二
電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛がありありと記憶の舞台に上った。白いベッドの上に横えられた無残な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸り声が判然聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾り出すような恐ろしい力の圧迫と、圧された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇しい苦痛とが彼の記憶を襲った。
彼は不愉快になった。急に気を換えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
荒川堤へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛について、彼は全くの盲目漢であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
彼は思わず唇を固く結んで、あたかも自尊心を傷けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣に対して少しの注意も払わなかった。
彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当て篏めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他から牽制を受けた覚がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
彼は電車を降りて考えながら宅の方へ歩いて行った。
三
角を曲って細い小路へ這入った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊い手を額の所へ翳すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚した。――御帰り遊ばせ」
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注ぎかけた。それから心持腰を曲めて軽い会釈をした。
半ば細君の嬌態に応じようとした津田は半ば逡巡して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの宅の二階の庇に巣を食ってるんでしょう」
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖」
津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後に跟いて沓脱から上った。
夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢の前に坐るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入を手拭に包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫になるから」
津田は仕方なしに手を出して手拭を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
津田は仕方なしにまた立ち上った。室を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒ってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
津田はこう云ったなり、後を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは晩食が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。
「厭ね、切るなんて、怖くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
細君は濃い恰好の好い眉を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭?」
津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした。
四
細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉が一際引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌のない一重瞼であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常によく働らいた。或時は専横と云ってもいいくらいに表情を恣ままにした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。
彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中に端書を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
津田は自分の受けべき手術についてなお詳しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤をかけてまず腸を綺麗に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口へガーゼを詰めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰り上げて明日にしたところで、明後日にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢の縁に右の肘を靠たせて、その中に掛けてある鉄瓶の葢を眺めた。朱銅の葢の下では湯の沸る音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生からあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって云うかも知れない」
入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空いてるもんだから、そこへ入いる事もできるようになってるんだ」
「綺麗?」
津田は苦笑した。
「自宅よりは少しあ綺麗かも知れない」
今度は細君が苦笑した。
五
寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢に倚りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃れたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊った自覚がぼんやり働らいていた。
彼が黙って間の襖を開けて次の室へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後から声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配の急な階子段をぎしぎし踏んで二階へ上った。
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折の挿んである頁を目標にそこから読みにかかった。けれども三四日等閑にしておいた咎が祟って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠という気が自から起った。
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日までにもう二カ月以上も経っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物のように細君の前で罵っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽った。
しかし今彼が自分の前に拡げている書物から吸収しようと力めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多に実際の役に立った例のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯えておきたかった。他の注意を惹く粧飾としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気ながら見えて来た時、彼は彼の己惚に訊いて見た。
「そう旨くは行かないものかな」
彼は黙って煙草を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。
六
「おいお延」
彼は襖越しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢の傍に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点いた室を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出やかな模様とを等分に見較べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
お延は檜扇模様の丸帯の端を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」
「それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね」
津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作は時として変に津田の心を唆かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側へ出て厠の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞ぐようにして訊いた。
「何か御用なの」
彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函の中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
御延は玄関の障子を開けて沓脱へ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻飯を食う時に坐った座蒲団が、まだ火鉢の前に元の通り据えてある上に胡坐をかいた。そうしてそこに燦爛と取り乱された濃い友染模様の色を見守った。
すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着の荒い御召の縞柄を眺めながら独りごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
見栄の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。
七
「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要る間際になって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝の上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空いちまったんだそうだ。それから塞がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕いだので、だいぶ臨時費が嵩んだから今月は送れないって云うんだ」
彼は開いた手紙を、そのまま火鉢の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦の塀を一丁も拵えやしまいし」
津田の言葉に偽はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月息子夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達が要らない贅沢をして、むやみに御金をぱっぱっと遣うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯に変りはないかも知れないが、周囲はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
津田は平生からお延が自分の父を軽蔑する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
夫の手前老人に対する批評を憚かった細君の話頭は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語のように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒は開かないよ」
「でもほかに当がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
その時津田は真ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
八
「厭よ、あたし」
お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀みもなかった。遠慮と斟酌を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停められた時のような衝撃を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強いて頼まないでもいい。しかし……」
津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬って追い退けるように遮った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事がようやく津田の腑に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴しちゃ困るよ。買い被られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
津田は追窮もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
彼女は金の入った厚い帯の端を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳した。津田にはその意味がちょっと呑み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段を、嫁に来たての若い細君が、疾くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
お延は笑いながら、軽蔑むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑た真似をさせたくなかった。お延は弁解した。
「時が知ってるのよ。あの婢は宅にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜りを傷けるという意味において彼は躊躇した。
「まあよく考えて見よう」
彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上って行った。
九
翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段の途中で吉川に出会った。しかし彼は下りがけ、向は上りがけだったので、擦れ違に叮嚀な御辞儀をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯に間もないという頃、彼はそっと吉川の室の戸を敲いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
津田は固より表向の用事で、この室へ始終出入すべき人ではなかった。跋の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後にしてくれたまえ。今少し差支えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
音のしないように戸を締めた津田はまた自分の机の前に帰った。
午後になってから彼は二返ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使に訊いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
毎日人の出入の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執った。
時間になった時、彼はほかの人よりも一足後れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
彼は時々こういう事実を背中に背負って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他に見せたがるのと同じような心理作用の下に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。
十
厳めしい表玄関の戸はいつもの通り締まっていた。津田はその上半部に透し彫のように篏め込まれた厚い格子の中を何気なく覗いた。中には大きな花崗石の沓脱が静かに横たわっていた。それから天井の真中から蒼黒い色をした鋳物の電灯笠が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍にある内玄関から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
津田の挨拶に軽い会釈をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅へいらっしゃらなくなったようね」
細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下の男であった。
「まだ嬉しいんでしょう」
津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳と少しになります」
「早いものね、ついこの間だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。嘘をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」
十一
吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯った。機嫌の好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談とも真面目とも片のつかない或物が閃めく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥った。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘じって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的に慢ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間にかそこへ引き摺り込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた方の御年歯を伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊き方をしておいて、わざとその後をおっしゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物よ。あなたがその癖をやめると、もっと人好のする好い男になれるんだけれども」
津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応える痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下していた。細君は微笑した。
「嘘だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
津田の顔が急に堅くなった。唇の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
細君は彼の顔を覗き込むようにして訊いた。彼は固よりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障ったら堪忍してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
細君はすぐ元の軽い調子を恢復した。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成よ。本当に怜悧な方ね、あんな怜悧な方は滅多に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
十二
その時二人の頭の上に下っている電灯がぱっと点いた。先刻取次に出た書生がそっと室の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉の色のだんだん濃くなって来るのを、最前から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬の一切を除けるようにしてその余りを残りなく啜った。そうしてそれを相図に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固より単簡であった。けれども細君の諾否だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合せさえつけば」
彼女はさも無雑作な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉しかった。自分の態度なり所作なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打やされた刹那に受ける快感に近い或物であった。
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕にもっていた。彼はその自己をわざと押し蔵して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚りかかっていた。
彼が用事を済まして椅子を離れようとした時、細君は突然口を開いた。
「また子供のように泣いたり唸ったりしちゃいけませんよ。大きな体をして」
津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙の開閉が局部に応えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体全体が寝床の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
細君の様子は本気なのか調戯うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠って躊躇した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
十三
往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
冷たそうに燦つく肌合の七宝製の花瓶、その花瓶の滑らかな表面に流れる華麗な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒い地の中に茶の唐草模様を浮かした重そうな窓掛、三隅に金箔を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟が、すでに明るい電灯の下を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
彼は無論この渦まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆を口に入れた人のように、咀嚼しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯うため?」
それは何とも云えなかった。彼女は元来他に調戯う事の好な女であった。そうして二人の間柄はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒を平気で跨ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負にし過ぎるため?」
それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった。
車内の片隅に席を取った彼は、窓を透してこのさむざむしい秋の夜の景色にちょっと眼を注いだ後、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕はそのままにしておいた金の工面をどうかしなければならない位地にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
そう思うと、自分が気を利かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干の下に蹲踞まる乞食を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉の温かい※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中にはほとんど入る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。
十四
津田は同じ気分で自分の宅の門前まで歩いた。彼が玄関の格子へ手を掛けようとすると、格子のまだ開かない先に、障子の方がすうと開いた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚したように、薄化粧を施こした彼女の横顔を眺めた。
彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利いた証拠をも挙げた。日常瑣末の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀の光のように眺める事があった。小さいながら冴えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
咄嗟の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢の前には黒塗の足のついた膳の上に布巾を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据えてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
津田が一定の時刻に宅へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。勢い津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧なものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」
「うん」
今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい容子で解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、妾あてるわ」
「そうか。偉いね」
津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面をしなければならないという屈託があった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方の胸に浮ばない彼を、なお焦つかせた。
彼は神田にいる妹の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨脹という名義の下に、毎月の不足を、京都にいる父から填補して貰う事になった一面には、盆暮の賞与で、その何分かを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑よしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重に書くのが得策だろうとも考えた。父母に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上って机の前に坐った。
十五
西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆や万年筆でだらしなく綴られた言文一致の手紙などを、自分の伜から受け取る事は平生からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱いた。手紙を書いてやったところでとうてい効能はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯を生やした細面の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
やがて彼は決心して立ち上った。襖を開けて、二階の上り口の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽に聞こえた。
「女のならあるわ」
津田はまた自分の前に粋な模様入の半切を拡げて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
津田は真面目な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差した。
「時をちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
津田は生返事をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
お延はすぐ下へ降りた。やがて潜り戸が開いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草を吹かした。
彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方の悪口を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手に引き受けたような自信に充ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」
彼が父の機嫌を損ないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文で認め出したのは、それから約十分後であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙い事につくづく愛想を尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちで要る期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函させた後、彼は黙って床の中へ潜り込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」
十六
翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「昨日宅へ来たってね」
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子を口から吐き出した。それから内隠袋を探って莨入を取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸を擦った。あまり気を利かそうとして急いたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章てて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
津田は礼を云って室を出ようとした。吉川は煙りの間から訊いた。
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、繰り合せをして貰う事にしてあります」
佐々木は彼の上役であった。
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だ」
吉川の言葉はよく彼の気性を現わしていた。
「都合がよければ明日からにしたまえ」
「へえ」
こう云われた津田は否応なしに明日から入院しなければならないような心持がした。
彼の身体が半分戸の外へ出かかった時、彼はまた後から呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香が急に冒した。
「へえ、ありがとう、お蔭さまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂をしたがね。岡本も羨ましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨やましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それは固より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
津田は挨拶に窮した。向うの口の重宝なのに比べて、自分の口の不重宝さが荷になった。彼は手持無沙汰の気味で、緩く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
津田はこの子供に対するような、笑談とも訓戒とも見分のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃れ出た。
十七
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾だの碁会所の看板だの鳶の頭のいそうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は彎曲した小路の中ほどにある擦硝子張の扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴が鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないその室は狭いばかりでなく実際暗かった。外部から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅へ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢の周囲を取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁に片手を翳したまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜めるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持身体を横にして洋袴の膝頭を重ねたまま。
電鈴の鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥の後また申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
この陰気な一群の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華やかに彩られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦むようにして閉じ籠っているのである。
津田は長椅子の肱掛に腕を載せて手を額にあてた。彼は黙祷を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
その一人は事実彼の妹婿にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚した。そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶に窮したらしかった。
他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性と愛という問題についてむずかしい議論をした。
妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後異常な結果が生れた。
その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然衝撃を受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
すると診察所から紺セルの洋服を着た三十恰好の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋から紙入を出して金を払おうとする途端に、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知り越の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊いて下さい。明日か明後日手術を受けに来て好いかって」
奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い室の戸口に現わした。
「今ちょうど二階が空いておりますから、いつでも御都合の宜しい時にどうぞ」
津田は逃れるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿いて、擦硝子張の大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯が点いた。
十八
津田の宅へ帰ったのは、昨日よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚は疾くに傾いて、先刻まで往来にだけ残っていた肌寒の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今角の車屋の軒灯を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳け出して来た。
「何をしているんだ」
津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡に自分を牽きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭を例の通り彼女の手から受け取って火鉢の傍を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後ろ向になって、重ね箪笥の一番下の抽斗から、ネルを重ねた銘仙の褞袍を出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧が好く利いていないかも知れないけども」
津田は煙に巻かれたような顔をして、黒八丈の襟のかかった荒い竪縞の褞袍を見守もった。それは自分の買った品でもなければ、拵えてくれと誂えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装をしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
彼が手術のため一週間ばかり家を空けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前の事であった。その上彼はその日から今日に至るまで、ついぞ針を持って裁物板の前に坐った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布は買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古よ。この冬着ようと思って、洗張をしたまま仕立てずにしまっといたの」
なるほど若い女の着る柄だけに、縞がただ荒いばかりでなく、色合もどっちかというとむしろ派出過ぎた。津田は袖を通したわが姿を、奴凧のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日か明後日やって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに随いて行っちゃいけないの。病院へ」
お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。
十九
津田の明る朝眼を覚ましたのはいつもよりずっと遅かった。家の内はもう一片付かたづいた後のようにひっそり閑としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子を開けた彼は、そこの火鉢の傍にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
彼は云い訳らしい事をいって、暦の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指していた。
顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾を除ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊いてくる」
「今すぐ?」
お延は吃驚して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁ほど右へ行った所にある自動電話へ馳けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口でも好い」
「何になさるの」
お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
彼はお延から受取った蟇口を懐中へ放り込んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分後で、もう午に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
津田はそう云いながら腋に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
お延は細かい事にまで気を遣わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床かと思ったけれども」
津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持番の小さい彼の帽子が、被るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
彼は蟇口の悪口ばかり云えた義理でもなかった。
お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶と、麺麭と牛酪を取り出した。
「おやおやこれ召しゃがるの。そんなら時を取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
やがて好い香のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
朝飯とも午飯とも片のつかない、極めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独りごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞に、ちょっと朝の内藤井の叔父の所まで行って来ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。
二十
藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経めぐる不便と不利益とに痛く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父甥の域を通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄を説明するものであった。
津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間始終動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
「緩慢なる人世の旅行者」
叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に挟んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日までその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然しなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面の腮の下に、売卜者見たような疎髯を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路に倦み果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸で費やした後、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らない間に、この閑静な古い都が、彼の父にとって隠栖の場所と定められると共に、終焉の土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へ皺を寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金が溜ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
しかし金の重みのいつまで経ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰った覚のない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後でも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑されるだけで、いっこう得にはならないという事をよく承知しているからでもあった。
実際の世の中に立って、端的な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然迂濶な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉を換えていうと、彼は迂濶の御蔭で奇警な事を云ったり為たりした。
彼の知識は豊富な代りに雑駁であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。
二十一
こういう人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆を走らす手を止めて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵えて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
津田の宅からこの叔父の所へ行くには、半分道ほど川沿の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関の援に依らない方が、彼の勝手であった。
一時少し前に宅を出た津田は、ぶらぶら河縁を伝って終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所に充ちていた。向うの高みを蔽っている深い木立の色が、浮き出したように、くっきり見えた。
彼は道々今朝買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違に切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻き※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)って、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅に塊まっている一群の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
小肥りにふとったその男は双子木綿の羽織着物に角帯を締めて俎下駄を穿いていたが、頭には笠も帽子も被っていなかった。彼の後に取り残された一本の柳を盾に、彼は綿フラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この空っぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」
彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風な言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握った拳をまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙さないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間に挟んで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。
津田は軽蔑に嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。すると突然後から彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。軽い衝撃を受けた彼はほとんど反射作用のように後をふり向いた。そうしてそこにさも悪戯小僧らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章の着いた制帽と、半洋袴と、背中にしょった背嚢とが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。
「今学校の帰りか」
「うん」
子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。
二十二
「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変らずかね」
「どうだか知らない」
自分が十ぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命に手品遣いの方ばかり注意しだした。服装から云うと一夜作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
彼は例の袋を片手でぐっと締扱いて、再び何か投げ込む真似を小器用にした後、麗々と第二の玉子を袋の底から取り出した。それでも飽き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ない棉フラネルの縞柄を遠慮なく群衆の前に示した。しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧に地面の上へ並べた。
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個でも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度は一つ生きた鶏を出そう」
津田は叔父の子供をふり返った。
「おい真事もう行こう。小父さんはこれからお前の宅へ行くんだよ」
真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃ嘘だよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を吐いていつまでも人を散らさないようにするんだよ」
「そうしてどうするの」
そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼の袂を捉えた。
「小父さん何か買ってさ」
宅で強請られるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。小父さんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐きじゃないか」
「あいつは玉子は出すが鶏なんか出せやしないんだよ」
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」
「じゃキッドの靴さ」
毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事の足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。
「赤かったのを宅でお父さんが染めたんだよ」
津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄が、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないで拵らえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策を滑稽的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際を擽ぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。
二十三
「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多に穿けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」
「だってみんなが尨犬の皮だ尨犬の皮だって揶揄うんだもの」
藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみは微かな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な――靴さ」
津田はもし懐中が許すならば、真事のために、望み通りキッドの編上を買ってやりたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼は胸算で自分の懐にある紙入の中を勘定して見た。しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。もし京都から為替が届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心も起った。
「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度宅へ来た時、小母さんに買ってお貰い。小父さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」
彼は賺すようにまた宥めるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方町並が生れ変ったように立派に整のって来た。ところどころのショーウィンドーには、一概に場末ものとして馬鹿にできないような品が綺麗に飾り立てられていた。真事はその間を向う側へ馳け抜けて、朝鮮人の飴屋の前へ立つかと思うと、また此方側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立んだ。彼の馳け出す時には、隠袋の中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
彼は隠袋の中へ手をぐっと挿し込んで掌いっぱいにそのビー玉を載せて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子玉が迸ばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章ててそれを追いかけた。そうして後を振り向きながら津田に云った。
「小父さんも拾ってさ」
最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋へ引き摺り込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。
「雀ならいいが、むやみに人を狙っちゃいけないよ」
「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」
「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから宅へ行って」
好い加減をいうとすぐ後から実行を逼られそうな様子なので、津田は生返事をしたなり話をほかへそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端から批評し始めた。
「あの岡本って奴、そりゃ狡猾いんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」
話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の中で比較した。
二十四
「御前近頃岡本の所へ遊びに行くかい」
「ううん、行かない」
「また喧嘩したな」
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じゃなぜ行かないんだ」
「どうしてでも――」
真事の言葉には後がありそうだった。津田はそれが知りたかった。
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」
「ううん、そんなにくれない」
「じゃ御馳走するだろう」
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ辛かったよ」
ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのが厭になった訳でもあるまい」
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
津田は小首を傾けた。叔父が子供を岡本へやりたがらない理由は何だろうと考えた。肌合の相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終机に向って沈黙の間に活字的の気※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)を天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼は暗にその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少頑固にした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、他から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分でも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。
「真事なぜお父さんに訊いて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」
「僕訊いたよ」
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
真事は少し羞恥んでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切を置くような重い口調で答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でも一さんの持ってるものをね、宅へ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」
津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の活計向は、彼らの子供が持つ玩具の末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請んだな。みんな一さんの持ってるのを見て来たんだろう」
津田は揶揄い半分手を挙げて真事の背中を打とうとした。真事は跋の悪い真相を曝露された大人に近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。
「嘘だよ。嘘だよ」
彼は先刻津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃を担いだままどんどん自分の宅の方へ逃げ出した。彼の隠袋の中にあるビー玉が数珠を劇しく揉むように鳴った。背嚢の中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。
彼は曲り角の黒板塀の所でちょっと立ちどまって鼬のように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路のうちに隠した。津田がその小路を行き尽して突きあたりにある藤井の門を潜った時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手の生垣の間から大事そうに彼を狙撃している真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。
二十五
座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子の間から一足の客靴を覗いて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側の方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切もないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻まで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿の樹の下を潜った津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出した。障子の篏入硝子に映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部から声を掛けた。
「叔母さん」
叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想というものがなかった。その代り時と場合によると世間並の遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんど性の感じを離れた自然さえあった。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齢のそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じを他に与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ気狂だわ」
津田は縁側へ腰をかけた。叔母は上れとも云わないで、膝の上に載せた紅絹の片へ軽い火熨斗を当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たお金さんという女が津田にお辞儀をしたので、彼はすぐ言葉をかけた。
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団を縁側へ持って来ようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」
「ええ」
気のなさそうな生返事をした叔母は、お金さんが生温るい番茶を形式的に津田の前へ注いで出した時、ちょっと首をあげた。
「お金さん由雄さんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切で嘘を吐かない人だから」
お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お世辞じゃありません、本当の事です」
叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳を立てた。
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ丸を入れて打つと危険いから」
叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの鶏を打つに違ないから。構わないから丸だけ取り上げて来て下さい」
お金さんはそれを好い機に茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢に挿し込んだ鏝をまた取り上げた。皺だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗に平たく延びて行くのを何気なく眺めていた津田の耳に、客間の話し声が途切れ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」
叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」
二十六
津田は客間にいる声の主を、坐ったまま突き留めようと力めて見た。やがて彼は軽く膝を拍った。
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
叔母は嫣然ともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿き込んで厭にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」
想像の眼で見るにはあまりに陳腐過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の異な服装もおのずと思い出された。白縮緬の襟のかかった襦袢の上へ薩摩絣を着て、茶の千筋の袴に透綾の羽織をはおったその拵えは、まるで傘屋の主人が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯の折でも懐に入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。
津田は微笑しながら叔母に訊いた。
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い悪い事なんでね」
「へえ、小林にもそんな真面目な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、後を引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。
「お金さんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」
いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあ旨く行きそうなのさ」
叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥ぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯た空虚うな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡で貰ったの」
叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当がつかなかった。
「そんな料簡って、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づける方の身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」
藤井は四年前長女を片づける時、仕度をしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。だからここでもしお金さんの縁談が纏まるとすれば、それは正に三人目の出費に違なかった。娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在の生計向に多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。
二十七
こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事の穿きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。それさえ彼は懐都合で見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通を仰いで、彼らの経済に幾分の潤沢をつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早く為替が届いてくれればいいという期待に縛られて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。すると叔母が「由雄さん」と云い出した。
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰ったの、お前さんは」
「まさか冗談に貰やしません。いくら僕だってそう浮ついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相だ」
「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段等があるもんだからね」
相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも退避ぐ気はなかった。
「これでもいざとなると、なかなか真面目なところもありますからね」
「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」
こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあ止しましょう。今さら云ったって始まらない事だから」
叔母は先刻火熨斗をかけた紅絹の片を鄭寧に重ねて、濃い渋を引いた畳紙の中へしまい出した。それから何となく拍子抜けのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。
「由雄さんはいったい贅沢過ぎるよ」
学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終こう云われつけていた。自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。
「ええ少し贅沢です」
「服装や食物ばかりじゃないのよ。心が派出で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走はないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」
「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」
「乞食じゃないけれども、自然真面目さが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」
この時津田の胸を掠めて、自分の従妹に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、その後夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男の真弓が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
この二人の従妹のどっちも、貰おうとすれば容易く貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云って疾ましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄の葢を開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。
二十八
奥の四畳半で先刻からお金さんに学課の復習をして貰っていた真事が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語の読本を浚い始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切を置いて読み上げる小学二年生の頓狂な声を、例ながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐ袂に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促がされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」
叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居を直して叔父に挨拶をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を拵えたじゃないか」
小林はホームスパンみたようなざらざらした地合の背広を着ていた。いつもと違ってその洋袴の折目がまだ少しも崩れていないので、誰の眼にも仕立卸しとしか見えなかった。彼は変り色の靴下を後へ隠すようにして、津田の前に坐り込んだ。
「へへ、冗談云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」
彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子の中に飾ってある三つ揃に括りつけてあった正札を見つけて、その価段通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」
津田は叔母の手前重ねて悪口を云う勇気もなかった。黙って茶碗を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作を眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
今日まで病気という病気をした例のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩だらけの髯を撫でた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々むさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病は同源だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶い出すと、それが病気に罹らない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽に感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹らないもんだろうと思います」
津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
この不論理な断案は、云い手が真面目なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
薄暗くなった室の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩った。
二十九
いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
津田は明日の治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻を据えた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅へ行って詳しい話をするがね」
「しかし僕は明日から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通ったのを小林はよく知っていたのである。
彼の詳しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵えてくれた肉にも肴にも、日頃大好な茸飯にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭と牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間に挟まるここいらの麺麭に内心辟易しながら、また贅沢だと云われるのが少し怖いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿を見送った。
お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの子も今度の縁が纏まるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
叔父は苦のなさそうな返事をした。
「至極よさそうに思います」
小林の挨拶も気軽かった。黙っているのは津田と真事だけであった。
相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口は利いた事がないけれども」
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
津田はこういって然るべき理窟が充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
叔父は少し機嫌を損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」
三十
それでも座は白けてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急に堰き止められたように、誰も津田の言葉を受け継いで、順々に後へ送ってくれるものがなくなった。
小林は自分の前にある麦酒の洋盃を指して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊いた。
「真事さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
「苦いから僕厭だよ」
真事はすぐ跳ねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機にははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
すぐ立って奥の四畳半へ馳け込んだ彼が、そこから新らしい玩具を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母も嬉しがっているわが子のために、一言の愛嬌を義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦らめたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入ります」
「見て来たような事を云うな」
空気銃の御蔭で、みんながまた満遍なく口を利くようになった。結婚が再び彼らの話頭に上った。それは途切れた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異った気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」
叔母の見て来た世の中を正直に纏めるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目さを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢な事を、我々風情が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」
津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目という疑念を塗り潰すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首を捻って考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易く考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て来ようはずがないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ選り好みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」
先刻から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。
三十一
「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母甥の対話とは思えないよ」
二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその実行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方敵愾心をもって云い合ってるようだが、喧嘩でもしたのかい」
彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事を相手にビー珠を転がしていた小林が偸むようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来悪いかも知れないがね、叔母さんは嘘を吐いてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来た後と同じように真面目だったのさ」
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
そろそろ酔の廻った叔父は、火熱った顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃を取り上げて麦酒をぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
「ええ」
津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに意があったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男に意なんぞあるもんですか」
津田も小林も吹き出した。独りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
叔父はにやにやしながら、禿げた頭の真中を大事そうに撫で廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だって皆な笑うじゃないか」
この問答の途中へお金さんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間の方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。
「そりゃ昔しだって恋愛事件はあったよ。いくらお朝が怖い顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」
「どうだか存じませんよ」
叔母は真事の立った後へ坐って、さっさと松茸飯を手盛にして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は他の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
津田は交ぜ返し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女を愛した覚がない」
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味い食麺麭をにちゃにちゃ噛んだ。
三十二
食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏めようと努力するもののないのに気が付いた。
餉台の上に両肱を突いた叔父が酔後の欠を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物を勝手へ運ばした。先刻から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
半日以上の暇を潰したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌な吉川夫人とその綺麗な応接間とを記憶の舞台に躍らした。つづいて近頃ようやく丸髷に結い出したお延の顔が眼の前に動いた。
彼は座を立とうとして小林を顧みた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇しよう」
小林はすぐ吸い残した敷島の袋を洋袴の隠袋へねじ込んだ。すると彼らの立ち際に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰をしている。宜しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑で困るだろうね、彼の女も。いったい何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後からつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお洒落にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」
「ありがたい仕合せだな」
「芝居はどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
芝居場などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻いて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
叔父は笑うだけであった。
「兄貴は怒ってるんだろう」
「いったいお秀がまた余計な事を云ってやるからいけない」
津田は少し忌々しそうに妹の名前を口にした。
「お秀に咎はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺から送って貰った金を、きちんきちん返す奴があるもんですか」
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
津田はとても敵わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。
三十三
戸外には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬に冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套の肩を撫でた。その外套の裏側に滲み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧みた。
「日中は暖かだが、夜になるとやっぱり寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
小林は新調の三つ揃の上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先を厚く四角に拵えたいかつい亜米利加型の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖をわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異ならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋まで新らしくしている男が、他の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横わる、不規則な物質的の凸凹を証拠立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊いた。
「なぜその背広といっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君と同なじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
津田はすぐ口を閉じた。
二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴らした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝した竹藪が一面に生い被さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹の葉の梢は、季節相応な蕭索の感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
津田はこういって当面の挨拶をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止めないと身体に障るからね」
自分に都合の好い理窟を勝手に拵らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶であった。彼は冷かし半分に訊いた。
「君が奢るのか」
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
二人は黙って坂の下まで降りた。
三十四
順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直に行かなければならなかった。しかし体よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗き込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」
彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場めいた店の硝子戸が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の宅はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「冗談云うな。厭だよ」
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調で追究した。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部へ現わした。
「じゃ飲もう」
二人はすぐ明るい硝子戸を引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅を択んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲へ向けた。
服装から見た彼らの相客中に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、縞の半纏の肩へ濡れ手拭を掛けたのだの、木綿物に角帯を締めて、わざとらしく平打の羽織の紐の真中へ擬物の翡翠を通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛股引も一人交っていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
小林は津田の猪口へ酒を注ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出な彼の背広が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
挨拶をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然としているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
津田は昂然として両者の差違を訊かなかった。それでも小林は少しも悄気ずに、ぐいぐい杯を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑しているね。同情に価しないものとして、始めから見くびっているんだ」
こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
出し抜けに呼びかけられた若者は倔強な頸筋を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」
三十五
インヴァネスを着た小作りな男が、半纏の角刈と入れ違に這入って来て、二人から少し隔った所に席を取った。廂を深くおろした鳥打を被ったまま、彼は一応ぐるりと四方を見廻した後で、懐へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他の客を、見ないようにして見始めた。その相間相間には、ちんちくりんな外套の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭を撫でた。
先刻から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
津田は元の通りの姿勢を崩さなかった。ほとんど返事に価しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵だぜ」
津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口を干した。小林はすぐそれへなみなみと注いだ。
「あの眼つきを見ろ」
薄笑いをした津田はようやく口を開いた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然るべきだかよく考えて見ろ」
鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃で汚れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢ないんだ。馬鹿にするな」
小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追かけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜の小説を読んだろう」
露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に訊くと、先生はありゃ嘘だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器に盛って、感傷的に読者を刺戟する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
小林の言葉はだんだん逼って来た。しまいに彼は感慨に堪えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布の上に落した。
三十六
不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙の痕を、ただ迷惑そうに眺めた。
探偵として物色された男は、懐からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装をすると、汚ないと云って軽蔑するだろう。またたまに綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落だと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
そんな特別の理由を津田は固より知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上訊いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々都落をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻から苦になっていた襟飾の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
長い間叔父の雑誌の編輯をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際厭だよ」
その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利いた。
「要するに僕なんぞは、生涯漂浪して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者になるよりほかに仕方がないじゃないか」
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢だからさ。僕のは死ぬまで麺麭を追かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
小林は津田の言葉から何らの慰藉を受ける気色もなかった。
三十七
先刻から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓の上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。疾うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会を捉えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口を一本出してそれに火を点けた。行きがけの駄賃らしいこの所作が、煙草の箱を受け取って袂へ入れる津田の眼を、皮肉に擽ぐったくした。
時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜の往来は意外に更けやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁をつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ入いっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然した事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
彼の返事は少し曖昧であった。津田がそれを追究もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止したらいいじゃないか」
津田の言葉は誰にでも解り切った理窟なだけに、同情に飢えていそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。数歩の後、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋しいよ」
津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭の下で黒く消えて行く時、幽かに音を立てて、電車の通る相間相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
彼の語気は癇走っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯さえ若くって身体さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋を合せる態度に出た。
「君が行ったらお金さんの結婚する時困るだろう」
小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴をもったのが不仕合せだと思って、諦らめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独り言のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套は君から貰う、たった一人の妹は置いてき堀にする、世話はないや」
これがその晩小林の口から出た最後の台詞であった。二人はついに分れた。津田は後をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。
三十八
彼の門は例の通り締まっていた。彼は潜り戸へ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまた開かなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立んだ。新らしい世帯を持ってから今日に至るまで、一度も外泊した覚のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
今日の彼は灯点し頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろお延の面影を心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火を慕って、それを目標に足を運んだのと一般であった。彼の身体が土塀に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
彼は手を挙げて開かない潜り戸をとんとんと二つ敲いた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締めた」といって詰問するような音が、更け渡りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主は、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側で耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩る音が明らかに聞こえた。格子がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉ててない事はたしかであった。
「どなた?」
潜りのすぐ向う側まで来た足音が止まると、お延はまずこう云って誰何した。彼はなおの事急き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」
お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊ばせ」
ごとごと云わして※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)を外した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼い顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶が約束通り鳴っていた。長火鉢の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたその向には、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱が出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿の葢は傍へ取り除けられて、梨地の中に篏め込んだ小さな硯がつやつやと濡れていた。持主が急いで座を立った証拠に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚していた。
戸締りをして夫の後から入ってきたお延は寝巻の上へ平生着の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」
津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり淋しくってたまらなくなったから、とうとう宅へ手紙を書き出したの」
お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得ができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒だからかね」
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だって現に締まっていたじゃないか」
「時が昨夕締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」
こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉を動かして見せた。日中用のない潜り戸の※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)を、朝外し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻寝かしてやったわ」
下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜り戸の事をそのままにして寝た。
三十九
あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜寝るまで全く予想していなかった不意の観物によって驚ろかされた。
彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟に盛粧したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩らした。
「今御眼覚?」
津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡をかけた大丸髷と、派出な刺繍をした半襟の模様と、それからその真中にある化粧後の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃えて、渋紙の上へ載せてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
津田はまた改めて細君の服装を吟味するように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟だからね」
彼はすぐ心の中でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって妾……」
津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装をして、あのお医者様へ夫婦お揃いで乗り込むのは、少し――」
「辟易?」
お延の漢語が突然津田を擽った。彼は笑い出した。ちょっと眉を動かしたお延はすぐ甘垂れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍してちょうだいよ、ね」
津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急き立てられでもするように世話しなく聞いた。
普通の食事を取らない彼の朝飯はほとんど五分とかからなかった。楊枝も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものを纏めなくっちゃ」
津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後にある戸棚を開けた。
「ここに拵えてあるからちょっと見てちょうだい」
よそ行着を着た細君を労らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄と小さな風呂敷包を、自分の手で戸棚から引き摺り出した。包の中には試しに袖を通したばかりの例の褞袍と平絎の寝巻紐が這入っているだけであったが、鞄の中からは、楊枝だの歯磨粉だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折が挟んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
こう云った津田は、それがこの大部の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択ってちょうだい」
津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰め込んだ。
四十
天気が好いので幌を畳ました二人は、鞄と風呂敷包を、各自の俥の上に一つずつ乗せて家を出た。小路の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入に身仕舞をした若い女の口から出る刺戟性に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒を握ったまま、等しくお延の方へ好奇の視線を向けた。傍を通る往来の人さえ一瞥の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
彼女は自分の俥だけを元へ返した。中ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇しい速力でまた彼の待っている所まで馳けて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端には環があって、環の中には大小五六個の鍵が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥の上に置きっ放しにしたまま」
夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人揃って外出する時の用心に、大事なものに錠を卸しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手でぽんとその上を敲きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
俥は再び走け出した。
彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後れていた。しかし午までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作もなく笑いながら津田にお辞儀をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延が先を越して、「御厄介になります」とこっちから挨拶をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
津田は車夫から受取った鞄を看護婦に渡して、二階の上り口の方へ廻った。
「お延こっちだ」
控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗き込んでいたお延は、すぐ津田の後に随いて階子段を上った。
「大変陰気な室ね、あすこは」
南東の開いた二階は幸に明るかった。障子を開けて縁側へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干を見ながら、津田を顧みた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚れているけれども」
もと請負師か何かの妾宅に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋な昔の面影が残っていた。
「古いけれども宅の二階よりましかも知れないね」
日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少燻ぶった天井だの床柱だのを見廻した。
四十一
そこへ先刻の看護婦が急須へ茶を淹れて持って来た。
「今仕度をしておりますから、少しの間どうぞ」
二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたし怖いわ、そんなものを見るのは」
お延は実際怖そうに眉を動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍まで来て、穢ないところを見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か身寄のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
津田は真面目なお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人なんか呼んで来る奴があるものかね」
津田は女に穢ないものを見せるのが嫌な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭であった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃ止しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「お午までに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同なじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
お延は後を云わなかった。津田も訊かなかった。
看護婦がまた階子段の上へ顔を出した。
「支度ができましたからどうぞ」
津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手であった。
お延は中腰のまま答えた。
「でも後でまた何か云われると、あたしが困るわ」
強いてとめる理由も見出し得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
お延は微かな声で階下を憚かるような笑い方をした。しかし彼女の露わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのは止すから」
こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。午までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
前後して階子段を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。
四十二
「リチネはお飲みでしたろうね」
医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。
「飲みましたが思ったほど効目がないようでした」
昨日の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、ほとんど精神的に零であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度浣腸しましょう」
浣腸の結果も充分でなかった。
津田はそれなり手術台に上って仰向に寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷りとした。堅い括り枕に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬きをして、何度も天井を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸み見たのだという心持がなおのこと募った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
局部魔睡は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍い抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭であった。
「大丈夫です」
「そうですか。もう直です」
こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際が閃めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
切物の皿に当って鳴る音が時々した。鋏で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒い虫のようなものが、彼の身体を不安にするために、気味悪く血管の中を這い廻った。
彼は大きな眼を開いて天井を見た。その天井の上には綺麗に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後で、医者はまた云った。
「瘢痕が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下ろされた。
四十三
診察室を出るとき、後から随いて来た看護婦が彼に訊いた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――蒼い顔でもしているかね」
自分自身に多少懸念のあった津田はこう云って訊き返さなければならなかった。
創口にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段を上る時には、割かれた肉とガーゼとが擦れ合ってざらざらするような心持がした。
お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
津田ははっきりした返事も与えずに室の中に這入った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹まれた蒲団が、彼の安臥を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地のネルを重ねた銘仙の褞袍を後から着せるつもりで、両手で襟の所を持ち上げたお延は、拍子抜けのした苦笑と共に、またそれを袖畳みにして床の裾の方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
彼女は傍にいる看護婦の方を向いて訊いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支えないのでございます。お食事の方はただいま拵えてこちらから持って参ります」
看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
お延は躊躇した。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
時計の葢を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井の上で、時計と睨めっ競でもするように、手術の時間を計っていたのである。
津田は再び訊いた。
「今から宅へ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
お延の返事はいつまで経っても捗々しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開かなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
念を押したお延はすぐ後を云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上りますからって」
「そうか」
津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作が一度に閃めいた。病院へ随いて来るにしては派出過ぎる彼女の衣裳といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注ぎ込まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。床の間の上に取り揃えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙だの鋏だの書物だのが彼の眼についた。それは先刻鞄へ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。
四十四
津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
不審よりも不平な顔をした彼が、向を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速に働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢ね」
津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究していいか見当がつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
彼女の眉がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
不幸にして津田にはその変なところが明暸に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
お延は微かな溜息を洩らしてそっと立ち上った。いったん閉て切った障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干に隙間なく吊されたワイ襯衣だのシーツだのが、先刻見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
お延が小さな声で独りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然籠の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍に縛りつけておくのが少し可哀相になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂のないのに困った。お延も欄干に身を倚せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上って来た。
「どうもお待遠さま」
津田の膳には二個の鶏卵と一合のソップと麺麭がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
津田は床の上に腹這になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
お延はすぐ肉匙の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に午飯を済ました。
四十五
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口劇場の名を云ったなり、すぐ俥に乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
小路を出た護謨輪は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体が浮つきながら早く揺くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
車上の彼女は宅の事を考える暇がなかった。機嫌よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好を始めからもっていない彼女は、時間が後れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
俥は茶屋の前でとまった。挨拶をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯だの暖簾だの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇を通り抜けて、急に明海へ出た人のように眼を覚ました。そうしてこの氛囲気の片隅に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣うように、後を向いて筋違に身体を延ばしながらお延に訊いた。
「見えて? 少しここと換ってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
お延は首を振って見せた。
お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子は左利なので、左の手に軽い小さな象牙製の双眼鏡を持ったまま、その肱を、赤い布で裹んだ手摺の上に載せながら、後をふり返った。
「遅かったのね。あたし宅の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶かたがたお延に何か云うほどの智慧をもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻から姉妹の母親が傍目もふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木の鳴るまでついに一言も口を利かなかった。
四十六
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻継と話してたの」
幕が引かれてから、始めてうち寛ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後を云い足した。
「あたしお母さまと賭をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤を引いて」
継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙を平たく削った精巧の番号札が数通り百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入を取り扱うような手つきで、短冊形の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入の折手本を繰りひろげて見た。そうしてそこに書いてある蠅の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重の裏をつけた更紗の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的に着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙入のままそれを机の上から取って帯の間に挟んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
お延は調戯半分彼女に訊いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍から彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤じゃないのよ。お神籤よりもっと偉い予言なの」
「そう」
お延は後が聞きたそうにして、母子を見比べた。
「継はね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被せるようにとめた。
「止してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」
今まで黙って三人の会話を聴いていた妹娘の百合子が、くすくす笑い出した。
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを浚って上げないから」
母は隣りにいる人の注意を惹かないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳が訊きたかった。
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
百合子はわざと腮を前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
こう云いながら立つと、継子は後の戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
年歯の六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨く利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態を崩していたので、お延の慫慂は何の効目もなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負わなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母しく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
お延は弱い感投詞をむしろ淋しそうに投げた。
四十七
手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
「良人というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか」
これがお延のとうから叔母にぶつかって、質して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。見方次第では痩我慢とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届からでも出たように、傍から解釈されてはならないと日頃から掛念していた。すべての噂のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍か気むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人を綾なして行けないのは、畢竟知恵がないからだ」
知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷けたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外せた。
舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目の少し切れた間から誰かが見物の方を覗いた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。坐ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩したりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭が渦のように見えた。彼らの或者の派出な扮装が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
土間から眼を放したお延は、ついに谷を隔てた向う側を吟味し始めた。するとちょうどその時後をふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当へつけて、そこに容易く吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。先刻から知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ皆な知ってるのよ」
知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし厭だわ。あんなにして見られちゃ」
お延は隠れるように身を縮めた。それでも向側の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
お延はすぐ継子の後を追かけて廊下へ出た。
四十八
そこから見渡した外部の光景も場所柄だけに賑わっていた。裏へ貫を打って取り除しのできるように拵らえた透しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下の端に立って、半ば柱に身を靠たせたお延が、継子の姿を見出すまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指す人のいる方へ渡った。
「何を買ってるの」
後から覗き込むようにして訊いたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんど擦れ擦れになって、微笑み合った。
「今困ってるところなのよ。一さんが何かお土産を買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにく何にもないのよ、あの人の喜びそうなものは」
疳違いをして、男の子の玩具を買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、止すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のある紋などを着けた花簪だの、紙入だの、手拭だのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口を利いてやった。
「駄目よ、あの子は、拳銃とか木剣とか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんな粋な所にあろうはずがないわ」
売店の男は笑い出した。お延はそれを機に年下の女の手を取った。
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた後ほど」
こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の端まで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本の軒柱を盾に立話をした。
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件であった。
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、圧されてへしゃげちまうわ」
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも訊かなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似までして見せた。
「こうやって真ともに向けるんだから、敵わないわね」
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅のお父さまがそうおっしゃってよ」
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」
二人が声を出して笑い合っている傍に、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫の紋を付けて、セルの行灯袴を穿いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶でもして通り過ぎるように、鄭重な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子は赧くなった。
「もう這入りましょうよ」
彼女はすぐお延を促がして内へ入った。
四十九
場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。
比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、攪き廻された注意を一点に纏めようとする警柝の如に聞こえた。
不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。彼らは穏和かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐く呼息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
席に戻った二人は愉快らしく四辺を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし探してあげましょうか」
百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛てがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前ぐらい肥ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗な友染模様の背中が隠れるほど、帯を高く背負った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘なめた。
「百合子さん」
妹は少しも応えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍に、お延が年相応の分別を出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶をして来ましょうか。澄ましていちゃ悪いわね」
実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気な理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴っていた。先刻双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗に願っていた。
叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙ってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上がるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」
五十
岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰った戸の隙間から中を覗いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後へ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体の位置を変るのさえ臆劫そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後を向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう」
一夜作りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生っ白い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帯をわざと下の方へ締めたその色男は、素足に雪駄を穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分後を向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊いた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居へ行くなんて不埒千万だとか何とか。え? きっとそうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
小声でさえ話をするものが周囲に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
お延は煩さそうに眉を動かした。面白半分調戯って見た岡本は少し真面目になった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」
お延の眼は急に舞台を離れた。
「理由っていったい何」
「今ここじゃ話し悪いがね。いずれ後で話すよ」
お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」
先刻まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部から」
二人の会話はそこで途切れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分経つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」
叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
男はまた戸をそっと閉てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。
五十一
彼女が叔父叔母の後に随いて、継子といっしょに、二階の片隅にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹に小声で訊いて見た。
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
訊こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
鋭い一瞥の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然お延の頭に彼女と自分との比較が閃めいた。姿恰好は継子に立ち優っていても、服装や顔形で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々しく出来上った、処女としては水の滴たるばかりの、この従妹を軽い嫉妬の眼で視た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑の意が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我の地位を易えて立って見たいぐらいな羨望の念が、著るしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質のものであった。そうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋ぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛くあたるかも知れません。私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母の膝下を離れると共に、すぐ天真の姿を傷けられます。あなたは私よりも可哀相です」
二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方ならぬ恩顧を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能う限りの愛嬌と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後に随いて食堂に入った。
五十二
叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食み出している大々した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲らしていた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。しかし咄嗟の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換すまで、ついに互を認め合わなかった。
夫人に投げかけた一瞥についで、お延はまたその傍に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻廊下で継子といっしょになって、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好さんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人であるかを知らずにしまった。
席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐った。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子へ腰を下ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇した。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。
「どうですかけたら」
吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先を越すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙い感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心らしい様子を、食卓越に眺めた時、ますます強固にされた。
継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も利かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中には、ほとんど苦痛に近い或物が見透された。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。
調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
ちょうど叔母と話を途切らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また独逸を逃げ出した話でもするがいい」
吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他よりも自分の方が陳腐になってしまいました」
「あなたのような落ちついた方でも、少しは周章たでしょうね」
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
五十三
三好を中心にした洋行談がひとしきり弾んだ。相間相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言も口を挟さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味なしに、着々成功して行く段取を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」
お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」
お延は不意を打たれて退避ろいだ。津田の前でかつて挨拶に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌に過ぎなかった。
「いいえ、大変面白く伺っております」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気がついていた。またやり損なったという苦い感じが彼女の口の先まで湧いて出た。今日こそ夫人の機嫌を取り返してやろうという気込が一度に萎えた。夫人は残酷に見えるほど早く調子を易えて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ一昔前の事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう西暦……」
自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「普仏戦争時分?」
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様を案内して倫敦を連れて歩いて上げた覚があるんだから」
「じゃ巴理で籠城した組じゃないのね」
「冗談じゃない」
三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭いバスがまだ幅を利かしていた時代だよ」
その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹き起すらしく見えた。継子と三好を見較べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終その子の傍に坐っていらっしったら好いでしょう」
叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊いた。叔母がそんな呑気な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はお爺さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前に逼って来たんだ。油断はできません」
継子が顔を赧くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何にも反省器械を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
みんなが声を出して笑った。
五十四
彼らほど多人数でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群を折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲も飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布を放り出す訳に行かなかった。またそんな世話しない真似をする気もないらしかった。芝居を観に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊いた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧に答えた。
「ただ今開きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
叔父はすぐ皮付の鶏の股を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着しないらしかった。彼はすぐ叔父の後へついて、劇とは全く無関係な食物の挨拶をした。
「君は相変らず旨そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車へ乗った話をお聞きですか」
叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍から口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人を潰したんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦の群衆の中で、大男の肩の上へ噛りついていたんだ。行列を見るためにね」
叔父はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造する事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈が高過ぎるもんだから、苦し紛れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
叔父の弁解はむしろ真面目であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人が大きいたって、どうも君じゃ辻褄が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小だからな」
知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑に落ちたらしい言葉遣いをして、なおその当人の猿という渾名を、一座を賑わせる滑稽の余音のごとく繰り返した。夫人は半ば好奇的で、半ば戒飭的な態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同なじ事です」
こんな他愛もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前を取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経っても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹さえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望の漣※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)が立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその後から暗に人馴れない継子を憐れんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮の念が例もの通り起った。
五十五
彼らの席を立ったのは、男達の燻らし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜った頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時だろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間を捉えた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」
いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後を自分で云い足した。
「先刻から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
この云訳をお延は腹の中で嘘らしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠のある推定であった。彼女は食堂へ這入って夫人に挨拶をした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、恭しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介になりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言も口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振を、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚かられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然他に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞えていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、嘘らしいという疑を抱くだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。お蔭さまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日」
「今日? それであなたよくこんな所へ来られましたね」
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。他に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入りになって」
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空いておるので、五六日そこへおいていただく事にしております」
夫人は医者の名前と住所とを訊いた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒るまでよく養生するように、そう云って下さい」
お延は礼を云った。
食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。
五十六
残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾も来なかった。ただ褞袍を着て横臥した寝巻姿の津田の面影が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那に、「いや疳違いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打をしたくなった。
食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後二様の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰り返さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓で晩餐を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、この苦い酒を醸す醗酵分子となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊かれると、彼女はとても判然した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念を抱かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
芝居が了ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑した間際に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭から、ちょいちょい首を出した。
茶屋は幸にして異っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟に毛皮の付いた重そうな二重廻しを引掛けながら岡本がコートに袖を通しているお延を顧みた。
「今日は宅へ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
泊るとも泊らないとも片づかない挨拶をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要らないから」
「泊っていけったって、あなた、宅にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
そんなら止すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介になった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至だね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お揃で、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極」
先刻聞いた役者の言葉を、小さな声で後へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口の方へ歩いて行った。みんなもその後に随いて表へ出た。
車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前宅へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にね。少し訊きたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日にでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
四人の車はこの英語を相図に走け出した。
五十七
津田の宅とほぼ同じ方角に当る岡本の住居は、少し道程が遠いので、三人の後に随いたお延の護謨輪は、小路へ曲る例の角までいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女は幌の中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知らず調子を踏み外して、一人圏外にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅の玄関を上った。
下女は格子の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶さえいつものように快い音を立てなかった。今朝見たと何の変りもない室の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体を、長火鉢の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽させた。
お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母しかった。
「早く玄関を締めてお寝。潜りの※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)はあたしがかけて来たから」
下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継ぎ足した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸かした。しかし夜更に鳴る鉄瓶の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼ってくる孤独の感が、先刻帰った時よりもなお劇しく募って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋しみに比べると、遥かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐かしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食ついていなかった。二人の間に何だか挟まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱かずにすんだろうにという気ばかり強くした。
しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜書きかけた里へやる手紙の続を書こうと思って、筆を執りかけた彼女は、いつまで経っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟するので、彼女は焦らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。
五十八
彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時だか分らない朝の光で眼を覚ました。雨戸の隙間から差し込んで来るその光は、明らかに例もより寝過ごした事を彼女に物語っていた。
彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕の衣裳を見た。上着と下着と長襦袢と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩れているので、そこには上下裏表の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊りがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端を出した金糸入りの檜扇模様の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
彼女はこの乱雑な有様を、いささか呆れた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面を女徳の一つと心がけて来た自分の所作かと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田に嫁いで以後、かつてこんな不体裁を夫に見せた覚のない彼女は、その夫が今自分と同じ室の中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。
だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、例もの通り宅にいたならば、たといどんなに夜更しをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼が覚めると共に跳ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑しない訳に行かなかった。
それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕の不首尾を償うためか、自分の知らない間に起きてくれたお時の足音が、先刻から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。
そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん弛んで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支えなかろうと考え直すようになった。彼女の関節が楽々しだした。彼女はいつにない暢びりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。これも畢竟夫が留守のお蔭だと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。そうして毎日夫と寝起を共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒は無論長く続かなかった。いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕の自分を嘲けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。
彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗に片づけた。津田がいないので、だいぶ省ける手数を利用して、下女も煩わさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽い身仕舞をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。
彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先に択ばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期は外れなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦に訊き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌を悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩らしてしまった。
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ易えて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口報告的に通じただけで、また宅へ帰った。
五十九
お時の御給仕で朝食兼帯の午の膳に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女を囚えた。身体のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
「旦那様がいらっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋しゅうございます」
お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜しゅうございましょう」
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応えた。彼女はすぐ黙ってしまった。
三十分ほど経って、お時の沓脱に揃えたよそゆきの下駄を穿いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧みた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
岡本の住居は藤井の家とほぼ同じ見当にあるので、途中までは例の川沿の電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日前の晩、酒場を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺れ合った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父の宅へ行くには是非共上らなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
「昨日は」
「どこへ行くの」
「お稽古」
去年女学校を卒業したこの従妹は、余暇に任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
彼らはこんな楽屋落の笑談をいうほど親しい間柄であった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心の当人には、いっこう諷刺としての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」
彼女はただこう云って機嫌よく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすから厭よ」
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播したこの悪口は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを搗き交ぜたその人に対するいつもの感じが起った。
六十
岡本の邸宅へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出した。羽織も着ずに、兵児帯をだらりと下げて、その結び目の所に、後へ廻した両手を重ねた彼は、傍で鍬を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
植木屋の横には、大きな通草の蔓が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へ這わせようというんだ。ちょっと好いだろう」
お延は網代組の竹垣の中程にあるその茅門を支えている釿なぐりの柱と丸太の桁を見較べた。
「へえ。あの袖垣の所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代りあすこへは玉縁をつけた目関垣を拵えたよ」
近頃身体に暇ができて、自分の意匠通り住居を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答っているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。お腹が空いて」
「笑談じゃない、叔父さんはまだ午飯前なんだ」
お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから先刻みんなといっしょに召上がれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一物に区切のあるという事をあなたは御承知ですか」
自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経たない、云わば新生活の門出にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据えられた膳に向って胡坐を掻きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
飯櫃があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭だからできないよ」
下女が皿の上に狐色に焦げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想だろう」
糖尿病の叔父は既定の分量以外に澱粉質を摂取する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生のままで供えられた。
むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
叔父は叔母を顧みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」
六十一
小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
肥った身体に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利かずにいる癖がある代りに、他の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時もいられないといった気作な風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上極めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天から稟けた諧謔趣味のために、一層派出な光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼の傍にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌のいい時に、彼を向うへ廻して軽口の吐き競をやるくらいは、今の彼女にとって何の努力も要らない第二の天性のようなものであった。しかし津田に嫁いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初慎みのために控えた悪口は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫を欺むいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔しの自由を憶い出させる或物があった。彼女は生豆腐を前に、胡坐を掻いている剽軽な彼の顔を、過去の記念のように懐かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込じゃないの。津田に教わった覚なんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌み嫌う叔母の方を見た。傍から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標が外れた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに白ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目くさってお訊きになるの」
「少しこっちにも料簡があるんだ、返答次第では」
「おお怖い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶いのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどお誂らえ向かも知れないがね」
淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫でた。彼女は急に悲しい気分に囚えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分の叔父の笑談を、ただ座興から来た出鱈目として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙があり過ぎた。と云って、その隙を飽くまで取り繕ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜まろうとしたところを、彼女は瞬きでごまかした。
「いくらお誂らえ向でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。
六十二
親身の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛がられているという信念を常にもっていた。洒落でありながら神経質に生れついた彼の気合をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分違わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効するに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注がれた。こんな時に、叔父なら嬉しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一叔父に話してしまえと命令した。その命令に背くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
こうして叔父夫婦を欺むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念もなく彼女のために騙されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体に見透した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密な、無頓着のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味い関を通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要らないから」と親切に云ってくれた。
お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌を打ってくれた。……
叔父の前に坐ったお延は自分の後にあるこんな過去を憶い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談のうちに、何か真面目な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。
六十三
感傷的の気分を笑に紛らした彼女は、その苦痛から逃れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
「昨日の事は全体どういう意味なの」
彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣いをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。藪から棒にそんな事訊いたって。ねえ叔母さん」
叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利いてるからっておっしゃるんだよ」
お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論朧気ながらある臆測があった。けれども強いられないのに、悧巧ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉でなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい見当はつくだろう」
どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
お延の推測を首肯う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住より悧巧だね」
こんな事で、二人の間に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評した。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も御賞にあずかったって、あんまり嬉しくないだろう」
「ええちっともありがたかないわ」
お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋ぶりがまた描き出された。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終継子さんと、それからあの三好さんて方を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事夥しいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋を被った猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得だよ。少くとも当世向だ」
「厭にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効に終った、昨夕の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従姉じゃないか」
ただ親類だからというのが唯一の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
叔父の目的中には、昨夕の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性がそこに現われているように思って、暗に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしその後から、吉川夫人と自分との間に横わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕の念も起って来た。
六十四
お延はその問題をそこへ放り出したまま、まだ自分の腑に落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味合だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値は充分あるだろう」
「ええ、有るには有るわ」
お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物を胸に蔵い込んでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利をして貰おうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」
叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目な相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目を承わったのね。光栄の至りだ事」
こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑えた。
「あたしのようなものが眼利をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆なが訊きたがるんだよ」
「冷評しちゃ厭よ」
お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に媚びる一種の快感を味わった。それは自分が実際他にそう思われているらしいという把捉から来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面の事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違の痕迹で、すでにそこここ汚れていた。畢竟夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の云い草だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
叔母はいつものようにお延に加勢しなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言を強いる気色を見せない代りに、叔父の悪強いもとめなかった。始めて嫁にやる可愛い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打は充分あるといった風も見えた。お延は当り障りのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
その後を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するように訊いた。
「それっきりかね」
「だって、あたしあの方の一軒置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言で、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦り減らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚だけよ」
六十五
口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪を改めるはずがないという事もよく承知していた。だから睦しそうな津田と自分とを、彼は始終不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳するために、彼の心に下層にいつも沈澱しているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃く聴こうとするのだろう」
お延は解しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗に叔父から目指されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延を措いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様の感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまり苛めるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
叔母の態度は、叔父を窘めるよりもむしろお延を庇護う方に傾いていた。しかしそれを嬉しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
お延は自分で自分の夫を択んだ当時の事を憶い起さない訳に行かなかった。津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許に嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚はいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
「肝心の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横わる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理がすぐ彼女の頭に閃めいた。「自分の結婚だって畢竟は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆れたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかく継が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれは厭だというんだ。是非黙っててくれというんだ」
「なぜでしょう」
お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮った。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
お延は初めて叔父に強いられる意味を理解した。
六十六
お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に基く牽引性以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。
この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも真に受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寝起を共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇の心から、柔軟性に富んだこの従妹を、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやり終せるだけの活きた眼力を自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、羨みから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘の※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)のごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食み出している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫も変らなかった。彼女は飽くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福を享ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜していた。
過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛いよりもむしろ快よくなかった。それは皆んなが寄ってたかって、今まで糊塗して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「我」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩きつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾して、自分に当擦りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
膳を引かせて、叔母の新らしく淹れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交み入った蟠まりが蜿蜒っていようと思うはずがなかった。造りたての平庭を見渡しながら、晴々した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹や石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へ楓を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開いてるようでおかしいからね」
お延は何の気なしに叔父の指している見当を見た。隣家と地続きになっている塀際の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪をこんもり繁らした根の辺が、叔父のいう通り疎らに隙いていた。先刻から問題を変えよう変えようと思って、暗に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利かした。
「本当ね。あすこを塞がないと、さもさも藪を拵えましたって云うようで変ね」
談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。
六十七
それは叔父が先刻玄関先で鍬を動かしていた出入の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外した後、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
まだ学校から帰らない百合子や一の噂に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑り込みつつあった。
「慾張屋さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
叔母はわざわざ百合子の命けた渾名で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちでは飽くまで放恣なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠の中で、さも愉快らしく囀る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古に行ったの」
叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹の多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝らしい顔をしてなるほどと首肯かなければならなかった。
夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人に対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善くするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦するには相違なかった。しかし怜悧に研ぎ澄すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭でそれを今日に発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
従妹のどこにも不平らしい素振さえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。強いて解釈しようとすれば、彼らは姪と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然口惜しくなった。そういう考えがまた時々発作のようにお延の胸を掴んだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎のように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性でないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と継とは……」
中途で止めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸がしたからである。
「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
お延の頭に石火のようなこの暗示が閃めいた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。彼女はついに自分を抑えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも……」
叔父が縁側へ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。
六十八
すると今まで抑えつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。飽くまで機嫌の好い、飽くまで元気に充ちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟した。
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
彼女は藪から棒にこう云わなければならなかった。今日まで二人の間に何百遍となく取り換わされたこの常套な言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれども先刻からお延の腹の中にどんな潮の満干があったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」
例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草を雁首へ詰めた。
「おれの留守にまた叔母さんから何か聴いたな」
お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌のミツへ挟んでいるか、または胴巻へ入れて臍の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」
叔父の笑談はけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いて眉と睫毛をいっしょに動かした。その睫毛の先には知らない間に涙がいっぱい溜った。勝手を違えた叔父の悪口もぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。
「お延どうかしたのかい」
こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管で灰吹を叩いた。叔母も何とかその場を取り繕ろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
叔母の小言は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶とばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女の唇が顫えた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まで堰きとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしを苛めなくったって……」
叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。賞めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれを皆な蔭で感心しているんだ。だから……」
「そんな事承わなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」
沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯い方が悪かったのかい」
「いいえ。皆んなあたしが悪いんでしょう」
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから訊くんだ」
「だから皆なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
お延はなお泣き出した。叔母は苦々しい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。宅にいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」
お延は唇を噛んで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評し過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」
ようやく発作の去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。
六十九
ところへ何にも知らない継子が、語学の稽古から帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」
和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出した人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶を返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻から待ってたのよ」
「いや大変なお待兼だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁であった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
しかし下女が襖越に手を突いて、風呂の沸いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
叔母は婉曲に自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」
お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧みない叔母の態度は、お延にとって羨ましいものであった。また忌わしいものであった。女らしくない厭なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯した。
立って行く叔母の後姿を彼女がぼんやり目送していると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
二人は火鉢や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。
七十
継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井にも残っていた。硝子戸を篏めた小さい棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇の花を刺繍にした籃入のピンクッションもそのままであった。二人してお対に三越から買って来た唐草模様の染付の一輪挿もそのままであった。
四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂を至る所に嗅いだ。甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然鮮やかな※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)に変化した自己の感情の前に抃舞したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯があったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧みるとその時からもう半年以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極めて現実化され悪いものらしくなって来た。お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐っている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤を引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて貰いたい様子がありありと見えた。お延は従妹を喜こばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭であった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
神籤に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶い起させる良い媒介であった。弱いものの虚を衝くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌にした。抑えられた手を跳ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱を継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚りなく出して、遊技的な戦いに興を添えた。二人はついに硯箱の前に飾ってある大事な一輪挿を引っ繰り返した。紫檀の台からころころと転がり出したその花瓶は、中にある水を所嫌わず打ち空けながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意に放り出された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。
七十一
偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾を取っていらっしゃい」
「厭よ。あなたが零したんだから、あなた取っていらっしゃい」
二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャン拳よ」と云い出したお延は、繊い手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。
「狡猾いわ」
「あなたこそ狡猾いわ」
しまいにお延が負けた時には零れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗に吸い込まれていた。彼女は落ちつき払って袂から出した手巾で、濡れた所を上から抑えつけた。
「雑巾なんか要りゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」
彼女は転がった花瓶を元の位置に直して、摧けかかった花を鄭寧にその中へ挿し込んだ。そうして今までの頓興をまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
発作が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入の神籤を取り出して、傍にある本箱の抽斗へしまい易えた。しかもその上からぴちんと錠を下して、わざとお延の方を見た。
けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹より早く醒めてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
彼女はこう云って継子を見返した。当り障りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼ての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
二人は年齢が違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定に入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様を亡くなして、未亡人になるとか」
継子は少し怪訝な顔をしてお延を見た。
「延子さんは宅にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」
「そりゃ……」
お延は口籠った。継子は彼女に返答を拵える余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵わないわね」
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」
七十二
だんだん勾配の急になって来た会話は、いつの間にか継子の結婚問題に滑り込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女関係に一日の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差し障りのない際どい筋の上を婉曲に渡って歩いた。
「そりゃ駄目よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
お延は答える前にしばらく間をおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯にそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返も来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目って云うじゃありませんか。傍にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは改った態度で口を利き出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
お延はそこで句切をおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継ぎ足した。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択ぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸しり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好の影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少し呆れたようにお延の顔を見た。「昨夕お目にかかったあの方の事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
平生包み蔵しているお延の利かない気性が、しだいに鋒鋩を露わして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつ後へ退った。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微かな溜息さえ吐いた。するとお延が忽然また調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事を疑っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘なんか吐いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
こう云って絶対に継子を首肯わせた彼女は、後からまた独り言のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。
七十三
その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主ががらりと室の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶した。
彼女の机を据えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅であった。お延が津田へ片づくや否や、すぐその後へ入る事のできた彼女は、従姉のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開きそうになった黒い靴足袋の親指の先を、手で撫でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間をおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
こう云った百合子は年上の二人と共に声を揃えて笑った。そうして袴も脱がずに、火鉢の傍へ来てその間に坐りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子を食べ出した。
「今頃お八ツ? このお皿を見ると思い出すのね」
お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自の前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。旨そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫だし、そうかって宅に何かあっても、昔しのように旨しくないのね、もう」
「運動が足りないからでしょう」
二人が話しているうちに、百合子は綺麗に木皿を空にした。そうして木に竹を接いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
薄赤くなった継子は急に妹の方へかかって行った。百合子は頓興な声を出してすぐそこを飛び退いた。
「おお大変大変」
入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で室を逃げ出して行った。
七十四
お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間もなくであった。
一家のものは明るい室に晴々した顔を揃えた。先刻何かに拗ねて縁の下へ這入ったなり容易に出て来なかったという一さえ、機嫌よく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹から、彼がぱくりと口を開いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食いついたという話を聞いたのであった。
お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま彗星が出ると何か悪い事があるんでしょう」
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」
「西洋では」
西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」
一はそれで納得して黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落こちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨であった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍のものはみんなおかしがった。
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そう旨くは行かないよ」
女連が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕この宅が軍艦だと好いな。お父さまは?」
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅なら潰れるじゃないの」
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻藤井を晩餐に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊いて見たくなった。
「一さん藤井の真事さんと同級なんでしょう」
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で賑わった。
みんなを笑わせた真事の逸話の中に、下のようなのがあった。
ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗き込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢を背負って、尨犬の皮で拵えたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑りそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖くなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置き去りにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。
「一の方が少し小悧巧のようだな」と叔父が評した。
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。
七十五
小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。否でも顔を合せなければならない祝儀不祝儀の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才なさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味に適う模細工で毎日埋めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。
これらの原因が困絡がって、叔父は時々藤井の宅へ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭がる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。底まで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他をごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟を弄んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊いた。
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥れた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あら厭だ」
「馬鹿らしい、好い年をして」
お延と叔母はこもごも呆れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの宅でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」
親身の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目になった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充たす訳に行かないんだ」
お延の興味は急に退きかけた。叔父の云う事は、自分の疾うに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合っていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟よ」
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟よ」
お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは厭であった。
七十六
叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪くなる。今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
叔父の言葉のどこまでが藤井の受売で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目で、どこからが笑談なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても敵いっこないからお止しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和を醸すように仕向けるのね」
お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切れるのを待って、徐ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜しい。敗けたものを追窮はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐れむという美点があるんだからな、こう見えても」
彼はさも勝利者らしい顔を粧って立ち上がった。障子を開けて室の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前明日にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾い読にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽なもんだ。洒落だとか、謎だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝らなくってね」
「なるほど叔父さん向のものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
お延が礼を云って書物を膝の上に置くと、叔父はまた片々の手に持った小さい紙片を彼女の前に出した。
「これは先刻お前を泣かした賠償金だ。約束だからついでに持っておいで」
お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒する妙薬だ」
お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」
叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜った。
七十七
お延は叔父の送らせるという俥を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁の方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
肥っていて呼息が短いので、坂を上るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
二人は途々夜の更けた昨夕の話をした。仮寝をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家にいたという縁故で、新夫婦二人ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想いやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日の結果を、今度は繰り返させたくないという主意からであった。
彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
車内のお延は別に纏まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩しい影像を一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定しなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効をもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
玄関の格子を開ける音と共に、台所の方から駈け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切した態度を、さも自分の手柄ででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊いた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も来やしなかったろうね」
するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高な返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利いた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套を取りにいらっしゃいました」
夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作のように込み上げてくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。
七十八
お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛てて手紙を書いた。一昨日も昨日も書きかけて止めにしたその音信を、今日は是非とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
彼女は落ちつけなかった。不安から逃れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻からの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏めて見る事ができそうに思えたのである。
筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶から始めて、無沙汰の申し訳までを器械的に書き了った後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的におかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家の父母に知らせなくってはすまない事項であった。それを差し措いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母に報知する必要に逼られてはいなかった。けれどもある男に嫁いだ一個の妻として、それを見極めておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、確としたところは手に掴めなかった。
手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根に辿りついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
「今日解決ができなければ、明日解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」
これが彼女の論法であった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」
彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
彼女の気分は少し軽くなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母の喜こびそうな津田と自分の現況を憚りなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人の趣が、それからそれへと描出された。感激に充ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
しまいに筆を擱いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削の必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕っただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘や、気休や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎みます、軽蔑します、唾を吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方を欺むいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目です。その人こそ嘘吐です。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」
お延は封書を枕元へ置いて寝た。
七十九
始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日して、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙の唐本を持って、彼女は五六町隔った津田の宅まで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然を慰めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立が立ててあった。白い紙の上に躍っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家へ来ていた由雄であった。
二人は固よりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂で由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。
由雄はその時お延から帙入の唐本を受取って、なぜだか、明詩別裁という厳めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作に違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父宛の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意を惹いた。彼の遣口は不作法であった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野とか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用の書物を探しに奥へ這入った。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空しく引きとめておいた詫を述べた。指定の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日にでも取りに来るからと約束して宅へ帰った。
するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に提げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗の風呂敷に包んで、あたかも鳥籠でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には堪えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩という四文字を的に、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……
お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人ではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方に牽きつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はその疑を拭い去るために、その事実を引ッ繰り返さなければならなかった。
八十
強い意志がお延の身体全体に充ち渡った。朝になって眼を覚ました時の彼女には、怯懦ほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳ね退けて、床を離れる途端に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒の刺戟と共に、締まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
彼女は自分の手で雨戸を手繰った。戸外の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉しかった。怠けて寝過した昨日の償い、それも満足の一つであった。
彼女は自分で床を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向った。そうして結ってから四日目になる髪を解いた。油で汚れた所へ二三度櫛を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂に束ね上げた。それが済んでから始めて下女を起した。
食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。昨日行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
お延の言葉遣は平生より鄭寧で片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷を外して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚のあるその家族は、お時にとっても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物にされたような変な結果に陥るからであった。ふとした拍子からそんな気下味い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨を言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好しだしね」
お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後をつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」
「そんな事はございません」
お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
お時は呆れた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴が鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主を判断しようとして首を傾けた。
八十一
袖を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさを噛み殺そうとして、お延の前で悶え苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を締めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見の前に立ち竦んだ彼女は当惑の眉を寄せた。仕方がないので、今出がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人に引を取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間が逼っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支えないものと独りで合点しているらしかった。
彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に跟けられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指されているのだろうという説明までして聴かせた。
彼の談話には気の弱い女に衝撃を与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々ながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途がなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕お延とお時をさんざ笑わせた外套の件にほかならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
お延はすぐ入用の品を箪笥の底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡った彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性をよく知っていた。着古した外套一つが本で、他日細君の手落呼わりなどをされた日には耐らないと思った。
「大丈夫ですよ、くれるって云ったに違ないんだから。嘘なんか吐きやしませんよ」
出してやらないと小林を嘘吐としてしまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気は確なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に几帳面ですね」と云って小林は笑った。けれどもお延の暗に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
お時が自働電話へ駈けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。ところがその談話は突然な閃めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍らせた。
八十二
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
お時が出て行くや否や、小林は藪から棒にこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、当らず障らずの返事をしておくに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
小林の云い方があまり大袈裟なので、お延はかえって相手を冷評し返してやりたくなった。しかし彼女の気位がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮する男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛にここかしこを駈け回る代りに、時としては不作法なくらい一直線に進んだ。
「やッぱり細君の力には敵いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」
お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
「独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
「参考になりますよ」
お延は細い眼のうちに、賢こそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが、一番捷径じゃありませんか」
小林は頭を掻く真似をした。
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて烈しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これから駈け落をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」
駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人の道行をお延に想い起させた。そうした濃厚な恋愛を象どる艶めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他の着古した外套を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
「駈落をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴れていらっしゃる方はないじゃありませんか」
「へえ」
小林はこう云ったなり畏まった。その態度が全くお延の予期に外れていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目であった。しばらく間をおいてから独り言のような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮三界まで駈落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」
お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう捌なしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人の妹があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴れて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」
お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃れようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥った。
八十三
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
お延は巧みに相手を岐路に誘い込んだ。
「あなた先刻おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」
小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯われる自分じゃないという態度を見せたのである。
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部から覗いてもとうてい判りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか空惚ける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨いお手際をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩さい顔もしなかった。愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。誘き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
お延はさも軽蔑した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥めるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯って行った。
八十四
自分のまだ知らない夫の領分に這入り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心のところはわざと略してしまった。例えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深しをしていたかの点になると、彼は故意に暈しさって、全く語らないという風を示した。それを訊けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥しているのではなかろうかという気さえ起した。
お延は平生から小林を軽く見ていた。半ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑の裏には、まだ他に向って公言しない大きな因子があった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴を零して、厭がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物であった。ことにそういう階級に馴らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本の宅へ出入りをするそれらの人々は、みんなその分を弁えていた。身分には段等があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体を吐くものにはけっして会った事がなかった。
お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦れッ枯らしじゃなかろうか」
軽蔑の裏に潜んでいる不気味な方面が強く頭を持上げた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠にか、またはそれに全くの無頓着でか、アははと笑い出した。
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉ませて、歇斯的里でも起されると、後でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれるだけだから」
お延は後を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。疾うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児になる気遣はないから大丈夫です」
小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹れ代えるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえ遮ぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌ぎに幾らでも先刻の続きを話しますよ。しゃべって潰すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰しにゃ、同なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか淡泊でないからね」
お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても宜しいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」
八十五
小林の顔には皮肉の渦が漲った。進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。
「何という陋劣な男だろう」
お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨めっ競をしていた。すると小林の方からまた口を利き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫も変らないのです。これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
小林の眼は据わっていた。お延は何という事もできなかった。
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶん僻んでいらっしゃるのね」
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑されても存分な讐討ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当て篏って、毫も悖らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
「吃驚りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」
小林は多少溜飲の下りたような顔をした。
「奥さんは先刻から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
小林はまた大きな声を出して笑った。
八十六
お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目さが疑がわれた。反抗、畏怖、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯したいろいろなものはけっして一点に纏まる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊いた。
「じゃあなたは私を厭がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套を貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望かも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
お延の細い眼から憎悪の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性がありありと瞳子の裏に宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡から敵打をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
小林の筋の運び方は、少し困絡かり過ぎていた。お延は彼の論理の間隙を突くだけに頭が錬れていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴むだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏めて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負わないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高を括ったように落ちついている小林の態度がまた癪に障った。そこへ先刻から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠まりは、一定した様式の下に表現される機会の来ない先にまた崩されてしまわなければならなかった。
八十七
お時は縁側へ坐って外部から障子を開けた。
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑み込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸であった。それから判切聞こえるところも辻褄の合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦らめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのまま宅へ帰るのが厭だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざん厭な思いをさせられたのだと思うと、気を利かした下女がかえって恨めしくもあった。
彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに据えられた銅の金具の光る重ね箪笥の一番下の抽斗を開けた。そうして底の方から問題の外套を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを引ッ繰返した。
「思ったよりだいぶ汚れていますね」
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著じるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢も云えませんかね」
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳み皺が幾筋もお延の眼に入った。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆に行った。
「ちょうど好いようですね」
彼女は誰も自分の傍にいないので、せっかく出来上った滑稽な後姿も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
お延は急に口元を締めた。
「奥さんのような窮った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭でこの冬も生きていられます」
彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他に笑われないようにしないといけませんよ」
八十八
二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端、小林が後を向いた拍子、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。
その時小林の太い眉が一層際立ってお延の視覚を侵した。下にある黒瞳はじっと彼女の上に据えられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける覚がないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたは固より立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
小林は応じなかった。問答が咫尺の間に起った。
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
鋭どい稲妻がお延の細い眼からまともに迸しった。
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
お延は歯を噛んだ。
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側を二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
「お待ちなさい」
「何ですか」
小林はのっそり立ちどまった。そうして裄の長過ぎる古外套を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は先刻云ったつもりですがね」
「外套の事じゃありません」
小林はわざと空々しい様子をした。はてなと考える態度まで粧って見せた。お延は詰責した。
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。妻の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に恥を恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたに詫まりましょう。そうしたらいいでしょう」
お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
お延は依然として下を向いたまま口を利かなかった。小林は語を続けた。
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその後を話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。併せて取消します。その他もし奥さんの気に障った事があったら、総て取消します。みんな僕の失言です」
小林はこう云った後で、沓脱に揃えてある自分の靴を穿いた。そうして格子を開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。
微かに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。それから急に二階の梯子段を駈け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。
八十九
幸いにお時が下から上って来なかったので、お延は憚りなく当座の目的を達する事ができた。彼女は他に顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
濡れた手巾を袂へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗を開けた。抽斗は二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもそのはずであった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用の手荷物を纏めるため、二三日前すでにそこを捜したのである。彼女は残された封筒だの、物指だの、会費の受取だのを見て、それをまた一々鄭寧に揃えた。パナマや麦藁製のいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏の夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤に咲いた日比谷公園の躑躅だの、突当りに霞が関の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂のように、聯想としてつき纏わっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机を棄てたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手を環にかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪き廻した。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜んでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。錠を卸さない秘密をそこいらへ放り出しておくには、あまりに細か過ぎるのが彼の持前であった。
お延は戸棚を開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多が、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持でいっぱいになっていた。
再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差の中から、津田宛で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘いつつ、いつまでもそこに残っていたのである。彼女はつい念のためという口実の下に、それへ手を出さなければならなくなった。
封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復した。
突然疑惑の焔が彼女の胸に燃え上った。一束の古手紙へ油を濺いで、それを綺麗に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片を、津田は恐ろしそうに、竹の棒で抑えつけていた。それは初秋の冷たい風が肌を吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分と経たないうちに起った光景であった。箸を置くと、すぐ二階から細い紐で絡げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点けていた。お延が縁側へ出た時には、厚い上包がすでに焦げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊いた。津田は嵩ばって始末に困るからだと答えた。なぜ反故にして、自分達の髪を結う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙が渦を巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は煙に咽ぶ顔をお延から背けた。……
お時が午飯の催促に上って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。
九十
時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で独り膳に向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張っていた。そのくせ心は纏まりなく動いていた。先刻出かけようとして着換えた着物まで、平生と違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介となった。
もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩れなかったなら、お延はついに一言も云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。
お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で箸を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊いた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」
彼女は自分の専断で病院へ行った詫を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
お延は疑りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」
しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口で先へ進んだ。
「旦那様は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴だって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
お延は軽蔑んだ笑いを微かに洩らした。しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変厭な顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評かされました」
お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他の家へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘だと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました」
お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。
九十一
お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒ますには充分であった。彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛がりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修業を積んで始めてそういう境界に達せられるもののように考えていた。人世観という厳めしい名をつけて然るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温く触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。何にも執着しない事であった。呑気に、ずぼらに、淡泊に、鷹揚に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆる通であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成蹟がますます彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。放蕩の酒で臓腑を洗濯されたような彼の趣もようやく解する事ができた。こんなに拘泥の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注がなければならなくなった。
お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の新世帯が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、他の知らない気苦労をしなければならなかった。
器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経っても若かった。一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳の子持とはどうしても考えられないくらいであった。けれどもお延と違った家庭の事情の下に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老けていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染みたのである。
こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母の味方にしたがった。彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことに嫂に気下味い事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎しんでいた。しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。兄がもしあれほど派手好きな女と結婚しなかったならばという気が、始終胸の底にあった。そうしてそれは身贔負に過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦から煙たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人が厭がるからなお改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延が嫌だという一点に纏められてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、またお延より贅沢のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀には姑があった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関聯してこの相違すら考えなかった。
お秀がお延から津田の消息を電話で訊かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。
九十二
前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳にちょっと手を出したぎり、また仰向になって、昨夕の不足を取り返すために、重たい眼を閉っていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入りかけた間際だったので、彼は襖の音ですぐ眼を覚ました。そうして病人に斟酌を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
こういう場合に彼らはけっして愛嬌を売り合わなかった。嬉しそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用し悪い黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部の所作だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙し合う手数を省いて、良心に背かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、取も直さず、愛嬌のない顔という事に過ぎなかった。
第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄であった。だから遠慮の要らないという意味で、不愛嬌な挨拶が苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それが災の元で、互の顔を見ると、互に弾き合いたくなった。
ふと首を上げてそこにお秀を見出した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精と不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着なく、言葉もかけずに、そっと室の内に入って来た。
彼女は何より先にまず、枕元にある膳を眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しに引ッ繰り返された牛乳の罎の下に、鶏卵の殻が一つ、その重みで押し潰されている傍に、歯痕のついた焼麺麭が食欠のまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
お秀は眉をひそめて、膳を階子段の上り口まで運び出した。看護婦の手が隙かなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食の残骸は、掃除の行き届いた自分の家を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」
彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ来ようと思ったんですけれども、あいにく昨日は少し差支えがあって――」
お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟の徹らない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗に希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
津田は後を訊かずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって嫂さんが、もし閑があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。
九十三
手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。
彼は一昨日の午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾を彼から得たお延が、階子段を下へ降りて行った拍子に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中で叫んだ。すると苦い記憶をわざと彼のために繰り返してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉が縮む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦すられた気持がする、次にそれがだんだん緩和されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端に一度引いた浪がまた磯へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返してくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。止めさせようと焦慮れば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。
津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は籠の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。いつまでも彼女を自分の傍に引きつけておくのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、烈しく鳴らした号鈴の音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。彼が局部から受ける厭な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟に帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のお蔭にほかならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。お延の所作に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。しかし全く偶然の暗合でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡で、二つの間にある関係を拵えた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。
お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末を思い起させた。彼は苦い顔をした。
何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「お厭なら病院をお出になってから後にしましょうか」
別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌しなければならなかった。
「どこか痛いの」
津田はただ首肯いて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
「そんなに痛くっちゃ困るのね。嫂さんはどうしたんでしょう。昨日の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のお蔭で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々っ子らしく見えて来た。上部はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥ずかしくなった。
「いったいお前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
津田は優に自分を偽る事ができた。しかしその時の彼は偽るのが厭であった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だから碌な事じゃないのよ。よくって」
津田にも大よその見当はついていた。
九十四
「またあの事だろう」
津田はしばらく間をおいて、仕方なしにこう云った。しかしその時の彼はもう例の通り聴きたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
「だからあたしの方じゃ先刻から用は今度の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」
「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
「だって、兄さんがそんな厭な顔をなさるんですもの」
お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈を加える女ではなかった。したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。彼は取り合わずに先へ通り過した。
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんなところよ」
津田の所へは父の方から、お秀の許へは母の側から、京都の消息が重に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無を心のうちで気遣っていたのである。兄妹の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末の仕払や病院の入費の出所に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡かって、離す事のできない事情の下にある意味合を、お秀よりもよく承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ微かに薄笑の影を締りの好い口元に寄せて見せた。それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪だった。平生は単に妹であるという因縁ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟した。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計他の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。
お秀はやがてきちりと整った眼鼻を揃えて兄に向った。
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうもしようがないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも家へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」
「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当がついて」
津田は何とも答えなかった。お延の拵らえてくれた※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍の襟を手探りに探って、黒八丈の下から抜き取った小楊枝で、しきりに前歯をほじくり始めた。彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻から訊いてるじゃないか」
お秀はわざと眼を反らして縁側の方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作の代りに過ぎなかった。
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」
九十五
津田はようやくお秀宛で来た手紙の中に、どんな事柄が書いてあるかを聞いた。妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。月末の不足を自分で才覚するなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕いだとか家賃の滞りだとかいうのは嘘でなければならなかった。よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。
彼は沈吟して考えた。山羊髯を生やして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪を嫌って髷にばかり結いたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女のよって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を他からも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
お秀には自分の良人の堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
「良人でも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻がえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無雑作にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説き落したのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極呑気な男であった。約束の履行などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。詰責に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。しかし現金の綺麗に消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。
同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を賞めた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮に打ち勝った。彼女はありのままをお秀に物語った。
不断から派手過ぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末を京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。今でも彼女はその誤解から逃れる事ができなかった。したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろ嫂のお延だと云った方が適切かも知れなかった。
「いったい嫂さんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
「そう。じゃ嫂さんが一番気楽でいいわね」
お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、鮮かに見えた。
九十六
「いったいどうしたらいいんでしょう」
お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩らす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝な姑さえその奥には控えていた。
「そりゃ良人だって兄さんに頼まれて、口は利いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人へ対して困るだけだわ」
津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前に甚だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。むしろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面するに違ないとでも思っているのか知ら」
「そこなのよ、兄さん」
お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
微かな暗示が津田の頭に閃めいた。秋口に見る稲妻のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質のものであった。心のうちで劈頭に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初に体よく送金を拒絶する。津田が困る。今までの行がかり上堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。それで否応なしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。
こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟もあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何らの淡泊さがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭い狡獪な所も少しはあった。小額の金に対する度外れの執着心が殊更に目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。
ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉を顰めなければならなかった。父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫や姑への義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度から成立った父の料簡は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。
九十七
感情と理窟の縺れ合った所を解ごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈ったくした。しかし彼らは兄妹であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊しないところを暗に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁は演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括る手際をお秀より余計にもっていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同なじ事だがね」
「あら、嫂さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
お秀の兄を冷笑けるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚び起した。
「できなければ死ぬまでの事さ」
お秀はついにきりりと緊った口元を少し緩めて、白い歯を微かに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯を弄くっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
津田にとってそれほど容易い解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、また取も直さず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角において突き崩すのは、自分で自分に打撲傷を与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をと他から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余るほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。己れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質に父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」と放り出すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺っていた。腹の中に言葉通りの断乎たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量した。そうしていっそ二つのうちで後の方を冒したらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊らなく思った。兄の後に御本尊のお延が澄まして控えているのを悪んだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹であった。そんなこんなの蟠まりから、津田の意志が充分見え透いて来た後でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充ちていた。彼は成上りものに近いある臭味を結婚後のこの妹に見出した。あるいは見出したと思った。いつか兄という厳めしい具足を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえども妄りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵らえかけていた局面を、一度に崩してしまったのである。
九十八
しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊き返した。薬局生は下りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着にした。芝居へ行ったぎり、昨日も今日も姿を見せないお延の仕うちを暗に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
「電話で釣るんだ」
彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振から推して見ると、この類測に満更な無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛に自分を驚ろかしに這入って来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那に閃めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今まで持ち応えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放っておけ」
この挨拶がまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラを忌む兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前を憚かって、不断の甘いところを押し隠すために、わざと嫂に対して無頓着を粧うのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口を取り上げた時、一方では急込んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話を棄てて電車に乗ったのである。それから十五分と経たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套をやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛があった。自暴があった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択される恐れがあった。平生から彼を軽蔑する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地を作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
津田の心には突然一種の恐怖が湧いた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父の前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって燐寸一本だって、大きな家を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱燐寸を抱え込んでいたって。嫂さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」
九十九
津田はお秀の口から出た下半句を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとその後を待っていた。しかし彼の聞こうとするその後はついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取られないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作から来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑かされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。
同時に先刻から催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念に制せられた。
そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
「兄さんはいったい嫂さんをどんな人だと思っていらっしゃるの」
「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
「そんならいいわ、伺わないでも」
「しかしなぜ訊くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」
「ちょっと必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」
「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
津田は答えなかった。お秀は穴の開くようにその顔を見た。
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ聴かないでも解ってるよ」
「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子を抜く必要があったので、彼は判然した返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
「大変な権幕だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」
「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは淡泊でないから駄目よ」
津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違をしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
お秀は急に的の外れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。
「だけど兄さん、もし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
二人は黙らなければならなかった。
百
しかし二人はもう因果づけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲き出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座に逼る金の工面、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥っていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか」
時間がちょうどこんな愛嬌をいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
「どうせ家へ帰ったって用はないんだろう」
お秀は津田のいう通りにした。話は容易く二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹らしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足にならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へ潜り込もうとして機会を待った。
「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの入用のものを」
「そうかい」
津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を餌にして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄を焦らす事に帰着した。
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。先刻もうお前から聞いたじゃないか」
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕を焦らすためにかい、または僕にくれるためにかい」
お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜めた。津田にはそれが口惜涙としか思えなかった。
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
今度は呆れた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事は他に訊かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌を取り返した方が得か、またはくしゃりと一度に押し潰した方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼は徐ろに口を開いた。
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれでいいよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し間をおいた。それからすぐ押し返した。
「兄さんのお腹の中には、あたしが京都へ告口をしたという事が始終あるんでしょう」
「そんな事はどうでもいいよ」
「いいえ、それできっとあたしを眼の敵にしていらっしゃるんです」
「誰が」
不幸な言葉は二人の間に伏字のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明のように兄の眼先に振り廻した。
「兄さんこそ違ったのです。嫂さんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」
百一
津田から見たお秀は彼に対する僻見で武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障りであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は尠からぬ不快を感じた。
「おれはお前の考えてるような二本棒じゃないよ」
「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装って、うっちゃっておおきになるくらいですから」
こういう言葉が所嫌わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。
「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」
彼は神経の亢奮を紛らす人のように、しきりに短かい口髭を引張った。しだいしだいに苦い顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。
津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸にされて行くので、しまいに彼は恥じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。あたかももう一息で彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするような勢で。
「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊でした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体に事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをお貰いになる前、今度のような嘘をお父さんに吐いた覚がありますか」
この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
お秀はそうだと答えたいところをわざと外した。
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠にそれだけの事実を主張するんです」
津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥って来た。
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」
「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」
すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
「兄さんの変った証拠はまだあるんです」
津田は素知らぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのを挙げた。
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、嫂さんに何か云やしないかって、先刻から心配しているじゃありませんか」
「煩さいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」
「でも気になる事はたしかなんでしょう」
「どうでも勝手に解釈するがいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗き込むようにして見た。それから好い恰好をした鼻柱に冷笑の皺を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息で懺悔の深谷へ真ッ逆さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後に平坦な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその見当だろうね」
お秀は赫とした。同時に一筋の稲妻が彼女の頭の中を走った。
百二
「解りました」
お秀は鋭どい声でこう云い放った。しかし彼女の改まった切口上は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦に応ずる気色を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
お秀は津田の肩を揺ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜ嫂さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独りで解ったと思っているがいい」
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」
津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似は夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、微温い表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻から見せている津田を毫も容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。
その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先をお延に向けていた。兄を攻撃するのも嘘ではなかったが、矢面に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした疑を妹が少しでももっているなら、綺麗にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
津田の癇癪は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕まえられると思うのか。馬鹿め」
「そう私を軽蔑なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹より妻を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖がるのです。しかもその怖がるのは――」
お秀がこう云いかけた時、病室の襖がすうと開いた。そうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。
百三
彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉を開けて内へ入る事ができたのである。
実際彼女は三四日前に来た時のように、編上だの畳つきだのという雑然たる穿物を、一足も沓脱の上に見出さなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲は寂寞していた。
彼女はその森とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃えられたただ一足の女下駄を認めた。価段から云っても看護婦などの穿きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍らせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。
右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段の下まで来た。そうして上を見上げた。
上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣を異にしていた。そこには強い感情があった。亢奮があった。しかもそれを抑えつけようとする努力の痕がありありと聞こえた。他聞を憚かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上ってすぐ取つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当、すなわち彼女の後の方から洩れて来るのであった。
彼女はそっと階子段を上った。柔婉な体格をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効をもって酬いられた。
上り口の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄が拵えてあった。お延はそれに倚って、津田の様子を窺った。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入った。ことに嫂さんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。みごとに予期の外れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛む暇なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛げつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。
二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩をしていた。その喧嘩の渦中には、知らない間に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主な原因かも分らなかった。
しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味している閑などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立んでいる彼女の耳朶を叩きに来るだけであった。
彼女は事件が分明になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震わせた。際立って明暸に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻から一言葉ごとに一調子ずつ高まって来た二人の遣取は、ここで絶頂に達したものと見傚すよりほかに途はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁を防ぐ緩和剤として、どうしても病室へ入らなければならなかった。
彼女は兄妹の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際が要った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際どい刹那に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖を開けた。
百四
二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止められた時の沈黙は、けっして平和の象徴ではなかった。不自然に抑えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄い或物が潜んでいた。
二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包み蔵す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支えないという証左を、永く心の中に掴んだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下の目的としなければならなかった。彼女は蒼白い頬に無理な微笑を湛えて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上った。
「おや」
「今日は」
軽い挨拶が二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。二人とも手持無沙汰に圧迫され始めなければならなかった。滅多な事の云えないお延は、脇に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本を出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。
津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら頁を翻えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言ほど口を利いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉から圧し出したようなものであった。
お延はまた懐中から一通の手紙を出した。
「今来がけに郵便函の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」
お延の言葉は几帳面に改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人のように礼儀正しかった。彼女はその形式的なよそよそしいところを暗に嫌っていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉遣いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。
手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延駄目だとさ」
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」
津田の云い方は珍らしく真摯の気に充ちていた。お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平たい旦那様になっていた。しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。衒い気のないその態度がお延には嬉しかった。彼女は慰さめるような温味のある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生の自分に戻ってしまった。
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本の場合のように口を利き合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読み了って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑み込めていた。それでもお秀はわざと訊いた。
「何と書いてありますか、兄さん」
気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」
手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても先刻からの行がかり上、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹であった。
百五
お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中で再度の衝突を惧れた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸に抑えれば、苦もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。彼は容易に怒らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女が室に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。とにかく彼女は退きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩の相手を自分に引き受けようとした。
「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信があったんですか」
「いいえ母から」
「そう、やっぱりこの事について」
「ええ」
お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。
「京都でもいろいろお物費が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」
お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面はどうにでもできるぐらいに考えて」
お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」
こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を繕ろったの、家賃が滞ったのって、そんな費用は元来些細なものじゃないか」
「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家を一軒持って見ると」
「我々だって一軒持ってるじゃないか」
お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌を惜まずに答えた。
「兄さんはその底に何か魂胆があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」
「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
「ほかに?」
お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」
お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀に訊いて御覧よ」
お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」
「だって――」
お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその虚を充たした。
「それで先刻から大変御機嫌が悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」
「困るのね」とお延は溜息交りに答えた後で、また津田に訊きかけた。
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
「知らないよ」
津田は蒼蠅そうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉の間に現われた。
百六
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂に対して何とか説明しなければならない位地に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよく解らないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目がなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお聴きになっても駄目よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」
馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直にお取りにならないんです」
「素直にも義剛にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭ですもの」
「じゃどうすればいいんだ」
「解ってるじゃありませんか」
三人はしばらく黙っていた。
突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に詫まったらどうだ」
お延は呆れたように夫を見た。
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡では」
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後を遮った。
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂さんに詫まって貰いたいと云いました。そんな言がかりを捏造されては、あたしが嫂さんに対して面目なくなるだけじゃありませんか」
沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだって同なじ事です」
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日嫂さんから電話がかかった時、すぐ来ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅に用があったし、午からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」
お延はなお黙っている津田の顔を覗き込んだ。
「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭だよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走った声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子を崩さなかった。
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」
お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。
百七
三人は妙な羽目に陥った。行がかり上一種の関係で因果づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
しかも傍から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らは他から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後に背負っている因縁は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操った。
しまいに津田とお秀の間に下のような問答が起った。
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊に云っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹らしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口おっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫じゃありません。心からの後悔です」
津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫様が空々しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪ったんでしょう」
「でなければ何も詫る必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗しかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお止しよ。何も無理に貰おうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「先刻からそう云っていらっしゃるんです」
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
津田は一種嶮しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪が輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
お秀の手先が怒りで顫えた。両方の頬に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層鮮やかであった。しかし彼女の言葉遣いだけはそれほど変らなかった。怒りの中に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別ッこなのね」
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」
彼女はこう云いながら、昨日岡本の叔父に貰って来た小切手を帯の間から出した。
百八
彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行がかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中で祈ったのである。会心の微笑を洩らしながら首肯ずいて、それを鷹揚に枕元へ放り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
不幸にして津田にはお延の所作も小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣を異にしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくり訊いた。
「こりゃいったいどうしたんだい」
この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨めしく摧いた。彼女の予期は外れた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目くさってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露するに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解る事なんだから」
これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。
彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲の下るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。
先刻から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐から綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
彼女は紙入の中から白紙で包んだものを抜いて小切手の傍へ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」
津田に話しかけたお秀は暗にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強くいつまでもそれを聴いていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
お秀は屹となった。
「どっちも本当です」
この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒を挫いた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎った。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴くよりほかに途がなかった。二人は惹きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝いて出た。
百九
「実は先刻から云おうか止そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭になります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合からです」
お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその後を待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩になったら、その時に止めていただけばそれまでですから」
お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃いになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何にも考えていらっしゃらない方だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ呆れるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
ここまで来たお秀は急に後を継ぎ足した。二人の中の一人が自分を遮ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰いたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体にいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁ずくと諦らめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」
お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然した観念がなかった。したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして他の親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしく嬉しがる能力を天から奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。嫂さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、併せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方なのです」
お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を遮ぎろうとするお延の出鼻を抑えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。
百十
「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直です。そんなに長くかかりゃしません」
お秀の断り方は妙に落ちついていた。先刻津田と衝突した時に比べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂から沈静の方へ推し移って来た。それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂さんも考えて下さい」
考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁としか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目であった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額は問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日ここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放り出さなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何にも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」
お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし初手から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途はないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻そういう問を私におかけになりました。私はどっちも同じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌もなければ気高くもなかった。ただ厄介なだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
すでに諦らめていたお秀は、別に恨めしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人を煩わせるのは厭です。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」
お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には何という合図の表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段を降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶を交り換せて別れた。
百十一
単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後でも、それが偶然の廻り合せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果を迹付けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負って立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚ましい点は容易に見出だされなかった。
この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持ち来されそうに見える葛藤さえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通りの安心と、三分方の不安があった。その三分方の不安を、今日の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
これはお延自身に解っている側の消息中で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間に、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑の眼から、彼女は運よく免かれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡げる役を勤めたお延は、吾知らず儲けものをしたのと同じ事になったのである。
彼女はなぜ岡本が強いて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅へ昨日行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数を省く事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段を上って、また室の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那であった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何にもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴であるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉しい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露わすまでに口を開けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」
お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴に電話なんかかけるなって云うんだ」
二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教じゃないでしょうね」
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目くさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋だよ。つまりああ捏ね返さなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。
百十二
久しぶりに夫と直に向き合ったような気のしたお延は嬉しかった。二人の間にいつの間にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々しい心持になった。
彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促がした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬いられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻は、取も直さず彼女にとって復活の曙光であった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色の空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍い瞬きを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退いた。少くともさほど苦にならなかった。耳に入れた刹那に起った昂奮の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気に薄墨で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾が、ああまで際どくならずにすんだなら、お延は行がかり上、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探らなければならない順序だったのである。
お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛くて耐らないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩き込んでおく方が得策だと思案した。
こう決心するや否や彼女は嘘を吐いた。それは些細の嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。
その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お蔭で助かったよ」
お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随いて、すぐ彼女の口を滑って出てしまった。
「昨日岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰うためなのよ」
津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然跳ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経たないうちに、どこからそんな好意が急に湧いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。
「そりゃ厭なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶん辛かったの」
お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵えて貰っていた。
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日までして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」
自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑み込めた。
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪いだけよ」
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃っているからな」
津田はかえって自尊心を傷けられたような顔つきをした。お延はそれを取り繕ろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間からそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」
津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。
百十三
二人はいつになく融け合った。
今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知らず弛んだ。自分の父が鄙吝らしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧な幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。お延にはそれが嬉しかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣が出た。余事はしばらく問題外に措くとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果から来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥か余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴した。それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那であった。必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂はけっしてなかった。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責を彼女に対して背負って立っていたのと同じ事であった。利巧な彼は、財力に重きを置く点において、彼に優るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に云えば、黄金の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕わなければならないという不安があった。ことに彼はこの点においてお延から軽蔑されるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月父から助けて貰うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満を抱かざるを得なかった。しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊でないのを恨んだ。彼女はただ水臭いと思った。なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝け出してくれないのかを苦にした。しまいには、それをあえてしないような隔りのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。するとその態度がまた木精のように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直に向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎しんでいた。ところがお秀との悶着が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲き破った。しかもお延自身毫もそこに気がつかなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。だから津田にもまるで別人のように快よく見えた。
二人はこういう風で、いつになく融け合った。すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。
二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心の善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々で、容易に纏まらなかった。
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存はなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。
しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具っていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪い吉川に口を利いて貰おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説き落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手であった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善の津田はまた充分成効の見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとう我を折った。
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後で心持よく別れた。
百十四
前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外気易く眠る事ができた。翌日もまた透き通るような日差を眼に受けて、晴々しい空気を篏硝子の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆った。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
洗濯屋の男は、俗歌を唄いながら、区切区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上って、その白いものを隙間なく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作は単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田には解らなかった。
彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶い浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然過ぎた。それを纏めようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
一にはこの間訪問した時からの引かかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後を聴くまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披く権利は自分にあるようにも思われた。
二には京都の事が気になった。軽重を別にして考えると、この方がむしろ急に逼っていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体を持ち扱った彼は、昨日お延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口だと信じていた。
お延がなぜこういう用向を帯びて夫人を訪ねるのを嫌ったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入をしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵らえて貰ったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強いる気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効するに違ないからと云った。成効するにしても、病院を出た後でなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞れがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。
津田は洗濯屋の干物を眺めながら、昨日の問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰り寄せて点検した。すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐の卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。その点でいつでも彼女を少し畏れなければならなかった彼には、杜撰にそこへ触れる勇気がなかった。と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。しかしその苦心は水の泡を製造する努力とほぼ似たものであった。いくら骨を折って拵えても、すぐ後から消えて行くだけであった。根本的に無理な空想を実現させようと巧らんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越に表を眺めた。
表はいつか風立った。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それを掠めるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。
百十五
下から上って来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口の方はそっとしておかないと、危険ですから」
彼はこう注意して、じかに局部を抑えつけている個所を少し緩めて見たら、血が煮染み出したという話を用心のためにして聴かせた。
取り易えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥がすと、血が迸しるかも知れないという身体では、津田も無理をして宅へ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」
医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお有になる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう直です。もう少しの辛防です」
これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込み合わないためか、そこへ坐って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑をかけて、是非その看護婦を殴らせろと、医局へ逼った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽であった。こういう性質の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出す事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪られた。そうしてその裏側へ暗に自分の長所を点綴して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の中から、その一冊を抽いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯ずかせるような趣がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応えなかった。頭にさえ呑み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然下のようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私の娘を愛しておいでなのですかと訊いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐かしい眼で、優しい眼遣いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉って、実を云うと、私も少し嘘を吐く性分だが、私の家のような少人数な家族に、嘘付が二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」
嘘吐という言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯がう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的にならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然とした人世観の下に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」
自分の読んだ一口噺からこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。
百十六
津田は纏まらない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過ぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。しかし秋とは云いながら、独り寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうしてまたお延の方に想いを馳せた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着であった。今まで彼女の手前憚からなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それが厭になると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中に湧いて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中に納めているのだぐらいの料簡は、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然した言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。
お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻から近くで誰かがやっている、彼の最も嫌な謡の声が、不快に彼の耳を刺戟した。彼の記憶にある謡曲指南という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家であった。二階が稽古をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。他が勝手にやっているものを止めさせる権利をどこにも見出し得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
柳の木の後にある赤い煉瓦造りの倉に、山形の下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何のためとも解らない、大きな折釘に似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段を、どしどし上って来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。
彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室の入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套を着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
彼はすぐ胡坐をかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶の代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖を津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、お蔭でこの冬も生きて行かれるよ」
小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを聴かされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
小林はまたこう訊いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋りついた。
「君があんまり苛めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯い過ぎたんだ、可哀想に。泣きゃしなかったかね」
津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目さ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴いたろう」
「いいや聴かない」
二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度しようとする試みが、同時にそこに現われた。
百十七
津田が小林に本音を吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。お秀と正反対な彼女は、飽くまで素直に、飽くまで閑雅な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘っていた。これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜だときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。彼女と小林の間に昨日どんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊く暇もないうちに、時間が経ってしまったのだから、事実やむをえないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しいありのままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を満足させたろうかと考えると、そこには大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田はむしろごまかされるに違ないと思った。ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なくしゃべったとすれば、お延はなおの事、それを聴かないふりをして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。すでにお延の方を諦らめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所を、小林に向って求めるよりほかに仕方がなかった。
小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。嘘だと思うなら、もう一遍お延さんに訊いて見たまえ。もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから、詫まって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らないくらいのものさ」
彼はこう云って嘯いた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読みかけの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。
「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑した口調で津田に訊いた。彼はぞんざいに頁を剥繰りながら、終りの方から逆に始めへ来た。そうしてそこに岡本という小さい見留印を見出した時、彼は「ふん」と云った。
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんの里じゃないか」
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」
この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の叔父だぜ、君知らないのか。里でも何でもありゃしないよ」
「そうか」
小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」
小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると他の財産まで苦になってしようがない」
津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」
こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのは厭だ。貰うなら貰ってもいいがね。――いや貰うのも御免だ、どうせくれる気遣はないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」
津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」
今日小林から充分な事が聴けなかったら、その送別会でも利用してやろうと思いついた津田は、こう云って予備としての第二の機会を暗に作り上げた。
百十八
故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿わった。それがまた津田の訊こうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅くもあり、じれったくもあった。何となく遠廻しに痛振られるような気もした。
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」
津田はついその後へ馬鹿野郎と付け足したかった。
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」
吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延を貼りつけて、裏表の意味を同時に眺める事は自由にできた。
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」
小林はまた「そうか」という言葉を使った。この真面目くさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼から脅やかされるような気がした。
「しかし君は僕などと違って聡明だからいい。他はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
「他とは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」
藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当がついていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が偽物なのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
津田の頭に妙な暗示が閃めかされた。
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」
こういう彼は、平気で自分の妹のお金さんを藤井に片づけて貰う男であった。
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに強奪る所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後の彼の財布は空と同じ事であった。よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫も認めなかった。
不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
その朝藤井へ行った彼は、そこで例もするように昼飯の馳走になって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子が開いたので、ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出したのである。
小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。
百十九
しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯った。
「兄妹喧嘩をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまた傍でそれを聴いていたのか」
小林は苦笑しながら頭を掻いた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」
お秀にはどこか片意地で一本調子な趣があった。それに一種の刺戟が加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑り移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。
津田は心の中で、この叔父と妹と対坐した時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾起したのではあるまいかという疑さえ出た。しかし小林に対する手前もあるので、上部はわざと高く出た。
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
小林は御挨拶にただ高笑いをした後で、こんな事を云った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。彼奴だって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで解らないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩なんかするもんか。あんな奴と」
小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子ずつ余裕を生じて来た。
「蓋しやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪している人間だ。喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕の得になるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下に、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」
津田は面倒臭そうに小林を遮ぎった。
「よし解った。解ったよ。つまり他と衝突するなと注意してくれるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便にしろという忠告なんだろう、君の主意は」
小林は惚けた顔をしてすまし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻からお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。
百二十
小林はここだという時機を捕まえた。
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を擒にしていた。
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」
津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」
津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、その宅の名を云った時に、津田ははたして驚ろいたように大きな声を出した。
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
津田は不思議がらざるを得なかった。
ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の援に依る必要も何にもなかった。津田夫婦の結婚するとき、表向媒妁の労を取ってくれた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係をもっているのは、誰の眼にも明らかであった。しかしその縁故で、この問題を提さげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由はどこにも発見できなかった。
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を聴いていると」
津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは愚だよ。その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで、初手から高を括っているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」
結果の上から見た津田の隙間を探し出す事は小林にも容易であった。
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事宜しく願ってあるんだろう。そこへお秀さんが馳け込むのは当り前じゃないか」
津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても冗談半分の訓戒に過ぎなかった。しかしもしそれをここで真面目一式な文句に転倒するものがあるとすれば、その作者はお秀であった。
「ずいぶん突飛な奴だな」
突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――彼奴の云う事を真向に受けていると、いいのは自分だけで、ほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」
津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合、それらのものがお秀の遣口一つでどう変化して行くか分らなかった。
「女はあさはかなもんだからな」
この言葉を聴いた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気がついた。
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が聴いたのなら、教えてくれたまえ」
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから碌に聴いちゃいなかったよ」
こう云った小林は肝心なところへ来て、知らん顔をして圏外へ出てしまった。津田は失望した。その失望をしばらく味わった後で、小林はまた圏内へ帰って来た。
「しかしもう少し待ってたまえ。否でも応でも聴かされるよ」
津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直に来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。嘘じゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」
お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。
百二十一
津田の頭に二つのものが相継いで閃めいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人を旨く取扱わなければならないという事前の暗示であった。彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところには違なかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答ぶりも変えなければならなかった。この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注ぎ込まれた後の夫人と、まだ反感を煽られない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場の会見で、充分引繰り返して見せるという覚悟があった。少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。
残る一つの閃めきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜を彼に教えた。先刻までの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ち設けていた。しかし今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟を予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。
附帯条件として、小林を早く追払う手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色をどこにも現わさなかった。彼は他の邪魔になる自分を苦にする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、または心得があって故意に困らせるのか、その判断を確と他に与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。
津田は欠伸をして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作が彼を二つに割った。どこかそわそわしながら、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色が斑になって出た。それでも小林はすましていた。枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
冗談じゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と交際った例もない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」
「見世物じゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑だからね」
津田は呆れた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのが厭でならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑された日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君もよほど呑気だね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」
津田は最後の引導を渡すよりほかに途がなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」
小林は別に怒った様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら承ってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套のように留守へ取りに行かれちゃ困る」
小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に聴く事の残っている津田は、出立前もう一遍彼に会っておく方が便宜であった。けれども彼とお延と落ち合う掛念のある病院では都合が悪かった。津田は送別会という名の下に、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者を退去させた。
百二十二
津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取り除けて、その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書き下した手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。気の急いた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅までやって下さい」
看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」
彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
二階へ帰って来た後でも、彼はそればかりが苦になった。そう思うと、お延がもう宅を出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿を見送った津田は、それでももう少しで刻下の用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。
津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想いいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛の苗字を小綺麗な二階建の一軒の門札に見出した。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。
ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後には、書面を認める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。
しかし津田の懸念したように、宅にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際どい機会を旨く利用しようとする敏捷な彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。
その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守から必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽な午前を過ごした。午飯を食べた後で、彼女は洗湯に行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗になっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入に時間を費やした後、晴々した好い心持を湯上りの光沢しい皮膚に包みながら帰って来ると、お時から嘘ではないかと思われるような報告を聴いた。
「堀の奥さんがいらっしゃいました」
お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日の今日、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊かなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通り路だからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。
お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥いる痕迹なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後を追かけるようにして宅を出た。
百二十三
堀の家は大略の見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。
藤井や岡本の住居と違って、郊外に遠い彼の邸には、ほとんど庭というものがなかった。車廻し、馬車廻しは無論の事であった。往来に面して建てられたと云ってもいいその二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。
市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺が繁華な割に、通りはいつも閑静であった。
その上路の左右には柳の立木が行儀よく植えつけられていた。したがって時候の好い時には、殺風景な市内の風も、両側に揺く緑りの裡に一種の趣を見せた。中で一番大きいのが、ちょうど堀の塀際から斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、よそ目にはそれが家と調子を取るために、わざとそこへ移されたように体裁が好かった。
その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶があった。まるで下町の質屋か何かを聯想させるこの長物と、そのすぐ横にある玄関の構とがまたよく釣り合っていた。比較的間口の広いその玄関の入口はことごとく細い格子で仕切られているだけで、唐戸だの扉だのの装飾はどこにも見られなかった。
一口でいうと、ハイカラな仕舞うた屋と評しさえすれば、それですぐ首肯かれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、家の様子を見ただけで外部から判断する事ができるのに、不思議なのはその主人であった。彼は自分がどんな宅へ入っているかいまだかつて知らなかった。そんな事を苦にする神経をもたない彼は、他から自分の家業柄を何とあげつらわれてもいっこう平気であった。道楽者だが、満更無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家に住うのはむしろ不適当かも知れないくらいな彼は、極めて我の少ない人であった。悪く云えば自己の欠乏した男であった。何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗もまた改めようとしない気楽ものであった。かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせるとすなわち先代、の建てた土蔵造りのような、そうしてどこかに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度を賞めるよりほかに仕方がなかった。しかし彼はまた得意がるはずもなかった。彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼にとってあまりに陳腐過ぎた。
お延は堀の家を見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。家へ入いってからもその距離を思い出す事がしばしばあった。お延の考えによると、一番そこに落ちついてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。好かないというよりも、むしろ応対しにくい女であった。時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉はいくらでもあったが、結果はいつでも同じ事に帰着した。
次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、この家に釣り合うようでもあり、また釣り合わないようでもあった。それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのとほとんど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。この曖昧なところがまたお延の堀に対する好悪の感情をそのままに現わしていた。事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、また好いていないようでもあった。
最後に来るお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事ができた。お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向に育て上げられていた。この断案にもう少しもったいをつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とはいつまで行っても一致しっこなかった。堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾を強いられた。しかし矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断ができなかった。
家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺らせると同時に、その反対に出来上っているお秀がまた別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」
玄関の格子を開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度に蘇えらさせるべく号鈴がはげしく鳴った。
百二十四
昨日孫を伴れて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。見方によって、好い都合にもなり、また悪い跋にもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄を追い除けてくれたと同時に、ただ一人面と向き合って、当の敵のお秀と応対しなければならない不利をも与えた。
お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さな髷に結った母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、劈頭にお秀が顔を出したばかりか、待ち設けた老女はその後からも現われる様子をいっこう見せないので、お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまず外させられた。その時彼女はお秀を一目見た眼の中に、当惑の色を示した。しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日の戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。どんな敵を打たれるかも知れないという微かな恐怖であった。この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。
お延はこの一瞥をお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥が突如として閃めいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。
一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した昨日、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、不断から一貫して傍の人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。大なり小なり次の波瀾が呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。
だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌の好い挨拶をした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜りなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審が湧いて起った。
けれども肝心なその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。そればかりか、昨日病院で起った不幸な行き違についても、ついに一言も口を利く様子を見せなかった。
相手に心得があってわざと際どい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。と云って、どこかで区切を付けて、双方さっぱりしておかないと、自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。
怜悧なお延は弱らせられた。会話が滑らかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡げて来た。しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側を覗いて見ようかと思い出した。こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やり損なった暁に、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。
その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこを敲かせて貰って局部から自然に出る本音を充分に聴く事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和の役目をやり終せて帰るよりも遥かに重大な用向であった。
津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない留守に、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかを確と突きとめたかったのである。
どこに引かかりを拵えたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時すでに、「先刻いらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切に使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗にお延を跳ねつけてしまった。
百二十五
お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝この叔父の所を訪ねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。けれどもお秀の門構は依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延に解っていた。それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞を弄さなければならなかった。ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目に取り合う緒口をどこにも見出す事ができないのみならず、長く同じ筋道を辿って行くうちには、自然気色を悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。敏捷なお延は、相手を見縊り過ぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々し始めた。お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。したがって彼女の言葉には滑っこい皮膚があるだけで、肝心の中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞の返礼をさも旨そうに鵜呑にしなければならなかった。
しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌を手古盛りに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽って行こうとした。しかし前と同じ手段を用いて、ただ賞めそやすだけでは、同じ不成蹟に陥いるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第で後の段取をきめようと覚悟した。
彼女はお秀が自分の風呂の留守へ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるで想い到らなかった。しかも昨日病院で起った波瀾の結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
最初夫人の名前がお延の唇から洩れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
すると第二の予想外が継いで起った。お秀がちょっと顔を背けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めて解った。年来陳腐なくらい見飽きている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味の因って来るところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。
お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接いだように、突然話題を変化した。行がかり上全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛であった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。
百二十六
お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この陳腐なありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重な原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。
お延に比べるとお秀は理窟っぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。その代り他から注ぎ込まれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読み馴れた雑誌さえ近頃は滅多に手にしないくらいであった。それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟されずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。
ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々柄にもない議論を主張するような弊に陥った。しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分の道程があった。意地の方から行くと、あまりに我が強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副ぐわないような理窟を、わざわざ自分の尊敬する書物の中から引張り出して来て、そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然弾丸を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分の代りに、振り廻して見るような滑稽も時々は出て来なければならなかった。
問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的な問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。
彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく呑み込んでいた。際どい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合の悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされるくらいなら、最初から取り合わない方がよっぽどましだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛りつけておく必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至お延、お秀の愛でも何でもなかった。ただ漫然として空裏に飛揚する愛であった。したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺りおろさなければならなかった。
子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染みているお秀が、この意味において、遥かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯いながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲を取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。
やがてお延の胸に分別がついた。分別とはほかでもなかった。この問題を活かすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思う壺に入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟に対して、真偽の吟味などは、要らざる斟酌であった。しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀は怒るに違なかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。
最後に彼女はある時機を掴んで起った。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。
百二十七
「そう云われると、何と云っていいか解らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」
お秀の器量望みで貰われた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨やましい事実に違なかった。始めて津田からその話を聴かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬を感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐をしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑であった。それを表向さも嬉しい消息ででもあるように取扱かって、彼我に共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞に過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄であった。
幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本に愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬが仏という諺がまさにこの場合の彼女をよく説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸の中へしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目に受けるほど無邪気だったのである。
本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱な言葉を通して、鋭どいお延からよく見透かされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉を聴いた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。
実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々しい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」
この挨拶は平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかに途はなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶち毀すのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡ったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」
こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環が遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥は何の影響もお延に与える事ができなかった。指輪に対する彼女の無邪気さは昨日と毫も変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
他に向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶をついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。
お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹をお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風を粧って、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなお厭だった。したがって応対に非常な呼吸が要った。目的地へ漕ぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。
百二十八
彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に絡まれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、面と向き合ったままお秀に相見しようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影を突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、毫もこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何の貯えもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」
お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕傍にいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解らないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」
お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想いやられた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は直ちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫※(感嘆符疑問符、1-8-78)」
疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇のあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「嘘よ。そりゃあなたの事よ」
お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を省いた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
お延は叩きつけられた後で、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹としての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって疾うから知ってるわ」
お延の鎌は際どいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険いのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴かしていただかないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」
こういったお秀は急に赧くなった。それが何の羞恥のために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩できなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度の記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧い顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものを繋いでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどう探したって、金輪際出て来っこなかった。お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡が存在しているに相違ないという推測であった。そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。
百二十九
とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を衝いて出る嘘を抑える事ができなかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊き返した。
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
お延にはもう後がなかった。お秀には先があった。
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩深田の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救を求めていたかも知れなかった。お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当がつかないんですもの」
お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の腋の下から膏汗が流れた。彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたは基督教信者じゃありませんか」
お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、昨日のような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」
昨日と今日の二人は、まるで地位を易えたような形勢に陥った。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお嫌いなんでしょう」
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高い心持になって、この小さいお延を憐れんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫まるから」
お延は光る宝石入の指輪を穿めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
持前の癖を見せて、眉を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝の上へ落ちた。
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために万ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこう恨みとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよく解ります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」
お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は赧くなる代りに少し蒼白くなった。そうして度外れに急き込んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉遣いをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をした覚はないんです。兄さんに対しても嫂さんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」
百三十
お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇を衝こうとした。三度目の嘘が安々と彼女の口を滑って出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お厭?」
こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌をその細い眼に湛えて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作は全く外れた。お秀は驚ろかされた人のように、卒爾な質問をかけた。
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこか外から廻っていらしったの」
「いいえ。宅からすぐ上ったの」
お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ縋りついた手を放さなかった。
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」
その時お秀の涼しい眼のうちに残酷な光が射した。
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分独り精一杯愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「良人を御覧なさい」
お秀はすぐこう云って退けた。お延は話頭からわざと堀を追い除けた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の云いっ競よ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直な夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」
雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」
お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」
お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の位地は顛倒した。そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目よ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯経ったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」
お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解るわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心のあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂さんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌いなんだから」
お秀の顔に軽蔑の色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透かされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟なんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太を踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。留守に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。
百三十一
お延とお秀が対坐して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延宛で書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほど後であった。
彼は看護婦の口から夫人の名前を聴いた時、この異人種に近い二人が、狭い室で鉢合せをしずにすんだ好都合を、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。
彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止めた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢をちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊いた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃えて並んでいる下に、恰好の好い手頃な石さえあしらったその盆栽が床の間の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」
先刻から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、暗に心配していた彼の掛念の半分は、この一語で吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。その代りいつもほど上っ調子でもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚さをやはり最高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田は他から機嫌を取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支えないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉つらなければならない地位にあった。漢語でいうと彼女の一顰一笑が津田にはことごとく問題になった。この際の彼にはことにそうであった。
「今朝秀子さんがいらしってね」
お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。津田は固より相手に応じなければならなかった。そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をするつもりであった。誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭だったからである。
「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰をしているので、たまにはお詫に上らないと悪いとでも思ったのでしょう」
「いえそうじゃないの」
津田は夫人の言葉を聴いた後で、すぐ次の嘘を出した。
「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」
「ところがあったんです」
「へええ」
津田はこう云ったなりその後を待った。
「何の用だかあてて御覧なさい」
津田は空っ惚けて、考える真似をした。
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」
「分りませんか」
「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹でいながら、だいぶん質が違いますから」
津田はここで余計な兄妹関係をわざと仄めかした。それは事の来る前に、自分を遠くから弁護しておくためであった。それから自分の言葉を、夫人がどう受けてくれるか、その反響をちょっと聴いてみるためであった。
「少し理窟ッぽいのね」
この一語を聞くや否や、津田は得たり賢こしと虚につけ込んだ。
「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して聴いていられたものじゃございません。だから私はあいつと喧嘩をすると、いつでも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、勝ったつもりか何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」
夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の見当を向いて出た。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの方は好よ」
津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに地金を出すほどの馬鹿でもないでしょうがね」
「いえ正直よ、秀子さんの方が」
誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。
百三十二
津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背いた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。病気見舞を兼た夫人の用向も、無論それについての懇談にきまっていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣があった。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到るところでまた道楽本位の本性を露わして平気であった。或時の彼女はむやみに急いて事を纏めようとあせった。そうかと思うと、ある時の彼女は、また正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。鼠を弄そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。この手にかかった時の相手には、何よりも辛防が大切であった。その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。また来る事をもって彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契のために、津田の蒙った重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐な津田の見逃すところでなかった。何事にも夫人の御意を主眼に置いて行動する彼といえども、暗にこの強味だけは恃みにしていた。しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。
「昨日秀子さんが来たでしょう。ここへ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」
津田にはどうだか分らなかった。先刻来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
夫人は嘲けるような笑い方をした。
「私がですか」
「いいえ、両方がよ」
苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは昨日ここで落ち合ったでしょう」
「ええ」
「それから何かあったのね、変な事が」
「別に……」
「空ッ惚けちゃいけません。あったらあったと、判然おっしゃいな、男らしく」
夫人はようやく持前の言葉遣いと特色とを、発揮し出した。津田は挨拶に困った。黙って少し様子を見るよりほかに仕方がないと思った。
「秀子さんをさんざん苛めたって云うじゃありませんか。二人して」
「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」
「そう。しかし喧嘩はしたでしょう。喧嘩といったって殴り合じゃないけれども」
「それだってお秀のいうような大袈裟なものじゃないんです」
「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」
「そりゃちょっとした行違ならございました」
「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛めたでしょう」
「苛めやしません。あいつが耶蘇教のような気※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)を吐いただけです」
「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに違ないでしょう」
「そりゃそうかも知れません」
「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」
夫人の断定には意味も理窟もなかった。したがってどこが悪いんだか津田にはいっこう通じなかった。けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、けっして逆らえないものとして、もう津田の頭に叩き込まれていた。素直に叱られているよりほかに彼の途はなかった。
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の勢で、いつかそうなってしまったんでしょう」
「でしょうじゃいけません。ですと判然おっしゃい。いったいこういうと失礼なようですが、あなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」
津田は首を傾けた。
百三十三
怜俐な性分に似合わず夫人対お延の関係は津田によく呑み込めていなかった。夫人に津田の手前があるように、お延にも津田におく気兼があったので、それが真向に双方を了解できる聡明な彼の頭を曇らせる原因になった。女の挨拶に相当の割引をして見る彼も、そこにはつい気がつかなかったため、彼は自分の前でする夫人のお延評を真に受けると同時に、自分の耳に聴こえるお延の夫人評もまた疑がわなかった。そうしてその評は双方共に美くしいものであった。
二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ力めて来た微妙な軋轢が、必然の要求に逼られて、しだいしだいに晴れ渡る靄のように、津田の前に展開されなければならなくなったのはこの時であった。
津田は夫人に向って云った。
「別段大事にするほどの女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」
「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」
世間という仰山な言葉が津田を驚ろかせた。夫人は仕方なしに説明した。
「世間って、みんなの事よ」
津田にはそのみんなさえ明暸に意識する事ができなかった。しかし世間だのみんなだのという誇張した言葉を強める夫人の意味は、けっして推察に困難なものではなかった。彼女はどうしてもその点を津田の頭に叩き込もうとするつもりらしかった。津田はわざと笑って見せた。
「みんなって、お秀の事なんでしょう」
「秀子さんは無論そのうちの一人よ」
「そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう」
「かも知れないわ」
津田は再び大きな声を出して笑った。しかし笑った後ですぐ気がついた。悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。文句を云わずに伏罪する事の便宜を悟った彼は、たちまち容ちを改ためた。
「とにかくこれからよく気をつけます」
しかし夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。あなたの叔父さんや叔母さんも、同なじ考えなんだからそのつもりでいらっしゃい」
「はあそうですか」
藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人がまた付け加えた。津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た拍子に、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩れた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」
権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。しかし腹の中では同時に妙な思わく違に想いいたった。彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」
この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」
夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の咽喉まで出かかった。
実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通り、お延を大事にするのではなかった。誤解交りのこの評判が、どこからどうして起ったかを、他に説明しようとすれば、ずいぶん複雑な手数がかかるにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰な観念があって、それを一々掌に指す事のできるほどに、事実の縞柄は解っていた。
第一の責任者はお延その人であった。自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して憚からないものは彼女に違なかった。第二の責任者はお秀であった。すでに一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬が手伝って染めた。その嫉妬がどこから出て来るのか津田は知らなかった。結婚後始めて小姑という意味を悟った彼は、せっかく悟った意味を、解釈のできないために持て余した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。ここには誇張も嫉妬もない代りに、浮華に対する嫌悪があまり強く働らき過ぎた。だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。
百三十四
津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。そうしてその理由はすでに小林の看破した通りであった。だから彼はこの誤解から生じやすい岡本の好意を、できるだけ自分の便宜になるように保留しようと試みた。お延を鄭寧に取扱うのは、つまり岡本家の機嫌を取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。利害の論理に抜目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向の媒妁人として、自分達二人の結婚に関係してくれた事実を、単なる名誉として喜こぶほどの馬鹿ではなかった。彼はそこに名誉以外の重大な意味を認めたのである。
しかしこれはむしろ一般的の内情に過ぎなかった。もう一皮剥いて奥へ入ると、底にはまだ底があった。津田と吉川夫人とは、事件がここへ来るまでに、他人の関知しない因果でもう結びつけられていた。彼らにだけ特有な内外の曲折を経過して来た彼らは、他人より少し複雑な眼をもって、半年前に成立したこの新らしい関係を眺めなければならなかった。
有体にいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。そうしてその女を愛させるように仕向けたものは吉川夫人であった。世話好な夫人は、この若い二人を喰っつけるような、また引き離すような閑手段を縦ままに弄して、そのたびにまごまごしたり、または逆せ上ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がわなかった。夫人も最後に来るべき二人の運命を断言して憚からなかった。のみならず時機の熟したところを見計って、二人を永久に握手させようと企てた。ところがいざという間際になって、夫人の自信はみごとに鼻柱を挫かれた。津田の高慢も助かるはずはなかった。夫人の自信と共に一棒に撲殺された。肝心の鳥はふいと逃げたぎり、ついに夫人の手に戻って来なかった。
夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。しかし津田は感じなかった。彼は今日までその意味が解らずに、まだ五里霧中に彷徨していた。そこへお延の結婚問題が起った。夫人は再び第二の恋愛事件に関係すべく立ち上った。そうして夫と共に、表向の媒妁人として、綺麗な段落をそこへつけた。
その時の夫人の様子を細かに観察した津田はなるほどと思った。
「おれに対する賠償の心持だな」
彼はこう考えた。彼は未来の方針を大体の上においてこの心持から割り出そうとした。お延と仲善く暮す事は、夫人に対する義務の一端だと思い込んだ。喧嘩さえしなければ、自分の未来に間違はあるまいという鑑定さえ下した。
こういう心得に万遺※(「竹かんむり/弄」、第3水準1-89-64)のあるはずはないと初手からきめてかかって吉川夫人に対している津田が、たとい遠廻しにでもお延を非難する相手の匂いを嗅ぎ出した以上、おやと思うのは当然であった。彼は夫人に気に入るように自分の立場を改める前に、まず確かめる必要があった。
「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかに、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告していただきたいと思います」
「実はそれで上ったのよ、今日は」
この言葉を聴いた時、津田の胸は夫人の口から何が出て来るかの好奇心に充ちた。夫人は語を継いだ。
「これは私でないと面と向って誰もあなたに云えない事だと思うから云いますがね。――お秀さんに智慧をつけられて来たと思っては困りますよ。また後でお秀さんに迷惑をかけるようだと、私がすまない事になるんだから、よござんすか。そりゃお秀さんもその事でわざわざ来たには違ないのよ。しかし主意は少し違うんです。お秀さんは重に京都の方を心配しているの。無論京都はあなたから云えばお父さんだから、けっして疎略にはできますまい。ことに良人でもああしてお父さんにあなたの世話を頼まれていて見ると、黙って放ってもおく訳にも行かないでしょう。けれどもね、つまりそっちは枝で、根は別にあるんだから、私は根から先へ療治した方が遥かに有効だと思うんです。でないと今度のような行違がまたきっと出て来ますよ。ただ出て来るだけならよござんすけれども、そのたんびにお秀さんがやって来るようだと、私も口を利くのに骨が折れるだけですからね」
夫人のいう禍の根というのはたしかにお延の事に違なかった。ではその根をどうして療治しようというのか。肉体上の病気でもない以上、離別か別居を除いて療治という言葉はたやすく使えるものでもないのにと津田は考えた。
百三十五
津田はやむをえず訊いた。
「要するにどうしたらいいんです」
夫人はこの子供らしい質問の前に母らしい得意の色を見せた。けれどもすぐ要点へは来なかった。彼女はそこだと云わぬばかりにただ微笑した。
「いったいあなたは延子さんをどう思っていらっしゃるの」
同じ問が同じ言葉で昨日かけられた時、お秀に何と答えたかを津田は思い出した。彼は夫人に対する特別な返事を用意しておかなかった。その代り何とでも答えられる自由な地位にあった。腹蔵のないところをいうと、どうなりとあなたの好きなお返事を致しますというのが彼の胸中であった。けれども夫人の頭にあるその好きな返事は、全く彼の想像のほかにあった。彼はへどもどするうちににやにやした。勢い夫人は一歩前へ進んで来る事になった。
「あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう」
ここでも津田の備えは手薄であった。彼は冗談半分に夫人をあしらう事なら幾通でもできた。しかし真面目に改まった、責任のある答を、夫人の気に入るような形で与えようとすると、その答はけっしてそうすらすら出て来なかった。彼にとって最も都合の好い事で、また最も都合の悪い事は、どっちにでも自由に答えられる彼の心の状態であった。というのは、事実彼はお延を愛してもいたし、またそんなに愛してもいなかったからである。
夫人はいよいよ真剣らしく構えた。そうして三度目の質問をのっぴきさせぬ調子で掛けた。
「私とあなただけの間の秘密にしておくから正直に云っとしまいなさい。私の聴きたいのは何でもないんです。ただあなたの思った通りのところを一口伺えばそれでいいんです」
見当の立たない津田はいよいよ迷ついた。夫人は云った。
「あなたもずいぶんじれったい方ね。云える事は男らしく、さっさと云っちまったらいいでしょう。そんなむずかしい事を誰も訊いていやしないんだから」
津田はとうとう口を開くべく余儀なくされた。
「お返事ができない訳でもありませんけれども、あんまり問題が漠然としているものですから……」
「じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。よござんすか」
「どうぞそう願います」
「あなたは」と云いかけた夫人はこの時ちょっと言葉を切ってまた継いだ。
「本当によござんすか。――あたしはこういう無遠慮な性分だから、よく自分の思ったままをずばずば云っちまった後で、取り返しのつかない事をしたと後悔する場合がよくあるんですが」
「なに構いません」
「でももしか、あなたに怒られるとそれっきりですからね。後でいくら詫まっても追つかないなんて馬鹿はしたくありませんもの」
「しかし私の方で何とも思わなければそれでいいでしょう」
「そこさえ確かなら無論いいのよ」
「大丈夫です。偽だろうが本当だろうが、奥さんのおっしゃる事ならけっして腹は立てませんから、遠慮なさらずに云って下さい」
すべての責任を向うに背負わせてしまう方が遥かに楽だと考えた津田は、こう受け合った後で、催促するように夫人を見た。何度となく駄目を押して保険をつけた夫人はその時ようやく口を開いた。
「もし間違ったら御免遊ばせよ。あなたはみんなが考えている通り、腹の中ではそれほど延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。秀子さんと違って、あたしは疾うからそう睨んでいるんですが、どうです、あたしの観測はあたりませんかね」
津田は何ともなかった。
「無論です。だから先刻申し上げたじゃありませんか。そんなにお延を大事にしちゃいませんて」
「しかしそれは御挨拶におっしゃっただけね」
「いいえ私は本当のところを云ったつもりです」
夫人は断々乎として首肯わなかった。
「ごまかしっこなしよ。じゃ後を云ってもよござんすか」
「ええどうぞ」
「あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに、表ではいかにも大事にしているように、他から思われよう思われようとかかっているじゃありませんか」
「お延がそんな事でも云ったんですか」
「いいえ」と夫人はきっぱり否定した。「あなたが云ってるだけよ。あなたの様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ」
夫人はそこでちょっと休んだ。それから後を付けた。
「どうですあたったでしょう。あたしはあなたがなぜそんな体裁を作っているんだか、その原因までちゃんと知ってるんですよ」
百三十六
津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴いた事がなかった。自分達夫婦の仲を、夫人が裏側からどんな眼で観察しているだろうという問題について、さほど神経を遣っていなかった彼は、ようやくそこに気がついた。そんならそうと早く注意してくれればいいのにと思いながら、彼はとにかく夫人の鑑定なり料簡なりをおとなしく結末まで聴くのが上分別だと考えた。
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後の心得にもなる事ですから」
途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もうそこで止まる訳に行かないので、すぐ残りのものを津田の前に投げ出した。
「あなたは良人や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。もっと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。あなたは表向延子さんを大事にするような風をなさるのね、内側はそれほどでなくっても。そうでしょう」
津田は相手の観察が真逆これほど皮肉な点まで切り込んで来ていようとは思わなかった
「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」
「見えますよ」
津田は一刀で斬られたと同じ事であった。彼は斬られた後でその理由を訊いた。
「どうして? どうしてそう見えるんですか」
「隠さないでもいいじゃありませんか」
「別に隠すつもりでもないんですが……」
夫人は自分の推定が十の十まであたったと信じてかかった。心の中でその六だけを首肯った津田の挨拶は、自然どこかに曖昧な節を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。
「隠しちゃ駄目よ。あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから」
津田は是非その後を聴きたかった。その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは私を良人といっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。それが大間違よ。岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも、私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」
津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」
特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。しかしそれは目下の問題ではなかった。なぜと云えば、その特別な関係をよく呑み込んでいればこそ、今日までの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来たつもりだと彼は信じていたのだから。この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突きとめたところに、新らしい問題は始めて起るのだと気がついた彼は、ただ自分の誤解を認めるだけではすまされなかった。
夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」
津田は答えた。
「それは今までついぞ疑って見た例もありません。私は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。しかしどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですか、この場合。私は迂濶ものだから奥さんの意味がよく呑み込めません。だからもっと判然り話して下さい」
「この場合に同情者として私があなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。しかしあなたは多分――」
夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまた焦らされるのかと思った。しかしそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴きますか、聴きませんか」
津田にはまだ常識が残っていた。彼はここへ押しつめられた何人も考えなければならない事を考えた。しかし考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇した。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと判切しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」
百三十七
どんな注文が夫人の口から出るか見当のつかない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥いればそれぎりであった。彼はその場合の夫人を想像してみた。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦す人ではなかった。永久夫人の前に赦されない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸と一般であった。用心深い彼は生還の望の確としない危地に入り込む勇気をもたなかった。
その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴れた彼女の眼には、ほとんど自分の無理というものが映らなかった。云えばたいていの事は通った。たまに通らなければ、意地で通すだけであった。ことに困るのは、自分の動機を明暸に解剖して見る必要に逼られない彼女の余裕であった。余裕というよりもむしろ放慢な心の持方であった。他の世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、そのほかに何の私もないものと、てんからきめてかかる彼女に、不安の来るはずはなかった。自分の批判はほとんど当初から働らかないし、他の批判は耳へ入らず、また耳へ入れようとするものもないとなると、ここへ落ちて来るのは自然の結果でもあった。
夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒り廻ったので、埒はますます開かなかった。彼の様子を見た夫人は、ついに笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた私がまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えば、訳なくできる事なんです。そうして結果はあなたの得になるだけなんです」
「そんなに雑作なくできるんですか」
「ええまあ笑談みたいなものです。ごくごく大袈裟に云ったところで、面白半分の悪戯よ。だから思い切ってやるとおっしゃい」
津田にはすべてが謎であった。けれどもたかが悪戯ならという気がようやく彼の腹に起った。彼はついに決心した。
「何だか知らないがまあやってみましょう。話してみて下さい」
しかし夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。津田の保証を掴んだ後で、また話題を変えた。ところがそれは、あらゆる意味で悪戯とは全くかけ離れたものであった。少くとも津田には重大な関係をもっていた。
夫人は下のような言葉で、まずそれを二人の間に紹介した。
「あなたはその後清子さんにお会いになって」
「いいえ」
津田の少し吃驚したのは、ただ問題の唐突なばかりではなかった。不意に自分をふり棄てた女の名が、逃がした責任を半分背負っている夫人の口から急に洩れたからである。夫人は語を継いだ。
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」
「まるで知りません」
「まるで知らなくっていいの」
「よくないったって仕方がないじゃありませんか。もうよそへ嫁に行ってしまったんだから」
「清子さんの結婚の御披露の時にあなたはおいでになったんでしたかね」
「行きません。行こうたってちょっと行き悪いですからね」
「招待状は来たの」
「招待状は来ました」
「あなたの結婚の御披露の時に、清子さんはいらっしゃらなかったようね」
「ええ来やしません」
「招待状は出したの」
「招待状だけは出しました」
「じゃそれっきりなのね、両方共」
「無論それっきりです。もしそれっきりでなかったら問題ですもの」
「そうね。しかし問題にも寄り切りでしょう」
津田には夫人の云う意味がよく解らなかった。夫人はそれを説明する前にまたほかの道へ移った。
「いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの」
津田は塞えた。小林を研究し尽した上でなければ確とした返事は与えられなかった。夫人は再び訊き直した。
「あなたが自分で話した事はなくって」
「ありゃしません」
「じゃ延子さんはまるで知らずにいるのね、あの事を」
「ええ、少くとも私からは何にも聴かされちゃいません」
「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは癇づいているところがあるの」
「そうですね」
津田は考えざるを得なかった。考えても断案は控えざるを得なかった。
百三十八
話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。夫人はどう考えてもお延にそれを気どっていて貰いたいらしかったからである。
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけになお答え悪くなった。
「そこが分らないといけないんですか」
「ええ」
津田はなぜだか知らなかった。けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」
夫人は笑い出した。
「今さらあなたがそんな事をしちゃぶち壊しよ。あなたはしまいまで知らん顔をしていなくっちゃ」
夫人はこれだけ云って、言葉に区切を付けた後で、新たに出直した。
「私の判断を云いましょうか。延子さんはああいう怜俐な方だから、もうきっと感づいているに違ないと思うのよ。何、みんな判るはずもないし、またみんな判っちゃこっちが困るんです。判ったようでまた判らないようなのが、ちょうど持って来いという一番結構な頃合なんですからね。そこで私の鑑定から云うと、今の延子さんは、都合よく私のお誂え通りのところにいらっしゃるに違ないのよ」
津田は「そうですか」というよりほかに仕方がなかった。しかしそういう結論を夫人に与える材料はほとんどなかろうにと、腹の中では思った。しかるに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」
お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。この二字の前に怪訝な思いをしなければならなかった津田は、一方から見て、またその皮肉を第一に首肯わなければならない人であった。それにもかかわらず彼は躊躇なしに応諾を与える事ができなかった。夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」
津田は黙ってその後を待った。すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の嘘というものです」
嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、あなた」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」
夫人の論議は普通のそれとまるで反対であった。と云って、支離滅裂はどこにも含まれていなかった。彼女は得意にそれを引き延ばした。
「ほかの人には外側も内側も同なじとしか見えないでしょう。しかし私には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込んでいるとしか考えられませんもの」
「奥さんは初手から私に未練があるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」
「きめてかかるのにどこに無理がありますか」
「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を騙す事ができたって。それもあなただけの事実ならまだしも、二人に共通な事実なんだから、両方で相談の上、どこかへ埋めちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」
「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活かして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒な事をしろと私がいつ云いました」
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」
津田の眼は好奇心をもって輝やいた。
百三十九
夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を抑えたと同じ事であった。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合に一段落をつけたように夫人を強くした。けれども彼女は津田が最初に考えたほどこの点において独断的な暴君ではなかった。彼女は思ったより細緻な注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。彼女はその実券を、いったん勝った後で彼に示した。
「ただ未練未練って、雲を掴むような騒ぎをやるんじゃありませんよ。私には私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。これでもあなたの未練をこんなものだといって他に説明する事ができるつもりでいるんですよ」
津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。
「ちょっと説明して見て下さいませんか」
「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」
「ええ構いません」
夫人は笑い出した。
「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して貰うなんてえのは馬鹿気ているじゃありませんか」
はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。
「しかし解りませんよ」
「いいえ解ってるのよ」
「じゃ気がつかないんでしょう」
「いいえ気もついているのよ」
「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」
「まあそうよ」
津田は投げ出した。ここまで追いつめられながら、まだ隠し立をしようとはさすがの自分にも道理と思えなかった。
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」
夫人は微かに溜息を吐いた。
「ああああ張合がないのね、それじゃ。せっかく私が丹精して拵えて来て上げたのに、肝心のあなたがそれじゃ、まるで無駄骨を折ったと同然ね。いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら」
津田は迷宮に引き込まれるだけであった。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追かけなければならなかった。そこには自分の好奇心が強く働いた。夫人に対する義理と気兼も、けっして軽い因子ではなかった。彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促がした。
「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であった。「その代り訊きますよ」と断った彼女は、はたして劈頭に津田の毒気を抜いた。
「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです」
問は不意に来た。津田はにわかに息塞った。黙っている彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
「じゃ質問を易えましょう。――清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかったんです」
今度は津田が響の声に応ずるごとくに答えた。
「なぜだかちっとも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」
「突然関さんへ行っちまったのね」
「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは疾の昔に通り越していましたね。あっと云って後を向いたら、もう結婚していたんです」
「誰があっと云ったの」
この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。然るに夫人はそこへとまって動かなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。あるいは両方であっと云ったんですか」
「さあ」
津田はやむなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」
「さあ」
「さあじゃ仕方がないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」
「どうも平気のようでした」
夫人は軽蔑の眼を彼の上に向けた。
「ずいぶん気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だったから、あなたがあっと云わせられたんじゃありませんか」
「あるいはそうかも知れません」
「そんならその時のあっの始末はどうつける気なの」
「別につけようがないんです」
「つけようがないけれども、実はつけたいんでしょう」
「ええ。だからいろいろ考えたんです」
「考えて解ったの」
「解らないんです。考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです」
「それだから考えるのはもうやめちまったの」
「いいえやっぱりやめられないんです」
「じゃ今でもまだ考えてるのね」
「そうです」
「それ御覧なさい。それがあなたの未練じゃありませんか」
夫人はとうとう津田を自分の思うところへ押し込めた。
百四十
準備はほぼ出来上った。要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。夫人は機を見てしだいにそこへ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という漠然たる言葉が、最初に夫人の口を出た。その時津田はまたかと思った。先刻から「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいう文句を聴かされるたびに、彼は心の中で暗に夫人を冷笑した。夫人の男らしいという意味ははたしてどこにあるのだろうと疑ぐった。批判的な眼を拭って見るまでもなく、彼女は自分の都合ばかりを考えて、津田をやり込めるために、勝手なところへやたらにこの言葉を使うとしか解釈できなかった。彼は苦笑しながら訊いた。
「男らしくするとは?――どうすれば男らしくなれるんですか」
「あなたの未練を晴らすだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」
「どうして」
「全体どうしたら晴らされると思ってるんです、あなたは」
「そりゃ私には解りません」
夫人は急に勢い込んだ。
「あなたは馬鹿ね。そのくらいの事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」
津田は返事ができなかった。会うのがそれほど必要にしたところで、どんな方法でどこでどうして会うのか。その方が先決問題でなければならなかった。
「だから私が今日わざわざここへ来たんじゃありませんか」と夫人が云った時、津田は思わず彼女の顔を見た。
「実は疾うから、あなたの料簡をよく伺って見たいと思ってたところへね、今朝お秀さんがあの事で来たもんだから、それでちょうど好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね」
腹に支度の整わない津田の頭はただまごまごするだけであった。夫人はそれを見澄してこういった。
「誤解しちゃいけませんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、きっとあの方の肩ばかり持つとは限らないぐらいは、あなたにだって解るでしょう。先刻も云った通り、私はこれでもあなたの同情者ですよ」
「ええそりゃよく心得ています」
ここで問答に一区切を付けた夫人は、時を移さず要点に達する第二の段落に這入り込んで行った。
「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。私のいうのは今の事よ。今どこにいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」
「存じません」
「あてて御覧なさい」
津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど旧いものではなかった。急にその辺の景色を思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。
夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに逗留しているのであった。夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。流産後の身体を回復するのが主眼だと云って聴かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。津田は腹の中でほぼその微笑を解釈し得たような気がした。けれどもそんな事は、夫人にとっても彼にとっても、目前の問題ではなかった。一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になるつもりでおとなしくしていた。同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「あなたもいらっしゃいな」
津田の心はこの言葉を聴く前からすでに揺いていた。しかし行こうという決心は、この言葉を聴いた後でもつかなかった。夫人は一煽りに煽った。
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼だのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片をつけて来るんです」
夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促がした。
百四十一
旅費を貰って、勤向の都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多にない誂え向きの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれを取り外すのは愚の極であった。しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。彼は顧慮した。
彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然であった。けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、その意味を返照する遑がなかった。この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私に云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」
男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖があなたの人格に祟って来るんです」
津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」
この答えを聴いた時、夫人の態度が急に嶮しくなった。
「そんな生意気な口応えをするもんじゃありません。言葉だけで他をやり込めればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方のくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟清子さんに逃げられちまったんです」
津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って聴かせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識に拘わるというんでしょう。私から云えば、そう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ、好ござんすか。なぜと云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄じゃありませんか。よく云ったところで、上っ面の体裁じゃありませんか。世間に対する手前と気兼を引いたら後に何が残るんです。花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分できまりを悪くして、三度の御飯を控えるのと同なじ事よ」
津田は呆気に取られた。夫人の小言はまだ続いた。
「つまり色気が多過ぎるから、そんな入らざるところに我を立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己惚に生れ変って変なところへ出て来るんです」
津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「あなたはいつまでも品よく黙っていようというんです。じっと動かずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終苦になるんです。そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」
「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ私だって」
「いえ、思っているのと同なじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」
津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。
「いったいあなたはずうずうしい性質じゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳だぐらいに考えているんです」
「まさか」
「いえ、そうです。そこがまだ私に解らないと思ったら、大間違です。好いじゃありませんか、ずうずうしいで、私はずうずうしいのが好きなんだから。だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。そのために私がせっかく骨を折って拵えて来たんだから」
「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。
「あの人は一人で行ってるんですか」
「無論一人です」
「関は?」
「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」
津田はようやく行く事に覚悟をきめた。
百四十二
しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。夫人が踵を回らさないうちに、津田は帰った。
「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻おっしゃった事は」
「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えは」
津田は答えなかった。夫人は念を押した。
「解ったでしょう。後は云わなくっても」
夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田に呑み込めた。しかしそれをどんな風にして、お延の上に影響させるつもりなのか、そこへ行くと彼には確とした観念がなかった。夫人は笑い出した。
「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」
「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。後を挙げて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委ねると同じ事であった。多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。何をされるか解らないという掛念に制せられた。
「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」
「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。まあ見ていらっしゃい、私がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」
津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延を鍛え上げる事が、すなわち津田のために最も適当な細君を作り出す所以だと誤解しているらしかった。それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、その真底を探ると、とんでもない結論になるかも知れなかった。彼女はただお延を好かないために、ある手段を拵えて、相手を苛めにかかるのかも分らなかった。気に喰わないだけの根拠で、敵を打ち懲らす方法を講じているのかも分らなかった。幸に自分でそこを認めなければならないほどに、世間からも己れからも反省を強いられていない境遇にある彼女は、気楽であった。お延の教育。――こういう言葉が臆面なく彼女の口を洩れた。夫人とお延の間柄を、内面から看破る機会に出会った事のない津田にはまたその言葉を疑う資格がなかった。彼は大体の上で夫人の実意を信じてかかった。しかし実意の作用に至ると、勢い危惧の念が伴なわざるを得なかった。
「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上を御覧うじろって云うじゃありませんか」
いくら津田が訊いても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高を括った挨拶をした後で、教えるように津田に云った。
「あの方は少し己惚れ過ぎてるところがあるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部は大変鄭寧で、お腹の中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧だから外へは出さないけれども、あれでなかなか慢気が多いのよ。だからそんなものを皆んな取っちまわなくっちゃ……」
夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段の中途で足を止めた看護婦の声が二人の耳に入った。
「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」
夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。
「何の用でしょう」
津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。
「大変大変」
「何が? どうかしたんですか」
夫人は笑いながら落ちついて答えた。
「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」
「何をです」
「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、大恥を掻かなくっちゃならない」
いったん坐った夫人は、間もなくまた立った。
「じゃ私はもうお暇にしますからね」
こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。
「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」
一言の挨拶を彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。
百四十三
この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。
堀の宅から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこに丁字形を描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違の所でとまった。何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちら側の窓を見た。すると窓硝子を通して映る乗客の中に一人の女がいた。位地の関係から、お延はただその女の横顔の半分もしくは三分の一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。吉川夫人じゃないかという気がたちまち彼女の頭を刺戟したからである。
電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影をしばらく見送ったあとで、通りを東側へ横切った。
彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの小路を右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着くつもりであった。けれども電車に会った後の彼女の足は急に重くなった。距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、いったん宅へ帰ろうかと思い出した。
彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやり損なった不快を胸に包んでいた。そこには大事を明らさまに握る事ができずに、裏からわざわざ匂わせられた羽痒ゆさがあった。なまじいそれを嗅ぎつけた不安の色も、前よりは一層濃く染めつけられただけであった。何よりも先だつのは、こっちの弱点を見抜かれて、逆まに相手から翻弄されはしなかったかという疑惑であった。
お延はそれ以上にまだ敏い気を遠くの方まで廻していた。彼女は自分に対して仕組まれた謀計が、内密にどこかで進行しているらしいとまで癇づいた。首謀者は誰にしろ、お秀がその一人である事は確であった。吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。知らないうちに重囲のうちに自分を見出した孤軍のような心境が、遠くから彼女を襲って来た。彼女は周囲を見廻した。しかしそこには夫を除いて依りになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
その心理作用が今喰いとめられなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪った。もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。いかに怜俐なお延にも考える自由の与えられていないその後は容易に出て来なかった。けれども結果は一つであった。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。彼女は何がなしに、この三人を巴のように眺め始めた。
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」
今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」
彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦のくせに、そんなよそ行の支度なんぞして何になるという非難をどこにも聴かなかったので、いったん宅へ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思い極めた彼女は、ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路の中ほどから取って返した。そうして柳の木の植っている大通りから賑やかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。
百四十四
お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身に染みるような夕暮の靄に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢の傍が恋しかった。彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐って手を翳した。
しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句は固より簡単であった。彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持って帰った気分に火を点けたその書翰の前に彼女の心は躍った。
「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」
それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に関う余裕さえなかった。彼女は台所から膳を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。
「御飯は帰ってからにするよ」
彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路の角でとまった。彼女はなぜだか病院へ行くに堪えないような気がした。この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。
「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」
彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅であった。いっそ当初の計画をやめて、叔父の所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横わる困難をも想像した。岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。叔父と叔母の前に、自分の眼が利かなかった自白を綺麗にしなければならなかった。お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼っていないと考えた。復活の見込が充分立たないのに、酔興で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑するところであった。
彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時床の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻お秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗に心の調子を整えていたところが、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食の時間が来るまで、待ち草臥れたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。
「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」
看護婦は体の小さい血色の好くない女であった。しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群から遠ざけた。津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上を付けているだろうか、または除っているだろうか。彼はいつか真面目にこんな質問を彼女にかけて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。
膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後を付け足した。
「今日は奥さんはお見えになりませんね」
「うん、来ないよ」
津田の口の中にはもう焦げた麺麭がいっぱい入っていた。彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。
「その代り外のお客さまがいらっしゃいましたね」
「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥ってるね、あの奥さんは」
看護婦が悪口の相槌を打つ気色を見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。
「もっと若い綺麗な人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒るんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲かし返された。
「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間がいいと見えて」
彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「昨日いらしった奥さんは大変お綺麗ですね」
「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」
看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。
百四十五
それは看護婦にとって意外な儲け日であった。下痢の気味でいつもの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けてくれただけで、午後から夜へかけての時間には、もう顔を出さなかった。
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」
彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の膳の前に坐っていた。
退屈凌ぎに好い相手のできた気になった津田の舌には締りがなかった。彼は面白半分いろいろな事を訊いた。
「君の国はどこかね」
「栃木県です」
「なるほどそう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
看護婦はなかなか名前を云わなかった。津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊いた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」
「ええよござんす」
彼女の名前の頭文字はつであった。
「露か」
「いいえ」
「なるほど露じゃあるまいな。じゃ土か」
「いいえ」
「待ちたまえよ、露でもなし、土でもないとすると。――ははあ、解った。つやだろう。でなければ、常か」
津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田はまた彼女を追窮した。しまいに彼女の名がつきだと判然った時、彼はこの珍らしい名をまだ弄んだ。
「お月さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命けた」
看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」
「あてて御覧」
看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後で云った。
「お延さんでしょう」
彼女は旨くあてた。というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとういらしった」
看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。
「来ないと思っていらしったんでしょう」
「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」
津田の言葉に偽りはなかった。お延にはそれを認めるだけの眼があった。けれどもそうすれば事の矛盾はなお募るばかりであった。
「でも先刻手紙をお寄こしになったのね」
「ああやったよ」
「今日来ちゃいけないと書いてあるのね」
「うん、少し都合の悪い事があったから」
「なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの」
津田はようやく気がついた。彼はお延の様子を見ながら答えた。
「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」
「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから、何かあったんでしょう」
津田はごまかしてしまおうとした。
「下らない事だよ。何でまたそんな事を気にかけるんだ。お前も馬鹿だね」
慰藉のつもりで云った津田の言葉はかえって反対の結果をお延の上に生じた。彼女は黒い眉を動かした。無言のまま帯の間へ手を入れて、そこから先刻の書翰を取り出した。
「これをもう一遍見てちょうだい」
津田は黙ってそれを受け取った。
「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼は腹はようやく彼の口を否定した。手紙は簡単であった。けれどもお延の疑いを惹くには充分であった。すでに疑われるだけの弱味をもっている彼は、やり損なったと思った。
「何にも書いてないから、その理由を伺うんです」とお延は云った。
「話して下すってもいいじゃありませんか。せっかく来たんだから」
「お前はそれを聴きに来たのかい」
「ええ」
「わざわざ?」
「ええ」
お延はどこまで行っても動かなかった。相手の手剛さを悟った時、津田は偶然好い嘘を思いついた。
「実は小林が来たんだ」
小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。しかしそれだけではすまなかった。彼はお延を満足させるために、かえってそこを説明してやらなければならなくなった。
百四十六
「小林なんかに逢うのはお前も厭だろうと思ってね。それで気がついたからわざわざ知らしてやったんだよ」
こう云ってもお延はまだ得心した様子を見せなかったので、津田はやむをえず慰藉の言葉を延ばさなければならなかった。
「お前が厭でないにしたところで、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合わせるのは。それにあいつがまたお前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね」
「あたしの聴いて悪い用事? じゃお二人の間の秘密なの?」
「そんな訳のものじゃないよ」と云った津田は、自分の上に寸分の油断なく据えられたお延の細い眼を見た時に、周章てて後を付け足した。
「また金を強乞りに来たんだ。ただそれだけさ」
「じゃあたしが聴いてなぜ悪いの」
「悪いとは云やしない。聴かせたくないというまでさ」
「するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのね、これは」
「まあそうだ」
今まで夫に見入っていたお延の細い眼がなお細くなると共に、微かな笑が唇を洩れた。
「まあありがたい事」
津田は澄ましていられなくなった。彼は用意を欠いた文句を択り除ける余裕を失った。
「お前だって、あんな奴に会うのは厭なんじゃないか」
「いいえ、ちっとも」
「そりゃ嘘だ」
「どうして嘘なの」
「だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか」
「ええ」
「だからさ。それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ」
「じゃあなたはあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの」
「そりゃ知らないよ。だけどどうせあいつのことだから碌な事は云やしなかろう。いったいどんな事を云ったんだ」
お延は口へ出かかった言葉を殺してしまった。そうして反問した。
「ここで小林さんは何とおっしゃって」
「何とも云やしないよ」
「それこそ嘘です。あなたは隠していらっしゃるんです」
「お前の方が隠しているんじゃないかね。小林から好い加減な事を云われて、それを真に受けていながら」
「そりゃ隠しているかも知れません。あなたが隠し立てをなさる以上、あたしだって仕方がないわ」
津田は黙った。お延も黙った。二人とも相手の口を開くのを待った。しかしお延の辛防は津田よりも早く切れた。彼女は急に鋭どい声を出した。
「嘘よ、あなたのおっしゃる事はみんな嘘よ。小林なんて人はここへ来た事も何にもないのに、あなたはあたしをごまかそうと思って、わざわざそんな拵え事をおっしゃるのよ」
「拵えたって、別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか」
「いいえほかの人が来たのを隠すために、小林なんて人を、わざわざ引張り出すにきまってるわ」
「ほかの人? ほかの人とは」
お延の眼は床の上に載せてある楓の盆栽に落ちた。
「あれはどなたが持っていらしったんです」
津田は失敗ったと思った。なぜ早く吉川夫人の来た事を自白してしまわなかったかと後悔した。彼が最初それを口にしなかったのは分別の結果であった。話すのに訳はなかったけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に対する彼を自然臆病にしたので、気の咎める彼は、まあ遠慮しておく方が得策だろうと思案したのである。
盆栽をふり返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、ちょっと口籠った時、お延は機先を制した。
「吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか」
津田は思わず云った。
「どうして知ってるんだ」
「知ってますわ。そのくらいの事」
お延の様子に注意していた津田はようやく度胸を取り返した。
「ああ来たよ。つまりお前の予言があたった訳になるんだ」
「あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ」
津田はまた驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待っていたのかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。
「お前どこかで会ったのかい」
「いいえ」
「じゃどうして知ってるんだ」
お延は答える代りに訊き返した。
「奥さんは何しにいらしったんです」
津田は何気なく答えた。
「そりゃ今話そうと思ってたところだ。――しかし誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だからちょうど入れ違になった訳だ」
百四十七
お延は夫より自分の方が急き込んでいる事に気がついた。この調子で乗しかかって行ったところで、夫はもう圧し潰されないという見切をつけた時、彼女は自分の破綻を出す前に身を翻がえした。
「そう、そんならそれでもいいわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。その代り吉川の奥さんの用事を話して聴かしてちょうだい。無論ただのお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども」
「といったところで、大した用事で来た訳でもないんだよ。そんなに期待していると、また聴いてから失望するかも知れないから、ちょっと断っとくがね」
「構いません、失望しても。ただありのままを伺いさえすれば、それで念晴しになるんだから」
「本来が見舞で、用事はつけたりなんだよ、いいかね」
「いいわ、どっちでも」
津田は夫人の齎した温泉行の助言だけをごく淡泊り話した。お延にお延流の機略がある通り、彼には彼相当の懸引があるので、都合の悪いところを巧みに省略した、誰の耳にも真卒で合理的な説明がたやすく彼の口からお延の前に描き出された。彼女は表向それに対して一言の非難を挟さむ余地がなかった。
ただ落ちつかないのは互の腹であった。お延はこの単純な説明を透して、その奥を覗き込もうとした。津田は飽くまでもそれを見せまいと覚悟した。極めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。しかし守る夫に弱点がある以上、攻める細君にそれだけの強味が加わるのは自然の理であった。だから二人の天賦を度外において、ただ二人の位地関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。正味の曲直を標準にしても、競り合わない前に、彼女はすでに勝っていた。津田にはそういう自覚があった。お延にもこれとほぼ同じ意味で大体の見当がついていた。
戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事ができるかできないかで、一段落つかなければならない道理であった。津田さえ正直ならばこれほどたやすい勝負はない訳でもあった。しかしもし一点不正直なところが津田に残っているとすると、これほどまた落し悪い城はけっしてないという事にも帰着した。気の毒なお延は、否応なしに津田を追い出すだけの武器をまだ造り上げていなかった。向うに開門を逼るよりほかに何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見てほとんど無能力者と択ぶところがなかった。
なぜ心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。なぜ凱歌を形の上にまで運び出さなければ気がすまないのだろうか。今の彼女にはそんな余裕がなかったのである。この勝負以上に大事なものがまだあったのである。第二第三の目的をまだ後に控えていた彼女は、ここを突き破らなければ、その後をどうする訳にも行かなかったのである。
それのみか、実をいうと、勝負は彼女にとって、一義の位をもっていなかった。本当に彼女の目指すところは、むしろ真実相であった。夫に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であった。そうしてその疑いを晴らすのは、津田の愛を対象に置く彼女の生存上、絶対に必要であった。それ自身がすでに大きな目的であった。ほとんど方便とも手段とも云われないほど重い意味を彼女の眼先へ突きつけていた。
彼女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げてそこへ拘泥らなければならなかった。それが彼女の自然であった。しかし不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥か上にも続いていた。公平な光りを放って、可憐な彼女を殺そうとしてさえ憚からなかった。
彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から退ぞいた。二口拘泥れば、二足退いた。拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増して行った。大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙した。一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔いなかった。彼女は暗にそこへ気がついた。けれどもその意味を悟る事はできなかった。彼女はただそんなはずはないとばかり思いつめた。そうしてついにまた心の平静を失った。
「あたしがこれほどあなたの事ばかり考えているのに、あなたはちっとも察して下さらない」
津田はやりきれないという顔をした。
「だからおれは何にもお前を疑ってやしないよ」
「当り前ですわ。この上あなたに疑ぐられるくらいなら、死んだ方がよっぽどましですもの」
「死ぬなんて大袈裟な言葉は使わないでもいいやね。第一何にもないじゃないか、どこにも。もしあるなら云って御覧な。そうすればおれの方でも弁解もしようし、説明もしようけれども、初手から根のない苦情じゃ手のつけようがないじゃないか」
「根はあなたのお腹の中にあるはずですわ」
「困るなそれだけじゃ。――お前小林から何かしゃくられたね。きっとそうに違ない。小林が何を云ったかそこで話して御覧よ。遠慮は要らないから」
百四十八
津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明暸に推察する事ができた。――夫は彼の留守に小林の来た事を苦にしている。その小林が自分に何を話したかをなお気に病んでいる。そうしてその話の内容は、まだ判然掴んでいない。だから鎌をかけて自分を釣り出そうとする。
そこに明らかな秘密があった。材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、疑もなく矛盾もなく、ことごとく同じ方角に向って注ぎ込んでいた。秘密は確実であった。青天白日のように明らかであった。同時に青天白日と同じ事で、どこにもその影を宿さなかった。彼女はそれを見つめるだけであった。手を出す術を知らなかった。
悩乱のうちにまだ一分の商量を余した利巧な彼女は、夫のかけた鎌を外さずに、すぐ向うへかけ返した。
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴いてしまったんです。だから隠したってもう駄目よ。あなたもずいぶんひどい方ね」
彼女の云い草はほとんどでたらめに近かった。けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰と何の異なるところはなかった。彼女は熱を籠めた語気で、津田を「ひどい方」と呼ばなければならなかった。
反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に退避ろぐ気色を見せた。お秀の所で遣り損なった苦い経験にも懲りず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬いられそうになった。彼女は一躍して進んだ。
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は曖昧であった。津田はその意味を捕捉するに苦しんだ。肝心のお延にはなお解らなかった。だから訊かれても説明しなかった。津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」
お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合がついて、病後の身体を回復する事ができれば、それほど結構な事はないじゃありませんか。それが悪いなんてむちゃくちゃを云い募るあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」
「じゃ行ってもいいかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂から手帛を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。あとの言葉は、啜り上げる声の間から、句をなさずに、途切れ途切れに、毀れ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」
津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。発作が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持して行きたいと思うんです。もしそれを毀損されると……」
お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目なくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍で見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」
津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」
津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。お延の眼ははたして閃めいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉から外へ滑り出さなかった。彼は云おうか止そうかと思って迷った。けれども時に一寸の容赦もなかった。反吐もどしていればいるほど形勢は危うくなるだけであった。彼はほとんど行きつまった。しかし間髪を容れずという際どい間際に、旨い口実が天から降って来た。
「車夫が帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」
幸いお延がお秀の後を追かけて出た事は、下女にも解っていた。偶発の言訳が偶中の功を奏した時、津田は再度の胸を撫で下した。
百四十九
遮二無二津田を突き破ろうとしたお延は立ちどまった。夫がそれほど自分をごまかしていたのでないと考える拍子に気が抜けたので、一息に進むつもりの彼女は進めなくなった。津田はそこを覘った。
「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」
お延は答えた。
「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」
「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」
「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、苦になるはずはないんです。それを肝心のあなたが……」
お延は行きつまった。彼女には明暸な事実がなかった。したがって明暸な言葉が口へ出て来なかった。そこを津田がまた一掬い掬った。
「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑りかかって安心していたらいいじゃないか」
お延は急に大きな声を揚げた。
「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」
「想像がつかない?」
「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」
「澄ましてやしないよ」
「気の毒だとも可哀相だとも思って下さらないんです」
「気の毒だとも、可哀相だとも……」
これだけ繰り返した津田はいったん塞えた。その後で継ぎ足した文句はむしろ蹣跚として揺めいていた。
「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁があれば、いくらでも思うさ。しかしなけりゃ仕方がないじゃないか」
お延の声は緊張のために顫えた。
「あなた。あなた」
津田は黙っていた。
「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは憑りかかり所のない女なんですから。あなたに外されると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口でいいから安心しろと云って下さい」
津田は答えた。
「大丈夫だよ。安心おしよ」
「本当?」
「本当に安心おしよ」
お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。
「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」
津田は面喰った。彼の心は波のように前後へ揺き始めた。彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚け出してしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もしお延が事実を知っているなら、ここまで押して来て、それを彼の顔に叩きつけないはずはあるまいとも考えた。
彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。道義心と利害心が高低を描いて彼の心を上下へ動かした。するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。必然から起る彼の要求でもあった。少くともそれを済ますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。
「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止そうよ。その代りおれが受け合ったらいいだろう」
「受け合うって」
「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」
「どうして」
「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」
お延は黙っていた。
「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで妥協はできないかね」
百五十
妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事を説明するには極めて穏当であった。実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚にあった事はたしかであった。明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮はようやく喰いとめられた。感情の潮がまだ上りはしまいかという掛念で、暗に頭を悩ませていた津田は助かった。次の彼には喰いとめた潮の勢を、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕ができた。彼はお延を慰めにかかった。彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。沈着な態度を外部側にもっている彼は、また臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者も心得ていた。彼の努力ははたして空しくなかった。お延は久しぶりに結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇えった。
「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」
こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。暴風雨になろうとして、なり損ねた波瀾はようやく収まった。けれども事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。彼らはいつの間にか吾知らず相互の関係を変えていた。
波瀾の収まると共に、津田は悟った。
「畢竟女は慰撫しやすいものである」
彼は一場の風波が彼に齎したこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。今までの彼は、お延に対するごとに、苦手の感をどこかに起さずにいられた事がなかった。女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日ごとに現前した。それは彼女の直覚であるか、または直覚の活作用とも見傚される彼女の機略であるか、あるいはそれ以外の或物であるか、たしかな解剖は彼にもまだできていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。しかも彼自身自分の胸に畳み込んでおくぎりで、いまだかつて他に洩らした事のない事実に違いなかった。だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。それならばなぜ彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。簡単に云えば、彼はなるべく己れを尊く考がえたかったからである。愛の戦争という眼で眺めた彼らの夫婦生活において、いつでも敗者の位地に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。ところがお延のために征服される彼はやむをえず征服されるので、心から帰服するのではなかった。堂々と愛の擒になるのではなくって、常に騙し打に会っているのであった。お延が夫の慢心を挫くところに気がつかないで、ただ彼を征服する点においてのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。この特殊な関係を、一夜の苦説が逆にしてくれた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。彼は今までこれほど猛烈に、また真正面に、上手を引くように見えて、実は偽りのない下手に出たお延という女を見た例がなかった。弱点を抱いて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事ができた。結果は明暸であった。彼はようやく彼女を軽蔑する事ができた。同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた。
お延にはまたお延で波瀾後の変化が起りつつあった。今までかつてこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝く方に心を奪われ過ぎたため、ついぞ露わした事のない自分の弱点を、かえって夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。もちろんその見識は複雑とは云えなかった。夫の愛が自分の存在上、いかに必要であろうとも、頭を下げて憐みを乞うような見苦しい真似はできないという意地に過ぎなかった。もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。のべつにこの決心を実行して来た彼女は、つまりのべつに緊張していると同じ事であった。そうしてその緊張の極度はどこかで破裂するにきまっていた。破裂すれば、自分で自分の見識をぶち壊すのと同じ結果に陥いるのは明暸であった。不幸な彼女はこの矛盾に気がつかずに邁進した。それでとうとう破裂した。破裂した後で彼女はようやく悔いた。仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。彼女は自分の弱点を浚け出すと共に一種の報酬を得た。今までどんなに勝ち誇っても物足りた例のなかった夫の様子が、少し変った。彼は自分の満足する見当に向いて一歩近づいて来た。彼は明らかに妥協という字を使った。その裏に彼女の根限り掘り返そうと力めた秘密の潜在する事を暗に自白した。自白?。彼女はよく自分に念を押して見た。そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜しがると同時に喜こんだ。彼女はそれ以上夫を押さなかった。津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。
百五十一
けれども自然は思ったより頑愚であった。二人はこれだけで別れる事ができなかった。妙な機みからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。
それは昂奮したお延の心持がやや平静に復した時の事であった。今切り抜けて来た波瀾の結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。
「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」
「ここを出たらすぐ行こうよ。身体のためにもその方が都合がよさそうだから」
「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」
津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。
「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」
気の緩んだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事はなおむずかしかった。断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。彼が何と返事をしたものだろうと思って分別するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。
「ね、行ってもいいんでしょう」
「そうだね」
「いけないの」
「いけない訳もないがね……」
津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし猜疑の眸が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻の波瀾から来た影響は彼にもう憑り移っていた。彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提さげて、お延に向った。
「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」
「ああ嬉しい、じゃ行くわ」
「ところがだね。……」
お延は厭な顔をした。
「ところがどうしたの」
「ところがさ。宅はどうする気かね」
「宅は時がいるから好いわ」
「好いわって、そんな子供見たいな呑気な事を云っちゃ困るよ」
「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」
お延は続けざまに留守居として適当な人の名を二三挙げた。津田は拒めるだけそれを拒んだ。
「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」
「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」
津田は断乎たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。
「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」
藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空いた人は一人もなかった。
「まあよく考えて見るさ」
この辺で話を切り上げようとした津田は的が外れた。お延は掴んだ袖をなかなか放さなかった。
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」
「悪いとは云やしないよ」
「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然云ってちょうだいよ」
せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳を思いついた。
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」
「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」
「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」
「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」
津田はまた行きつまった。そうしてまた危い血路を開いた。
「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」
「あんな人に」
「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」
お延は固より満足な顔をするはずがなかった。しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。
百五十二
後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼を満足させるため、かつはいったん約束した言責を果すため、津田はお延の貰って来た小切手の中から、その幾分を割いて朝鮮行の贐として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅からも出るはずはなかった。のみならず彼女はややともすると、強いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情一点張でそれを相手にする気色を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」
津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧い交際と、その交際から出る懐かしい記憶とを挙げた。懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡げた。それでも腑に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道まで云々した。しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説に帰着するので、彼は吾知らず自分の拵えた陥穽に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下のようになった。
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴さ。しようのない奴には違ないけれども、あいつがこうなった因りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。ところがあいつは愚図でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止まる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞になってる人間に逆らうと何をするか解らないんだ。誰とでも喧嘩がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得になるだけだって、現にここへ来て公言して威張ってるんだからね、実際始末に了えないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵いっこないんだ。解ったかね」
ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢うか解ったもんじゃない」
こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖がる因縁がないじゃありませんか」
二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の小遣として、任意に自分の嗜慾を満足するという彼女の条件は直ちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
うそ寒の宵に、若い夫婦間に起った波瀾の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。
百五十三
津田の辛防しなければならない手術後の経過は良好であった。というよりもむしろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。
「至極好い具合です。出血も口元だけです。内部の方は何ともありません」
六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止まりませんか」
「いや、もうほとんど止まりました」
出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう癒りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。彼と医者の間に起った一場の問答がその辺の消息を明らかにした。
「これが癒り損なったらどうなるんでしょう」
「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」
「心細いですな」
「なに十中八九は癒るにきまってます」
「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」
「早くて三週間遅くて四週間です」
「ここを出るのは?」
「出るのは明後日ぐらいで差支えありません」
津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽な遣口であった。彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚の中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。彼は訊かないでもいい質問を医者にかけてみたりした。
「括約筋を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰められるんですか」
「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜に三分ほど削り上げた所があるのです」
津田はその晩から粥を食い出した。久しく麺麭だけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。趣味として夜寒の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵の冷たさを対照に置く薄粥の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜る事ができた。
療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。身体の楽になった彼は、寝転ろんでただ退院の日を待つだけであった。
その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」
「あんまりありがたくもないでしょう」
「いやありがたいよ」
「宅の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」
「まあその辺かも知れないがね」
津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の拵えてくれた※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍で助かったよ。綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」
お延は笑いながら夫を冷嘲した。
「どうなすったの。なんだか急にお世辞が旨くおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」
お延は問題の※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。津田はその時着物を着換えていた。絞りの模様の入った縮緬の兵児帯をぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作であった。それほど軽く※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍の中味を見ていた彼の愛嬌は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。
「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」
「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」
「しかし宿屋で貸してくれる※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」
「そんな事はないよ」
「いえあるのよ。品質が悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」
無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。そこには一種のアイロニーが顫動していた。※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍は何かの象徴であるらしく受け取れた。多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯の先をこま結びに結んだ。
やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。
「さよなら」
多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。
百五十四
目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から入用の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。
「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」
「じゃ止した方が好いわ」
「おれも止したいよ」
「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」
「うん、頼んでもいいね」
「どこであの人にお逢いになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」
お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談に押すと、押したこっちがかえって手古摺らせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。お延はいざとなると口で云った通りを真面に断行する女であった。たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目な方角へ流してしまった。
「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」
「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例がないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」
「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」
「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」
「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固より本気に受け答えをするつもりもなかった。「今日までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚もないようだね」
「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」
津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」
「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」
この好い加減な無駄口の前に、お延は微かな溜息を洩らした後で云った。
「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」
「そりゃおれにかけ合ったって駄目だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻を持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」
苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「いいから、今に見ていらっしゃい」
「何を」と訊き返した津田は少し驚ろかされた。
「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」
「見ているが、いったい何だよ」
「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」
「云えないのはつまりお前にも解らないという意味なんじゃないか」
「ええそうよ」
「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴むような予言だ」
「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」
津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終そう思ってるの、いつか一度このお肚の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ないって」
「いつか一度? だからお前のは妄想と同なじ事なんだよ」
「いいえ生涯のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」
「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵わない」
「いいえ、あなたのためによ。だから先刻から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」
真面目なお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。今まで死んでいるとばかり思って、弄り廻していた鳥の翅が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。
彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」
こう云って立ち上がった彼の後を送って玄関に出たお延は、帽子かけから茶の中折を取って彼の手に渡した。
「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」
津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
百五十五
小林と会見の場所は、東京で一番賑やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。向うから宅へ誘いに寄って貰う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪ねてやる面倒を省くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。
その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間坐談をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒を彼に与えるに足りなかった。有体に云えば、彼は小林に対して克明に律義を守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後らせても、放縦な彼の鼻柱を挫いてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客の位地をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。
彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見して、慾の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦らしてやろうとまで思案した。
停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除けて、四辺を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。
もうだいぶ待ち草臥れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地は津田の降りた舗床と車道を一つ隔てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮ぎる便利があった。のみならず小林は真面にこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談をしていた。青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。二人はけっして余所見をしなかった。顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩さない彼らの体が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸に解った。
二人の後には壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌を明かに認める事ができた。蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈り込まない※(「參+毛」、第3水準1-86-45)々たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵を回らした。そうして二人の立っている舗道を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。
彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣は見出されなかった。それにもかかわらず彼は到る処に視覚の満足を味わった。しまいに或唐物屋の店先に飾ってあるハイカラな襟飾を見た時に、彼はとうとうその家の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。
もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布に遮ぎられて、間接に夜の中へ光線が放射されるので、通り際に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉を供えた品の好い食堂であった。
大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間仏蘭西とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教えられたのが原で、四五遍食いに来た因縁を措くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
彼は容赦なく扉を押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰ででもあるような風をして、真面目な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。
百五十六
小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐っている食卓の傍まで近寄って行ってこっちから声をかけた。
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」
小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」
津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉の火の色が、白いものの目立つ清楚な室の空気に、恰好な温もりを与えた。
津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場の光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね、ここの宅は。ちょっと綺麗で心持が好いじゃないか」
小林は気がついたように四辺を見廻した。
「うん。ここには探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」
ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」
「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」
津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな服装をしやしないよ」
「そうか。君がそう云うなら確だろう。僕のような田舎ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」
「相変らず皮肉るな」
津田は少し悪い気色を外へ出した。小林は平気であった。
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」
「そんならそれでいいさ」
「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」
「何が」
「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」
津田は空っ惚ける事の得意なこの相手の前に、真面目な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。同時に何とかして、ゴツンと喰わしてやりたいような気もした。けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。
「笑談じゃない」
「本当に笑談じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと気がついた。しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐過ぎた。彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。それでいて当らず障らず話を傍へ流すくらいの技巧は心得ていた。彼は小林に捕まらなければならなかった。彼は云った。
「どうだ君ここの料理は」
「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」
「不味いかい」
「不味かない、旨いよ」
「そりゃ好い案配だ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」
「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵わないよ。泣くだけだあね」
「だけど旨けりゃそれでいいんだ」
「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の一品料理と同なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」
津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。
「いったい今の僕にゃ、仏蘭西料理だから旨いの、英吉利料理だから不味いのって、そんな通をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」
「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由が解らなくなるじゃないか」
「解り切ってるよ。ただ飢じいから旨いのさ。その他に理窟も糸瓜もあるもんかね」
津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に応えるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。
百五十七
「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物は、あらゆる点で軽蔑に値しているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草があるんだ。僕の鈍は必ずしも天賦の能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」
この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の気※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)には、わざと酔の力を藉ろうとする欝散の傾きが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出した。
「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行を送る訳がないからね」
「ありがとう」
「いや嘘じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴かせたくらいだもの」
胡散臭いなという眼が小林の眉の下で輝やいた。
「へええ。本当かい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」
津田は黙って懐へ手を入れた。小林はその所作を眺めながら、わざとそれを止めさせるように追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇した。その代り話頭を前へ押し戻した。
「やはり人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だというつもりだ」
津田は逆らわなかった。
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから今日までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」
津田は薄笑いをした。小林は真面目であった。
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」
津田は心の中でその幾分を点頭いた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終君に軽蔑される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」
小林はここまで来て少し昂奮したような気色を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫してからまた出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」
「いや解らない。軽蔑の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕の好意に対して、僕はまた留別のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」
「よかろう」
「よくないたって、僕のような一文なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」
「だからいいよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場の酒も、どっちも無差別に旨いくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐ってないよ。厭なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
津田はてんから相手を見縊っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。
百五十八
しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴されながら、前後の勢ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明な君を煩わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩においてをやだ」
彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰うか、迷児つくか、蹴爪ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」
「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目なんだからおかしいや」
小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊かれない先に説明した。
「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚りながらここまで来るには相当の修業が要るんだからね。いかに痴鈍な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血の代を払ってるんだ」
津田は小林の得意が癪に障った。此奴が狗のような毒血を払ってはたして何物を掴んでいる? こう思った彼はわざと軽蔑の色を面に現わして訊いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」
小林は嬉しそうに身体を椅子の背に靠せかけてまた笑い出した。
「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺なんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」
津田は厭な顔をした。
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑に対する僕の復讐がその時始めて実現されるというだけさ」
津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」
津田は一気に洋盃を唇へあてがって、ぐっと麦酒を飲み干した小林の様子を、少し呆れながら眺めた。
百五十九
小林は言葉を継ぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。女伴の客のうち、一組の相手は洗指盆の中へ入れた果物を食った後の手を、袂から出した美くしい手帛で拭いていた。彼の筋向うに席を取って、先刻から時々自分達の方を偸むようにして見る二十五六の方は、※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)茶碗を手にしながら、男の吹かす煙草の煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。
「やあちょうど好い。まだいる」
津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に止せよ」
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎しんでくれ、こんな所へ来て」
「厭に小心だな。おおかた場末の酒場とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢をこんな所へ招待するのが間違だ」
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」
津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」
「その代り今後ますます貴様を軽蔑してやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁とも思っちゃいないよ」
「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅い男だな」
小林はむっとした津田の顔を覗き込むようにして見つめながら云った。
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻から云うんだ、実地を踏んで鍛え上げない人間は、木偶の坊と同なじ事だって」
「そうだそうだ。世の中で擦れっ枯らしと酔払いに敵うものは一人もないんだ」
何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴の方を一順見廻した後で、云った。
「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」
津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。
「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達を捕まえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱られたね。君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。それで僕は君に訊いたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」
小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。手帛で手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。残る一人も給仕を呼んで勘定を払った。
「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」
小林は出て行く女伴の後影を見送った。
「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」
彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西料理と英吉利料理を食い分ける事ができずに、糞と味噌をいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹の問題だという顔をして高を括っている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」
津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻がえして小林を見た。
「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑されながら、君より幸福だと主張するごとく、婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚からないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。しまいには、あれも厭、これも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」
「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」
「来たな、とうとう。食物だと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、これから僕が論じようというんだ」
「もうたくさんだ」
「いやたくさんじゃないらしいぜ」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
百六十
小林は旨く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際どい所へ入り込まなければならなくなった。
「例えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
「結果は今のごとくさ」
「大変淡泊りしているじゃないか」
「だってほかにしようがなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても乙に気取って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」
「馬鹿いうな。そんな出鱈目をむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」
「実は」と云いかけた小林は、その後を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。
「実はどうしたんだ」
「実はこの間君の細君にすっかり話しちまったんだ」
津田の表情がたちまち変った。
「何を?」
小林は相手の調子と顔つきを、噛んで味わいでもするように、しばらく間をおいて黙っていた。しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。
「嘘だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」
「心配はしない。今になってそのくらいの事を云つけられたって」
「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」
津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子に腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
「貴婦人が驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢といっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」
彼は給使の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人怒る訳に行かなかった。小林はまたすぐその機に付け込んだ。
「いったいあの顛末はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構いだろう」
「そりゃ当り前さ」
「だから先刻から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太を踏んで口惜しがる」
「いつそんな様を僕がした」
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟られている所以だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤が富貴に向って復讐をやってる因果応報の理だね」
「そう頭から自分の拵えた型で、他を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」
教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」
「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」
「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢だね。観察の下卑て皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野なところから云っても」
「そうしてそれが君の軽蔑に値する所以なんだ」
「もちろんさ」
「そらね。そう来るから畢竟口先じゃ駄目なんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」
「構わない、擦れっ枯らしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動して無役の負戦をさせるんだ」
津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別の用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭になるだけだから」
小林は新らしい十円紙幣の二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」
百六十一
小林は受け取ったものを、赤裸のまま無雑作に背広の隠袋の中へ投げ込んだ。彼の所作が平淡であったごとく、彼の礼の云い方も横着であった。
「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
津田は答えた。
「無論やったんだ。しかし貰ってみたら、いかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい」
「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下すような態度をとった。「まあ考えて見たまえ。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬の間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。答えて見ろ」
「君さ。君が僕にくれたのさ」
「いや僕じゃないよ」
「何を云うんだな禅坊主の寝言見たいな事を。じゃ誰だい」
「誰でもない、余裕さ。君の先刻から攻撃している余裕がくれたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」
小林は眼をぱちぱちさせた後でこう云った。
「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返してくれ」
津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女のように柔らかそうなその掌を見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」
津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」
「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子よだ」
小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」
彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」
小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の隠袋を、わざとらしく軽く叩いた。
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ順送りに送れと命令するんだよ。余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行しないよ」
津田はほぼ小林の言葉を、意解する事ができた。しかし事解する事はできなかった。したがって半醒半酔のような落ちつきのない状態に陥った。そこへ小林の次の挨拶がどさどさと侵入して来た。
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁を首肯するよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」
彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。せんだっての晩手古摺らされた酒場の光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉をひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆に解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例えばだね、君がこの間僕の留守へ外套を取りに行って、そのついでに何か妻に云ったという事も――」
津田はこれだけ云って暗に相手の様子を窺った。しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度する事ができなかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割くような悪戯をしなくってもいい訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚はないよ」
「しかし先刻……」
「先刻は笑談さ。君が冷嘲すから僕も冷嘲したんだ」
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊き糺して見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中で思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍に立った。
百六十二
それが先刻大通りの角で、小林と立談をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗にこの男を待ち受けていた期待も交っていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。
実を云うと、自働車の燭光で照らされた時、彼の眸の裏に映ったこの人の影像は津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。
「小林はああいう人と交際ってるのかな」
こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後なので、新来者に対する彼の態度も自ずから明白であった。彼は突然胡散臭い人間に挨拶をされたような顔をした。
上へ反っ繰り返った細い鍔の、ぐにゃぐにゃした帽子を脱って手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それは一種の反感と、恐怖と、人馴れない野育ちの自尊心とが錯雑して起す神経的な光りに見えた。津田はますます厭な気持になった。小林は青年に向って云った。
「おいマントでも取れ」
青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い合羽をすぽりと脱いで、それを椅子の背に投げかけた。
「これは僕の友達だよ」
小林は始めて青年を津田に紹介せた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。
「どうした。旨く行ったかね」
これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。
「駄目だろう。駄目にきまってるさ、あんな奴。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」
小林はたちまちナイフを倒さまにして、やけに食卓を叩いた。
「おいこの人の食うものを持って来い」
やがて原の前にあった洋盃の中に麦酒がなみなみと注がれた。
この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。こんなお付合を長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家へ持って行って見せる事にしたら」
津田は驚ろいた。
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」
津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
青年は傷けられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。
「嘘を云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」
津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」
津田はだんだん辛防し切れなくなって来た。
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」
給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止めながら、また津田の方へ向き直った。
「ちょうど今一枚素敵に好いのが描いてあるんだ。それを買おうという望手の所へ価値の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻あすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」
「他に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲き上げられてしまうだけだぜ」
津田はこの問答を聴いてほっと一息吐いた。
百六十三
二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派とか未来派とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処にも興味を見出だし得なかった彼は、会談の圏外へ放逐されるまでもなく、自分から埒を脱け出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田は厭がらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通として、最初から取扱っていた。彼はこの偏見の上へ、乙に識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。この点において無知な津田を羨やましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。
「もう直だ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他に恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉で突き差した手を止めた。
「どうぞお構いなく」
津田が軽く会釈を返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴が世の中にいるんだから厭になるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少いろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝な事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐らなくっちゃ」
仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂から煙草を出して火を点けた。ふと見ると、灰皿は敷島の残骸でもういっぱいになっていた。今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑もうとする一本も、三分経つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻から云ってるじゃないか」
小林は右の手で背広の右前を掴んで、左の手を隠袋の中へ入れた。彼は暗闇で物を探るように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間始終眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景が、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想が、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠めて過ぎた。
「此奴は懐から短銃を出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」
芝居じみた一刹那が彼の予感を微かに揺ぶった時、彼の神経の末梢は、眼に見えない風に弄られる細い小枝のように顫動した。それと共に、妄りに自分で拵えたこの一場の架空劇をよそ目に見て、その荒誕を冷笑う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多に君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻放り込んだ札でも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片と違って活きてるから。こうやって、手で障って見るとすぐ分るよ。隠袋の中で、ぴちぴち跳ねてる」
小林は減らず口を利きながら、わざと空しい手を出した。
「おやないぞ。変だな」
彼は左胸部にある表隠袋へ再び右の手を突き込んだ。しかしそこから彼の撮み出したものは皺だらけになった薄汚ない手帛だけであった。
「何だ手品でも使う気なのか、その手帛で」
小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩いた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」
彼の洋袴の隠袋から引き摺り出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何訳ゃないやね、少し長いけれども」
封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。
百六十四
ペンで原稿紙へ書きなぐるように認められたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。のみならず宛名は小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴いた事もない全く未知の人であった。津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。けれども冷やかな無関心の傍に起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙の上へ眼を落した彼は一気に読み下した。
「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。あなたは定めて飽っぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりで夜が不用心だから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番をしてくれ、小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画を習いに行くがいい。今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、家の始末は心配するな、転居の金は出してやる。――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まで当にした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻まで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。叔父は僕の事を「宅の書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。金はまだ一銭も貰ったことがありません。僕の穿いていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。叔父は明日金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫にも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。
叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦は極めて冷やかな極めて吝嗇な人達です。だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉の家へ帰って飯を食わして貰いました。兵糧が尽きて焼芋や馬鈴薯で間に合せていたこともあります。もっともこれは僕だけです。叔母は極めて感じの悪い女です。万事が打算的で、体裁ばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。そうして田舎へ行けば殿様だなどと云って威張るんです。しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。
叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持でも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦りを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけて謎をかけたりします。
こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻窮りなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟ってくるんです。それを他に話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなく恐くなって来るのです。土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮ぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。あっても無いと同じ事なのです。幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求めるために書いたのではありません。僕はあなたの境遇を知っています。物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管の中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷もないのでしょうか。僕は今それさえ疑っているのです。そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」
手紙はここで終っていた。
百六十五
その時先刻火を点けて吸い始めた巻煙草の灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙の上に落ちた。津田は竪横に走る藍色の枠の上に崩れ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。
その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。
しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後をふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
彼はそこでとまった。そうして※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊した。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」
津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」
津田はまた躊躇した。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍らせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ止そう」
津田は先刻の絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。何でもかでも彼を物質上の犠牲者にし終せた上で、後からざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇したってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至この手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
こう云った小林は、手紙を隠袋へしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
彼はこう云って原の方を見た。
百六十六
小林の所作は津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍った。憎悪の電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体を通過した。
同時に聡明な彼の頭に一種の疑が閃めいた。
「此奴ら二人は共謀になって先刻からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」
こう思うのと、大通りの角で立談をしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後三人の間に起った談話の遣取とが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火のようにくるくると廻転した。彼は白い食卓布の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺れッ枯らしの拵え上げた狂言の落所だったのか。馬鹿奴、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」
彼は傷けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨くどさりと引繰り返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後の彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつの間にか狼狽の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着した。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇があった。掴みかかろうとする慾望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々真その物の発現であった。作りもの、拵え事、馴れ合いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後から継いで起った。原はそれほど欲しそうな紙幣へ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥ぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。もしこの蒼白い青年が、ついに紙幣の方へ手を出さないとすると、小林の拵えたせっかくの狂言も半分はぶち壊しになる訳であった。もしまた小林がいったん隠袋から出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。どっちにしても自分の体面を繕うのには便宜な方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷の望を抱いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」
原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理になるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗に対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財だ。拾ったものが功徳を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
忌々しい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚な彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上体裁の好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」
小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋へ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
表へ出た三人は濠端へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜を仰いだ。
百六十七
間もなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場へ送って行かないよ」
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合のない事夥だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞に行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日から旅行するんだから」
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落てるな」
「僕に云わせると、これも余裕の賜物だ。僕は君と違って飽くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発されるよりも、事実その物に戒飭される方が、遥かに覿面で切実でいいだろう」
これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄てなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
明る朝は風が吹いた。その風が疎らな雨の糸を筋違に地面の上へ運んで来た。
「厄介だな」
時間通りに起きた津田は、縁鼻から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午ぐらいから晴れるかも知れないわね」
お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日後れると一日徒為になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」
冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥の抽斗から自分の衣裳を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。
「お前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」
お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜断っちまったくらいだ」
「そう、でもあたし宅にいたって、何にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」
お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人俥を駆って宅を出る事ができた。
周囲の混雑と対照を形成る雨の停車場の佗しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶をした。
「あいにくなお天気で」
それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」
書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支えがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」
書生は手に持った果物の籃を津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
汽車が出る時、黙って丁寧に会釈をした書生に、「どうぞ宜しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。
百六十八
お延の気を利かして外套の隠袋へ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外の空模様はだんだん悪くなって来た。先刻まで疎らに眺められた雨の糸が急に数を揃えて、見渡す限の空間を一度に充たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄まじく感ぜられた。
雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮ぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間なく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒した時、彼は荒涼なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較べた。身体を安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝いて外部へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独り肩を竦めた。すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子を打つたびに、点滴の珠を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好の男が少し上半身を前へ屈めて、向側に胡坐を掻いている伴侶に話しかけた。しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路が壊れやしないかね」
彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
これが相手の答であった。相手というのは羅紗の道行を着た六十恰好の爺さんであった。頭には唐物屋を探しても見当りそうもない変な鍔なしの帽子を被っていた。煙草入だの、唐桟の小片だの、古代更紗だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋へでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉遣いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いのほか濶達なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
この挨拶のうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
中折に駱駝の外套を着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何たかが雨だあね。濡れると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介だよ。あの軽便へ雨曝しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室の中へ入れて貰う事にしよう」
二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶へ穴が開いて動けなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る奴を山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違えねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他を救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫えちまわあね」
津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委せようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数を省いた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結して「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。
百六十九
汽車が目的の停車場に着く少し前から、三人によって気遣われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収まり際の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後から後からと、あたかも前に行くものを追かけるように、隙間なく詰め寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配を示した。
思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻会った二人伴の男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝しになるのを苦に病んだほどの大嵩なものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊いてみるんだ。だが大体間違はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶を顧みた。中折の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
この天眼通に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋とこの大将のあの鞄を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食を認ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後れていたその昼食は、膳を貪ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼っていた。彼は箸を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
基点に当る停車場は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
爺さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝かけを敷く余地を拵えてくれた。
「今日は空いてて結構です」
爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八二月に渉って、この線路に集ってくる湯治客の、どんなに雑沓するかをさも面白そうに例の調子で話して聴かせた後で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴れてくるのは実際罪だよ。尻が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
彼は自分の傍に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。
百七十
軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際などに、老人は急に彼を夢の裡から叩き起した。
「まだ仮橋のままでやってるんだから、呑気なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
本式の橋が去年の出水で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構の家を指して、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家も去年波で浚われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
「ここいらで一夏休むと、だいぶ応えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着をきめ込みやがって、掛けかえねえんでさあ」
津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切れ目には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
彼の頭の中は纏まらない断片的な映像のために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場まで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んでくれた果物の籃もあった。その葢を開けて、二人の伴侶に夫人の贈物を配とうかという意志も働いた。その所作から起る手数だの煩わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。すると爺さんも中折も急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥を排してつかつか這入って来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場の中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆けるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度も上ったり下ったりした。その山の多くは隙間なく植付けられた蜜柑の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々と点綴していた。
「あいつは旨そうだね」
「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗だよ」
比較的嶮しい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。停車場でもないそこに見えるものは、多少の霜に彩どられた雑木だけであった。
「どうしたんだ」
爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折を見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」
急に予言者らしい口吻を洩らした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄する時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。
「どうせ家を出る時に、水盃は済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶の立往生は御免蒙りたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」
爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独り室内に坐っている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後にして、うんうん車を押した。
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」
車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また後れちまったよ、大将、お蔭で」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た甲斐がないだろう」
「全くだ」
津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場で、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮の空気の中に出た。
百七十一
靄とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞たる夢であった。自分の四辺にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横わる大きな闇の姿を見較べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟られているのだ。そうして今ちょうどその夢を追かけようとしている途中なのだ。顧みると過去から持ち越したこの一条の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。自分の夢ははたして綺麗に拭い去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村の中に立っているのだろうか。眼に入る低い軒、近頃砂利を敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾むきかかった藁屋根、黄色い幌を下した一頭立の馬車、――新とも旧とも片のつけられないこの一塊の配合を、なおの事夢らしく粧っている肌寒と夜寒と闇暗、――すべて朦朧たる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」
この感想は一度に来た。半分とかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後の彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。一分の猶予なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊いたり、馬車に乗るか俥にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦して退けた。
彼はやがて否応なしにズックの幌を下した馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻の若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
若い男は津田の目指している宿屋の手代であった。
「ここに旗が立っています」
彼は首を曲げて御者台の隅に挿し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套の襟を立てた。
「夜中はもうだいぶお寒くなりました」
御者台を背中に背負ってる手代は、位地の関係から少しも風を受けないので、この云い草は何となく小賢しく津田の耳に響いた。
道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強いて向うから口を利こうともしなかった。
すると突然津田の心が揺いた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭さまで」
「何人ぐらい」
何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八二月ですな、繁昌するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
清子の事を訊く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞えた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上後で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
百七十二
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾をぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍を塞いでいた。台上から飛び下りた御者はすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌ぐほどの高い樹が聳えていた。星月夜の光に映る物凄い影から判断すると古松らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経つ今日まで、いまだこの女の記憶を失くした覚がなかった。こうして夜路を馬車に揺られて行くのも、有体に云えば、その人の影を一図に追かけている所作に違なかった。御者は先刻から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止せばいいと思うのに、濫りなる鞭を鳴らして、しきりに痩馬の尻を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概に断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身? この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓の存在を憶い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後を跟けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
冷たい山間の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
御者は馬の轡を取ったなり、白い泡を岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架け渡した橋の上をそろそろ通った。すると幾点の電灯がすぐ津田の眸に映ったので、彼はたちまちもう来たなと思った。あるいはその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。
「運命の宿火だ。それを目標に辿りつくよりほかに途はない」
詩に乏しい彼は固よりこんな言葉を口にする事を知らなかった。けれどもこう形容してしかるべき気分はあった。彼は首を手代の方へ延ばした。
「着いたようじゃないか。君の家はどれだい」
「へえ、もう一丁ほど奥になります」
ようやく馬車の通れるくらいな温泉の町は狭かった。おまけに不規則な故意とらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭を鳴らす事を許さなかった。それでも宿へ着くまでに五六分しかかからなかった。山と谷がそれほど広いという意味で、町はそれほど狭かったのである。
宿は手代の云った通り森閑としていた。夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、自分の室へ案内された彼は、好時季に邂逅せてくれたこの偶然に感謝した。性質から云えばむしろ人中を択ぶべきはずの彼には都合があった。彼は膳の向うに坐っている下女に訊いた。
「昼間もこの通りかい」
「へえ」
「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」
下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児にでもなりそうだね」
彼は清子のいる見当を確かめなければならなかった。けれども手代に露骨な質問がかけられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方はできなかった。
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでもございません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留しているなんてえのはなかろう」
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」
受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、ちょっと見せて貰いたいな」
「お湯にいらっしゃる時、この室の横をお通りになりますから、御覧になりたければ、いつでも――」
「拝見できるのか、そいつはありがたい」
津田は女のいる方角だけ教わって、膳を下げさせた。
百七十三
寝る前に一風呂浴びるつもりで、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻彼女から聴かされたこの家の広さに気がついた。意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段を降りたりして、目的の湯壺を眼の前に見出した彼は、実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。
風呂場は板と硝子戸でいくつにか仕切られていた。左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽のほかに、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯に比べて倍以上の尺があった。
「これが一番大きくって心持がいいでしょう」と云った下女は、津田のために擦硝子の篏った戸をがらがらと開けてくれた。中には誰もいなかった。湯気が籠るのを防ぐためか、座敷で云えば欄間と云ったような部分にも、やはり硝子戸の設けがあって、半分ほど隙かされたその二枚の間から、冷たい一道の夜気が、※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍を脱ぎにかかった津田の身体を、山里らしく襲いに来た。
「ああ寒い」
津田はざぶんと音を立てて湯壺の中へ飛び込んだ。
「ごゆっくり」
戸を閉めて出ようとした下女はいったんこう云った後で、また戻って来た。
「まだ下にもお風呂場がございますから、もしそちらの方がお気に入るようでしたら、どうぞ」
来る時もう階子段を一つか二つ下りている津田には、この浴槽の階下がまだあろうとは思えなかった。
「いったい何階なのかね、この家は」
下女は笑って答えなかった。しかし用事だけは云い残さなかった。
「ここの方が新らしくって綺麗は綺麗ですが、お湯は下の方がよく利くのだそうです。だから本当に療治の目的でおいでの方はみんな下へ入らっしゃいます。それから肩や腰を滝でお打たせになる事も下ならできます」
湯壺から首だけ出したままで津田は答えた。
「ありがとう。じゃ今度そっちへ入るから連れてってくれたまえ」
「ええ。旦那様はどこかお悪いんですか」
「うん、少し悪いんだ」
下女が去った後の津田は、しばらくの間、「本当に療治の目的で来た客」といった彼女の言葉を忘れる事ができなかった。
「おれははたしてそういう種類の客なんだろうか」
彼は自分をそう思いたくもあり、またそう思いたくもなかった。どっち本位で来たのか、それは彼の心がよく承知していた。けれども雨を凌いでここまで来た彼には、まだ商量の隙間があった。躊躇があった。幾分の余裕が残っていた。そうしてその余裕が彼に教えた。
「今のうちならまだどうでもできる。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由はどこまで行っても幸福なものだ。その代りどこまで行っても片づかないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を放り出そうとするのか。では自由を失った暁に、お前は何物を確と手に入れる事ができるのか。それをお前は知っているのか。御前の未来はまだ現前しないのだよ。お前の過去にあった一条の不可思議より、まだ幾倍かの不可思議をもっているかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出そうとするお前は、馬鹿かな利巧かな」
津田は馬鹿とも利巧とも判断する訳に行かなかった。万事が結果いかんできめられようという矢先に、その結果を疑がい出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であった。
彼には最初から三つの途があった。そうして三つよりほかに彼の途はなかった。第一はいつまでも煮え切らない代りに、今の自由を失わない事、第二は馬鹿になっても構わないで進んで行く事、第三すなわち彼の目指すところは、馬鹿にならないで自分の満足の行くような解決を得る事。
この三カ条のうち彼はただ第三だけを目的にして東京を立った。ところが汽車に揺られ、馬車に揺られ、山の空気に冷やされ、煙の出る湯壺に漬けられ、いよいよ目的の人は眼前にいるという事実が分り、目的の主意は明日からでも実行に取りかかれるという間際になって、急に第一が顔を出した。すると第二もいつの間にか、微笑して彼の傍に立った。彼らの到着は急であった。けれども騒々しくはなかった。眼界を遮ぎる靄が、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着実に見る事ができたのである。
思いのほかに浪漫的であった津田は、また思いのほかに着実であった。そうして彼はその両面の対照に気がついていなかった。だから自己の矛盾を苦にする必要はなかった。彼はただ決すればよかった。しかし決するまでには胸の中で一戦争しなければならなかった。――馬鹿になっても構わない、いや馬鹿になるのは厭だ、そうだ馬鹿になるはずがない。――戦争でいったん片づいたものが、またこういう風に三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上れるのである。
人のいない大きな浴槽のなかで、洗うとも摩るとも片のつかない手を動かして、彼はしきりに綺麗な温泉をざぶざぶ使った。
百七十四
その時不意にがらがらと開けられた硝子戸の音が、周囲をまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込んでいた津田をはっと驚ろかした。彼は思わず首を上げて入口を見た。そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。
生れてからまだ一度も顔を合せた覚のないその婦人は、寝掛と見えて、白昼なら人前を憚かるような慎しみの足りない姿を津田の前に露わした。尋常の場合では小袖の裾の先にさえ出る事を許されない、長い襦袢の派手な色が、惜気もなく津田の眼をはなやかに照した。
婦人は温泉煙の中に乞食のごとく蹲踞る津田の裸体姿を一目見るや否や、いったん入りかけた身体をすぐ後へ引いた。
「おや、失礼」
津田は自分の方で詫まるべき言葉を、相手に先へ奪られたような気がした。すると階子段を下りる上靴の音がまた聴こえた。それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。
「どうしたんだ」
「誰か入ってるの」
「塞がってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」
「でも……」
「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな空いてるだろう」
「勝さんはいないかしら」
津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に喰わなかった。彼はここへ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸を据えて、また浴槽の中へ身体を漬けた。
彼は背の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを温泉の中で上下へ動かしながら、透き徹るもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢を得意に眺めた。
時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。
「今晩は。大変お早うございますね」
勝さんのこの挨拶には男の答があった。
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」
「へえ、もうお稽古はお済みですか」
「お済みって訳でもないが」
次には女の言葉が聴こえた。
「勝さん、そこは塞がってるのね」
「おやそうですか」
「どこか新らしく拵えたのはないの」
「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」
二人を案内したらしい風呂場の戸の開く音が、向うの方でした。かと思うと、また津田の浴槽の入口ががらりと鳴った。
「今晩は」
四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。
「旦那流しましょう」
彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの桶へ湯を汲んだ。津田は否応なしに彼に背中を向けた。
「君が勝さんてえのかい」
「ええ旦那はよく御承知ですね」
「今聴いたばかりだ」
「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」
「今来たばかりだもの」
勝さんはははあと云って笑い出した。
「東京からおいでですか」
「そうだ」
勝さんは何時の下りだの、上りだのという言葉を遣って、津田に正確な答えをさせた。それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんを伴れて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋さんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅のお上さんは長唄が上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。そうしてその触れないものは取も直さず清子という名前であった。偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。
「どうぞごゆっくり」
こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて硝子戸の外へ出た。しかし濡手拭をぶら下げて、風呂場の階子段を上って、そこにある洗面所と姿見の前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。
百七十五
最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。これが先刻下女に案内されて通った路なのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶を暈すだけであった。しかし廊下を踏んだ長さに比較して、なかなか自分の室らしいものの前に出られなかった時に、彼はふと立ちどまった。
「はてな、もっと後かしら。もう少し先かしら」
電灯で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音はどこにも聴えなかった。用事で往来をする下女の姿も見えなかった。手拭と石鹸をそこへ置いた津田は、宅の書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。けれども返事はどこからも響いて来なかった。不案内な彼は、第一下女の溜りのある見当を知らなかった。個人の住宅とほとんど区別のつかない、植込の突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在は、すべて彼にとっての秘密と何の択ぶところもなかった。
手を鳴らす所作を一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石鹸と手拭を取り上げた。これも一興だという気になった。ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興も手伝った。彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
廊下はすぐ尽きた。そこから筋違に二三度上るとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるもののごとくに揺れた。
水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所を彼に忘れさせた。彼はただもったいないと思った。手を出して栓を締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶さに気がついた。それと同時に、白い瀬戸張のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦が、妙に彼を刺戟した。
あたりは静かであった。膳に向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯って、おおかたこのくらいだろうと暗に想像したよりも遥かに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。その静かさのうちに電灯は隈なく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。
彼はすぐ水から視線を外した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据えた。しかしそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像に過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具えつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。彼にはその意味が解せなかった。久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被さっていた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理も男としてはもったいないくらい濃かに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。
しかし彼の所作は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室を探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈にできていた。第三に尋常のものと違って、擬いの西洋館らしく、一面に仮漆が塗っていた。
胡乱なうちにも、この階子段だけはけっして先刻下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻りをする覚悟で、鏡から離れた身体を横へ向け直した。
百七十六
するとその二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切しているので、彼はすぐその確的さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。
下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異なるところもなかった。そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮ぎる壁を目標に置いて、大凡の見当をつけると、畳一枚を竪に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上らない津田の想像で判断するよりほかに途はないとして、今聴えた障子の音の出所は、一番階段に近い室、すなわち下たから見える壁のすぐ後に違なかった。
ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝すのが恥ずかしかったからでもある。
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩を回らそうとした刹那に彼は気がついた。
「ことによると下女かも知れない」
こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でもいい、来たら方角を教えて貰おう」
彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵へ跳ね上る上靴の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足はたちまち立ち竦んだ。眼は動かなかった。
同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々まで自分の心に伝えた。
彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心が有心に変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後で、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
彼女は普通の湯治客のする通り、寝しなに一風呂入って温まるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提げていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入を裸のまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那の光景を辿るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
彼女の姿は先刻風呂場で会った婦人ほど縦ままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞が綺麗に通っている派手な伊達巻を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻の下に重ねた長襦袢の色が、薄い羅紗製の上靴を突かけた素足の甲を被っていた。
清子の身体が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白く変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。
やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。
百七十七
その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川が軒の近くを流れているのだろうか。雨としては庇に響がないし、谿川としては勢が緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥か重大な主題のために悩まされていた。
彼は室に帰ると、いつの間にか気を利かせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出したので、すぐその中へ潜り込んだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽ったのである。
彼はこの宵の自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者のような気がした。彼の行為は、目的もなく家中彷徨き廻ったと一般であった。ことに階子段の下で、静中に渦を廻転させる水を見たり、突然姿見に映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経たない近距離から判断して見ても、たしかに常軌を逸した心理作用の支配を受けていた。常識に見捨てられた例の少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態に違なかった。しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。
それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」
彼は実際廊下をうろうろ歩行いているうちに、清子をどこかへふり落した。けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他がどこにいるか知ろうはずはなかった。
「この見当だと心得てさえいたならば、ああ不意打を食うんじゃなかったのに」
こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上り口の案内を閉塞した所作、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴の音、これらのものを綜合して考えると、すべてが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。
しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも遥か余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意の裡に予期があり、彼女には突然の中にただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面に感じてはいないだろうか。
彼女は蒼くなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みを繋いだ。今の自分に都合の好いようにそれを解釈してみた。それからまたその解釈を引繰返して、反対の側からも眺めてみた。両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易に纏まらなかった。纏ってもすぐ打ち崩された。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚は、胸の中にあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎の区別をその間に置いていた。というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具わっているらしく見えた。結果は分明であった。彼は叱りながら己惚の頭を撫でた。耳を傾けながら、半鐘の音を忌んだ。
かくして互いに追つ追われつしている彼の心に、静かな眠は来ようとしても来られなかった。万事を明日に譲る覚悟をきめた彼は、幾度かそれを招き寄せようとして失敗ったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返りの数を重ねるだけであった。
彼は煙草へ火を点けようとして枕元にある燐寸を取った。その時袖畳みにして下女が衣桁へかけて行った※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍が眼に入った。気がついて見ると、お延の鞄へ入れてくれたのはそのままにして、先刻宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。彼は病院を出る時、新調の※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍に対してお延に使ったお世辞をたちまち思い出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
「どっちが好いか比べて御覧なさい」
※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍ははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然であった。※(「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18)袍を見較べると共に、細君を前に置いて、内々心の中で考えた当時の事が再び意識の域上に現われた。
「お延と清子」
独りこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴いたなり、すぐ夜具を頭から被った。
強いて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めて酬いられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。
百七十八
朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、辛うじて持続した。室の四角が寝ていられないほど明るくなって、外部に朝日の影が充ち渡ると思う頃、始めて起き上った津田の瞼はまだ重かった。彼は楊枝を使いながら障子を開けた。そうして昨夜来の魔境から今ようやく覚醒した人のような眼を放って、そこいらを見渡した。
彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。不規則な池を人工的に拵えて、その周囲に稚い松だの躑躅だのを普通の約束通り配置した景色は平凡というよりむしろ卑俗であった。彼の室に近い築山の間から、谿水を導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。昨夜彼の睡眠を悩ました細工の源を、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想はすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推し移った。大根を洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったらたまらないと彼は考えた。
彼が銜え楊枝のまま懐手をして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻から高箒で庭の落葉を掃いていた男が、彼の傍へ寄って来て丁寧に挨拶をした。
「お早う、昨夜はお疲れさまで」
「君だったかね、昨夕馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは」
「へえ、お邪魔様で」
「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広い家だね」
「いえ、御覧の通り平地の乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません」
「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児になって弱ったよ」
「はあ、そりゃ」
二人がこんな会話を取り換わせている間に、庭続の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。黄葉と枯枝の隙間を動いてくる彼らの路は、稲妻形に林の裡を抜けられるように、また比較的急な勾配を楽に上られるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。それでも手代はじっとして彼らを待っていなかった。たちまち津田を放り出した現金な彼は、すぐ岡の裾まで駈け出して行って、下から彼らを迎いに来たような挨拶を与えた。
津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕艶めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違なかった。風呂場で彼を驚ろかした大きな髷をいつの間にか崩して、尋常の束髪に結い更えたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。彼はさらに声を聴いただけで顔を知らなかった伴の男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ当世風の髭を鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影を宿していた。津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰めて当人のしばしば用いる堀庄という名前が、いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染みていはしまいかと思われた。瞥見のついでに纏められた津田の想像はここにとどまらなかった。彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中に置いた。したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。彼は楊枝で歯を磨りながらまだ元の所に立っていた。彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。
女は番頭に訊いた。
「今日は別館の奥さんはどうかなすって」
番頭は答えた。
「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」
「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」
「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」
「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」
「へえ、なるほど」
「それに今朝ごいっしょに裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」
「じゃちょっと伺って参りましょう」
「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」
「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」
「それともなんて、そう真面目くさらなくってもいいのよ。ただ訊いてみただけなんだから」
二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉で口中をいっぱいにしながら、また昨夜の風呂場を探しに廊下へ出た。
百七十九
しかし探すなどという大袈裟な言葉は、今朝の彼にとって全く無用であった。路に曲折の難はあったにせよ、一足の無駄も踏まずに、自然昨夜の風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿馬鹿しいと思う心がさらに新らしく湧いて出た。
風呂場には軒下に篏めた高い硝子戸を通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。その硝子戸越に岩だか土堤だかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉に浸けながら、いかに浴槽の位置が、大地の平面以下に切り下げられているかを発見した。そうしてこの崖と自分のいる場所との間には、高さから云ってずいぶんの相違があると思った。彼は目分量でその距離を一間半乃至二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中に幾層もあるはずだという事に気がついた。
崖の上には石蕗があった。あいにくそこに朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、いかにも寒そうに見えた。山茶花の花の散って行く様も湯壺から眺められた。けれども景色は断片的であった。硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。不可知な世界は無論平凡に違なかった。けれどもそれがなぜだか彼の好奇心を唆った。すぐ崖の傍へ来て急に鳴き出したらしい鵯も、声が聴えるだけで姿の見えないのが物足りなかった。
しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。実を云うと、津田は腹のうちで遥かそれ以上気にかかる事件を捏ね返していたので、彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々のうちに感じなければならなかった。明るい浴室に人影一つ見出さなかった彼は、万事君の跋扈に任せるといった風に寂寞を極めた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄ててあったのが、彼に或暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作に過ぎないとも云えば云えない事もなかった。だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、いよいよスリッパーの前に閉て切られた戸にかかった時、彼は急に躊躇した。彼は固より無心ではなかった。その上失礼という感じがどこかで手伝った。仕方なしに外部から耳を峙てたけれども、中は森としているので、それに勢を得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。
すでに裸になって、湯壺の中に浸った後の彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕と今朝の間に自分の経過した変化を比較した。昨夕の彼は丸髷の女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。
それは主のないスリッパーに唆のかされた罪かも知れなかった。けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起に横浜の女と番頭の噂さに上った清子の消息を聴かされたからであった。彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。
鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止めた。すると足音は聴えなくなった。しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段を上って行くように思われた。彼はその源因を想像した。他の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨てておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。なぜそれを浴室の中まで穿き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌した。
しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽の外側に聞いた。それは彼が石蕗の花を眺めた後、鵯鳥の声を聴いた前であった。彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。するとたちまち女の声がした。しかしそれは足音と全く別な方角から来た。下から見上げた外部の様子によって考えると、崖の上は幾坪かの平地で、その平地を前に控えた一棟の建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。何しろ声はそっちの見当から来た。そうしてその主は、たしかに先刻散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。
昨夕湯気を抜くために隙かされた庇の下の硝子戸が今日は閉て切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女は崖の上から崖の下へ向けて話しかけていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非受け応えの挨拶が出なければならないはずであった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。しゃべる方はただ崖の上に限られていた。
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上って行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾が硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻がえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。
百八十
室に帰って朝食の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫をやるってえのは」
「ええ、よく御存じですね、もうお聴きになりましたか」
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」
彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気もなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問を外した。
「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか嘘の奥さんてのもないでしょう、なぜですか」
「なぜって、素人にしちゃあんまり粋過ぎるじゃないか」
下女は答える代りに、突然清子を引合に出した。
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄です」
間取の関係から云って、清子の室は津田の後、二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出した彼はようやく首肯いた。
「するとちょうど真中辺だね、ここは」
真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともお閑なもんですから。昨日も公園へいっしょにお出かけでした」
津田は問題を取り逃がさないようにした。
「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」
「少し身体がお悪いんです」
「旦那さんは」
「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」
「置いてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」
「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」
「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽たように話を外らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落※(「(肄-聿)+欠」、第3水準1-86-31)を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
「ええお爺さんです。こんなに白い髯を生やして」
下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応わしい髯の長さを形容して見せた。
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴かされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」
この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は暗にこの老先生の用向と自分の用向とを見較べた。無事に苦しんで義太夫の稽古をするという浜の二人をさらにその傍に並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」
「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」
津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極めなければならない季節に、この家へ入り込んでくる客の人数を挙げた。
百八十一
食後の津田は床の脇に置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛を記した。お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝だの、ルナ公園だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。それからまた印気を走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親宛の分がまたたく間に出来上った。こう書き出して見ると、ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一だの、その一の学校友達という連想から、また自分の親戚の方へ逆戻りをして、甥の真事だの、いろいろな名がたくさん並べられた。初手から気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。他の意味は別として、ただ在所を嗅ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。その小林は不日朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自ら任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、(もし津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。
津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙だてた。するといったん緒口の開いた想像の光景はそこでとまらなかった。彼を拉してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭がらせに来たんだ」
「どういう理由で」
「理由も糸瓜もあるもんか。貴様がおれを厭がる間は、いつまで経ってもどこへ行っても、ただ追かけるんだ」
「畜生ッ」
津田は突然拳を固めて小林の横ッ面を撲らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室の真中へ踏ん反り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中の視聴を脅かさなければならなかった。その中には是非とも清子が交っていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
事実よりも明暸な想像の一幕を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥と屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬の内側が熱って来るような気さえした。
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。他に対して面目を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。これが彼の倫理観の根柢に横わっているだけであった。それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。だから悪い奴はただ小林になった。
「おれに何の不都合がある。彼奴さえいなければ」
彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負わせた。
夢のような罪人に宣告を下した後の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜ここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。それから「あなたがおいでの事を今朝聴きました」と付け足してまた考えた。
「これじゃ空々しくっていけない、昨夜会った事も何とか書かなくっちゃ」
しかし当り障りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼はなるべく淡泊した口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違い棚の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸した。彼は果物籃の葢の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿し込んだ後で、下女を呼んだ。
「宅に関さんという方がおいでだろう」
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻お話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を提げて廊下へ出た。
百八十二
返事を待ち受ける間の津田は居据りの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣った。
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解く好い方便に違なかった。単に彼と応接する煩わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑を避けようとするのが彼女の当体であったにしたところで、果物籃の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層苦にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面へ手を延ばして見たりした。やっとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聴えた時に、わざと取り繕った余裕を外側へ示したくなるほど、彼の心はそわそわしていた。
「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪を結って上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」
津田は女の髷がそんなに雑作なく結える訳のものでないと思った。
「銀杏返しかい、丸髷かい」
下女は取り合わずにただ笑い出した。
「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻からこうして待ってるんじゃないか」
「おやどうもすみません、肝心のお返事を忘れてしまって。――どうぞおいで下さいましって」
やっと安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分に駄目を押した。
「本当かい。迷惑じゃないかね。向へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭だからね」
「旦那様はずいぶん疑り深い方ですね。それじゃ奥さんもさぞ――」
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「どっちだか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうでございますか」
兵児帯を締め直した津田の後ろへ廻った下女は、室を出ようとする背中から羽織をかけてくれた。
「こっちかい」
「今御案内を致します」
下女は先へ立った。夢遊病者として昨夕彷徨った記憶が、例の姿見の前へ出た時、突然津田の頭に閃めいた。
「ああここだ」
彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に訊き返した。
「何がです」
津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」
下女は変な顔をした。
「馬鹿をおっしゃい。宅に幽霊なんか出るもんですか。そんな事をおっしゃると――」
客商売をする宿に対して悪い洒落を云ったと悟った津田は、賢こく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「天眼通ですね」
「天眼通じゃない、天鼻通と云って万事鼻で嗅ぎ分けるんだ」
「まるで犬見たいですね」
階子段の途中で始まったこの会話は、上り口の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗にそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」
彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止めた。
「ここだ」
下女は横眼で津田の顔を睨めるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」
「なるほどあなたの鼻はよく利きますね。猟犬よりたしかですよ」
下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑やかさに対する何の反応も出て来なかった。人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞していた。
「お客さまがいらっしゃいました」
下女は外部から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子をすうと開けてくれた。
「御免下さい」
一言の挨拶と共に室の中に入った津田はおやと思った。彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。
百八十三
室は二間続きになっていた。津田の足を踏み込んだのは、床のない控えの間の方であった。黒柿の縁と台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞の厚い座蒲団を据えて、その傍に桐で拵らえた小型の長火鉢が、普通の家庭に見る茶の間の体裁を、小規模ながら髣髴せしめた。隅には黒塗の衣桁があった。異性に附着する花やかな色と手触りの滑こそうな絹の縞が、折り重なってそこに投げかけられていた。
間の襖は開け放たれたままであった。津田は正面に当る床の間に活立らしい寒菊の花を見た。前には座蒲団が二つ向い合せに敷いてあった。濃茶に染めた縮緬のなかに、牡丹か何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄から云っても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった。津田は席につかない先にまず直感した。
「すべてが改まっている。これが今日会う二人の間に横わる運命の距離なのだろう」
突然としてここに気のついた彼は、今この室へ入り込んで来た自分をとっさに悔いようとした。
しかしこの距離はどこから起ったのだろう? 考えれば起るのが当り前であった。津田はただそれを忘れていただけであった。では、なぜそれを忘れていたのだろう? 考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。
津田がこんな感想に囚えられて、控の間に立ったまま、室を出るでもなし、席につくでもなし、うっかり眼前の座蒲団を眺めている時に、主人側の清子は始めてその姿を縁側の隅から現わした。それまで彼女がそこで何をしていたのか、津田にはいっこう解せなかった。また何のために彼女がわざわざそこへ出ていたのか、それも彼には通じなかった。あるいは室を片づけてから、彼の来るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚りかかりでもして、山に重なる黄葉の色でも眺めていたのかも知れなかった。それにしても様子が変であった。有体に云えば、客を迎えるというより偶然客に出喰わしたというのが、この時の彼女の態度を評するには適当な言葉であった。
しかし不思議な事に、この態度は、しかつめらしく彼の着席を待ち受ける座蒲団や、二人の間を堰くためにわざと真中に置かれたように見える角火鉢ほど彼の気色に障らなかった。というのは、それが元から彼の頭に描き出されている清子と、全く釣り合わないまでにかけ離れた態度ではなかったからである。
津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。彼女はいつでも優悠していた。どっちかと云えばむしろ緩漫というのが、彼女の気質、またはその気質から出る彼女の動作について下し得る特色かも知れなかった。彼は常にその特色に信を置いていた。そうしてその特色に信を置き過ぎたため、かえって裏切られた。少くとも彼はそう解釈した。そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻がえす燕のように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であったごとく、乙もやッぱり本当でなければならなかった。
「あの緩い人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」
疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。
反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。もし津田が室に入って来た時、彼の気合を抜いて、間の合わない時分に、わざと縁側の隅から顔を出したものが、清子でなくって、お延だったなら、それに対する津田の反応ははたしてどうだろう。
「また何か細工をするな」
彼はすぐこう思うに違なかった。ところがお延でなくって、清子によって同じ所作が演ぜられたとなると結果は全然別になった。
「相変らず緩漫だな」
緩漫と思い込んだあげく、現に眼覚しい早技で取って投げられていながら、津田はこう評するよりほかに仕方がなかった。
その上清子はただ間を外しただけではなかった。彼女は先刻津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃を両手でぶら提げたまま、縁側の隅から出て来たのである。どういうつもりか、今までそれを荷厄介にしているという事自身が、津田に対しての冷淡さを示す度盛にならないのは明かであった。それからその重い物を今まで縁側の隅で持っていたとすれば無論、いったん下へ置いてさらに取り上げたと解釈しても、彼女の所作は変に違なかった。少くとも不器用であった。何だか子供染みていた。しかし彼女の平生をよく知っている津田は、そこにいかにも清子らしい或物を認めざるを得なかった。
「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」
重そうに籃を提げている清子の様子を見た津田は、ほとんどこう云いたくなった。
百八十四
すると清子はその籃をすぐ下女に渡した。下女はどうしていいか解らないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。しかし普通の場合に起る手持無沙汰の感じの代りに、かえって一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来ずにすんだ。彼はただ間の延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。だから昨夜の記憶からくる不審も一倍に強かった。この逼らない人が、どうしてあんなに蒼くなったのだろう。どうしてああ硬く見えたのだろう。あの驚ろき具合とこの落ちつき方、それだけはどう考えても調和しなかった。彼は夜と昼の区別に生れて初めて気がついた人のような心持がした。
彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。そうして立ちながら果物を皿に盛るべく命じている清子を見守った。
「どうもお土産をありがとう」
これが始めて彼女の口を洩れた挨拶であった。話頭はそのお土産を持って来た人から、その土産をくれた人の好意に及ばなければならなかった。もとより嘘を吐く覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もうごまかすという意識すらなかった。
「道伴になったお爺さんに、もう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ」
「あらどうして」
津田は何と答えようが平気であった。
「あんまり重くって荷になって困るからです」
「じゃ来る途中始終手にでも提げていらしったの」
津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に聴えた。
「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」
清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。云い換えれば一種の余裕があった。嘘から出立した津田の心はますます平気になるばかりであった。
「相変らずあなたはいつでも苦がなさそうで結構ですね」
「ええ」
「ちっとももとと変りませんね」
「ええ、だって同なじ人間ですもの」
この挨拶を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。
「何を笑うんだ」
「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、真面目な津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。
「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同なじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」
「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」
「お望みなら逢わせてやってもいいがね」
「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。「またこれでしょう」
彼女は人指指を自分の鼻の先へ持って行った。
「旦那様のこれにはとても敵いません。奥さまのお部屋をちゃんと臭で嗅ぎ分ける方なんですから」
「部屋どころじゃないよ。お前の年齢から原籍から、生れ故郷から、何から何まであてるんだよ。この鼻一つあれば」
「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」
下女はこう云って立ち上った。しかし室を出がけにまた一句の揶揄を津田に浴びせた。
「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」
日当りの好い南向の座敷に取り残された二人は急に静かになった。津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。清子は欄干を背にして日に背いて坐っていた。津田の席からは向うに見える山の襞が、幾段にも重なり合って、日向日裏の区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。それを彩どる黄葉の濃淡がまた鮮やかな陰影の等差を彼の眸中に送り込んだ。しかし眼界の豁い空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。見れば北側の障子と、その障子の一部分を遮ぎる津田の影像だけであった。彼女の視線は窮屈であった。しかし彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうというところを、彼女はむしろ落ちついていた。
彼女の顔は、昨夕と反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅かった。しかしそれは強い秋の光線を直下に受ける生理作用の結果とも解釈された。山を眺めた津田の眼が、端なく上気した時のように紅く染った清子の耳朶に落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。彼女の耳朶は薄かった。そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、そこに寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。
百八十五
こんな場合にどっちが先へ口を利き出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸であった。彼女は津田に一寸の余裕も与えない女であった。その代り自分にも五分の寛ぎさえ残しておく事のできない性質に生れついていた。彼女はただ随時随所に精一杯の作用をほしいままにするだけであった。勢い津田は始終受身の働きを余儀なくされた。そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞めなければならなかった。
ところが清子を前へ据えると、そこに全く別種の趣が出て来た。段取は急に逆になった。相撲で云えば、彼女はいつでも津田の声を受けて立った。だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十まで楽々とできた。
二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの間にか蘇生していた。今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰の感じが、ちょうどその手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。彼は伸び伸びした心持で清子の前に坐っていた。そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。少くとも同じ性質のものに違ないという自覚が彼の胸のうちに起った。したがって談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。しかも昔しの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思いがけない満足になった。
「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後御無沙汰をしていっこうお目にかかりませんが」
津田は何の気もつかなかった。会話の皮切に清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日まで自分ら二人の間に起った感情の行掛り上から考えても、またそれらの纏綿した情実を傍に置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案しなければならない点であった。それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念さえなく、ただ無雑作に話頭に上せた津田は、まさに居常お延に対する時の用意を取り忘れていたに違なかった。
しかし相手はすでにお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の挨拶ぶりで知れた。彼女は微笑して答えた。
「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお噂を致しております」
「ああそうですか。僕も始終忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」
「良人も同なじよ、あなた。近頃じゃ閑暇な人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」
「そうですね」
こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊いて見たいような気がした。「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それがあなたの本音ですか」という詰問はこの時すでに無言の文句となって彼の腹の中に蔵れていた。
しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出した。彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具っていた。それを口にして苦にならないほどの淡泊さが現われていた。ただそれは津田の暗に予期して掛ったところのもので、同時に彼のかつて予想し得なかったところのものに違なかった。昔のままの女主人公に再び会う事ができたという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚な態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足といっしょに来なければならなかった。
「どうしてそれが不満足なのか」
津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。けれどもそれは表通りの沙汰であった。偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。裏には別な見方があった。そこには無関心な通りがかりの人と違った自分というものが頑張っていた。そうしてその自分に「私」という名を命ける事のできなかった津田は、飽くまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。彼のいわゆる特殊な人とはすなわち素人に対する黒人であった。無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。だから通り一遍のものより余計に口を利く権利をもっているとしか、彼には思えなかった。
表で認めて裏で首肯わなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。
百八十六
「昨夕は失礼しました」
津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘いどころであった。
「私こそ」
清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。
「この女は今朝になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」
もしそれを憶い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。
「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」
「じゃ止して下さればよかったのに」
「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」
「でも私への御土産を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」
「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」
「そうですか知ら」
故意を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻が、彼を驚ろかした。
「だって、わざとあんな真似をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興だって」
「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」
津田は水盤に溢れる水を眺めていたに違なかった。姿見に映るわが影を見つめていたに違なかった。最後にそこにある櫛を取って頭まで梳いてぐずぐずしていたに違なかった。
「迷児になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」
「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」
「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じゃない。いくら僕の鼻が万能だって、あなたの湯泉に入る時間まで分りゃしませんよ」
「なるほど、そりゃそうね」
清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。
「いったい何だって、そんな事を疑っていらっしゃるんです」
「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」
「解りっこないじゃありませんか」
「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」
津田は仕方なしに側面から向った。
「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」
「そりゃ話せないわ」
「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」
「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」
「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」
「私の胸に何にもありゃしないわ」
単純なこの一言は急に津田の機鋒を挫いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。
「なければどこからその疑いが出て来たんです」
「もし疑ぐるのが悪ければ、謝まります。そうして止します」
「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」
「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」
「だからその事実を聴かせて下さればいいんです」
「事実はすでに申し上げたじゃないの」
「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」
「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」
「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口で済んじまう事です」
今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑に落ちたという顔つきをした。
「ああ、それがお聴きになりたいの」
「無論です。先刻からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩わせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」
「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由は何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」
「待伏せをですか」
「ええ」
「馬鹿にしちゃいけません」
「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」
「なるほど」
津田は腕を拱いて下を向いた。
百八十七
しばらくして津田はまた顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」
清子は答えた。
「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意じゃないのよ」
「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」
「まあそうね」
清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」
「ええ何なりと」
清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」
こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は駄目を押すような心持になって訊いた。
「しかし昨夕階子段の上で、あなたは蒼くなったじゃありませんか」
「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」
「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」
「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」
「そう。――それから硬くなりましたね」
「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」
「つまり驚ろいたんでしょう」
「ええずいぶん吃驚したわ」
「それで」と云いかけた津田は、俯向加減になって鄭寧に林檎の皮を剥いている清子の手先を眺めた。滴るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩れながら、ぐるぐると剥けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上経った昔を憶い起させた。
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎を剥いてくれたんだっけ」
ナイフの持ち方、指の運び方、両肘を膝とすれすれにして、長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮ぎるものはなかった。柔婉に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然たる警戒の閃めきを認めなければならなかった。
彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝下女が結ってやったというその髪は通例の庇であった。何の奇も認められない黒い光沢が、櫛の歯を入れた痕を、行儀正しく竪に残しているだけであった。
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊きたいのはですね――」
清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
清子は俯向いたまま答えた。
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息を吐くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑えつけた。
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」
清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通でなくって天鼻通ね。実際よく利くのね」
冗談とも諷刺とも真面目とも片のつかないこの一言の前に、津田は退避いだ。
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」
百八十八
津田は清子の剥いてくれた林檎に手を触れなかった。
「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」
「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」
清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片を手に取った。しかしそれを口へ持って行く前にまた訊いた。
「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」
「何がどうしたんです」
「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」
津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔をじっと見守った清子の眼に、判然した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。
「ああこの眼だっけ」
二人の間に何度も繰り返された過去の光景が、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかけるように見えた。したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
「それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」
津田の疑問と清子の疑問が暫時視線の上で行き合った後、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退き方を見た。そうしてそこにも二人の間にある意気込の相違を認めた。彼女はどこまでも逼らなかった。どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床の間に活けてある寒菊の花の上に落した。
眼で逃げられた津田は、口で追かけなければならなかった。
「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」
「でしょう、だから変なのよ」
「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ来ようと思ってるところへ、奥さんに会って、始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産まで頼まれちまったんです」
「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」
「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」
「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」
津田はつい「こっちでもその訳を訊きに来たんだ」と云いたくなった。しかし何にもそこに頓着していないらしい清子の質問は正直であった。
「それであなたもどこかお悪いの」
津田は言葉少なに病気の顛末を説明した。清子は云った。
「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の御都合がつくんだから。そこへ行くと良人なんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」
「関君こそ酔興なんだから仕方がない」
「可哀想に、まさか」
「いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」
「まあ、お上手だ事」
この時下から急ぎ足で階子段を上って来る草履の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。すると先刻とは違った下女がそこへ顔を出した。
「あの浜のお客さまが、奥さまにお午から滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」
「お供しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様もいっしょにいらっしゃいまし」と云った。
「ありがとう。時にもうお午なのかい」
「ええただいま御飯を持って参ります」
「驚ろいたな」
津田はようやく立ち上った。
「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
「あなたはいつごろまでおいでです」
「予定なんかまるでないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。
――未完――